こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第22主日(ルカ14:7-14)イエスが指し示すいのちの方角に向き直る

2016-08-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/08/28(No.844)
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年間第22主日
(ルカ14:7-14)
イエスが指し示すいのちの方角に向き直る
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「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(14・11)神様は日本にいるわたしたちに生き方の模範、道しるべを示してくださいました。ユスト高山右近です。彼の生き方を通して、今週の福音を身近なものとしましょう。

雨がなかなか降らない夏でした。朝ミサに続けてラジオ体操をしていて、たった5分の体操で筋肉痛です。皆さんにもらった湿布が大いに役立っています。6時半から5分間だけ雨が降ってくれればラジオ体操を休めるのになぁと思っているのはわたしだけでしょうか。

過ぎた週にお休みをいただいて、初めは五島に行ってきました。実家に顔を見せるのと、期日前投票以来の釣りをするためです。魚も油断していたようで、案外簡単にマダイが釣れました。天然マダイです。余談ですが、天然マダイと養殖マダイは鼻の孔を見れば区別がつきます。

広島カープにマジックが点灯しました。いよいよこの日が来ました。問題は、パリーグの相手球団です。パリーグは首位と2位の差がほとんどないので順位の入れ替わりもあるかもしれません。広島と福岡ならば、10月27日(木)に日本シリーズを観に行く予定です。

ですが現在の首位が本当に上がってくるのか疑わしくなってきました。パリーグがどうであれ、セリーグは違います。2位のどこかのチームとこの説教を準備した時点で8ゲーム開いています。今年はぜひ、25年ぶりの奇跡をもたらしてほしいものだと思っています。

さて、福音を学ぶために高山右近に目を向けてみたいと思います。日本の教会の長年の願いであった高山右近の列福が、来年2月7日に大阪大司教区で行われることになりました。高山右近を現代人に投げかける意義と価値があると、教会は認めたのです。それはつまり神様もそう思っておられるということです。

ユスト高山右近 (以下右近) が生きた16~17世紀初頭は、長く続いた戦乱がようやく収束して国が統一に向かう時代です。人びとは、知恵と才覚さえあれば、誰でも目に見える繁栄や権力、名誉が手に入るという夢をもてました。その気になれば、上を目指せる時代だったのです。

そのような時代に右近はキリスト教の信仰に出会いました。右近は、上を目指す戦国武将たちの世界に生まれ育ったのですが、社会の中で認められる富や権力や名誉が、実ははかない、一時的なものに過ぎないことを見抜きました。右近は、実力派の大名と目される人物でしたが、絶えず上を求める競争から離れて、人間を真に幸福にする信仰の道をあえて選び取ったのです。上を目指す生き方から、あえてへりくだる道を選び取りました。はた目には、右近の生き方は「負け組」と映ったでしょう。

右近は、人の価値は才能や知識、能率・効率、業績によるのではなく、無条件に神から愛されている事実によることを、イエス・キリストの福音から学び取ったのです。実際の右近の生涯は試練の連続であり、追放に追放を重ねる生活を余儀なくされました。地位も名誉も失い、流浪の生活が続き、ついに祖国を追われても、右近は神だけに愛される幸せを生き抜きます。

現代は相対的価値観に支配され、信念を貫いて生きることが困難な時代です。この現代に向けて右近は、どのような状況に置かれても、神と人への愛を選びの基準にする道を示しました。右近は、ぶれることなく一つのこと「福音に耳を傾け、神に従う」という生き方を選び続けたのです。

右近の列福の意義をより深く理解すると、日本の教会は、右近があかししたイエス・キリストの福音が確かに信じる価値があり、現代社会に大きな光をもたらすことを力強く訴えていけるはずです。高山右近は、「へりくだる者は高められる」(14・11)の鏡です。誰もが上を目指し、周りを蹴落としてでも上り詰めようとした時代に、イエスが示した生き方を輝かせたのです。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」真っ先にイエスの生き方が、ここに示されています。イエスの最後の場面を思い出しましょう。イエスは十字架を背負い、三度倒れました。背負う必要のない十字架、人間が背負うべき罪を背負って、三度ひれ伏したのです。誰にもひれ伏す必要のない方が、みずからへりくだったのです。

そのいちばん低くされたイエスを、父なる神は高めてくださいました。復活し、天に昇って、へりくだる者に用意されている栄光を示してくださいました。イエスは十字架を背負い、繰り返しお倒れになる中で、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」(14・13)を招きました。イエスが担う十字架を代わってあげられない人、お返しのできない人を招いたのです。

多くの人がイエスの姿に失望し、肩を落とす中、イエスの最期に輝きを見た人もいました。百人隊長です。「『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した。」(ルカ23・47)「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2・8)イエスの生き方の中に輝きを見つけ、百人隊長は聖書に登場する人物となりました。

教会は再び高山右近に光を当てて、へりくだる者の生き方がイエス・キリストと出会うこと、降りて、仕えて生きる右近は今も確かないのちの方角を指し示していると証言しています。わたしたちも高山右近の列福をまたとない機会として、右近の「降りて、仕える生き方」に倣い、現代社会にいのちの方角はこちらですと指し示しましょう。

イエス・キリストが指し示す同じ方向を指さして初めて、わたしたちはキリスト者と呼べるのではないでしょうか。

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‥次の説教は‥‥
年間第23主日
(ルカ14:25-33)
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ちょっとひとやすみ
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▼へたくそな聖歌を歌う場面に立ち会った。母親が長い闘病生活ののちに亡くなり、通夜と葬儀を執り行った時のことだった。遺族のたっての願いで葬祭場を借りて通夜も葬儀もおこなった。遺族のみの参列、教会での葬儀のように聖歌を歌う人もなく、淡々と進む中でのことだった。
▼葬儀のあとの告別式で、「献花をお願いいたします」と葬儀社の担当者が案内して、司式したわたしのあとを10人くらいの家族が献花し始めた。その時「主はわれらの牧者」だったか、喪主が聖歌を歌い始めた。
▼「主はわれらの牧者。わたしは乏しいことがない。神はわたしを緑のまきばに伏させ、いこいの水辺に伴われる。神はわたしを生き返らせ、いつくしみによって正しい道にみちびかれる。」
▼へたくそだったが、心を打った。「主はわれらの牧者。わたしは乏しいことがない。」確信を持っている様子が伝わる歌い方だった。同じ聖歌を歌っていても、主が自分たちの牧者と信じ切っていない人がなんと多いことだろうか。
▼主がおられるから乏しいことがないと歌いながら、この世の富を追い続けてまだ満たされないと嘆いている人がなんと多いことだろうか。そんな中で、母を送り出すこの息子は、母のこれからの運命にも不安がなく、主に委ねたから大丈夫なのだ。そんな思いが歌から伝わってきた。
▼なかなかこういう歌い方をする信徒には出会えないものだ。上手下手を超えたところで、心を打つ聖歌を久しぶりに聞くことができた。

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今週の1枚
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第451回目。広島カープマジック20点灯。25年応援し続けた自分へご褒美を注文。

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年間第21主日(ルカ13:22-30)どこで、狭い戸口から入ろうと努力しますか

2016-08-21 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/08/21(No.843)
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年間第21主日
(ルカ13:22-30)
どこで、狭い戸口から入ろうと努力しますか
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「狭い戸口から入るように努めなさい。」(13・24)イエスの招きは、「できればそうしなさい」ではなく、狭い戸口の先にしか、主人と喜びを共にすることはできないという強い招きです。自分のこととして受け止めるきっかけを探しましょう。

リオデジャネイロオリンピックではたくさんの素晴らしい試合を見ることができました。中でも女子レスリングは感動を味わいました。惜しくも銀メダルで終わった選手は、このオリンピック決勝で敗れるまで、公式戦208連勝というとてつもない記録を打ち立てていたそうです。たとえ銀でも、メダルの重みが違うと思いました。

これは、今週の朗読でイエスが語っておられる「狭い戸口」に通じる体験かもしれません。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」たとえば200連勝してみないとわからない難しさがあるわけです。あるいは年間60本のホームランを打ってみないと見えない世界があるのだと思います。それぞれの立場で体験できる「狭い戸口」の先に神が用意しているものを体験してみないことには、わたしたちは軽々しく口にできないのだと思います。

苦い思い出があります。初めての教会で数年が経ったときでした。わたしはその教会で聖歌の奉仕をしてくださっている聖歌隊の練習担当でしたが、この方々に生意気なことを言ってしまい、主任神父さまはじめ、先輩の助任神父さまにも迷惑をかけたのでした。聖歌隊はいつになっても新しいメンバーが加わらず、このままでは先細りしていくばかりでした。そこで奮起を促そうと思い、結論だけ申しますと「わたしはいつまでも皆さんの子守をするつもりはない」と言ったのです。

この発言が炎上しまして聖歌隊から猛抗議を受け、「わたしたちはもうお手伝いしたくありません。指導してくれる司祭を変えてください」とそれはもう大変なことになりました。結局わたしは責任を取って聖歌隊の指導を外され、先輩の助任司祭が指導をすることになります。

この時主任司祭はわたしにこう言って反省を促しました。「あのなぁ。60歳にならないと言えないこともあるんだぞ。言っていることがどれだけ重いことか、考えてものを言いなさい。」最初で最後、当時の主任司祭から叱られた体験でした。

今になって考えると、主任司祭が言いたかったのは「お前が主任司祭を25年くらい務めてみないとわからないこともあるんだぞ」そういうことだったと思います。確かに、主任司祭を25年務めるころが60歳になるころです。そこまでの経験を踏まえてものを言う場合と、経験もないのに言うのとでは、言葉の重みは全く違ってきます。主任司祭の一言は、「狭い戸口」を通り抜けた司祭の、重みのある言葉でした。

どんな時代にも、親の世代よりも子供の世代が高い教育を受けるものです。すると子供は親よりも広い知識を基にして意見することになります。ですが高い教育を受けているだけでは「狭い戸口」を通った人の知恵や言葉にはかなわないのではないでしょうか。

わたしは母親から、「世の中に絶対ということはない」と教えられました。母は中学までしか教育を受けていません。大学を卒業し、さらに高度な専門教育を受けたわたしとは比較になりません。しかし、「世の中に絶対ということはない」という教えは、厳しい社会をくぐった人だからこそ言える言葉であり、わたしにはとてもありがたい言葉でした。

「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです」(13・26)たとえ話の中で家の主人から締め出しを食らった者たちが主人に懸命に食い下がっています。主人はこの人たちの本性を見抜いています。調子のよい時だけ顔を出し、日ごろは主人の思いに背を向けて生きてきたのです。

「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」(13・27)彼らは「狭い戸口」を避けて日々を送ってきたのです。いざという時に、この「狭い戸口から入る」努力をしたかどうかが問われるのです。

たとえばそれは、日々の祈りや、聖書に親しむ努力などです。「ご一緒に祈りをしましたし、聖書講座にも行きました。」それはそうかもしれませんが、祈りをしたことがある、聖書講座に行ったことがあるだけでは、「狭い戸口から入る」努力とは言えないのです。

今日も明日も、欠かさずに朝夕祈る。これは並大抵のことではありません。でも誰の目にも止まらないかもしれません。しかし神は、「狭い戸口から入ろうと努力する」この人々を見ておられるのです。

新約聖書は、480ページの書物です。1日1ページ読むなら、1年ちょっとで読み終えます。1日2ページ読む日があれば、1年で読み終えるのです。朝晩の祈りもしない、食前食後の祈りもしない。そんな家庭の皆さんには、食事の前に聖書を1ページ読むことを勧めます。

食事は365日欠かさずするでしょうから、それに合わせて聖書を1ページ読むなら、その家の人々は「狭い戸口から入る努力をする人」です。その家の人々は、「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです」と弁解じみたことを言わなくとも、必ず主人の宴に招かれることでしょう。

わたしたちは必ず、「狭い戸口から入る」ことを求められます。狭い戸口の先には、招いてくれた主人と喜びを共にするのです。わたしはどこで、狭い戸口から入ろうと努力するのでしょうか。このミサの間に考えることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第22主日
(ルカ14:7-14)
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ちょっとひとやすみ
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▼田平町の「かっぱ」と親しくなる機会を得た。7月9日「田平町がわっぱ祭」の様子を紹介する配布物の表紙に「かっぱ」が6匹写っていた。その中の「おじいさんかっぱ」と思われる生物と田平教会案内所で遭遇し、意気投合した。
▼案内所で遭遇したのも偶然だった。司祭館から案内所に届け物を持っていきたかったのだが、暑くて外に出たくなかったので明日にしようかなぁと迷っていた。だが翌日届けるよりも当日届けるほうが意味がある品物だったので、気乗りしないものの案内書を訪ねたのである。
▼そこに、「生涯学習だより」で掲載されていた「かっぱ」がいたのである。この日は仮の姿「地域おこし協力隊」の格好で案内所に来ていたが、まちがいなくあの「かっぱ」だった。どんなに人間と同じ格好をしていても、かっぱにはかっぱを識別できるものだ。
▼彼(と仮に呼ぶが)はカトリックに理解があった。誕生日の話になり、「ぼくはフランシスコ・ザビエルと同じ4月7日が誕生日なんですよ」と打ち明けた。誕生日をフランシスコ・ザビエルと重ねることなど、ふつうはしないものである。
▼しかもわたしが偶然案内所を訪ねたのは8月15日、フランシスコ・ザビエルが鹿児島県に上陸した日である。平戸はまたザビエルが宣教活動をした場所でもあり、これは単なる偶然ではないと思うようになった。
▼「彼」には家族がいる。家族皆でカトリックの信仰を受け入れていて、家族は2年ほど前に洗礼を受けたのだそうだ。お子さんが初聖体を受けた時に、「わたしの洗礼のためにもお祈りをお願いします」と宣言したそうなので、ひょっとするとわたしは近いうちに世界で初めて「田平町のがわっぱ」に洗礼を授ける司祭になるかもしれない。

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今週の1枚
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第450回目。田平町「がわっぱ祭」。画像に残しているのは4匹のみ。

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聖母の被昇天(ルカ1:39-56)力ある方が、わたしに偉大なことをなさいました

2016-08-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/08/15(No.842)
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聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
力ある方が、わたしに偉大なことをなさいました
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聖母の被昇天の祭日を迎えました。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(1・45)天に上げられたマリアを、エリサベトと同じ言葉で今日わたしたちもたたえることにしましょう。

初めてマリア様の御像の塗り直しを間近で見学しました。わたしは中田ザビエル工房という親戚を持っているにもかかわらず図工も美術も「2」でしたので、出来上がりには興味はあっても途中経過はあまり興味がなかったのです。けれども都合五日間、一つ一つの作業を見ているうちにだんだん興味を覚え、これはやりがいのある仕事だなぁと思いました。

聖母像は何種類かの色を使っています。わたしは、それぞれの色は全く関連なく塗り替えられるものだと思っていましたが、そうではないことを今回知りました。これまでの汚れを落とした後、ザビエル工房の中田さんは聖母像全体を白く塗り始めたのです。ベースとなる色、下地の色を塗る作業でした。

平日に始まった作業でしたので、平日に朝ミサに来てラジオ体操をする子供たちには、日々変化していく聖母像の様子を知ってもらおうと、聖母像の前に集めて観察を続けさせました。「マリア様の御像を、専門家にお願いして塗り直しをしてもらっています。昨日のマリア様と、今朝のマリア様は違っているはずです。どこが違っていますか?」

水色の部分も含め、全体が白く塗られたのですから、さすがに気づくでしょうと思いましたが、案外気づかないものです。「分からない」と言われました。ちょっとショックでしたが、「水色の帯も、足を置いている岩の土台も、すべて白く塗られているでしょう。このあとそれぞれの色を重ねて塗っていくそうです。作業が進んだ様子を、明日も見に来なさい」と促してこの日は帰しました。

幸いに、日一日と変化して作業が完成していく様子を見ることができた子供たちもいました。教会正面の聖母像は、今は立派な姿に生まれ変わっています。この聖母像の塗り替えを観察しながら、今年の聖母被昇天の説教のアイディアが浮かびました。最終的に、いくつかの色が塗られて立派な聖母像になるわけですが、その像も最初は下地の色となる「白」を塗った上で、色を重ねるということです。

つまりこういうことです。新しくされた聖母像は、マリアの一生に思いを向けさせていると思ったのです。マリアは自分を神の前に真っ白な状態で差し出し、神がその上に御業をおこなって、色が重ねられた。そのように考えてみたのです。

もし聖母像の塗り替えで、全体を白で塗り上げてから色を重ねることが無駄な作業であるなら、塗料も無駄になるし作業も一日無駄に費やすことになります。決してそうではないのです。聖母像は、何かの色が重ねられる前に、いったん真っ白にされて、そのおかげで素晴らしい色を重ねていくことができるのです。

実際のマリアの一生も、そうなのではないでしょうか。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(1・38)神のお告げにこのように答えたマリアは、これからどのような神の御業が自分の上に起こるのか全く知りませんでしたが、すべてを差し出しました。

神はマリアの上に、心を剣で刺し貫かれる体験、奇跡を見る体験、さまざまな御業を成し遂げられました。それはひとことで言えば、「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいました」(1・49)ここに表されています。

一度真っ白に塗られた聖母像に、巧みにさまざまな色が塗り重ねられ、御像は見事に修復されました。マリアの生涯もそうです。最後には、目には見えない御業、天に上げられるという御業がマリアの生涯に塗り重ねられました。神がこれからなさろうとする御業にすっかり自分を差し出したので、天に上げられるという栄冠も含めて、マリアの生涯は完成されたのです。

マリアはわたしたちの手本となってくださいました。わたしたちの人生は神の御業によって色鮮やかにされていきます。そのためには、わたしたちは自分の人生をすっかり神に差し出す必要があるのです。「ここは神に協力できるけれどもここは譲れません。ご勘弁ください」こういう態度ではなく、「わたしの上にどのような御業が行われようとも、わたしはすっかりあなたに委ねます。」こんな覚悟を、聖母の取り次ぎによって願いたいのです。

「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいました」このように神をたたえるためには、まず自分自身をすっかり神に委ねる必要があります。「主がおっしゃったことは必ず実現する」そう信じて、全面的に協力する必要があると思います。

わたしたちが機会あるごとに自分をすっかり差し出すとき、「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいました」このマリアの賛美が実現するのだと思います。わたしたちは天に上げられたマリアを鏡に、これから何度も「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいました」という体験を積みたいと思います。

その上さらに、わたしたちの上に実現した神の御業を見て、キリスト教に触れたことのない人が「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」と神を賛美することにつながりますように。わたしたちの賛美が、わたしたちの教えを知らない人の賛美につながりますように。被昇天の聖母の取り次ぎを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第21主日
(ルカ13:22-30)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年の聖母被昇天の説教は年間第20主日の説教の前に準備を終えた。日曜日の説教を準備してから月曜日の聖母被昇天の説教の準備では間に合わないと思ったからだ。一度説教を準備して集中を緩め、またネジを締めて説教を準備する必要があるが、日曜日は気持ちを緩めて締め直せる自信がないと判断した。
▼方針に沿っていざ聖母被昇天の説教を準備し始めるとなかなか進まない。7日と8日は事情を抱えた方の葬儀が入って何もできず、10日の夜に机に向かい始めたが、まとまらない上にオリンピックも気になる。広島カープも初回の裏に1点入れたまま、とうとう9回裏まで相手の2点を跳ね返すことができなかった。この時点でもう夜10時。かつてならまだまだ粘っていただろうが、今は気持ちがついてきてくれない。仕方なく寝る準備をして、明日うまくいくことを願って床に就いた。
▼朝起きてみると、金メダルラッシュの放送が入り、説教はそっちのけで映像を何度も見てしまう。「あー、今日もダメか。今日も準備できないのか。」そう思っていたら少し神の助けがあったようで「何か形になりそうだ」と思ってもう一度ネジを締め直す。11日午後3時。エアコンを利用していても外の直射日光が気になるような時間帯。少しでも先に進めて、できれば11日中に聖母被昇天のメルマガ配信の予約を入れたい。
▼しかしそれでも頭は回らない。こうなったら最後の手段。原稿の量を半分に減らそう。いつも話している日常の話題は、たぶん14日の説教に盛るのだろうから、2日連続する必要はどこにもない。これで準備は整った。説教を書いて、配信まで済ませよう。

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今週の1枚
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第449回目。塗り直しをお願いしていた聖母像は美しさを取り戻した。

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年間第20主日(ルカ12:49-53)イエスの投じた火を燃やし続ける

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‥‥‥†‥‥‥‥
年間第20主日
(ルカ12:49-53)
イエスの投じた火を燃やし続ける
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「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」(12・49)「火」は、2つの働きをもたらします。わたしたちの生活にイエスの投げ込む「火」が働き続けているか、振り返ることにしましょう。

赴任して4ヶ月、馴れ合いが生じてきたのか、子供たちの中には注意をしないといけないかなぁと感じる子供が出てきました。念のため言っておきますが、わたしはもともと気が短いので、我慢ならないと思えば説教中でも降りて行って厳しく接することもあり得ます。

我慢ならない場合は飛び蹴りとか頭突きの可能性があります。用心しておいてください。頭突きはわたしの頭が痛いので、おしゃべりや手まぜをしている者同士の頭を思いきり衝突させることもあると思います。

いきなりはしません。態度が悪くて困るなぁという子には、前もって警告をします。警告を受けた後でも反省する様子がなければそれはもう飛び蹴りです。仮にそういうことが起こったとしても、「さんざん警告を受けてのことだろうから」と受け止めていただきたいと思います。

福音朗読に戻りましょう。イエスは「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と仰います。「火」は2つの働きを持っていると思います。イエスの時代、電気がなかったことを考えると、火の働きの1つめは、「闇に光を照らす」という働きだったと思います。

暗闇は、違いがあるもの同士を区別できない世界です。正しい人と不正な人、正しい思いと不正な思いなど、暗闇の中でうごめくものがどのような人かどのような思いなのか、判断することは困難です。

そこに火が投げ込まれると、世界は変わってきます。暗闇は照らされ、正しい人は光のあるほうに近づいてきますが、不正な人は光を嫌い、光から遠ざかるのです。正しい思いを持つ人も光のほうに近づきますが、不正な思いをいだく人は光から離れるのです。

イエスが地上に投じる火も、暗闇の中で区別ができないものをはっきり区別します。それはまさに「分裂をもたらす火」です。一家に五人いて、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれる、そのような火です。たとえ家族の中であっても、神の望みにかなう人と神の望みに反する人はイエスが投じる火によって分裂してしまいます。分裂が明らかになって、自分がイエスの投じた火に近づこうとしているか避けようとしているかを考えます。イエスの火を避けようとしていたなら考えを改め、光に近づこうとすればよいのです。

「火」のもう1つの働きは、物を燃やすということです。火はそこに何か燃えるものがなければ燃え続けることはできません。燃えるものが尽きてしまえば、火はその場にとどまっていられないのです。イエスが投じた火もきっとそうです。何かに燃え移ることで働き続けるのです。

ここでさらに考える必要があります。人間が火を放つとき、何かを焼き尽くそうとして火を放つ場合と、火を保ち続けるために燃え移る材料を差し出す場合とがあります。農業で焼き畑をする場合、一定の面積の草を焼き尽くそうと火を放っています。ところが焚き火などをしている場合は、薪を燃やし尽くそうとして火に投げ込んでいるわけではありません。火を維持し続けるために材料を提供しているのです。

すると、イエスが投じる火も、燃え続けるうちにものの本質や結果が見えてきます。わたしの中にある思いが、焼き尽くされてしまうような思いであれば、イエスの火が投じられても、思いを焼き尽くした後に火は残らないでしょう。

しかし、わたしの中にある思いが、イエスが地上に投じる火を燃やし続けるために差し出される道具であるなら、イエスが投じた火はいつまでも燃え続け、火の働きは続くのではないでしょうか。

イエスはすでに、地上に火を投ずるために来ました。イエスが投じた火は、どこで燃えているでしょうか。焼き尽くされてしまうこの世の思いに火が燃え移って、もはやイエスの火は消えてしまったのでしょうか。わたしたちの中の何人かは、地上に投じられたイエスの火を燃やし続けるために差し出された薪であってほしいのです。

わたしも、イエスの思いをこの地上で燃え上がらせる薪でありたいと思います。ひょっとしたら、わたし自身は燃え尽きてしまうかもしれません。それでも、イエスがこの世に投じた火を燃やし続けるためなら悔いはありません。

振り返って、わたしたちの生活にイエスの投じた火は燃えているでしょうか。イエスの火がわたしたちの心を照らし、神の望みにかなった思いとそうでない思いを分け、神の望みにかなう思いはイエスの火によっていよいよ燃え盛り、神の望みに反する思いは燃やし尽くされ、わたしたちの生活は人々にとって山の上にある町、家の中すべてを照らす光となっているでしょうか。

「火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」(12・49)「どんなに願っていることか」というイエスの思いを、わたしたちは十分に知ることができません。しかしイエスの火がこの世に燃え移るために、ご自身をおささげし、どんなに苦しまれたかはわかります。わたしたちの中に火が燃え移るようにと、ご自身を燃やし尽くして差し出された火を、受け取ってくれる人が現れるのを願っているのです。

わたしの生き方が、家族の生き方が、イエスの投じた火を燃やし続けるのに差し出された道具となって、イエスの火を世に示すよう努力しましょう。イエスの火によって燃え尽きるはかないものを追い求めるのではなく、イエスの火を燃やし続ける価値あるものに目を留めましょう。

わたしたちがイエスの投じた火を燃やし続ける生活をするなら、火によって初めにもたらされる対立や分裂の先に、真の平和を手に入れることになります。

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‥次の説教は‥‥
聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
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ちょっとひとやすみ
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▼田平教会の人は情に厚い人たちがいる。侍者旅行を計画して、8月29日(月)にいったん決まったが、長崎教区本部が29日に集まりなさいと司祭たちへの招集をかけた。「残念ながら29日の侍者旅行には行けない」と招集内容の書かれたFAXを示して担当のシスターに伝えておいた。
▼すると担当のシスターと保護者会は緊急会議を開き、「神父さまが参加できない侍者旅行は避けたい」ということになり、違う日にちを探すと言い出した。「無理しなくていいよ。はじめに決めた日程がベストなのだから。わたしは出発を見送るから行ってらっしゃい」と返事をするがそれでは申し訳ないと言う。
▼わたしが保護者なら「主任神父さまもああ言ってるし、29日に見送りしてもらって出発しましょう」と思うところだ。だが田平の人たちは、自分たちよりも神父さまを喜ばせたいらしい。こんなに情の厚い人たちに出会えたことを本当に感謝している。
▼時間がたった話題だが、コピー複合機をパソコンから利用できなくなって困っている。赴任してから箱を開けた浜串時代のパソコンにコピー複合機をつなぐため、ソフトを導入した。ところが浜串時代のパソコンはしばらくしないうちに使い物にならないほど故障が頻発し、廃品となった。
▼現在は司祭館据え置きとして新調したパソコンを使用していて、こちらにコピー複合機の操作をするソフトを導入したいのだが、うっかり廃止したパソコンに導入したままのソフトのライセンスが問題になった。
▼現在使用しているコピー複合機を操作するソフトは、ライセンスが必要な仕組みのようで、廃止にしたパソコンのライセンスが生きたままになっていて現在のライセンスでは導入できないと拒否される。困ったものだ。現在リース契約を結んでいる事務機器会社に連絡を取っているところだ。

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今週の1枚
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第448回目。最近料理しなくなったので、賄さんが休みの日は野菜も不足がち。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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年間第19主日(ルカ12:32-48)主人は帯を締めて、給仕してくださる

2016-08-07 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/160807.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
16/08/07(No.840)
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年間第19主日
(ルカ12:32-48)
主人は帯を締めて、給仕してくださる
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「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。」(12・35)イエスは今週朗読に選ばれたたとえ話の中で、主がどのようなお方であるか、教えようとしておられると考えました。どれほど偉大で、どれほど謙虚な方であるかを知り、誠実にお仕えしようと決意を新たにしたいのです。

報告があります。先週のナイターソフトです。試合そのものは11対12で惜しくも負けたのですが、11点のうちの1点を、わたし一人でもぎ取りました。これでようやく、万年セカンドゴロアウトも卒業です。残り2試合あると思いますが、あとは全部セカンドゴロで構いません。

こちらに赴任してから、教会台帳整理をぼちぼち続けています。なかでも洗礼台帳については、最新の洗礼の記録からさかのぼって、全員の名前をパソコン入力することにしました。パソコンの力を借りれば、どんなに古い時代の人でも、瞬時に探し出して洗礼名を知ることができます。最終的には洗礼台帳に本来記載しておくべきもの、堅信とか結婚とか死亡とか、そうした情報もすべて盛り込みたいと思っております。

洗礼の記録を入力中、驚きの事実が明らかになりました。いちばん新しい洗礼の記録は、2016年7月17日に授けた男の子で、6137番です。これが正しければ、田平教会で6100人以上が、洗礼を受けたはずです。ところが実際には、6000人ちょっとしか受けていないと分かりました。

最新の洗礼の記録からさかのぼって入力を続けて1650人過ぎたあたりでのことです。台帳の番号が、4491番4490番となって、さらに1つ手前の番号が、4389番となっていたのです。何度も確認しました。どうやら当時の主任神父様が番号を100人分すっ飛ばしたようなのです。

台帳記録は当然若い番号から記録します。4388番、4389番と記録していたのに、次の番号はなぜか4490番でした。その後番号はずれたまま、現在の6137番へと受け継がれました。記録上4400番台は4490番から10人しかいないのです。こんな説教をしているので、当時の主任神父様はきっと天国でくしゃみをしていることでしょう。

福音朗読に戻りましょう。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。」この戒めをよく教えてくれた経験は、大神学院生活の中にあったと思っています。大神学院では年に一度、神学院祭というお祝いがありました。卒業した先輩司祭がお祝いにたくさんやってきて、この学び舎での思い出を語り合い、後輩神学生を励ましてくれる日でした。

神学院祭の大きな柱は「記念ミサ」と「祝賀会」で、記念ミサでは25周年の司祭が、司教様方がずらりと並ぶ記念ミサの中で説教をします。わたしも、恐れ多いとは思いましたが、10周年の時には記念のあいさつをさせてもらいました。

もう一つの柱、祝賀会では、これまた年に一度しかお目にかかれない場面が待っています。大神学院の最上級生である助祭様が、卒業生の先輩司祭たちと後輩の大神学生たちの給仕をしてくださるのです。まさに今週の福音朗読の通り、「腰に帯を締め」(12・35)「戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにして」(12・36)給仕してくださるのです。

1年365日のうち、この日だけは、最上級生の助祭様に、「お代わり」「飲み物を持ってきて」と要望することができるのです。同じ大神学生であっても叙階の秘跡を受けている最上級生に何かを命じるなんて恐れ多いことですが、この日だけは目一杯こき使うのでした。

わたしたち後輩が「お代わり」「ワインついで」と助祭様に注文すると、中には「覚えてろよ」という人もいました。ただ、この最上級生が給仕をする経験には、大切な意味があったのだと後で知るのです。

その一つは、自分たちも後に最上級生になり、卒業生や後輩たちが「おーい、お代わり」「おーい、ワインついで」と言われたらすぐに給仕をしなければならないということです。わたしも最上級生になり、叙階の秘跡を受けた助祭になって、神学院祭の祝賀会で腰に帯を締め、給仕をしました。後輩たちの無茶な要求に、「自分たちも同じことをしたんだな」と思い返すことになります。

もう一つは、目の前にいる卒業生、それぞれの教区で活躍している先輩司祭たちも、同じように腰に帯を締め、呼ばれればすぐに給仕をした人たちなんだとしみじみ思ったのです。その中から、ある人は小教区の主任司祭になり、ある人は教区司教になり、またある人は大司教や枢機卿になっていったのだなぁと、しみじみ思ったのです。

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」仕える僕の心得ですが、神学生や司祭にとっては、のちに司教になり、大司教になり、枢機卿になる方々すべての心得なのです。

わたしたちが目を覚ましている僕として本当に用意していなければならない主人はイエス・キリストです。イエスは目を覚ましているようにと要求するだけでなく、ご自身が目を覚ましている僕であり、わたしたちのもとにおいでになれば「帯を締めて、僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」(12・37)お方なのです。

命令であれば、人をあごで使うような主人にも目覚めて用意しておくこともあるでしょう。しかしわたしたちが目覚めて用意しておく主人は、わたしたち以上に柔和で謙遜な主人、わたしたちのために喜んで給仕してくださる主人なのです。わたしたちは喜んで、目を覚ましている僕となる必要があるのではないでしょうか。

田平教会に赴任して、教会台帳を整理しながら、何とまぁ大雑把な管理だろうかと最初は思ったのですが、今週の福音を学びながら思い返しました。わたしは、いつイエス・キリストに田平教会の台帳提出を求められても、いつでも提出できるように腰に帯を締めて、目を覚まして用意しているようにこの小教区に招かれたのだと思います。必ず台帳整理を成し遂げて、「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕」(12・37)となりたいと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第20主日
(ルカ12:49-53)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年の広島カープ、3連敗をしていなかったのがとうとう8月5日で3連敗を喫してしまった。前のカードで横浜戦1勝2連敗後に対巨人3連戦が始まり、初戦を落としてしまった。9回裏5対3で敗色濃厚となってからも1点を返し、抑えの澤村をずいぶん苦しめたのだが、あと1本が出なかった。
▼この原稿を書いている8月6日は、言わずと知れた広島原爆の日。当然広島市民と全てのカープファンは、この日のカープの勝利を亡くなった方々にささげたいと思っているはず。だから巨人よ。頼むから今日は負けてくれ。
▼昨日テレビ中継をしなかっただけでもテレビに当たり散らしていたのだから、中継が決まっている今日カープが負けて4連敗でもしようものなら、テレビは叩き割ってしまうかもしれない。カープが負ける試合を放送するテレビなんか必要ないのだから。
▼金曜日に、差し入れとミサの依頼を届けに来たご婦人が面白かった。「ゴーヤと、産みたての卵を持ってきました。賄さんにおいしい料理を作ってもらってくださいね。」わたしはまだよく名前も知らないのだが、このご婦人はいたくわたしを気に入っておられて、とても親しげである。そこで「この卵は産みたてなの?」ともう一度念を押した。
▼「そうです。産みたてです。」「お母さんが産んだの?」ちょっと間をおいて「そうです」と言い放った。そばにマリア像を修復に来ていた中田ザビエル公房の中田さんがいて思わず大爆笑。そのご婦人もとっさの冗談がウケて満足だったらしく、胸を張って帰っていった。

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今週の1枚
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第447回目。4日連続長崎市内から通い続けて御像の化粧直しをしてくれた。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

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ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
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