こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第26主日(マルコ9:38-43,45,47-48)わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方

2015-09-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/09/27(No.789)
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年間第26主日
(マルコ9:38-43,45,47-48)
わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方
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「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」(9・41)キリストの弟子は、性格や取り組む姿勢などそれぞれ違いがあるかもしれませんが、宣教の働きに対して一杯の水を受けるに値する人々です。

12人の弟子たちは自分たちに従わない宣教者を排除しようとしていました。多様性を持つことが豊かさにつながることを今週学びたいと思います。同時に、キリストの弟子たちが受け取る一杯の水とは何か、その水を差し出す人に与えられる報いとは何かも考えてみましょう。

秋の大型連休中に妹夫婦が実家の母親を訪ねてきました。妹夫婦の子どもは9月23日が誕生日ですから、母親の敬老のお祝いと、甥の4歳の誕生日を一度に祝うまたとない機会に恵まれました。

わたしは特に何もしてあげられませんが、魚くらいは持って行ってあげようと思い、無類の釣り好きである義理の弟さんを月曜日、火曜日の2度にわたってボート釣りに誘い、お魚を確保しに行きました。

月曜日はイトヨリやオオモンハタなどがぼつぼつは釣れましたが、船頭としては物足りない釣果でした。五島で釣りをしているのですから、忘れられないような魚を釣らせてあげたいと思っていたのです。

チャンスは偶然やってきました。火曜日もクーラーボックスになかなか魚が増えないまま、このまま帰ることになるのかと諦めかけていましたが、「あと30分だけ」と思い、最近アジを釣った場所にボートで移動して釣り始めたのです。しばらくして義理の弟さんのリールから糸がひったくられ、竿がしなり、海中に突き刺さりました。

「よっしゃ来たか!」何が掛かったかはその時点で分かりませんでしたが、ただものでないことはすぐに分かりました。絶対にバラさないでくれ。「もう少しだったね」とか「惜しかった~」では終われないのだからとハラハラして見守りました。

7分近いやりとりをして、ようやく上がったのは3.5キロのカンパチでした。たまたま、その魚もアジを食べに来ていたのだと思います。義理の弟さんも大満足、船頭のわたしも鼻高々で、実家ではさもわたしが釣ったかのような自慢をしながら食べました。

ごく最近、命の危険にある一人のシスターを見舞いました。長崎の病院に入院しているので長崎に行ったついでに見舞いに行くのですが、前回見舞いに行った時は歩き回ることができたのに、今回見舞いに行ってみるともうそんな元気はなくて、ベッドに釘づけになっていました。いっぱい話すのですが、言葉がところどころ呂律が回っていませんでした。おそらく、痛み止めの薬の副作用か何かで、言葉にも障害が出ているのだろうと思いました。

わたしは、シスターの状態を判断して、これは聖体拝領だけではなくて病者の塗油も授けておいたほうがいいなぁと思い、両方の秘跡を授けました。わたしは縁あってこのシスターの両親にも洗礼を授け、またその両親共に旅立ちのための葬儀ミサをしたので、いよいよとなればシスターのためにもできるお世話はしてあげたいと思ったのです。

病院の手厚い看護に比べれば、わたしが気が向いたときに見舞ってご聖体を授けたりするのは、シスターにとってほんのわずかの時間、わずかなお世話かもしれません。それは、今週の福音朗読の「キリストの弟子に与える一杯の水」程度のことかもしれません。

けれども別の意味もあると思います。乾燥地帯にあるパレスチナの人々にとって、水を手に入れるのはたやすいことではありませんでした。宣教活動をするイエスの弟子たちが、一杯の水を飲ませてもらうということは、何にもまして嬉しいこと、天の恵みだったと思います。

また、水を提供するということも、水道からコップ一杯水を汲んで渡すようなそんな単純なものではなかったのです。時間もお金も費やして水汲みに行って、自分たちにとっても貴重な水なのに、それをあえて人に譲って飲ませる。そういう重みがあったわけです。

時間で計れば、わたしがシスターに施したお世話はたかが知れているかもしれません。けれども命の危険に差し掛かっても運命を恨むことなく、神さまからたくさん愛されたのに神さまにあまりお返しできなかったと悔やみながら秘跡にあずかる姿は、キリストの弟子だという理由で一杯の水に値すると思いました。

わたしはこのシスターと何度も衝突しました。わたしの落ち度を、シスターはどんなに嫌がられてもわたしに忠告してくれました。シスターにも言い分はあると思うけど、わたしにも言い分がある。そう言いながら昼ご飯を食べながら大声で喧嘩したこともありました。

キリストの弟子という生き方をお互いに背負いながらも、アプローチの仕方も解決法も意見が合わないことが多々ありました。けれどもわたしは、このシスターが秘跡の恵みという一杯の水を受けるにふさわしい人であることは疑っていなかったので、個人的なこととは別に秘跡を授けに行ったのです。

シスターは残された時間がそう多くないことを知っていたので、わたしと頻繁に衝突したことをゆるしてほしいと言っていました。わたしは「何も言うな。もう何も言わなくていいから」と遮って、帰りの船の時間ギリギリまで最後になるかもしれないひと時を過ごしました。

キリストの弟子は、寝たきりであってもキリストの弟子です。命を削って、主キリストのために身を捧げます。意見が対立することがあっても「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方」(9・40)です。意見が合わない、考え方の違いをはっきり主張するこのシスターと出会ったので、わたしも人の話を少しは聞くようになれたのだと思います。

シスターも秘跡の恵みという一杯の水を受けました。さんざんこのシスターに心配をかけましたが、これからもずっと、手のかかる一人の長崎教区司祭のために、祈ってほしいと思っています。

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‥次の説教は‥‥
年間第27主日
(マルコ10:2-16)
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ちょっとひとやすみ
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▼シルバーウィークも終わり、甥っ子も嵐のように去って行った。今は現実の9月10月に差し掛かる中で必要なことを一つ一つ追われながら作業している感じだ。最近耳に入って来た話を、個人を特定しない形で取り上げてみたい。
▼メルマガを通して知り合った人が、最近結婚し、今は母となる恵みをいただいているそうだ。これはめでたい。この人は言ってみればメルマガの活動でカトリック教会に導かれた貴重な一人と言える。元気な子が生まれることを心から願う。
▼「女は強し、されど母はより強し」ということわざがあったような気がするが、それにさらに一言「シスターはもっと強し」と加えたい。長崎教区のカトリック教報には司祭や修道者の訃報が掲載されるが、最近の号に40代で天国に旅立ったシスターの報告があった。
▼さぞ悔しいことだろうと思うと同時に、立派に旅立って行ったのであれば50歳になろうかという年齢で自分は覚悟なんて無理無理、と思っているのだから、シスターは本当に最強だと思う。わたしの身近でも、3年も意識が戻らないまま寝たきりのシスターがいるし、闘病生活にありながら見舞に行くわたしを笑わせるシスターもいる。やはり「シスターは強し」だ。
▼シスターがなぜこうも強くたくましいのか、それぞれ十人十色だとは思うが、まずはキリストのものとなっているからというのが最大の理由だと思う。自らの命はキリストのもので、キリストが生かし、キリストが命を取り去るのだと十分理解しているので、怖いものがないのだと思う。
▼加えて、シスターたちはある意味母となるので強いのではないかと考えた。わたしが病院に見舞ったシスターは、父と母を洗礼に導いた。洗礼は人を神の子に生まれさせる秘跡である。「子を産む」のは母である証拠だ。シスターは霊的な母となって、さらにたくましくなるのだと感じた。


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今週の1枚
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第396回目。3.5kgのカンパチ。刺身で食べ、頭も煮付けにした。甥も嬉しそう。

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年間第25主日(マルコ9:30-37)途中で何を議論していたのか振り返る

2015-09-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/09/20(No.788)
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年間第25主日
(マルコ9:30-37)
途中で何を議論していたのか振り返る
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年間第25主日B年、イエスは弟子たちに問いかけます。「途中で何を議論していたのか」(9・33)この言葉を手掛かりに今週の糧を得たいと思います。またこのミサは敬老者のためのミサです。わたしたちの先輩にミサを通して感謝を表しましょう。

16日(水)にお招きいただいた福見の園敬老会で、思いがけない人が舞台で歌を歌っていました。わたしの洗礼の抱き親である鯛ノ浦のおじさんです。もうおじいさんですが、わたしが学生のころから鯛ノ浦教会信徒会長としてずっと教会を支えているのを見て来ました。

当時喜蔵おじさんは営林署に勤めていましたが、わたしが司祭に叙階された直後、木の切り出し作業中事故に遭い、後遺症を負ってしまいました。つい最近福見の園でデイサービスを利用していることを知りました。病人に聖体を授けるチャペルで喜蔵おじさんを見たとき、びっくりしたと同時にもうこんなお年寄りになったのかと思ったものです。

身体の不自由にもめげず、懸命に生きている姿に心打たれました。そのおじさんが、聖体を授けて福見のチャペルから帰る間際、「中田神父さま、もう銀祝ですか?」とわたしに声をかけてくれたのです。自分の身の上話ではなく、わたしへの気遣いをしてくれたのです。

「今23年目だからなぁ。喜蔵おじさんもう少し元気でいてね。」あとになって「少し配慮が足りなかったなぁ」と思いました。どれだけお世話になったか分からない恩人なのに、感謝の言葉一つすら言えなかった。「あと2年たっしゃで暮らせよ。」まるで社交辞令のような言葉。相手に対して失礼ではなかったか。そう思ったのです。

わたしが司祭になるまで、おじさんは自分の両親と変わらないくらい面倒を見てくれました。いよいよ司祭になるときも、だれよりもお祝いを包んでくれました。そして待ちに待った司祭の姿をその目で確かめたと思ったら、その後は身体不自由という十字架です。
ふつうでしたら、どれだけ神さまを恨むことでしょう。わたしが司祭になるときまで、洗礼の抱き親としてずっと目をかけてくれたように、その後の23年間も、何かと世話を焼いてあげたかったはずです。思うことを一つも果たせないまま、今日まで生きて、久しぶりに再会した。何かほかに言いたいことがあっても不思議ではありません。

ところが、おじさんは誰にも、もちろん神様にも文句ひとつ言うことなく、わたしの銀祝を楽しみにしてくれたのです。かつて洗礼者ヨハネは、自分の弟子たちが「ラビ、(中略)あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」(ヨハネ3・26)と訴えてきたときに「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」(同3・29)と答えたことがありました。久しぶりに再会し、身の上を訴えるのではなくわたしのことを心から喜んでくれるおじさんに、洗礼者ヨハネと同じような懐の広さを感じたのです。

人の言葉は思いを表すものです。予想もしなかった十字架を背負った23年の間にわたしのおじさんが何を考えていたか、少し想像できました。おじさんはどのような境遇に置かれたとしても、イエスに従うことを優先して生きてきたのだと思います。

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコ9・35)自分に背負いきれないような十字架を背負わせたイエスに、本当なら文句の一つでも言いたかったはずですが、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になる道を受け入れたのです。

自由に動かない手足、思い通りに語ることのできない舌。鯛ノ浦でその名を知らない人がいないほど知られている人でした。そういう人にとっては受け入れ難い選択肢です。けれどもおじさんは、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(9・37)このイエスの言葉をそのまま、文字通りに今日まで生きてくださったのだと思います。

イエスは弟子たちにお尋ねになりました。「途中で何を議論していたのか」(9・33)。予想もしなかった晩年を過ごしながら、おじさんは何を考えて過ごしてきたでしょうか。それに比べて、わたしは司祭として何を考えてここまできたでしょうか。きっとわたしは責任を問われると思います。弟子たちがイエスの問いに黙ってしまい、答えられなかったように、わたしもイエスが考えていたものとは似ても似つかぬものを途中で考え、議論していたのだと思うと、返す言葉もないくらいです。

イエスは、弟子たちが途中で何を議論していたのかすべてお見通しだったことでしょう。そのことには一切触れようとしませんでした。弟子たちが考えを改めてくれることを信じて、過去を問うのではなく、未来に目を向けさせたのです。

これからもっと自分に従うことが難しくなる。だから、今のうちにわたしの言うことに耳を傾けなさいと弟子たちに促します。わたしたちもまた、この先今よりもずっとイエスに従うことが難しくなる。それが見通せるのに、なぜわたしたちは耳を貸そうとしないのでしょうか。

「途中で何を議論していたのか。」わたしはしばしば、途中なんてどうでもいいのだ、結果さえついて来れば構わないのだと思って生きてきました。福見の園の敬老会で見た喜蔵おじさんの姿は、わたしに途中で何を考えるべきかを教えてくれたのだと思います。

敬老のお祝いを迎えた方々を前にして、もう一度戒めの言葉をいただいている、そんな気がします。わたしたちに途中で何を考えるべきかを教えてくださる先輩方に、神様がこれからも祝福された日々を与えてくださるように、ミサの中で祈りたいと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第26主日
(マルコ9:38-43,45,47-48)
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ちょっとひとやすみ
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▼先週の「休館日」は「休刊日」となっていたらしい。申し訳ない。9月第2週にいただいた夏休みの後半は、九州視覚障害者情報提供施設協議会(九視情協)沖縄大会への参加のために沖縄に出掛けていた。
▼沖縄は9月2週目でも夏。日差し、温度、湿度、どれも夏を感じる体感だった。そんな中で研修を受けてお疲れの人々もいたかもしれない。それでもわたしたちを出迎えてくれた主管施設の入念な準備と歓迎の気持ちが十分伝わって、実りある研修会となった。
▼沖縄には福岡空港から午前中の便で向かった。実は福岡空港に向かう時、都市高速道路に入った途端バスが動かなくなり、運転手に「都市高速はトラック横転事故で渋滞していますよー」と無線が入ったりして、「大丈夫かなぁ」とすぐ感じた。
▼運転手はすぐに先回りして「都市高速を降りて一般道を使います。到着予定時刻が遅れてしまうことをご理解ください」と案内をした。本来の到着予定時刻が飛行機の離陸1時間前だから、30分遅れても間に合うだろうという安易な考えを持っていた。
▼ところがバスの到着は50分近く遅れてしまい、慌てて搭乗窓口に飛び込んで事情を説明した時には5分前。「すでに機体のドアも閉められているので搭乗できません」と取り付く島もない。泣きそうな顔でいたら、次の便に空きがあり、振り替えてくれることになった。出発からハプニングに巻き込まれた。
▼沖縄での大会は二日目の正午で終わり、帰りの飛行機は18時。それまで時間があるのでツアーバスに乗って史跡めぐりを計画した。首里城ほか、いくつかの世界遺産が見学できた。ツアーバスの会社には前もって伝えていたが、18時の飛行機に間に合うようにツアーを外れ、モノレールで空港入り。今度は十分に余裕があった。
▼「沖縄に行ったら沖縄そば。」違う考えの人もいるだろうが、わたしはそう思っていたので、昼も飛行機搭乗前にも、ソーキそばを注文して食べ比べ。結論として、わたしにはどちらの店がおいしいかの差は分からなかった。どこも大差ないのかなと思った。
▼十分余裕を持って搭乗手続きをして、シークヮーサー味のジュースを飲みながら搭乗案内を待っていたが、「機体の整備のため、少々お時間をいただいています。機内へのご案内が遅れますこと、まことに申し訳ございません」と何度も時間を延期され、18時5分の便が18時40分まで待たされた。
▼福岡に移動したら23時45分発のフェリー太古で上五島に帰る。「時間があれば博多港すぐ近くの温泉施設で汗を流して」と思っていたのに時間がなくなってしまった。

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今週の1枚
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第395回目。13日に行われた運動会を呼び掛けるポスター。とてもかわいい。

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年間第24主日(マルコ8:27-35)自分の十字架を自分で決めないで背負う

2015-09-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/09/13(No.787)
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年間第24主日
(マルコ8:27-35)
自分の十字架を自分で決めないで背負う
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年間第24主日B年、「ペトロの信仰告白」が福音朗読に選ばれました。ペトロの言葉はまだ炉から取り出された鉄のようなもので、イエスによってこれから信仰告白が試され、強められていく様子が描かれています。わたしたちの信仰も試され、強められる必要があるので、じっくり朗読をたどってみましょう。

夏休みをいただいてきました。広島マツダスタジアムの野球観戦と視覚障害者情報提供施設の九州各地区からの研修会で沖縄に行ってきました。広島ではエース前田の力投、助っ人外国人エルドレッドの初回いきなりのツーランホームランなどもあってファンには最高の野球観戦でした。沖縄での研修会では視覚障害者への情報提供の総合的な技術向上に役立つ研修を受けることができました。ついでに、首里城などの史跡めぐりもしてきました。

ところで、先週夏休みを取るにあたって、わたしは間違いのないように念を押して出掛けて行ったつもりでした。けれども月曜日になって、わたしがたくさんの荷物を抱えて車に乗りもうとしているところに「どちらに行かれるのですか~」と声をかけてくる人がいました。

わたしは急いでいたこともあるし、昨日お知らせしても次の日にはどこに行くのかと尋ねるかぁと短気を起こしていたこともあって、喉元まで「知らん」と言いかけました。実際には「ここで短気を起しちゃいかん」と自分に言い聞かせて「今週から夏休みなんだよ」と何とか答えてその場を離れたのでした。

いろんなことを思いました。「どうすれば、間違いのないように伝えられるのだろうか。そもそも何をどうお知らせしても漏れなく知らせるのは無理なのだろうか。」そうなるとお知らせする必要があるのかということにもなりますが、やはりお知らせしなければもっと伝わらない。悩ましいなぁと思いました。

実は今週の朗読個所も、イエスが悩ましい思いをする場面があるのです。イエスが弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(8・29)と投げかけると、ペトロが答えます。「あなたは、メシアです。」(同)この答えを聞くことのできたイエスは、ひとまずご自分のこれまでの働きが理解されていることに満足したでしょう。

そこでイエスは、ご自分がたどる道を、「誤解のしようがないくらいに、意味を取り違えることがないほどに」はっきりと話して聞かせたのです。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。」(8・31-32)

それなのにペトロはイエスの言葉をさえぎりました。自分が信仰を言い表した方が、そんなみじめな道をたどるはずがない。あるいは、そんな道をわたしたちがたどらせませんとでも言いたかったのでしょうか。

「そんな道をたどるはずがない」はまだしも、「そんな道をたどらせません」はもう上から目線です。イエスの声に聞き従う心構えを見失っています。心構えを見失い、上から目線になってしまったペトロに目を覚まさせるために、イエスは彼を叱ったのでした。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(8・33)

ペトロへの叱責も手厳しいですが、群衆と弟子たちを呼び寄せて言われた心構えもひるみそうになるほど厳しい招きです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(8・34-35)

どうしてこんな厳しい招きをされたのでしょうか。イエスに従うということは、人間の力だけでは果たせないことだからです。人間的にはみじめな思いをしたその先に栄光が与えられる。そのような道は人間の理解の及ばない道です。この道を歩むイエスの後に従うためには、神が用意したそれぞれの十字架を背負って歩く必要があるのです。

十字架は漬物の重石のようなものかもしれません。漬物にとっては迷惑なもののように感じるかもしれませんが、漬物が立派な漬物となるために、どうしても必要なものなのです。わたしたちキリスト者が、イエス・キリストの後に従って、本物のキリスト者になるために、自分の十字架という重石がどうしても必要なのです。

お休みをいただいている期間、まず緊急の電話はかかって来ないだろうと思ってはいましたが、それでももしも電話がかかってきたら、すぐさま引き返すつもりでいました。それは、わたしに与えられた自分の十字架だと思っています。やはりわたしの気持としては、どこに行っても、どこにいても、浜串小教区の主任司祭という自分の十字架を背負っていると感じます。

「こんな理解に苦しむ道はまっぴらごめんだ。」そう感じる場面もときにあるかもしれません。イエスはわたしたち一人一人に違った十字架を用意しておられるのだと思います。自分の十字架を背負ってみても、これは自分の十字架ではないと言い張るかもしれません。

そんなときでも、イエスがみじめな最期を遂げて復活の栄光を手に入れたことは忘れてはいけないと思います。わたしの命を救うのはイエス・キリストです。みじめな思いを背負うことも含めて、イエスの後に従う勇気を、ミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第25主日
(マルコ9:30-37)
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ちょっとひとやすみ
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▼夏休みの思い出を2回に分けて。先週夏休みをいただいたが、前半は広島のマツダスタジアムと呉の大和ミュージアムを訪ねた。マツダスタジアムは野球観戦。なぜか自分が観戦に行くと、勝ち試合に当たる。昨年は野村先発で大勝した。今年はマエケン先発で5対0の勝利。しかも助っ人外国人のライナーでのホームランを見た。これは刺激になった。
▼お忍びで出かけたこともあって、「わたしはここに座って応援していますよ~」と言えなかったのだが、十分試合は満喫した。ヒット以外のものも絡めて得点にしてしまう。これは9月最後の火曜日に予定されている「司祭団ソフトボール」に大いに参考になった。
▼呉の大和ミュージアムも勉強になった。交戦したアメリカが終戦後も日本に敬意を表しながら復興を見ていたことなどは、戦争をただの戦争に終わらせない長い目が必要なことを教えてくれた。戦艦大和の模型や、ゼロ戦の展示、「男たちのYAMATO」という映画を思い出しながらしみじみと見た。
▼実は大和ミュージアムは今回2日にまたがって訪ねる羽目になった。最初に行ってみると休館日と立札が掲げてある。がっかりしたが、港に沿って歩いて行くと、呉の町並みが眺められる公園にたどり着き、そこでは気さくにガイドしてくれる住民にも会った。思いがけない収穫となった。
▼「海軍のカレー」と銘打ったカレーを食べたが、正直これは名前負けかなと思った。五島で司祭館の奉仕をしているあちこちのシスターたちのカレーのおいしさを知っているので、海軍カレーに特に感銘を受けることはなかった。それはそれでぜいたくな話かも。

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今週の1枚
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第394回目。チケット2枚。次は休館日もチェックして行くことにする。

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年間第23主日(マルコ7:31-37)耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話す

2015-09-06 | Weblog
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年間第23主日
(マルコ7:31-37)
耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話す
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年間第23主日B年、耳が聞こえず舌の回らない人のいやしが福音朗読に選ばれました。この奇跡は本人だけでなく、周囲の人々にも変化をもたらします。周囲も含めた変化に注目し、今週学びを得ましょう。

何カ月か前に、若いカップルが司祭館を訪ねてきました。わたしたち結婚しますという報告と、当日の結婚式ミサに参列してほしいという依頼でした。わたしは「喜んで参列するよ」と二つ返事でした。

ところで、報告に来たカップルを見て、わたしが心の中で抱いた感情に自分でショックを覚えました。それは、とっくに二十歳を過ぎた青年が結婚の報告に来たというのに、わたしの目にはまだ子どもに過ぎない二人が立っているように見えたからです。

皆さんは親子の間でこんな会話を耳にしたことがないでしょうか。「自分はもう大人だ。子ども扱いしないでほしい。」たとえばそれは、自分の子が親に意見を述べている場面です。親が心の中で「子どものくせに何を言っている」と思っているところに、子どもからはっきりと釘を刺されるというようなケースです。

まだまだ子どもだと思っていた。けれどももはや子どもではなく、一人前になっているわけです。わたしには子どもはいませんが、目の前のカップルが子どものように見えた体験をあとで思い返して、自分は人としても司祭としても、人を子ども扱いしたりはしないと思っていたのに、こうも変わってしまうのかと驚き、また呆れたのでした。

今週の福音朗読に登場する人は、耳が聞こえず舌の回らない人です。大きな障害を抱えて、社会生活に支障をきたしていたことでしょう。ほかにも、障害を罪と結びつけられて、この人が罪を犯したか、この人の先祖が罪を犯したので障害を背負っているのだろうと思われていたかもしれません。

イエスはこの人の重荷を取り除いてくださいました。奇跡をおこなって、障害を抱えている本人を救い、また人々にご自分が神のあわれみを確実に与えることのできる方であることを証明したのです。

一つ、興味深いことがあります。イエスが奇跡をおこなったので、その人は「たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」(7・35)わけですが、イエスが口止めをしたのは奇跡を目撃した人々であって実際にいやされた人ではありませんでした。

似たような場面がマルコ福音書の1章「重い皮膚病を患っている人をいやす」という奇跡があります。ここではいやされた人に「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」(1・44)という指示を与えています。

両方は、奇跡の果たす役割が少し違うのかもしれません。重い皮膚病をいやしたときは、その人自身に神の憐れみを示すねらいがあったのでしょう。今回の耳が聞こえず舌の回らない人のいやしは、障害を抱えているその人と、周りの群衆全体に関わる奇跡だったのだと思います。

もちろん今週の出来事でも、奇跡そのものは障害を抱えている本人のためですが、奇跡をおこなったときの言葉「エッファタ」「開け」この言葉は周りにいる群衆にも関わりがあったのだと思います。

イエスの言葉は、群衆にどのように関わっていたのでしょうか。イエスの言葉で何が起こったかを考えると見えてくると思います。イエスが「エッファタ」「開け」と言われると「たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」(7・35)のでした。

これをもとのギリシャ語に近い形で日本語に直すと、「すぐに耳は開かれ、舌の束縛が解かれ、正確に語っていた」となります。どういうことかというと、障害を抱えていた人がイエスの言葉によって神から耳を開いてもらい、舌の束縛を解いてもらい、正確に語れるようになったということです。神が、人の悩みを取り除くことをよく表しています。

まとめるとこういうことではないでしょうか。イエスがだれであるか、奇跡がどのような働きを持っているのか、いやされた人も群衆も理解していません。言葉で正確に語ることのできる人がいません。奇跡を通して、群衆も含め、神から耳を開いてもらい、舌の束縛を解いてもらい、イエスがだれであるかを語れるようになったということです。

ただ、イエスは人々に「だれにもこのことを話してはいけない」と口止めをされました(7・36参照)。人々の驚きの言葉をギリシャ語に近い形で日本語に直すと、「彼はすべてを良くした。耳の聞こえない人々を聞こえるようにし、口のきけない人々を語れるようにした。」これは目の前の働きだけが語られています。やはり、わたしたちだけの力ではイエスがだれであるか、奇跡がどのような働きをするのか、正確には語れないのです。

神は確かに、わたしたちの耳を開いてくださり、舌のもつれを解いてくださり、はっきり話せるようにしてくださいます。その上で、わたしたちが語るときはいつも、イエスの声に耳を傾け、語るべき言葉を授けてくださるように願い、それから語り出す必要があるのです。そうして初めて、わたしたちはイエスの望み通りに語ることができるようになるのだと思います。

イエスはわたしたちの重荷を取り除いてくださり、わたしたちを解放してくださる。イエスをわたしたちの言葉ではっきり語ることができるように、今日のミサの中で恵みを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第24主日
(マルコ8:27-35)
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ちょっとひとやすみ
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▼今週10日(木)から11日(金)まで沖縄に行くことになっている。遅めの夏休みなのだが、単なる旅行ではない。「九州視覚障害者情報提供施設協議会」(九視情協)の年1度の大会が今年は沖縄で開催されるので、「視覚障害者情報提供施設の一員として」大会に参加するということだ。
▼だから観光の予定は特に組んでいないが、1つだけ確かめたいことがある。それはメールマガジン、またはブログの読者の中に、沖縄在住の読者がいるだろうかということだ。たかだか1000人くらいの読者だが、沖縄在住の人がいるのか知りたいと思っている。
▼大会プログラムを見ると初日は午後1時に間に合うように福岡から飛行機で沖縄入りし、夜の懇親会まで目いっぱい予定が入っている。だが2日目は12時で大会が終了し、18時5分の沖縄発福岡行きの飛行機の時間までゆっくりできる。
▼もし、沖縄在住で、メルマガ「こうじ神父今週の説教」または同じ名前のブログの読者がいて、9月11日(金)午後に時間が取れるなら、オフラインミーティングできたら素晴らしい。わたしもさほど社交的な人間ではないけれども、ふだん会うことのない人に会うのは十分意義深いと思っている。
▼もちろん時間の都合がつかなければ、メールでの連絡だけでも嬉しい。あわよくば4時間程度で回れる沖縄の訪問地を教えていただければ、そのお勧めに沿って訪ねてみたいと思っている。10日(木)から11日(金)の宿泊先は、「パシフィックホテル沖縄」。

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今週の1枚
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第393回目。夏休み。心配は急病人。23年間使い続けている病人訪問一式。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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