こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活節第5主日(ヨハネ15:1-8)わたしにつながっていなさい

2018-04-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/4/29(No.942)
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復活節第5主日
(ヨハネ15:1-8)
わたしにつながっていなさい
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「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(15・5)この言葉は田平教会献堂百周年をいよいよ迎えるわたしたちに、終盤の準備の仕方を教えてくれています。イエスが教えてくださる準備の仕方を学び、教会献堂百周年の豊かな実りを期待しましょう。

私たちはここまで、一人ひとりの祈りと犠牲の積み重ねで、いよいよ教会献堂百年を迎えようとしています。ゴールは目の前で、きっと成功すると思っています。ただ、見た目の成功に一喜一憂するのではなく、イエス・キリストの物差しに照らして、実りある日を迎えるかが問題です。

イエスは、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と言われています。私たちがイエスを通じて御父につながり、一つの神秘体として奉仕するとき、イエスの物差しにかなった実りを得るのです。けっして、見た目の華やかさに惑わされず、イエスの言葉に動かされて一人ひとり役割を果たし、喜びのその日を迎えたいのです。

最近はもうすでに、「田平教会献堂百周年の祈り」も板についてきたことでしょう。しかしそこに落とし穴がある。スラスラ言えるようになると、隣の人の唱えている声は気にもかけなくなるかもしれませんね。慣れっこになった人が、隣の人の祈りのペースが遅く感じ、イライラを募らせて唱えているかもしれません。

もしそうであれば、その人の祈りは、キリストにつながっていると言えるでしょうか。キリストを通して御父につながっていると言えるでしょうか。むしろ、耳を澄まして、隣の人とも声を合わせて、祈りを唱えるべきでしょう。

ラテン語のミサ曲を含め、歌の練習をしています。「どうせ言葉がわからない」とか、「私は歌が歌えない」とか、自分を押さえつけるような言葉で縛ってしまって、練習をおっくうに思っていないでしょうか。大きな声で、奉仕のつもりで練習に参加してくださるなら、私たちの歌声は、キリストにつながって実りをもたらすと思います。

こうしたことは、目には見えません。目に見えないけれども、「心を一つにして祈っているか、歌っているか」は、聞こえてくる祈りでわかるのではないでしょうか。当日、ミサを司式してくださる大司教様が、「今日の典礼は皆さんの心が一つになっていてよかった」と喜んでくださる一日にしたいと思います。

私たちがキリストを通して御父につながり、豊かに実を結ぶためにすぐにできることがあります。それは一つの食卓から食べるということです。ぶどうが実るのは一つの木につながっているからだと思いますが、私たちも一つの食卓から食べるならば、一つの心、一つの思いになれるのではないでしょうか。

言うまでもなく、「一つの食卓」とは、ミサのことです。みことばと聖体をいただくことです。みことばの食卓から、また聖体祭儀が行われる食卓から、皆が一つのパンをいただくなら、私たちの働きは一つの心、一つの思いになるのではないでしょうか。

「豊かに実を結ぶ」その日はもう目の前です。今までの歩みをさらに実り豊かなものとするために、キリストを通して、父なる神につながりましょう。私たちは見た目の実り以上に、キリストの物差しにかなった実りを神にささげる民なのです。

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‥次の説教は‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ15:9-17)
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ちょっとひとやすみ
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▼声の奉仕会マリア文庫を長らく引っ張ってきたシスターが89歳で旅立った。6年の闘病生活。私は寝たきりになってからずっと、シスターはあとどれくらい、この闘病生活が続くのだろうかと思っていた。時には「もうこれ以上苦しんでほしくない。神さまが呼んでくだされば」そう思ったこともあった。
▼けれども、ただじっと寝たきりの時間が長くなるにつれ、「これは、何かをシスターに求めておられるので、闘病生活がこんなに長くなっているのではないか」そう思うようになった。何をシスターに求めておられるのだろうか。長い苦しみは、どんな意味があるのだろうか。ずっと考えていた。
▼「空の手で はだしのままで ついてゆきたい キリストに ついてゆきたい キリストに」いっさいを手放し、身軽にならないと、キリストについては行けない。だから、重荷をおろして、天にはばたく。これがシスターの6年間の闘病生活の意味だったのではないか。
▼ではシスターは、どんな重荷を担っていたのだろうか。それは、「マリア文庫の看板」だったのだと思う。普通に考えれば、修道者であれば修道者の生き方を全うする。ただシスター野嵜は、その上にさらに、「マリア文庫の代表」という看板を背負って、30年近く生きてきた。
▼その看板は、天に召されるためには少し重荷だったのだろう。神は「看板を背負って天に召されるのではなく、一修道者として、修道服一枚で、身軽になっておいでなさい」そう願って、天に召される日がなかなかやってこなかったのかもしれない。
▼6年もの間、この看板を下ろして身軽になり、修道服一枚で羽ばたいていくのに時間を要した。6年の闘病生活は、長すぎた時間ではなく、必要な時間だったのかもしれない。シスター野嵜が看板を引っ提げていたのを「空の手で、はだしのままで」旅立つのに6年かかったのであれば、中田神父はいったい何年必要だろうか。
▼いろんな看板を背負って、いろんな看板を笠に着て「我こそは中田神父なり」と振舞っている。シスターの最期を見ながら、我が身を思った。

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今週の1枚
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第549回目。実家に帰って親の顔を見に行ったが、撮った写真はなぜかこれ。

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復活節第4主日(ヨハネ10:11-18)私たちキリスト者は命を置いて生きる者

2018-04-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/4/22(No.941)
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復活節第4主日
(ヨハネ10:11-18)
私たちキリスト者は命を置いて生きる者
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復活節第4主日、与えられた福音朗読でイエスは何度も「命を捨てる」という言葉を繰り返します。その中でも特に目を引くのは「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」(10・18)この言葉です。イエスのこの言葉が当てはまるのはどんな場合なのかを考えてみましょう。同じく私たちも、どんな場合なら「命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」のか考えてみましょう。

昨年12月に韓国で親子旅行をして以来、親の顔も見に行っていないのは親不孝だと考え、日曜日の女性の会総会を終えてから新上五島町鯛之浦の実家に帰ろうと思います。「実家に帰らせていただきます。」田平教会の献堂百周年に事情で母親は参加できないようなので、これまでの取り組みとか、当日計画していることとか、記念誌のこと、施設整備のことなどを話してこようと思います。

さて福音朗読、イエスが言われる「命を捨てる」という言い方ですが、日本語訳では「命を捨てる」となっていますが、もとのギリシャ語に近い言い方をすると「命を置く」と訳したほうが良いようです。ただ、日本語で「命を置く」というと、「財布をテーブルに置く」くらいの意味合いに受け取られかねないので、イエスの意図していることを汲んで「命を捨てる」と訳しました。

「命を置く」でも、十分説明すればなぜこの言葉が使われているかは分かります。だれも命を捨ててはいけないわけで、イエスもそれはよく分かっていました。命を、完全に守ることのできる方に託す。そんな意味で、イエスは「命を置く」と言われたのです。

羊飼いであるイエスにとって、委ねられた羊を命がけで守ることは当然の務めでした。自分の命惜しさに、羊を置き去りにして逃げることは到底考えられませんでした。けれども、命は捨てるべきものではありません。そこでイエスは、父である神に命を置くことを考えたわけです。完全に命を守ることのできるお方に託して、復活によって命を取り戻すことができることをご存じだったのです。

御父への信頼のもとで、イエスが命を置くこと。この場合「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」というイエスの言葉は説明がつきます。イエスはわたしたちの救いのために、御父への信頼のもと、命を置いてくださったのです。

イエスが命を置いてくださったこと、イエスが命を捨ててくださったことは、イエスご自身のわざに終わらず、私たちの模範でもありました。私たちもイエスのわざを模範として、命を置く必要があるし、命を置くことができるのです。

ただし、条件は変わりません。命は捨ててはいけないのです。完全に命を守ることのできる方に、命を置くのでなければなりません。そのような場面がわたしたちの日常生活にあるのでしょうか。

一つだけ、条件に当てはまる場面があります。それはこのミサ、私たちが礼拝するご聖体のイエスに命を置くのであれば、イエスはわたしたちの命完全に守ることのできるお方ですから、「命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」と言えると思います。

では私たちが命を捨てるとしたら、どのように実行するのでしょうか。それは、私たちがミサにあずかって聖体を拝領し、次にミサにあずかる時まで、この祭壇に命を置くことで実行できます。ミサを終えると社会のそれぞれの場所に実を置くことになります。一人ひとりが、社会の荒波にもまれ、ある時は傷つくかもしれません。けれども私たちは命をこの祭壇に置いていったので、次にミサに来ることで、いつでも命を受けることができます。

このようにして、私たちの命を完全に守ることのできる方に命を置いて生きるならば、私たちは安全です。どのような困難に遭遇しても、仮にこの世の命を落とすことになっても、私たちはまことのいのちを神に置いて生きているので、その神がわたしたちに命を返してくださるのです。今日、一人のお子さんが洗礼を受けます。洗礼はもともとは、洗礼を希望する人が洗礼を授ける人から水に沈められて引き上げられる形で行われていました。それは、生まれ持っての罪の傾きに死んで、神が与えてくださる命に新たに生きるためでした。

今ここで、私たちキリスト者は神に命を置いて生きる者であると聞きました。今日の洗礼式を通して、あらためて聖パウロがローマの信徒への手紙で呼びかけているように、「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(14・7-8)このような生き方でありたいと思います。

この子は洗礼を受け、神の子となり、教会の一員となります。ご両親はお子さんが成長する中で、「わたしたちは自分で自分の命を守って生きているのではなくて、イエス・キリストに自分の命を委ねて生きているのよ」と教えてくだされば幸いです。

それでは洗礼式に移りましょう。

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‥次の説教は‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ15:1-8)
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ちょっとひとやすみ
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▼田平教会献堂百周年と直接関係はないが、教会正面の広場に植えてあった巨大なヒノキを伐採した。残念ながらシロアリが食い破っていたことが最大の原因だが、この機会でなければ大型の機械を投入することも、多くの人の労働奉仕を得ることも難しいとの判断で、施設整備班が提案し、実行委員会全体で了承したものである。
▼大きさからして、樹齢50年とは言わないだろう。大きな影を作って、夏の暑い盛りには涼しい場所を提供してくれていたが、その点についてはまた別の形で涼を提供できればと思っている。この原稿を書いている時点で、せっせとお父さんたちが手伝い、チェーンソーやクレーンがにぎやかに音を立てている。
▼「21日(土)午前中に作業に取り掛かります。前晩のミサまでには終了しますのでご安心ください。」私は説教を書き上げる貴重な時間なので、ご安心できなかったが、集中して取り組んでみると、夏の盛りのセミの鳴き声のようなもので、音はそれほど気にならなかった。
▼「よくぞ、実行してくれた」「どうしてあんなことをしたのか」人は十人十色なので、同じことに対しても反応は両方ある。それぞれ言い分もあろうが、多くの人で考えて決めたことなので、田平教会を訪ねてくる人も、どうか理解してほしい。
▼変えられないでいるものを変えるのは、時に勇気が要る。何十年も変わらないと、「変えるのは無理だ」とか「変えてから騒動に巻き込まれるよりも、変わらない被害のほうが少ないのではないか」そういう不安を振り払って、主任司祭はある時決断をするのである。

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今週の1枚
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第548回目。ヒノキの作業に取り掛かった。暑さを避ける場所を、考えよう。

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復活節第3主日(ヨハネ20:19-31)聖書はイエスの復活を信じる鍵

2018-04-14 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/4/15(No.940)
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復活節第3主日
(ヨハネ20:19-31)
聖書はイエスの復活を信じる鍵
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復活節第3主日、長崎教区ではしばしばこの日が転勤した主任司祭助任司祭の新しい任地での最初の日曜日です。私もこの復活節第3主日に最初の日曜日の説教をしました。3種類の薬を飲んでいるという話でした。初心を忘れず、また献堂百周年に向かって心を一つにしていけるように、朗読個所を解き明かしていきたいと思います。

金曜日に、新しい中学生たちと最初のけいこをしました。小学6年生だった子供たちが、中学1年生として教室に来ていました。緊張した顔を見ながら、この子供たちの心をイエスの教えにどうやって開いていけばよいか、考えました。

金曜日は宗教が持つ3つの特徴を話しました。キリスト教も、イスラム教も、仏教も、宗教には3つの特徴があります。1つ目はその宗教を始めた人がいます。2つ目は宗教を始めた人の教えやわざがあります。3つ目は宗教が大切にしている書物があります。この3つをわたしたちのキリスト教の中で考えてみました。

キリスト教を始めた人がいます。もちろんイエス・キリストです。もちろん単なる「人」ではありませんが、ユダヤ教の中で生まれたイエスがキリスト教を開いたわけです。次にイエスの教えがあります。「わたしは道であり、真理であり、命である」「隣人を、自分のように愛しなさい」

金曜日は6人けいこに来ていたので、教えの中から友達が言わなかったものを思い出してもらって、教えを6つ子供たちの引き出しから取り出しました。3つめの大切にしている書物は聖書です。聖書を大切にしていることはすんなり答えることができました。

問題は、キリスト教を始めた人は誰ですか、キリスト教を始めた人はどんなことを教えましたか、この2つで子供たちが答えに詰まったことです。緊張のために、難しく考えすぎていたのです。キリスト教を始めたのは誰ですかと初めて中学校のけいこに来た中学1年生に聞くと、顔がこわばっていました。「難しく考えすぎ。」そう言っても、間違ってはいけないと自分で自分を追い詰めてしまって、声が出なかったのです。

中学2年生はその点落ち着いて答えてくれました。中田神父との信頼関係もあったでしょう。イエスの教えを引き出すときは、心を開いてもらうために、あの手この手を使いました。「隣人を自分のように〇しなさい」「わたしは道であり、真理であり、〇である」20年前は考えられなかったようなことまでしてヒントを出して、心を開いてけいこに臨んでくれるように努力したわけです。

本日の福音朗読でも、復活したイエスの出現を弟子たちが信じられず、イエスはあの手この手で弟子たちの心を開こうと努力しています。まずエマオの弟子たちの報告を聞いても、不思議に思うばかりで信じられませんでした。

弟子たちの真ん中に復活したイエスが現れても、「亡霊を見ているのだと思った」(24・37)とあります。さらに「わたしの手や足を見なさい」と言ってご自身の手や足を指し示しても、喜びのあまりとはいえ信じられず、不思議がっているのです。さらにイエスは、食べ物を食べました。復活したイエスを信じられない弟子たちの心を開こうと、あの手この手で涙ぐましい努力です。

では弟子たちが最終的にイエスを信じるようになったのは、どの時点だったのでしょうか。姿を現したときでしょうか。手や足を見せたときでしょうか。焼いた魚を食べたときでしょうか。どれも違うようです。むしろ、最後に用意しておられた「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて(24・45)言われた」ここでようやく、イエスの復活が信じられるようになったのです。

中学1年生の子供が中田神父からけいこを受け始めました。私があの手この手で話す、その工夫は必要かもしれません。しかし、子供たちの心を最後に開くのはわたしの工夫なのだろうかと思います。イエスの教えを子供たちが心を開いて受け入れるためには、聖霊の働きが、聖霊に導かれて書かれた聖書の働きが、最後は必要なのだと思います。

弟子たちもそうでした。復活したイエスが目の前に現れても、亡霊ではないかと思い、手や足を示してもまだ信じられず、食べ物を食べる姿を見せても不思議に思っていました。復活したイエスを最後に信じさせる決め手になったのは、聖書だったのです。

弟子たちの体験は、わたしたちを象徴する体験だったと言えるでしょう。弟子たちにとって、イエスの復活を心から信じさせるためには、何重にも囲まれた塀を壊し、心を開いてもらう必要があり、その最後の扉を開くのは聖書だったのです。イエスを十字架に追いやってしまった罪とか、引き渡されないように戦うべきだったのを逃げてしまった後悔とか、そういう壁の向こうに、復活したイエスを信じる最後の扉を開く鍵「聖書」が、必要なのです。

わたしたちも、復活したイエスを信じるため、心のいちばん奥の扉を開くのは聖書であると悟りましょう。だれか圧倒的な説教をしてくれる司祭が最後の扉を開くのではありません。司祭はいずれ変わるのです。いずれこの世を去るのです。配偶者が最後の扉を開くのでしょうか。配偶者も永遠にそばにいてくれるわけではありません。

聖書だけが、イエスを信じる扉を最後に開いてくれる鍵で、聖書に親しむならば、聖書は永遠に私を離れることはないのです。現代は目が不自由でも録音を通して聞くことができます。点字もあります。私たちはいずれかの方法で、聖書をそばに置いて親しむべきです。復活したイエスを信じる決定的な鍵だからです。

主イエスよ、聖書を開いてわたしたちに話し、心を燃やしてください。

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‥次の説教は‥‥
復活節第4主日
(ヨハネ10:11-18)
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ちょっとひとやすみ
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▼「記憶に残る」とか「記録に残る」という言葉を使うことがある。私自身は初めて使うが、私は記憶に残ること、記録に残ることができているだろうか。別に自分自身はそんなことにこだわりはないが、受け取る側にすると「あの神父さんの説教は忘れない」と言われれば悪い気はしないものだ。
▼記憶に残っている挨拶はある。伊王島、馬込小教区で馬込教会司祭館の新築で大司教様をお招きし、祝別と記念ミサをしていただいたときの挨拶だ。経済問題評議員の挨拶を私が代筆し、経済問題評議員がそれを30回も練習して読み上げてくれた。30回も練習すれば、それはもう本人の挨拶のようなものだ。
▼これ以上の挨拶は、生涯用意することはできないと思うが、そんなことを言うと田平教会献堂百周年を成功させようと粉骨砕身働いてくれている実行委員会の皆さんの士気をそぐことになる。もう一度ねじり鉢巻きで、挨拶を考えることにしよう。
▼記憶に残る説教はあるだろうか。説教に関しては、今が記憶に残る説教をしていると思う。「脂がのった」というか、昔では話せなかったことや、昔では湧いてこなかった発想が盛り込まれて、それなりに記憶に残ってくれていると思う。
▼あえて一つ、と言われたら、それは「銀祝記念ミサ」の説教だろう。田平教会の皆さんは、鯛之浦でのミサにあずかった人だけが聞いた、貴重な説教である。残念なことに、ICレコーダーを持っていくのを忘れてその場の録音は残っていない。返す返すも残念である。文字通り、「記憶にのみ残っている」説教である。

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今週の1枚
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第547回目。カープも勝ったり負けたり。これでも飲んで、喝を入れるか。

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神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)私たちは見ないのに信じることができる民

2018-04-07 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/4/8(No.939)
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神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)私たちは見ないのに信じることができる民
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「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(20・29)神のいつくしみの主日にあたり、このみことばを味わってみたいと思います。「見ないのに信じる」という姿には、二つのことを汲み取れると思います。

一つは、「見ないのに信じる」このために何が必要なのか、ということです。それは「聞くこと」だと思います。多くの出来事は、見ることができるのはごくわずかでも、大勢の人が聞くことができる場合が多いのではないでしょうか。

私は今現在、初金曜日と翌日の土曜日とで25人の病人訪問をしていますが、このほとんどが、ミサにあずかりたくてもあずかることができません。1人か、2人は、家族の協力があって、年に数回ミサにあずかるくらいで、毎週参加することはまず不可能です。

それでも、聖体を司祭が運び、聖体拝領の準備の祈りを唱えて、「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い」という言葉を聞いて、信仰告白をして聖体を拝領します。目の前でさえもミサの様子を見ることはできませんが、ミサの主要な部分を耳で聞くことで、いのちの糧にあずかっているのです。

病人訪問をしているある人たちに、ミサの説教を2か月とか3か月に1回まとめたものを届けています。ミサの説教は、私の顔を見なくても声さえ聞くことができれば意味がありますから、「見ないのに信じる」またとない材料になっています。何回も何回も聞いてくださっている人もいます。

皆さんは教会に来て、1回聞いて、反芻することもなく、それっきりかもしれません。けれども病気でミサに来ることのできない人が、「見ないのにイエス・キリストを信じる」そのために説教を繰り返し聞いてくれています。

もう一つ、「見ないのに信じる」について考えるためには、「まだ見ぬ未来」について考えてみてはいかがでしょうか。たとえば、「神の国の完成を待ち望みながら、主の祈りを唱えましょう」という招き方があります。「神の国の完成」はまさに、「まだ見ぬ世界」です。けれども私たちは、「見えないものを見ているかのように」主の祈りを唱えているのです。あたかも、すでに実現しているかのように、主の祈りを唱えるのです。

同じように、今見ていないけれども、あたかも見ているかのように信じている人は、すでに幸いを得ている人です。これはわたしたちにぴったり当てはまっています。今のわたしたちが、「見ないのに信じる人は、幸いである」この生き方を歩んでいるのです。

わたしたちは何を見ないのに信じているのでしょうか。5月13日を、私たちは「見ないのに信じる」神の民なのです。5月13日になって、神がこの教会を百年守ってくださって、私たちも一役になったことを、見たから信じるのでしょうか。そうではありません。「見ないのに信じる」のです。この日に向けて委員会の中に加わった人はその中で、毎日の祈りで献堂百周年の祈りを唱えた人は祈りの中で、その日を見ないのに、その日の喜びと感謝をすでに信じてきたのです。

献堂百周年が、目の前まで来ました。一人か二人は、百年前に生きていたかもしれません。献堂された日をわたしたちは見ないで信じています。今こそ、献堂されてから百年のその日を、「わたしたちは見ないのに信じる者たちである」と、人々の前に証しましょう。信じること、信じたことが報われることを、約束してくださる復活のイエスが、私たちの後ろ盾です。


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‥次の説教は‥‥
復活節第3主日
(ルカ24:35-48)
‥‥‥†‥‥‥‥

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼メルマガ配信が遅れてしまった。中には心配をしていた人もいるかもしれない。ようやく夕方4時半に説教をひとまず書いて、それからこのコーナーを書いている。私たちは呼び止められてようやくお役に立てる、そういうことが多いので、こればかりは致し方ない。
▼イエスは呼び止められて働き始めた人だろうか。違うと思う。しばしば人を呼び止めて働きかけた。漁師を弟子にするときも、マタイを弟子にするときも、ヤコブの井戸でサマリア人の女性に福音を語る時も。
▼ひょっとしたら、ここが日本における宣教の致命的な部分なのかもしれない。私たちはどれだけの人を、信仰を語り合うために呼び止めたのだろうか。一度も呼び止めたことがなかったのではないだろうか。するとイエスの働きはいつ、この日本に実を結ぶのだろうか。
▼とにかく、働きかけよう。折がよくても悪くても。今回の「ちょっとひとやすみ」はこの辺で。

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今週の1枚
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第546回目。桜は強風で散ってしまい、その次の目を楽しませるものが現れた。

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