こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第14主日(マルコ6:1-6)恵みの豊かさで驚きを与え続けてください

2024-07-06 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/7/7(No.1304)
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年間第14主日(マルコ6:1-6)
恵みの豊かさで驚きを与え続けてください
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主任司祭と助祭の霊名のお祝いを用意してくださり、感謝申し上げます。私たちの霊名のお祝いは、「皆さんもどうぞ、それぞれの霊名をお祝いしてください」という「しるし」と考えてください。

そう言っても「誕生日すら家庭で祝えないのに、霊名のお祝いなど考えたことがない」そんな家庭もあるでしょう。それでもあえて、考えてくださいと呼びかけたいと思います。誕生日は、人として歩み始めた日を思い出すことができます。霊名の日は、「神の子どもとして」歩み始めたことを思い出すことができます。

もちろん、二つ祝うのは大変かもしれません。どちらか祝って二つとも思い出してはいかがでしょうか。冷めた見方をすれば、司祭たちの霊名の祝いは「あんな司祭が福江教会にいたなぁ」と思い出すきっかけかも知れません。霊名の日を思うためなら、理由は何でも構いません。

切実な理由で誕生日を祝えない方々もいます。この前指摘を受けました。現代では経済的な理由もあって記念日を祝えないのだと。今日、司祭と助祭のお祝いのために、小教区で予算を組んでもらっています。ありがたいことです。ただ、「祝う」「喜び合う」ということを突き詰めたら、お金をかけないで祝う、喜び合うこともできるはずです。

いちばんお金をかけないで、誕生日と霊名のお祝いを祝う方法を教えましょう。その日にミサに行くことです。ミサに行って、誕生日・霊名の日の祝福を神様に願う。早起きさえすれば、お金はかかりません。ぜひお勧めします。洗礼を受けて神様の子どもとしていただいた場所に行く。誕生日にもミサに行く。これは最高の祝い方だと思います。

洗礼の恵み、結婚の恵み、さまざまな召命の恵み。教会を通して神様からいただいたものがあります。それらが自分にとってどんな意味があるのか、答えが与えられるまで考える人であってほしいです。福音朗読ではイエスが故郷の会堂で教えておられます。当時は旧約聖書が神から与えられた賜物でした。イエスは聖書について、律法について、深く教えてくださっていたでしょう。

もっと言うと、イエスご自身が、当時の人々に与えられた神からの賜物でした。イエスは身をもって、そのことを教えようとしました。しかし故郷の人々は、自分たちがすでに知っていることの中に、神から与えられた賜物であるイエスを押し込めて理解しようとしたのです。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」(6・3)

「この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」(6・2)郷里の人々は答えが与えられるまで思い巡らし、深く掘り下げるべきでしたが、そこまでの忍耐心も、イエスへの敬意も持っていませんでした。今風に言えば、郷里の人々はイエスを「上から目線」で見ていたので、正しく理解できなかったのです。

私の身近な先輩に、「自分は奇跡を信じている。私自身司祭になれたことが、イエス様の奇跡だ」と言う方がいます。言いにくいことですが、中田神父はこの先輩のことを上から目線で見ていました。奇跡は、上から目線でしか見ていなかった私にではなく、誰よりも苦労したこの先輩の上に起こったのでした。

私と、この先輩はいろんな地区で一緒に働きました。神学生の時だけでなく、どの地区に行っても苦労させられていました。誰よりも苦労したので、受けた恵みを誰よりも思い巡らし、掘り下げてきたと思います。ですから、みずからの上に起こった驚くべきわざを、誰よりも感謝できるのだと思います。

今になって私は、この先輩を上から目線で見ていたことがとんでもない間違いであったこと、そのためにどれだけ私自身成長するチャンスを無駄にしてきたかを思い知らされています。

しかし時間は残されています。私たちが神からいただいた恵みがどんなにすばらしいものであるか、考える時間はあります。この恵みが与えられていなかったら私はどうなっていただろうか。私たちはどうなっていただろうか。考える時間はあると思うのです。

神のわざを、自分たちがすでに知っていることの中に押し込めようとしたら、恵みの豊かさを台無しにしてしまいます。「十分に知っている。少なくともここにいる誰よりも知っている」そう思った瞬間に、私たちは神の恵みの豊かさを台無しにするのです。

神はいつも、その時代の人々を通して恵みの豊かさを証明してくださいます。今日も、恵みの豊かさを示して私たちに驚きを与えてください。ミサの中でこのように祈ってまいりましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第15主日(マルコ6:7-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼長崎教区内の女子修道会が協力して「祈りの集い」というのがおこなわれている。単に「祈りましょう」というのではなく、「祈りかた」から始まり、共に祈ってくれる「同伴」のお世話も受ける。そういった内容のようである。長崎教区内の各地区を巡回しているが、今月下五島地区で開催され、福江教会が会場となっている。
▼「そういった内容のようである」と言ったのは、古い育てられかたで司祭になった中田神父はこの祈りの集いに付いて行けていない。「霊的同伴」という言葉を一度も聞かずに神学校を卒業して今に至っているので、「同伴」と聞いただけで「最新式」「自分には関係ない」と思ってしまう。
▼神の働きの豊かさは、いつの時代にも証明される。理解が追い付いていないのであれば、「霊的指導を言い換えただけだろ」と、霊的同伴のあり方を形の合わない箱に押し込もうとするのだけはやめよう。

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今週の1枚
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第911回目。チャンスは私の髪ほど薄いが、霊名のお祝いの様子があれば。

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† 神に感謝 †
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