こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

主の公現(マタイ2:1-12)キリストに接ぎ木されて世界に広がっていく

2021-12-30 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/220102.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2022/1/2(No.1158)
‥‥‥†‥‥‥‥
主の公現(マタイ2:1-12)
キリストに接ぎ木されて世界に広がっていく
‥‥‥†‥‥‥‥

新年の気分も抜け切れてない中、主の公現の祝日を迎えました。このミサを終えたらゆっくり、と言いたいところですが、今年は帰省した人の黙想会を控えています。ミサを終えて続けて黙想会があるので、きっとぐったり疲れて、夜にお酒を飲んだら寝坊する可能性があります。3日月曜日の朝6時のミサはお休みさせてもらって、あとでゆっくりささげようと思います。

昨日の神の母聖マリアの祭日にも少し話しましたが、フランシスコ教皇様は中村倫明司教様を次の長崎大司教に任命しました。ローマ教会法典によると、大司教は次の後継者を事前に指名して、後継者指名を受けた司教が後を継ぐことになっています。司祭たちの間では、いつ頃中村倫明司教様を後継の大司教に指名するのかなと気を揉んでおりました。

なぜ気を揉むかというと、例えば大分教区は現在司教座が空位になっていますから、教皇フランシスコが中村司教様を大分の教区長に任命する可能性もあったわけです。そうならないためには、明確に後継指名をしておく必要があります。

後継者の指名は本当に大切です。島本要大司教様は現在の髙見司教様を補佐司教にいただいた後、後継指名をする前に亡くなってしまいました。ここでも、ローマが違う司教を大司教に任命する可能性もあったわけです。髙見大司教様が後継者として中村司教を指名しないので、ローマがしびれを切らしたのでしょうか?この話は勝手な推測なのでここだけにしておいてください。

福音朗読に戻りましょう。占星術の学者たちがエルサレムに来て、ヘロデ王にはっきりと告げます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(2・2)

占星術の学者たちは、王であるイエスを拝みに来ました。「礼拝する」ということは、単に挨拶だけではありません。自分たちがひれ伏す相手として認めることです。ユダヤ人の王と、理解するだけではなく、立場を明確にして、繋がりたいと伝える態度が「礼拝する」ということです。

私は、イエスの次の言葉を思い出しました。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」(ヨハネ15・4)

飼い葉桶に眠る幼子は、人間としてはまだ何も語ることはできませんが、中田神父には「わたしにつながっていなさい」という言葉を語っておられるのが聞き取れました。神の独り子は、成長して全能の神なのではありません。全知・全能・永遠で慈しみ深い神が、すでに占星術の学者たちに働きかけ、「わたしにつながっていなさい」と呼びかけてくださったのです。

幼い頃私は、母親がカボチャの茎にスイカの枝を接ぎ木しているのを見ました。私は子供だったので、カボチャに接ぎ木したらスイカの枝にカボチャが実るのではないか?と心配しましたが、母親の話では、カボチャの茎は強力に水を吸うので、スイカの成長に良いのだという話でした。

「接ぎ木」ということで、わたしにはこの体験しかないので例に挙げましたが、私たちが何に接ぎ木されるかは非常に大事な問題です。占星術の学者たちが、わざわざやって来て幼子イエスに接ぎ木されようとしているのに、ヘロデはイエスに繋がることを拒み、命を狙いました。本当に大切な存在と繋がることを受け入れることができなかったので、消し去ろうとしたのです。

私たちはどうでしょうか。目の前に大切なことがあっても、それを打ち消すために他のことに目を向けて避けていないでしょうか。それは小さなことでは掃除をしたくないためにテレビにかじりついたり、仲直りを面倒に思って外出したりするなどです。

大きなことでは、信仰の大切な務めを避けるために、他のことで時間を費やしたり、自分が必要とされている場所があると無理に言い聞かせて礼拝を遠ざけたりするなどです。こうしたことの積み重ねが、ついにはイエスに接ぎ木されることを拒み、枝は枯れ、もはや集められて火に投げ入れられる運命になってしまいます。

占星術の学者たちは、幼子イエスを礼拝し、それぞれの国に帰っていきました。しかもヘロデには挨拶せず、別の道を通っていきます。彼らはイエスに接ぎ木されたので、もはやヘロデと関わることを必要としなかったのです。これは、私たちへの教訓でもあります。

私たちは、どなたに接ぎ木されて成長したいでしょうか。どなたから養われたいでしょうか。イエス・キリストに接ぎ木されること以上に、確実な成長の道はありません。生涯、養ってくださるイエス・キリストとの絆を、ミサの中で確かなものとしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の洗礼(ルカ3:15-16,21-22)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼実家が古くて、トイレはため池のような方式。以前はこのトイレで問題なく用を足せていたのだが、最近は洋式トイレが多くなり、実家のトイレで用を足すのが難しくなった。トイレのためだけに、スーパーに出かける。
▼いわゆる「ポットントイレ」は衛生面だけではない。家グモがウロウロしたりヤモリがウロウロしたりしている。自分はそれはしかたないと諦めていたが、甥っ子にはそれも含めて耐えられなかったようだ。2年前に遊びに来たときはスーパーでトイレを借りていた。
▼それがどうだろう。甥っ子は成長し、実家のトイレですべての用を足せるようになっていた。家グモもウロウロしているというのに、それでも大も小もできたという。立派なもんだ。たくましく思えた。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第765回目。新成人と記念写真。今年は対象者が12人。たくさん集まった。

http://ss104313.stars.ne.jp/220102.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神の母聖マリア(ルカ2:16-21)欠くことのできない方をこの一年証ししていこう

2021-12-30 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/220101.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2022/1/1(No.1157)
‥‥‥†‥‥‥‥
神の母聖マリア(ルカ2:16-21)
欠くことのできない方をこの一年証ししていこう
‥‥‥†‥‥‥‥

新年明けましておめでとうございます。年賀状を小教区の皆さまにはお出ししていないので、この場を借りてご挨拶申し上げます。本年もよろしくお願い致します。

今年の干支は「寅」です。昨年の縄跳びに続き、年末からは「トラ」ンポリンを始めています。毎日続いています。目標は今年一年間向き合い続けることです。向き合うと言えば、今年度私たちは、いよいよ耐震補強の準備に取りかかります。初めから無理だと恐れず、工事完了の日を想像しながら、一つずつ目の前の課題に「トラ」イしましょう。

神の母聖マリアに選ばれている朗読箇所は、羊飼いたちが、自分たちの見た光景を人々に知らせる場面です。大切なもの、欠くことのできないものを見たので人々に知らせる。幼子の誕生が羊飼いを引き寄せ、彼らは見ただけで終わらず行動に出ました。

マリアが見たもの、それは「幼子を見いだした羊飼いが、出来事を人々に知らせる人になった」という様子です。羊飼いたちは、神の救いの働きが小さくか弱い姿に宿ったことを理解しました。羊飼いたちもか弱い立場の者たちでした。自分たちと同じ境遇に神が姿を取られたことを見たので、勇気づけられ、人々に知らせるのです。

母マリアは、「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(2・19)とあります。マリアの行動が、私たちのこの一年全体に影響します。羊飼いのように、出来事を自分にとって大切なもの、欠くことのできないものと見る人が増えて欲しい。そして出来事を人々に知らせる人になってほしい。これが、出来事を見たマリアが思い巡らしていたことなのでしょう。

私たちも、今の時代に照らし合わせて思い巡らしましょう。私たちが、幼子イエス様を収める心の部屋を用意し、自分にとって大切な方、欠くことのできない方として受け入れるとき、羊飼いの働きが今の時代にも始まります。出会う人に、イエスは生活に必要な方、欠くことのできない方ですと、伝えに行くのです。

ミサの後、あなたはお友だちと会うかも知れない。大切な人と会う約束をしているかも知れない。会いたくない人とうっかり会うかも知れない。それらの人々は、大切な方として心の中に受け入れた幼子イエスを、告げ知らせる相手なのです。そう思ってこの一年出会う人を思い浮かべると、私たちには自然と語るべき言葉が与えられるのです。語るべき言葉は、ここに集まっている新成人にも必ず与えられます。

昨年末、中田神父は茨城に住む妹夫婦の小学生の息子を連れて、実家の鯛ノ浦に帰りました。甥っ子はまだ洗礼を受けていませんが、私にとって真っ先に、幼子イエスのことを知らせる相手となりました。この世を照らす光が甥っ子にも火を灯し、輝いて欲しい。強く願いました。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の公現(マタイ2:1-12)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼甥っ子を託されて実家に帰り、三泊四日の休暇を昨年末に過ごした。甥っ子は四年生。元気な盛りで、振り回されたというのが正直なところ。それもまた楽し。
▼"When in Rome, do as the Romans do." この諺を甥っ子に説明して実家で過ごした。実家では毎日朝5時過ぎに起き、朝ミサに参加する。甥っ子も強制的に起こされ、朝ミサに参加。洗礼を受けていないため、勝手も分からず、居場所がなさそうだった。
▼日中は教会巡礼。朝ミサで叔父の中田神父が祭壇に上がっていたのが新鮮だったようで、巡礼先の教会でも祭壇に特別な執着を持っていた。「○○くん。道のりは長いよ。きみは洗礼を受けていないから、まず洗礼を受けて、その後に司祭になったら、祭壇に堂々と上がりなさい。」どれくらい心に響いただろうか。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第764回目。洗礼を受けていない甥っ子と、食前食後の祈りを欠かさず唱えた。

http://ss104313.stars.ne.jp/220101.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)言がわたしたちの間に宿られ、生き続ける

2021-12-24 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/211225.mp3
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/211225.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2021/12/25(No.1155)
‥‥‥†‥‥‥‥
主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)
言がわたしたちの間に宿られ、生き続ける
‥‥‥†‥‥‥‥

あらためて、主の降誕おめでとうございます。夜半のミサで、人となられた御子は、人が避けて通れない死の苦しみ、恐怖に打ち勝つためにおいでになったと話しました。私たちのそばにいてくださるために、神の独り子は人となってくださいました。神が人となってくださったことを、違う見方で思い巡らすために、日中のミサではヨハネによる福音書が選ばれています。

私たちは驚くべき能力を備えています。それは「言葉を記憶する」能力です。幼い頃に習い覚えたことはずっと忘れないものですが、記憶に残っているのは「言葉」ではないでしょうか。

実際には、その当時の様子を覚えているのだと思いますが、長い時間を経ていくうちに、当時の場面が書き換えられることもあります。しかしそれでも思い出せているのは、当時の様子を「言葉」が組み立て直してくれるからです。形ではない「言葉」は、どんなに時間が経過しても記憶に残っているのです。

本日の「主の降誕(日中)」のミサは、「言(ことば)が肉となった」というテーマです。これも、実際の出来事がきっとあったでしょう。その意味では歴史の中で一度だけ起こったその様子だけが、ご降誕の出来事だと言えます。

けれども、クリスマスの飾り付けはたった一つではありません。とても豪華な飾り付けの馬小屋があったり、飾りを少なくして人それぞれが想像を膨らませるような工夫をしたり、いろいろあると思います。

もし、歴史の中で一度だけ起こったその様子だけが正しいと言うのであれば、教会ごとに違う飾り付けはどれも間違っていることになります。そうではなく、「言葉」がそれぞれの馬小屋に現されていれば良いと思うのです。例えば、「言は、自分の民のところへ来た」(1・11)この言葉が形になっていれば、それで十分だと思うのです。

馬小屋から得られる学びは大切です。私たちの中に残る「主の降誕」は、本当はどんな記憶なのでしょうか。幼い頃の馬小屋の記憶かも知れませんが、よくよく考えるとその記憶は曖昧です。私は、馬小屋ははっきりしなくても構わないと思っています。「言は、自分の民のところへ来た」この言葉が形になっていれば、それで十分だと思うのです。

私たちの中には、ご降誕の出来事が「言葉」として記憶されています。次の通りです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(1・14)私たちの中で、景色は書き換えられることがありますが、残り続けるのは「言葉」だと思います。景色は書き換えられているかも知れませんが言葉が変わらないので、同じ記憶として留まっているわけです。

いつまでも変わらないで、私たちの間に宿ってくださるために、神の言葉が人となってくださいました。感謝しましょう。そして、神の言葉にまだ触れていない人にも、神の言葉が宿り、神の言葉に生かされる人になるように、働きかけましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖家族(ルカ2:41-52)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼夜半のミサ「ちょっとひとやすみ」の続き。これをそのまま夜半のミサで話したほうが実感がこもっているのかも知れない。
▼「様子を見ながら、薪を足しなさい。」そう言われて親はその場を離れたりしていました。子供だった私は黙って火の番をするのは退屈でしたが、その「手伝い」がなければ風呂は沸きません。
▼「手伝うこと」。これは愛の火を消さないためにできるわざです。手伝ってくれる人は、付き合いが広ければ広いほど集まるでしょう。
▼気の合う人だけでなく、気の合わない人、時には敵にも、付き合いがあれば力を貸してくれるかも知れません。救い主は、神の愛の火を消さないために「敵」をも愛するためにおいでくださいました。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第762回目。スイートスプリングス。病人訪問している家で実ったお裾分け。

http://ss104313.stars.ne.jp/211225.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)そばにいてくださり、死の恐怖に打ち勝ってくださる

2021-12-24 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/211224.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2021/12/24(No.1154)
‥‥‥†‥‥‥‥
主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)
そばにいてくださり、死の恐怖に打ち勝ってくださる
‥‥‥†‥‥‥‥

主の降誕おめでとうございます。「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」世界中のキリスト者が、ひとりの幼子を待ち望んで与えられた答えです。私たちは今日与えられたひとりの幼子を、唯一の希望として持ち帰りましょう。

「初めての子」「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」この姿は貧しい環境であれば同じ姿の子がいるかも知れません。それでも、私たちが目にしている幼子イエスは、同じ姿をしていても唯一のお方なのです。

貧しい姿で生まれると、それだけで命の危険が伴います。「生きていけるだろうか」という不安がつきまといます。神は同じその弱く貧しい命を受け取られました。イエスの誕生は、初めから人間につきまとう「死の恐怖」が打ち負かされるためだったのです。

誕生そのものは手放しで喜ぶことができますが、人間は誕生と同時に「死」と隣り合わせなのです。極端に貧困であればより早く近づいてくるかも知れません。しかしイエスは、人間に忍びよる恐怖を打ち負かすために、人となってくださったのです。次の通りです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)

すべての人が、初めて見る希望を腕に抱くためにここに集まりました。イエスを信じて生きるなら、逃れられない恐怖を乗り越えることができます。イエスを腕に抱き、イエスを信じて生きるなら、すべての人が希望にあふれて生きることができるのです。

それぞれ、置かれた生き方があります。当てはめて考えてみましょう。幼いこどもたちは、おもちゃとか、大切にしている持ち物があるでしょう。おもちゃはいつか手放すのですが、イエス様を覚えて帰るなら、これからずっとそばにいて、喜びと楽しみを与えてくださいます。

中学生高校生にとって、イエス様をそばに感じて生きていくことは、誰も頼れなくなったときの助け主を持っていることになります。本当に追い込まれたときは、誰もそばで助けることができません。

学校での試験で、試験問題と答案用紙を前にして、誰がそばにいてくれるでしょうか?誰もそばにいないはずです。高校受験大学受験、「問題を開けてください」と言われた瞬間、誰もそばにいないときでも、イエス・キリストはそばにいて力づけてくださるのです。

あなたが社会人であれば、困難はより高い壁となってくるでしょう。それを乗り越えようとするとき、あなたのためだけにそばにいてくれる人がいるでしょうか?皆、自分のことで精一杯なのです。それでもいつも、あなたのためにそばにいてくれる。それがイエス・キリストです。

それぞれの必要を叶えてくれる幼子イエスを、腕に抱き、心に納めて帰りましょう。中田神父も、羊飼いの仕事をそばで導いてくれる方として、幼子イエスを心に納めて帰ろうと思います。「わたしの羊の世話をしなさい」との仰せに、いつも忠実を尽くすことができるように、ミサの中で祈ります。各自、幼子イエスを受け取って、置かれた場所での人生を完成できるように、ミサの中で祈っていきましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼早めに原稿を用意したのは良いが、当日に近くなるに従って「どうもこれではないなぁ」と感じ始めている。というのも、その後「クリスマスカード」をメッセージ付きで作ったらこちらの方がよりましなように見えてきたのである。以下の通り。
▼主の降誕のご挨拶を申し上げます。2年にわたるコロナ禍で心も身体も弱り果てている私たちに、神様は今年も「暗闇を照らす光」を与えてくださいました。
▼小学生の頃、母親と一緒に五右衛門風呂の風呂焚きをそばで見ていたことがあります。小さな枝に火を付け、次第に大きな枝が足されてしっかりした火となり、その火が薪に移ります。
▼しかし目を離せば、薪も燃え尽き、火は消えてしまいます。適宜薪を足さなければなりません。(主の降誕日中のミサの「ちょっとひとやすみ」に続く)


‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第761回目。クリスマスカード。何年前のものだろう?でも2000年前のクリスマ
スをわれわれは喜んでいるわけだし。

http://ss104313.stars.ne.jp/211224.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

待降節第4主日(ルカ1:39-45)心を開いて「私たち」となられた主を迎える

2021-12-18 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/211219.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2021/12/19(No.1153)
‥‥‥†‥‥‥‥
待降節第4主日(ルカ1:39-45)
「挨拶」に神の祝福を込めて
‥‥‥†‥‥‥‥

待降節最後の週は、マリアがエリサベトを訪問する場面が取り上げられました。イスラエル巡礼に行くと、エルサレムの西「エンカレム」という土地に「エリサベト訪問の教会」と呼ばれる教会があります。そして谷を挟んで、谷の向こう側には「洗礼者ヨハネ生誕の教会」があります。

エリサベト訪問の教会には、出来事をあしらった壁画だったか、タイルでこしらえた絵だったかがありました。そして世界中の言葉で書かれた「アヴェ・マリアの祈り」のレリーフが飾られています。もちろん日本語もあって、日本からの巡礼者は必ず探し出して喜び合います。

さて今週の「マリア、エリサベトを訪ねる」の朗読箇所から、「挨拶」ということを取り上げて話したいと思います。エリサベトが身ごもったと聞くとマリアは出かけて、ザカリアの家に入ってエリサベトに「挨拶」します。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどります。そしてエリサベトは聖霊に満たされて声高らかに言った(賛美した)のでした。

ここに何回か「挨拶」が取り上げられていますが、この「挨拶」は、日本人が考える「挨拶」と全く同じなのでしょうか?このことを今週考えて、救い主を待ち望む最後の準備に当てたいのです。日本人が考える「挨拶」、たとえば「おはようございます」「今日は寒いですね」「雨になりましたね」「それではさようなら」通常私たちが交わす挨拶と、福音朗読で紹介されているマリアの挨拶は、全く同じものなのでしょうか。

そう言われると、皆さんきっと「同じではないのかな?」と感じたと思います。福音書の中での「挨拶」でもう一つ取り上げると、天使ガブリエルが、救い主誕生の予告をマリアにする場面です。これに対してマリアは「この言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」(ルカ1・29)という反応を見せました。この「挨拶」も、どうやら「おはようございます」や「お天気いいですね」の類いの挨拶とは違うなぁとお感じになるでしょう。

では聖書の中の「挨拶」を理解するために、何を参考にすればよいでしょうか。私たちにも理解の助けになる挨拶があります。それは「ミサの中での挨拶」です。祈祷書を開いたら、ちょうど良い参考がありました。「入祭のあいさつ」です。

ミサの始め、十字架のしるしのあとに「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに」と司式者が挨拶します。皆さんは「また司祭とともに」と答えます。この挨拶が、マリアの挨拶や、天使ガブリエルの挨拶を知るのにピッタリなのです。

この「入祭のあいさつ」には、儀礼としての意味合いを超えたものが含まれています。それは「祝福」です。司式者は「恵み、愛、交わり」が三位一体の神から届きますようにと挨拶しているのです。「祝福を届ける言葉」という表現が、聖書の中の挨拶にはピッタリなのです。単なる儀礼ではなく、人が間に入って、神の祝福を届ける。そしてそれを受け取り、感謝・賛美する。これが、聖書の中で言われている「挨拶」なのです。

ここでちょっと余談ですが、ミサの中で「主は皆さんとともに」という挨拶が聞こえたら皆さんは何と答えますか?「また司祭とともに」と答えますよね。これ、よくよく考えると、「また司祭とともに」が厳密には当てはまらないときがあるのです。

三年前に、献堂百周年が行われて大司教様がミサの主司式をされました。大司教様が「主は皆さんとともに」と挨拶しているのに、「また司祭とともに」と答えるのは、厳密に言うと当てはまらないかも知れませんね。ほかにも、福音朗読を助祭の方が務めたとします。助祭は、司祭ではありませんが、「主は皆さんとともに」と招きますね?皆さんの答えは、「また司祭とともに」。これって、よくよく考えると適当ではないわけです。

「そう言われれば、そうだなぁ。」気付くことはとても大切です。あと一年待ってください。今日は、「そう言えばそうだ」で止めておきますが、この問題を日本の司教様始め、全国から集まった典礼委員会の代表がうまいこと解決してくれました。

来年の待降節からは、入祭のあいさつで大司教様が「平和が皆さんとともに」と言った場合も、主任司祭が「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに」と言った場合も、どちらにも当てはまる返事を皆さんもできるようになります。ミサの典礼が少し変わったとしても、「どうして大司教様の招きに『また司祭とともに』と答えるのだろう?」と疑問を感じるよりは、ずっと良いと思います。

マリア様の挨拶を、ここまで考えてきました。儀礼的な挨拶を超えた、祝福を届ける働きが聖書の中の挨拶にはあります。まずは、ミサの中の挨拶では祝福を届けてもらっているのだなと意識しながら返事をしましょう。そしていつか、ミサの中の平和の挨拶「主の平和」を、キリストを知らない人にも届けられる人になりましょう。神の祝福は、私たちの挨拶次第で、すべての人に届けることができます。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼寒波がやって来た。17日(金)夜、「あられ」で路面が真っ白になり、耐震保修工事委員会は延期しようということで来週になった。委員の皆さんには予定の調整などでまた苦労をかけ、申し訳なく思っている。
▼教会のイルミネーションは見に来る人を引き寄せている。点灯したその日の晩、カップルの声が聞こえた。カップルには申し訳ないが、はしゃいでいる声がとても気になる。この時期だけの特別な誘因だと思って、大目に見るしかないか。
▼年末、妹夫婦の子(甥っ子)と会うことになっている。長く会っていないので、相当たくましくなっていることだろう。楽しみだ。そして同時に、母親である妹の信じている神様を少しでも感じさせるまたとない機会である。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第760回目。癖があって、使用中に牛乳石けんをいろんな形に変えてしまう。

http://ss104313.stars.ne.jp/211219.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

待降節第3主日(ルカ3:10-18)救い主を迎えるため、「半分を分け合える人」になる

2021-12-11 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/211212.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2021/12/12(No.1152)
‥‥‥†‥‥‥‥
待降節第3主日(ルカ3:10-18)
救い主を迎えるため、「半分を分け合える人」になる
‥‥‥†‥‥‥‥

待降節第3主日の福音朗読で、洗礼者ヨハネの活動が朗読されました。ヨハネの活動はすべて、あとから来られる「わたしよりも優れた方」(3・16)に群衆を向けさせることでした。ヨハネの勧めはヨハネ自身が求めている勧めではなく、あとから来られる方が求めている勧めと言えます。

皆さんは会費を払っているものがあるでしょうか。私は3年このかた、会員になりたいのになれずにいたものがありましたが、ようやく抽選を突破しました。それは2022年のカープファンクラブです。当選したのでもう死んでもいいです。いや、今のは取り下げます。私が当選したカープファンクラブは単年会員なので、毎年出直しで抽選に応募しなければならないのでした。死ぬわけにはいきません。

長い道のりでした。2015年くらいからカープが強くなりだして、セリーグで3連覇をしました。それと同時にカープファンががぜん増え、通常の継続会員枠に何年も空きがなくて申し込めませんでした。一時期は年間シートを買おうかとまで思い詰めていました。それから「単年会員」という枠が用意されたので抽選に応募し続け、4年目に抽選を突破しました。ようやく手に入れた枠です。大切に使いたいと思います。

さて福音朗読、ヨハネの最初の勧めを取り上げましょう。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(3・11)と答えました。「分けてあげること」が勧められていますが、この勧めを実行することが、救い主を迎える立派な準備になるのです。

「下着を分け合う」の部分ですが、下着を持っていない人がいるのだろうかと思いつつも、下着すら持たない貧しい人がいたのでしょう。二枚のうち一枚を分けるのですから、大きく言えば持ち物を半分与えるということです。

「持ち物を半分与える」と聞いて、何かを思い出さないでしょうか?これはザアカイの物語に通じます。ザアカイはイエスに声をかけられ、心を開いて答えました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(ルカ19・8)

「半分与える」ということは、とても重い決断です。物の大小もあるかも知れませんが、それでも、半分ということは、自分と分け与える相手を同じ重さで見ているのです。「施してあげる側」と「施しをもらう側」という見方ではなく、「私は、あなたを自分のように思っています」というしるしが、半分与えるということではないでしょうか。

そうすると、イエスが命じた「愛の掟」にも繋がります。「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ12・31)。ヨハネの勧めに耳を傾ける人は、イエスが高く評価したザアカイの回心にも、またイエスが求めた「愛の掟」にも心を開くことになるのです。

私たちも、洗礼者ヨハネの勧めに耳を傾けるべきです。洗礼者ヨハネに耳を傾けずにあとから来られる救い主イエスに耳を傾けることはできません。実際、洗礼者ヨハネに耳を傾けなかった律法学者とファリサイ派の人々は、イエスにも耳を傾けることができなかったのです。

「そんなことをしたら生活が破綻するではないか」そう考えるかも知れません。ですが考えてみましょう。半分を与える場面は、いろんな時にやって来ます。「三笠山」というお菓子があるでしょう。小さな子供がいるとして、その子はあまりにも小さい子だから、一口だけ分け与えるでしょうか。

もし小さな子が「三笠山」を手にしていたらどうでしょう?その子はあなたに、そのお菓子を半分に割って差し出してくれるのではないでしょうか?「相手に適した分量」で分け合うのではなく、「あなたは私と同じ大切な人」と考えているなら、半分与えるのではないでしょうか。

ご降誕も、あと二週間です。父なる神は、私たちにその独り子を分け与えてくださいました。「あなたは私と同じ大切な人」と考えて半分与えてくださったのでしょうか?いいえ違います。「持っているものすべて」を与えてくださったのです。

この二週間、父なる神が、私たちを愛してくださったその愛の大きさを考えましょう。その愛の大きさに感謝して、私たちが、さまざまな場面で半分に分け合える勇気を願いましょう。「私と同じように大切な人」が自分にいるというのは、とてもすばらしいことです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
待降節第4主日(ルカ1:39-45)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼子供が「三笠山」を半分分けてくれるという話をしたが、子供は寛大に半分くれることが多い。「私と同じ大切な人だから」というわけでもないのかも知れないが、実に寛大に分けてくれる。
▼それはきっと、「頼るものがない」からなのだろう。「持ち物」に頼っているなら、お菓子を半分くれたりはしないだろう。たとえ子供でも、自分の分を多く取っておくはずだ。それは神の国を手に入れる人の心構えそのものである。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第759回目。平日朝ミサに不審者が三脚を立てた。これが撮影したかったのか。

http://ss104313.stars.ne.jp/211212.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

待降節第2主日(ルカ3:1-6)心を開いて「神の言葉」の前に身を置く

2021-12-04 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/211205.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2021/12/5(No.1151)
‥‥‥†‥‥‥‥
待降節第2主日(ルカ3:1-6)
心を開いて「神の言葉」の前に身を置く
‥‥‥†‥‥‥‥

待降節第2主日は洗礼者ヨハネとの関連の深い主日です。毎年洗礼者ヨハネの話をしている気がします。その中にあっても、何か少しでも、皆さんのために、新しい気付きを分け合いたいと思います。

先週は、人生で二度目の「私はもう死んでもいい」という言葉を聞きました。願いが叶えられ、これ以上望むことはない。そういう感情を言葉にしたものだと思います。

人生で二度目と言っているのですから一度目がありまして、一度目は出津の老人ホームでのことです。いつか私と再会したい。そう願い続けていた人と久しぶりに会うことができました。そこで「私はもう死んでもいい」と再会を喜んでくださったのです。

二度目はこの聖堂の中で起こりました。コロナ禍で面会が叶わず、長く秘跡を受けられなかった高齢者です。聖体拝領を受け、クリスマス前の赦しの秘跡を受け、体調の不安もあって病者の塗油も受けました。考えられるすべての秘跡を受けたことで、「私はもう死んでもいい」と喜びを表したのです。

幼子イエスを神殿で見いだした預言者シメオンを思い出しました。「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。『主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。』」(ルカ2・28-30)二人ともその目で、神の言葉を大切にする人には願いが叶えられることを見たのだと思います。

その場面に立ち会った中田神父は、「こんなすばらしい場面に遭遇したのはこれで二度目だから、もう死んでもいい」と思ったでしょうか。まだその境地にはたどり着けません。その境地を極めるのはいつでしょうか。何を見ても何を成し遂げても、そこまで到達できる気がしない。現状はそんなレベルであります。

今年の待降節第2主日、私の心に響いた言葉は「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」(3・2)という箇所です。ヨハネは「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(3・4)という預言者イザヤの言葉を活動で形にしていくわけですが、「神の言葉」が「人間」に降った瞬間から、神の計画が始まる。この部分に惹きつけられました。

「神の言葉」はそのままで力強いものですが、歴史の中で「人間」に降ってから具体的な働きが始まっている、と感じます。かつての預言者たちがそうでしたし、洗礼者ヨハネも、神の言葉が降って、神の言葉に自分を開いて、それから彼の活動が始まりました。仮に、洗礼者ヨハネに「何かを成し遂げそうな雰囲気」が備わっていたとしても、「神の言葉」を抜きにしては何も始まらなかったわけです。

さて洗礼者ヨハネが「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(3・3)とき、招きを受け入れて悔い改めの洗礼を受けた人々もいましたが、彼を受け入れなかった人もいます。そのことを伺わせるのがイエスの宣教活動の終盤、「権威についての問答」の場面です。

祭司長たちや律法学者たちが神殿で教えるイエスに「何の権威でこのようなことをするのか」と詰め寄ったときに、イエスのほうから問い返しました。「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」(ルカ20・4)

質問に答えるために彼らは相談します。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」(同20・5-6)このように、宗教指導者たちはヨハネを信じませんでした。

民衆や、その中でも罪人扱いされていた人々はヨハネを信じ、宗教指導者は信じませんでした。その違いは何でしょうか。それは、ヨハネの活動を「神の言葉が降って活動している」と受けとめたかどうかだったのだと思います。神の言葉が、ヨハネを動かしている。そう理解した人たちはヨハネのもとに集まり、悔い改めの洗礼を受けたのです。

神の言葉は、人間に降って歴史の中で働きます。洗礼者ヨハネに降って救い主への準備が始まり、ヨハネを信じた民衆たちも、神の言葉によって悔い改めました。人を救う神の働きが形になるためには、神の言葉が降って、それを受け入れる人がどうしても必要なのです。

教会の中で何かを始めようとするとき、いちばんやっかいだと私が思うことは、「あいつに何ができるのか」という態度や言葉です。はなから計画や人物を「不足」と決めてかかっています。もちろん分からなくもないです。その人の客観的な能力が不足していれば、そう言われても仕方が無いでしょう。

しかし教会の中で求められている働きぶりは、個人の能力とは別に、神の言葉に心を開いてくれる人かどうかということにもかかっています。神の言葉に信頼を置いて取りかかる人には、神の言葉が降って、計画が実現するように力が与えられるのではないでしょうか。

そもそも「あいつに何ができるのか」と言われたら、ふさわしい人などどこにもいないでしょう。神の言葉が降って実を結ぶ場所は、「この仕事は私しかいないでしょ」と言っている人のいる場所ではなく、「私は取るに足りませんが、神の言葉に信頼して取りかかります」と言っている人のいる場所なのです。

神の言葉が降って、神の言葉を受け入れ、信頼して物事に取りかかる。この一連の出来事が、神の計画を前に進める力です。ここに集まる皆が、「心を開いて神の言葉を受け入れます。神の言葉が実を結びますように」と願う共同体になりますように。そうなった時、どんなに難しい計画でも、たとえそれが耐震補強工事でも、実現可能なのです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
待降節第3主日(ルカ3:10-18)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼洗濯をしている風呂場の脱衣場から悲鳴が上がった。10m以上離れている居間にも響いた。何事かと見に行くと「神父様、毛虫が!」という。指差す先を見ると、確かに「毛虫」のようなものが見える。
▼つまんでみたら実際には毛虫ではなく「毛玉」だった。なぜ毛玉が洗濯物に紛れ込んだのだろう。洗濯物の中身をよく見ていてそれが分かった。冬物の「靴下」から、毛玉がこぼれたのだ。本人にはかわいそうだったが、よくよく見ると靴下の毛虫もなかなかユーモラスである。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第758回目。今年、クリスマスの集いをミサ後にできないので、せめてカードを。

http://ss104313.stars.ne.jp/211205.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする