こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第17主日(ルカ11:1-13)オールインワンが欲しいのですか?

2019-07-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/7/28(No.1014)
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年間第17主日
(ルカ11:1-13)
オールインワンが欲しいのですか?
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「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(11・13)このイエスの答えにどこか満足できない人もいるでしょう。そんな皆さんに満足できる説明を探して、私たちが粘り強く祈り、聖霊を与えていただくことを心から願う人になっていきましょう。

夏休みの朝ミサとラジオ体操、本当に来ることができないのでしょうか。朝ミサに来て、ラジオ体操して帰ったら、1日100円あげると言ったら来るでしょうか?1日10人増えたとして1000円、週5日で5000円、5週間で25000円ばらまけばやって来るでしょうか。そもそもお小遣いで釣るのは私の仕事でしょうか?現状は地域にいるカトリックでない子供達が6人来て、教会の子供が2人です。どう受け止めたら良いでしょうか?

さて女性の皆さんは朝からすることと言ったら何があるでしょうか。多分、お化粧をするのだと思います。テレビのコマーシャルを見る限り、女性に重宝されるものは決まっています。値段が手頃で、手入れが簡単なものです。「何とかユリさんが会社を挙げて開発しました」とか、「何にもしてないんです。これ以外は」みたいなコマーシャルを見飽きるほど見ます。

そしてたどり着いた決まり文句があります。それが「オールインワン」という言葉です。「これ一本で」「これだけで」そうですね。きっとこれ一個ですべてが含まれていると言われて値段が手頃であれば、誰でも使ってみたいと思うでしょう。ひょっとすると、コマーシャルにも出てみようかなと思ってしまうかも知れません。

「オールインワン」は、それほど魅力的な言葉だということです。まぁここまで言えば、私が何を言いたいかは分かるでしょう。イエスは私たちに、粘り強く願い求めるなら、「オールインワン」を与えてくれるということです。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

この世の「オールインワン」を与えてくれる人たちは、手頃な値段で、そこそこ良い物を与えてくれて、バンバン儲かっています。まして天の父は、無償で、与えることのできるすべてが詰まった「オールインワン」である聖霊を、与えてくださるのです。

最近のお化粧品には、「パーフェクト」という単語さえ使われていますよね。「完全」という意味のはずですが、「完全」なのは神以外に存在しません。ですから天の父が聖霊を与えるのは、聖霊が、人間に与える賜物として完全だからです。「これ一つで、他は何もしてません。」どこかで聞いたような言葉。本当にこれ一つで、他は何も必要ない、そんな完全な答え、それは聖霊ではないでしょうか。

天の父が与えてくださる聖霊が「オールインワン」で、「パーフェクト」である例を示しましょう。土曜日に私は青洲会病院に呼ばれました。黒島教会の信徒が命の危険にありました。集中治療室にいて、これ以上打つ手がなく、ただ見守るしかない場面で、いやしの賜物を願い、病者の塗油を授けました。少なくとも、これ以上打つ手がない中で、聖霊の恵みが与えていただけるのです。

本来なら、黒島教会の神父様がお世話すべきところでしょう。けれども聖霊の恵みは、違う司祭からでも届きます。聖霊の力、聖霊の働きは、司祭を選ばないからです。これだけでも、「オールインワン」で、「パーフェクト」と言えるのではないでしょうか。

夏休みはいろんな体験を親子で積むのにまたとない期間です。朝のミサに来て、ラジオ体操に参加すれば、天の父が与えてくださる聖霊の賜物に触れる機会を、ふだんよりも確実に増やせます。そう思いませんか?確かにそうだなと思ったなら、毎日とは言いませんが、何曜日に自分たちは家族でミサに行ってラジオ体操しよう。日曜日だけでなく、平日にも聖霊の賜物をいただく機会を作ろう。家族で相談して欲しいです。

「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』」(11・5-6)ここでは真夜中ですが、朝6時に大声で頼み事するのも同じことです。友であるイエスは聞き入れてくれなかったでしょうか?必ず聞き入れてくださいます。

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‥次の説教は‥‥
年間第18主日(ルカ12:13-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼「教会の祈り」(時課の典礼)の「寝る前の祈り」に、「良心の糾明」がある。正直、毎日毎日糾明しているわけではないが、「これは間違いだったなぁ」とか「なかなか直らないなぁ」と思う後悔が時々ある。
▼信徒の名前を聞いて、聞いたことのない名前だとする。それは私が把握していないだけなのだが、かなりの確率で「教会から遠ざかっている人だろう」と思い込んでいる。自信過剰というか、すべてを把握しているかのような傲慢が顔を出す。
▼よくよく話を聞くと、名前を知らない理由が見えてくる。知らないわけだ。もちろん最初の見立て通りに「教会生活から遠ざかっている」という場合もある。いろんな事情があり、それもよく聞いてみるとなるほどと思う。
▼ただその人たちがどのように今後教会とつながるのかは、別の問題。せっかく何かの機会があって教会との接点ができても、そこから、「私はこれからも教会につながるべきだ」と思う人ばかりではない。私を避けて、教会に来ない人すらいる。私にも責任の一端がある。
▼しつように頼む事情がここにある。私たちはあきらめが早いのか、「仕方がない」と割り切ってしまう。事情はどうあれ教会とはっきりしたつながりができた人を取り込んで「再び教会の中で生き生きとさせる」その使命が私にはある。

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今週の1枚
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第621回目。こうじ神父のパソコン画。これならどんな機器もキットツナガル。

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年間第16主日(ルカ10:38-42)イエスと私との間に何も置かない

2019-07-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/7/21(No.1013)
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年間第16主日
(ルカ10:38-42)
イエスと私との間に何も置かない
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年間第16主日のC年は「マルタとマリア」の物語が選ばれました。マルタとマリアの違いから、イエスが考えている「ただ一つの必要なこと」を理解し、信仰生活の振り返りといたしましょう。

最近ムーンデータとタイドグラフが表示できる時計を5千円で買いました。この種類の時計も高いもの安いもの、またメーカーもいろいろですが、カシオのお安いものを買いました。東経130度の月の満ち欠けと潮汐が分かるということで、釣り人の私にはうってつけです。

この時計のおかげなのか、最近鯛をきっちり釣って帰ることが多くなりました。ムーンデータとタイドグラフを参考に、釣れる時間なおかつ私が行ける時を狙い撃ちしていることが大きいと思います。月曜日に漁に出かけており、私は食べないので、釣った鯛は修道院か、引退した神父様に届けております。

まぁここまでは普通なのですが、続きがありまして、引退した豊神父様に魚を届けると、気を遣ってあらためてお礼を言いに来るわけです。「今日はありがとう」で済めば良いですが、まず一時間は覚悟しなければなりません。それでも嬉しいです。私に洗礼を授けてくださった豊神父様が来てくださるのですから。時間がかかろうが、話を聞くわけです。

司祭というのはどちらかというと体育会系で、先輩を大切にします。どんなに忙しくても、豊神父様が来てくださった日は話に耳を傾けるのが最優先です。特に珍しい話があるわけではありません。そういう問題ではなく、黙って話を聞くことに、意味があるのです。

マルタとマリアの物語ですが、マルタはいろいろのもてなしでイエスに喜んでもらおうと懸命に頭を働かせています。接待攻勢です。ひょっとしたら箸を休める暇も無いほどもてなしを準備したのかも知れません。もう一方のマリアは、「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(10・39)のです。イエスの話を聞き漏らさないように、そばを離れなかったのでしょう。

女性が来客をもてなすのは今でも喜ばれる光景です。2千年前はなおさらのことだったでしょう。ただイエスは、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために」(マルコ10・45)来たと言っておられます。「イエスはお客様扱いすることを喜んでおられるだろうか?」と考えてみる必要があります。

私は初金曜日に、在宅の人を9人、病院に入院している人を7人、土曜日には老人ホーム入所者を6人現状で計22人お見舞いをしています。訪ねる人によっては家の中を歩いて回れる人もいるでしょう。けれども主任司祭が訪ねている当人が、聖体拝領の後にいろいろの世話でせわしく立ち働いていたら、「必要なことはただ一つだけである」と言いたくならないでしょうか。

そうなると、マリアの中に、「ただ一つの必要なこと」が表現されていると考えるべきです。マリアが心がけていたことは、「イエスのそばから離れない」「イエスのそばでひたすら耳を傾ける」という姿勢でした。

マルタとマリアの物理的な距離が問題なのではありません。マリアはイエスのそばを片時も離れなかった。その姿勢が大事なのです。

イエスをもてなそうと、「最初にこれを準備して、次はこれを用意して、他にもこうして、最後はこうしよう。」頭はフル回転ですが、頭の中のことが思いの中心になっていて、イエスから片時も離れないという姿勢を失っているかも知れません。イエスへの思いはありますが、イエスと自分との間に私の思いや私の用意した物が置いてあるなら、イエスとの距離ができてしまいます。象徴的にイエスの足下に座っていたマリアは、イエスと自分との間に何も置かず、イエスのそばでじっと耳を傾ける姿でした。

私たちは、しばしば祈ります。お酒を飲む人でさえ、食前の祈りをするでしょう。祈りは神と自分との距離を近づけるすばらしいひとときですが、祈りの間でも神と自分との間に私の思いが入れば、距離を作ることになり得るのです。「このお酒は、何県で造られたのだろうか。辛口だろうか。」とても興味がありますし、気になります。けれどもそれは、せっかく祈っているのに「ただ一つの必要なこと」にたどり着けていない祈りなのです。

私たちは神聖な祭りをささげています。「神聖な祭りを祝う前に、わたしたちの罪を認めましょう。」この祈りが無意味なものとなっていないでしょうか。考え事をすればするほど、神聖な祭りで神とより親しくなる機会を、イエスの祭壇に近づく機会を台無しにしてしまうのです。

せっかく、神と親しくなる機会をいただいたのなら、神にその時間を自由に使ってもらい、私たちはひたすら神のなさり方に耳を傾けましょう。神の語られる言葉、神の招きに心を留め、私が何とかして神様を喜ばせましょうなどという無駄な力を取り除きましょう。私たちは神の前に憩い、仕えるために来られた神の自由にもっと自分を委ねるべきです。

マルタは「主よ、何ともお思いになりませんか。」と言ってイエスに同意すら取り付けようとしましたが、イエスが求めている「ただ一つの必要なこと」には近づくことができませんでした。善意で行っていることでも、一旦手を休めてみるべきです。

本当に、主はその働きを必要としているのでしょうか。むしろ「どうぞお話しください。僕は聞いています」(サムエル記上3・10)と、心の窓をすべてイエスに開いて、イエスが自由に働ける場を用意したいものです。イエスがご自身をささげ、救いの恵みを届けるために、イエスと私との間に何も足さない、何も引かない。そんな気持ちでイエスとの神聖なひとときを過ごしたいものです。

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‥次の説教は‥‥
年間第17主日(ルカ11:1-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼15試合戦って1勝13敗1引き分けだって。「それ、どこのチーム?」と言いたくなる。ここまで広島カープが負け込むとは思っていなかった。考え方も取り組む姿勢も、何も変わっていないだろうに、こんなに負け続けるとは思わなかった。
▼ちょうど良い頃合いだ。私が球場に乗り込んで、祈りながら応援しよう。この日マツダスタジアムに聖職者は何人存在するだろうか?1人か?2人か?いずれにしても一桁しかいないだろう。その限られた職種の人間が、全身全霊の祈りを込めて応援してくる。
▼生物の進化論にはあまり興味は無いが、文化や芸術は進化するのではないかと考えている。進化なのか適応なのか分からないが、たくさんの人の工夫と努力が、いつも時代に必要とされるものを生み出してくれる。
▼「笑い」はさんざん研究し尽くされて、数千年経過しているはずだ。もはや現代人を笑わせることなど不可能のように思われるが、今も新しい笑いを提供してくれる人が現れる。ありがたいことだ。私も漫才を見ていたら、大笑いしてしまった。

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今週の1枚
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第620回目。修道志願者の聖歌の美は人の内面からか。召命を完成させて欲しい。

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年間第15主日(ルカ10:25-37)いのちへの道に導く隣人が必要

2019-07-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/7/14(No.1012)
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年間第15主日
(ルカ10:25-37)
いのちへの道に導く隣人が必要
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年間第15主日の福音朗読に「善いサマリア人」のたとえが選ばれました。私たちが本当に助けを必要としているとき、助けてくださるのはイエス・キリストです。そのことを学んで持ち帰ることにしましょう。

お告げのマリア修道会の志願者の皆さんがミサに参加してくれています。すでに典礼奉仕を手伝ってくれています。奉仕の本来の姿を志願者の皆さんは示してくれています。奉仕は本来人にも自分にも喜びを与えるものです。聖書朗読を手伝ったなら、朗読を聞いた人が喜ぶことになるし、きちんと神様の言葉を届けることができて良かったと、自分にも喜びがあります。奉仕は本来こうあるべきですね。

いよいよ私は、瀕死の状態の広島カープのお見舞いに行こうと思っています。これも奉仕です。チームにとっては、はるばる長崎県からのお見舞いを受けて感謝の気持ちが湧くでしょうし、私にも、全力で勝利のためチーム一丸となって戦う姿を見れば何連敗していても喜びがあります。奉仕の精神で、19日(金)のナイター観戦に行ってきます。

さて物語に登場する人物を、私たちに分かりやすい形に説明しなければなりません。半殺しにされた人は、助けを必要としているすべての人です。私たちも含まれています。私たちは時々道をそれるからです。罪を犯す人は、正しい道からそれていく人なので、導く人、助ける人が必要です。悪口を時々言うだけでも、うそを時々言うだけでも、注意してもらったり戒めてもらったりしないと、正しい道に戻ることは難しいのです。

特に、半殺しにされた人は、そのままでは死んでしまいます。いのちを救ってもらわないといけません。いのちを救ってくれる人が通りかかるのを必死に待っているのです。「うそは言うけれども、だからといって死にかかってはいないなぁ。」そう思っている人もいるかも知れませんが、人はどんなに小さな傷からでも、死ぬ危険があるのです。

次の登場人物に移りましょう。祭司が道の反対側を通りました。道の反対側を通ったこと自体は問題ではありません。ふだん右側通行をする人々は誰でも向こうから見える人と道の反対側を歩いています。祭司とは、神殿の聖所で礼拝を果たす人です。レビ人は、祭司にお仕えして礼拝に協力する人です。祭司は神殿の聖所にまで入る人ですから、私たちのカトリック教会で言えば司祭のことでしょう。レビ人は、司祭にお仕えして礼拝に協力する人ですから、修道者や志願者、神学生と考えて良いでしょう。

司祭は、半殺しにあった人を避けていきました。司祭は礼拝の時間が厳しく決められています。13日(土)は、朝6時のミサがあって、11時に葬儀のミサがあって、13時半にこどもたちの赦しの秘跡があって、19時に主日の前晩のミサがありました。時間の余裕はありませんでした。もし、外に出かけていて帰り道倒れている人を見つけたら、葬式のミサに遅れてはいけない、こどもたちの赦しの秘跡に遅れてはいけない、前晩のミサに遅れてはいけないと考えて、立ち止まらないかも知れません。

司祭にお仕えする人も、司祭の予定を考えたら、立ち止まれないと思います。11時の葬儀ミサが始まるのにオルガンを弾く私が遅れたら大変な迷惑をかける。前晩のミサで聖書朗読を頼まれている私が遅刻したらミサが止まってしまうかも知れない。イエス様の時代は携帯電話もありません。神殿で礼拝を待っている人に「大変なことが起きたので遅れます。でも必ず戻ります!」そんな連絡もできないのです。ですから、物語に登場した祭司やレビ人は、立ち止まらなかったのでしょう。

人間は、それほど弱く力が足りないのです。身体が二つあれば、同時に自分の務めを果たし、道に倒れている人を助けることもできるでしょう。けれどもそれは不可能です。そしてどちらを選ぶかと言われたら、自分の都合を選んで優先してしまうのです。人間には限界があるわけです。けれどもイエス様は、そんな私たち弱い人間に代わって、助けを必要としているすべての人のそばを通ってくださるのです。そうです。「旅をしていたあるサマリア人」とは、イエス・キリストのことなのです。

このサマリア人はその場で必要な手当てのほかに、完全に健康を取り戻して生活に戻れるまでのお世話をしてくださいます。倒れている人のために救急車を呼んで終わりではありません。救急車に一緒に乗り込んで、退院するまでずっとお世話くださいます。助けを必要としている人、特にいのちの危険にある人にずっと付き添って、健康を取り戻し、ふだんの生活に戻れるまで、手を差し伸べてくださるのです。

イエスの弟子である私たちは、当然このイエス様に倣う必要があります。もちろん弱い人間ですし、限界もありますが、イエス様は九十九匹の羊を残して見失った一匹の羊を探し回り、群れに連れ戻す方です。どれくらい見倣うことができるか分かりませんが、イエス様のやり方に合わせよう。今日からそう決めてください。

主任司祭は、いのちの危険にある人が助けを求めているとき、次の予定が入っていたらその人たちに「何分まで待てますか?」と確認して手を差し伸べることにします。最近も二度、青洲会病院に急に呼ばれました。コーヒー飲みかけていましたがすぐに行きました。ビール飲みたかったけれどもすぐに病院に向かいました。

イエス様のなさり方に、今日舵を切ることにしましょう。イエス様のなさり方に見倣う人が一人でも増えるなら、何人ものいのちの危険にある人、罪に縛られている人が、本当の意味で生きる人になるでしょう。私たちも、イエス様のなさり方に倣うことで、本当の意味でいのちを大切にする人に変わることができます。

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‥次の説教は‥‥
年間第16主日(ルカ10:38-42)
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ちょっとひとやすみ
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▼この2年で司祭館玄関に大きな変化が生じている。ほぼ毎日、クモが玄関前の階段にクモの巣を張っている。玄関前には階段があるが、階段の両脇に木が植えてあり、これを使って巣を張ろうとするのである。
▼なぜそうなったのか、疑っている原因があるが、それは後半に回すとして、このクモの糸のせいで私は毎日迷惑をこうむっている。朝ミサに行くたびに、このクモの巣に触れてしまい、顔にクモの糸をかけられるのだ。
▼このまえ霊名の祝いの食事会で中島みゆきの「糸」を歌ったが、さながら私の朝の日課は「♪縦の糸は私、横の糸はクモの巣」である。「♪織りなす布は、いつか誰かをからめ取って司祭召命が生まれ得るかも知れない。」なんと悠長な。
▼実はこうした状況の原因になっているのが「階段に手すりを付けたこと」ではないかと疑いを持っている。クモは風に乗って巣をかける場所に飛び移るが、これまでだと距離があって諦めていたのを、手すりができたおかげで「巣をかけてみようかな」という気になったのではなかろうか。
▼しかし手すりはどうしても必要だと判断して設置したので今さらどうこうできない。そうなると対処法は限られてくる。頻繁に階段を上り下りすること。だが面倒なので、田平教会の皆さんが頻繁にミサを頼みに来て、クモが巣をかけるのを諦めさせて欲しいな(笑)

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今週の1枚
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第619回目。私の父を知る人に思いがけないところで出会った。大切にしたい。

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年間第14主日(ルカ10:1-12,17-20△10:1-9)平和があるように

2019-07-06 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/7/7(No.1011)
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年間第14主日
(ルカ10:1-12,17-20△10:1-9)
平和があるように
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「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」(10・5)七十二人を派遣するイエスは、収穫のために働き手を送ってくださるようにと願いなさいと命じ、そのあとにこの「平和があるように」と告げなさいと命じます。弟子たちの願う平和とはどのようなものでしょうか。その平和は、どのようにして与えられるのでしょうか。

聖トマスの霊名の祝いを準備してくださって、本当にありがとうございます。今年はこれまで味わったことのない霊名の祝いを迎えました。長崎で頑張っている志願者から、「霊名お祝いカード」が届いたのです。

皆さんからのお祝いが前もって知らされていたお祝いなら、志願者から届いた「お祝いカード」は予想しなかったお祝いの喜びです。田平教会から志願者が出て、こんな嬉しいことが待っていた。神学生・志願者は、故郷の教会にとても大きな喜びをもたらしてくれるようです。

さて、今週説教の冒頭に取り上げた「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」この挨拶を、皆さんどこかで聞いたことがないでしょうか?もう思い出した方もおられるでしょう。ミサの中で使われています。

ではミサのどの部分で使われているでしょうか。二箇所あります。ふだん聞き慣れている箇所が一箇所と、めったに聞かない箇所が一箇所です。ふだん聞き慣れている箇所は、「平和のあいさつ」の部分で、「主の平和がいつもみなさんとともに」という招きです。このあいさつは、日頃ミサにあずかっている人はなじみ深いでしょう。

もう一つの箇所はどうでしょうか。ここを掘り下げてみたいと思いますが、これは司教様が来た時だけ使われる招きです。黙想会の時の酒井司教様も使っておりました。もちろん私たちの大司教様もお使いになります。どの部分でしょうか?答えは司教様司式のミサの始めです。「平和がみなさんとともに」と司教様が呼びかけます。思い出したでしょうか?

このあいさつは、司教様が用いるミサの招きのあいさつでして、司祭はこれを使うことはありません。この平和は、単に争いのない状態、穏やかな状態を指すのではなく、「満ち満ちた状態」を指し、「神の救いの到来を示す賜物、神が与える贈り物」なのです。

なぜ司教様がこのあいさつを用いて、通常の司祭は用いないのでしょうか。それは、叙階の恵みの違いにあります。司祭の叙階のあとさらに与えられる司教叙階の恵みは、「叙階の恵みの充満」と言われます。平和が「満ち満ちた状態」であるならば、その平和は真っ先に叙階の恵みが満ち満ちた司教を通して与えられるわけです。

みなさんは、司教様のミサに時々あずかることがあるでしょう。司教様の最初のあいさつ、「平和がみなさんとともに」を、今まで意識したことがあるでしょうか。もし意識してなかったとすれば、次回思い出してください。私たちは神が与える賜物である平和を、司教様を通していただいているのです。司教様が「平和がみなさんとともに」とあいさつしているとき、神の救いの到来を見ていることになるのです。

司教様司式のミサにあずかる人は、この並外れた恵みにあずかっています。そしてその恵み深いミサは、これまで髙見大司教様お一人でしたが、ありがたいことに補佐司教様が与えられて、より多くの人が「恵みの満ち満ちた状態」「神の国の到来」「神が与える賜物」にあずかれるようになったのです。補佐司教様の誕生で、「叙階の恵みの充満」により多くの人があずかれるようになるわけです。

堅信式、各種の記念行事ミサなど、大司教様と補佐司教様がそれぞれ分担してミサを司式してくだされば、これまで以上に長崎教区の教区民は恵みをいただけるようになります。少し耳の痛い話を言うと、今まで司教様が言っていた「平和がみなさんとともに」にまったく気づいていなかった人にとっても、もっと恵み深いミサになることでしょう。

この平和は、司教様を通して神様から与えられるものです。そうであるなら、私たちは神様から与えられる恵みを、司教様や司祭たちを通してより身近に感じることができます。司教様がおいでになると、遠くからしか見ようとしない人もいるかも知れません。恐れ多いと感じるかも知れませんが、司教様への親しみや尊敬の気持ちを、恵みを取り次いでくださるという気持ちで意識することができればいいなと思います。

「平和がみなさんとともに。」今年11月、私たちは教皇様を通して、神の国の到来を告げ知らせる恵み深い言葉を聞くことができるかもしれません。

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‥次の説教は‥‥
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ちょっとひとやすみ
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▼雨が続いている。九州南部に住む皆さんには、お見舞いを申し上げます。途方に暮れている人、悲しみを乗り越えようとしている人もいるでしょう。司祭はさまざまな人を思い出して祈っているので、ぜひ祈りが神様を動かしてくださると信じ、希望を失わないでいただきたい。
▼今年は思ったような天気にならない。梅雨だから雨が降るだろうと思っても、降らない地域があるし、降りすぎる地域も出てくる。私たち長崎県北部の人は、「あまり降らないなぁ」と思っている。
▼いつも7月のメルマガは霊名である聖トマスに関連して何かを書いている。教会新聞の記事もそのように書けば良かったかもしれないが、その時に浮かんだことを書いてしまい、季節感がない。季節を味わいながら生きる人でありたいものだ。
▼遊んでばかりの中田神父は、「夏休みはどうやって遊ぼうか」そんなことばかり考えている。霊名の祝いをしてもらうのも、かしこまって祝いを受けるのではなく、「どうやって楽しもうか」そんな考えで頭はいっぱいになっている。
▼そんな中、3つの物が少し気持ちを現実に向けさせてくれている。一つは25年近く使い、汚れてしまったものを買い直す機会が与えられた。毎月訪問する病人訪問バック。新調したら、私が病人になるであろう70歳過ぎまで、約20年間新鮮な気分でお見舞いに行けるようになる。
▼一つは夏物のスーツを買うことにした。ベージュのスーツを持っていたのだが、どれだけおなかを引っ込めてもズボンが入らなくなっていたので、ここが買い換え時と、今の体型に合うものを紳士服売り場で買った。これも20年は着るかもしれない。
▼一つは夏のスーツを若々しく着こなすシャツ。司祭のシャツを着用すれば当然きちっとした着こなしだが、自分としては年齢相応の見栄えに満足せず、40代の見栄えがする着こなしが目標にある。その着こなしを見事に叶えてくれるシャツが届いた。これは20年はもたないかな?

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今週の1枚
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第618回目。スーツ着てポーズ。お世話になっている床屋で散髪も完了。

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