こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

四旬節第5主日(ヨハネ12:20-33)だが、死ねば、多くの実を結ぶ

2009-03-29 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/90329.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
09/03/29(No.407)
‥‥‥†‥‥‥‥
四旬節第5主日
(ヨハネ12:20-33)
だが、死ねば、多くの実を結ぶ
‥‥‥†‥‥‥‥

先週、先々週は黙想会をずっとこなして大変でした。けれども繰り返し話す中でわたしにとっては大きな収穫もありました。初めのうちは、黙想会で話していることが自分にも見えてなかったのですが、それが回を重ねていくうちに見通せるようになったからです。おかげで、黙想会終わってしばらくは、聖パウロの回心を福音の学びに当てはめて考えることができそうです。大助かりです。

まず、パウロの回心からわたしたちが学んだことを確認しましょう。パウロは、これまでの自分中心の生き方から、イエスを中心に据えて生きる生き方に変えられたのでした。律法を一点一画も漏らさずに守り、非の打ち所のない生き方をしたとしても人間は自分の努力では救われないことをイエスに諭され、自分の力では変わっていけない弱さを持つわたしたちだから、イエスに導かれて変わっていきましょうというのがパウロの回心から学んだことでした。

今日の福音朗読も、この考えに沿って読み直すと、たくさんの箇所がなるほどと納得できるようになります。すぐに気がつく箇所は、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(12・24)という箇所です。

それに続く箇所も同じ呼びかけを読み取ることができます。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(12・25)「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。」(12・26)イエスの呼びかけを受けて生き方の大転換をしたパウロの姿が、今日の福音朗読のあちこちに見いだせると思うのです。

「イエスさまの時代にパウロは表舞台にいなかったはずなのに、どうしてイエスさまの呼びかけにパウロの生き方が読み取れるのか。」そう考えている人もいるでしょう。ところが、福音書が書かれた年代と、ペトロやパウロが殉教した年代をもう一度思い出すと疑問は解けます。

パウロは皇帝ネロの時代、60年代後半に殉教したと伝えられています。福音書が書かれた時代はというと、いちばん早いと言われるマルコ福音書でも、パウロの殉教より後に書かれているのです。ましてや、ヨハネ福音書などは、90年代に書かれたと言われます。

すると、福音書の著者たちは当然パウロの殉教も知っていたし、パウロの活躍や、キリストを中心に据えた生きざまについても十分理解していたはずです。ですから、イエスの言葉を福音書に残すに当たって、パウロの生きざまがイエスの言葉からしのばれるような工夫をしたかも知れません。

もちろんイエスさまの言葉を曲げて書き残したわけではありませんが、福音書の著者自身が、「あー、パウロの生き方は、イエスの歩まれた道をそっくりまねていたなぁ」と感じながら、福音書を書いた可能性は大いにあると思うのです。

イエスを信じる人々はけしからんと思って男女構わず縛り上げ、懲らしめようと意気込んでいたパウロ。その彼がイエスに捕らえられ、イエスのためならどんな仕打ちを受けても構わないと思うほど徹底的にイエスの僕となりました。

まさに、イエスと出会う前のパウロは才能豊かな「一粒の麦」でした。彼はイエスに捕らえられ、律法を守ることで義の道を歩もうとしていたこれまでの自分に死んで、イエスを中心に据えて生きる人に生まれ変わったので、想像をはるかに超える大きな実を結びました。

別の言い方もできるでしょう。パウロはそれまで自分の命を愛していたのでした。「生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」(フィリピ3・5-6)ところが彼が誇りに思っていたものを損失だと思えるようになった時、本当の意味でいのちを保ち、永遠の命に導かれたのです。

みごとに、パウロの中にイエスの招きの言葉が当てはまります。まるで、パウロはイエスが宣教活動をしている時に直接出会い、イエスの弟子になったかのようです。イエスの言葉を聞いて、生き方を変えたかのようです。実際には復活前のイエスにパウロは会っていませんが、復活したイエスと出会ってから、すべての失っていたものを取り戻したのかも知れません。

ここでわたしたちを振り返ることにしましょう。わたしたちにも、イエスの呼びかけは同じように響いています。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」そしてわたしたちもまた、パウロと同じく生前のイエスに出会っていないのです。

生きて、イエスに出会っていないなら、イエスのこの呼びかけを守ることはできないのでしょうか。そうではありません。わたしたちもパウロと同じように、復活したイエスからすべてを教え、導いてもらうことができます。

イエスは今の世界に聖霊を注いで、一人一人に、多くの実を結ぶ生き方、永遠の命に至る生き方を促しておられるのです。もちろんその生き方とは、パウロと同じくイエスを中心に据えて生きる生き方です。黙想会を無事に終えたわたしたちは、生き方を転換するまたとないチャンスが与えられています。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」イエスがまず身をもって示してくださった生き方を、わたしたちも歩んでいくことができるように、聖パウロの取り次ぎ、聖母マリアの取り次ぎを願いたいと思います。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼22日(日)。朝5時半起床。6時20分大明寺教会ミサ。7時15分から大明寺教会の信徒総会にあたってひとことあいさつ。馬込教会に戻り、7時50分馬込教会のミサ。8時50分、信徒会館にて馬込教会婦人会の総会でひとことあいさつ。
▼9時12分の船に乗り、高島教会に移動。9時45分から高島教会の黙想会後半。説教に続き、ゆるしの秘跡、11時から感謝のミサ。心づくしのお弁当を食し、12時40分に帰りの船に飛び乗り、13時から大明寺教会の墓地で納骨式。13時45分、納骨をした家族の招待を受けて食事会。
▼14時52分、東長崎教会の黙想会のために長崎本土に向け出発。15時15分、信頼できる人に車を大司教館から運んでもらってきて、乗り変わろうとしてエンジンを再度始動しようとしても動かず。保険会社に連絡し、JAFがやって来て、バッテリーの容量が足りなくて動かなくなっていると指摘を受ける。9700円もの出費(泣)。
▼とりあえず動くようにはなったので16時に大波止から東長崎教会へ。17時過ぎ、焼肉店に4人で陣取り、わたし以外は全て後期高齢者であるにもかかわらず、ロースを皮切りにありとあらゆる肉を食べ、ビビンバを頼み、デザートもほおばって帰る。わたしはお腹がどっかり。他の3人はどこにあれだけのものが入ってしまったのか。
▼19時から黙想会夜の部がスタート。説教は19時30分から40分程度を2回。21時過ぎ、今晩の寝床である大司教館に車で移動。21時45分、大司教館到着。こまごまとした準備を済ませ、ようやく23時就寝。ところが翌朝4時半に足がけいれんを起こし、死ぬかと思うほどの苦しみを味わう。痛い痛いと言いつつ、また知らぬ間に二度寝する。
▼翌朝起きたのは7時10分。9時から東長崎黙想会の朝の部が始まる。慌てて準備し、8時10分に大司教館を出発して9時に到着。朝の部の説教の1回目を9時30分から40分間して、次の説教開始時間(11時)までにこの日のミサを一人でささげる。その後も数限りなくスケジュールをこなし、水曜日にようやくすべての黙想会関連を終えた。
▼嵐のような日々だった。帰ってから、慰められる出来事もあり、無事に今週も生きてメルマガを発行している。400号を発行した~と大騒ぎしていたが、何ともう407号である。


‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第14回目。まだ手元に届いていないのですが、東長崎教会での黙想の一コマ。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
受難の主日
(マルコ15:1-39)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四旬節第4主日(ヨハネ3:14-21)イエスは世のすべての人を救うために来られた

2009-03-22 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/90322.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
09/03/22(No.406)
‥‥‥†‥‥‥‥
四旬節第4主日
(ヨハネ3:14-21)
イエスは世のすべての人を救うために来られた
‥‥‥†‥‥‥‥

今週の福音朗読箇所から説教を考えていて、ついこの前終了した黙想会の学びを、うまく福音のメッセージと結び付けて話したいなぁと思いました。そういうつもりで読み返していたら、次の箇所を取り上げるのがいいなぁと感じました。

17節です。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(3・17)世が救われるために、神は御子を遣わされた。世が救われるために、御子はそのすべてをささげました。イエスの地上での33年間の生活は、わたしたちだれもが人に語って聞かせることができます。

宿屋もないまま、幼子としておいでになり、ヘロデ王に命を狙われたりもしました。時が満ちて、ガリラヤで12人の弟子を選び、奇跡と権威ある教えで神の国を告げ知らせます。反対者の妬みによって不正な裁判にかけられ、十字架上で命をささげ、復活なさいました。出来事の1つ1つ、すべてが世が救われるためのものでした。

1つ1つを細かに見ていくことも必要ですが、一方でこのすべてのわざは人間をどこに向けようとしたものかも考えておくべきでしょう。それは、パウロの回心の話と結び付けるとこうなります。イエスは、人間が自分を中心にして生活する態度から、神を中心に据えて生活する態度にすっかり生まれ変わるように導いたということです。

パウロが、この導きによって救われたのでした。彼は自分の努力で積み上げてきたことを自慢しようと思えばいくらでも自慢できる人でした。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」

「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(フィリピ3・5-8)

パウロが言うように、自分の努力とか、由緒正しい系図とか、誇らしく並べ立てていたものを中心に据えて生きていたけれども、キリストと出会い、キリストを中心に据えて生きるように変えられた時、これまで命の次に大切と思っていたものさえも損失と思えるようになったのです。

パウロを導いたように、イエスはすべての人を神であるイエス・キリストを中心に据えて生きる人に導こうとしました。当時の宗教指導者たち、障害を抱えた人たち、弱い立場に置かれていた人たち、男性と比べて社会的立場の弱かった女性、異邦人、ありとあらゆる人を、自分を中心に据えて生きる人ではなく、イエス・キリストを中心に据えて生きる人に導こうとしました。それが、イエスが地上の生活で成し遂げようとした導きだったのです。

ですから、はっきりしていることは、自分を中心に据えて生きる限り、人はだれも救いにたどり着けません。パウロの生き方がそのことを教えてくれます。パウロは、律法にだれよりも熱心に生きていました。だれよりも熱心に生きていたのです。

彼は、人間的に見ればだれよりも正しく生きようとしていた、正しい人だったのです。けれども、パウロの生き方をどれだけ追求しても、どの段階まで完成させたとしても、人はその努力によって救われないのです。

それはわたしたちも同じことです。どんなに厳密に天主の十戒を守り抜いても、起きている間のほとんどを熱心な祈りに費やしても、イエス・キリストがその人の中心にいなければ、あなたの努力が中心に据えられているならば、その生き方によって救われたりはしないのです。

だからこそ、こう書かれているのです。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」わたしたちが自分の努力を正義として神に申し上げても、それだけでは裁かれることになります。わたしたちが救われるためには、イエスが示した生き方にすっかり移っていかなければならないのです。

わたしたちはこの招きが本当に分かっているのでしょうか。パウロはイエス・キリストに出会う前、自分の力では生き方を転換することはできませんでした。パウロほどの理解力がある人が、です。イエス・キリストに本来の人間のあるべき姿を示された瞬間にすべてを理解するほどの理解力の持ち主が、自分の力だけではイエスの示す生き方に自分を置くことができなかったのです。

わたしがここで言いたいのは、パウロさえも、自分の努力では生き方の大転換ができなかったのですから、わたしたちはなおさら、イエス・キリストの導きに頼って、自分の生き方を自己中心的な生き方からイエス・キリスト中心の生き方にしてもらう必要があるということです。

イエスの引っ張る力、わたしを変えてくださる力に導かれなければ、わたしたちが変わることはできないということです。イエスの主導的な働きを認め、受け入れることで、初めてわたしたちの人生の大転換は可能になります。「世が救われるために」イエスは神中心の生き方に大転換するよう人類を導いたのです。

それも、イエスにしかできない方法で。ガリラヤ中を歩き巡り、エルサレムで逮捕され、十字架に付けられ、死んで、復活するという、イエスにしかできないユニークな方法で、わたしたちの生き方の大転換を先導してくれたのです。

あと2週間後には受難の主日(枝の主日)です。イエスが示そうとした人間の本来歩くべき正しい生き方を、イエスは十字架の上でお示しになります。黙想会を終えたわたしたちは、イエスが示した道を歩きましょう。それ以外の道、つまり、イエスを生き方の中心に置かない道は、救いから遠く離れていると心得ましょう。わたしたちは、わざわざ遠く離れている道を好んで選ぶ必要はないのですから。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼一週間ぶっ通しで黙想会を組み、説教をした。聖パウロの回心について学び、わたしたちも変わりましょうというのが狙いだった。今週日曜日の晩から水曜日の昼まで、とある小教区に呼ばれ、黙想会の説教を引き受けている。これら一連の黙想会を通してわたしが実感したのは、だれよりも自分が変わらなければならないということと、ゆるしの秘跡の恵みはすばらしいということだった。
▼黙想会の初めの頃は、自分で説教している内容がまだ消化できてなくて、話ながら「何言ってるんだろう・・・」と自分を責めながら話していた。それが、2度、3度と話しているうちに「そうか、わたしが言いたかったのはこういうことだったのか」と自分で分かるようになってきた。パウロは自分中心の生き方から、イエス中心の生き方にすっかり転換した。それは、だれよりも先に、パウロの姿を示そうとしているわたしが変わらなければ伝わらないことである。
▼もう一つ、ゆるしの秘跡の中で、ゆるしの恵みが注がれているのを深く感じた。告白をしている信徒も恵みを受けるが、司祭も大きな恵みを受けるチャンスだということが今回分かった。告白をしている信徒は、自分がいやされている、ゆるされていることに深く心を動かされ、司祭は、イエスが司祭をもちいてこのゆるしの恵みを届けようとしていることに気づく。
▼告白に望む信徒は、さまざまな環境・境遇・信仰に対する視点があり、司祭はそれぞれの人に応じて同じ場所に立つ必要がある。罪と聞かれてミサに行かなかったことだけしか思い付かない人もいるし、自分の生き方が罪な生き方だったと気付く人もいる。それぞれの立っている場所に、司祭も立つ。そうして、どこへ歩いていくべきかを案内していく。すばらしい役割のために使ってもらっていることを今回あらためて感謝することができた。
▼黙想会とは関係ないが、黙想会の週に亡くなった高齢の女性の納骨に、たくさんの参列者が集まった。じつはこの女性のお姉さんも、5年前に亡くなり、この馬込教会墓地で眠っている。両方の親族が集まっていた。5年前に亡くなったお婆さんの子になる男性に、「2人とも長生きしたんだね~」とねぎらった。するとその人がわたしに「しんぷー。お前も長生きせんばぞ」とボソッと言った。
▼口べたなそのお父さんの一言は、わたしの心に深く刻まれた。健康を心配し、長生きを願っている人がいるのだと、嬉しくて涙がこぼれそうだった。おしゃべりの百万言よりも口べたな人の一言が、多くを語ることもあるものである。そのお父さんはさりげなくわたしに長生きするように言ったのかも知れない。けれどもわたしは、それを何倍にも濃縮して理解した。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第13回目。夜桜を撮影。手ぶれ防止機能がないので、15枚撮ってやっと1枚成功。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
四旬節第5主日
(ヨハネ12:20-33)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四旬節第3主日(ヨハネ2:13-25)まことの神殿であるイエスにすべてを秩序づけよう

2009-03-15 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/90315.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
09/03/15(No.405)
‥‥‥†‥‥‥‥
四旬節第3主日
(ヨハネ2:13-25)
まことの神殿であるイエスにすべてを秩序づけよう
‥‥‥†‥‥‥‥

いよいよ黙想会の週となりました。今年は聖パウロについて少しでも学びがあるようにと思って準備しています。今週のミサの説教も、先週のように聖パウロの歩みと、与えられた福音朗読が示すものを結び付けながら話を進めたいと思います。

イエスは神殿で羊や鳩といったささげものの動物を売り買いしている商人や両替商の人々を前に、圧倒的な存在を見せつけます。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(2・16)その迫力は、多くの人を黙らせるに十分でした。

イエスがこの場面で考えさせようとしたことは何だったのでしょうか。神殿を神聖なものとするために、いけにえの動物を売り買いするというこの世の習慣を完全に締め出すことだったのでしょうか。そういう面もあったでしょうが、それだけでもなさそうです。

イエスが「このような物はここから運び出せ。」と言われた時の様子を想像してみました。動物の鳴き声、動物を売りさばこうと必死に声をかける人の声、そんな中でイエスが声を上げたのですから、おそらく大声を上げたに違いありません。イエスは、どのような時に大声を上げるのでしょうか。

福音書を眺めると、大声を上げる場面がいくつか見られます。使い方が2つあると思います。1つは、十字架の上で父である神を呼び求める時です。ルカ福音書に次のような場面が残されています。「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。」(ルカ23・46)これはおそらく、ご自分のためというより、その場に居合わせた人々のために、大声で父なる神を呼び求めている姿です。

もう1つは、「聞く耳のある者は聞きなさい。」(ルカ8・8)と呼びかける時です。ヨハネ福音書で群衆に「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」(ヨハネ7・37)と言う場面と、ラザロに「ラザロ、出て来なさい」(同11・43)と大声で叫ばれたのも、同じような使い方です。呼びかけている人に信仰を求めています。

一方、わたしたちが大声を上げるのはどんなときでしょうか。皆、同じことを考えると思います。それは、怒りをあらわにする時です。その人の抑えられない感情が爆発して、大きな声を出すことがあります。

福音書の中での使い方を見る限り、怒りを表すためにイエスが大声を出すという場面は見られません。ということは、今日神殿で商売をしている人に向かって大声を上げたのは、怒りをあらわにするためではなさそうです。

「このような物はここから運び出せ。」イエスが大声を上げてまで示そうとしたのは何だったのでしょう。この点が今週の福音を学ぶための鍵になるのではないでしょうか。

わたしは、この場面でもイエスがご自分への信仰心を呼び覚ますために大声を上げたのではないかなと思っています。いけにえの動物を神殿から追い出すことで、いけにえに頼らない神殿がここに今存在していることを知らせようとしたのではないでしょうか。

イエスは、いけにえに頼らない神殿、いけにえに頼らない礼拝を目の前に示そうとしたわけですが、それは建物としての神殿の改革を意味しているのでしょうか。これからこの神殿は、イエスご自身がいけにえとなるのだから、動物のいけにえは必要ない。そのようなことを言おうとしたのでしょうか。

もう少し踏み込んで考える必要があると思います。ユダヤ人とイエスとのやり取りがそのことを暗示しています。「ユダヤ人たちはイエスに、『あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか』と言った。イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』それでユダヤ人たちは、『この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」(2・18-21)

ユダヤ人との問答の中で、神殿は最後にはイエスご自身の体として示されています。神殿の中にいるイエスを見るのではなく、イエスそのものを神殿として見るように人々を促していったのです。イエスの中に神殿を見るように、そのための信仰を、イエスは大声を出すことで求めておられたのです。

パウロも、信仰の理解の中で似たような体験をしています。パウロは、イエスに出会い、使徒として大きな足跡を残しました。パウロの働きは、キリストのみ国のための働きですが、彼の考えはキリストのみ国をキリストご自身と同一ととらえるところまで深まっていきました。

パウロにとって本質的なことはキリストである。この悟りに彼は到達したのです。それは、神殿(今のわたしたちの聖堂)にイエスがおられるというわたしたちの通常の考えから、イエスこそが神殿(聖堂)であるという考えにわたしたちを導くのです。

「このような物はここから運び出せ。」イエスのこの言葉は、すべてをイエスに秩序づけるようにとの呼びかけです。わたしたちに純粋な信仰を呼び起こす大声です。道具がなければ礼拝ができないとか、聖堂という建物に入らなければ礼拝ができないというのではなく、イエスそのものが神殿だから、わたしたちはイエスに結ばれている限りどこでも礼拝をすることができるのです。

今日の学びを生活に結び付けましょう。すべてを、イエスに秩序づけることが、1人1人に求められています。食べることを、イエスに秩序づけるためにどうしたらよいのでしょうか。イエスはパンを取り、賛美をささげ、それをさいて人々に与えました。わたしたちもパンを手に取ったなら、賛美をささげ、自分のためと、人々のためにさくべきです。

一日の終わりに床に就きます。この休みを取ることを、どのようにイエスに秩序づけるのでしょうか。イエスは朝、1人静かな場所に行って祈りました。体の疲れを取ることができて、また新しい1日が与えられた。そこでイエスのように父なる神に祈りましょう。

すべてが、イエスに秩序づけられ、最高の意味を持つ働きになります。お金とか、名誉とか、結び付けるのに魅力的なものはたくさんあるかも知れません。それらも一時的には価値を与えてくれるかも知れません。けれども、さらにそれにまさってすばらしいのは、イエスに秩序づけられた活動です。いっさいを外に運び出し、それから1つ1つのものをイエスに秩序づけ、最高に価値ある人生を送ることにしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼呼んでもいないのに3月12日で43歳になってしまった。「40歳かぁ・・・早いなぁ」と言っていたのは3年前のことになる。43歳でどうこうという思いはないので、とっとと50歳になればいいのになんて思うのは感謝が足りないのだろうか。
▼今週のもう1つのネタ。前日の11日に中学3年生のカトリック信者の子と長崎側の船の待合所で偶然出くわした。平日でもあったし、「おー、学校サボりか。それとも病院か?」と尋ねたら「たった今、公立高校の受験が終わったところです」と言っていた。あーそう言えば、「工業高校に合格したら逆立ちしてやるよ」と言ったんだったと思い出し、「試験の感触はどうだった?受かったか?」とストレートに聞いてみた。
▼ためらった後、「うーん、ビミョーですね。」と言う。「だったら合格してないな」と内心は思ったのだが、それを言ったらおもしろくないので、「何がいちばん難しかったか?」と聞いたら「国語です」と言う。
▼当てが外れた。彼は英語が苦手のはずである。「お前、日本人だろ~。国語が難しいはずないじゃないか」と冷やかすと、すぐとなりに座っていた青年が「ふふふ」と笑った。あとで考えるとこの青年は担任の先生だったのだが、わたしはそうとは知らず、話をおもしろくしたいがために、さらに質問を続けた。
▼聞こえるようにわざと、「ちゃんと名前書いただろうなぁ。名無しじゃ、合格するものも合格しないぞ。」すると中学生は「受験番号を書いて、名前は書かない決まりになってるんですよ。神父さま知らないんですね~。」公平を保つためなのだろうか。そこでわたしはオチを付けた。「いちおう書けばいいじゃないか。せっかく『麻生』という立派な姓をもらっているのだから。ついでに、『わたしは総理の孫です。よろしくね』と書けばよかったのに。」
▼ここで中学生のとなりに座っていた青年がついに爆笑した。さっきから話に食いついてくるなぁとは思っていた。ただものではない何かを感じ、中学生を脇へ引っ張って、「となりはだれだ?」と聞いたら担任だと言う。早く言ってくれよ。それならあんな冗談は言わなかったのに。それはいいが、公立高校の合格発表は3月18日。15日の日曜日にはまだ分かってないが、今のうちに腕立て伏せをして、逆立ちができるように準備でもしておくか。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第12回目。「街の灯りが・とてもきれいね・ナガサキ。」有名な歌を拝借しました。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
四旬節第4主日
(ヨハネ3:14-21)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四旬節第2主日(マルコ9:2-10)毎日の苦しみを背負う時、わたしたちは光り輝く

2009-03-08 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/90308.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
09/03/08(No.404)
‥‥‥†‥‥‥‥
四旬節第2主日
(マルコ9:2-10)
毎日の苦しみを背負う時、わたしたちは光り輝く
‥‥‥†‥‥‥‥

四旬節の第2週は、イエスの姿が変わる場面です。「変容」と言ったりします。今年は、黙想会をわたしがしようと計画していますが、イエスの変容の場面を、黙想会で学ぼうとしている聖パウロの回心と重ねて考えてみたいと思います。

イエスの姿が弟子たちの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」(9・2-3)とあります。この出来事は何かを言い表そうとしているのでしょう。まずはこのイエスの姿が変わったことを考えることから始めましょう。

考えるヒントとして、次の表現に注目しました。「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」イエスの姿は、この世のものでは表現できないというのです。それは言い換えれば、天の世界に属する姿になったということでしょう。イエスの、地上とのつながりとは全く違う面を、弟子たちはかいま見たのでした。

ここでペトロが次のような提案をします。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(9・5)今目の前に広がっている光景は、天の世界とつながっている光景です。それをペトロは、地上につなぎ止めようとしてあくせくもがいたのでした。

もちろんペトロの試みは失敗に終わり、光り輝く姿も見ることができなくなって、イエスと弟子たちだけが残ります。天の世界につながる一瞬を見た弟子たち。そしてこの出来事を地上につなぎ止めようと試みて失敗しています。実はこの時こそ、発想を変えて、どうやったら自分たちも天の世界につながることができるだろうかと思いを巡らすチャンスでした。

イエスが天上の世界とつながっているのだと感じた輝かしい姿に、エリヤとモーセが現れています。この2人も、何かを象徴しているはずです。エリヤは、「苦しむ僕」として描かれる預言者です。また、モーセは、自分には重すぎると感じたイスラエルの民をエジプトから約束の地に連れて行く人物です。一方は、苦しむ僕を表し、もう一方は、使命に忠実な僕の姿が込められているのでしょう。

イエスは、この2人の人物を通して、ご自身が苦しむ僕であり、父である神の使命に忠実であるという両方の面を示してもらっています。そうであるなら、弟子たちが天上の世界につながる道は、苦しみを通っていくこと、与えられた使命に忠実であること、突き詰めれば、イエスに倣うことが必要なのでした。

それを証明するかのように、雲の中から声が聞こえます。これはわたしの愛する子。これに聞け。」(9・7)イエスに聞き従うこと。イエスに倣い、苦しみを通って使命に忠実であるなら、弟子たちは天上の世界につながることができるのです。

弟子たちに求められていることは時代と場所を変えても当てはまります。つまりわたしたちも、地上にいながら、天上の世界につながることができるのです。それは、イエスの生涯に倣うことによってです。イエスが歩まれる、苦しみを担うことと使命への忠実をわたしたちが生活の中で担っていくなら、弱さの中にあるわたしたちも、天の国に結ばれるのです。

ここでほんの少しですが、パウロの例を紹介しておきましょう。黙想会の内容とも重なってくるので本当に少しだけにとどめますが、例えばパウロの決してくじけない態度は、イエスの生きざまを写し取っています。パウロは回心を経て、すぐに人々の前に出て「イエスはキリストである」と伝えました。人々はまだ、回心したというかつての迫害者を恐れて話に耳を傾けません。それだけでなく、自分たちの町から出て行ってほしいとさえ思っています。

宣教しようと人々の前に立つその度にパウロは拒否され、ある時は石を投げつけられ、町から町へと移動しなければならなくなります。毎回逃げるようにして新しい場所に移ります。それは、普通の人だったら絶望してしまうような状況です。

けれどもパウロは、その度に気持ちを切り替え、初めて宣教に行くかのような新しい気持ちで人々の前に立ったのです。どれだけ嫌われても、だれも理解者を得られなくても、それでもイエスを告げ知らせる場を探し求めていったパウロは、わたしたちの生きた模範だと思います。

わたしたちにも、あきらめたくなるような現実に立たされることがあります。どんなに親切にしても、お世話している人が心を開いてくれない。自分の言い方が悪いのかも知れないと思って黙っていると、無視していると勘違いされる。

いろんな時に、苦しみを経験し、自分の務めに忠実を尽くせないのではないかと絶望的になります。実はそうした場面こそ、わたしたちが天の国につながるチャンス、イエスの生きざまに自分を重ねて生きるまたとない機会なのです。

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」わたしたちはこのような声を聞かないかも知れません。けれども、実生活であきらめずに何度でも出直して苦しみを担おうとするなら、何度くじけてもまた起き上がって使命に忠実に生きようと決意するなら、その時すでにあなたは「愛する子」として生きているのではないでしょうか。

苦しみを担い、使命に忠実に留まる姿は、見た目には輝きなどないかも知れません。ですが御父はそんなわたしたちに声をかけているはずです。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」そしてイエスは、日々十字架を背負って生きる姿に、「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬ輝き」を見てくださっていると思います。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼灰の水曜日のことをフッと思い出した。この日の「灰を頭に受ける式」には、昨年の受難の主日(枝の主日)に受け取った枝を回収し、焼いて灰にしたものが使われる。そのことは知っている人もいるかも知れない。
▼灰の式に移ると、司祭は灰を祝福する祈りを唱える。祝福を終え、まずは司祭が自分で自分の頭に灰を置く。それから聖体拝領の要領で信徒、修道者の頭の上に灰を置くことになる。皆、神妙な面持ちで灰を頭に受けて席に戻っていく。
▼灰の水曜日のミサが終わり、いつものように司祭用の跪き台で祈って祭壇に一礼し、聖堂を後にしようとした時のことだった。聖体拝領をする場所に灰が落ちていることに気づいた。ああ、きちんと頭に置いたつもりでも、あとで落ちる分もあるのだなぁと思ってもう一度見て、思いがけないことに気がついた。男性側の灰が、女性側の灰よりも余計に落ちているのである。
▼結論から先に言うと、男性にはハゲ頭の人が結構いるので、頭に残らずに全部滑り落ちて床にこぼれているのだと思う。ただ、この日のミサにはたしかに男性の参加者がいつもの平日より多かったとは思うが、それでも圧倒的に女性が多かったはずである。それなのにどうして、女性側に落ちていた灰よりも、男性側に落ちていた灰のほうが多かったのか。
▼謎は深まる。たしかに男性の頭に灰を置く時、わたしは何人かのケースで、「この人の頭の、どこに灰を置けば滑らずに残るのだろうか」と悩む人がいた。悩んで時間をかけるわけにはいかないので瞬間的に判断して灰を置く。そうして置いた灰が、ほとんど全部滑って落ちてしまっているのだろう。
▼笑うに笑えない話だなぁと思って、最後の最後に祭壇脇のテーブルを見たら、灰の水曜日の式に使った灰を入れたガラスの器があり、そのテーブルの足もとにも、灰がしっかり落ちていた。そんなはずは・・・と思ったが、たしかに灰が少し落ちていた。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第11回目。93歳。病人訪問すると昔の釣りの武勇伝をいつも聞かされます。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日
(ヨハネ2:13-25)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四旬節第1主日(マルコ1:12-15)荒れ野での四十日間が象徴するもの

2009-03-01 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/90301.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
09/03/01(No.403)
‥‥‥†‥‥‥‥
四旬節第1主日
(マルコ1:12-15)
荒れ野での四十日間が象徴するもの
‥‥‥†‥‥‥‥

先週私は、「カトリック信者でよかった」という例を挙げてみたのですが、誤解しないで欲しいことがあります。それは、「プロテスタントではなく、カトリックでよかった」と、カトリックとプロテスタントの違いを強調しようという狙いではない、ということです。

わたしがカトリック教会の司祭で、カトリック教会のことしか知らないので、「カトリック信者でよかった」という例を挙げたまでのことです。本質的には、「キリスト者でよかった」そういう体験がわたしたちにとって必要なことだと思っています。

ついでの話ですが、誰からどう教わったのか、自分の宗教を「カトリック教」と言う人がいるようです。以前いた小教区でも似たような場面に遭遇したのですが、「あなたの宗教は何ですか」と聞かれたら、「キリスト教です」と答えてください。

なぜ「カトリック教」という言い方がおかしいのか、仏教と比較して考えてみましょう。伊王島には大きく2つの宗教、仏教とキリスト教があると思います。伊王島のお寺は禅宗のお寺です。禅宗は「仏教」の一派です。「禅宗教」とは言いません。

同じように、伊王島の教会はカトリック教会です。カトリックは「キリスト教」です。これも「カトリック教」ではないのです。禅宗や、真宗を「禅宗教」「真宗教」と呼ばないのと同じです。そこはきちんと理解してほしいと思っています。もし病院に入院することになって、「宗教欄」を書く際は、「キリスト教(カトリック)」と書くべきだと思います。いきなり「カトリック教」と書かないようにしてください。わたしたちは「キリスト教」のカトリック信者なのですから。

さて、先週話したように、「カトリック信者でよかった」その喜びは、「イエスと出会えてよかった」という体験につながってこそ本物です。今週の四旬節第1主日に選ばれている福音朗読の箇所にも、「わたしは今日イエスに出会えている」その喜びを体験できる箇所を見つけました。今週の福音の箇所はマルコ1章12節から15節と本当に短い箇所ですが、今年読み返しながら、新たな発見があり、「イエスと出会えているなぁ」と実感できたのです。

それは、1章13節「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。」という箇所です。淡々と出来事を紹介しているので、うっかりすると読み飛ばしてしまいそうな箇所ですが、ここで言う「四十日間」という表現がわたしの目に留まりました。

聖書の中では旧約・新約を通して象徴的な意味を持つ数字があります。イエスが誘惑を受けたとされる「四十日間」という期間は、イスラエルの民がエジプトを脱出した後、約束の地にたどり着くために荒れ野をさまよった期間の象徴です。ちなみに十二という数字は、イスラエルの十二部族のことで、イエスが十二人の弟子を選んだのはイスラエルの十二部族を象徴的に表している数字です。

この荒れ野での四十年を象徴する「四十日間」ですが、荒れ野で四十年さまよったイスラエルの民は、無事に約束の地にたどり着いています。ということは、イスラエルの民のあの四十年は、人生の中のある四十年という意味ではなくて、人生の全体として捉えた方が適切だと思います。

この捉え方を、今日のイエスの荒れ野での誘惑に当てはめてみたいのです。イエスが四十日間荒れ野にとどまり、サタンから誘惑を受けた。それは実は、イエスの三十三年間という地上での人生を、象徴的に表しているのではないでしょうか。わたしは今年の説教の準備の中でそのように考えてみたのです。

もし、荒れ野でのイエスの四十日間が、イエスの地上での三十三年間を表しているとしたら。もしそうだとしたら、四十日の間にサタンから誘惑を受けたことと、野獣と一緒におられたこと、天使たちが仕えていたということはイエスの三十三年間の中の出来事と重ね合わせて考える必要があります。福音書の中に、ちょうど重なるような出来事があるでしょうか。わたしは、イエスがゲッセマネで祈っている場面、マルコ福音書で言えば14章が、荒れ野での四十日間の誘惑をうまく表現していると思いました。

最後の時を迎えようとしていたイエスは、ゲッセマネで地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と言っています(14・35-36)

この緊張感あふれる祈りの場面で、やはりイエスにはサタンの誘惑があって、「杯をわたしから取りのけてほしい」と思ったわけです。けれども一方では、天使たちが仕えていて、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と誘惑をはねのけました。こうした戦いは、イエスの全生涯を通して見られたのではないでしょうか。

このように思い巡らしていくと、イエスが荒れ野で経験された四十日間は、イエスの地上での三十三年間の縮図だったのだろうと思えてきたのです。わたしにとってこの発見は、「荒れ野にいるイエスに出会えた」と感じた瞬間でした。もしここまでの理解にたどり着けていなければ、今年もわたしは荒れ野にいるイエスとただすれ違うだけだったかも知れないと思っています。

イエスの荒れ野での四十日間は、今の私の信仰の中で「イエスに出会えてよかった」という瞬間だと思いますし、「キリスト者でよかった」と思えるひとときでもあります。
ここであえてカトリックということにこだわるなら、カトリック信者として、プロテスタントの信者の方にも通じる喜び・体験を分かち合えた時、本当の意味で聖書の中の何かがつかめたと言えるのではないかと思っています。

つまり、カトリック信者にしか通用しない理屈や解釈では、本当に聖書の中の出来事に肉薄したとは言えないのではないでしょうか。イエスさまがカトリック教会とかプロテスタント教会とかを作ったわけではないのですから、イエスさまの時代の出来事に迫るためには、カトリックとプロテスタントの垣根を越えて、一緒に共感できる何かをつかむ努力が必要だと感じます。

今週わたしの中で「あっ!イエスさまに出会えた」という瞬間は、「イエスの荒れ野での四十日間」という部分でした。皆さんお一人お一人にとっても、「イエスと出会った」という瞬間が日々与えられたらすばらしいと思います。また、そのような体験を求めて、自分の中でイエスと本当に出会える場面はいつだろうか、どんな時だろうかと日頃から準備をしておくことも必要かも知れません。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼2月と5月は予算決算の月で、毎年のことながら頭を痛める月である。だいたい経理のことをまともに学んだことがないので、収支の数字がうまく合っていればそれで何となく納得して「あー、今年も無事に提出できたなぁ」と胸を撫で下ろしているのが現状である。お小遣い帳すらまともに記帳したことのない神父たちが、何百万とか1千万とかの予算決算にたずさわっているのだから、それだけでも驚きではある。
▼「予算・決算はいつも頭が痛い。まあ、足し算と引き算しかできないのだから無理もないか」とこぼしたら、「足し算と引き算がまともにできるだけでも立派だよ。なかには収支が合わないまま予算・決算書を提出している小教区もあるのだから」と言っていた。本当だろうか。本当かも知れない。
▼予算・決算から見えてくるものがある。「今年、この部分に力を入れてみよう」とか、「この部分は出費を見直して、本当に活動に見合っているか考える機会を作ろう」とか、そうしたことは予算・決算を組む中でたしかに考えるようになる。
▼教会学校の子供たちの宗教教育について、大人の信徒の信仰育成について、礼拝に関わる祭器具や維持管理の充実についてなど、主任司祭になればのほほんとしていられなくなる。何だか、経営者みたいな気持ちになり、もっと運営面から自由になって、宣教のことに深く傾注した方がいいのではないかなぁと思ったりもする。
▼こうして本部と関わりのある大きな務めを果たすと、あーどこかに行きたいという気持ちが湧いてくる。海に行くか、遠くに行くか、五島に行くか、それともどこかに消えるか。いずれにしてもリフレッシュの必要性は目の前まで来ていると感じている。


‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第10回目。ちょっと古いけど、26聖人殉教記念ミサです。わりとよく写っていました。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
四旬節第2主日
(マルコ9:2-10)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする