こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第26主日(マタイ21:28-32)父なる神の願いに、生き方を割いているか

2023-09-29 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2023/10/1(No.1258)
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年間第26主日(マタイ21:28-32)
父なる神の願いに、生き方を割いているか
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10月に入りました。聖書愛読はしばらくお休みして、ロザリオの月を充実させるためロザリオの信心に取り組みます。きっと、5月・10月だけでなく毎日ロザリオを唱えている方もいるでしょう。今月はそんな方々も、唱える人が増えることに感謝してロザリオを唱えましょう。

今週与えられた「二人の息子のたとえ」の朗読箇所で、兄と弟の時間の使い方に注目してみました。兄が父親から「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」(21・28)と呼びかけられ、「いやです」と言ったのは、父親のために時間を割きたくなかったのだと考えてみました。

弟も父親から同じように言われました。弟も、父親のために時間を割きたくなかった。ここまでは同じですが、弟は色よい返事をして最後まで父親のために時間を割きませんでしたが、兄は後で考え直して、時間を割いたのです。ここで差が付きました。

たとえ話は親子の間でしたが、「人のために」「誰かのために」時間を使うことと考えても良いでしょう。人間は基本的に自分のために時間は使いますが、人のためには使いたがりません。たとえ話の兄(ここでは善良な人の代表だと思います)、この兄も父親のために時間を割きたくなかったのですが、後で考え直して父の願いに応えたのでした。

来週、福江文化会館で中村哲医師のドキュメンタリー映画が上映されます。初めパキスタンとアフガニスタンで医療活動に従事していましたが、そもそも清潔な水が得られないのでさまざまな病気が発生する。その解決のために畑違いの水路を引く事業に心血を注ぎ、貧しい人々の健康に寄与しつづけました。ところが志半ばで凶弾に倒れます。

中村哲さんの思いを理解できず、苦々しく思っていた人たちに未来を断たれたのですが、彼の意志は、今もアフガニスタンで生き続けています。それは、純粋にアフガニスタンの人々のために時間を使ってくれたからです。人生の多くの時間を、アフガニスタン国民の向こうに見える父なる神のために割いて捧げてくださったからです。

洗礼者ヨハネが示した「義の道」も、利己的な生き方を棄てて積極的に人のために自分の持ち物や時間を割いていく生き方でした。それがそのまま父なる神のために持ち物や時間や都合を割く生き方につながりました。当時の宗教指導者たちは、その生き方を受け入れませんでした。

私たちはどうでしょう。今回「人のために時間を割く」という切り口で考えてみました。実は私たちの周りには、お手本になる生き方の人がちゃんといらっしゃいます。神と人のために時間を割く生き方を生涯貫く人たちがいます。また、それを天職としている人もいます。

たとえその生き方が、途中で断たれたとしても、たくさんの人が「あの方は、父なる神のために時間と都合を割く『義の道』を示してくれた」と覚えていてくださいます。覚えられているなら、これからも「後で考え直して生き方を学ぶ」そういう人も現れるに違いありません。

中田神父は特に、自分を戒めなければならない生き方に召されました。父なる神のために働かなければ、私の働きは意味が無いのです。人のための働きでなければ、働きには意味が無いのです。召された生き方を、自分が食べるための働きにした時、私の価値は下がるのです。

ミサにお集まりの皆さんも、生活の中で人のために時間や都合を割いているなら、神に感謝しましょう。あなたは先に神の国に入る生き方をしています。もし、自分のためにしか時間や都合を割いていないのなら、「後で考え直せるように導いてください」とお願いしましょう。私たちは神の国に入れなくなることだけは避けなければなりません。

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‥次の説教は‥‥
年間第27主日(マタイ21:33-43)
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ちょっとひとやすみ
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▼人の名前を覚えるのに、得意不得意があるのだろうか。記憶力が優れている人は、人の名前も難なく覚えることができるだろうか。そもそも、名前だを覚えようというのが虫が良すぎる話か。
▼いつも顔を合わせるのに名前を覚えない。「お名前なんとおっしゃいますか」と声を掛ける。しかし覚えられない。もう一度聞くわけにもいかない。ほとんどこうした繰り返しである。あ、手帳に書けば良いのか。
▼一つだけ、よく覚える方法がある。ミサを依頼してくる人は「あの人は・・・あ、◯◯さんだ」すごくよく覚える。もし可能なら、ミサをおささげすることで名前を覚えて、長くお付き合いさせていただきたい。先日も、「ほぼ毎日会うのに」と思っていた人からミサの依頼があり、「なるほど。◯◯という方だったのね」と分かった次第。赴任して半年となった。

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今週の1枚
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第865回目。彼岸花。水田の脇にずらっと並ぶ彼岸花と違い、けなげに見える。


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† 神に感謝 †
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年間第25主日(マタイ20:1-16)あなたはぶどう園にまる一日いたのです

2023-09-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2023/9/24(No.1257)
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年間第25主日(マタイ20:1-16)
あなたはぶどう園にまる一日いたのです
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今年度の聖書愛読、前半が終わろうとしています。「詩編」を、交互に読み、聞く今回の取り組みは、少し慣れてきたでしょうか。予定では四年間で詩編を読み終えることにしています。詩篇150編を読み終えるための長い旅ですが、これからも協力お願い致します。
今週の福音朗読は「ぶどう園の労働者」のたとえですが、ぶどう園が天の国のたとえであるとしたら、ぶどう園の主人に不平を漏らした労働者が見落としていたのではないかと思う点が一つあります。見落とした点を拾って、私たちの糧としましょう。

「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」(20・12)早くからぶどう園で働いていたこの労働者は、自分が「ぶどう園」というすばらしい場所に一日いたことを、いつの間にか忘れていたのではないか。中田神父はそう考えました。

「天の国」を、イエスは「ぶどう園」にたとえました。天の国に早くから案内されてまる一日いた。たとえ、ぶどう園での時間が暑い中汗まみれになって働く必要があっても、天の国にずっと留まっていたことは間違いありません。ぶどう園の主人(おそらくそれは天の父なのだと思います)がまる一日働くために必要な環境を用意してくれたその中で働いたのです。これは十分感謝できることなのではないでしょうか。

そう考えると、ぶどう園にあとから雇われた労働者は、天の国にたとえられたぶどう園に、わずか一時間しか留まれませんでした。誰も雇ってくれなかった。自分たちを天の国に招いてくれる人に出会えなかったわけです。最後の最後、こんなすばらしい場所に雇ってもらえた。招いてもらった。その感謝の気持ちで、僅かの時間でも懸命に働いたのではないでしょうか。

この考えに立って、私たちの生活を振り返ってみましょう。私たちの多くは、早くに洗礼の恵みを受けてさまざまな恩恵に与ることのできるぶどう園に招かれました。ぶどう園は、小教区と言っても良いでしょう。このぶどう園で汗を流し、暑い中辛抱して、信仰の実りを実らせ、それを収穫しようとしています。

ひょっとしたら私たちも、自分とは違う導きをいただいて信仰に入った人に不平不満をぶつけているかも知れません。「私たちは長くこの信仰に留まっているのに、途中から来た連中と同じ扱いをされている。」この不平不満は、妥当でしょうか?早くから信仰の恵みにあずかってきたこと、早くから、今日まで、ずっと神様の恵みのぶどう園にいた事実を、いつの間にか忘れているのではないでしょうか。

「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」(20・14)最初に招かれた人も、最後に招かれた人も、天の国に招かれたすべての人が、慈しみ深い主人に覚えられていて、皆が同じ慈しみを受けます。神の慈しみを受ける物差しは、神の側にあります。信頼し、感謝して、神の慈しみにあずかりましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第26主日(マタイ21:28-32)
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ちょっとひとやすみ
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▼9月14日、九州視覚障害者情報提供施設の大会が長崎で開催されて、マリア文庫の代表として大会の主管施設の働きを務めた。大会の結びに、感謝の言葉を伝える役目だった。大会の中での研修は、視覚障害者にマンガをどのように伝えるかで、学びがあった。
▼9月19日から、出張を予定していた。教区の司祭評議会、顧問会議も含まれているが、その他の予定もあった。しかしそれらは、事情があってすべてキャンセルとなった。下五島の地区長として、下五島内の問題の対処のために待機する必要が生じたためだった。
▼この件で自分にも迷惑が及んだが、出張のために協力を願った人にも迷惑をかけた。二度とないことだとは思うが、地区長はつらいよ。

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今週の1枚
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第864回目。景色を撮る趣味は特にないが、景色が「撮ってくれ」と言っていた

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† 神に感謝 †
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年間第24主日(マタイ18:21-35)わたしが憐れんでやったようにあなたも憐れむべき

2023-09-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2023/9/17(No.1256)
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年間第24主日(マタイ18:21-35)
わたしが憐れんでやったようにあなたも憐れむべき
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前回浜脇教会でミサをした時、港まで送迎してもらった話をして、高く付かなければ良いがなぁ、と言っていたところでしたが、結果的に高く付きましたか。皆様にご迷惑ご心配おかけしましたこと、責任者としてお詫びします。申し訳ありませんでした。

その代わり、9月3日の聖書と典礼、中田神父の説教が回ってきたと思います。毎週、あのような原稿を用意して説教をしております。中田神父がミサに来る時はみんなの分を用意しても良いかなと思っておりますが、何部必要なのか見極めてからにします。今日は10枚あります。

福音朗読は、次のように結んでいます。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(18・35)人はときおり、どうしても赦せない出来事や赦せない事情を抱えることがあります。しかしイエスは、物語の主人の憐れみ深さをお手本にして、周りの人に憐れみ深い態度を取るように勧めるのです。絶対に赦せないことにでも、それは当てはまります。

中田神父の母親の口癖は、「世の中に絶対は無い」これでした。小学生の頃、口酸っぱくこれを教えられてきました。当時は、何か欲しいもの、身につけたいものを念頭に、手に入らないものは無いとか、たどり着けない能力は無いとか、そのように受けとめていました。

あらためて考えると「世の中、絶対に赦せないものは無い」と当てはめることもできると思っています。母親は父親のことで絶対に赦せないことがあったと思いますが、それを赦してきました。「絶対に赦せない」「相手が死んでも赦せない」そう思っていることでも、「絶対というものは無いのだよ」という、人生の先輩からの教えなのだと思います。

これで皆さんが納得してくだされば、説教もここで終わりなのですが、最近「絶対に赦せない」「相手が死んでも赦せない」という事情を二つも三つも抱えている人がいることを知りました。絶対赦せない事情のうち一つは親子関係のことで、「赦せないけれども切り替えている」そう言ってました。しかし「絶対に赦せないこと」が二つも三つもあれば、それは絶対なのだろうかと思うのですが私からはとても言えません。

頭では理解していても、行動では受け入れられない。人間の限界が、どこかにあるのかも知れません。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」(18・33)返せない借金を帳消しにしていただいたのです。仲間の借金を免除できないはずがありません。頭では理解できていたでしょうが、行動で示せないのです。私たち人間が父なる神への負い目を返せないから、イエスが十字架にかかって、借金を帳消しにしてくださいました。

「心から兄弟を赦す」とは、限度を付けずに実行しようとする時、初めてその域に達するのだと思います。「相手が死んでも赦せない」その限度を、どうか取り除いてほしい。「相手が死んでも赦せない」と限度を付けているあなたを、イエスはそばにいて赦し、今日も生きさせてくださっているのですから。

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‥次の説教は‥‥
年間第25主日(マタイ20:1-16)
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ちょっとひとやすみ
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▼とても親しくしてくれた修道会のシスターをこれまで二人見送ってきた。二人とも、私に対して「赦せない」と思っていることがあったシスターだと思う。ひょっとしたら私の考えを遙かに超えて徳の高い人で、「赦します」と思っていたかもしれないが。
▼結局、シスターが私に対して「赦せない」と思っていた部分を、生きている間に挽回できなかった。私がシスターたちの世界に行った時、果たして赦してもらえるのだろうか。赦してもらえるだけの人間になる猶予を、神はこの世で与えてくれるだろうか。

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今週の1枚
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第863回目。バイクの走行距離が、20000キロに到達。そのうち何千キロだけ私。

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† 神に感謝 †
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年間第23主日(マタイ18:15-20)十字架山は二人三人が集まって祈り合う尊い場所

2023-09-09 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2023/9/10(No.1255)
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年間第23主日(マタイ18:15-20)
十字架山は二人三人が集まって祈り合う尊い場所
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今週は「兄弟の忠告」という具体的な問題を福音朗読で取り上げています。兄弟姉妹間で「心からの忠告」をすることはしばしば困難を伴いますが大切な務めです。朗読を通して学びを得たいと思います。

中田神父は五人兄弟姉妹の長男です。あとは弟三人と末の妹一人です。実家に帰ると次男と顔を合わせます。良好な関係ではありますが、母親からすればいつまでも親を頼っているので、いろんな忠告を私から言うように頼まれます。長男の果たす責任を次男が果たしてくれているので、お願いしたくても中田神父から言いにくいことも多いです。

これは一例ですが、兄弟姉妹間の「心からの忠告」は、困難を伴うことが多いのではないかと思います。忠告がすぐに結果を出すとも限りません。また忠告をいったん受け入れても反故にされたりして、他人でないだけに辛いなぁと思ったりします。

福音朗読では「兄弟」という言葉は肉親よりも広い意味で使われています。「同じ国民・民族」あるいは「教会共同体」と考えて良いでしょう。その中で、忠告がどうしても必要になった時、粘り強く心を込めて忠告します。排除するための忠告ではありません。何とかして、神を信じる者同士繋がりを断ち切らないための忠告です。

長崎教区には、ローマ教皇庁に認定された巡礼所が二ヶ所あります。一つは西坂の「二十六聖人殉教地」もう一つは浦上小教区の辻町にある「十字架山」です。今日は十字架山について少し取り上げます。

この十字架山は、「旅」と言われた浦上村キリシタンの一斉流配から帰った信徒たちによって、信仰の自由が認められたことへの「感謝」と、それまでの罪の「償い」、そしていったん教えを棄てて立ち帰った人や為政者との「和解」のために、カルワリオの丘に見立てた辻町の丘の上に大きな石で三段の礎を築き、その上に十字架を立てたものです。

そして今年は、「旅」の終わり150周年の締めくくりとして本日14時から十字架山でミサがささげられます。かつて中田神父も、浦上の助任司祭の時にこの場所でミサをささげましたが、先祖の苦労を思うまでは至っていませんでした。再び機会を頂いたので、厳しい迫害が解けて150年経って、十字架山でミサをする意義について考えてみたいのです。

十字架山までは階段を上がっていきます。ロザリオしながらミサをする現地まで上りますが、息が上がるきつさです。それでも、浦上の先祖たちも信仰の自由を得た感謝のため、上っていきました。

今週の福音に結びつけると、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(18・19)とあるように、かつて十字架山に共に集まって、やっと取り戻した信仰の自由が決して失われないように、立ち帰った信徒たちともずっと信仰の喜びを分かち合えるように、喜んできつい階段を上っていった、その姿に倣うために、今日午後から十字架山でのミサがささげられるわけです。

迫害の「旅」から信徒を連れ帰ってくださった神を信じる者の信仰は、あちこちで後の人々の信仰に繋がっていきます。五島もそうです。信仰を同じくする兄弟姉妹が、互いをいたわり合い、時には忠告し、二人三人が集まって祈り合う姿を、これからも大切にしていきましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第24主日(マタイ18:21-35)
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ちょっとひとやすみ
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▼葬儀で送り出す人にかける言葉が無いこともある。20代で職場の高所から転落して長く植物状態に置かれたあとに亡くなった人。50歳で自宅の裏で刈った草を焼いている間に心臓発作を起こし、家族が気づかないまま亡くなった人。どちらも辛い葬式だった。
▼今回予定されている葬式も胸が締め付けられる思いだ。現役のカトリック医師が亡くなり、勤務していたカトリックの病院も沈痛の思い。教会では経済問題評議員をしてくださり、五島人とまた違った視点で教会運営に寄与してくれていた。どんな言葉をかければよいのだろうか。

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今週の1枚
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第862回目。新型コロナの医療用検査キット。一つ用意しておくと安心です。
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年間第22主日(マタイ16:21-27)「私の十字架もきっと両手の長さより長い十字架」

2023-09-02 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2023/9/3(No.1254)
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年間第22主日(マタイ16:21-27)
「私の十字架もきっと両手の長さより長い十字架」
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「あなたは・・・神のことを思わず、人間のことを思っている。」(16・23)このお叱りをペトロがイエスから受けた時、ペトロは「え?」と思ったのではないでしょうか。ペトロは直前に、イエスに対する立派な信仰を言い表していました。少なくとも、弟子たちの中でいちばんイエスのことを理解していると思っていたはずです。

それなのに、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(16・23)といさめると、叱られたのです。立派に自分の信仰を言い表し、イエスのことをいちばん理解しているのは自分だと思っていたわけですから、叱られたのは予想外のことだったでしょう。

「神のことを思わず、人間のことを思っている。」よくよく考えたら、ペトロが考えを巡らせたのは「人間のこと」だった。だからイエスに叱られたわけです。イエスがエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺されるというのは考えたくないシナリオです。それはきっと私たちが同じことを打ち明けられても同じでしょう。

ペトロはのちに、どのような形で死を迎えるかを予告されたことがありました。「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」(ヨハネ21・18)

「行きたくないところへ連れて行かれる。」この経験を通してようやく、人間のことを思うだけでは最後までイエスに付き従うことはできないと悟るのです。「神のことを思わず、人間のことを思っている。」神のことを思う人にならなければ、よりイエスに従うことはできません。

その、神のことを思う最も優れた方法がイエスの次の命令です。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(16・24)私たちは年齢を重ねるにつれて何かを背負う必要が生じます。ただ、何を背負うかをよく考えなければなりません。

自分のしたいことだけ、自分の気に合うことだけを背負うならば、その人は「自分の命を救いたいと思う者」であり、結局は命を失うことになります。しかし、自分に与えられた十字架を背負うならば、それは神のことを思う生き方なので、最終的に命を得ることになるのです。

しかし、神から与えられる「自分の十字架」は、なんと重く、大きな十字架なのでしょうか。祭壇の十字架を見てください。イエスの両手より長く、その背丈よりも長いのです。イエスの十字架がそうなのですから、きっと私たちの十字架も同じでしょう。

もともと「背負いたい十字架」などあるはずがありません。「この十字架は私の背負うことのできる限度を超えている」誰もがそう思うでしょう。「主よ、とんでもないことです」と言いたくなります。しかしここで、「神のことを思う」のか、「人間のことを思う」のかが問われるのです。

次のように考えてはいかがでしょうか。私たちは自分の十字架を背負い、苦しみを通してイエスに近づく経験も必要だということです。イエスは必ず苦しみを通って三日目に復活すると言われたのです。私たちも苦しみを通ってイエスに近づき、復活の栄誉に与ります。誰であれ、イエスに従う道は、喜びと苦しみ、両面が用意されているのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第23主日(マタイ18:15-20)
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ちょっとひとやすみ
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▼朝鮮王朝ドラマを観ていると、王になる人物にはすぐれた「策士」「ご意見番」がくっつく。「すぐれた」と言っても「聖なる人になるため」という意味ではなく、「権力者になるため」ということだが。
▼ときおり、自分よりすぐれた見通しを持った人、自分より広い視野を備えた人と出会う。その人はめったに現れない人であることが多く、どうにかしてその人を味方に付けておきたいと思う。
▼ただ、「策士」に選ぶ権利がある。その人と出会った時、私は選ばれるだけの何かを持ち合わせているだろうか。

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今週の1枚
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第861回目。五島産業汽船。司祭ソフトボール期間のダイヤに要注意。

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