こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活節第6主日(ヨハネ14:15-21)イエスはすべての人をみなしごにはしておかない

2014-05-25 | Weblog
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/140525.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
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こうじ神父
「今週の説教」
14/05/25(No.711)
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復活節第6主日
(ヨハネ14:15-21)
イエスはすべての人をみなしごにはしておかない
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最近NHKで何度も取り上げられたニュースですが、皆さんは御覧になったでしょうか。認知症で家に帰れなくなった女性が保護され、施設に預けられている様子をNHKの特別番組に取り上げたところ、女性が7年間行方不明になっていた妻だったという話です。

警察や自治体に名前を間違って引き継いだりした不運が重なり、迷子になったその日に保護されていたのに7年も見つけ出すことができませんでした。その間に認知症が進み、7年ぶりに再会したご主人は、厳しい現実と向き合うことになったのでした。

原因は人為的ミスだと思います。それをとやかく言うつもりはありませんが、人の犯したミスで、家族が7年も目の前から消える。情報がこれだけ共有される今の日本でこんなことが起こりうるということに衝撃を受けました。

昨年度の統計によると、平成24年度、認知症やその疑いで行方不明になった人が9600人いて、そのうち350人くらいは亡くなっています。だれにも見つけてもらえずに亡くなっていく人のことを思うと、胸が痛みます。他にも、何年も行方が分からないままの人がいるのだろうと思います。

今週、復活節第6主日に選ばれたヨハネ福音書の朗読で、イエスは弟子たちに「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(14・18)とおっしゃいました。

わたしは、日本で行方不明になる約1万人の方々のことを、重ね合わせて考えました。彼らに、イエスのことばはむなしく聞こえるでしょうか。むしろわたしは、だれにも見つけてもらえずにいる人々にも、「あなたがたをみなしごにはしておかない」とのイエスのことばが届き、そして弁護者、真理の霊が与えられるに違いないと思うのです。

7年間身元が不明だった女性は、NHKの報道によってたくさんの情報が寄せられ、それがきっかけでご主人との再会を果たしました。自分がだれであるかを何も話せない状態になって、NHKが報道したとは言え、見つけてもらえたというのは、やはり「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」このイエスの約束が、社会を動かしたのだと考えています。何も話せない人であっても、御父が遣わしてくださった弁護者が、この人に代わって証言し、守ってくださったのだと思うのです。

わたしたちにみことばを当てはめてみましょう。イエスは、無条件で「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」と約束してくださる方ですが、イエスを信じるわたしたちは、イエスを知らない人以上にみことばを信じて生きる必要があると思います。

つまり、イエスが無条件で「みなしごにはしておかない」と言ったからといって、自分から何も行動しないのではイエスを知らない人と変わらないと思うのです。イエスのみことばに信頼している証しとして、イエスの掟を守って生きることが期待されています。イエスの掟とは、「心を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛する」ということです。

掟を守って生きると、何が明らかになるのでしょうか。イエスを知らない人にも無条件で「みなしごにはしておかない」というのであれば、イエスの掟を守って生きるキリスト者にはなおのことイエスの約束がとどまるということです。

そしてわたしたちの証しを、御父から遣わされる弁護者、真理の霊は支えてくださいます。イエスが示された愛の掟を守って生きるキリスト者が身近な場所で確実に目に留まるようになれば、愛の掟を与えてくれたイエスを知り、イエスにたどり着く人がもっと増えるでしょう。

そのときわたしたちは、「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」このみことばに触れることになります。

愛の掟を守るわたしたちの生き方が、多くの人に知られますように。愛の掟を守るキリスト者の中にイエスがとどまっておられ、聖霊がキリスト者の証しを支えていることを多くの人が認めますように。

イエスは、ご自分を信じる人をみなしごにはしておかず、ご自分を信じる人を通して、イエスを知らない人もみなしごにはしておかないお方なのです。

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‥次の説教は‥‥
主の昇天
(マタイ28:16-20)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年も、国立ハンセン病療養所「菊池恵楓園(きくちけいふうえん)」を訪問する時期がやってきた。この施設で暮らしている方々は、日本の政策によって社会から隔離された生活を強いられてきた人々である。
▼訪問すると決まってこの施設が入所者に対して行った厳しい処置のことが職員によって説明される。規則(入所者を管理するための規則)に反したということで食事を与えなかったり、罰として独房に入れたりしたことを話してくれる。かつて独房に使われた場所も案内してもらう。
▼入所者に対する職員の行動は、間違っていたこともあったと思う。しかし、法律と、それに基づく政策が間違っていたのだから、間違いに気付かなかったかもしれない。隔離するということ自体が間違っているのに、隔離しようと熱心に行動すれば、間違いも起こるに違いない。
▼法律は廃止された。だから施設を出て生活する権利は回復された。けれども施設の外ではまだ十分な理解が得られていないと思う。わたしたちが「これは正しい」と思いこんだことが間違っていた場合、間違いを正すのは容易ではないのである。
▼施設の中に、目の不自由な方々がおられる。この方々とわたしが現在代表を務めている「声の奉仕会マリア文庫」は30年来の関わりを持ってきた。今年もこの方々を訪ねて、一年ぶりの再会を喜び合うつもりである。最後まで施設で暮らすことになる方々と、ぬくもりのある時間を持つ。それがこの訪問の最大の目的である。

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今週の1枚
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第318回目。ネット上で菊池恵楓園の検索をした結果。とても広い敷地です。

ホームページもご覧ください。
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復活節第5主日(ヨハネ14:1-12)聖母からイエスへ、イエスから御父へ

2014-05-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/05/18(No.710)
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復活節第5主日
(ヨハネ14:1-12)
聖母からイエスへ、イエスから御父へ
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浜串教会は本日、岬にある希望の聖母像前からロザリオを唱えながら聖母行列をおこない、聖母月の総仕上げとして聖母をたたえました。わたしたちが今日復活節第5主日の典礼を聖母行列から始めたことは意義深いと思います。今週の福音の学びとして、「聖母からイエスへ、イエスから御父へ」というテーマでまとめたいと思います。

ロザリオの祈りは、皆さんよくご存じのように、「喜びの神秘」「苦しみの神秘」「栄えの神秘」「光の神秘」という各神秘に5つの黙想があり、合計20の黙想をするようになっています。黙想の進め方は、黙想への招きを唱え、続いて主の祈りを1回、アヴェ・マリアの祈りを10回、結びに栄唱を唱えます。

今日は特に、ロザリオの祈りを唱えながら行列を行いました。行列は当てもなく移動しているのではありません。希望の聖母像から、浜串教会聖堂に向かう行列でした。言い換えれば、イエス・キリストの生涯を黙想しながら、聖母マリアからイエスへと向かう歩みだったわけです。

聖母マリアをたたえるロザリオの祈りは、ロザリオの祈りの各神秘に示された招きを考えれば考えるほど、わたしたちの心がイエスに向かうように導かれていきます。なぜ、聖母マリアをたたえる祈りなのに、イエスに導かれていく内容になっているのでしょうか。それは、マリアの生涯がイエスに導かれていく生涯だったからです。

マリアはその生涯を通して、イエスに起こるすべての出来事を心にとめて生きられました。多くの場合、マリアにとって理解するのが難しい出来事の連続でした。それでも、すべてのことを心にとめて、思い巡らしたのです。わたしたちはロザリオの祈りを通して、この聖母マリアに心を合わせるように努めます。するとその行いはそのまま、マリアからイエスに心を合わせることに向かうのです。

ですからわたしたちはロザリオの祈りを唱えるとき、マリアからイエスに心が向かっていきます。マリアの心に、イエスがおられると言ってもよいでしょう。それでわたしたちがマリアに心を合わせるなら、それがそのまま、イエスに心を合わせることになるのです。

聖母行列が、わたしたちに今日の復活節第5主日のイエスのみことばをよりよく黙想する助けを与えてくれます。ロザリオを唱えながらの行列で、マリアに心を合わせるとき、マリアの中にイエスがおられ、わたしたちもマリアを通してイエスに心が向かっていきました。

イエスは「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい」(14・11)と言われました。わたしたちがイエスに心を合わせようと努めるとき、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」とのみことばにたどり着けるのだと思います。その近道が、マリアを通してイエスへという道です。

実際に、マリアの生涯がイエスのみことばの意味を説明しています。マリアはイエスによって、父なる神の人類を救う計画が一つ一つ実現していくのを見ました。マリアはすべてを思い巡らす中で、イエスが「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」その見えるしるしだと悟ったのです。

三年間イエスと共にいる弟子たちには、そこまでの理解はなかったようです。トマスはこう言います。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(ヨハネ14・5)フィリポはこう言います。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」(14・8)。

イエスの答えはこうです。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。」(14・9)3年間イエスと寝食を共にするというのは、相当に長い期間であり、イエスのことを分かってもらえる十分な時間だったのでしょう。

しかし、弟子たちが必ずしもイエスの期待に応えられているとは限りません。三年間寝食を共にしていても、何を見て、何を考えていたか、またイエスが話されたことを一つも聞きもらさずに聞いたかと問われると、だれ一人完全に応えることのできた弟子はいないでしょう。

「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。」弟子たちはイエスの期待するところまでたどり着いていませんが、この弟子たちにイエスはどのように接していかれたのでしょうか。投げやりになったのでしょうか。

むしろイエスは、弟子たちが最後の最後にイエスの期待にたどりつけるように「業」を準備してくださいました。それはイエスの死と復活です。イエスが、人間の救いのためにご自分のいのちさえ投げ出してくださったことで、イエスの内に御父がおられ、イエスは御父の内におられることを弟子たちは信じることができました。

弟子たちの理解は、すべてを心に納めて、思いめぐらしたマリアのように深くはありませんでした。けれども弟子たちも、十字架の場面でさえそばを離れなかったマリアを通してイエスにたどりつき、イエスを通して御父を見ることができました。

弟子たちの道のりは、そのままわたしたちの道のりです。わたしたちも、マリアのようにすべてを心に納めて、思い巡らす境地にはたどり着いていませんし、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」としか言えない信仰者です。

それでも御父はわたしたちに、マリアを通してイエスにたどりつく道を与えてくださいました。またイエスを通して、御父に至る道を与えてくださいました。今日わたしたちは、聖母行列とミサ聖祭を通してその両方を体験しています。

マリアを通してイエスに至る道、イエスを通して御父に至る道を知るわたしたちは、この世にしか歩く価値を見いだせない人々に、救いに至る道があることを知らせましょう。わたしの歩く道を見てくださいと言えるような生き方ができるように、ミサの中で恵みを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ14:15-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼集団的自衛権。限られた情報から考えるのだが、顔を真っ赤にして、どうしてもこの権利を行使したいとおっしゃる総理大臣が理解できない。憲法が「行使できない」と言っているのだから、行使できないまま構わないではないか。
▼そこまでして海外で「やられたらやり返す」姿勢をアピールしたいのか。悪人に手向かってはいけない。一緒になって反撃すれば、きっと誰かが死ぬことになる。人が死ぬかも知れない場面に飛んで行くのは「自衛」ではなくて「戦争」だ。
▼集団的自衛権を行使できるようにしても、行使できると決めた人たちが行使するわけではない。自分が出て行ってでも集団的自衛権を行使したいというのなら、勝手にしてくれたらいい。忘れていないか。実際に出かけて行って命を危険にさらすのは自衛隊だ。
▼記者会見を見た。「これこれの状況下で、自衛隊は何も手を出せないのです。それでいいのでしょうか。」本当に手を出せないのか?武器を持たなければ、自衛隊員は救出に行かないだろうか。武器を持たなくても、厳しい訓練を受けた自衛隊員は何とか救出しようとするのではないか。
▼「戦争はしません。」これも時代が変われば放棄するのだろうか。集団的自衛権は、国内の話ではなく海外に出かけて行って何かをするということだ。戦争はしないと決めた国だ。最後まで戦争まがいのこともしないで欲しい。
▼最後の最後、どうしても集団的自衛権の行使を必要とするなら、正々堂々と憲法を変えればよいではないか。国民を説得すればよいではないか。国民を説得できないのであれば、解釈の変更で集団的自衛権の行使を正当づけても、どのみち国民はついてこない。


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今週の1枚
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第317回目。可能であれば、聖母行列の様子。無理なら、飾られた聖母像。

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復活節第4主日(ヨハネ10:1-10)イエスの声に聞き従う信徒に育つために

2014-05-11 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/05/11(No.709)
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復活節第4主日
(ヨハネ10:1-10)
イエスの声に聞き従う信徒に育つために
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復活節第4主日の福音朗読個所から、「羊は羊飼いの声を聞き分け、羊飼いについて行く」とまとめたいと思います。また、今週の福音朗読を補強するために、直前のヨハネ福音書第9章「生まれつき目の不自由な人のいやし」の物語にも触れたいと思います。

教区代表者会議の第一会期に参加してきました。わたしは会議の書記として呼ばれていたので、会議で発言することはありませんでしたが、会議の流れを見守っておりました。真剣な討議がなされまして、これからあと3回、同じように会議を積み重ねていくことになります。

教区代表者会議の雰囲気を味わってきて、この会議がそもそもどんな会議だったのかを理解しました。この会議は、長崎教区が直面している危機感・停滞感を共有し、今手を打たないと手遅れになる問題点を見つけ出し、大司教に提言して「参加し・交わり・宣教する」長崎教区へ真の生まれ変わりを目指すものです。それは同時に、信徒発見から150年目を迎える来年に向けて、長崎教区が再出発をするふさわしい準備にもなる。わたしはそう理解しました。

この教区代表者会議に先立って、中央委員会が教区民へのアンケートを通してまとめた12の提言案が、「カトリック教報5月号」に掲載されています。この提言案については教区シノドスの代表者だけでなく、教区民皆が、目を通して問題点を共有してほしいと思います。

多方面にわたって問題点が指摘されているのですが、それらすべてに共通するのは、「今手を打たないと、手遅れになる問題だ」ということです。そしてわたしは、12の提言案を突き詰めると、「イエス・キリストの呼びかけを自分のこととして受け止め、生活にあてはめることのできる神の民になること」これが長崎教区民すべてに求められている「今手を打たなければ、手遅れになる」問題ではないかなと思っています。

福音朗読に入りたいと思います。朗読の前半部分は、ファリサイ派の人々に話されたのですが、彼らはその話が何のことか分からなかったとあります。ファリサイ派の人々は律法の教師として、指導的立場にありました。ところが、イエスによると彼らは偽善者であり、民衆を父なる神のもとへ正しく導いてなかったのです。

イエスは民を父なる神のもとへ導くまことの羊飼いとして現れ、彼らがよりたやすく聞き従うことができるように、模範を示し、先頭に立って歩かれます。

偽善者とまことの羊飼いとの違いは明らかで、民はイエスの声を聞き分け、ついて行きました。ファリサイ派の人々は自分たちがよもや盗人や強盗、偽の羊飼い扱いされる存在だとは理解できなかったのです。

「羊は羊飼いの声を聞き分ける」(10・3参照)とあるのですが、それは具体的にはどのような姿を表しているのでしょうか。この説明のために、直前のヨハネ福音書第9章の物語が役に立ちます。そこでは生まれつき目の不自由な人がイエスによっていやされました。そこへ事情を把握しようとファリサイ派の人々が来て、「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか」(9・17)と追及します。それに対して彼は「あの方は預言者です」と言いました。

さらに「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(9・33)ときっぱり答えるのです。いやされたこの人は、自分を父である神のもとへ導くまことの羊飼いはイエスであると理解し、その声を聞き分け、従う人になっていました。

ファリサイ派の人々は、目が見えるようになった人の毅然とした態度に逆上します。「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」(9・34)と言い返し、彼を外に追い出しました。

「外に追い出した」とは、単に家の外に出したということだけでなく、共同体からの追放、日本語で言う「村八分」を意味していました。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのです。

そんな圧力を受けても、いやされた人は屈することなく、イエスの声に聞き従う道を選んだのでした。この、第9章で描かれた生まれつき目の不自由な人のいやしを前置きして考えると、今週の朗読個所の第10章は生き生きと読み取れると思います。

「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」(10・3-5)

羊が、まことの羊飼いの声を知っているという姿は、もう少し踏み込んで考えてよいかもしれません。イエスは、ご自分の命をパンとして割いてお与えになり、羊を養います。羊は、羊飼いであるイエスが十字架上で命をささげ、復活して豊かに命を与えることを知っています。知っているだけではなく、まことの羊飼いイエスを愛しているのです。

わたしたちも、イエスの招きを自分のこととして受け止めましょう。生まれつき目の不自由な人がいやされて、「あの方は神から来られた方です」ときっぱり答え、イエスの声に聞き従うことを表明しました。当時の雰囲気は、イエスを信じる者は村八分になることも覚悟しなければならなかったのです。そんな圧力にも屈せず、イエスを信じることに意味と価値を見出していると言い切りました。

わたしたちは、いやされたあの人と同じ信仰を言い表すことができるでしょうか。5月の連休から始まった「教区代表者会議」は、まさにこのような司祭・修道者・信徒が育たなければ、手遅れになると感じて、代表者を集めたのでした。

「羊はその声を聞き分ける」「羊はその声を知っているので、ついて行く」わたしたちはイエスの呼びかけを、自分への呼びかけと受け止め、生活の中でどのように当てはめたらよいか考えようとしているでしょうか。そのような司祭・修道者・信徒が長崎教区に育ってきたとき、代表者会議はその役割を終えるのだと思います。

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‥次の説教は‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ14:1-12)
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ちょっとひとやすみ
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▼今NHK総合で広島カープ対中日ドラゴンズの試合が放送されている。NHKなのでコマーシャルも入らず、試合が終わるまでいつまででも放送すると思うが、中継を見てすぐわかるのは、「球場が真っ赤だ」ということだ。
▼幸いに、ファンである広島カープが7回の時点で9対4でリードしている。貧打に毎年泣かされているチームが、今年はまるでどこかの金万球団のような打力である。こういう試合を中継されると、見に行きたくなる。
▼今すぐ飛んでいきたいが、残念ながらここは長崎県の五島列島、長崎本土であれば車を飛ばしていくこともできるかもしれないが、それすら叶わない離島である。せめてテレビにかじりついて、試合を見守るしかない。
▼外国人助っ人のエルドレッドが別人のように打てるようになった。去年は大型扇風機、ブンブン音が聞こえてきそうな空振りの多い選手だったが、今年は違う。打ってくれそうな雰囲気があるし、実際にチャンスでホームランという最高の結果で応えてくれている。
▼いろいろ専門家の解説があるが、内角が打てるようになったのが最大のポイントだと思う。自分も内角の球は大好きなので、今年はエルドレッドの打撃フォームをじっくり観察して、秋の司祭団ソフトボール大会に活かしたいものだ。
▼あとは、多くの選手が若手で、怖いもの知らず。わたしのように50歳を目の前にしている者にとっては、親子ほど離れている選手たちだ。まさかこんな印象を野球選手に持つ日がやってくるとは思ってもみなかった。
▼今年も、何とかしてマツダスタジアムに真っ赤な景色を見に行きたい。去年初めて行ったとき、身震いするほどワクワクしたことが忘れられない。ここにやっと来ることができたという実感が、全身を駆け巡ったのだ。
▼今年こそ。23年ぶりの今年こそ。夢は日本シリーズ。日程が決まったらチケットを手に入れよう。そして、自分の中に流れている赤い血をたぎらせよう。

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今週の1枚
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第316回目。つい調子に乗って、カープのショップでiPhoneカバーを買った。

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復活節第3主日(ルカ24:13-35)エマオに向かう弟子たちの体験を積ませてください

2014-05-04 | Weblog
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復活節第3主日
(ルカ24:13-35)
エマオに向かう弟子たちの体験を積ませてください
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復活節第3主日は、復活したイエスがエマオで現れる場面です。二人の目が開け、イエスだと分かった様子から、「復活したイエスは今も、わたしたちの目を開き、わたしたちを宣教へ駆り立てておられる」とまとめたいと思います。

復活祭を無事に終え、浜串のお父さんの手ほどきで生まれて初めてルアーフィッシングに行きました。正直な話「釣れるの?」と疑ってかかっていたのです。一緒に連れて行ってもらった日、大きなアコウを釣って帰りました。

それでも、「先生の手ほどきがあったから釣れたのだ」と、なかなかルアー釣りそのものを信用できなかったのです。そこであらためて、連れて行ってもらったおおよその場所に一人で行ってみました。辛抱して続けていたら最初の魚が掛かりました。そして、ついに50cmを超える鯛が掛かりまして、この釣り方は可能性があると実感しました。何回か続けてみようと思います。

さて、人間だれしも、何かで迷ったり自信をなくしたりすると、自分を取り戻す場所を訪ねるものです。わたしは釣りに行って、やることなすこと結果につながらないと、とっておきの場所に行ってみます。するとそこで何かを思い出して、自信を取り戻したりするわけです。

皆さんも、自分を取り戻すその人なりの場所があると思います。うまくいっていたことがうまくいかなくなったときに、もう一度自分を見つめ直す場所です。自分の今を作り上げてくれた場所、そういう場所は、困難に直面するたびに力になってくれるのだと思います。

今週の福音で登場する2人の弟子たちも、自信を失ってエルサレムからエマオに向かっている途中でした。イエスが12人の弟子たちと宣教している姿に強く惹かれ、この2人もイエスの弟子であることを自負していたはずです。しかし、イエスが十字架にはりつけにされ、みじめと思える最期を遂げたとき、かれらはもはやエルサレムにとどまる理由がなくなり、都を後にしたのでした。

そんな2人にイエスが現れ、彼らと共に歩き始めます。共に歩いておられるのに、彼らにはそれがイエスだとは分かりませんでした。彼らの目は遮られていました。イエスはかまわず彼らと共に歩き、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(24・27)のです。

2人の弟子たちは、知らず知らずのうちにイエスによって導かれていたのです。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」(24・32)彼らの心を燃やし、心の目を開いてくださった目の前の人が復活したイエスだと分かったのは、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(24・30)その時でした。

この2人の弟子たちとイエスとの一連のやり取り、整理すると何かに気づくかもしれません。そのためにも、まず一連のやり取りを整理してみましょう。中心にあるのは2つのことです。エマオに向かう弟子たちに復活したイエスが現れ、まず聖書を説明し始めます。それからパンを取り、賛美の祈りを唱え、割いて弟子たちに与えました。すると、復活したイエスだと気づいたわけです。

この一連の流れに、皆さん何か気づかないでしょうか。イエスが聖書を説明し、賛美の祈りを唱えてパンを割いて与えてもらう。実はこの体験、わたしたちはすでに味わっているのではないでしょうか。

そうです。わたしたちが今集まっているミサ聖祭は、イエスが聖書を説明してくださり、パンを割いてわたしたちに与えてくださる出来事の再現なのです。あの、気を落としながらエマオに向かっていた弟子たちが一日かけて体験したことを、ミサ聖祭の約一時間の中で、典礼という形でわたしたちは体験しているのです。

エマオに向かう弟子たちが体験したことは復活したイエスに出会っただけでは終わりません。イエスの姿はもはや見えなくなりましたが、彼らは時を移さず出発して、エルサレムに戻りました。聖書を説明してくださり、パンを割いて与えてくださる復活したイエスを体験した彼らは、自分たちが体験したことを喜んで告げ知らせる人に変えられたのです。

実は、わたしたちがあずかっているミサ聖祭も、わたしたちを変える力を持っています。みことばの朗読と聖体のうちにおられる復活したイエスは、わたしたちの食べ物となってくださり、わたしたちを復活のイエスの証人に作り変えるのです。

ミサ聖祭にあずかるたびに、わたしたちはエマオに向かう弟子たちの体験を積み重ねます。イエスがみことばを説明し、ご自分を食べ物として割いて与えてくださり、わたしたちの目が開かれて、喜んで復活したイエスを証言する。この一連の出来事を繰り返し体験するのです。

最後に、エマオに向かう弟子たちのすばらしい体験を、今まさに長崎教区全体が必要としています。来年の信徒発見150周年記念に合わせて、本日から3日間、教区代表者会議の第一会期が開催されます。

長崎教区が教区民一丸となって「参加し・交わり・宣教する」共同体となれるよう、教区長が効果的な方針を立てるための提言をまとめようとしているのです。実効性のある提言を示すために、選ばれた50人くらいの代表者がこの3日間力を注ぎます。

この3日間にも、イエスが聖書を説明してくださり、ご自身をパンとして割いてお与えくださり、行動する人に作り変えてくださるようにと願っています。わたしも、福見のミサを終えたらすぐ鯛ノ浦から長崎に渡り、代表者の意見の書記を務めることになっています。

信徒の皆さん。皆さんも「教区代表者会議・会期中の祈り」を唱えて、この集まりが意味のあるものなるようお祈りください。長崎教区の方向性がしっかり定まるように、恵みを願うことにいたしましょう。

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‥次の説教は‥‥
復活節第4主日
(ヨハネ10:1-10)
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ちょっとひとやすみ
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▼先週なぜかアメリカ大統領を「クリントン」と書いていた。相当疲れがたまっているのだろう。本日4日からの教区代表者会議(教区シノドス)書記に選ばれたので、まずは務めを果たすために出張する。そのついでにリフレッシュの時間を取ろうと思う。
▼先週、本来何を書こうとしたかをやっと思い出した。「あーこれだった」と思い出した時に、「これは、忘れるかもね」と、自分なりに納得した。携帯電話各社が、絵文字を統一する方向で動いているそうである。これは素晴らしい協力体制だと思う。
▼わたし自身がすでに経験している例を挙げると、ある人から届くメールで「了解しました[絵文字]」のメールが来ているようなのだが、そのメールはわたしのキャリアでは「了解しました[警官]」と変換される。手袋をした警官が敬礼をしている絵文字は表示されない。
▼ほかにも、「おいしそうです[絵文字]」というメールをもらったが、それはうまく絵文字に表現されず、「おいしそうです?」と変換されていた。わたしの「初鯛ラバ釣果」に賛辞をいただいた時のものだが、「おいしそうに見えませんけど、おいしいのですか?」みたいな意味でこちらには届いたのである。
▼賛辞を送ったつもりが、誤変換のためにとんだ勘違いをきたすところだった。こうしたことを踏まえて、このたび絵文字が統一化する試みを歓迎する。意思疎通にかかわることだから、もっと早く取り組んでもよかったはずだが。
▼聖ヨハネ二十三世教皇、聖ヨハネ・パウロ二世教皇の名が教会の歴史に刻まれることになった。詳細はカトリック新聞などで報道されると思うが、既にメディアでも取り上げられ、話題になっている。きっと誰か、洗礼の霊名に希望する人が現れるだろう。現代の教皇が聖人になる。これは、現代が聖人を必要としている時代であることの「しるし」なのだと思う。

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今週の1枚
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第315回目。釣り名人の手ほどきを受けたあと、一人で釣行。鯛ラバ恐るべし。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

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