こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

主の降誕(日中)(マタイ23:1-12)その光は、すべての人を照らす

2005-12-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
05/12/25(No.216)
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主の降誕(日中)
(マタイ23:1-12)
その光は、すべての人を照らす
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今日は、お手元の「聖書と典礼」に「主の降誕(日中のミサ)」と書かれているこのことから話を始めたいと思います。主の降誕のミサは、「夜半のミサ」「早朝のミサ」「日中のミサ」この三つのミサが典礼上用意されています。福音朗読はそれぞれ、夜半のミサでは天使による救い主誕生の知らせ、早朝のミサでは馬小屋を訪れる羊飼い、そして今祝っている日中のミサでは人と成った言(ことば)について選ばれます。
歴史的に見ると、クリスマスは救い主が現れたという意味では来年1月8日の「主の公現」と同じ目的で祝われているのだそうです。この点については、今日の聖書と典礼の7頁に御降誕と御公現との密接な関係について詳しく説明されています(来年1月8日の「主の公現」の祝日に述べたいと思います)。そこで救い主が現れたということを今日の朗読から読み取り、あらためて主の降誕を喜び合いたいと思います。
今日の朗読で救い主が現れたということを表す箇所がいくつかあります。「言は、自分の民のところへ来た」「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」などははっきりしています。今日、中田神父は今挙げた箇所と違う箇所を取り上げます。それは、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」という箇所です。
人と成ったことばは世を照らす真理の光であるというのですが、はっきりとこの箇所の意味をつかむためには、「光」についてよく理解しておくとよいと思います。光と言っても、特別なものではなく、私たちがふだん目にしている光の特徴をつかむということです。
私たちはふだん「光」を特別に意識してはいません。私たちは光を直接見ないからです。部屋で明かりをつけたとき、私たちは明かりを見続けているわけではありません。今日はいい天気だなあと思うとき、太陽を直接見て言っているのではないのです。
それなのに、光の大切さは疑いようがありません。光がなければ、物を見分けたり景色を眺めたりすることはできないのです。一般に「見える」と言うときは、光のおかげですべてが見えているのです。光がなければ、目がどんなに優れていても何も見えません。真っ暗闇の中で、私たちは物を見分けることはできないのです。
こうしてみると、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」という言葉の意味が重みを持ってきます。「その光」とは、お生まれになった幼子イエスのことであり、この幼子イエスはすべての人を照らすのです。
すべての人を照らすとはどういうことでしょうか?私たちの中には、病気その他の事情で視力を失ってしまう人がいます。生まれたときから物を見ることができないで大人になった人もいるでしょう。ついこの前も、お子さんと思われる人がお母さんの手を引いて店の中を案内して周り、手に触った物を一つひとつ説明している場面に行き当たりました。きっとその子供は視力を失った母親にとって光であり、母親の心を照らすのだと思います。
そのように、イエスは光としておいでになりました。そしてすべての人を照らします。視力を失った人も、心を閉ざして暗闇を抱えている人も、イエスは光としてその人々を照らすのです。すべての人を照らすのですから、私たちはこのキリストに信頼を寄せて、私の光となって、毎日の暮らしを照らしてください、決してなくならない光として、私の心にとどまってくださいと願いましょう。
すべての人を照らす方がお生まれになりました。この方に私のすべてを委ねるなら、いつも照らしを受けることができます。その喜びを、次はあなたがだれかに伝えて欲しいと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼今のところ説教案にはある神父様が発行している定期刊行物を参考にしている。これまでは日曜日の朗読箇所を解説していたのだが、この待降節からは毎日の朗読箇所(今年は福音朗読)を発行してくださっているのだが、そのバイタリティーには恐れ入る。
▼こうじ神父も毎日のミサでちょこちょこっと説教をしているけれども、話をするだけというのと文字に残すというのとではその労力に雲泥の差がある。毎日休まずに解説が届く、こんな贅沢な話はないが、そのために骨折ってくださる神父様には心から感謝したい。
▼クリスマスプレゼントがあちこちから届いた。一つひとつ品物や名前を挙げることはできないが、感謝申し上げます。今、この時に、送り届けたクリスマスプレゼントのことを思っているのでしょうか。それとも、受け取った私のことを考えているのでしょうか。
▼たまには、実家に帰ってみようかなあと思っています。いくらなんでも、留守しすぎですから。確かに忙しいのは事実だけども、生きているのか死んでいるのかくらいは報告しなければ親不孝というものだろう。また少し、両親は歳を取っているのだろうか。


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こうじ神父絵手紙
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第5回目。昨日の下書きに色を付けてみました。昨日のほうが良かったりして。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
神の母聖マリア
(マタイ25:1-13)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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主の降誕(夜半)(マタイ23:1-12)さあ皆で拝みに行こう

2005-12-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
05/12/24(No.215)
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主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
さあ皆で拝みに行こう
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主の降誕、おめでとうございます。ものすごく寒い中で今年はこの喜びの日を迎えました。12月22日は交通船の最終便が欠航になったとは知らず、最終便の10分前に大波止ターミナルに着いてみるとそこには誰もいませんで、ただ一人床にワックスを掛けている男性が、「お客さん。残念だけど最終便は欠航になったんですよ」と教えてくれました。

伊王島までは船が出てくれるものと思っておりましたが、その日は仕方なく宿を探しました。帰ってからでも今日の説教をいくらかでも進めようと思っておりましたので、宿に着いてからも伊王島であれば使えるはずの資料や道具がないためにたいへん歯がゆい思いをしました。

いくら頭で思い巡らしても、やはり自分の机に戻らなければ、自分の部屋にたどり着かなければ実際の説教は準備できません。クリスマスの最後の最後まで、早く明日になって欲しい、早く一番船に乗りたいという「待ち望む」経験をさせてもらいました。

さて、今日この夜は、私たち皆が待ちに待った喜びの日です。待降節の始めから祈りと犠牲をもって準備を続けてきた人もいるでしょうし、もしかするとあまり準備らしい準備もせずに今日ここに集まっている人もいるかも知れません。それでも、ここに集まって主の降誕を祝っていることは紛れもない事実です。共に、今日を無事に迎えることができたことを喜び合いたいと思います。

福音朗読に移っていきましょう。今日の朗読は大きく二つに分けることができます。前半は、救い主がお生まれになったという事実を淡々と伝える部分です。登場する人物の間で会話が交わされることもありません。出来事が歴史的な事実であることを当時の時代背景を織り交ぜながら証言しているわけです。

後半部分は、救い主誕生に合わせて神の救いの計画が大きく動き出したことを語ろうとしています。主の天使が現れ、羊飼いたちに救い主を拝みに行くように促します。また天の大軍が加わって神への賛美がこだまします。いよいよ救いの計画は目に見える形で大きく動き出したのです。その知らせを受けて、人はそれぞれ態度を決めなければならないのです。

救いの計画が大きく動き出したのですから、私たちがしなければならないことは一つ、「救い主を拝みに行く」ということです。ただ単に興味や関心を持つだけではなく、出かけていって、直接飼い葉桶に寝ている乳飲み子を拝みに行くことです。今は、具体的な行動が求められているのです。

そう考えるとき、今日この時間に馬小屋の前に集まっていない人がいるとすれば、それはいったいどういうことでしょうか?少なくとも、今日の夜半のミサは晩の7時と晩の9時を組んでいるわけですが、そのいずれにも参加していない人がいるとすれば、それをどう説明するというのでしょうか?救い主を拝みに行くこと以上に大切なことが、今日この日に発生するのでしょうか?私には考えられません。

中田神父は健康上の理由で来ることのできない人のことを言っているのではありません。中田神父でも熱があって布団から起きられなかったら、ミサを捧げることはできません。そのような場合を言っているのではないのです。

行かないといけないけどなあ、と思いつつ来ない人。なぜ年に一度のこの大きな出来事をその目で確かめようとしないのですか。イエスはすべての人の救いのためにこの世にお生まれになったのです。すべての人とは誰のことでしょうか。教会から遠ざかって、今さら行きたくても行けないよなあと思っている人のためにも、救い主はお生まれになったのではないのですか?

私ははっきり言いたいと思います。自分は神さまから遠い遠い場所で生活してきた。だから今さら神さまに近づくわけにはいかない。果たしてそうでしょうか?そんなあなたのために、神さまが自らこの地上においで下さった、神さまのほうから近づいてきてくださったのではないのですか。すべての人の救いのために、諦めかけている人、投げやりになっている人をも救うために、この地上に降りてこられたのではないでしょうか。

今、すべての人のためにお生まれになった救い主を私たちは囲んでいます。「すべての人のため」という言葉が、私をのけ者にはしていないことも確かめました。どうか、すべてを迎え入れてくださる救い主の姿を、目に焼き付けて欲しいと思います。

もしも、仮にここに集っていない人を知っていたら、明日の朝にもう一度チャンスがあります。その人を連れてきてください。その人にも、あなたを救うために救い主がお生まれになったことを知らせてください。

すべての人の救いのためにおいでになった方を私たちが遠慮して知らせないとすれば、私たちは責任を問われることになるでしょう。あの人も信者なんだけどなあ、そういう人を知りながら知らせなかったとすれば、私たちはイエスがすべての人の救い主であることを認めていないことになるのです。その人に知らせないでよいというのであれば、救い主はある限られた人のための救い主ということにならないでしょうか?

布にくるまれただけの幼子は、いっさいの壁や敷居を置かずに私たちを迎えてくださることの明らかなしるしです。私を丸ごと受け入れてくださる幼子イエスに、うやうやしくひざまづき、どうか私の心にお住みになってくださいと申し出ましょう。救い主は、今日この日から、あなたの心を住まいとして使ってくださいます。


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ちょっとひとやすみ
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▼子どもの頃クリスマスには母親が必ずケーキを買って準備してくれていた。必ず買ってきてくれると思っていたけれども、「今年ケーキ買ってくるかなあ」と思って楽しみにしていたのが懐かしい。今でも親はありがたいもので、おとといだったか餅を送ってくれた。クリスマスのためじゃなくて、正月のためだなこりゃ。
▼女神大橋が毎晩ライトアップされて目に映るようになった。長崎においで、と言っているようで複雑な気持ちになるが、せっかくだから風の弱い日に渡ってみたい。何せこうじ神父は高所恐怖症。プールで競泳スタイルで水に入ることすらできない。ましてや高飛び込みなどもってのほかである。
▼橋は遠くから眺めるものと決めてかかっている。橋が架かっても船が存続するなら、こうじ神父は橋は使わない。実際は使うけれども、それでも船のほうに未練がある。第一橋が折れたらひとたまりもないけれども、船が沈没するとしてもある程度の時間があるはずだ。いろんな口実を言って、橋は嫌いなのである。
▼それでも、橋の計り知れない恩恵をこうじ神父は認めていないわけではない。郷里の小教区にかつて船で渡っていた(と聞いている)巡回教会があった。わずか数百メートルの幅、それでも橋はずっと架からなかった。ところがその島に空港がやってきて、道路と橋が整備された。空港はぱっとしないようだが、あの橋のない日常は考えられない。橋と母ちゃんは偉いのだ。


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こうじ神父絵手紙
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第4回目。明日の下書きを載せれば2度おいしい。メリークリスマス!

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
主の降誕(日中)
(マタイ25:1-13)
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待降節第4主日(マタイ23:1-12)神にできないことは何一つない

2005-12-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
05/12/18(No.214)
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待降節第4主日
(マタイ23:1-12)
神にできないことは何一つない
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私たち人間は、経験で物事を判断します。経験したことのないものについては、言葉で説明されてもなかなか理解できません。たとえば、イエスが大勢の群衆を前にして「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」と仰った山上の説教について、実体験のない私はなかなかその感動をつかむことができなかったのですが、2000年にイスラエル巡礼の体験をさせてもらったおかげで、あーこの場所で幸いについての説教が響き渡ったのだなと実感できました。

大勢の群衆が集まったであろうその小高い丘、なだらかな斜面、また丘の上に立てられた教会。これらはやはり現地を訪ねてみて初めて理解できるというものです。日本にいて、例えば5000人くらいの人が集まる場所で説教するという体験があれば話は別ですが、なかなか当時の山上の説教を思い描くことはできないわけです。

主の降誕を一週間後に控えている今週、マリアに救い主誕生の予告が告げられました。天使が告げる言葉のほとんどが、マリアにとっては未体験の出来事でしたので、理解できずに戸惑ったのも無理はありません。そのマリアが、天使とのやりとりの最後には受け入れて喜びを表現するようになります。経験していない出来事を受け入れ、喜びのうちに待つマリアの姿から、私たちも残り一週間となった今週を豊かに過ごすヒントを得たいと思います。

繰り返しますが、人間は経験していないことをあーそうですかと納得できる存在ではありません。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」そう言われてもマリアは簡単には受け入れられなかったに違いありません。自分が恵みに満たされていること、主がそばにいてくださることを天使に伝えられて、なるほどその通りだとさすがのマリアでもすぐには考えることはできなかったのだと思います。

さらに驚きは続きます。この後の天使の言葉は思い浮かべることすら難しいのでした。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

特に来週のクリスマスとの兼ね合いで取り上げるとすれば、「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」と天使は告げるのですが、実際には当時のユダヤの国はローマに支配されていて、ヘロデという恐ろしい王が権力をふるっていたのでした。その現実の中で、マリアはどうして天使の告げる言葉を全面的に受け入れることができるようになったのでしょうか。

私は、天使が語った最後の言葉にすべてを受け入れる鍵があると思います。それは、「神にできないことは何一つない」という言葉です。微妙な意味合いをくみ取って欲しいのですが、「神にできないことはない」ということすらも未体験の出来事ではあったのですが、この一点に限っては、体験していなくても完全に同意できたので、天使がマリアに告げた数々のメッセージをすべて受け入れ、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言えたのではないでしょうか。

つまりこういうことです。人間は体験していないことはそう易々と受け入れることはできないのですが、「神にできないことは何一つない」というこの一点だけは、神を信じているのであれば受け入れることができる、ということなのです。体験したことのないことでそれでも受け入れることができるものが人間に一つあるとすれば、それは「神にできないことは何一つない」ということ、これだけなのです。

それでも問題は解決していないように思えます。「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」さきに述べたように、ユダヤの国は支配を受け続けて当時の姿になっていたわけですから、マリアは「神にできないことは何一つない」と確信できたとしてもどのようにして王としての支配がすべての民に及ぶのか理解できなかっただろうと思います。それは、生まれてくるイエス様を通してしか理解できない出来事だったのです。

ただ、私たちは聖書を通して出来事を見通すことができます。新たに生まれる王の支配は力で押さえつけるものではありません。新しい王の支配は、神が望むことをすべての人に行き渡らせることです。すべての人が神の望みのもとに置かれることが、新しい形の支配なのです。その理想は力によっては実現しません。柔和と謙遜な態度でしかなしえないことなのです。そのために救い主は幼子の姿で、豪華な宮殿にではなく貧しい家畜小屋でお生まれになり、最後は十字架の死によってすべてを完成されたのです。

ここで私たちも、マリアの態度に目を向ける必要があります。マリアは、体験のないことであっても、「神にできないことは何一つない」という天使の言葉は完全に受け入れました。受け入れるためには、神にすべてを委ね、心を開く必要があります。「神にできないことは何一つない」と思ったとしても、もし少しでも疑いが生じるなら、「それなのにわたしの悩みを取り除くことはできないのではないか」とか「わたしは神から見放されているのではないか」と考えてしまうのです。マリアがお手本を示したように、神にすべてを委ね、心を開く必要があります。

また、マリアが信じた「終わりなき神の支配」は、マリアが宿すことになる救い主キリストを通して実現します。私たちもまた、来週お迎えする救い主、幼子イエスを心から待ち望んで、「終わりなき神の支配」がイエスを通して始まるのだということをこの一週間思い巡らしたいものです。力による支配ではなく、柔和と謙遜な態度で成し遂げる神の支配に、私たちも協力したいという気持ちをこの一週間育てていくことにいたしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼決して止まらない列車のことを皆さんは何と呼ぶだろうか?私は「暴走列車」と呼びたい。「ノンストップ列車」は最後に必ず止まるが、「暴走列車」はそうではない。さらに「ノンストップ列車」には常識ある運転手が乗っていることが期待できるが「暴走列車」にそれは期待できない。
▼なぜ安全なはずの列車が暴走列車になるのか?どこかでゆるめてはならないネジをゆるめたり、「これくらいは問題にならないだろう」と小さな問題を見過ごしてそれが致命的な原因となったり、しばしばたった一人の人間のいい加減さでダメになる。
▼暴走の原因が上司の落ち度である場合は大変なことになる。それを諫めるのは部下の務めだが、大きな困難を伴う。上司に意見するよりも、被害が小さいことを願って指をくわえていることもあり得る。悲劇的な状況である。だがそれはカトリック教会の中でも起こりうる。
▼危険を感じたら、すぐに止めることだ。危険をかわそうとかよけようというのはもってのほかである。暴走する列車は原因を作った人間がいるがたいていの場合それを止める知識や経験を持った人間もいる。被害が出る前に何としても止めなければならない。だれかが、あらゆる手段を講じて。


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こうじ神父絵手紙
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第3回目。12月11日、日本で6番目、世界で17番目という長さの女神大橋が開通。

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‥次の説教は‥‥
主の降誕(夜半)
(マタイ25:1-13)
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待降節第3主日(マタイ23:1-12)キリスト者はキリストを証しします

2005-12-11 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
05/12/11(No.213)
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待降節第3主日
(マタイ23:1-12)
キリスト者はキリストを証しします
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だれにでも一番最初の時の出来事、一番目の思い出のようなものを一つや二つは持っているのではないかなと思いますが、中田神父が神父として思い出す第一番目というと、秘跡を授けた中での思い出ということになります。いくつかの秘跡、婚姻の秘跡とか病者の塗油の秘跡とか、初めての方のことは今でも思い出します。

もちろん今はそんな思い出を話す場ではないのですが、堅信式についてはちょっとだけ話してみたいと思います。普通堅信式は司教様が授けることになっていますが、場合によっては司祭も堅信を授けることがあります。例えば、定期的な堅信式が三年に一回行われる教会にあって、たまたま三年に一度の堅信式が終わって間もない頃に洗礼を受ける大人の方の場合、その後堅信式までがずいぶん間が長くなるわけです。そういう場合に、司祭は状況に応じて、堅信を授けることになります。

中田神父にも、そのような場面が回ってきまして、復活徹夜祭に洗礼を授けるのと同時に堅信の秘跡を授けたのでした。その時を振り返ると、司教様が通常授ける秘跡を引き受けたわけですから、緊張もしましたし、責任も感じました。思い出に残る式になって欲しいという思いと、これから立派に信者としての道を歩んで欲しいという願いを強く持ちました。

さて、洗礼を授けてキリスト信者になる、堅信を授けて自立した大人として信仰の道を歩み始める。これはイエス様が残してくださった秘跡の恵みにさかのぼるわけですが、中田神父が授けた第一号ではなくて、洗礼の秘跡を受けた第一号はいったい誰なのでしょうか?イエス様は弟子たちに、「父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けなさい」(マタイ28:19参照)と使命を与え、弟子たちは確かに洗礼を授けたわけですが、第一号はいったい誰だったのでしょうか?

この点については誰も分からないとしか言いようがないと思います。中田神父がささやかな喜びとして大切にしている「最初に秘跡を授けた相手」といったようなことは、弟子たちにはまったく興味がなかったのでしょう。圧倒的な勢いで福音を告げ知らせ、洗礼を授けて回ったのでしょうから、誰が第一号かは大した意味もなかったのかも知れません。

それでも、最初のキリスト信者という足跡は、初代教会の中では意味のあることだったようです。あの人この人が第一番目だったというような記録は聖書に残りませんでしたが、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったことについては、使徒言行録の中にはっきりと書き残されました。それはアンティオキアの教会のことで、バルナバやサウロといった弟子たちがこのアンティオキアで初めてキリスト者と呼ばれるようになったということです(11章26節)。

洗礼を受けた第一号は誰だったのか分かりませんが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのがアンティオキアで奉仕していた弟子たちであることは分かりました。それでは初めてのキリスト者は誰だったのでしょうか?アンティオキアの教会で奉仕していた弟子たちは初めてそう呼ばれるようになった方々ですが、この弟子が初めてのキリスト者であるわけではありません。初めてのキリスト者は、洗礼の秘跡が定められる前に、また初代の教会が産声を上げる前に、初めてキリストを信じて人生を歩き始めた人であるはずです。どこまでさかのぼることが出来るでしょうか。

私は、今日の福音に登場する洗礼者ヨハネが、さかのぼることの出来る最初のキリスト者ではないだろうかと思いました。毎週の日曜日の説教を準備するときの資料にしている雨宮神父様の福音朗読解説にそのことがはっきり指摘されているのですが(「洗礼者ヨハネは、ヨハネ福音書にとって、確かに『最初のキリスト者』だと言えます」ゼーヘル第619号)、洗礼者ヨハネが最初のキリスト者であるとすれば、洗礼者ヨハネの中に、私たちがキリスト者であるための大切なお手本を学ぶことが出来るのではないでしょうか。

今日の福音朗読に描かれた洗礼者ヨハネからキリスト者の姿を見いだすとすれば、それは繰り返し繰り返し使われている言葉「証しをする」この点に尽きると思います。洗礼者ヨハネはまだキリストを見ていませんでしたが、来るべきお方をすでに信じていました。信じて、その方を証ししていたのです。このことから、証しをすることがキリスト者のキリスト者たるゆえんであるということになります。

では、私たちはどうでしょうか。私たちにとっても、キリスト者と呼ばれるための理由は洗礼者ヨハネと同じ「証しをすること」だと思います。なぜなら、私たちはキリストと生活を共にしたわけでもないし、イエスさまのなさったしるしや話した言葉を直接聞いて信じたわけでもないからです。それでも私たちがキリスト者であるとはっきり言えるのは、教会に集まり耳で聞いて知ったことや先輩が私たちに伝えたことが真実であると証しをし続けるからなのです。

では実際に、証しをする機会が、暮らしの中に組み込まれているでしょうか?私たちがこの時期に証しをすることは、もうすぐおいでになる救い主を迎える準備にもなります。一人ひとり暮らしの中で、ちゃんと証しを立てているか、生活を見直してみたらよいと思います。キリストを信じているというしるしは、私の生活のどこに見えるでしょうか。

身近なところで考えてみましょう。私たちは教会の内と外でクリスマスの飾り付けを行います。教会でクリスマスの飾り付けをすることは、私たちがキリストを信じ、救い主を待っていることの証しになります。商店街のクリスマス飾り付けとは明らかに違います。商店街にはサンタクロースのまがい物はいても、幼子イエスの像は見つかりません。聖家族の飾り付けもありません。クリスマスがどんな日かも知らずにはしゃいでいる人に対して、私たちの飾り付けの準備は証しになり、証しをすることで私たちはキリスト者であると言えるのです。

中には家庭でクリスマスの飾り付けをしている方もいらっしゃるかも知れません。佐世保市のとある小教区では、教会とその周辺の信徒の家庭で盛大にクリスマスの飾り付けを行って、見る人を引きつけています。紹介している小教区は教会周辺の地域全体がカトリック信者の家庭で、全体が一つの飾り付けのように見えるのでそれはそれは見応えのある飾り付けです。ただ単に飾り付けを競い合っているのではありません。自分たちがクリスマスの意味を知った上で救い主の誕生を喜び迎えている、その証しになっているわけです。

準備は何も飾り付けだけではありません。聖歌隊の皆さんは、クリスマスのミサに向けて聖歌の練習を続けています。今日初めて皆さんにお知らせしますが、24日の夜のミサに入る直前に、小学生で劇をします。この日に向けて、教会学校の時間に今一生懸命練習しています。いろんな準備の積み重ねで、私たちはキリストを待ち望むキリスト者であることを証ししていきましょう。

洗礼者ヨハネは、証しすることでご自身が救い主キリストを信じるキリスト者であることを人々に示しました。私たちも、何もしないでクリスマスを迎えるのではなく、キリストを証しすることで自分がキリスト者であることを人々に示してクリスマスまでの日々を過ごしていきましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼とあるカトリックカレンダーを小教区で大量に購入した。最初から大量に購入したわけではなく、始めは50冊限定で先に取り寄せたものを配布したところ、50冊ではまったく足りなくて追加注文をして大量購入となった。合計142冊。
▼何が弾みになったかというと、8月に馬込教会の写真を使用しているのだが、この写真に収まっている「教会以外のもの」がどうやら人気になったらしい。「あー、うちの家が写っている。買わなきゃ」「あー、うちの船が写っている。買おうかしら」
▼中にはこんな方も。「隣の船は船名がはっきり出ているのに、お父さんが物を干したままにしていたから、船名が写ってないんだわ。惜しいことしたなあ。でも買っておこう」物事は思いがけないことが引き金になる場合がある。出版社はそこのところをくすぐるように写真撮影をなさるとよいのではないだろうか。
▼ひとりで5冊買い求めた人は、どのようにそれを使うのだろうか。想像するに、子どもたちに配るのではないかと思う。子どもに配ってふるさとを忘れないように無言のメッセージなのかも知れない。そのような親の姿を見ていて、こうじ神父のふるさとには子どもたちに発信する何事かがあるだろうかと、ふと思った。


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こうじ神父絵手紙
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第2回目。葉っぱが落ちて、「おっ、絵手紙が落ちてきた」と思う私は何者?

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‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
待降節第4主日
(マタイ25:1-13)
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待降節第2主日(マルコ1:1-8)悔い改めは希望に満ちた歩みなのです

2005-12-04 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
05/12/04(No.212)
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待降節第2主日
(マルコ1:1-8)
悔い改めは希望に満ちた歩みなのです
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かつて私が福岡の大神学校にいた頃の先輩に、「ダジャレ四天王」と呼ばれる先輩がおりまして、食事の席や会話の中でダジャレを連発する先輩がおりました。今も四人の名前を覚えておりますが、ここで名前を言うのは控えたいと思います。

この四名のうちおそらくいちばんの先輩が仰ったのだと思いますが、たとえば黙想会のことを、「モク吸おう会」と呼んでおりました。「モク」とはタバコのことでして、大神学校の黙想会中はすべての場所で沈黙を守らなければなりませんでしたので、ダジャレも言うことができず、この先輩にとっては黙ってタバコを吸う期間なのだと大まじめに言っておりました。

あるいは聖書のたとえで、主人が僕に財産を預けて旅に出るたとえがありますが、預けるお金の単位は「タラントン」という単位です。これを、「脳みそが足りない」「『足らんと』のたとえ」とこじつけまして、「ある人は5足らんと、ある人は2足らんと、ある人は1足らんとやったけれども足りないなりに努力して主人の期待に応えた」とそう説明なさったのでした。

ほかにもまだたくさんの言い伝えがあるのですが、今週の福音、待降節第2主日にぴったりの話を紹介したいと思います。今週待降節第2主日は、洗礼者ヨハネが現れて人々に悔い改めを説き、救い主の準備を促すという朗読が選ばれます。ちなみにこの待降節第2主日は必ず洗礼者ヨハネにまつわる朗読です。覚えておいて損はありません。

洗礼者ヨハネが登場する待降節第2主日の中心テーマは「悔い改め」ですが、ダジャレ四天王の先輩は、「くいあらためは楽しか~」というのです。まじめな皆さんには想像もつかない解釈だと思いますが、どうして「くいあらため」は楽しいのでしょうか。

種明かしをしたいと思います。この先輩の仰る「くいあらため」とは、「もう一度食べる」「何度も食べ直す」ということをダジャレで「食い改める」と仰っているわけです。決まった時間の食事はちゃんと食べて、例えば結婚式にお呼ばれしてもう一度食事が出た。食べないわけにはいかないからと言って、喜んで食べる。次に夕ご飯を食べた後にどこかのお通夜の席に出てみると、その土地の習慣に従って参加した人に食事が振る舞われた。またそこでも食べる。そうして一日に四回も五回も食べ直しをした日を「今日は食い改めばいっぱいした~」と、そう仰っていたのでした。

本当の悔い改めになるかどうかは疑問ですが、一つ面白いなあと思ったのは、一見して楽しいものではない務めを、思いもかけないことに結びつけて楽しくさせてくれる才能には感心しました。当のご本人は「さっき食べてきたばっかりでも初めて食べるかのようにおいしそうに食べるのは大変な犠牲がいるのだ」と大まじめに言うのかも知れませんが、悔い改めを消極的に捉えるのではなくて積極的に捉える心を学ぶ気持ちになりました。

さて、本来の「悔い改めの精神」とはどのようなものでしょうか。食べ改めほど楽しくて仕方のないものではないかも知れませんが、案外、私たちの頭の中にある「苦行や犠牲で暗い顔つきになっている様子」そんな思い込みとは似てもにつかないものが、本来の「悔い改め」なのではないかなあと思っております。

悔い改めの精神を探るために、ルカが描く洗礼者ヨハネの活動を重ね合わせて考えてみましょう。今日のマルコ福音書には詳しく描かれていませんが、ルカ福音書では悔い改めを訴えかける洗礼者ヨハネに、「わたしたちはどうすればよいのですか」と民衆が質問している様子が描かれています。それに対して洗礼者ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」「規定以上のものは取り立てるな」「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言っています。

確かに多少の節制や犠牲を伴いますが、ヨハネは民衆にご自分が実践していた荒れ野での生活を求めたわけではありませんでした。もし荒れ野での生活を同じようにしなさいと要求したのであれば、民衆にとって悔い改めとは悲しいもの、苦しいものと映ったことでしょう。ですが洗礼者ヨハネの具体的な勧めは、何か違った願いが込められていたように思います。それは、誰もが希望を持って来たるべき救い主を待ち望むことができるように、おのおの努力しなさいということです。

本来、悔い改めとは、自分の罪を認めて神にゆるしを願うことです。それが、罪を認めている証しとして私の努力を示して神にゆるしを願うのであれば、相当の犠牲や苦行をしなければならないということになるでしょう。ところが人間の悔い改めを受け入れて神がゆるしてくださるというのは神の恵みによることなのですから、悔い改めは正しくは希望に満ちた歩みなのです。

私に罪があることを認めて、神の恵みに自分を委ねること。私だけにとどまらず、周りの人にも神に自分を委ねることができるように手助けしてあげること。この道のりが、悔い改めの道であり、救い主へに心を開くという悔い改めの積極的な面を理解する道のりでもあるのです。

自分を神さまにお委ねすると言っても、それは何か形にしなければなりません。いちばん分かりやすいのは日曜日のミサに参加することでしょう。それは、悔い改めのしるし、人間が神に頼らなければ正しく生きていくことはできないとはっきり理解するきっかけになります。ミサに続けて参加する人は、救い主キリストにたえず心を開こうとしている人ですから、積極的な悔い改めを実行している人です。反対に、ミサにさっぱり来ない、申し訳程度に年に一度教会の隅に座っているという人は、神により頼んで生きようとしない人ですから、悔い改めの精神を理解しない人なのです。

私たちは、自分の弱さを認めて神にゆるしを願う、神に自分を委ねることが悔い改めだと知っているのですから、これからも続けてミサに参加しましょう。もっと大胆に言うなら、私たちはミサに参加して聖体を拝領するのですから、聖体をいただくたびに自分を改める、聖体を「食い改めて」新たにされていくのだと覚えたいと思います。

もしも、教会に来ていない人の中に、教会に来ることのできない妨げがあって、私たちが手を貸してあげれば取り除けることがあるかも知れません。このクリスマスに向けて、さらに私たちといっしょに神に自分を委ねる人、悔い改める人が増えるように、自分に近い人々にも心を配っていきましょう。悔い改めは個人個人だけの問題ではなくて、教会全体の問題でもあるのですから。


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ちょっとひとやすみ
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▼こうじ神父が利用させてもらっていたウェブログの発行スタンドがサービスを中止した。通告のようなものもなかったような気がするが、今になってどうこう言っても仕方がない。簡単なのはこうじ神父自身も「ブログの利用を中止する」ことだったが、今まであった物がなくなるとブーブー文句を言う人がいるのが世の常である。
▼文句を言う人がいるからというわけではないが、代わりになりそうなシンプルなデザインでなおかつ画像のリンクを張ったときにリンクが表示されるのではなくリンクされた画像が表示されるものをと思って探してみたが、これがなかなか気に入ったものが見つからない。「帯に短したすきに長し」である。
▼無料で使用できるブログのサービスをかれこれ6つほど申し込んで、実際に試したところ、一つのサービスがこちらの希望にマッチしたので今週からあらためてブログを続けることにした。前のブログを開こうとして迷子になった方には申し訳ない。ホームページで新しいブログのURLなどを紹介するので、確認して欲しい。
▼さらに、「静止画クリップ」のコーナーも一新して、「絵手紙」を掲載することにした。しかしこの絵手紙、目にする方には忍耐してもらわねばなるまい。なぜならこうじ神父の絵の才能は、小学生の時から高校卒業するまでずっと「2」か「3」だったのだから。さて、この企画はいつまで続くやら。


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こうじ神父絵手紙
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第1回目。カラフルな「餌木」(エギ)は、イカ釣りのルアーです。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
待降節第3主日
(マタイ25:1-13)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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