こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第3主日(マタイ4:12-23)神のことばは闇を照らす光

2020-01-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/1/26(No.1044)
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年間第3主日(マタイ4:12-23)
神のことばは闇を照らす光
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教皇フランシスコは、自発教令の形式による使徒的書簡『Aperuit illis』を、2019年9月30 日(聖ヒエロニモ司祭の記念日)に公布して、年間第三主日を「神のことばの主日」と名付け、「神のことばを祝い、学び、広めることにささげる」ことを宣言されました。自発教令の一部を引用します。

「それぞれの共同体は、ある程度の荘厳さをもってこの主日を特徴づけるための、自分たちにふさわしい方法を見つけていくことでしょう。しかし大切なことは、神のことばの規範としての価値に会衆の注意を向けさせるために、聖書のことばがミサにおいて賛美されることです。

この日曜日には、主のことばを告げ知らせることを際立たせ、説教においてそのことばをふさわしくたたえることを強調するのが、とくにふさわしいといえるでしょう。
司教たちは、典礼における神のことばの告知の重要性を明らかにするために、朗読奉仕者の選任式、あるいは朗読者を任命するための類似した式を執り行うことができるでしょう。

この点について、みことばの真正な朗読者となるために必要な養成を信者に提供するために、新たな試みがなされるべきです。このことは、すでに祭壇奉仕者あるいは聖体拝領のための臨時の奉仕者の場合には行われています。

司牧者たちは、聖書をどのように読み、味わい、そして日常的にどのように聖書とともに祈るかを学ぶ重要性を示す手段として、聖書あるいは聖書の中の一つの書物を全会衆に与える方法を見つけることもできます。とくに、『霊的読書(レクツィオ・ディヴィナ)』の実践を通して、そうすることができます。」

いくつか、大事だなと思われる点を抜き出しますと、「聖書のことばがミサにおいて賛美される」そのような工夫をすること、「主のことばを告げ知らせることを際立たせ」「説教においてそのことばをふさわしくたたえることを強調する」具体的な取り組み、そして「霊的読書(レクツィオ・ディヴィナ)』の実践」この四点がさしあたり必要です。

一つ目、「聖書のことばがミサにおいて賛美される」これについては、「朗読用聖書」を祭壇に立てかけて、そこから聖書を説教台に運び、可能な限り恭しく朗読することを心がけました。年間第三主日に、忘れていなければ続けてみたいと思います。

二つ目、「主のことばを告げ知らせることを際立たせる」この点については、いつもは毎週用意されている「聖書と典礼」を使用している信徒の朗読者も「朗読用聖書」をできるだけ使用し、信徒席から運んでいくようにすると良いと思います。

三つ目、「説教においてそのことばをふさわしくたたえることを強調する」たった今、ふさわしくたたえるための具体的な取り組みを説明しています。神のことばに対する最大の敬意を表すために、繰り上げのミサと9時のミサでは朗読聖書に献香をしてみました。

そして最後、四つ目として「『霊的読書(レクツィオ・ディヴィナ)』の実践」です。私たち長崎教区の教会は、「聖書愛読」という取り組みを続けています。この取り組みをさらに磨いていくことが、「霊的読書(レクツィオ・ディヴィナ)」につながっていくと思います。

最後の霊的読書について、もう少し話しておきます。聖書を読むことで、私たちが導きを得ていると感じる。霊的読書はここまで私たちを運んでいきます。

例えば今週の福音朗読、「四人の漁師を弟子にする」という場面が選ばれていますが、朗読が、私たちをその場に立ち会っている登場人物の一人と感じさせるほど、気持ちを込めて読み返してみましょう。「そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。」(4・21-22)

ヤコブとヨハネの立場に立って、もう一度読み返してみます。なぜ二人は、すぐに、舟と父親とを残してイエスに従ったのでしょうか。自分なりの答えにたどり着くまで、ゆっくり読んでみたり、二度三度読んでみたりしてください。

また、舟の乗組員と父親の立場に立ってみましょう。なぜ父親は、息子二人を止めなかったのでしょうか。反対もせずに送り出したのでしょうか。皆さんなりの答えが見つかるまで、繰り返し読み返す。すると、「聖書を読むことで、私たちが導きを得ていると感じる」この意味が分かってくると思うのです。

私たちはだれもが父親であったり母親であったり、息子や娘であったりするわけです。息子が舟と父を残して出て行く。なぜ止めないのかなぜ反対しないのか。その答えが父親にも息子にも見えた時、私たちは今週の朗読から導きを得ているのであり、その時こそ「霊的読書(レクツィオ・ディヴィナ)」を体験しているのです。

これから私たちは年間第三主日を「神のことばの主日」として繰り返し迎えます。この主日が、日々の生活に神のことばを取り入れるきっかけとなりますように。日々、神のことばに導かれている実感を得られるきっかけとなりますように。「暗闇に住む民の大きな光、死の陰の地に住む者の光」であるイエスに、続けて照らしと恵みを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
主の奉献(ルカ2:22-40)
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ちょっとひとやすみ
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▼あー、マラソン大会。「あー」と言っている時点で勝負は付いている。今年も負け。ダメダメ。それでも参加し続けるのは、私の知るある先輩神学生だった人の「奇行」のせいかもしれない。その先輩とはいまだに会えていないが、私は先輩の「奇行」を受け継いだ。
▼その先輩は、神学生が休暇を終えて帰ってくると、必ず「名簿の確認」をしていた。つまり、「神学校を辞めた人」のチェックである。神学校を辞めた人を目ざとく見つけては、筆記用具で線を引くのだった。
▼どんな思いで線を引いていたのか分からないが、ひょっとしたら「自分は最後まで生き残るぞ」という覚悟だったのかも知れない。私はたまたまその作業を見て、「変わったことするなぁ」と思っていた。しばらくは見続けていたのだが、ある日、「その日」がやって来た。
▼辞めていく学生たちを名簿から削除するために線を引いていたその先輩が、なんと辞めてしまったのである。当然自分で自分に線を引くことはできない。どうなったか?実は私がその「奇行」を受け継いで、辞めていく先輩後輩の名前に線を引いていったのである。
▼私は生き残り、司祭となった。もはやその「奇行」は続けていないが、これはマラソン大会にちょっと繋がってくる。マラソン大会は非常に負担の大きい行事なので、年齢が重なれば当然出場は難しくなってくる。私もその一人で、同級生はもはや誰も参加していない。
▼あえて参加している先輩を挙げれば、思い出せるのはH師とM師だけだ。大先輩のT師はマルコ園にいるし、大先輩のH師はいくら何でもご老体を引きずっては来ないだろう。そうなると、思い出せる2人との「落伍者競争」になるわけだ。
▼私は今のところ走れば走ることができる。いつでも先輩二人に「消去線」を引くことができる。せっかくだから60まで走って、「シニアの部」を設定してもらい、表彰台に上がりたいものだ。

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今週の1枚
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第651回目。1月24日(金)午後4時半から総合防災訓練が行われた。参加者少。

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年間第2主日(ヨハネ1:29-34)イエスが交わりに招き、証言者としてくださる

2020-01-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/01/19(No.1043)
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年間第2主日(ヨハネ1:29-34)
イエスが交わりに招き、証言者としてくださる
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「わたしはこの方を知らなかった。しかし(中略)わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」(1・33,34)洗礼者ヨハネがイエスを「知る」に至った出来事に中田神父は注目してみました。洗礼者ヨハネはイエスが目の前に現れてもイエスを知ることができなかったのです。何が起こって、彼はイエスを知ることができたのでしょうか。

誰も興味ないかも知れませんが、司祭団のマラソンが1月28日(火)に予定されていまして、2週間前になったので怪我だけしないようにと教会の周辺をジョギングし始めました。タイムは二の次です。中田神父には司祭団マラソン大会とは別の構想があって、マラソン大会で怪我をするわけにはいかないのです。

別の構想というのは、田平教会を出発点にして、2泊3日で今村教会までできるだけ歩いて巡礼しようというものです。今年実現できるか分かりませんが、ある部分は電車のお世話になって、田平教会と今村教会、建物の関連だけではなく、人と人とのつながりができればいいなと思っています。100年前は、車も走ってなかったことを考えると、鉄川与助は、ひょっとしたら歩いて今村と田平を行き来したかも知れない。そう思うと夢があると思いませんか?

福音に入りたいと思いますが、洗礼者ヨハネはイエスの姿を見てもイエスを知らなかったのですが、何かがあってイエスが神の子であると知り、証ししたのでした。私は洗礼者ヨハネが、イエスの御父と聖霊との交わりに、招き入れられたとき、イエスが神の子であると知ったのだと考えました。

洗礼者ヨハネは、自分を遣わした方から「“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」(1・33)と言われていました。イエスが洗礼を受けた後に、前もって聞いていた出来事を体験しました。

「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。」(1・32)父と子と聖霊の交わりに、洗礼者ヨハネも招かれて、神との交わりを体験したとき、イエスが神の子であると知ったのです。イエスの姿を見た時よりもむしろ、イエスとの交わりを体験したときに、イエスを知ることができたのです。

イエスの姿を見たときよりも、イエスとの交わりを体験したときを大切に考えるなら、同じ体験は私たちも可能になります。幸いに私はすぐ身近なところでちょうど当てはまる体験をしました。その時私も、イエスは神の子であると知ることができました。今日ここで、借り物の話ではなく、確信を持ってイエスがそばにいてくれたことを証ししたいと思います。

十日ほど前、手術を控えた方を見舞って、お祈りして欲しいという依頼を受けました。家族の話を聞いて、病者の塗油と聖体拝領の準備をしていくことにしました。病者の塗油を授けるとき、聖書の言葉を朗読して、病者の油を塗って、聖体拝領を授けます。通常は、すべて儀式書に定められた式文に沿って行います。

ところで私は、今回の病者の塗油に際して朗読する聖書の箇所を、違う朗読箇所を考えていました。それは、シモン・ペトロの姑が熱を出していたときに、イエスが熱を去らせてくださり、姑は一同をもてなしたというマルコ福音書の物語でした。病人訪問まで一週間あったので、当日までには該当箇所を探しておこうと考えていたのです。

ところが、病院に向かう水曜日の朝のミサのことです。その日指定されていた箇所は、何とシモンの姑の熱をイエスが去らせてくださった箇所だったのです。「あなたが必要としていることを私は知っている。」イエスにそう言われているような気がしました。

私はイエス・キリストをこの目で見たことはありませんが、イエスは私をご自身の三位一体の交わりに招いてくださり、「イエスは神の子である」と知ることができたのです。司祭として27年務め、この務めを通してイエス・キリストを語ることはできます。揺るぎない確信がなくとも、長年同じことを果たしてきたので語ることはできます。そんな私にイエスは圧倒的な方法でご自身を示してくださり、自信を確信に変えてくださったのです。

洗礼者ヨハネは、自分を遣わした方が先に示した光景を見せてくださることは信じていたでしょう。けれどもイエスが目の前に現れても、まだイエスを知るに至らなかったのでした。けれどもイエスのほうから洗礼者ヨハネを招いて、三位一体の交わりに触れさせてくださったのです。「あなたが必要としていた光景を見せてあげよう。」ここに至ってようやく洗礼者ヨハネはイエスが神の子であると知り、証をしたのです。

日本の諺では「百聞は一見にしかず」と言いますが、イエスを「知る」ということは、人間が百回聞くよりも、人間が一回見るよりも、イエスとの交わりに招かれることが大切なのです。イエスを知るということは人間の能力を超える出来事を知ることですから、イエスのほうから三位一体の交わりに招かれる必要があるのです。

イエスは、ご自身を知り、愛し、人々に証しするために、私たちを招いてくださいます。洗礼者ヨハネさえ、イエスが目の前に立ってもイエスを知ることはできませんでした。イエスが三位一体の交わりに招いてくださって、イエスを知ることができたのです。

私たちも同じです。イエスが三位一体の交わりに私たちを招いてくださいます。私たちはイエスの交わりに招かれて、イエスを知り、イエスを愛し、人々にイエスを証しすることができるようになります。イエスが招く三位一体の交わりは、ミサを通して、洗礼者ヨハネの時よりも身近に与えられています。このミサの中で、私たちもイエスを知り、証しする者となれますように。

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‥次の説教は‥‥
年間第3主日(マタイ4:12-23)
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ちょっとひとやすみ
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▼「その日に必要な聖書の箇所が与えられた。」これには続きがある。「何という偶然!」最初はそんな気がしていた。当然この箇所をメモを取るなり、ミサで使用している冊子を病人訪問に持って行くなりして、準備が必要である。
▼ところが、病院に出発するときに「該当聖書箇所」を朗読するための冊子、あるいは福音書を持参しなかった。「何という偶然!」と一瞬でも思ったのが悪かったのかも知れない。「これは偶然ではないよ。私があなたにチャンスを与えたのに、あなたはそれを無駄にしようとしている。」そう言われている気さえした。
▼誰にも何も言っていないのであれば、儀式書から右にも左にも逸れずに執り行えば、話題にはできないけれども責任は果たせる。「責任を果たすだけで良いのか?」非常に悩んだ。車を走らせてすぐに気づいたので引き返せばまだ間に合う。
▼あるいは、聖書の箇所さえ思い出せるなら、今はネットの世の中。どこからか該当箇所を探し出せる。ちなみにTwitter(ツイッター)の「calendarium_bot」が定期的に朗読箇所をツイートしている。だが聖書の箇所が思い出せない!運転中していてネットの便利なサイトにも考えが及ばなかったなかった!
▼結果的に、聖書の箇所を無事に手に入れることができたのは神に感謝した。関係者の皆さんにも感謝。人間一人の力でできることなど、たかが知れている。人の助けを素直に受け入れ、神との交わりを証しできる司祭であり続けたい。

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今週の1枚
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第650回目。簡易ライターをターボライターに。香炉に入れる炭をよく燃やせる。

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主の洗礼(マタイ3:13-17)神の「愛する子」の時代が始まった

2020-01-11 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/01/12(No.1042)
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主の洗礼(マタイ3:13-17)
神の「愛する子」の時代が始まった
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主の洗礼の祝日を迎えました。洗礼者ヨハネは最後の預言者で、イエスは新しい時代の到来です。時代の変わり目にあって、イエスが言われた「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(3・15)を実践するイエスに、私たちの模範を見つけることにしましょう。

先週あれだけ言っていたのに、いまだに高岩駅の線路下を右折してくぐる車が後を絶ちません。土曜日にバイクで「かめや釣具」まで遠出をしました。帰りに江迎中学校近くにあるデイリーで様子を見ていると、右折して川沿いの交差点まで軽自動車がやって来ました。

「500m先、峠を登る手前に、取り締まりをしている警察がいるのだがなぁ」と思いつつ、私の250ccのバイクで高架下の一時停止から坂道発進するのは無理と判断して、近道を避けました。高岩駅までやって来ると、また別の車が右折をしようとして後続の足止めをしているではありませんか。私は合図をして、「右折、ダメよ~ダメダメ」と伝えてみたのですが、伝わらなかったようです。

福音朗読に入りましょう。イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けるのですが、罪のないイエスが悔い改めの洗礼を受けるのがなぜ「正しいことをすべて行う」ことになるのか、その理屈がいまいち理解できていませんでした。参考にしている解説書を読み返し、毎年読んではいたのですが、今年読んでみてようやく理解できました。

ヨハネの時代である今は、彼から悔い改めの洗礼を受けることが人の取るべき態度です。悔い改めの洗礼は、洗礼者ヨハネで最後となる預言の時代に、神がイスラエルの民に望んでいることでした。それでイエスも父なる神が当時の時代望まれていたことに従われ、群衆の一人となって悔い改めの洗礼を願い出たわけです。ようやく私も、「なぜ」という疑問から解放されました。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3・17)。イエスが当時のイスラエルの民に神から求められていたことを選び取ったとき、天からこの声が聞こえました。イエスに倣うとき、私たちもまた父なる神から「わたしの愛する子」「わたしの心に適う者」とされるのではないでしょうか。今、私たちに求められていることを考えて、どのようにしたらイエスに倣う道をたどれるのか探りましょう。

私は、やはり教皇フランシスコの歩みが、現代の教会に神から求められている姿を現しているのではないかと考えています。その中で一つ取り上げるとすれば、教皇フランシスコが2015年を「いつくしみの特別聖年」と定め、そのために示された文書(大勅書)「イエス・キリスト、神のいつくしみのみ顔」にあらためて耳を傾けるのが良いと思っています。詳しくは3月の黙想会で取り上げたいですが、この大勅書の15番に、次のように書かれています。

「この聖年の間に経験すべきなのは、自分とはまったく異なる周縁での生活――現代世界がしばしばその劇的な状態を引き起こしています――を送るすべての人に心を開くことです。今日の世界には、どれだけ不安定で苦しい状況があることでしょうか。どれだけの傷が、もう声を上げることのできない多くの人の肉体に刻まれていることでしょう。」

「それは、豊かな人の無関心によって彼らの叫びが小さくかき消され、それ以上声が出せなくなってしまったからなのです。この聖年の間に、教会はこれまでにも増してこの傷の手当てをし、慰めの油を塗り、いつくしみの包帯を巻き、連帯としかるべき気遣いをもって世話をするよう呼びかけられることになります。」

「侮辱を与えることになる無関心、心を麻痺させて新しいことを求めさせないようにする惰性、破壊をもたらす白けた態度、そうしたものに陥らないようにしなければなりません。世界の悲惨さと、これほど多くの尊厳を奪われた兄弟姉妹の傷をよく見るために、目を開きましょう。(以下省略)」

実は教皇フランシスコは、次の教皇様を選挙するコンクラーベに招集されたとき、総会の席ですべての枢機卿様が5分間の演説をする間に、「教会はそれ自体から出て、周縁へと向かうことを求められている」と発言しました。少し引用します。

「教会はそれ自体から出て、周縁へと向かうことを求められている。それは地理的にというだけでなく、実存的な意味での周縁、罪の不可解、苦難、不公平、宗教の軽視と欠如といった周縁、思想の周縁、あらゆる種類の惨めさという周縁に向かえということでもある。それを行わないとき、教会は『自分のことばかり話をする病んだ状態』になる。腰が曲がったままになった女性(ルカ13・11)のことが思い浮かぶ」。

現代の教会、現代のキリスト者に求められていることは、「周縁」へと向かうこと、「周縁」にいる人々にいつくしみを示すことだと断言しておられたのです。

「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」私たちがイエスに倣い、行動する大きな目標がここに示されています。「周縁」にいる人々にいつくしみを示すことです。そうすることで私たちは、イエスのように御父から「わたしの愛する子」「わたしの心に適う者」と呼んでいただけるようになります。

周縁にいる人々。私にとって、いちばん遠く、最も疎遠になっている人は誰でしょうか。あるいは教会を避け、教会から最も遠ざかっている人は誰でしょうか。その人に教会がどのように動けば、いつくしみの手を差し伸べることができるでしょうか。私は何ができるでしょうか。

教会は、「キリストの花嫁」と呼ばれます。「花嫁」にふさわしいのは、厳格さを振りかざすよりも、むしろいつくしみで包むことです。きっとできることが見つかると信じています。置かれた中でできることを果たして、私たちも父である神から「わたしの愛する子」「わたしの心に適う者」と呼ばれるキリスト者に変わりましょう。黙想会はその良いきっかけを与えるでしょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第2主日(ヨハネ1:29-34)
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ちょっとひとやすみ
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▼こういうことを「弱り目に祟り目」と言うのだろう。「もう辛抱できん」と思って人払いをして、そのせいで自分でしなければならないことが増えて、いつもならしないようなヘマをして、がっかりした。
▼郷里の鯛ノ浦に帰省後、洗濯物を処理した。ところが司祭シャツの胸ポケットに、メモが入ったまま洗濯をしたらしい。洗濯物を取り出して、小さくちぎれた紙くずが、私を鼻で笑っているように感じた。
▼もはや思い描いている生活は無理だ。少しでもストレスを感じないで生活するためには、やはり身軽にならなければならない。手当たり次第ものを始末し、頭の中にため込んでいる予定も全部片付けて、頭に空間を作れば、少しはましになるだろう。
▼たくさんの人が関わる場所は、よどみが少ない。誰も入らせない、誰にも手を付けさせない方法を許してしまうと、気がつかないうちにその場所はよどんでいく。風通しの良い環境をたくさんの人に入ってもらって作ることにする。
▼最近ほとんど毎日夢を見ているらしい。初夢はとても夢見が悪かった。それ以降もたくさん夢を見て、思い出せないくらいだ。毎日夢を見てもどうやら普通のことのようで、起きる前には黒板消しのような作業が行われて、ほとんど思い出せないらしい。
▼実現できそうな夢を見てみたいものだ。信徒会館裏手の敷地で、野外ミサをささげているとか、田平教会が耐震補強工事に入ったときに、田平教会の恩人が寄付をしてくださってその人に感謝状を贈るとか。だが実現できそうな夢は、もはや夢とは言わないかも知れない。

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今週の1枚
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第649回目。刺身でもおいしい魚を入れて、野菜の鍋。まぁ、食べられる味だ。

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主の公現(マタイ2:1-12)私たちは別の道を通って生きる者

2020-01-03 | Weblog
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主の公現(マタイ2:1-12)
私たちは別の道を通って生きる者
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主の公現の祭日を迎えました。占星術の学者たちは最終的に、「夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」(2・12)のでした。別の道、ヘロデにあいさつして帰るこの世の道ではなく、礼拝したイエスに導かれて帰る新しい道を彼らは選んだのです。

田平教会の今年の年間テーマを、「今年、信仰の分かち合いができるキリスト者に育ちましょう」としました。昨年教皇様を間近に見た私たちは、積極的に自分も教皇様と同じ道を歩くカトリック信者であり、教皇様が大切に考えていること、特に命を守ることや弱い立場にある人への理解は、同じ考えを持っていますと声を上げる年にしたいと思っています。聖書の分かち合いは大変かも知れませんが、教皇フランシスコと同じ信仰を持っていると声を上げることは今年の内に可能なはずです。

去年2019年は、一昨年に献堂百周年を祝った後、「聖堂を百年守ってきた」その姿勢から一歩前に出て、教会に生かされている自分を証しする、教会に生かされる生活に関心を持ってもらうよう働きかけてみましょうというテーマでした。田平教会のために、一歩前に出て何かお手伝いしてくださったと思います。今年、信仰を証しする取り組みをさらに積み上げましょう。

1月2日、帰省された方々の半日黙想会を行いました。教皇フランシスコのことを少しでも知って、今年の年間テーマを実現する手助けになればと思って話してみました。実はまだよくこなれていない状態で話したのですが、3月22日の黙想会ではもっとすんなり話に耳を傾けられるようになっていると思います。ついでになりますが、田平の黙想会の直前の週に、何と上神崎教会から黙想会の説教師を頼まれまして、ここだけの話、上神崎で十分練習を積んで、それから田平で話すことができるなぁと喜んでおります。内緒ですよ。

さて、1月2日の黙想会が終わってから、嬉野の温泉に浸かりに行こうと思いまして、午後から車を走らせました。江迎の高岩駅の線路の下をくぐったときに、何やら異変を感じまして、くぐったすぐ先にあるアパートの敷地でとっさにUターンして、また県道に上がってきました。くぐる直前、右の案内板には「右折禁止」左の案内板には直線と左折のみの案内があり、これまであったはずの「7時から9時までと16時から19時まで右折禁止」という案内が見当たらなかったのです。

さてはまんまと罠に引っかかったと思い、とっさに線路の下のアパートの敷地内でUターンしたわけです。県道に上がってみると、後ろにパトカーが見えるではありませんか。これは捕まった、と思いつつ斜め前のセブン・イレブンに避難したところ、私の直後にいたパトカーはまっすぐ江迎署に向かい、事なきを得ました。この日私は昨年までの高架下を右折して佐々に向かう道ではなく、「別の道を通って」無事嬉野までたどり着いた。そんな新年の幕開けでした。少なくとも私が通ったときは全面右折禁止になっていました。ご用心ください。

お巡りさんを避けるための「別の道」はついでの話です。私たちが真面目に考えるのは占星術の学者たちが選んだ「別の道」です。彼らは「別の道があるだろう」ということは考えてはいたと思います。夜空に輝く星を頼りにこの世界の歩みを占っていたのですから、この世の王が支配する人間の暮らしだけがすべてではないだろう。きっと正しい王が人類を治め、導く道があるはずだ。それは考えていたと思います。

しかし実際にはこの世の王の支配は逃れられない現実でした。ユダヤの国に入れば、ユダヤを支配しているヘロデにあいさつをしてからでなければ彼らは安全が保証されません。どこに行っても、どこにいても正しい王が民を治める時代がいつか来るに違いない。学者たちは幼子を見つけたときに、新しい時代の到来を確信したのです。

この世の権力者に振り回されるのではなく、幼子イエスを通して正義と愛と平和の国を期待できる。占星術の学者たちは確信して帰りました。新しい道が開けた彼らは、古い道を通って帰りませんでした。つまりこの世の支配者にあいさつして帰る古い生き方を捨てて、正しい王に導かれて生きる新しい道に従って帰ったのです。

私たちはどうでしょうか。今やイエス・キリストに導かれて生きる新しい道が示されました。幼子イエスは口を開いてあれこれ指示しませんが、幼子イエスに従って生きる道は、イエスの前に跪くとき、必ず示されます。なぜならここにおられる幼子は、私たちのいちばんそば近くにいてくださるために、幼子の姿を取ったからです。イエスが、私たちのいちばんそば近くにおられる。そのことを信じるなら、私たちは新しい道を通って生きていくことができるのです。

もしかしたら、私たちはこれまでの生き方をなかなか手放せないかも知れません。これまでの生き方で成功したとか、この世のルールでそれなりに生きることができていると考えるなら、これまでの生き方に執着するかも知れません。イエスがいちばんそば近くにいて、私たちがどちらか選ばないといけないときに、「イエス様はどちらを望みますか?」と問いながら決断することに慣れないかも知れません。

ここで占星術の学者たちを見倣いましょう。彼らは自分たちの贈り物をイエスに差し出しました。もしかしたら、命の次に大切なものだったかも知れません。それをイエスの前に置いたとき、イエスに導かれて生きる新しい道、別の道が開かれたのです。ですから私たちも、私たちが命の次に大切と思っているものをイエスに差し出すなら、イエスの導きを受けて生きる新しい道が見えてくるのではないでしょうか。

教皇フランシスコは、イエスに導かれて生きる姿を、国民の0.1%しかカトリック信者のいない国で証ししてくださいました。別の道を通って生きること、経済最優先の道とか、何とかミクスとか、私たちはもしかしたら踊らされているのかも知れません。99.9%の人が選んでいない道ですが、私たちはこれからも、別の道を通って生きる者なのです。

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‥次の説教は‥‥
主の洗礼(マタイ3:13-17)
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ちょっとひとやすみ
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▼「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13-14)1月2日の黙想会を終えて、あらためてこの聖書の言葉を考えている。
▼今年は黙想会の中で、「フランシスコ教皇のことを知る」というテーマで取り組もうと思っている。私が教皇様のことを知っているとか、そんな大それたことを言うつもりはもちろんない。「毛頭無い」と言いたいところだが、すでに毛はないので言わない。
▼一冊の本を手がかりに教皇フランシスコの人柄をたどっていく。だから私が参考にする本を繰り返していねいに読めば、黙想会に参加したようなものなのだが、コンパクトにまとめて話してもらうのを聞いたほうがつかみやすい。だから黙想会参加費を払って参考にする本からのエッセンスをもらって欲しい。
▼1月2日までにも真面目に読み返し、掘り下げてきたつもりだが、やはりそれでも足りない。何が足りないのか。それは「狭い門から入る」この部分である。教皇フランシスコの生き方や考え方は本の中に十分説明されている。だが本を10回読んでも、極端な話50回読んでも、足りないのである。
▼それは、教皇フランシスコが生きているように生きてみなければ、教皇フランシスコの人柄に「確かに触れた」とは言えないわけだ。身分の高い人が当然利用する権利を横に置いて貧しさに生きるとか、教会の教えから遠く離れて生きている人の声に耳を傾けるとか、罪に溺れそうになっている人に浮き輪だけ投げるのではなく、そばに行って手を差し出すとか、そうしないと教皇フランシスコの人柄に触れることは難しいのだ。
▼少なくともまだ3ヶ月ある。教皇フランシスコが体験したことを自分も体験して、黙想会に備えることにしよう。

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今週の1枚
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第648回目。占星術の学者たちは遠くからイエスを拝みに来た。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

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2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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