こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

三位一体の主日(マタイ28:16-20)日常こそ、三位一体の神の豊かさに触れる場所

2021-05-29 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/5/30(No.1124)
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三位一体の主日(マタイ28:16-20)
日常こそ、三位一体の神の豊かさに触れる場所
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三位一体の主日を迎えました。毎年繰り返していますが、一連のお祝い日を順番通りに覚えて欲しいと思います。「主の昇天」「聖霊降臨」「三位一体」「キリストの聖体」「イエスのみ心」この五つです。「イエスのみ心」だけは日曜日と重ならないですが、毎週続くお祝い日の季節として、五月六月は思い出してください。

去年から今年にかけて、緊急事態宣言などで公式のミサがなくなって個人的にミサをささげている期間に、頭に浮かんでは消えることがありました。それはミサの式文の中で、「人の名前に結びつく箇所が結構あるなぁ」ということです。名前が出てくる人はうらやましいです。

分かりやすい例から並べてみましょう。「恵み」という単語は、皆さんも「なるほど」と思うでしょう。今日この場所に「めぐみ」という人がいらっしゃるのではないでしょうか。他にも分かりやすい単語としては、「愛」とか、「光」などがあります。

さらに注意深く眺めると、他にも人の名前を連想させる単語があります。「使徒信条」には「信じます」も含め「しんじ」が四回登場します。パンとカリスを供える場面では、「実り」が出てきますし、第二奉献文の冒頭は、「まことに」ですから、「まこと」の名前を連想するでしょう。他にも、今週は三位一体の主日で、叙唱には「わたしたちは父と子と聖霊の栄光を等しくたたえ」とあり、「ひとし」が登場します。「ひとし」君、せめて三位一体の主日のミサには来てほしいですね。

あと一つ紹介しますが、答えは説教では言いません。ミサの後半部分で、言い間違えたふりをしてその言葉を繰り返したいと思います。当てはまる名前の人は、「全集中」でその瞬間を待っていてください。もしその時点で私が忘れていたらごめんなさい。その場合は思い出した日、本人があずかっている時にあらためて披露します。

ここ数年、三位一体の主日には「御父」「御子」「聖霊」いずれかの特徴を取り上げていましたが、今年は福音朗読の組み立てに注目して話したいと思います。この歳になって朗読箇所の組み立てに気付くわけですからつくづく鈍い頭だと思いますが、先週の聖霊降臨でイエスは慰め多い言葉を語っておられます。

「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(ヨハネ16・12-13)私のように鈍い者は、長い年月かけて一つずつ悟るのだと思います。

あらためて福音朗読を読み返すと、イエスは「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ28・18)と話し始め、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28・20)で話し終わっています。話し始めの「一切の権能を授かっている」ここですぐ分かるのは、「権能を授けてくださった御父がおられるよ」と含みを持たせているということです。

次に、話し終わりの部分「いつもあなたがたと共にいる」が成り立つには、当然聖霊の働きが必要です。今週の朗読には「弟子たちを派遣する」という小見出しが聖書本文に付けられています。弟子たちの派遣は、三位一体のあふれ出る豊かさがあって初めて可能だということです。

その、三位一体の神は何を指示しておられるのでしょうか。言うまでもなく、イエスの話し始めと話し終わりに挟まれた部分が、弟子たちへの指示です。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(28・19-20)

私はこう考えます。三位一体の神を理解するためには、三位一体の神の豊かさに触れなければなりません。それは学問研究によって行われるよりも、実践によって行われます。イエスの話し始めと話し終わりに挟まれた弟子たちへの指示を実行することで、キリスト者は例外なく三位一体の神の豊かさに触れる、三位一体の神を理解し始めるのです。

すべての人をイエスの弟子にすること。父と子と聖霊の名によって洗礼を授けること。命じておいたことを守るように教えること。この三つが、三位一体の神の豊かさに触れる「鍵」です。三つすべてを持ち合わせているに越したことはありませんが、その一つでも私たちは三位一体の神の豊かさに触れ、理解し始める鍵となるでしょう。

私の出会った人が、イエス・キリストと、キリスト者に関心を示すようになった。もちろんすべての人が良い反応とは限りません。「どうして教会はそんなに面倒なのか?」「どうして毎週教会に行く必要があるのか?」良い反応ではなくても、知ろうとしている人が私を通して現れました。ていねいに説明すれば、理解してくれるかも知れません。

中には日常の関わりを通して、洗礼を受ける人が現れるかも知れません。それは配偶者であったり、自分の両親かも知れません。長い時間がかかったとしても、父と子と聖霊の名によって洗礼を受ける人が与えられた時、私たちは三位一体の神の豊かさに触れているのです。

キリスト者としての生き方を教えること。もしかしたらこれがいちばん難しいのかも知れません。五月の連休で、教会敷地全体を観光の方に立ち入り禁止としていました。明らかに看板を立てているのに、道路に車を停めて柵を跨いで中に入り、教会堂を背に記念写真を撮ってサッと帰って行きます。

「ちょっと柵を越えただけだ」「誰にも注意されなかった」たぶんこれが、日本人の平均的な感覚なのでしょう。この人たちに「禁止の看板があるのに柵を越えるのは、神様の前に正しいでしょうか?」と考えさせるのは至難の業だと思います。けれども諦めなければ、それによって三位一体の神の豊かさに触れることが出来るのです。

三位一体の神に触れる場面は、学問的な場所以上に、日々の行いの中にあります。ごく日常の場所に、三位一体の神の豊かさに触れるチャンスがある。持ち帰ってこの一週間何が出来るか思い巡らしてください。日常的な生活は、中田神父よりも信者の皆さんが余程知り抜いています。

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‥次の説教は‥‥
キリストの聖体(マルコ14:12-16)
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ちょっとひとやすみ
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▼ネタばらし。第二奉献文の最後に「また、復活の希望を持って・・・」以下続く中に、次の文章がある。「なお、わたしたちをあわれみ、神の母おとめマリアと聖ヨセフ、使徒とすべての時代の聖人とともに永遠のいのちにあずからせてください。」この中に答えがあるが、分かるだろうか?
▼これは田平教会での説教。田平教会のミサ参加者を頭に描けないと解けない難問!答えは「ナオ」である(なお、わたしたちをあわれみ、・・・」)。古風な名前が他にも隠れているが(「タチ」とか、「オトメ[トメ]」など)、今回の正解は「ナオ」ということにする。


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今週の1枚
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聖霊降臨の主日(ヨハネ15:26-27;16:12-15)聖霊来てくださいと絶えず願うなら、私たちは聖霊の神殿となる

2021-05-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/5/23(No.1123)
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聖霊降臨の主日(ヨハネ15:26-27;16:12-15)
聖霊来てくださいと絶えず願うなら、私たちは聖霊の神殿となる
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「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(16・13)聖霊降臨の主日を迎えました。イエスは聖霊のことを「真理の霊」と紹介してくださいました。聖書と典礼6頁にも、「真理であるイエスのことを弟子たちに現し、悟らせる霊、という意味」と説明されています。私たちも真理の霊である聖霊を身近に感じ、照らしと導きを願いましょう。

過ぎた一週間は聖霊の働きを身近に感じました。私の場合は「弁護者」あるいは「助け主」という印象の働き方でした。2つ紹介します。1つは、ユニットバスのお手洗いに座っていた時です。出入りする扉の縁の鍵穴に、10cmくらいのムカデがいたのです。目と鼻の先です。

私は飛び上がりそうになりましたが、自分を落ち着かせてトイレットペーパーを丸めて握り、はたいて床に落とし、外に追い出しました。知らずにムカデに噛みつかれていたら、アナフィラキシーか何か分かりませんが、アナフロシキショックでミサが出来なくて、皆さんに迷惑をかけるところでした。

もう一つは、長崎教区のホームページです。毎週「主日の福音」という項目を中田神父が更新しているのですが、ホームページの安全性が危険にさらされているのではないかと、教区広報委員会にお知らせしました。連絡を受けた委員から、「早急に検討します」と連絡が来ました。今になって考えれば、教区ホームページがサイバー攻撃を受けてアナフロシキショックで気絶していてもおかしくない状態でした。

2つの事件、共に「弁護者」「助け主」と言える聖霊の働きで、私個人と、長崎教区の危機を脱することが出来たのではないかと思っております。中田神父にとっては、聖霊の働き、導きは日常の一コマです。これは神がそばにいてくださることの、明白なしるしだと思っています。

ただ、信者の皆さんにとっては聖霊の働きは明白ではないかも知れません。「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」イエスがこれほど約束してくださっているのに、聖霊を身近に感じられないかも知れません。

そこで、この一週間は「聖霊の続唱」を参考にして過ごしてはいかがでしょうか。「聖霊来てください」という祈りから始まっていますが、聖霊は「真理であるイエスのことを悟らせる霊」なのですから、「聖霊来てください。イエス様は私の生活にどのように関わってくださるのか教えてください」こうした願いを込めて、聖霊の続唱を唱えると、悟らせてくださると思います。

毎日の忙しさの中で、教会に通っている子供が、教会を通して学校とは違う成長を見せてくれるかも知れません。その時あなたは、聖霊を通して「真理であるイエスが私たちとどのように関わってくださるか」を知ることになるでしょう。

また、ある人は「イエス様は私に何をしてくださいますか?聖霊来て、私に教えてください」と尋ねたい人もいらっしゃるでしょう。中田神父はイエスが生活全般を配慮してくださっていると確信しています。イエス様が配慮してくださっているから今があるのだと気付いた時が、あなたにとっての聖霊降臨・聖霊体験なのです。

昔、「始業の祈り」というのがありました。「聖霊、来たり給え、信者の心に充ち給え。」今でも唱える人がいると思いますが、この祈りで聖霊の照らし導きを求める一週間とするのもよいでしょう。長崎教区を見渡すと、30以上の小教区がミサを中止しています。私たちが聖霊来てくださいと願いながらミサにあずかり、説教を聞いていることは、特別な意味を持っています。私たちのミサは、ミサを中止している小教区のためのミサでもあるからです。

「聖霊来てください。」この願いは、絶えず繰り返すと、いつか私自身を聖霊の神殿にするでしょう。聖霊がいつも私の中に住まいを見つけるなら、私はいつも主イエスと共にいることにもなります。中田神父にとって、今年「聖霊来てください」と願って与えられたまったく新しい気付きでした。

ともかく、この一週間で真理であるイエスについて何か気付きを頂くために、聖霊来てくださいと願いましょう。聖霊は、私たちが言葉で表せない部分を照らして、これまで私たちに対するイエスの配慮があったのだと気付かせてくださいます。「聖霊来てください」と、心から願う一週間といたしましょう。

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‥次の説教は‥‥
三位一体の主日(マタイ28:16-20)
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ちょっとひとやすみ
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▼「ご昇天・聖霊降臨は雨の祝い日」とは先人の教えである。そんなタイミングで「境内内外清掃」を組んだ。原稿を書いている土曜日の時点では、見事に夏の天気になっている。
▼晴れるとまた「熱中症」の心配があるが、今のところは大掃除が出来そうな天気だ。中田神父は去年覚えた「刈った草を旧茶園に搬送する」この手伝いで大掃除に参加しようと思う。

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今週の1枚
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第730回目。人にものを頼むのも一苦労。手書きのメモを作ったら効果抜群!

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主の昇天(マルコ16:15-20)あなたが声を出すその一瞬前に、使命を思い出そう

2021-05-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/5/16(No.1122)
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主の昇天(マルコ16:15-20)
あなたが声を出すその一瞬前に、使命を思い出そう
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「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(16・15)弟子たちはイエスの指示を忠実に果たしました。「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。」(16・20)忠実にイエスの指示を果たすことで、私たちもイエスの弟子として役割を担いましょう。

長崎県は、現在新型コロナウィルス感染症の警戒態勢が、最大警戒の「5」に引き上げられました。この状態では、人が集まることさえはばかられます。けれどもミサはキリスト信者の「命に関わる部分」ですので、最大限続けたいです。そこでミサを続ける苦肉の策として、残念ではありますが聖歌を歌わずにミサを続けたいと思います。

今週は主の昇天で、答唱詩編は「主はのぼられた」という「ここでしか歌わない聖歌」の予定でしたし、来週は聖霊降臨で「聖霊の続唱」を歌うのを楽しみにしていましたが、今年は歌う代わりに唱えたいと思います。ただYouTubeにアップするミサ動画ではお告げのマリア修道会本部の協力を得て、聖歌を聞くことが出来ます。チャンネル登録をよろしくお願いします。

県全体の警戒が最大警戒となったことで、聖堂に集まって唱える聖母月のロザリオを、中止せざるを得ませんでした。家族でロザリオを唱える習慣があるなら、ぜひ家庭で続けて唱え、新型コロナウィルス感染症の世界中での終息を願ってロザリオを唱えるように呼びかけている教皇フランシスコと共に歩んでほしいと思います。

さて問題は、「家族でロザリオを唱える習慣がない家庭」です。ロザリオを唱えないのだから、教皇フランシスコと共に歩むことができないと、最初から諦めてよいのでしょうか。もちろん、決してそうではないと思います。ロザリオは無理でも、何か形を変えて、教皇様の意向を汲んだ生活をすべきだと思います。

そもそも、自分の生活の中に、祈りがあっただろうか。ここから考えてみましょう。朝の祈りか、夕の祈りを唱えているなら、生活の中に祈りがある人ですから、朝夕の祈りを始める時に「教皇様と共に歩みます。世界中の新型コロナウィルス感染症が終息しますように」と心で唱えてから祈ってください。

祈祷書を開いて祈ることはしなくても、かろうじて祈る時がある。そういう人もいるでしょう。評議会、連絡会、日曜日のミサ、こうした場面でも、「教皇様と共に歩みます。世界中の新型コロナウィルス感染症が終息しますように」と前置きして始めることは可能です。

かろうじて祈る人は、もう少し祈りましょう。会社に出勤する時、自宅を出るその瞬間に、「教皇様と共に歩みます」この意向を思い出してください。あるいは会社を退勤する、その瞬間に思い出すなら、もう少し祈りが生活の中に取り込まれますね。

家庭にある人は、台所に立つこともあるでしょう。台所に立つ最初の場面で、また片付けを終え、台所を離れるその場面で、「教皇様と共に歩みます」この意向を思い出すと、もっと祈りが生活の中に取り込まれます。ほかにも、それぞれの人が工夫して、生活に祈りを取り込むことは十分可能です。食事のあとさき、趣味の時間を始める時終える時などです。

もっと踏み込んで、言いましょう。あなたが声を出す瞬間、その一瞬前に、「教皇様と共に歩みます。世界中の新型コロナウィルス感染症が終息しますように」と言ってください。ご年輩の皆さんは、椅子に座り、椅子から立ち上がる時に「よいしょ」と言うでしょう。その一瞬前に、思い出すのです。「教皇様と共に歩みます!」一日何回「よいしょ」と言いますか?そのたびに、新型コロナウィルス感染症の終息のためにできることがあるのです。

冒頭の、イエスが弟子たちに命じられたことを思い出しましょう。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(16・15)「全世界」とは、国を超えて、地域を越えてというだけでなく、私たちが身を置くありとあらゆる場面です。あなたが「よいしょ」と言って座る場所は、見ず知らずの人と出会う、大切な場所かも知れません。見ず知らずのその人と、新型コロナウィルス感染症の終息を願う会話をするために、「よいしょ」と座るその一瞬前に、「教皇様と歩みを共にします」と念じておけば、必ず福音を伝える機会になるでしょう。

これだけ言うと、恐らく皆さんは来週まで一週間「『よいしょ』って言うのをやめよう」と後ろ向きの考えをするかも知れません。けれどもご心配なく。高齢者の皆さんが「よいしょ」と言わないのは無理です。だから必ず、あなたにも、あなたにも、教皇様と共に歩むチャンスが、福音宣教するチャンスが、巡ってくるのです。

弟子たちはイエスの指示を忠実に果たしました。「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。」(16・20)私たちはどうしますか?決めるのは自分です。イエスが約束してくださる「助け主である聖霊」に信頼して歩み出すか、歩みを止めるかです。現在84歳の教皇様と共に、新型コロナウィルス感染症の終息のために力を貸しますか、貸しませんか?小さなお手伝いでも、いつか世界を変える力になり得ます。

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‥次の説教は‥‥
聖霊降臨の主日(ヨハネ20:19-23)
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ちょっとひとやすみ
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▼感染状況が非常に厳しくなっている。いずれ長崎教区内も、公式ミサが中止になるかも知れない。「外出はしたけれども、具体的な誰かと会ってはいない」こんなケースで感染するとしたら、もはやお手上げである。
▼ワクチンも、「飲み薬」になってほしい。体内に摂取するのが自分で出来るなら、どれだけ医療のひっ迫を緩和できるか分からない。医療のひっ迫で「命の選別」になるなら、その人はどんなに悔しいことだろう。今日何人が、命を危険にさらされるのか。命の危険にある人たちのために祈りたい。

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今週の1枚
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第729回目。あじさいを司祭館玄関に置いてもらった。「梅雨」がすぐそこまで。

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復活節第6主日(ヨハネ15:9-17)イエスに友とされた者として生きる

2021-05-08 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/5/9(No.1121)
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復活節第6主日(ヨハネ15:9-17)
イエスに友とされた者として生きる
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「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(15・14)イエスは弟子たちを「友」と呼んでくださいました。友のために命を捨てるところまで、イエスの招きに答えたからです。

私たち全員に同じことは求められていないかも知れませんが、次のことは求められています。「わたしの愛にとどまりなさい」(15・9)ほかにも「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」(15・12)イエスのこの掟を具体的に描いてみましょう。

友達になれる人というのは、自分と同じ価値観を持っている人です。自分と似たような境遇の人にも親しみを覚え、友人のうちに数えることもあります。その上さらに、キリスト者はミサで初めて会った人、もう二度と会わないかも知れない人にも、心を開き、あいさつができます。

日曜日のミサに、違う場所で参加したとしましょう。たとえば平戸地区は9月には焼罪(やいざ)殉教祭のミサが行われますが、殉教公園でミサに参加している人は、ふだんあまり見ない人かも知れません。

けれども、大司教様のミサに参加して、「お互いに平和のあいさつを交わしましょう」と呼びかけられると、さっきまで見たこともなかった人と笑顔で平和のあいさつをするに違いありません。それが可能なのは、同じ信仰を持っているからです。

このように、わたしたちは共通の価値観を持っている人のことを、「友」として見ることができます。イエスはすでに持っている私たちの体験に訴えかけて、「友」という言葉でイエスと私たちとの関係も説明してくださったのです。

ところで、イエスは弟子たちのことを「友」とお呼びになりましたが、「友」と呼ぶからには弟子たちに期待していることも何かしらあるのではないでしょうか。わたしたちが「友」に期待するようなことを、イエスもまた弟子たちに期待するのは当然ではないでしょうか。

わたしたちは友人にどんなことを期待しているでしょうか。困ったときに助けてくれることとか、同じ目標を目指して、お互いに励まし合うとか、過ちを犯したときに率直に間違いを指摘してもらうなどのことを期待するでしょう。「それでも友達か」と言われるようなことを慎むことも含まれるかも知れません。

イエスは弟子たちに、「あなたがたはわたしの友である」と言いました。まずイエスが、弟子たちの友となってくださいました。弟子たちの働きに力を貸し、弟子たちが行き詰まっているときには知恵を貸し、喜ばしいことがあれば一緒に喜び、悲しい出来事があればその悲しみを半分に分け合って、友として十分に支えてくださったのです。

そこから、弟子たちは自分たちのなすべき事を学んだのでした。イエスを信じ、イエスの命じる掟を守る人々に友として接し、イエスがしてくださったように、新しくキリスト者となった人々の支えとなっていったのです。

そこで、わたしたちもイエスの呼びかけに向き合う必要があります。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」互いに愛し合いなさいというイエスの掟を守るなら、わたしたちはイエスの友となれるのです。

友は、相手を思いやります。わたしたちがミサに参加しているこの時間、同じく友であるあの人は、コロナ禍の中にあって残念ながらミサに来ることができないかも知れません。その人のことをミサの中で思い出してあげましょう。

食事をしている時間、友でありながらある国の家族は今日の食べ物に事欠いているかも知れません。その人のために、小さなおささげをしましょう。すでに長崎教区では、「一菜募金(いっさいぼきん)」と言って、食事の一品分をおささげする運動が定着しています。

同じ司祭の身分にあるあの人、同じ修道者の身分にあるあの人、同じ信徒であるあの人が、もしかしたら心を閉ざし暗闇の中にいるかも知れません。その人のことを思い出したなら、祈ってあげるとか、電話やメールで連絡取るとか、訪ねてみるとか、いろんな方法で「あなたのそばにいるよ」と知らせてあげましょう。忘れられていないのだと知れば、その人はいつか心を開いて悩みを打ち明けてくれるかも知れません。

これらはすべて、友であるイエスが先にわたしたちのためにしてくれたことであり、わたしたちにも期待されていることです。キリスト者は同じ一つの信仰で友となれます。他の友とは異なり、イエスを信じているという共通の土台に立って、物事を考えることができるのです。この世の友よりも、寛大に愛を示すことが出来るのです。

最後に一人、私たちの大切な恩人、大切な友を紹介しましょう。今から140年前、平戸地区のために派遣されたマタラ神父様です。マタラ神父様は、およそ40年、平戸地区の基礎を築くために働いてくださいました。

初代の紐差教会、上神崎の教会、宝亀教会、お告げの前身となる愛苦会設立、平戸教会、山田教会、そして最後に、田平教会の建設にも尽くしてくれた恩人です。イエスの友として、「わたしの愛にとどまりなさい」という招きに固くとどまり、私たち平戸地区の信者達、田平の信者達を愛してくださったから、これだけのことができたのです。そして故国の土を踏むことなく、田平教会献堂の3年後に天に帰りました。

わたしたちは、イエスに友としていただいたことを決して忘れてはいけません。決して忘れないしるしは、わたしたちが誰かの友となることです。イエスの友とされたから、身近なあの人に力を貸します。イエスの友とされたから、ずいぶん遠ざかっているあの人に、心の窓を開いておきます。わたしたちが動き出す力の源は、先にイエスによって友としていただいたこと、ここにあるのではないでしょうか。

今週は、世界広報の日でもあります。私たち一人ひとりが、互いに愛し合うというイエスの掟の広報担当者です。イエスに友とされた者であることを知らせる広報官です。一つでも二つでも、イエスの愛に報いる働きができますように、今日のミサの中で恵みを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
主の昇天(マルコ16:15-20)
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ちょっとひとやすみ
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▼新型コロナウィルスの影響を心配し、4月29日からずっと教会敷地を柵で囲み、来訪者を立ち入り禁止にした。それでも道路に車を停め、柵を乗り越えて記念写真を撮って帰る人が後を絶たなかった。「注意されなければ構わない」「見つからなければ構わない」日本人の平均的な倫理観はこの程度なのだとよく分かった。
▼「この状態で、柵を越えてはいけない。」そう考えるためには、日本人の平均的な倫理観を超えるものが必要だ。キリスト教の倫理観はそのために一役買ってくれるのではないか。「誰も見ていない。だが神様が見ている。」

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今週の1枚
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第728回目。よもぎを摘んできて、団子にしてもらった。季節の味がする。

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復活節第5主日(ヨハネ15:1-8)命に責任を持って下さる方と繋がる

2021-05-01 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/5/2(No.1120)
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復活節第5主日(ヨハネ15:1-8)
命に責任を持って下さる方と繋がる
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「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」(15・4)繋がりが希薄な現代社会にあって、確実な繋がりを与えるイエスの呼びかけに、耳を傾けましょう。

今週の福音朗読箇所には、ほろ苦い思い出があります。私が助祭だった1991年に、召命の集いで説教の大役を仰せつかりました。それも「上五島地区」と、福岡の「大神学院」と二度もです。上五島では文化センターのホールに大勢の子供が集まった中での説教でした。大神学院では、すり鉢の形になった第二グラウンドにたくさんの子供が集まり、野外ミサの説教でした。朗読箇所は今週の朗読箇所「イエスはまことのぶどうの木」でした。

かなり早くから福音朗読の箇所が示されていたので、わたしは入念に準備をし、子供達に身振り手振りで話しかけ、説教台を飛び出して熱演したわけです。自分としては、後にも先にもない、生涯最高の説教をしたつもりでした。

ところが、先輩司祭達からは不評を買いまして、上五島地区で司式した丸尾武雄地区長神父様からは「けしからん」とお叱りを受けました。大神学院でも、司式された松永司教様や、大先輩の福岡の神父様方から「あんなものは説教じゃない」とケチョンケチョンにけなされました。ですから、小教区を越えた大きな会場での説教デビューは、さんざんだったわけです。

それでも、一つの感触はつかんでいました。あの日の説教では、わたしは子供達と一緒に、ワクワクしながら説教をしたし、子供達も話の中にすっかり入り込んだという体験です。私が、「繋がっている」と心の底から感じた瞬間でした。

実に多くの人が、繋がりを求めています。新型コロナウィルスが猛威を振るう中で、直接のふれあいが断たれています。するとスマホを使ってまったく見知らぬ人とさえ繋がりを得ようとしています。よりどころが欲しくて、安為に繋がってくれる他人に近づき、自分の身を危険にさらすことさえあります。

そんな中でもイエスは、二千年前と変わらず呼びかけるのです。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」イエスは他のどの人とも違う繋がりを与えてくれます。多くの人々が繋がってくれたことに対価を求めますが、イエスは私たちを豊かにするために、実を結ばせるために繋がってくださり、決して対価を求めないのです。

それは身近なたとえでは親子の繋がりかも知れません。親が子を育てて、立派に育った子供に「育ててやったから何かをくれ」と言わないのと同じです。親は子が成長するためだけに繋がってくださり、対価を求めないからです。イエスも、私たちが豊かに実を結ぶように、いつも繋がってくださいます。

イエスと私たちの繋がりは、突き詰めると生きていられるかどうかの繋がりです。例えるなら、新型コロナウィルスの重症患者が酸素マスクを必要としている状態です。酸素を取り込む力が弱っているために、酸素マスクがなければ命に関わります。イエスと私たちの繋がりが、まさにこの重症患者と酸素マスクの関係です。もちろん酸素マスクを拒否することも出来るでしょう。けれどもその行為は、命に関わるのです。

イエスと私たちの繋がりは、本当は命に関わる問題なのに、実際にはあまり気にしていません。自分では酸素を取り込めなくなっているのに、酸素マスクを使おうとしません。自分では血液中の老廃物や水分を排泄できなくなっているのに、人工透析を避けています。命を繋ぐことが最優先なのに、イエスとの繋がりを遠回しにしてしまいます。なぜでしょうか?

恐らく、イエスと繋がって何かを手に入れたことがないからです。永遠の命に関わるからと説明しても、人間は弱いのですぐ分かる体験をどうしても欲しがります。そういう人には、やはりすぐに手に入る何かを示したほうが良いでしょう。私は病者の塗油で、少なくとも四回、死の淵から帰ってきた人を紹介できます。

一人は、人工呼吸器に繋がれた人でした。口にホースが差し込まれ、鼻にもチューブが入っていました。家族は悔いが残らないようにと病者の塗油を授ける覚悟だったでしょう。私自身も、「ちょっと今回は助からないかも知れないなぁ」と、内心思いつつ病者の塗油を授けたのです。授けている司祭も奇跡を期待してなかったのに、その人は数ヶ月して退院し、半年後には新車を買って、祝別をお願いに来たのです。

他にも並べる必要があるでしょうか。あと三人紹介出来ますが、もう十分でしょう。イエスに繋がって生きることは、命に関わることなのです。「わたしにつながっていなさい」と呼びかける主は、命に責任を持つことが出来るのです。命に責任を持って下さる方と繋がる。私がいよいよ豊かに実を結ぶように、そのことだけを願っておられるイエスと繋がる人を、イエスは「わたしの弟子」と呼んでくださいます。

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‥次の説教は‥‥
復活節第6主日(ヨハネ15:9-17)
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ちょっとひとやすみ
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▼福岡の神学院には返せないほどの恩義がある。ここで育てられていなければ、私は司祭職にたどり着けていないだろう。その神学院にも、ここ数年、訪ねていない。今はどんな雰囲気になっているのだろうか。
▼今でも忘れない笑い話がある。規則違反をしてラーメンを食べに行き、後輩と約束していた時間に裏口に戻ってきた。合図をするはずが裏口のドアが勝手に開いた。何とそこにカナダ人司祭の教授が立っていた。「何をしていたんですか。」一緒に出かけた悪友はあたふたしている。
▼私はとっさにこう言った。「ゴミを捨ててきました。」夜10時にゴミを捨てに行くはずがない。しかしカナダ人教授は納得して「ボン、けっこう。それならよろしい」と通してくれた。「ボン」はフランス語。「良い」という意味。あたふたした悪友は司祭にならず、とっさにうそを言った私が司祭で良いのだろうか。

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今週の1枚
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第727回目。連休中、観光の来訪者を止めることになった。予定では9日まで。

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文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
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2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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