こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第17主日(ヨハネ6:1-15)イエスの「ことば」と「しるし」は今も民を養う

2006-07-30 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/07/30(No.250)
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年間第17主日
(ヨハネ6:1-15)
イエスの「ことば」と「しるし」は今も民を養う
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昨日夕方から小学生と中学1年生を集めて夏の宿泊学習を行いました。子どもたちは偉いと言えば偉いわけですが、いろんなことを絡めて考えると、この教会学校はどんな意味があるのだろうかと考えさせられることがあります。先週も話したとおり朝6時半のミサに起きてラジオ体操です。私は8月が始まる前にもうからだがギシギシ言っていて、大きい声では言えませんが日曜日や木曜日はラジオ体操がないのでホッとしています。

昨日から泊まり込んでいる子どもたちですが、何となく言うことは良く聞いているようですが、夜は枕投げをして大騒ぎ、早く寝ろと言っても寝ない、ちょっと手を焼きました。これから教会学校の集まりと言わずに、学童保育と言い直した方がいいのではないか、そんな賑やかな雰囲気です。2泊3日とか言えば大喜びするでしょうが、司祭館の冷蔵庫の中身もお菓子も無限にあるわけではありませんので、1泊で終わってくれてホッとしています。中学2年生と3年生は8月の最後の週に厳しい錬成会を予定していますので、楽しみにしていて下さい。

先週の「ことば」と今週の「しるし」朗読された箇所はヨハネ福音書による「五千人に食べ物を与える奇跡」です。今年の典礼はB年の典礼であることは何回か触れてきました。日曜日の典礼は3年周期になっていて、A年B年C年と区別します。A年の福音朗読はマタイ福音書が年間を通して読み継がれていき、B年はマルコ福音書が、C年はルカ福音書が1年間読み続けられるということでした。

さて今週の朗読である「五千人に食べ物を与える奇跡」は、ヨハネ福音書から取られています。今年の典礼はB年なのですから、マルコ福音書の流れを追うように朗読を選ぶのが本筋です。実際、「五千人に食べ物を与える」という奇跡はマルコ福音書にも書かれていて、普通に考えればマルコ福音書から当てはまる箇所を選んで朗読すれば良いのではないかと思うわけです。

それでもあえてマルコ福音書の当てはまる箇所を選ばずにヨハネ福音書の該当箇所を用いた理由が何かあるのでしょうから、少し考えてみました。朗読された「五千人に食べ物を与える」奇跡は、福音書すべてに書き残されています。つまりマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書すべてに書かれている奇跡です。大きく分けると、マタイ、マルコ、ルカの三つの記事はおおむね共通した書き方をしています。この三つと比べるとヨハネ福音書は特徴的な書き方をしていると言えるでしょう。

はっきり違いが分かる点を一つ挙げておきましょう。それは、ヨハネ福音書以外の三つの福音書では、弟子たちが群衆の食べ物の心配をして、いったん解散させて、自分たちで食べ物を見つけさせましょうとイエスに働きかけています。ところが、ヨハネ福音書では弟子たちがイエスに群衆を解散させるように促す記述は省かれていて、最初から、イエスが群衆の食べ物を心配し、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と弟子に声をかけていることになっています。

この点を典礼は重視してヨハネ福音書を用いたのかも知れません。弟子たちに促されて動いたというのと、イエスみずからが先に動き出したというのではずいぶん印象が違います。ヨハネ福音書の場合は、五千人に食べ物を与える奇跡はイエスが主導権を取って、イエスが先頭に立って出来事を進めているということを伝えたいわけです。

この点を押さえて考えると、イエスが主導権を取って五千人に食べ物を与える、先頭に立って人々を養う姿から何かを学びなさいということが今週の福音朗読の鍵ではないかなあと思います。そこで思い出すことが、先週の朗読箇所とのつながりです。先週の朗読箇所は、派遣されていた弟子たちが戻ってきてイエスに活動を報告すると、「しばらく休みなさい」と弟子たちを気遣い、また集まってきた群衆にいろいろと教え始められたという内容でした。

この様子はイエスが主導権を取って出来事を導いていることが分かります。その続きとして五千人に食べ物を与える奇跡が続くわけですから、流れとしてはイエスが主導権を取ってこの奇跡が行われるというのが流れとしてはよいと思います。つまり典礼は、先週と今週の朗読がイエスの導きのもとに出来事が行われたことを印象づけるように配慮されているということです。このような流れの中で、何が見えてくるでしょうか。

私は、一つのはっきりした姿が浮かび上がってくると思います。先週の朗読ではイエスは言葉を通して群衆に教えたのですから、ことばによって人々を養う姿が描かれていたということになります。今週は、パンを増やしてすべての人が食べて満腹したというのですから、しるしによって人々を養う姿が描かれているわけです。

ことばとしるしによって、人々を養う。イエスのこの姿は私たちに何かを思い出させないでしょうか。それは、私たちが今参加しているミサです。このミサ聖祭は、イエスが主導権を取って私たちを養ってくださる典礼です。聖書朗読という「ことば」と、聖体という「しるし」によって、イエスは二千年前と同じように私たちを養ってくださるのです。二千年前は五千人だったかも知れません。けれども今は、日曜日に集まる何百万何千万人という人を、ことばとしるしによって同時に養っておられるのです。

そう考えるとき、今週朗読された「五千人に食べ物を与える」奇跡の物語は、遠い昔の出来事として考えるのではなく、二千年前、イエスはしるしによって多くの人々を養った。そのイエスの働きが、ミサの中で繰り返され、二千年たった今でも続いていることに驚くでしょう。イエスが行われた奇跡は、奇跡の部分にばかり目を取られてしまうと、今目の前で繰り広げられている大きな業が見えなくなってしまいます。朗読された出来事は、今も典礼の中で続いているのだということを理解していただきたいと思います。

最後に、イエスの奇跡についてもう一度確認しておきましょう。奇跡そのものは、一回きりの大技ととらえるなら、集めた人を驚かせるにはこれ以上ないほどこうかがあるでしょう。けれども、一回きりの大技は、その時は人を集めても、もう二度と見ることができないのであれば興味もなくなってしまうことでしょう。

イエスはそのようなつもりで奇跡を行ったのではありません。イエスの業は、それはことばにせよしるしにせよ、その時限りのものではなくて、永遠に語り継がれ、その後どれだけ時間が経っても意味を失わないということです。

私たちは当時の出来事と今とがどのようにつながるのか、当時の出来事から今の私たちは何かを学び取り、生活に当てはめる必要があります。この努力がイエスの福音を今の時代に知らせる証しになるのです。


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ちょっとひとやすみ
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▼小学生と中学1年生混成で宿泊学習を行っている。なぜだか分からないが「腕相撲しよう」と3人に挑まれた。たかだか小学生。それでも突っかかってくるところが面白い。しまいには2人がかりで「勝ち」を取りに来た。勝つとでも思っていたのか。
▼1人の小学生が悪ふざけが過ぎるので取り押さえようとしたら今度は自分に悪ふざけをしかけてきた。参ったと言わせようと思って脇腹をくすぐっていたら、逃れようとしたのか思いっきり爪を立てて腕をひっかかれた。この野郎!と思ったが相手は子供。場所が違っていればじゃれ合っているふりをしてお灸を据えていたところだ。
▼今原稿を書いている間も右腕は痛む。引っかかれた場所から体液がしみ出している。爪も相当に汚れていたのだろうか。ずいぶん赤く腫れてきて、明日のミサに響きそうだ。これも今日一日子どもたちを司祭館に泊めた思い出ということか。

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こうじ神父絵手紙
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第36回目。子供に爪で引っかかれたあと。痛いよー。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
主の変容
(マルコ9:2-10)
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年間第16主日(マルコ6:30-34)「休みなさい」と仰る主が休みを与えてくれる

2006-07-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/07/23(No.249)
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年間第16主日
(マルコ6:30-34)
「休みなさい」と仰る主が休みを与えてくれる
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今日の福音でイエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れたところへ行って、しばらく休むがよい」(6・31)と言われました。「休む」ことが本来の使命をよりよいものにすることを知った上での勧めだと思われます。子どもたちも夏休みに入りましたし、イエスが勧める「休息」についてあらためて考えてみたいと思います。

人間に休息が必要なことは誰でも分かっていることです。休みを入れずに仕事をすれば本人は体をこわしてしまいますし、仕事もはかどりません。仕事が進まないだけならまだしも、間違いが多くなったりやり直しになったりすれば意味がありません。適度の休息は、仕事をよりよいものにしてくれます。

さてイエスは、単に仕事の能率を考えて休むことを勧めたのでしょうか。もしそうだとしたら、それぞれの好みに応じて休むように次の仕事に備えるように指示をしたことでしょう。もちろんイエスはそんなつもりで休みなさいと言ったわけではありません。イエスは休む場所を指定しました。「人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」。もちろん私たちは、「人里離れた所」が何をさすのか、よく考える必要があります。

イエスが言葉に出して言われた「人里離れた所」で私がすぐに思い出したのは、イエスが朝早く人里離れた所に行って、祈っておられた場面です(1・35)。神と親しく語り合い、心に注ぎ込まれる霊的な力を蓄えておられたのでしょう。そこからすると、私たちが休みの間に本当に必要なことは、神と親しくなるための時間を持つことだということが分かります。

子どもたちは先週金曜日から夏休みに入ったのですが、終業式を終えた木曜日の晩に、一人の子どもから電話がかかりました。「明日は朝のミサありますか?」初め私は、日曜日でもないのにどうしたんだろうと勘違いしたのですが、その子は夏休みにはいるので早速朝のミサとラジオ体操に行くために確認を取っていたわけです。電話の途中で私はそのことに気が付きまして、おー、明日から頑張っておいでと声をかけました。

電話をかけた子は、聞けば朝ミサとラジオ体操が終わればすぐに戻って朝食を取り、さっそく朝の8時から部活が始まるのだと言っていました。考えてみたら学期中よりも厳しい起床時間になっているわけです。それでも兄弟揃って夏休みの初日、朝のミサに起きてきました。この子どもたちを通して、教えられる思いです。

イエスは休みなさいと言いました。それは休んで疲れるためではなく、単なる気晴らしでもなく、本来の自分の生活に力を蓄えるために、その力を得ることのできる場所に出向いていくということです。先ほどの電話をかけてきた子どもは、純粋に体を休めるつもりであれば、朝8時からの部活を目の前にして6時半のミサとラジオ体操に来ることは逆効果のはずです。けれども、本能的にでしょうか、夏休みに朝のミサに来ることが霊的な力を蓄えることになり、本業に力を発揮することを分かっているから、眠たい目をこすってやって来るのではないでしょうか。

「人里離れた場所」それは現代にあっては教会のことかも知れません。教会に足を運ぶとき、神と親しく過ごすことになり、神の恵みに潤されて帰ります。この教会に自分で足を向け、また人々に声をかけて誘い合うときに、私たちのふだんの生活に欠けているものを満たしてもらうことのできる場所はここしかないのだとあらためて確認できるのではないでしょうか。イエスが「人里離れたところ」と言って場所を指定したのは、むしろ神と親しくなる場所に行って休息を得なさいという意味だったのではないでしょうか。

ところで休む場所で休むことができないということほど無意味なことはありません。何が言いたいかというと、せっかく教会に来ることで神との親しさを十分に味わい、神の言葉と聖体に潤されて帰っていく場所が、神との親しさを体験させてくれない場所となっていたら、こんなに悲しいことはありません。説教する司祭は神と親しくなるためのヒントを提供すべきですし、誰もが典礼に参加しやすいように工夫したり、聖歌を心から歌って喜びを表すことができる。こうした休息を得るための良い環境がいつでも用意できていなければならないと思います。

教会に休みを求めて出かけてみたら窮屈な思いをした。よそ者扱いをされて二度と行こうと思わなかった。あなたはここに来るべきではないと言わんばかりの話を聞かされたなど。受けるはずの当然の恵みを受けられないとしたら、こんなに悲しいことはありません。休息を得られるはずの場所である教会を、説教する司祭は説教を毎週よく準備し、また典礼担当の人も心から奉仕するなどして常によい状態「神の休息を味わえる」という教会の姿を保ち続けたいものです。


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ちょっとひとやすみ
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▼毎週毎週何かがネタになってくれる。まだインターネット人口はテレビほど広がっているわけではないので、今週のネタは本人に伝わることはまずないだろう。金曜日に思いがけない人から電話がかかった。その人からは2度3度と車を買うお世話を受けている人だ。
▼この社長は、実にまっすぐな性格の人で、人情も厚く、教会に対する誠実さも信頼に値する人だが、おそらくお酒が進んでいろんな顧客を思い出している中で私のことを思い出し、電話をしてきたのだろう。声を聞いて元気そうだなあと安心し、ついこちらもバイクに乗って若ぶっていることなどを自慢してしまった。
▼社長の人柄なのか、「また遊びに来てくださいよ」と言われると、行ってみたくなるのだから不思議だ。週が明けたら、時間を見つけてぜひ伺いたいと思っている。当然、バイクに乗って見せびらかしついでに顔を出すつもりだ。
▼初めはその社長の仲介で軽自動車を提供していただいた。次はホンダの普通車を紹介してもらった。一度三菱を知り合いに譲ってもらって乗っていたが、現在はまた社長からホンダのS-MXを手に入れる仲介をしてもらった。社長にほとんど儲けはなかったと思うが、こんなわがままな神父の願いにも誠実に応対してくれた。
▼その社長の工場に出向いて相談に行ったときのことは忘れられない。事務所とおぼしきトタン屋根の小屋(申し訳ない)に立ったとき、窓口に次のような案内が掛かっていた。「ただ今暑くて仕事にならないので飲んでいます」。正確にはもっと違った表現だったかと思うが、何とも面白い人だと思い、気に入ったのを覚えている。自分をさらけ出せる人は掛け値なしに好きだ。

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こうじ神父絵手紙
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第35回目。地図その5。その後??

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‥次の説教は‥‥
年間第17主日
(ヨハネ6:1-15)
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年間第15主日(マルコ6:7-13)心のラジオをたえず調整してイエスに従う

2006-07-16 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/07/16(No.248)
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年間第15主日
(マルコ6:7-13)
心のラジオをたえず調整してイエスに従う
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大きいことを言えた義理ではありませんが、長崎の小神学校では典礼係の先輩が中学生に霊的な話や信仰を育てる話、教訓になるような話を聞かせるという習慣がありました。今でも続いているといいなあと思っています。

高校生はそれぞれ係を受け持つようになっていまして、私は小神学生時代に典礼係を仰せつかりましたので、先輩から受け継いだ伝統に従って中学生の消灯時間15分前になると聖堂に集め、いろんな材料を探してきては話をしました。

いろいろ話したのでしょうが、ほとんど覚えておりません。それでも二つ、確かに中学生に話して聞かせた覚えのある話があります。そのうちの一つ、ラジオの話を少し紹介したいと思います。

神学生にとって、ポケットに入るくらいの小さなラジオは、特別な意味を持っていました。神学校生活は規則ずくめの生活です。その中で反抗期を過ごす中学生、高校生にとってラジオを所有するということはたいへんな規則違反、反抗的な態度だったわけです。

私は高校卒業するまでの6年間一度もラジオを持ったことはありませんでしたが、ラジオを持ちたいと思う人の気持ちは良く分かっているつもりでした。神学校にいれば純粋によい情報しか耳に入りません。深夜に流れているラジオ番組、その典型はオールナイトニッポンだったわけですが、そういう番組を聞いて世間に浸りたい気持ちは理解できたからです。

先輩たちには規則違反をする生徒の持ち物を没収する権限が与えられていましたが、私は結局中学生がたとえラジオを持っていても、それを没収することはしませんでした。理由の一つは、どうせこの中学生たちも反抗期を卒業すればラジオも自分から手放すのだから、あえて強制的なことをしなくてもいいじゃないかと思っていたからです。

私はその代わり、中学生に講話をする典礼係の立場にありましたので、強権的な態度を取らず、もっと中学生の心をつかむような形で反抗期の中でも進学校を辞めたりしないように、反抗しながらも司祭への道に耳を傾けてもらうように促すことを考えたわけです。そこで、規則違反の象徴のようなラジオを話の材料にすることにしました。

話の中身はこういうことです。当時のラジオはつまみをいじって放送のチャンネルに合わせる一般的なラジオでした。さらに一度放送に合わせたとしても、電波が妨害されたり弱まったりして、長く聞き続けるためにはたえず微調整をする必要がありました。

そうして規則違反を犯して学生たちが深夜放送を聞いているのをある程度知っていましたので、私はその事実を逆手にとってこう促したのです。「深夜放送をラジオで聞くためにはいつもラジオのつまみを微調整する必要がある。いちばん良い状態で声を聞くための欠かせない努力だと思う。お前たちはそれが分かっているなら、神さまの声を聞くためにも同じようにしたらいいじゃないか」。

「高校受験を前にして神学校を辞めようか迷っているやつも、先輩のしごきがきつくてやってられないと思っているやつも、イエス様は私にどんな声を届けてくれるのか、心のラジオのつまみをいつも調整してイエス様の放送に合わせる。そうすれば、イエス様の声がよく聞こえて、本当にしなければならないことが聞こえるはずだ」。

「心のラジオも一度つまみを調整すればそれでいいわけじゃない。声が聞き取れなくなってくることもあるから、その時はまたつまみを微調整して、イエス様の放送にぴったり合わせるんだ。そうして、イエス様からのラジオ放送を聞き逃さないようにしよう」。

どれだけの中学生がその話を理解できた分かりませんが、少なくとも一人、今五島で頑張っている後輩の神父さんは、この話を覚えているといつか話してくれました。その当時これほどまとまった話をしたかどうかは分かりませんが、「心のラジオ」という話をしてくれたことは覚えていると言ってくれたのにはこちらが嬉しくなりました。

今日の福音朗読であえて一つ取り上げますと、イエスは弟子たちを派遣し、「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した」(6・12)とあります。この「悔い改めのための宣教」というのが、心のラジオをつねにイエスの放送に合わせ続けなさいと促すこと、チューニングを怠らないように、ラジオのつまみの調整を欠かさないようにと声をかけ続けることだと思うのです。

何かのきっかけで一度だけ向きを変えることが悔い改めなのではなく、そのイエスへの方向転換を、生涯にわたって続けていくことがまことの悔い改めなのです。もしラジオについての知識が全くなかったら、初め放送が聞こえていたラジオが聞こえなくなったとき、あーこれはもう故障したのだと勘違いすることでしょう。

もしかしたらそれでラジオを手放す人もいるかも知れません。けれども、ラジオは時間が経つと放送からつまみがずれるもので、またつまみを回して調整するとちゃんと聞こえるようになることを知っていれば、古いラジオであってもいつまでも聞きたい放送が聴けるわけです。

私たちの信仰生活も同じではないでしょうか。私たちは悔い改めの宣教を受けたのですが、一度受けたからそれで何もしなくてよいのではなくて、生活が変わったり忙しくなったり、今まで持っていた物を失ったり家族を失ったりしたとき大きく暮らしが変わります。その時に、つまみを調整して、その後もイエス様の放送が聞き取れるように調整し続ける。そうして、生涯にわたってイエスの呼びかけに従って人生を全うしたいと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼以前赴任していた教会でお世話になった人を街中で見かけた。夕方5時半過ぎに、飽の浦方面から旭大橋を降りてきて左折して国道202号線に左折して合流するその瞬間だった。その人は通勤用の二輪車に乗っていた。一瞬の出来事だったが、ヘルメット越しに私はその人の顔を確認して間違いないと思った。時間帯からして、仕事を定時で終え、自宅に帰るところだったのだろう。
▼私は駅から歩いて大波止に向かう途中だったので、その人とは左折で一瞬すれ違っただけだが、当時の教会に対する奉仕の様子や、家族のこと、信仰の捉え方など思い出して大波止までの道のりでその人のことをずっと考えていた。頑張っているんだなあ、最後はそう思ったわけだが、一瞬の出来事で、できることとできないこと、それぞれ一つずつ見つかった。
▼できることは、その人のために心の中で神さまに祈ってあげること。たまたまでも、その人と出会った。偶然人生のある一時期出会った。そういう「縁」というものを大切にして、その人のために祈ってあげることは、どこにいてもできるすばらしい働きである。
▼できなかったこと。バイクからの信号が青になって走り出したその人を、私があえて引き留めて話をすることまではできなかったということ。事故につながるということもあったが、何も声をかけるまでもないだろう、そういう思いも働いた。
▼時間も出来事も過ぎ去る。私がいたことを決して忘れないでと、そこまで自分のことを押しつける気はない。お役に立てたなら幸いだし、あとで忘れられても自分がその時にすべきことをしたのであれば、後のことは気にしない。
▼メルマガを通しての奉仕も、忘れないでなどというつもりはさらさらない。ただ、関わった時期にできるだけのことをする。単純にそれだけのことです。このような謙虚な心構えを、イエス・キリストが支えてくれるを願いたい。

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こうじ神父絵手紙
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第34回目。地図。ここに行ってきたって報告になればいいなあ。

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‥次の説教は‥‥
年間第16主日
(マルコ6:30-34)
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年間第14主日(マルコ6:1-6)疑いではなく信頼へ導かれるために

2006-07-09 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/07/09(No.247)
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年間第14主日
(マルコ6:1-6)
疑いではなく信頼へ導かれるために
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私は勝負事にはあまり強くないらしくて、勝ち負けがかかると力んでしまって思うような結果を出せません。あれか、これかを決めないといけないというようなときでもずいぶん弱気の虫が表に出てきて痛い目に遭うのです。

たとえばスポーツで、これまでに監督の仕事を何度か任せられることがありましたが、選手に作戦を授けた中で、作戦が見事に当たって勝利を収めたという経験がありません。「あー、監督の作戦が悪かったために迷惑かけたなあ」ということが多いのです。

一点を守る作戦に出るか、あと一点取りに行くか、これは監督の決断にかかっているわけですが、私がこうと決めたことと反対の方向に、しばしば事態は流れていきます。悔しいという気持ちもありますが、内心は、「自分はつくづく勝負事に弱いなあ」という思いで打ちのめされていることが多いのです。

典型的な例を経験しました。ドッヂボールの球技大会でのことです。教会対抗の球技大会でのことでしたが、私は昨年まである教会のチームの監督をしていましたが、転勤して次の教会のチームを見ることになりました。準決勝戦で以前いた教会のチームも勝ち残っていると聞き、去年のメンバーがほぼ残っているのを見て、おそらく自分のチームが一枚上だと感じ、以前までいたチームの選手たちに大見得を切って見せたのです。

「おー、準決勝まで残ってるじゃないか。まあ、勝ち上がったら、決勝戦で会おうな」。当然私は、自分とこのチームが勝ち上がるものだと信じてそう言ったのですが、足下をすくわれ決勝戦には勝ち残れませんでした。反対に、決勝にあがれるはずがないと思っていた去年まで面倒を見ていた教会のチームが、決勝に勝ち上がり、何と優勝してしまったのです。

この経験は私にとってかなりショックでした。去年面倒を見ていたときの選手がほぼレギュラーメンバーだったのですから、力はだいたい分かっているつもりでした。ところが私が監督を離れてみると、その選手たちは予想以上の力を発揮し、私を驚かせたわけです。この経験は後々まで尾を引き、私はそれ以後監督の仕事に自信を持てなくなりました。

もしかしたら偶然のいたずらだったかも知れません。けれども、私の中では、自分がこうと予想を立てたときに限って、反対の結果になるのだという痛い教訓になっています。消極的かも知れませんが、確率2分の1の場合は、常に予想と反対のほうを選んだほうが、良い結果に結びつくのかも知れません。

さて福音に入りますが、イエスが郷里にお帰りになったときのことが記されています。イエスはいつものように会堂に入り、安息日に人々に教え始めました。多くの人が集まっていて、イエスの話を聞きましたが、イエスの話に驚き、その驚きはつまずきへと変わっていったのでした。

私たちも、何かを見聞きして驚くということはあります。そしてその驚きはあるときは尊敬に変わり、ある時は疑いに変わっていきます。手品を目の前で見せられ、どれだけ近くで見ても見破れないときには、私たちはその人を尊敬することでしょう。けれども何かを勧誘されているときなど、どれだけ説明が整然と並べられていても、どこかで納得できないときはその人を疑うことになると思います。

驚きが尊敬に変わっていくか疑いに結びつくか。その分かれ目は私自身にあると思います。私の物差しで、目の前の出来事を測り、「わたしの経験上これはどうも怪しい」と思えば、どんなに理路整然と説明を並べられてもその人を疑ってかかることでしょう。反対に、自分の物差しでは測れない何かを感じたとき、人は相手に対して尊敬を持つのではないでしょうか。

今日の朗読でも、同じようなことが試されていると思います。イエスは安息日に会堂で教え、奇跡も行いました。イエスそのお方は、幼い頃に自分たちの目で見たことがあったかも知れません。また父母、そのほかの関係者についても知識があります。郷里の人が、すでに知っている部分を物差しにして判断するか、自分たちの物差しを超える何かをイエスに感じることができるか、まさに試されているのだと思います。

結局集まった人々は、自分の中にある知識を判断材料にしてイエスを測ってしまいます。私に限らず、人間は自分の知っている知識ですべてを測りきれるものではないというのに、集まった人々はイエスが誰であるかを率直にありのまま考えようとせず、知っている範囲のことで判断しようとしたのです。

イエスを、「自分たちと変わらない、ただの人間」と見るか「いや、わたしたちの理解できないものを持っている」と考えるか、2つに1つです。確率は2分の1でしょうから、意外と反対を選んだほうが良い結果につながるということも考えてよかったのではないでしょうか。

自分の中の知識を超える何かを感じ、そこに尊敬の気持ちを持ち、信じてみようと心に決める。この動きはイエスを信じるためにどうしても必要です。イエスは私たちの持っている知識で考えるならば、負け続けた一生涯と言ってもよいからです。それはイエスの最後の場面を振り返れば明らかです。

イエスは不正な裁判にかけられ、平手打ちや鞭で打たれ、十字架に張り付けにされました。人々に大切に扱われて最期を遂げたのではないのです。それでも何人かの人は見えることだけに囚われず、「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15:39)と証言しました。人間の知識でははかれない何かを読み取ったのです。

最後まで、イエスに付き従うこと。これが本来の信仰のあり方だとしたら、私たちはイエスのうちに人間の知識を超えるものを見つけなければなりません。身近なところでは、なぜ日曜日ごとにミサに行くのか。知識で説明しようとすれば、教会の六つの掟の中に書かれているからと説明することができますが、知識ではない何かを自分で見つけて日曜日に教会に行く。これが、最後までイエスに付き従う一つの姿になります。

ミサのことを言いましたが、ミサでなくても、なぜ朝夕の祈りを毎日唱えるのか、知識ではなくて私にとっての大切な意味を見つけること。それが、最後までイエスに従う具体的な態度だと思います。イエスに最後まで付き従うために、知識を超える何をよりどころとしているだろうか。自分自身の知識にとどまらない信仰者としての態度を今週もう一度考え直してみましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼大変ありがたいお便りをいただいた。「メルマガをずっと読ませていただいています」。特別な便りには聞こえないかも知れないが、自分がまだ浦上教会で修業していた時代に縁があって勉強会に来ていた方からの便りだった。こちらからはずいぶんご無沙汰しているのだが、機会あるごとに便りをくださって出会った縁を大切にしてくださり、どれだけ感謝しても感謝し尽くせない。
▼メルマガを読んでいるという読者と具体的なつながりがあると、あー、懐かしいなあ、今頃どうしているかなあと当時のことを思い出す。現在は腕白なお子さんに振り回されての生活のようだが、場所は遠くても距離をこえてつながっているという感じになれる。やはりメルマガはすばらしいコミュニケーションの道具だと思う。
▼どこかで書いたかも知れないが、一年365日生活スタイルを変えずに礼拝の務めを果たしている人々がいる。その態度は神の存在を雄弁に物語る。このメルマガも、比較するには申し訳ないほどの内容ではあるが、毎週欠かさず(曲がりなりにも)発行していることが証しになっているとしたら幸いなことだ。
▼毎週必ずメッセージが届く。それはつまり、神は毎週(毎瞬間)必ずあなたに声をかけるのですよという呼びかけなのである。下手な説教で穴があったら入りたいくらいなのだが、たぶん健康が許す限り、メルマガの発行は継続できると思う。もしかしたら、継続したことが評価されて、自分がどうしても続けられなくなったときに、長崎のほかの司祭が意志を継いでくれるかも知れない。
▼そうして何十年も、この活動が継続されたらすばらしいと思う。あるいは第1号からの読者がいるのかも知れないと思うと、関わりを保ち続けること、何かが続いているということは本当にすばらしいことなのだと実感できる。

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こうじ神父絵手紙
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第33回目。地図その3。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第15主日
(マルコ6:7-13)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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年間第13主日(マルコ5:21-43)起きあがり、歩き出しなさい

2006-07-02 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/60702.asx

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/07/02(No.246)
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年間第13主日
(マルコ5:21-43)
起きあがり、歩き出しなさい
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今日のような朗読箇所はちょっと読みにくいなあと感じます。その理由は、会堂長ヤイロの娘の物語が始まったところに、途中でイエスの服に触れる女性が登場し、いったん物語が中断してしまうからです。そこでみなさんの手元にある「聖書と典礼」では、イエスの服に触れる女性の話を一段下げて印刷し、「途中にはさまれているこの物語は、場合によっては読まなくてもいいよ」という指示がなされているわけです。ですから、説教師の都合によっては、この部分を省略して読むということもどこかの教会では起こっていると思います。中田神父は、別の考えがあって、途中にはさまれた物語も含めて朗読し、全体を説教のテーマにすることにしました。

私が間にはさまれた物語も含めて読もうと考えた理由はこうです。私たちの生活は、一つのことに取り組んでいてもときどき別の用事が割り込んで来るというのが通常の生活です。畑に出ていたら電話が鳴って仕事を中断したとか、家の掃除をしていたら別の人に呼び出されて掃除を中断しなければならなくなったとか、そういうことがしょっちゅう起こっています。ですから、日々の生活は一つのことがちょうど終わったときに次のことが始まるわけではなく、あちこちで、ほぼ同時にいろんなことが起こっているというのが現実なのです。

そういう現実があるのだということをあらためて思い起こすためにも、今日の朗読は意味があると思いました。会堂長ヤイロは自分の娘の病気が心配でたまらないので、途中で起こっている出来事に足を引っ張られているような思いを持ったかも知れません。イエスがあまりにもやさしい方なので、途中で足を止められるとズルズルとほかのことにも手をさしのべてしまう。どうか娘のことを真っ先に考えて欲しいと、気が気ではなかったのではないでしょうか。

そうこうしているうちに、いちばん恐れていたことがやってきました。会堂長の家の者が「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と残酷な報告を持ってきたのです。会堂長はどう思ったでしょうか。私が会堂長であったなら、こんなところで時間を食ってしまったから、助かる命も助からなかったんだ、あの女のせいだと、良くない感情を持ったことでしょう。

ところで、この12年間出血症に悩まされた女性のいやしが教えてくれることは何でしょうか。それは、病気のいやしだけではなく、イエスとの関わりが始まったということです。それまで彼女は、多くの医者にかかりました。お金で解決できるかも知れないと全財産を使い果たしました。けれどもそうしたこの世の関わり方では、いっこうに事態は好転しなかったのです。イエスの噂を聞きつけ、群衆に紛れてイエスの服に触れたとき、つまり自分にとってイエスとの関わりが必要だと感じたときに、すべてが変わったのでした。

会堂長を始め、会堂長の家の者、取り囲む群衆、おそらく弟子たちも、この事実の大切さが理解できていませんでした。イエスとの関わりを持つことが何よりも大切なのだということが、まだ十分には分かっていなかったのです。マルコ福音記者は、この事実の大切さを理解させる出来事として、会堂長ヤイロの娘の物語に、途中でイエスの服に触れる女性の話をはさんで記録したわけです。この物語全体が、イエスとの関わりの重大さに気付き、イエスから離れないようにすることを学ぶために、途中にはさまれた物語も含めて、全体が意味を持っていると言いたいのです。

このマルコのねらいは、私たちのふだんの生活を見直すヒントも与えてくれます。畑仕事の途中で電話が鳴った。掃除の途中だったのに呼び出された。なんて迷惑な人なんだろうと思うかも知れませんが、少し考えを改めれば、途中で何かを考えさせるためのイエスの働きかけだったかも知れないのです。私の生活を守るあまりに、隣人への思いやりを犠牲にしていませんかというイエスからの働きかけ、イエスが生活に関わろうとするきっかけだったかも知れないのです。途中にはさまれた出来事は必ずしも邪魔なもの、迷惑なものとは限らないということです。

さて会堂長の家に着いてみると、泣きわめく人々が周りを取り囲んでいました。この人たちもイエスとの関わりの中で会堂長の娘を見ることができません。ただこの世から切り離されたことを泣きわめいているだけです。そこでイエスははっきりと言いました。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」(5・39)。すでにこの少女は、イエスとの関わりの中にありました。イエスとの関わりの中にある人間は、たとえ死んでいても、眠っているかのようなのです。イエスとの関わりが始まった人は、決して希望を失うことはないのです。

「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」(5・41)。そして少女はすぐに起き上がって、歩き出しました。イエスとの関わりがこうして見える形で証明されたのです。イエスへの信仰をもって、イエスとの関わりを保って毎日を生きることが、人間の社会生活に本当の意味を与え、価値あるものにするのだということが会堂長と選ばれた弟子たちに示され、今日この朗読にあずかった私たちにも示されました。

私はこの会堂長の娘のよみがえりの中に、隠されたもう一つの意味があるのではないかなあと思っています。それは、娘は「起きあがって、歩き出した」のでした。起きあがったことはよみがえりを印象づける一つの点ですが、歩き出す必要があったのでしょうか。マルコはなぜ、歩き出したことを見逃さずに書いたのでしょうか。少女が12歳になっていたからとありますが、私はもっと積極的に、少女はすでに12歳になっていて、自分になくてはならない方であるイエスを探し求めて歩き出したのではないかと思うのです。

そしてこの小さな発見から私たちが学ぶことのできる点は、イエスと関わりを持って生きていくことの大切さを知り、認めるならば、私たちはイエスを探し求めて歩き出さなければならないということです。日曜日になれば教会に赴き、ミサの中で出会うキリストを訪ね求める。日常生活の中では、傷つき、倒れそうになっている人々の中にとどまるキリストを認めて近寄り、手を差し伸べるために歩き出す、行動しなければならないということです。

イエスはご自分と関わって生きていくことの大切さを示してくださいました。イエスの思いに気づいたならば、私たちも歩き始めましょう。イエスとの親しさを失わないためにも、私の身分でいつどんなときにイエスとの絆を確かめることができるか、意識しましょう。私がイエスとの関わりを機会あるごとに深める生活を続けるならば、どんなことが身に降りかかろうとも恐れることはありません。


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ちょっとひとやすみ
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▼月の初めは病人訪問。家庭、病院、老人ホームなどにいて教会に通うことのできない人々にご聖体を運んでいく。今回は伊王島ではなく高島での見舞いの話。ターミナルを降りてすぐの場所に老人ホームがあり、男性の方が入所している。この方は訪ねていくと必ず玄関で待っていてくださり、迎えてくださる。
▼老人ホームを出ると高島教会に戻る。しかし船を下りた時点ですぐにバスに乗っていないため、病人見舞いをした日は山を越えて教会に行かなければならない。ちょっとしたハイキングである。今は梅雨の真っ最中。当然むしむしするし、汗はだらだら流れる。最近は恥も外聞もなく、シャツを脱いで肌着のまま山登りをする。
▼毎月思うことだが、この病人訪問の日だけは誰か車を持っている人に連絡をしておいて、車で送ってもらうようにすればいいのにといつも思う。ところがその時になると連絡を忘れ、結局は山登りをすることになる。今日も汗びっしょりになって、あごからしたたり落ちる汗をコップに入れたら、コップが一杯になった。ウソです。
▼けれども、山登りはもういやと言いつつ、伊王島に船で戻ってくるときには何だか仕事したなって感じになって帰ってくる。それはそうだろう。毎月見舞いに行って玄関で必ず待っていてくれ、終わりがけには「来月の訪問は○日ですね」と、一ヶ月後の訪問を指折り数えて楽しみにしている。それだけ喜ばれているのだから、楽して見舞いをせず、これからも山登りをして見舞いに行こうと思う。山登りは嫌だけど。

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こうじ神父絵手紙
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第32回目。地図シリーズその2。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第14主日
(マルコ6:1-6)
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