こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

神の母聖マリア(ルカ2:16-21)戸惑う出来事を突破して

2016-12-31 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
17/01/01(No.863)
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神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
戸惑う出来事を突破して
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神の母聖マリアの守るべき大祝日を迎えました。カトリック教会は、神の母聖マリアに、新年のスタートを大切にする日本と日本の教会をゆだねようとしているのかもしれません。2017年を、どのように過ごせばよいのか、マリアの模範を仰ぐことにしましょう。

皆さんあらためて、新年おめでとうございます。過ぎた年は皆さんにとっても、入れ替わりの年で戸惑うことも多かったかと思います。わたしも、これまで六年間住んでいた環境からがらりと変わり、戸惑いながら何ができるのかを探しつつ過ごしてきました。

一つお知らせしておきたいことがあります。わたしは年賀状を近くの人に出さないことにしています。小教区の皆さんから年賀状をいただくこともありますが、こうして新年を皆さんと迎えますので、年賀状は省略させてもらっております。小学生とか保育園の園児の場合は、届いたのを見てから出すこともありますが、それ以外は出しておりませんので、お許しください。

福音朗読に入りましょう。登場人物は大きく二手に分かれています。羊飼いたち、そしてマリアとヨセフは、幼子の誕生をとおして神の働きに思いを向けようとしています。これが一つのグループです。もう一つは、羊飼いたちがこの幼子について天使が話してくれたことを知らせましたが、羊飼いたちの話を不思議に思うだけの人々です。

一方は、出来事を見て、その出来事の中で何が起こっているのかを見極めようとしています。もう一方の人々は、出来事を見るには見ますが、出来事の表面、うわべだけに目を奪われている人々です。それはたとえて言えば、手品を見せられてどうしても仕掛けが見破れずに目を丸くしている人と、どうすれば気付かれずに実行できるのかをじっくり考えてトリックを見抜く人の違いでしょうか。

手品はわたしの専門分野ではありませんが、ふたをしっかり閉めた瓶の上に五百円玉を置いて、その上に手をかざして五百円玉を瓶の中に落とすという手品があります。わたしはその程度の手品でしたら見破られずに実演して見せることができるかなぁと思っています。

ジャムなどを入れる瓶を空にして、あらかじめふたの内側に五百円を張り付けておいてふたをしっかり閉め、それからふたの上に五百円を置き、手を勢いよく押し付けると、ふたの内側の五百円が落ちる。あとはふたの上に置いた五百円をさりげなく取り除けば、見た目には五百円が通過して瓶の中に落ちたように見えるわけです。

出来事の向こうにあるものを見抜くことができない人には、いつまででもその手品は有効だと思います。しかし必ず何かの仕掛けがあるに違いないと思って、日夜考え抜くなら、ある日その仕掛けを思い付くでしょう。羊飼いたちは、今まで何度も見たであろう赤ん坊の誕生に遭遇したのですが、マリアとヨセフに見守られている赤ん坊を見た時、本当に起こっていること、つまり「見聞きしたことが天使の話したとおりだった」(2・20)この見逃せない点を見抜いて、神をあがめ、賛美しながら帰って行ったのです。喜びのしるしはこれこれの形で与えられる。それが家畜小屋の中であっても、天使の話した通りであれば、ここに神の救いの計画が実現したのだと羊飼いは理解できたのです。

すべての人が出来事の中で実現していることを理解できるわけではありません。羊飼いたちの話を不思議に思った人たちがいました。彼らは出来事が天使の話したとおりであったと聞かされても信じることができなかったのでしょう。羊飼いが信用できなかったのかもしれないし、救い主が飼い葉桶に寝かされているなど、信じられなかったかもしれません。いずれにしても、表面的なことに目を奪われて、与えられたしるしの中で実現している神の計画まで思い至らない人たちがいるのです。

それは現代でも同じことです。人類の救い主が、十字架にかかって亡くなるなど、とても考えられないことです。けれども実際には出来事は起こり、その中で神の計画が実現したのです。特にマリアはイエスの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしました。

誕生から、十字架上の死まで、出来事の表面だけに目を奪われるならどこで信頼を失っても不思議ではありませんでした。けれどもマリアは、戸惑う出来事をいつも突破して、神の計画が実現していくのを目の当たりにしたのです。出来事の表面に惑わされないマリアの姿は、すべての人の中で際立った特徴です。

ここに、わたしたちの模範があります。マリアは何度も、戸惑いを覚えるような出来事にぶつかり、そのたびに戸惑う出来事を突破して、本当に見なければならないものを探し出して進みました。マリアが表面的な出来事を突破するとき基本にしていたのは、出来事の中に実現していく神の計画を、じっと思い巡らすということでした。

わたしたちも、今年一年難しい問題に直面することもあるかと思います。しかしあきらめたり投げ出したりするのではなく、そのたびに「神は今ここで何を実現させようとしておられるのだろうか」と思い巡らす。そうして本当に見なければならないものを探し出し、前に進んでいきましょう。

わたしたちが前に進むときの判断基準は、マリアと同じく「神が望まれることは何か。神が喜ばれることは何か」です。答えはすぐには見つからないかもしれない。その時は立ち止まって、思い巡らしましょう。神が必ず指し示してくださる唯一の物差しで、2017年を歩みだすことにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
主の公現
(マタイ2:1-12)
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ちょっとひとやすみ
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▼新年あけましておめでとうございます。本年は司祭叙階25周年(銀祝)の年です。皆様に使ってもらって、ここまでたどり着くことができました。感謝申し上げます。今年も、旧年度うようよろしくお願いいたします。
▼旅する教会、人生の長い旅、これらを象徴するかのように、今年の初め、聖地巡礼に行ってまいります。二度目のイスラエル訪問です。人が住む場所は当然時間とともに変化していきます。20年の月日が経ち、どのように変化しているでしょうか。
▼最近よく物を取り損ねて落としてしまう。薬を服用するとき、銀紙から破って薬を出したが、「あっ」と思ったら落としてしまった。腹立たしい。これも肉体の経年変化で、この体でこれからも旅をするんだよと、徐々に教えてくれているのだろうか。
▼田平教会はここ最近1月1日神の母聖マリアの祭日のミサは大晦日の深夜0時と、午前9時となっている。この頃は夜遅くに仕事をしたくない。ミサを「仕事」と言っては語弊があるが、おかげで今もまだ何となく眠ったような感じである。
▼よく言うわ、と思いながら書いている。だがおそらく、当日になればそういう感覚になっているだろう。通常でも12時を過ぎて床に就くと朝は相当きつい。年始の挨拶が済んだら、とっとと布団かぶって寝ようか。でも玄関は開けておかないとチャイムでかえって煩わされそうだ。
▼昨年の振り返り、わたしが赴任した教会は、みずからの小教区だけを考えておけばよい教会ではないと思った。近くの教会に応援に行ったり、平戸ザビエル教会の代わりに平戸地区の行事を迎えたり、周りへの配慮を忘れてはいけない小教区である。
▼今年の抱負。わたしは平戸地区の大切な核となる教会の主任司祭として、何ができるかを考えて歩いていく。手を差し伸べ、協力を申し出るところもあると思うし、田平教会がその役目を引き受けましょうと手を上げることもあるだろう。韓国の巡礼団を迎えるのもその一つかもしれない。そうだ。ハングルをもう少し覚えよう。

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今週の1枚
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第470回目。田平教会の馬小屋飾り、外のにぎやかさに比べると、静けさがある。

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† 神に感謝 †
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主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)今日の洗礼の恵みに日々生きていく

2016-12-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/12/25(No.862)
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主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-18)
今日の洗礼の恵みに日々生きていく
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あらためて主の降誕おめでとうございます。主の降誕日中のミサは、ヨハネ福音書の冒頭が必ず福音朗読に選ばれます。今年は大人の方の入信の秘跡(洗礼・堅信)がこの後に控えています。そこで秘跡の恵みを思い浮かべながら学びを得たいと思います。

朗読から次の箇所を取り上げたいと思います。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(1・12)「言(ことば)」と表されているのはわたしたちのために人となってくださったイエス・キリスト、昨晩から馬小屋で飼い葉桶に寝かされている乳飲み子として人類に与えられた救い主のことです。神が、人間の救いのために、民全体に与えられる大きな喜びとして御子を世に与えてくださいました。ここにいるわたしたちは、そのことを信じて、こうして集い、祝っているのです。

しかし、もしここにいる誰かが、「今年もクリスマスにミサに来ました。では来年のクリスマスまでさようなら。また会いましょう」と言うなら、その人はクリスマスの一瞬、イエス・キリストを受け入れただけで、毎日曜日、毎瞬間、イエス・キリストに導かれて生きる道を選んでいるとは言えないと思います。

先ほどの引用箇所でヨハネ福音記者が言いたいのは、一瞬イエス・キリストを受け入れるだけでなく、今日も明日も、イエス・キリストがわたしを神の子としてくださる、神の子として導いてくださると信じ続ける必要性を強調しているのです。

さて今日は、入信の秘跡を受けるために長い準備をしてこられた方がその時を待っています。洗礼・堅信の秘跡は、言ってみれば今日一日の出来事です。しかし、神の恵みによって生きる生活は、今日から日々積み重なっていくものなのです。洗礼によって原罪と自罪のすべてが赦された。赦されて神の子となっただけでなく、今日から、わたしを変えてくださったイエス・キリストに感謝して過ごす日々が始まるのです。

入信の秘跡を終えている皆さんも、今日洗礼を受ける方を見守りながら考えましょう。わたしたちは、今日の入信者よりも一日の長があるものとして、日々イエス・キリストの恵みと導きに信頼して歩み続けます。その約束を、今日の入信者と共に神におささげします。こうしてわたしたちは、互いに喜び合い、神の恵みを感謝し合い、神の子となる資格を日々新しくしていくのです。

ではこれから、入信の秘跡である洗礼と堅信の秘跡に移りたいと思います。洗礼を受けてからは、ここにいる皆さんが兄弟姉妹です。分からないことは教えてくださいます。困ったことは助けてくださいます。信頼して、神にご自身をお委ねしましょう。

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‥次の説教は‥‥
神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼うすうす気づいているかもしれない。年末年始はイスラエル巡礼のことを考えると先の先まで説教原稿を用意しておかないと間に合わない。そこでまとめて原稿を書き上げている。どの時点でどこまで原稿をまとめ書きしたかは、読者の楽しみのためにとっておこう。
▼「中田神父と言ったらトレードマークは帽子だね。」これは大司教様の名言である。たしかにここ10年ほど、帽子をかぶっているような気がする。というか、わたしの帽子は司教様と違ってハゲ隠しだけれども。
▼その帽子で今悩んでいる。どの帽子をかぶってイスラエルに行こうか。わたしのお気に入りは2つあって、一つはフェルト生地の帽子。これはプレゼントしていただいたもので、ふだん愛用しているものだ。
▼もう一つは、広島カープの文字をあしらった帽子(野球帽ではない)。これは気に入って自分で買ったものだ。「イスラエルでフェルトの帽子をかぶった人はいても、広島カープの帽子をかぶった人は二人といないだろう。」そう思うと広島カープの帽子をかぶりたいが、これに関連して20年前の苦い思い出が自分の思い付きを躊躇させてしまう。
▼20年前、当時の島本大司教様の呼びかけで青年を30人イスラエル巡礼に連れて行ってくれた。そこに、各地区から1人ずつ司祭が同伴した。わたしは佐世保地区の同行司祭として行くわけだが、「イスラエルに行ったら、ガリラヤ湖で釣りでしょ~」そう思って本気で釣竿をスーツケースに入れて出発した。
▼いざガリラヤ湖へ。朝食が始まるまで2時間、湖で竿を出した。もちろん簡単に釣れるはずもなく、「まぁ釣れないわな」と思いながら帰ってみると、朝食前に散歩している青年男子と出くわした。その青年は司祭であるわたしと、釣り竿とを交互に見ながらこう吐き捨てた。「神父さん。あんたは何をしに、このイスラエルに来たんですか。巡礼に来たんじゃないのですか?」
▼「巡礼に来たよ。来たけど、思い出に釣りぐらいいいじゃないか。」その青年は以後わたしを完全に無視し、わたしも声がかけられない気まずい雰囲気になった。このトラウマがあって、広島カープの帽子をかぶっていくか、控えるべきかと悩んでいるのである。

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今週の1枚
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第469回目。こんな感じ。読者の皆さん、この格好は聖地で許されるでしょうか。

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主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)この夜は民全体に与えられる大きな喜び

2016-12-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/12/24(No.861)
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主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
この夜は民全体に与えられる大きな喜び
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主の降誕おめでとうございます。中田神父にとっては、初めて田平教会で迎えるご降誕です。今日の福音朗読から、「見失った一匹の羊にも届く大きな喜び」という見方で考えてみたいと思います。

今年のクリスマス、わたしは初めてある人々に、「力が足りず申し訳ない」「ご降誕のミサにあずからせることができず、本当に面目ない」と思いました。わたしたちの小教区に限りませんが、それぞれの小教区には、行きたくてもご降誕のミサにあずかれない人、あずかれなかった人がいるわけです。

たとえば、わたしはこちらに来て25人近い人のお見舞いをしています。この方々は、残念ながらご降誕のミサにあずかることができません。12月のお見舞いをしながら、一人ひとりに「ご降誕は今のこの場所で迎えることになると思うけれども、お祈りしていてね」と声をかけました。

しかし、気分は晴れませんでした。「お祈りしていてね」なんて、慰めにならないと思ったのです。せめてご降誕のミサにはあずかりたい。そう思っている人に「がまんしてね」と言っているのですから。気の利いた言葉も思い浮かばす、本当に心苦しかったです。

さらに、ご降誕まで生きられず、旅立っていった人たちもいました。特に直前に亡くなった人には、ご聖体も授けてあげられず、「ご降誕はお祈りしていてね」と言ってはみたものの、力が及ばなかった悔しさから、わたしは唇をかんで帰ってきたのです。

ほかにも、わたしの知らないところで今日の日を迎え、一人で心をこの聖堂に向けている人がいるかもしれません。ひとことで言うなら力が及ばなかった。本当にそう思いながら、今年のご降誕を迎えたのです。

福音朗読から、ある部分を比べて考えてみたいと思います。皇帝アウグストゥスは、全領土の住民に、登録せよと勅令を下しました。これに対し神が遣わされた天使は、民全体に与えられる大きな喜びを告げました。どちらも、自分の力が及ぶすべての人を対象にしています。しかし登録せよとの勅令は不安と恐怖しか与えませんが、主の天使の知らせは民全体に大きな喜びをもたらしたのです。

さらに、皇帝の勅令は全領土の住民に及びましたが、恐らくそれでも人数のうちに数えられていない人はいたと思います。たとえば羊飼いは、住まいを転々としていたわけですから、本来登録すべき自分の町や村などなかったでしょう。彼らはきっと数のうちに入っていなかったのです。また重い病気の人々、人々から遠ざけられて暮らしている人々も、数のうちに入っていなかったと思うのです。

主の天使の知らせは違っていました。おそらく人口調査を命じられた人々が人数に含めてなかった羊飼いに、喜びの知らせは届いたのです。想像をたくましくするなら、重い病気の人、人々から遠ざけられて暮らしている人々にも、大きな喜びが告げ知らされたのです。中田神父の力は及びませんでしたが、御子を与えてくださった神のいつくしみの手は、及ばない場所などないのです。今この時にも、民全体に与えられる大きな喜びが告げ知らされているのです。

わたしたちのまわりではどうでしょうか「民全体に与えられる大きな喜び」は、隅々にまで届けられているでしょうか。中田神父の力だけではどうしても及ばない場所があります。どうしても把握できない人たちがいます。もし皆さんが、だれか泣いている人、数えてもらっていない人を知っていて、今日のこの喜びを届けに行ってくれたら、2千年前の出来事は、今この時にも実現するのです。皆さんの手を、皆さんの足を、喜びの知らせを届ける手に、届ける足にしてほしいのです。

しかし中には、どう伝えてよいかわからない人もいるかもしれません。そんな方に、一つの道具を紹介します。わたしは必要があって、田平教会でのミサの様子を毎週録音して残しています。わたしが関わっている目の不自由な人にミサの録音を届けるためです。もちろんこの夜半のミサも録音してCDに残しています。もし、伝え方がわからないという人がいれば、今日のこの夜半のミサの録音は役に立つと思います。わたしに声をかけてください。

この世は全領土の住民を把握しようとします。しかし、把握はしても告げ知らせるものは責任と義務です。せいぜいよくて権利です。神は違います。神はご自分の民全体に、救い主がお生まれになったと告げてくださいました。誰も気にかけてくれない人にも、忘れられ、泣いている人にも、大きな喜びを告げてくださいました。

そこでわたしたちも、その知らせを届けるために一役買いましょう。この大きな喜びの知らせが、完全に民全体に届くまで。このミサにあずかれなくても、わたしたちにはあの人が喜びの知らせを届けに来てくれるから大丈夫。そんな、神の望みが隅々にまでいきわたる神の国の完成のときまで。

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‥次の説教は‥‥
主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-18)
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ちょっとひとやすみ
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▼主の降誕おめでとうございます。クリスマスに必ずケーキを買ってくれる人がいた。「いらない」と強がっても、必ず手渡してくれる人だった。今はどこで、わたしがひとりクリスマスの夜を過ごしているのを眺めているのだろうか。
▼決して放ってくれないその人のことを思っているうち、神様こそがそのようなお方なのだなぁと思えてきた。「かまわないでくれ。」悪魔はそう言って、イエスを拒絶した。しかし悪魔にズタズタにされた人を憐れむ神は、決して放ってはおかなかった。
▼旅立ったご婦人を、わたしは今も思い出す。最後に訪問した時、力及ばなくてごめんなさいと、わたしは心の中で泣いていた。どうにかして、クリスマスの日にその人の魂を慰めたいと思った。今はどこかで、救い主がおいでになってくださって、慰めてくれているだろうか。
▼イスラエル巡礼が近づいている。イスラエル巡礼中に何かが変わるということはないのかもしれないが、巡礼から帰ってくると、何かが変わるかもしれない。イエスは歩いて、福音を宣べ伝えた。その大地を歩けば、何かを受け取ってくるのではないかと思っている。
▼準備もあたふたしているが、行った先で誰かと何かを話してみたいと英語をもう一度学んでいる。「聞くだけ」の勉強のような気もするが、それでも5年前、10年前に聞き取れなかった言葉が「あー、そう言っていたのね」と聞き取れている。
▼それに加えてハングルも学び始めている。何せ「インチョン空港」で最初の待ち合わせなので、看板を読み落としてイスラエルに行けなかったらたまったものではない。ハングルは入り口はたやすく入れるが、奥は迷路だ。なかなか「とらえた」というところまでいかない。英語と比べたら触れてきた時間に差があるから仕方がないか。でも楽しい。

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今週の1枚
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第468回目。ハングルはいつもケーキをおごってくれたあの人に習うべきだった。

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待降節第4主日(マタイ1:18-24)神は我々と共におられると声を上げよう

2016-12-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/12/18(No.860)
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待降節第4主日
(マタイ1:18-24)
神は我々と共におられると声を上げよう
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待降節第4主日、ご降誕まで1週間と迫ってきました。ヨセフの取った行動から、これから1週間の過ごし方のヒントをいただくことにしましょう。

皆さんは夢を見ることがあるでしょうか。夢を見た時、夢から何かを感じるでしょうか。わたしは、夢を解いてくれる人がいたらぜひ話を聞いてみたいと思っています。ヨセフは夢を見て、しかも夢の中できちんと解説もしてもらって、目が覚めたらどんな行動を取るべきかを示してもらいました。うらやましいです。

わたしは時々うなされる夢を見ることがあります。しかし、ヨセフのように解説してもらったことがありません。わたしが夢でうなされるのは決まっていくつかの条件に当てはまる時です。一つは、夜中の2時とか3時とか、本当に遅い時間に寝て夢を見ると決まってうなされます。

そしてその夢はさまざまなバリエーションがありますが、どれも同じテーマです。それは「急いでいるのに間に合わない、必死に探すけれども見つからない」この繰り返しです。入祭の歌が流れてきてミサが始まったのに、祭服が見つからずに5分経っても10分経っても入堂できないとか、仲間と旅行に出かけるために空港に来たけれども、いくら探しても航空券が見つからないとか、さまざまなバリエーションで同じテーマの夢を見るのです。これはいったい何を意味しているのでしょうか。主の天使が教えてくれたらいいのになぁと思います。

さてヨセフも夢を見ました。ヨセフは思い悩んでいました。マリアとひそかに縁を切ろうとまで思っていたのです。それはきっと、マリアの心をまだヨセフは知らなかったからです。マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1・38)と答えた女性です。神の望みのままにわが身を差し出す人であると知ることができたなら、あのように思い悩むこともなかったでしょう。

ヨセフは正しい人でした。ヨセフもまた、神の望みのままにわが身を差し出すことのできる人でした。実は二人は一緒になる前から、同じ思い、同じ理想、同じ価値観を持っていたのです。

しかし、当時は結婚するまで一緒になることは考えられない時代だったので、マリアの思いを知ることもできず、一人で思い悩むことになりました。そこへ主の天使が現れて、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と声をかけたのです。マリアの思いも、ヨセフの思いも理解している存在が二人を仲介してくれたのです。

ヨセフは夢の中で、マリアが自分と同じく神の前に正しい人であることを知ります。主の天使のさまざまな説明がヨセフに勇気を与えてくれますが、わたしはマタイ福音記者が証言しているように、「インマヌエル」「神は我々と共におられる」この理解がヨセフを決断させたのではないかと思うのです。

ヨセフもまた、「神は我々と共におられる」と常々信じていたことでしょう。それはマリアも同じ思いでした。人間にすぎない自分たちには理解を超えるけれども、出来事の向こうには「神は我々と共におられる」との神の思いが働いている。そうであるなら受け入れよう。マリアにとっても、ヨセフにとっても、それは同じだったのです。

「それなら、わたしの思いと同じだ。」ヨセフの腹は決まりました。自分も、マリアも、「神は我々と共におられる」と確信している。同じ思い、同じ価値観を持っているのだから、きっとどんな困難も乗り越えていける。主の天使が夢に現れたことで、一人で思い悩んでいたら永遠に解決できなかった疑問が解けたのだと思います。

わたしたちも、ヨセフの取った行動をこの一週間思い巡らしたいのです。神は今、わたしたちに何をしようとしておられるのでしょうか。答えは福音朗読で示されました。「神は我々と共におられる」そのことを証明しようとしておられるのです。

社会はいまだに、正しい人が正しい報いを受けにくい状況にあります。上手に動いた人がいい思いをしたり、裏で不正を行っていても、運よく見つからなかったとか追及されなかったと思い上がっている人がいます。一人思い悩んで泣いている人、正しい訴えが取り上げられずに絶望しかけている人がいる。そんな中で、神は行動を起こしてくださり、「神は我々と共におられる」と声を上げてくださったのです。

そうであれば、眠りから覚めたヨセフが妻マリアを迎え入れたように、わたしたちも行動を起こす必要があります。わたしたちは現代にあって、「神は我々と共におられる」と、声を上げる人なのです。声を上げることが難しいと感じるなら、忠実に教会の務めを果たすことで、「神は我々と共におられます。わたしたちはその神の導きを優先します」と、態度で表しましょう。

キリスト者が一人残らず「神は我々と共におられる」と言葉や態度で証するとき、まもなく与えられる神の御子はわたしたちにとって喜びとなり、勇気と力を得る源となるでしょう。そして、「あなたたちの信じる神は、わたしたちにとっても共にいてくださるでしょうか」と尋ねる人に、自信をもって「そうです」と伝えることができるようになるはずです。

「神は我々と共におられる。」わたしたちは間もなく、幼子イエスを通してそのことを確認します。わたしたちの心に、イエス様をお迎えする部屋を整えて、残りわずかとなった日々を大切に過ごしてまいりましょう。

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‥次の説教は‥‥
主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
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ちょっとひとやすみ
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▼今週の説教でも取り上げたが、夢でうなされた話。ある日結婚のためのカップルにショートメールで勉強の進め方を打ち合わせ。実はあまり勉強が進んでいないため、クリスマスに予定していた洗礼がとても間に合いそうにない。そこで次のような提案をした。
▼「○○さんですか?お勉強なかなか進みませんが、洗礼を受けてから結婚をしたいという願いを何とか叶えたいと思い、結婚式当日に洗礼・堅信を受けて、それから結婚式に望むというのはどうでしょう?」すると勉強がなかなか進んでいないことを当人たちも気にしていたので、「ではその方向でお願いします」ということになった。
▼「よかった。心配事が一つ減った。」それからほかの用事にとりかかった。この日はいつもよりも頑張って、夜中の1時半までパソコンとにらめっこして寝た。この時間に寝たのがまずかった。案の定、夢は毎度のごとく「急いでいるのに探し物が見つからない」「決まっている時間に間に合わない」そういうパターンの、今回まったく新しいバリエーションだった。
▼夢は結婚式。教会はあまり見覚えのない教会。結婚式を引き受けたカップルは、「今日は洗礼式から始まって、結婚式まで引き受けてくださり、感謝します」そう言って目に涙をためている。しかし起きているときに連絡を取ったカップルではなく、よく顔を知っている別のカップルだった。
▼「よくここまで頑張って勉強して準備してきたね。じゃあ式を始めようか。」そう言ってわたしは祭服に着かえるため香部屋に戻る。祭服を着るころには入道の聖歌が流れ始めた。「ここまでは順調」と思ったら儀式書が見つからない。
▼見慣れぬ教会のため、儀式書の場所が分からない。そうこうしているうちに入祭の歌は5番、6番、7番と進み、いつまでたってもわたしは入堂できずにいる。聖歌隊の不安そうな声が聖歌で伝わってくる。「仕方ないから、入堂しよう。」あきらめて入堂してみたが、やはり儀式が始められない。
▼香部屋に戻って儀式書を探したり、ミサ典礼書に結婚の頁があったかもと思って探すが、5分探しても10分探しても見つからない。「結婚式が台無しだぁ~」そう思ったところで目が覚めた。わたしのうなされる夢は、いつも「見つからない、間に合わない。」テーマは同じでも、見る夢は毎回バリエーション豊か。だれか解説を!

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今週の1枚
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第467回目。イスラエル優待体験旅行。これで現実から「ゆうたいりだつ」?

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待降節第3主日(マタイ11:2-11)貧しい人は福音を告げ知らされている

2016-12-11 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/12/11(No.859)
‥‥‥†‥‥‥‥
待降節第3主日
(マタイ11:2-11)
貧しい人は福音を告げ知らされている
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待降節もすでに2週間進み、第3主日を迎えました。救い主を迎える準備を、外面でも、内面でも急ぐことにしましょう。内面的には、ゆるしの秘跡を受けたり、久しく教会に通うことができないでいる人を訪ねたりして、温かい心を自分の中に持つように努めましょう。

先週話したかと思いますが、イスラエル巡礼に行くことにしました。11月締切の申し込みを済ませてから、今か今かと旅行が成立しましたという返事を待っておりました。その返事が金曜日に来まして、5名という実に少人数ですが、7日間聖書の舞台を巡ってきたいと思います。

5人の顔ぶれはちょっとユニークです。カトリックの司祭であるわたしが1人、3人の牧師、それと旅行会社の社長です。ミサはどうなるのか、それだけが心配でしたが、少なくとも主日のミサだけは、山上の説教の教会を押さえていただいているそうです。あとはひょっとすると、宿泊する自分の部屋でミサをささげることになるかもしれません。

旅行会社の野口社長とは、かなり前に知り合いました。島本大司教様が青年たちを巡礼に連れて行きたいと希望されて、その青年の同行司祭として付いて行ったのがきっかけでした。その後わたしの両親に「一度は聖地巡礼に行ってみないか」と勧めて旅費を用意してあげて参加した巡礼でも、野口社長が世話してくれました。これで3度目です。

ミサのことだけが心配と言いましたが、金曜日の電話での返事を聞いてちょっとビビっております。「神父さんは福岡空港から、牧師さんは関西空港から、わたしは成田空港から出発しますから、まずはソウルで落ち合いましょう。ではよろしく」と言われたのです。福岡で落ち合うならまだしも、ソウルで落ち合いましょうと簡単に言われてもなぁと、尻込みしてしまいました。これで英語の勉強に加えて、ハングルの勉強も必要になりました。

福音朗読に入りましょう。「もはや一刻の猶予もない」と群衆に救い主を迎える準備を促した洗礼者ヨハネにとって、キリストが「来るべき方」であるかどうか、何よりも気にしていたことでした。洗礼者ヨハネは許されない結婚を諫めたことでヘロデの怒りを買い、囚われの身となっていました。弟子を通じて、イエスの言葉だけを頼りに、来るべき方であるかどうかを考える必要があったのです。

イエスは遣わされてきた洗礼者ヨハネの弟子たちに、次のように答えました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(11・4-6)

ところで、このイエスの言葉をマタイ福音書から拾っていくと、「目の見えない人のいやし」が9章と20章にあり、「足の不自由な人のいやし」が15章と21章に見られ、「重い皮膚病の人の清め」が8章で取り上げられます。「耳の聞こえない人のいやし」は直接は見つかりませんでしたが、15章ではその他多くの病人がイエスのそばに連れてこられ、彼らをいやしたとあります。「死者の生き返り」については9章の「ヤイロの娘」が当てはまりそうです。つまり、洗礼者ヨハネの弟子たちは、イエスの力あるわざを一度に全部見ていないのかもしれません。

それでも、仮にそのうちの一つを見ただけでも、彼らは洗礼者ヨハネに告げることができたでしょう。「あの方こそ、『来るべき方』です」と。それほど、イエスがおこなっていた力あるわざは、洗礼者ヨハネの弟子たちを納得させる十分な力を持っていたのでした。

21世紀に住むわたしたちはどうでしょうか。「目の見えない人が見えるようになった。足の不自由な人が歩けるようになった。さぁ皆さん、一人残らず教会に来て、イエス・キリストを信じてください。」そういう時代なのでしょうか。残念ながら、そのような呼びかけはできないかもしれません。ではわたしたちには、誰かを教会に招き、神の呼びかけを生きる道しるべにする仲間を増やすきっかけを持たないのでしょうか。

わたしは、奇跡は起こらなくても、教会にはまだ、人々を招き入れるだけの力あるわざを持っていると思っています。「目の見えない人が見える」これは、何も肉体的なことに限りません。

何を判断の基準にすればよいか見えてない人は、もし適切な判断の物差しを与えられたらすべてが新しく見えてくるはずです。教会には、キリストを判断の基準に生きる人たちが集まっています。わたしたちがそれを示すなら、ある人は見えなかったものが見えるようになるのです。

何らかの失敗をして人生に挫折し、一歩も足を前に出せずにいる人がいるかもしれません。そのような人に、イエスはどんな過ちからでも、立ち直るために一緒に歩いてくださる。ゆるしの恵みを与えて、立ち上がって歩き出す力を与えてくださいますよと、わたしたちが導いてあげるなら、一歩を出せなかった人が歩き出すかもしれません。

もはや人生に何の望みもなく、死んだようにしている人もきっといるでしょう。その人たちに、イエスはパンを分け与えてくださいます。死んで復活したキリストを信じてくれるなら、あなたにも復活のキリストがいのちのパンを与えてくださいますよと、導くことができます。すると、文字通り死んでいたようなその人が、生き返るかもしれません。

皆さんの座っている周りを見てください。教会から遠のいて、もはや温める人のいなくなった席が空いていないでしょうか。その席にかつて座っていた人は、教会の敷居が高くなって、あるいは教会に嫌気がさして、来なくなったのでしょうか。そんな人にわたしたちは働きかける責務があります。洗礼者ヨハネの弟子たちに倣って、「田平教会は、福音が告げ知らされているよ」と、知らせに行くべきです。いつ行きますか。今でしょ。

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‥次の説教は‥‥
待降節第4主日
(マタイ1:18-24)
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ちょっとひとやすみ
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▼「ブルータス。お前もか。」司祭館の備え付けとして購入した〇ELL製パソコンが挙動不審な動きをする。しかも高い確率で土曜日にそういうことが起こっている気がする。土曜日は説教案を書いている。本当に腹立たしい。
▼メーカーの問題ではなく、わたしの使い方に問題があるのかもしれない。しかしながら、発生した挙動不審な動きは見逃せない。説教案をきっちり仕上げて、さあ「保存」をしようとしたら、調子悪いですよ~と知らせる「小さな丸い輪」がグルグル回りだし、「応答していません」という様子。
▼しびれを切らして再起動しようとすると、「文書を保存せずに強制終了しますか」と言う。こちらはいくらなんでも自動保存で守られているだろうと思うから「強制終了」を選択し、パソコンは自分の仕事を淡々と続ける。実は説教案を書いている途中に、「アップデートしたので再起動してください」というメッセージが表示されていたのだが、構わず説教案を完成させるのを優先した。するとこの始末である。
▼恐れていたことが起こる。「たまっていたパソコンの更新作業を済ませたので再起動」パソコンが立ち上がり、説教案を開いてみると、まったく何も書かれていないその日の朝7時の状態のファイルが起動した。10時半まで書いた文章はどこに?
▼自動保存のうち、最新のものを開いてみる。すると最後の「言い聞かせ」みたいな部分が抜け落ちている。もう一回書き直せって言っているのか?一度完成させて、「言い聞かせも決まった」と思っているところで、もう一度言い聞かせを書けと?本当に腹立たしい。
▼しかたなく、その最後の4行か5行を書いてみる。「決まった」と思って終わった文章をもう一度書くのは、ヒーローが決めポーズをしたのに「はいもう一度お願いします」と言われているようなものだ。最初はカッコいいなぁと思っていたのに、いまとなってはカッコ悪いとしか思えない。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第466回目。教会に通っている小学生姉妹が2年かけて浜辺のガラスで作った大作

ホームページもご覧ください。
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【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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† 神に感謝 †
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待降節第2主日(マタイ3:1-12)イエスに向き直るかどうか、一刻を争う

2016-12-04 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/12/04(No.858)
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待降節第2主日
(マタイ3:1-12)
イエスに向き直るかどうか、一刻を争う
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待降節第2主日を迎えました。洗礼者ヨハネが登場します。ヨハネは事態が切迫していると感じて人々に悔い改めの洗礼を促しています。事態は一刻を争う。その緊迫した呼びかけに、わたしたちも耳を傾け、必要な行動は何か、考えてみましょう。

かんころもちが浜串教会のご婦人から送ってきました。どんな意味合いのかんころもちか、お分かりでない方もいらっしゃると思いますから、ちょっといきさつをお話しします。11月15日に前任地の浜串教会で教会献堂五十周年記念ミサが行われまして、記念ミサの説教を頼まれて参加してきました。

ミサの時間は午前10時半だったのですが、9時半には浜串教会に入りまして、誰か懐かしい人はいないかと思い、ウロウロしていたわけです。聖堂に入りますと、懐かしいご婦人方がまとまって座っていました。

祭壇から降りて行って近づきますと、その中に司祭館のすぐわきの空き地でよくかんころを作っていた方が見えたのです。「そうか、そろそろかんころを作る時期だなぁ」と思って声をかけようと近づきますと、「神父様はどちらの神父様ですか?」と言うではありませんか。

わたしは声を失いまして、半年前まで浜串にいたのに、「どなたです?」はないだろうと思いました。わたしはこう言いました。「この前までいた中田神父だよ。どなたですかはあんまりだわ。かんころもそろそろ作り始める頃でしょ。田平教会にかんころを2本送ってちょうだい。それで今の無礼は勘弁してやるから(笑)」この一件で、わたしは浜串教会への未練がきれいさっぱりなくなりました。

そのご婦人が、さっそくかんころを送ってくれたわけです。2本ではなくて5本入ってました。すぐにお礼の葉書を書きました。何人かにおすそ分けして、味わって食べております。犬も歩けばかんころに当たる。思い切って言ってみるものだと思いました。

かんころの届いた日からさかのぼって考えてみました。11月15日にかんころ2本で勘弁してやると言ってから、1週間くらいで届いています。芋を洗って、薄皮をむいてスライスし、いったん茹でて干し、日光と寒風にさらし、もう一度蒸して練り上げて成型する。それが1週間で1本ずつ袋詰めされて送られてきました。

おそらくすぐにとりかかって送ってくれたのでしょう。わたしが冗談半分に言ったことでも、ご婦人は一刻を争うと受け止め、行動を起こしたということです。わたしもこのご婦人が一刻を争って仕上げてくれたことをねぎらって、また送ってねと書きました。

福音朗読に戻りましょう。洗礼者ヨハネの活動が取り上げられています。待降節第2主日はいつも洗礼者ヨハネを取り上げますが、マタイ福音書が描く洗礼者ヨハネの活動は、まさに一刻を争うことが強調されています。いくつか言葉を拾ってみましょう。

「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」(3・7)「斧は既に木の根元に置かれている。」(3・10)「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(3・12)厳しい言葉が並んでいます。すぐに結果を出しなさいと、叫んでいるのです。

ではどんな結果を、洗礼者ヨハネは求めているのでしょうか。今週の朗読で具体的な招きをしているのは一つだけです。洗礼です。ルカ福音書が伝える洗礼者ヨハネの活動の場面では、それぞれの人に合った具体的行動が示されていました(「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(ルカ3・11)など)が、マタイはそれらを省略しています。事態は一刻を争うのであり、究極の結果は洗礼を受けることだと言っているのです。

洗礼を受けるとは、生活の物差しを自分に置く生き方から、神が喜ぶかどうかの物差しで生きる人に180度変わりますという意思表示です。神が指し示す方向に今すぐ生き方を変えますという決意の表れです。一つ、神様の喜ぶ生き方を選び、またしばらくしたらもう一つ、ではなく、今すぐに、全面的に向き直るべきだと決断を迫っているのです。

ヨハネが授けた洗礼は、「後から来る方」にすっかり向きを変える心の準備の洗礼でした。「後から来る方」イエスは、「聖霊と火」で洗礼を授け、洗礼を受けた人の生活をすべて、すっかり神の喜ぶ方向に向け直すことを求める方なのです。「後から来る方」イエスを喜んで迎えるために、当時の人々はヨハネから悔い改めの洗礼を受けました。

わたしたちはどうでしょうか。ここにいるほとんどの皆さんはすでに洗礼を受けています。では、洗礼者ヨハネの呼びかけは届いているでしょうか。一刻も早く、自分が中心の生き方からイエスが中心の生き方に向き直って、日々歩いていると言い切れるでしょうか。

どうやったら教会の求めに答え、なおかつ現在の生活も両立できるだろうか。そのような葛藤や悩みを経験しておられるでしょうか。日曜日は部活だから、日曜日も仕事だから、ミサには行かない。ミサにどうやったら行けるだろうかの悩みがない。悩みや葛藤が抜け落ちている。こうした生活は本当に受けた洗礼の恵みに生涯忠実でありたいと願っていることになるでしょうか。

洗礼を受けたことで、その次の秘跡の恵みが開かれます。大人の信者になる堅信、聖体、罪のゆるし、病者の塗油などです。またある人は婚姻の秘跡にあずかり、ある人は叙階の秘跡にあずかります。人生のあらゆる場面を、教会を通して受ける神の恵みに合わせていく。「悔い改めにふさわしい実を結べ」とは、この覚悟を求めているのだと思います。

事態は一刻を争います。気が向いたら聖体拝領します、告白します、暇があれば結婚式を教会でします、ではないのです。今すぐに、わたしはイエスの喜びとなる生活に向き直りますと、ヨハネの招きを自分のものとしましょう。これからご降誕までの日々を、大切に過ごしていけるよう、ミサの中で恵みを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
待降節第3主日
(マタイ11:2-11)
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ちょっとひとやすみ
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▼12月の病人訪問を終えて、何人かの見舞いの時に涙が出た。この人たちはおそらくクリスマスを病院で迎えなければならないのだ。わたしはこれまで決して、そのような状況に置かれたことがなかったので、そこまで深刻に考えなかったが、クリスマスを教会で迎えることができないのは相当に深刻な事態である。
▼もちろん病気や老齢のために教会に行けないのだと割り切ればそれまでだが、置かれている立場の人々の気持ちになってみれば、わたしは申し訳ありませんと言いたい気持ちになった。わたしは皆さんにクリスマスを教会で迎えさせてあげたいけれども、その力がりません。本当に力が及ばず、申し訳ありません。
▼ある人は、定期的な訪問より少し前に、口から食べ物を受けられなくなっていた。わたしはその人に「ごめんね。今日はご聖体を授けてあげられないみたい。それにとても苦しそうだから、念のため病者の塗油を授けておくね」と声をかけて病者の塗油を授けて帰った。
▼きっと、1週間前とかだったら、最後のご聖体を受けることができていたかもしれない。本人も、司祭が目の前にいながら、ご聖体を受けられないのはどれほど悔しいことだろう。そんなことを思いながら病者の塗油を授けていたら、本当に涙があふれてきた。
▼ご降誕の説教のどこかに、そのことを織り込んで説教しようと、その場で決意した。教会に来ることができた人々は、教会に行くことができず悔しい思いをしている人のことを思い出してほしい。知り合いにクリスマスに教会に行けない状態の人がいるなら、クリスマスの喜びを届けに行ってほしい。そのためにわたしができることがあれば、何でも言ってほしい。

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今週の1枚
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第465回目。来年初め、イスラエルで使うつもりで捜し出したが充電作動せず。

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