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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/160424.mp3
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こうじ神父
「今週の説教」
16/04/24(No.825)
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復活節第5主日
(ヨハネ13:31-33a,34-35)
今や人の子は栄光を受けた
‥‥‥†‥‥‥‥
「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」(13・31)事実はこれとは正反対の出来事が起ころうとしているのに、イエスはあえて「栄光を受ける時が来た」と言われました。イエスの心の内を、探ってみることにしましょう。
日曜日のミサに用いる「聖書と典礼」を大きなものに取り換えることにしました。典礼委員会の話し合いに出席したとき、「通常の大きさの聖書と典礼は、人によっては文字が小さくて使われていない節がある」と報告を受けました。聞けば、聖書朗読の分だけ大型版が用意されていて、会衆の皆さんはすべて通常版だったそうです。
150部も購入し続けていたのに、文字が小さいからという理由で最初から敬遠されていたとしたら、実にもったいない話です。そこで、大きいものならばきっと手に取ってくれるだろうと思いまして、主任司祭の一存ですべて大型版に切り替えることにしました。
知っておいてほしいことがあります。費用の出どころです。クイズを出しましょう。「聖書と典礼」の費用は、どこから捻出されているでしょうか。次の3つから選んでください。(1)皆さんの日曜日のミサの賽銭から(2)皆さんの日曜日のミサの賽銭から(3)皆さんの日曜日のミサの賽銭から。どれだと思いますか?
(しばらくして)皆さん正解です。問題はここからです。大型版は便利ですが、通常版の聖書と典礼と、大型版の値段が同じわけではない。慎み深い中田神父はこれ以上言えません。中田神父が言えるのはここまでが限界です。あとは皆さんが考えてください。
福音朗読に戻りましょう。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」(13・31)実際の場面はユダが最後の晩さんの席から出て行ったあとにこう言われたのでした。つまりイエスは、ユダが手引きした人たちによって捕らえられ、十字架上での最期を遂げるとはっきり覚悟して、「今や、人の子は栄光を受けた」と言われたのです。なぜ、裏切られ、苦しみを受けることになるのに「栄光を受けた」と言うことができるのでしょうか。
ここでも、次の3つから選んでください。(1)イエスは御父の望みを完全に果たすことを「栄光」と考えていたから(2)イエスは御父の望みを完全に果たすことを「栄光」と考えていたから(3)イエスは御父の望みを完全に果たすことを「栄光」と考えていたから。何番だと思いますか?
まぁ何番でもいいのですが、イエスはどのような運命をたどるにせよ、御父の望みを完全に果たすことを「栄光」と受けとめていたのです。たとえそれが、人類の救いのために十字架上で命をささげてほしいという願いであっても、御父の望みであれば完全に果たそうと受け入れてくださったのです。イエスの完全な奉献は確かに御父にとって栄光であり、御父は御子イエスに栄光をお与えになりました。
またイエスはこうも言われました。「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」(13・32)目の前で、ユダが席を立って出て行ったのです。それでも、御父は御子に「すぐに」栄光をお与えになるというのです。
これはわたしたちにも何かを考えさせます。父なる神は、ご自分の栄光をすぐにお与えになるお方です。決して遅らせることはないお方です。わたしたちはそれを、どれくらい確信を持っているでしょうか。
誰かにお願いごとを持って行ったら、冷たくあしらわれ、断られた。心を込めて奉仕しているのに、感謝の言葉一つもかけられなかった。許しがたい状況や、裏切られた気分になることは日常あちこちで見られることでしょう。
しかし、御父はすぐに栄光を与えてくださるというのです。ということは、わたしたちは御子イエス・キリストと同じように、すぐに栄光を与えてもらっているのではないでしょうか。たとえ、親切を無にされたとしても、それは御父がわたしたちに冷たい仕打ちをしているのではなくて、すでに栄光の始まりなのではないでしょうか。
イエス・キリストはユダが晩さんの席を立って出て行った時すでに栄光を受けたとおっしゃっています。わたしたちもそうなのではないでしょうか。わたしたちの隣人愛が無駄に終わったと感じるとき、それはすでに神の栄光を映し出しているのです。神は返ってこなかった隣人愛の報いに代えて、ご自身の栄光を与えてくれるのです。ですから何も心配することはないのです。
御父は御子イエス・キリストにすぐに栄光を与えてくださったように、わたしたちにも栄光を与えてくださるのだと思います。あとはわたしたちの生き方が問題です。わたしたちは毎日の生活で、御父の栄光を映す鏡として生きているのですが、わたしという鏡は、御父の栄光を曇りなく映す鏡になっているでしょうか。報われなかったから、裏切られたからと言って不平不満に陥り、御父の栄光を映すはずのわたしの心は曇り、輝きを失っているのではないでしょうか。
「わたしは今、御父の栄光を受けた。」毎日の生活で、このように神に感謝できる人は幸いです。それは華々しい栄光ばかりではありません。裏切ろうとしているユダが晩さんの席を立ち、出て行ったように、信じていた人に裏切られ、惨めな思いをする形かも知れません。それでもわたしたちは、御父がすぐに栄光を与えてくださる方であると信じ、「わたしは今、御父の栄光を受けた」と声を上げたいのです。
生活のすべてに、父なる神は栄光を与えることがおできになります。「こんな思いまでしなければならないのか。」もしもそのような体験をされたのでしたら、「わたしは御父から栄光を受けた」と胸を張って答えましょう。こうしてわたしたちの信仰は灼熱の火で精錬され、清められるのだと思います。
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‥次の説教は‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ14:23-29)
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ちょっとひとやすみ
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▼教会学校小学1年生の代用教員として土曜日午後1時半の要理を受け持った。はじまりは一週間前で、保育園に務めるシスターが「たびら春祭り」に太鼓の演奏を保育園から出すということで、午後からの教会学校と重なり、要理はどうしましょうかと相談されたのがきっかけだ。
▼「ピンチヒッターしてもかまわないよ。」二つ返事で受けた。シスターは大喜びだ。いよいよ当日になってみると、雨が降り、太鼓の皮が痛むので演奏は中止になるらしかった。ただし「神父さま、きっと子供たちのけいこはしたいでしょ?わたしは今日は予定通りお休みさせていただきます」とちゃっかりけいこは回ってきた。
▼引っ越すと必ず体験することが3つあって、1つは町内放送がまだ慣れないせいか聞き取れないこと。2つめが個人で引いている固定電話に間違い電話がかかってくること。3つめが寝坊して迷惑をかけることだが、1つめと2つめはちゃんと経験したが、3つめはないなと高をくくっていた。なぜなら今回赴任した教会には巡回教会がなく、寝坊してもほぼ被害がないからだ。
▼ところがそこが落とし穴だった。今週の説教と午前中格闘して昼食後、ウトウトしてきたのでつい居眠りをしてしまった。気が付いたら午後1時35分ではないか。慌てて信徒会館に行ってみると、代用教員のルーズさに呆れ果てた小学1年生が玄関で待ち構えていた。
▼「はやく~。」遅れたことを咎めることもなく、快く迎えてくれた子供たちに救われた。予定していたことをこなしたが45分の持ち時間のうち15分で終わってしまい、もしも時間が余ったらと思って用意していた「聖書かるた」を目一杯やって、こちらがメインのような感じになってしまった。
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新企画今週の1枚
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第432回目。24年前の叙階式カードを配ろうとして全然足りなかったのでコピー。
ホームページもご覧ください。
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【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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こうじ神父
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16/04/24(No.825)
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復活節第5主日
(ヨハネ13:31-33a,34-35)
今や人の子は栄光を受けた
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「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」(13・31)事実はこれとは正反対の出来事が起ころうとしているのに、イエスはあえて「栄光を受ける時が来た」と言われました。イエスの心の内を、探ってみることにしましょう。
日曜日のミサに用いる「聖書と典礼」を大きなものに取り換えることにしました。典礼委員会の話し合いに出席したとき、「通常の大きさの聖書と典礼は、人によっては文字が小さくて使われていない節がある」と報告を受けました。聞けば、聖書朗読の分だけ大型版が用意されていて、会衆の皆さんはすべて通常版だったそうです。
150部も購入し続けていたのに、文字が小さいからという理由で最初から敬遠されていたとしたら、実にもったいない話です。そこで、大きいものならばきっと手に取ってくれるだろうと思いまして、主任司祭の一存ですべて大型版に切り替えることにしました。
知っておいてほしいことがあります。費用の出どころです。クイズを出しましょう。「聖書と典礼」の費用は、どこから捻出されているでしょうか。次の3つから選んでください。(1)皆さんの日曜日のミサの賽銭から(2)皆さんの日曜日のミサの賽銭から(3)皆さんの日曜日のミサの賽銭から。どれだと思いますか?
(しばらくして)皆さん正解です。問題はここからです。大型版は便利ですが、通常版の聖書と典礼と、大型版の値段が同じわけではない。慎み深い中田神父はこれ以上言えません。中田神父が言えるのはここまでが限界です。あとは皆さんが考えてください。
福音朗読に戻りましょう。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」(13・31)実際の場面はユダが最後の晩さんの席から出て行ったあとにこう言われたのでした。つまりイエスは、ユダが手引きした人たちによって捕らえられ、十字架上での最期を遂げるとはっきり覚悟して、「今や、人の子は栄光を受けた」と言われたのです。なぜ、裏切られ、苦しみを受けることになるのに「栄光を受けた」と言うことができるのでしょうか。
ここでも、次の3つから選んでください。(1)イエスは御父の望みを完全に果たすことを「栄光」と考えていたから(2)イエスは御父の望みを完全に果たすことを「栄光」と考えていたから(3)イエスは御父の望みを完全に果たすことを「栄光」と考えていたから。何番だと思いますか?
まぁ何番でもいいのですが、イエスはどのような運命をたどるにせよ、御父の望みを完全に果たすことを「栄光」と受けとめていたのです。たとえそれが、人類の救いのために十字架上で命をささげてほしいという願いであっても、御父の望みであれば完全に果たそうと受け入れてくださったのです。イエスの完全な奉献は確かに御父にとって栄光であり、御父は御子イエスに栄光をお与えになりました。
またイエスはこうも言われました。「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」(13・32)目の前で、ユダが席を立って出て行ったのです。それでも、御父は御子に「すぐに」栄光をお与えになるというのです。
これはわたしたちにも何かを考えさせます。父なる神は、ご自分の栄光をすぐにお与えになるお方です。決して遅らせることはないお方です。わたしたちはそれを、どれくらい確信を持っているでしょうか。
誰かにお願いごとを持って行ったら、冷たくあしらわれ、断られた。心を込めて奉仕しているのに、感謝の言葉一つもかけられなかった。許しがたい状況や、裏切られた気分になることは日常あちこちで見られることでしょう。
しかし、御父はすぐに栄光を与えてくださるというのです。ということは、わたしたちは御子イエス・キリストと同じように、すぐに栄光を与えてもらっているのではないでしょうか。たとえ、親切を無にされたとしても、それは御父がわたしたちに冷たい仕打ちをしているのではなくて、すでに栄光の始まりなのではないでしょうか。
イエス・キリストはユダが晩さんの席を立って出て行った時すでに栄光を受けたとおっしゃっています。わたしたちもそうなのではないでしょうか。わたしたちの隣人愛が無駄に終わったと感じるとき、それはすでに神の栄光を映し出しているのです。神は返ってこなかった隣人愛の報いに代えて、ご自身の栄光を与えてくれるのです。ですから何も心配することはないのです。
御父は御子イエス・キリストにすぐに栄光を与えてくださったように、わたしたちにも栄光を与えてくださるのだと思います。あとはわたしたちの生き方が問題です。わたしたちは毎日の生活で、御父の栄光を映す鏡として生きているのですが、わたしという鏡は、御父の栄光を曇りなく映す鏡になっているでしょうか。報われなかったから、裏切られたからと言って不平不満に陥り、御父の栄光を映すはずのわたしの心は曇り、輝きを失っているのではないでしょうか。
「わたしは今、御父の栄光を受けた。」毎日の生活で、このように神に感謝できる人は幸いです。それは華々しい栄光ばかりではありません。裏切ろうとしているユダが晩さんの席を立ち、出て行ったように、信じていた人に裏切られ、惨めな思いをする形かも知れません。それでもわたしたちは、御父がすぐに栄光を与えてくださる方であると信じ、「わたしは今、御父の栄光を受けた」と声を上げたいのです。
生活のすべてに、父なる神は栄光を与えることがおできになります。「こんな思いまでしなければならないのか。」もしもそのような体験をされたのでしたら、「わたしは御父から栄光を受けた」と胸を張って答えましょう。こうしてわたしたちの信仰は灼熱の火で精錬され、清められるのだと思います。
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‥次の説教は‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ14:23-29)
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ちょっとひとやすみ
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▼教会学校小学1年生の代用教員として土曜日午後1時半の要理を受け持った。はじまりは一週間前で、保育園に務めるシスターが「たびら春祭り」に太鼓の演奏を保育園から出すということで、午後からの教会学校と重なり、要理はどうしましょうかと相談されたのがきっかけだ。
▼「ピンチヒッターしてもかまわないよ。」二つ返事で受けた。シスターは大喜びだ。いよいよ当日になってみると、雨が降り、太鼓の皮が痛むので演奏は中止になるらしかった。ただし「神父さま、きっと子供たちのけいこはしたいでしょ?わたしは今日は予定通りお休みさせていただきます」とちゃっかりけいこは回ってきた。
▼引っ越すと必ず体験することが3つあって、1つは町内放送がまだ慣れないせいか聞き取れないこと。2つめが個人で引いている固定電話に間違い電話がかかってくること。3つめが寝坊して迷惑をかけることだが、1つめと2つめはちゃんと経験したが、3つめはないなと高をくくっていた。なぜなら今回赴任した教会には巡回教会がなく、寝坊してもほぼ被害がないからだ。
▼ところがそこが落とし穴だった。今週の説教と午前中格闘して昼食後、ウトウトしてきたのでつい居眠りをしてしまった。気が付いたら午後1時35分ではないか。慌てて信徒会館に行ってみると、代用教員のルーズさに呆れ果てた小学1年生が玄関で待ち構えていた。
▼「はやく~。」遅れたことを咎めることもなく、快く迎えてくれた子供たちに救われた。予定していたことをこなしたが45分の持ち時間のうち15分で終わってしまい、もしも時間が余ったらと思って用意していた「聖書かるた」を目一杯やって、こちらがメインのような感じになってしまった。
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第432回目。24年前の叙階式カードを配ろうとして全然足りなかったのでコピー。
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文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †