こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第4主日(マルコ1:21-28)イエス・キリストの名に信頼して語る

2021-01-30 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/1/31(No.1104)
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年間第4主日(マルコ1:21-28)
イエス・キリストの名に信頼して語る
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年間第4主日、「汚れた霊に取りつかれた男をいやす」物語が福音朗読に選ばれました。ことばが命令となり、命令が出来事となります。イエスはこの出来事で何を示そうとしておられるのでしょうか。

いわゆる「悪魔払い」のような儀式は、どんな時代、どんな地方でも知られていたと思います。ただそれらは儀式としてのものであって、イエスのわざは怪しい儀式によらず、「黙れ。この人から出て行け」と叱るだけでした。

私はこれまで、単に「汚れた霊が出て行った」という外面的なこと、表面的なことしか見ていませんでしたが、もっと考えると、いやされたこの男性は「解放された」のではないか。そのことに気づきました。

最近は「生活の質を上げる取り組み」がいろいろな場面で注目されるようになりました。例えば単に長く生きるだけではなく、「より人間らしく生きる」そのための取り組みが重視されます。医療でも痛みを取り除きながら治療するとか、外見が損なわれないような手術とかです。どのように生きるか。どのように人間らしい生活を取り戻すか。この点に社会も注目し始めました。

痛みと付き合いながら生きている人がいます。私は痛みと縁がないので、ほとんど気持ちが分かりません。けれども、痛みから逃げられない人の中には、「いっそのこと腕を切り落としてほしい」とか「足を切り落としてほしい」と考えるまで追い詰められる人もいるそうです。

その人に、痛みのない生活が与えられたら、きっと「救われた」「解放された」と思うことでしょう。そして、痛みを取り除いてくれた人を「私を解放してくれた人」「救ってくれた人」と考えるでしょう。

物語にも、イエスによって解放された人が登場します。このように神の国の支配がすべての人に及ぶ時、人は苦しみ悩みから解放されるのです。この人は表面的な自由ではなくて、生きていることのすべてを神に感謝できる、そんな心の底からの解放を、イエスに与えてもらったのです。きっとこの人は、イエスを「救い主」と理解したことでしょう。

イエスは汚れた霊を「叱る」だけで、汚れた霊の支配から解放しました。かつて私は、似たような場面を父から聞いたことがあります。家庭訪問を二人一組でする宗教団体の人が実家の父を訪ねてきたそうです。いよいよ二人が、父を説き伏せようとしたその時、父はこの二人を「うせろ」と一喝しました。二人は尻尾を巻いて逃げていったそうです。

この話、当時は面白い話としてだけ聞いたのですが、今考えると二人一組で回るこの人たちが父の言葉によって新興宗教の束縛から解放され、まことの救いに導かれるきっかけになればといいなと思いました。

私たち人間の言葉は拙いものです。しかし、イエス・キリストの名によって語る言葉は、汚れた霊を追い返す可能性があります。イエス・キリストの名によって「黙れ」と言う。その機会が与えられたら、ためらわずに語りたいと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第5主日(マルコ1:29-39)
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ちょっとひとやすみ
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▼政府が緊急事態宣言を11都府県に発出し、予定ではあと1週間でその期間が解除となる。確かに東京都は減少傾向にあるが、そう簡単に解除できるとは思えない。そうなると「延長」ということが考えられるが、いろいろ困ったことになるだろう。
▼平戸地区は2月21日に堅信式、佐世保地区の黒島教会は2月23日に耐震補強工事が完成して引き渡し式を予定している。もちろん教会のことばかり言うのは不公平だが、感染状況がよほど改善しなければ、緊急事態以外の県も困ることになる。自分のこととして、各自の努力を積み上げよう。

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今週の1枚
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第711回目。台風で落下した石の教会飾りを高所作業クレーンで設置中。

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年間第3主日(神のことばの主日)(マルコ1:14-20)イエスが「あなたに話したいことがある」と言っています

2021-01-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/1/24(No.1103)
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年間第3主日(神のことばの主日)(マルコ1:14-20)
イエスが「あなたに話したいことがある」と言っています
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先週に引き続き、今週も公開の主日ミサが中止になっています。フランシスコ教皇様は何かを察知しておられたかのように、今週年間第3主日の呼び方を「神のことばの主日」と命名されました。

ミサの「聖体の食卓」に参加できない中で、「みことばの食卓」がとても重要になってきます。みことばに養われるならば、それは霊的な聖体拝領をすることでもあります。しっかりと今週の朗読箇所に耳を傾けましょう。

イエスがガリラヤで宣教を始めましたが、そもそも人はどんなときに話を聞いてくれるのでしょうか。二つ考えてみました。一つは、借りてきた言葉ではなくて、自分の中から出てくる言葉で話している時です。

イエスの言葉は、誰かに学んだものではなく、イエスご自身の言葉、誰にも教えられていない「新しい言葉」でした。聞いた人々が「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」(マルコ1・27)と驚いた「新しさ」がありました。

もう一つは、「私に話してくれている」と感じる言葉です。どんな人でも自分に関係ないと思えば話を聞き流してしまいます。けれども自分に関係があると思えば、少々難しい話でも理解しようと耳を傾けるのです。宣教するイエスのことばには、これら両方の特徴が備わっていました。誰かの話を借りることなく、それでいて一人ひとりに語りかけている話し方でした。

イエスのこうした語りかけが、ガリラヤの漁師たちの心に響きました。いわゆる「偉い人」の話であれば、気にもかけなかったかも知れません。ですがシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネは、生活が一変するかも知れない呼びかけにじっくり耳を傾け、人生を賭けてイエスに従ったのです。

私はかつて、リュウマチでずっと寝たきりだった奥さんを見送ったご主人とご遺族に、通夜でこんな話をしたことがありました。「奥さんは十分十字架を担いました。ご自分のためだけではなく、多くの人の救いの分まで、担っていました。それができたのは、イエス様といつも一緒に十字架を担っていたからです。寝たきりだったのに、中田神父などよりよほど、信仰を証しして生涯を終えたのです。」

幸いにこのあいさつはご遺族に届きました。借り物の言葉ではなく自分の言葉で語る。一人ひとりに話す。これらがどんなに大切かを知った時でした。それ以後、ずっと、通夜と葬儀で守っているやり方です。

私たちは今、ミサのない日曜日を過ごし、「みことばの食卓」に着いています。与えられた朗読箇所から、「新しい語りかけ」「自分のためになされている語りかけ」を見つけ、大切に温めましょう。必ず、イエスは私たちを養うみことばを、今日も用意しておられます。

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‥次の説教は‥‥
年間第4主日(マルコ1:21-28)
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ちょっとひとやすみ
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▼教区長の通達があり、七地区ある長崎教区のうち六地区が「1月24日から2月7日までの公式の主日ミサを中止する」ということになった。残念だが、最大で90人にもなるミサ参加者が互いに接触する機会を作り続けるのは、いくら「礼拝だから」と言っても世間的には通用しないだろう。
▼長崎教区でただ一つ中止にならなかったのは上五島地区。今週も何とか、主日のミサが維持されると思っている。可能なら、上五島発の「ライブミサ中継」が届けばと願うところだが、無理は言えない。今はネットが活用できる時代。「本部事務局」だけが発信元になれる時代ではない。だれもが「福音の発信者」であってほしい。

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今週の1枚
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第710回目。メガネを変えました。フレームだけでも「ジョン・レノン」。

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年間第2主日(ヨハネ1:35-42)イエスのもとに泊まる人になる

2021-01-16 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/1/17(No.1102)
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年間第2主日(ヨハネ1:35-42)
イエスのもとに泊まる人になる
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今週と来週二週間、感染拡大の影響で公開ミサが中止となりました。ふだんの説教と違い、皆さんの手元に届けるため、手短に話したいと思います。配られた説教の原稿を、去年の緊急事態の時期を乗り越えた時のように、役立てて下さい。また、余裕のある人はYouTube(ユーチューブ)からKouji Nakadaを探して下さると、1月10日、17日、24日のミサの様子を見ることができます。よかったら登録して下さい。

洗礼者ヨハネの二人の弟子がイエスに「どこに泊まっておられるのですか」(38節)と尋ねると、イエスは「来なさい。そうすれば分かる」(39節)とだけ答えました。ここからの描写を今あらためて読むと、おかしな点があります。次のように書かれています。「そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。」(39節)

「どこにイエスが泊まっておられるかを見た。」この描写、これまでずっと目が留まりませんでしたが、豪華な宮殿に住んでいることを想像していたのでしょうか。あるいは贅沢な生活を想像して、確かめに行ったのでしょうか。ただ単に、どこにイエスが泊まっておられるか知りたかったのでしょうか。

これは「泊まる」という言葉を掘り下げることで解決します。「泊まる」には「教えや信仰など、ある状態にとどまる」という意味もあるそうです。すると弟子たちが見たのは「イエスが父なる神に深く一致し、神との親しさにとどまっている姿を見た」となります。そして、彼らがイエスのもとに泊まったということも「父なる神との親しい交わりに招き入れられ、時を過ごした」そういうことを意味するのです。

父なる神との親しい交わりを体験することを、「イエスのもとに泊まった」と表すのは興味深いことです。私たちは1月17日からまたも公式ミサの中止に追い込まれました。これは起こっていることだけを見れば悲しいことですが、見方を変えれば、すばらしい機会を得たと言えるかも知れません。なぜなら、「そしてその日は、イエスのもとに泊まった」朗読箇所に書かれている通りの体験に招かれているからです。

考えてみて下さい。教会聖堂での時間と、自宅での時間、どちらが長いでしょうか。自宅での時間がはるかに長いはずです。教会聖堂は、いつか自宅に帰る時間が来ます。「そしてその日は、イエスのもとに泊まった」この体験ができるのは教会聖堂でしょうか、自宅でしょうか。

私たちは、公式のミサの時間を奪われました。しかし神は、体験の機会も与えて下さいました。各自が持っている聖書を読んだり、聖書と典礼を用いたりして、「イエスのもとに泊まる」体験をする機会が与えられました。まずは今週と来週、イエスをお迎えし、イエスのもとに泊まりましょう。お迎えしたイエスは私たちを宣教へと派遣して下さるに違いありません。

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‥次の説教は‥‥
年間第3主日(神のことばの主日)(マルコ1:14-20)
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ちょっとひとやすみ
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▼新型コロナウィルスの平戸市での感染が、連日報告されるようになってきた。まだ限定的だとは思うが、市内各地に飛び火する可能性はある。買い物に出かけるだけでも十分気を遣わなければならない。
▼2週間、主日のミサを止めることになった。ご多分に漏れず、平戸地区も医療体制が逼迫していて、私たちが集団行動をすることで、医療に負担をかけることになってはいけないという判断で、まずは平戸口教会と協調行動を取る。

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今週の1枚
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第709回目。典礼が年間に変わった。Ordinary Time week1-17。

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主の洗礼(マルコ1:7-11)イエスは聖霊による洗礼を始めるために来られた

2021-01-09 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/1/10(No.1101)
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主の洗礼(マルコ1:7-11)
イエスは聖霊による洗礼を始めるために来られた
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主の洗礼を迎えました。今年はこの日まで、クリスマス飾りを置きました。9時ミサの後に、馬小屋を片付けてもらって、典礼の雰囲気も少しの間年間主日が続き、2月中旬からは四旬節に移行することになります。ただ、大変寒くなったので、天気次第です。

まず心に留めて欲しいのは、私たちは「主の洗礼」のミサを祝いましたが、新型コロナウィルスの感染が急速に拡大した長崎市内は、今週と来週の公開主日ミサが中止となりました。私の気持ちとしては、ミサに参加できない皆さんのために、みなさんとささげる今週来週のミサをYouTubeにアップして、お役に立ちたいと思っています。ご理解とご協力をお願いします。

今週の出来事を考えるために、洗礼者ヨハネの次の言葉を鍵に、考えてみたいと思います。「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(1・8)ヨハネが授けていた悔い改めの洗礼と質的にまったく新しい洗礼、「聖霊による洗礼」がイエスによってもたらされるのです。

しかしここで二つの疑問が残ります。一つは、イエスによってまったく新しい洗礼がもたらされるのであれば、イエスがヨハネから洗礼を受けることがどうしても説明できません。毎年、「主の洗礼」の祝日が来るたびに考えるのですが、どうしても消化できず、もやもやとしていました。

もう一つの疑問は、洗礼者ヨハネは、イエスに洗礼を授ける前も授けた後も、「イエスから洗礼を受けた」と書かれていない点です。イエスが洗礼を授けている報告を受けて、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3・30)と公言していますから、静かに舞台の中心を譲ったのでしょう。イエスの洗礼を重要なものとして人々に示したのに、なぜ洗礼者ヨハネは洗礼を受けに行かなかったのでしょうか。

私は、すべての説明が洗礼者ヨハネから受けたイエスの洗礼にあると理解しました。古くから、イエスが洗礼を受けたのは、イエスがヨルダン川の水に触れることで、水を清められたのだと解釈されてきました。洗礼は、水を用いて行われます。洗礼者ヨハネ以後は、ヨルダン川の水だけでなく、世界中の水が用いられます。そこでイエスが洗礼を受けることで、イエスが清められたのではなく、イエスが世界中の水を清めた。そのためにイエスの洗礼は意味があったと理解したわけです。

ただし、これだけでは洗礼者ヨハネがイエスから洗礼を受けなかったことが説明できません。そこで私は、もう一歩踏み込んで考えました。イエスは、「洗礼を清めるために」洗礼を受けたのではないでしょうか。

ご存知ないかもしれませんが、教会は洗礼の三つの形を現在認めています。通常は「水による洗礼」を受けるのですが、他にも「血による洗礼」と「望みの洗礼」を認めています。「血による洗礼」とは、イエスを信じる人が、まだ洗礼を受けていなかったけれども、イエスへの信仰を表したことで命を奪われたとします。迫害の時代はあり得ることです。すると教会は、「この人は殉教によって、『血による洗礼』を受けたのだ」と理解しているのです。

また、同じようにイエスを信じ、イエスへの信仰を十分に持っていたけれども、残念ながら「水による洗礼」を受ける前に世を去ったとしましょう。このような人についても教会は「この人は『望みの洗礼』を受けたと考えられる」そう理解したのです。

イエスが、洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。その後、洗礼者ヨハネはどのような最期を遂げたのでしょうか。彼はイエスへの信仰を持ちつつ、ヘロデの権力で奪った妻ヘロディアの憎しみを買い、殉教したのでした。彼は「水による洗礼」を受けませんでしたが、「血による洗礼」を確かに受けたのでした。

またイエスがこの世におられた時代に、イエスを信じる人がすべて「水による洗礼」を受けたわけではありません。イエスへの信仰を持ったまま、この世を去った人々も当然いるでしょう。この人たちは「望みの洗礼」を受けたと理解できるかも知れません。ですから、イエスが洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受けた時、これから始まる「聖霊による洗礼」のすべて、「水による洗礼」「血による洗礼」「望みの洗礼」を、清められたのではないでしょうか。

考えてみるとヨハネは、いつかヘロデの憎しみを買い、イエスのために殉教することを覚悟していたかも知れません。ですからあえて「水による洗礼」のお世話にならなかったのかも知れません。これは誰にも証明できないことですが、想像は膨らみます。

洗礼者ヨハネの「悔い改めの洗礼」は、徹底して「後から来られる方、イエス・キリスト」に人々を向けさせるものでした。私たちはすでに「水による洗礼」を通してイエス・キリストに結ばれています。さらにこれから一年、ミサに続けて参加して、イエスとの繋がりを深めていきましょう。

ミサに参加できる私たちは、今残念ながらミサに参加できない長崎三地区の皆さんに、勇気と励ましを与えることができます。ミサに参加できている間は、どうやったらこのミサの時間を確保できるか考えましょう。そうすることで、受けた洗礼の恵みを大切にする人となることができます。

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‥次の説教は‥‥
年間第2主日(ヨハネ1:35-42)
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ちょっとひとやすみ
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▼久しぶりに銀世界となった。長崎県内でも100件近くスリップ事故が起こったそうだ。私もかつて車がスリップして180度向きが変わり、青ざめたことがあるのでスリップ事故の恐怖は十分理解できる。
▼個人的には、私は「降る雪」をいつまでも眺めていることができる。雪を見ながらお酒を飲む「雪見酒」をぜひやってみたいとすら思う。たとえば2000m上空からこの雪が舞ってきた。それだけでも想像が膨らむではないか。

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今週の1枚
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第708回目。教会が雪化粧をした。中田藤吉神父様もきっと寒かろう。

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主の公現(マタイ2:1-12)ひれ伏して幼子を拝んだ

2021-01-02 | Weblog
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2021/1/3(No.1100)
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主の公現(マタイ2:1-12)
ひれ伏して幼子を拝んだ
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主の公現の祝日を迎えました。朗読箇所の最後の部分を切り口に考えてみたいと思います。「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(2・11)

占星術の学者達は、「ひれ伏して幼子を拝んだ」とあります。占星術の学者が私たちに教えたのは、ひれ伏して拝んだ幼子イエスが、「王であるキリスト(黄金)」であり、「祭司であるキリスト(乳香)」「預言者であるキリスト(没薬)」の姿を備えていることでした。はるばる来て、「王・祭司・預言者」であるキリストに礼拝をささげに来た。何かを思い出しませんか?

私には、2019年に日本においでになった教皇様の姿が重なります。バチカンからはるばる旅をして、イエス・キリストを礼拝しました。あの日の典礼暦が何だったか覚えているでしょうか?「王であるキリスト」の祭日でした。教皇様はきっと、「王であるキリスト」を礼拝しに来たのだと思います。

占星術の学者たちはもう一つのことを教えています。遠くからやって来た学者たちが、近くにいたユダヤの人々、またヘロデ王よりもお生まれになった方がどなたであるかをよく知っていた、ということです。

日本でも、同じことが当てはまると思います。クリスマスを日本中の人が祝っています。こんなに身近に祝って、親しんでいるのに、多くの日本人の中に幼子イエスはいません。もう一歩踏み込んで、クリスマスを祝う多くの日本人の中に幼子イエスを意識させるためには、私たちが占星術の学者の役割を確実に果たさなければならないと思います。

二つの方法で、役割を果たしましょう。一つは、救い主の礼拝をその場限りにしないということです。私たちの住む日本で、クリスマスはだれもが知っている「日常」になりましたが、いまだにその場限りの出来事で終わっています。最近日本で「イースター」という言葉さえ「日常」になりつつあります。こんなにキリスト教の行事が溶け込んできているのに、そこから本来のキリスト教信仰に結びつかないのは、「その場限りの出来事」で終わっているからです。

私たちはそうであってはいけません。お生まれになった救い主は、ずっと私たちと共にいてくださるのです。「クリスマスが終わったから、しばらくミサは休みだ」私たちの教会との関係がこうであっては、誰が新たにキリスト教の信仰にたどり着けるでしょうか。誰も、たどり着けません。毎週、できる人は毎日、お生まれになった救い主のもとを訪ねて、「共にいてくださるキリスト」「王であるキリスト」を人々に示していきましょう。

もう一つは、救い主を迎えた生き方を二の次三の次にしないということです。日本人の多くの人々は、クリスマスよりも大事なことがあると考えて生きています。クリスマスが、二の次三の次だからです。「どうやったらクリスマスを優先できるか」と考えていないのです。そうではなく、常に「どうやったらクリスマスを優先できるか」「どうやったら主の復活を優先できるか」「救い主イエスとの繋がりをどうやったら優先して生きていけるか」考えるということです。

占星術の学者たちは、最後にユダヤの国を出るにあたり、「『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」(2・12)となっています。彼らは使節団としての国と国のしきたりよりも、神の導きを優先する道を選んだのです。

いただいた信仰の恵みをその場限りにしない。どうすれば神との絆を優先できるかを考える。この二つを忘れないで生きるなら、私たちはこの日本にあっていつも占星術の学者です。イエスとの絆を常に温め続ける学者は、この日本にいて十分最先端の学者でいることができます。

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‥次の説教は‥‥
主の洗礼(マルコ1:7-11)
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ちょっとひとやすみ
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▼多くの人の前で見られる。それはすべてをさらけ出すこと。年末に修道会の神父様で長く海外で働き、教育を十分受けられない子供に学校を建て、多くの人の父担ってくれた人のドキュメンタリーを見た。
▼「裏も表も」さらけ出して生きる。それを公現の主日に学んだ。これから裏も表も司祭として生きる。

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今週の1枚
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第707回目。新成人の祝福式が無事にできた新年のミサで2021年を迎えた。

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詳細は、ホームページ:http://ss104313.stars.ne.jp/
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† 神に感謝 †
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