こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活節主4日(ヨハネ10:11-18)イエスはわたしたちのために命を置いてくださる

2012-04-29 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/04/29(No.589)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節主4日
(ヨハネ10:11-18)
イエスはわたしたちのために命を置いてくださる
‥‥‥†‥‥‥‥

大型連休に入りました。休み気分で、真面目な話も耳に入らないかもしれませんが、今日は信徒総会も控えていますし、頑張って、説教も聞いているふりをしてください。

「羊もわたしを知っている。」ついこの前の病人訪問の時ですが、家庭でお見舞いを受けているある方が、「病人訪問ご苦労さまです。どうぞこれを飲んでください」と、リポビタンDを冷蔵庫から出してごちそうしてくださいました。

わたしには冷蔵庫はまったく見えていなかったのですが、その方が冷蔵庫を開けて、きちんと扉を閉めなかったのが様子で分かりました。しばらくすると案の定、冷蔵庫がピーピー言っているわけです。幸か不幸か、リポビタンをくれたおばあさんも、付き添いのため一緒にいたもう1人も、冷蔵庫の警告音は聞こえていませんでした。

そこでわたしは親切心を起こしまして、「ばあさん、冷蔵庫がちゃんと閉まっとらんぞ」と教えてあげたわけです。「冷蔵庫がですか?」と本人は言っていましたが、付き添いで一緒にいた人が冷蔵庫を確かめに行くとその通り扉はきちんと閉まっていません。それでその人が扉を閉めますとバタンと音がしまして、リポビタンを出してくれた本人も、ここでようやく扉が閉まってなかったことを理解します。

そこでこのおばあさんがわたしにこう尋ねるわけです。「神父さま、どうして冷蔵庫の扉が閉まってないことが分かるんですか?」まともに答えようかとも思いましたが、それではまったく中田神父らしくないので、中田神父はこういう人間であるということを知らせるために、次のような返事をしました。

「神父は神さまの次に偉いのである。だから、たとえ冷蔵庫が見えなくても、扉を開けっ放しにしていればすぐに分かるのである。」そのおばあさんは目を丸くして、わたしを見ていました。あの顔では、きっとわたしがああいう冗談を言う人間だと、分かってなかったと思います。

今週の福音に入りましょう。わたしの心に響いたのは、「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(10・14)という箇所です。イエスのこのみことばを、まずわたし自身に当てはめて考えてみました。

今、わたしにゆだねられている400人近い浜串小教区の信徒はわたしの羊です。「わたしは自分の羊を知っており」とイエスが言うように、わたしは小教区の一人ひとりをどれだけ知っているだろうか。

司祭が、羊である信徒一人ひとりを知る機会はどれくらいあるのでしょうか。社交的で、どんな場所にでも顔を出す司祭であれば、その才能を発揮してまかせられた羊のことをより多く知ることができるでしょう。ただ、すべての司祭が社交的で、差し出されたものはいっさい拒まないというわけではありません。ちょっと人づきあいが苦手な司祭もいるわけです。わたしもたぶん、そういう部類だと思います。

そんな、人づきあいの才能にそれほど恵まれていない司祭は、限られたチャンスを、一つも見逃さないつもりで、観察する必要があります。一度しか、話しをしないかもしれない。教会で会えればいいけれども、今立っているこの場所でしか、この人とは会えないかもしれない。

それはつまり、出かけた先で、波止場かもしれないし、青方かもしれないし、奈良尾ですれ違う一瞬かもしれません。たぶんその人とは、今この瞬間しか会えないかもしれません。そうであるなら、そのときの印象を忘れないように、そのとき目に留まったことを大切に、心にとどめておく必要があります。そうして、羊飼いとして、ゆだねられた羊を何とか、片面だけでも知ろうと、心にかけているつもりです。

一方でイエスは、「羊もわたしを知っている」と言います。リポビタンの話しではないですが、わたしではなく、違う司祭であれば、違った返事をしたことでしょう。「ああ、こういう返しかたをするのか。だったら、こういう人なのかな。」何かを読み取ることができるのではないでしょうか。

そして羊飼いであるイエスは、羊飼いが本当に羊飼いと言えるかどうかを、次のように結論づけます。「わたしは羊のために命を捨てる。」(10・15)主任司祭が、小教区の信徒のために命を捨てるのでなければ、それは羊飼いとして失格ということです。

「命を捨てる」このギリシャ語を直訳すると、「命を置く」ということになるそうです。これはそのあとに続く「わたしは命を、再び受けるために、捨てる」(10・17)にも関係しています。イエスは命を、再び受けるために、「置く」のです。

イエスは羊のために、命を置きました。イエスが命を置いた羊は、イエスが知っている羊ですが、同時にか弱い羊です。全力で導き、全力で守らなければなりません。小教区の信徒を導き、守っているか。わたしに問われています。

何も自信をもって伝えるものがありませんが、最近気付いたことを1つ話します。出張して長崎に泊まったときのことです。わたしは出張した時に、大司教館の小さなチャペルで、ただ一人でミサをささげることがあります。そこには誰もいませんが、ミサをささげながら、必ず皆さんの顔が浮かんでいます。

不思議なもので、誰もいないと、調子が出ないというか、ミサの祈りの言葉もすらすら出てこないのです。それで、ふだん通りのミサのことを思い出してささげますと、ミサの祈りもすらすら出て来ます。そのとき、皆さんの顔がはっきり浮かんでいます。皆さんを思い浮かべ、いつも、どこでもミサをささげています。ずっと、思い続けていますので、時間はかかりますが、羊を知り、羊を守り、導いていけると信じています。

わたしたちの牧者であるイエスが、命を置いて、守り導く姿を、お一人おひとり生活の中で当てはめてみましょう。きっと、今求められていることが何か、はっきりしてくると思います。命を置いて、わたしたちを守り導くイエスに、全面的に従う。ミサの中であらためて確認したいと思います。

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‥次の説教は‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ15:1-8)
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ちょっとひとやすみ
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▼アメリカのAmazonに本を注文したい用事があって、サイトを開き、注文しようとした。すると、「ちょっと問題が発生いたしまして、お客様の住所には本を発送できません」みたいなメッセージが届き、本を注文できなかった。
▼以前にもそうしたことがあったので、仮に長崎本土でわたしが仕事をする広報委員会の住所をお借りして、本を注文しようと試みたが、それでも「ちょっと問題が・・・」となる。何が不満なのだろうか、何が気に入らないのだろうかと思ったが言うことを聞いてもらえず、ある本については断念した。
▼どうやら、アメリカのAmazonには、アメリカ・カナダ以外には発送しない商品があるらしい。なぜなのかそこまでは調べなかったが、日本に知られるとまずいものがあるのだろうか。あるいは、送料の問題があるのだろうか。一部の本については輸入を断念した。
▼ところが、である。諦めきれない本もあったので、ダメでもともと、日本のAmazonでアメリカの出版社の本を探すと、希望の本がヒットするではないか。なぁんだ、ということで今回は日本の書店を通して購入することにした。と、この時点で考えたが、円のレートによっては、海外の書店からの発送を断ることがあるのではないか、と思ったりした。
▼正確なことは分からないが、アメリカ・カナダ以外販売しないというのは、ちょっと不満がある。情報を知ることが出来、費用が少々かかっても構わないと言っているのに、それを売り渡さないというのは不親切だ。日本から検索できないならしかたないが、立派に検索できるのに売らないのは残念である。国同士の取り決めがあるのかも知れないが、頑張って欲しいものである。ちなみに、今回注文したのは次の商品。New American Standard Bible: Complete Old & New [DVD] [Import]

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今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第196回目。福見教会。バラに囲まれた聖母像もたいへん美しいです。
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復活節第3主日(ルカ24:35-48)イエスはあなたの心の目を開く

2012-04-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/04/22(No.588)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第3主日
(ルカ24:35-48)
イエスはあなたの心の目を開く
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浜串小教区に来て3年目に入りますが、司祭が授ける秘跡の中で、ゆるしの秘跡と病者の塗油はまあふつうに授けましたが、洗礼は2人だけ、結婚にいたってはまだ1組も扱っていません。○○さん○○さん、もう一回結婚してくれませんかと内心言いたいくらいです。

それはひとまず横に置いたとしても、洗礼を2人しか授けていないというのは、司祭として恥ずかしい限りです。わたしの努力も足りないわけですが、わたしが「洗礼受けませんか」と上から目線で誘うよりも、皆さんが、誰か洗礼を受けてくれそうな人を連れてきてください。

良い方法を教えます。誰か知り合いに、洗礼をまだ受けていない人、洗礼を受けたほうがいいなぁという人がこの上五島のどこかにいるとします。その人に働きかけましょう。ただし、「あなた洗礼を受けてみない?」と声をかけるだけではなかなか成功しないと思います。そこで、こう切り出すことをお勧めします。「わたしも神父さまのところで一緒に勉強するから、洗礼受けてみない?」こんなふうにお誘いしてください。

洗礼を勧めたい人がそこにいても、その人が1人で司祭館の敷居をまたぐのは至難のわざだと思います。本来は、そんなに司祭館の敷居が高くてはいけないのですが、実際には1人で訪ねるのは相当勇気が要るでしょう。そこで、まぁ半年から1年、勧めてくれるあなたも、週1回のペースで一緒に勉強してみてはいかがでしょうか。

昔は、洗礼を受ける人が責任もって自分で司祭のもとに行って、洗礼の準備を始めていただろうと思います。ですが今は、そんなこと言っていてはチャンスを逸してしまうことになります。

一緒に勉強すれば、誘ってくれる人も必ずためになるのですから、どうかこの方法で今年のクリスマスか、来年の復活祭までに、洗礼志願者が与えられることを願っています。近所だから、一緒に洗礼の準備に付き合う、この人をよく知っているから、一緒に準備についていく。そうやって、半年から1年、一緒に時間を費やしてくれる人を期待します。

さて今週の福音朗読は、マグダラのマリアに起こった出来事、さらにエマオに向かう弟子たちに起こった出来事の後に続く物語です。復活したイエスは集まった弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。弟子たちが亡霊を見ているのだと思い、なかなか信じられないでいるので、イエスはその場で焼いた魚を食べました。

もちろん、魚を食べることが復活したイエスの果たそうとしていた目的ではありません。イエスが本当にしようとしていたことから、今週の学びを得たいと思います。それは、「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた」(24・45-46)という場面です。

イエスが集まっていた弟子たちに果たしたかったこと。それは、「聖書を悟らせる」ということでした。そして聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いたり、聖書に書かれている中心的な教えを語り掛けたのです。

「聖書を悟らせる」聖書が大事なことは、わたしたちは言われなくても分かっています。けれども、言われなくても分かっているのに、聖書を大事にしているかと聞かれたら、「大事にしている」と答えられない生活をしています。

残念なことですが、今日を生きるのに、聖書を大事にしていないからです。自分と家族、職場や滞在先などの自分が属している場所で、聖書を大事にしていないからです。それはわたしに責任がありますが、どう大切にすればよいのか、これまで聞いたことも考えたこともないのです。

そこで、イエスは「聖書を悟らせるために心の目を開いて」くださいます。かつて弟子たちの心の目を開いてくださったイエスは、今わたしたちの心の目を開いてくださいます。

どのように聖書を大切にすればよいのか。身近に触れた聖書の朗読箇所を、生活の中で思い出してみたらよいと思います。例えば今週の福音朗読でイエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。

今もイエスは、わたしたちの家庭に、わたしたちの職場に、わたしたちが今いる場所に、「平和があるように」と言ってくださるに違いない。そう信じて生活するなら、わたしたちは生活の中で聖書を大切にしていることになります。わたしたちに届けられた聖書のみことばを、生活に結び付けるために、イエスは今もわたしたちの心の目を開いてくださるのです。

今日、復活したイエスは弟子たちに、「『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(24・46-48)そう仰いました。この箇所も、わたしたちが心の目を開いてもらえば、生活と結び付けることができます。

つまり、説教の最初に触れましたが、まだいろんな事情やいきさつがあって、カトリックの洗礼を受けていない人を誘って、「一緒に勉強付き合うから、洗礼を受けてみない?」と声をかけること。これは、具体的な生活の中でイエスの証人となる行動です。イエスが弟子たちに命じたことばそのものではなくても、あなたにできる福音宣教の第一歩です。

わたしたちが復活したイエスに心の目を開いてもらうなら、きっと聖書を悟ることができます。わたしたちが手にとって読むことのできる聖書は、ユダヤの国の遠い昔の物語ではなく、今わたしたちの間で繰り広げられている神の働きを教えてくれるのです。

わたしたちが聖書を悟り、聖書は復活したイエスが今わたしたちの間で働いていることを教えるものだと証しできますように。そのためにイエスがわたしたちの心の目を開き、わたしたちに行動する勇気を与えてくださいますように。ミサの中で願い求めましょう。

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‥次の説教は‥‥
復活節第4主日
(ヨハネ10:11-18)
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ちょっとひとやすみ
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▼長崎市の旧市営陸上競技場は、現在公園のようになっているが、トラックは今も残っていて、多くのランナーが集まる場所になっている。わたしも、ひさしぶりにトラックを、何と15周も走ってしまった。「年齢を考えろよ」と同級生に言われることがあるが、今回もその声が聞こえそうだ。
▼夕方4時半にグランドに到着。テキトーに準備体操をして、ぼつぼつ走り始める。この時点ではほとんどトラックを走る人はいなかったため、5周、7周と周回を重ねていくと、わたしのランニングシューズの跡が土にくっきり残っているのが分かる。何だか嬉しかった。
▼5時になると、高校の陸上部が大挙して押し寄せ、「いち、に、さん、し。ごー、ろく、しち、はち」とかけ声掛けながらのストレッチが始まる。陸上部のストレッチを見ただけでも、わたしの準備体操がまったくなっていないことがよく分かる。
▼入念に、わたしが費やした時間のゆうに3倍の時間を掛けてストレッチをした後、おもむろにトラックの周回が始まる。わたしの亀のような走りはあっという間に追いつかれ、「失礼しまーす」と言いながら右側から20人くらいの集団が抜き去っていった。
▼何度も何度も抜き去られたが、あまりにもレベルが違うので悔しさなど湧いてこない。男子の陸上部からも周回遅れにされたが、後では女子の陸上部からも周回遅れにされた。女子がわたしを抜き去っていった時、女子の香りがしたと言ったら変態だろうか。
▼グランドを走るといつも刺激を受ける。陸上部もそうだが、自分のペースを守って歩いたり走ったりしているすべての年齢層の人、それぞれの目的のために周回している人に刺激を受ける。そんな人々に囲まれて、15周6キロのロードワークを楽しんできた。

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今週の1枚
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第195回目。関わっているマリア文庫の「音訳奉仕者養成講座」開校式の様子。
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神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)神はどんな人にもいつくしみを忘れない

2012-04-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/04/15(No.587)
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神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
神はどんな人にもいつくしみを忘れない
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先週火曜日、性懲りも無く定置網の舟に乗せてもらい、沖合での作業を見学させてもらいました。この日はカメラをもっていって、お父さんたちの作業の様子をいろいろ写真に納めてきました。調子に乗って写真を撮っていたら、途中で「神父さん、ちょっと、どいてくれ」と言われ、あちゃーと思った場面もありました。

この時はカッパは着ていったのですが、手袋をせずに行きまして、結局新品の軍手を貸してもらい、ちょっとだけ手伝いをしました。獲れた魚の中から、アジを選り分ける作業です。わたしもさすがに、アジなら見分けが付くので、喜んで手伝いました。

戻ってきてからは、すべての魚を種類別、大きさ別に選別する作業が始まりました。アジの選別が終わってから、今度はイカの選別も手伝ってみたのですが、このイカは発泡スチロールに入れるのかなと思って選んでみると、お父さんにはねられ、ではこれではどうだと選んでも、またはねられ、なかなか力になれませんでした。

最後は、発泡スチロールに入れないイカ、いちばん小さいイカを選ぶ手伝いを命じられました。これならわたしにもできると思って、手伝っていたのですが、「神父さん、これはマツイカ。」そう言われて、この作業でもわたしが選んだものがはねられました。なかなか、選別作業も難しいです。邪魔ばかりしていたのですが、ただで魚をもらって帰りました。今月は長崎に行く用事が何回かあるので、もう乗れないかもしれません。

さて今週は、前教皇ヨハネ・パウロ2世が「神のいつくしみの主日」と命名された復活節第2主日です。わたしたちに対する神のいつくしみを、朗読を通して読み取りたいと思います。

イエスの復活後、弟子たちはその事実を何度か聞かされながら、まだ恐れのために尻込みして家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました。時間は夕方です。「その日、すなわち週の初めの日の夕方」(20・19)とあります。

朝、まだ暗いうちに、マグダラのマリアが墓に向かい、出来事をシモン・ペトロとイエスが愛しておられたもう一人の弟子のところに知らせに来ています。何かが起こったことをすでに知っていたのです。けれども弟子たちは、その日の夕方になっても、恐れに囚われていました。

イエスは弟子たちの恐れを取り除こうと、家の中に閉じこもっている彼らの真ん中に立ちました。「あなたがたに平和があるように」と言われました。言葉で、恐れを取り除こうとします。手とわき腹とをお見せになりました。行動で、恐れを取り除こうとします。いろいろな手段を尽くして、弟子たちの心の中にある恐れを、取り除こうとされたのです。

そして最後に、彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(20・22-23)最後には聖霊の息吹によって、いっさいの恐れから弟子たちを自由にしたのです。

ところで、トマスはその場に居合わせませんでした。恐れのため、家の戸に鍵をかけていた弟子たちとは別の場所にいたことになります。もしかしたらトマスは、ほかの弟子たちのような恐怖心はなかったのかも知れません。彼は恐れには捉えられてなかったかもしれませんが、別のものによって不自由にされていました。

「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」これは、トマスの利己心の表れです。イエスが復活したことは、弟子たちの証言「わたしたちは主を見た」という証言で十分です。それなのに、トマスは利己心に駆られ、イエスからの特別な扱いを要求したのです。

イエスはトマスの利己心に縛られた心も解き放ってくださいます。わたしたちを不自由にしている最後の砦もまた、利己心かもしれません。こうしてイエスは、すべての人が、復活したイエスによって喜びに満たされるように、縛られている心を自由にしてくださいます。

神のいつくしみはここに最高の形で現れます。神は、わたしたちが復活したイエスに出会って喜びに満たされるように、あらゆる手を尽くしてくださいました。トマスの身勝手な要求にも応えてくださいました。

今わたしたちは、神のいつくしみを感じているでしょうか。復活したイエスは、わたしたちの望みにどこまでも手を尽くしてくださる方だと思えるでしょうか。わたしたちの教会に必要な支えを、いつでも与えてくださる心の広い方だと、理解しているでしょうか。

今週、神のいつくしみ深さに信頼して生きる恵みを願いましょう。トマスの要求にも、十分に応えてくださったイエスは、今もわたしたちの願いに応えてくださいます。信頼をもって、新たな一週間に入ることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
復活節第3主日
(ルカ24:35-48)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼聖土曜日、復活徹夜祭に入る日の朝。メルマガ「復活の主日号」に使う写真素材を求めて、浜串漁港を散歩していた。ふだんも朝は散歩などしないし、聖土曜日は朝のミサがないため、本当は朝寝坊しても構わないのだが、朝7時に散歩しているといろんな景色が新鮮に見えた。
▼犬の散歩をしている人。用事で近所の家を訪ねている人。水産会社の事務所に朝一番で出勤してくる人。あー、それぞれの朝の光景なのだなぁと思って、あいさつを交わしたり、ただ眺めて通り過ぎたりして、だんだんと漁船に近づいていった。
▼いよいよお目当ての旋網(まきあみ)漁船が視界に入ってきた。最初は船だけを撮影していたが、船だけだと面白くないし、しかも船だけを撮ろうとすると東を向くことになり、やけに太陽がまぶしい。そこで遠回りして、浜串の集落を背景に、漁船をとらえようと考えた。イメージとしては、「旋網漁船とそれを支える家族」というような光景である。
▼船をいったん通り過ぎ、振り向いて、浜串の集落が背景に収まるよう向き直った時だ。積み荷である網が陸上に広げられていて、その中に網を繕っているお父さんたちが4、5人いたのである。まず、ギョッとした。向き直ってそこに人が見えるということは、いったん隣を通り過ぎているということだ。
▼わたしはまったく気付かずに、網を繕う人々の横を通ったことになる。ふつうに考えれば、作業をしている大人が5人もいる場所であれば、それに気付きそうなものだ。ところがわたしはまったく気付かずに、素通りしたのである。
▼作業をしていた人たちは、わたしに気付いただろうか。彼らは気付いただろう。だが黙々と作業をしていて、無駄な会話はしたくなかったのだと思う。そこに人がいたことに新鮮な驚きを感じながら、迷惑にならない距離でお父さんたちの作業をカメラに納めた。
▼復活後、イエスは漁に行こうとしていた弟子たちに声をかけた。もしかしたら、船を湖に浮かべる時から、イエスは水辺に立っていたのかもしれない。弟子たちはイエスにまったく気付かず、舟を沖に出し、漁に取りかかり、漁は徒労に終わった。そんな時、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」(ヨハネ21・6)と声をかけられたのではないだろうか。
▼考え事をしていたり、別のことに意識が集中していると、目の前にいる人、目の前で繰り広げられている大事な出来事さえも見落としてしまうのだろう。黙って網を繕っているお父さんたちが、わたしに「おはよう。調子はどうだい?」と声をかけてくれるイエスのように見えた。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第194回目。旋網ではないが、沖合1キロに設置した定置網の作業の様子
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復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)あなたも、イエスの復活を知ったもう一人の弟子

2012-04-08 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/04/08(No.586)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
あなたも、イエスの復活を知ったもう一人の弟子
‥‥‥†‥‥‥‥

あらためて、御復活おめでとうございます。今日の福音朗読は、先に墓に行ったマグダラのマリアの報告を受けて、その後に出かけた弟子たちのことが取り上げられています。シモン・ペトロと、イエスが愛しておられたもう一人の弟子が墓に向かったとされています。

ここで「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」とあります。もちろん常識的には、使徒ヨハネのことをこう呼んでいるのだと考えるべきです。もちろんその点は踏まえてなのですが、今年わたしは、もっと豊かに、もっと大胆に考えてみたいのです。

「イエスが愛しておられた」という言葉は、とくに使徒ヨハネにふさわしいと思います。イエスの十字架上での最期の場面にも、ほかの弟子はだれも留まりませんでしたが、愛する弟子という呼び方で登場しました。誰がイエスを裏切るかを尋ねたのもこの弟子です。復活し、弟子たちに出現なさった時、「主だ」と声を上げたのも同じ弟子です。イエスから愛されている人でなければ、これほど近くで登場させることはできないと思います。

ただ、イエスが愛しておられたのは、シモン・ペトロも同じです。この弟子をいちばん愛して、別の弟子はそれより少し劣る愛し方をしたとは考えられません。聖木曜日の晩には、弟子たちをこの上なく愛し抜かれたのですから。

そこで考えるのは、「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」は、イエスを信じ、イエスを愛しているすべての人に当てはめてもよいのではないか、ということです。すなわち、あなたも、イエスの復活を知ったもう一人の弟子、イエスが愛しておられたもう一人の弟子だということです。

イエスが愛しておられたもう一人の弟子の姿を拾いましょう。シモン・ペトロと一緒に走ったが、「ペトロより速く走って、先に墓に着いた」(20・4)とあります。あなたはまだ若さに自信がありますか。速く走って、イエスに会いに行くために競走できますか。ではイエスが愛しておられたもう一人の弟子になることができます。

彼は先に墓に着き、身をかがめて中をのぞきましたが、彼は中には入りませんでした。あなたは先に墓についても、責任ある人に最初に墓に入る栄誉を譲る謙虚さがありますか。責任ある人の意見を聞いてから自分の態度を決める慎重さがありますか。ではイエスが愛しておられたもう一人の弟子になることができます。

あなたは、一緒にイエスのもとについた責任ある人と一緒に、イエスの復活を心から信じてくれますか。神のご計画、神の愛は、一度死んでも、必ず復活すると信じ、それを人にも知らせることができますか。では、イエスが愛しておられたもう一人の弟子になることができます。

わたしたちはどこかで、イエスの愛しておられたもう一人の弟子になれるのではないでしょうか。足が速くて謙虚で、復活を信じる堅固な信仰この3つをすべて備えてはいないかも知れませんが、そのどれかには当てはまる、そのどれかには近い生き方をしているのではないでしょうか。

わたしたちがイエスの愛しておられたもう一人の弟子であるならば、シモン・ペトロのような責任ある人と力を合わせて、復活したイエスの証人となるべきです。それはつまり小教区の一員として、主任司祭や小教区評議会の方々と力を合わせて、証しをすることです。

イエスは今生きて、わたしたちを喜びで満たしておられる。復活したイエスを信じる人は、今喜びを抱えて生きることができると、あなたが生きる場所で証ししてください。復活したイエスは、さまざまなしるしで、これからあなたの証しを裏書きしてくださいます。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼カトリック信者が日本でカトリックの信仰を表明するのは難しいのだろうか。家庭の中で1人だけカトリック信者だという人をわたしは何人も知っている。その人たちの中で、あからさまに家族から悪く言われる人がいることも知っている。
▼「家社会」が根強く、家の宗教、家の伝統を破壊するとして、カトリックの信仰を捨てて、仏教になってくれと言われている人がいる。実際、見た目はすっかり仏教徒として暮らしている人もいる。もちろん、洗礼を受けて仏教徒からカトリック信者になっている人もいる。
▼問題はいろいろ複雑だ。だが、そうした問題も、「家」の中だけで解決しようとしないで、もっと幅広い人に意見をもらって、難しい問題をみんなで考えてみてはいかがだろうか。「家」社会の中で、「家」の中だけで答えを探すなら、きっと制約されてしまうに違いない。
▼ところが、現代のわたしたちの暮らしは複雑に絡み合った社会である。「家」だけに縛られているわけではない。地域社会に開かれている部分もあるし、ちょっと工夫すれば、家庭の問題、地域の問題であっても全国に意見を求めることも可能である。そういう手段が現在は幸いにそろっている。
▼だから、抱えている問題を閉じ込めず、勇気を出して発信してはいかがだろうか。家庭の主婦、子どもたち、そして問題を抱えている人と知り合った友人知人、教会の家族。いろんな人が置かれている事情によりよい提案をしてもらうことを期待して、現状を発信する人になってもらえないだろうか。
▼いろんな人が、発信する人になってくれれば、発信されたメッセージを受信する人がきっと現れるはずである。メッセージを受信した人の中には、「こうしたらよいのではないか」という提案をもっている人がひょっとしたらいるかも知れない。
▼ヨハネ福音書はこう語っている。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ1・1)ことばはつまり、「発信」を担う根源的な素材である。だから神は、発信することをやめないお方なのではないだろうか。
▼イエスは「わたしに従いなさい」(マタイ9・9)と招いている。生涯、発信し続けたイエスが、「わたしに従いなさい」と言っているのだから、それぞれの立場で、発信する人が現れて、もっとたくさんの人で問題解決に当たるきっかけを作ってほしい。
▼司祭・修道者・信徒・カトリック信者でなくても、どのようにカトリックの教えを日本に位置づけるか、幅広く考えを巡らせてほしい。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第193回目。復活の日の朝。イエスは湖畔の弟子たちに声をかける。
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復活徹夜祭(マルコ16:1-7)だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか

2012-04-07 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
12/04/07(No.585)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活徹夜祭
(マルコ16:1-7)
だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか
‥‥‥†‥‥‥‥

主のご復活、おめでとうございます。今年の復活の喜びを黙想するために、真っ先にイエスのご遺体が納められた墓に行った女性たちの言葉を選びたいと思います。「彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。」(16・3)この言葉です。

彼女たちがこのようなことを考えていたのは、もちろんイエスのご遺体に香料を塗るお世話をするためでした。イエスさまの復活を理解しての行動ではありませんでした。けれども、彼女たちの言葉は確実に、イエスのために次に何かしようという気持ちに満ちあふれていました。

彼女たちにとって、墓に埋葬されているイエスに次にすることは、香料を塗ることでしたから、そのことに心が向かっていたのです。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」この言葉は象徴的に、イエスのために次に何かをしようと考えた人の言葉だったのです。

この言葉を発した女性たちに、神の使いが現れ、別の使命を与えます。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(16・7)

神の使いが彼女たちに新しい使命を与えました。墓に泣きに来た女性たちに次の使命を与えたのではありません。墓に、イエスのために次に何ができるかを考えてやって来た女性たちに、新しい使命を与えたのです。

この事実は、わたしたちにも考えさせます。イエスが死んで、復活しました。この場面で、次に何をしようかと考えている人には、復活したイエスが新しい使命を用意してくださるのです。反対に、イエスが死んで復活したのに、下を向いて泣いている人たちには、次に向かう使命を受け損なってしまいます。

わたしたちの教会に当てはめてみましょう。わたしたちの教会も、何かが死んで、何かが復活しようとしている時期だと思います。この時期に、「次に何ができるだろうか。次にこういうことができるのではないだろうか」と考える人には、復活したイエスは照らしを与えて次の使命へと向かわせると思います。

ところが、「あれもできなくなった、これもやむなく廃止となった。廃れていく一方だ」と、下を向いているだけでは、イエスの照らしにも気付かず、次の使命も取り逃がしてしまうのではないでしょうか。

ここでわたしたちは考える必要があります。わたしは今、この教会のために、次に何ができるか考えているだろうか。小学生として、中学生高校生として、社会人として、大きいことか小さいことかは関係ありません。次に何かしようというその気持ちが大切です。それさえあれば、復活したイエスが本当に必要な次の使命を、与えて派遣してくださると思うのです。

次に必要になってくること。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」そう考える人がもっとたくさん増えて、この教会に新しい力となってくださることを期待します。

この教会のためだけでなく、上五島地区や、長崎教区のため、次に何が必要だろうか、何ができるだろうかと考える。そんな考え方の人を、今復活したイエスは捜し求めています。そして、次の行動を起こす人の力が集まって、望まれる浜串小教区、望まれる長崎教区の神の民となっていくことができるように、復活の主に願うことにいたしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼聖香油のミサに出向いたとき、海上は大時化だったと話したが、明けた聖香油ミサ当日は、さらに天候が悪化し、暴風になった。長崎本土で朝を迎えたが、土砂降りの雨。サッシを揺らすほどの強い風。これではさすがに、当日船に乗って聖香油のミサに参加しようと思った人たちは足止めを食うだろう。
▼案の定、すべての船会社が早々に欠航のお知らせを出してきた。大時化の日に船に乗ると、身近にいのちの危険を感じる。飛行機は上空1万メートルを飛んでいるから、危ないのは危ないけれどもたいていの場合は眠ることが可能だ。
▼電車にしてもバスにしても、事故が起こらないとは言えないが、目的地まで眠ったままでも時間を過ごせる。ところが、海上が3メートルの波の日に船に乗れば、ぐっすり眠れる人は誰もいないと思う。実際の船の揺れを半分に見積もっても、波が3メートルの日は、体が1メートル50センチ上下することになる。
▼それを80分も90分も、場合によっては2時間以上辛抱しなければならない。中学のときから神学院に入学して司祭を目指す神学生は、だから辛抱強くなるのだと思う。この苦労を買ってでも、司祭になろうと頑張っているのだから、日常生活で少々のことがあっても心は折れない。ホームシックに仮にかかっても、帰る家は80キロ海の向こうなのだから。
▼五島列島から進学・就職で本土に渡る人も同じことだ。どんな思いで海を渡って本土で苦労しているか。だから、ある時期その人たちが教会のことがなおざりになり、背を向けたとしても、彼らは必ず復活するのである。
▼いろんな苦労を本土でするかも知れないが、その苦労がいつか、五島の生活を振り返ることになり、信仰を守る気持ちにもう一度意義とか価値を見いだすのだから。五島のカトリック信者が「やっぱり信仰は大切だ」と復活するための3日間は人によってさまざまだろうが、必ず3日目はやって来ると信じている。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第192回目。去年もだったかな?復活のタマゴ。
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聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)使命のために生き、使命のためにいのちをかける

2012-04-06 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
12/04/06(No.584)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
使命のために生き、使命のためにいのちをかける
‥‥‥†‥‥‥‥

聖金曜日、イエスの御死去を仰ぎ見ました。イエスの御死去を、ひとことで言い表すとしたらどういう言葉が当てはまるでしょうか。それは、使命を全うして亡くなられた、ということではないでしょうか。

神の御独り子が、人となってわたしたちの間に住まわれ、十字架上でいのちをおささげになりました。人となったということは、必ず死ななければならないということです。どのような最期がいちばんふさわしいか。イエスはその姿を十字架の上で示したのです。それは、「使命を全うして亡くなる」ということでした。

ヨハネ6章39節でイエスは次のように言われます。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」イエスは御父から託された使命を完成させるために、十字架上でいのちをささげてくださったのです。

このイエスの亡くなりかたは、わたしたちに何を伝えようとしているのでしょうか。わたしたちにも、使命のために生き、使命のためにいのちをささげ、人生を全うするように招いているのです。何も語りませんが、そのお姿で、「あなたは自分に与えられた使命のために生きていますか。あなたは自分の使命にいのちをささげてくれますか」そう語りかけているのです。

ではわたしの使命とは何でしょうか。ペトロのように、いよいよになった時にイエスを「知らない」と拒むことでしょうか。あるいは「十字架につけろ」と叫ぶことでしょうか。それとも、槍で、イエスのわき腹を突き刺すことでしょうか。もちろん違います。わたしたちの使命は、それぞれの生活の中で、イエスがわたしのよりどころですと表明することです。

「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。」(19・25)何かの目印の場所に立って待ち合わせをする人のように、自分はイエスのそばに立っていますと表明するのです。それは、表だった派手な活動ではありませんが、わたしが生涯果たし続ける使命として十分です。「あなたはカトリック信者か」と聞かれた時に「はいそうです」と答えるだけでも、イエスのそばに立っていると表明できます。

朗読の中でわたしたちの使命を考えさせるもう1つの姿がありました。アリマタヤ出身のヨセフは、イエスの遺体を取り下ろしたいと、ピラトに願い出ました(19・38)。イエスのために何かをしたいと、誰かに願い出ること。これもわたしたちが果たし続け、そのためにいのちをささげるのに十分な使命です。

イエスのために何かをしたい。その気持ちを形にする場所は教会の内にも外にもあります。教会内の活動に、人を誘うこともできます。あるいは、小さないのちを守る運動は、一般社会よりも教会が積極的に外に向けて訴えかけることのできる場面です。こうしたことに、積極的に関わり、使命を果たすこともできます。

今もイエスは、わたしたちに十字架の上から呼びかけています。あなたは今、使命のために生きていますか。使命のために、いのちをささげてくれますか。これから、十字架の礼拝に移ります。主の十字架をあがめながら、わたしは、こんな使命のために生きてみます。こんな使命のために、いのちをかけてみますと、心の中で表明しましょう。自分の十字架を担ってイエスに従うことができるように、力を願うことにいたしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭
(マルコ16:1-7)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼準備万端して聖香油のミサのために長崎市内に上陸したつもりだった。聖木・聖金曜日・復活徹夜祭の原稿のアイディアも浮かんだので、そのメモもUSBメモリーに入れた。これで良しと思ってやって来たのに、実際にUSBメモリーを開いても、どこにも資料が見当たらない。
▼どういうこと?と思ったが、ないものは仕方がない。頭の中にうっすら残っている記憶を頼りに書く以外にない。うっすら残っている頭髪の光っている部分から、脳の中身も霧のように蒸発してしまいそうだ。
▼こんなに悔しい思いをして、聖なる三日間の原稿を書くことになるとは。運の悪いことに、浜串に電話を掛けて資料を読み上げてもらおうにも常勤のシスターもいない。日曜日から水曜日まで、特別な許しを得て佐世保に出かけてしまった。
▼このピンチだから、本来書きたかった内容から、ずれているかも知れない。どんなことがあっても自分の資料を活用できるように、次回からはUSBメモリーで持ち運ばず、クラウドに置いて取り出すことにしよう。
▼前の日にさんざん文句を言っておきながら、こんなざまでは、上げた拳の降ろしようがない。結局、だれも人を裁けない、ということなのだろう。昨日はある特定の人を裁いてしまったが、大変申し訳なかった。
▼受難の主日の説教だったか、「追及」とすべきところを「追求」と変換したまま配信している。追及されればひとたまりもない箇所だったが、心優しい皆さんは黙ってスルーしてくれたようだ。スルーできることもあるが、ついムキになって物を言ってしまうこともある。弱い人間である。
▼けれども、やはり人は人を追及してはいけないと思う。追及している人も、別の視点からは追及される人である。そのことを棚に上げて、あるいは見ないふりをして誰かを躍起になって追及するのは、むごいことではないか。
▼警察も、これ以上は危険が及ぶと判断すれば、暴走車両を追いかけない。管轄のエリアの外に出て行くまで追いかけているだけかも知れないが、それでも、追い詰めて事故を起こさせるよりはましである。
▼どうかすべての人が、誰かを躍起になって追及するのをやめて、代わりに十字架を背負ってほしい。イエスの十字架を背負う姿は、わたしたちが追及することをやめないならば、無駄になってしまうのではないだろうか。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第191回目。聖金曜日の一番最初のセレモニー、司祭が祭服のまま床に伏す。
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聖木曜日(ヨハネ13:1-15)尊い場所にも日常にもイエスはおられる

2012-04-05 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
12/04/05(No.583)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
尊い場所にも日常にもイエスはおられる
‥‥‥†‥‥‥‥

聖木曜日の今日、わたしたちはイエスの2つの姿を考えてみたいと思います。福音朗読では、イエスは食事の途中で席を立ち、弟子たちの足を洗います。弟子たちの足を洗う姿、これがイエスの1つの姿です。
もう1つは、最後の晩餐で、パンとぶどう酒のもとに、イエスがご自分の御体と御血を存在させ、わたしたちのいのちの糧となってくださる御聖体です。これが、イエスのもう1つの姿です。この2つの姿から、今日わたしたちが持ち帰る学びを得ることにしましょう。
わたしが皆さんに示した2つの姿は、何を意味しているのでしょうか。弟子たちの足を洗うイエスと、御聖体となっていのちの糧になってくださるイエス。何を言いたいのでしょうか。
2つの姿は、2つのあり方、存在のしかたを表しています。つまり、イエスはごく普通の、日常的な場面に存在してくださるし、一方でとても崇高な、特別な場所にも存在しておられるということです。
「上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」(13・4)このしぐさは、きっと僕たちのしぐさです。一家の主人、またその家族が抱えている使用人の取る態度です。そんなありふれた出来事の中に、イエスは存在してくださいます。
シモン・ペトロは、仲間の弟子たちの足を洗うイエスに、「わたしの足など、決して洗わないでください」(13・8)と言いました。主であり、師であるイエスが、使用人のしぐさをまねているなど考えられなかったのでしょう。主であり、師であるイエスが、使用人として存在するはずがなかったのです。
けれどもイエスは、シモン・ペトロの常識の範囲をひっくり返します。主であり師であるわたしは、最も低い身分の中にも、存在することができる。どんなに卑しい仕事、どんなに醜い務めの中にも、イエスは存在することができる。イエスはそのことを、弟子の足を洗うことで証明なさったのです。
一方でイエスは、世界でたったひとりしかできない御業の中に存在してくださいます。パンとぶどう酒のもと、「取って食べなさい。これは、あなたがたのためにわたされるわたしのからだ。」「受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯。」世界で一つ、世界中のだれもが驚嘆する業の中に、イエスは存在するのです。
ではこの、2つのあり方、存在のしかたは何を意味するのでしょうか。わたしはこう考えます。イエスは、すべてのものの中に、すべての出来事の中に、存在することができる。たとえ人から低く見られ、だれもが嫌がる仕事の中にも、イエスは存在することができます。
それと同時に、だれもが目を見張る、だれもがあっと驚く仕事の中にも、イエスは存在することができるのです。どんな場所にも、どんな仕事の中にも、イエスを見いだそうとすれば、見つけることができる。イエスはそんな思いで、弟子たちの足を洗う出来事と、聖体の秘跡の制定の2つの業を弟子たちに示されたのではないでしょうか。
さらに、最後の晩餐の出来事は次のような雰囲気の中で行われたと書かれています。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(13・1)イエスは弟子たちを愛しておられたから、低く見られている業の中にも、尊い業の中にも、ご自分が存在することをお手本として残されたのです。
イエスの業は、わたしたちへのお手本です。互いに愛し合うなら、どんなに低く見られている仕事の中にも、わたしは存在できるはずです。もちろん、だれもがうらやむような尊い仕事の中にも存在できます。わたしたちは他者を愛するとき、すべての働きの中に存在できる者にならなければならないのです。
配偶者どうし、一緒に働く仲間どうし、司祭と信徒、司祭と修道者、修道者と信徒。あらゆる関係の中で、イエスが示された模範を果たすように、わたしたちは求められているのです。わたしは司祭だから、そんなつまらない仕事はしない。わたしは信徒だから、そんな立派な務めはしない。どちらの場合も、人類をこの上なく愛し抜かれたイエスがすべての出来事の中に存在しておられることを考えれば、口にしてはいけない言葉ではないでしょうか。
ぜひ、この世界のあらゆる出来事、あらゆる仕事をもう一度見渡してください。そこにイエスが存在することなどできないはずだと思い込んでいた場所にも、イエスは共にいてくださいます。すべてのことの中にイエスの存在を意識しましょう。イエスがそこにいてくださるなら、すべてがイエスの存在を証明する道具になります。今日の学びを持ち帰り、すべての場所、すべての出来事を通して、イエスを証しする人となる。そのための恵みを、今日のミサの中で願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼今年の聖週間三日間の典礼説教原稿は、長崎市内に滞在して、一気に書き上げている。今浦上教会からかなり距離のある場所にいるが、浦上教会の鐘が聞こえてきた。この距離ではとても聞こえてこないだろうと思っていたが、実際には聞こえるようだ。
▼ちょっと哀愁を帯びた鐘の音。この場所も浦上教会の管轄だから、鐘が聞こえれば教会のことを思い出すし、祈りを思い出すし、自分を振り返ることもある。教会の鐘を鳴らすことができる地域は、それだけでもありがたいと思ったほうがよい。
▼鐘を鳴らすことが住民感情に照らしてはばかられる地域もあるだろうから、教会の鐘が聞こえる地域は、それだけでもカトリック教会の存在が受け入れられている証拠である。教会の鐘が聞こえてきたから、教会に導かれたと言ってきた洗礼志願者を知っている。
▼今年も、聖香油のミサのために長崎本土に皆で集まった。長崎市内にいる司祭たちは、五島列島からどんな思いをして集まったか知るはずもないだろう。今年は「もうこの場で海に放り出してくれ」と叫びたくなるほど海が荒れていた。船酔いして、ある人は嘔吐して、やっとの思いで上陸したのである。
▼そんなことも知らずに、上五島は出席が少ないなぁと思うなかれ。上五島に赴任しているからすべての司祭が海上時化に強いわけではないのだ。こんなつらい思いをして、しかも9000円も交通費を払ってやって来ているのに、バス代150円でやって来た司祭たちと同じ扱いでは、あまりにも不公平だとは思わないか?
▼だから、いつも思うことだけれども、「集まって当然だ」「来ないのが間違っている」と平然と批判したり、不愉快な態度をする方には、「おまえも五島から出勤してみろよ」と言いたい。聖香油のミサだけではない。教区行事全般にわたって、たとえば1年間、五島から出勤してすべてを体験してから物を言ってほしい。
▼1回9000円の交通費、しばしば荒れる天気、車と船を乗り継いでの片道2時間近い時間の浪費、場合によっては日帰りしなければならない。2時間の行事のために、毎度4時間費やして、1年間長崎での行事をこなしてから、言いたいことは言ってほしい。
▼そんな艱難辛苦を経て、離島は本部の行事に協力している。地方のことを本土と同じに並べて考えている人たちは、腰に手ぬぐいをして、五島の司祭の足を洗ってはいかがか。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第190回目。もしも写真が撮れたら、聖香油のミサの様子。
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受難の主日(マルコ15:1-39)あなたは何を十字架につけろと叫びましたか

2012-04-01 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
12/04/01(No.582)
‥‥‥†‥‥‥‥
受難の主日
(マルコ15:1-39)
あなたは何を十字架につけろと叫びましたか
‥‥‥†‥‥‥‥

長崎教区の司祭の異動が発表されました。ほとんどが、若い司祭の転勤でした。上五島地区は、今年の移動にはだれもかかっていません。また今年度も、現在の体制で司牧活動が進められていきます。詳しいことはよきおとずれ4月号がもうすぐ届きますので、そちらをご覧ください。ちなみに、2月26日に叙階された大水満新司祭は、浦上教会の助任司祭として、今日から浦上で働いてくれることになっています。

聖週間が始まりました。特に聖なる三日間は、都合をやりくりして典礼にあずかってほしいと思います。今年は聖木曜日が福見教会で夜7時、聖金曜日が浜串教会で夜7時、復活徹夜祭は福見教会夜7時と浜串教会夜9時です。復活の主日のミサは、浜串教会が朝7時、高井旅教会が朝9時です。それぞれの教会はもちろんですが、できればお互いの教会に行って、三日間の典礼をすべて参加してほしいと思います。

実際には、参加が難しい方もいらっしゃるでしょう。そのような方のために、予定では聖木曜日までに聖週間の説教をすべて準備して、プリントにまとめて配りたいと思っています。高齢や病気などで参加が難しい人は、木曜日までに教会の入口にプリントを用意したいと思いますので、この期間の補いにしてください。

さて、今年の受難の主日にあたって、役割分担をした受難の福音から、群衆役をした皆さんの言葉を1つだけ取り上げたいと思います。群衆役のみなさんが出した言葉は何だったでしょうか。あれこれ言ってないので、すぐに思い出せるはずです。群衆はただ一言、「十字架につけろ」と叫んだのです。

「十字架につけろ」という言葉は、イエスを死に追いやる言葉です。確実に、イエスを亡き者とし、排除する言葉です。さまざまな言葉が飛び交う中で「十字架につけろ」という言葉が聞こえたのではありません。群衆が皆、いっせいに「十字架につけろ」と言ったのです。ですから、イエスを取り囲む群衆皆が、イエスを十字架につけることに加担したことになります。

群衆が十字架につけたのは、イエスお一人だったでしょうか。もちろん、イエスを十字架につけたのですが、「自分にとって都合の悪いことから逃れたい」そういう利己心に関わるものすべてを、イエスに背負わせて十字架につけたのではないでしょうか。

本来なら、自分で背負わなければならない罪を、わたしたちはいろんな理由をつけて逃れようとしています。今日だけ人をだましてやり過ごそう、この場だけ嘘を言って逃れよう、他人は死んでもしかたないが自分は死にたくない。そんなあらゆる利己心が、「十字架につけろ」この一言に込められているのではないでしょうか。

マルコ福音書は、イエスが十字架に磔にされてから発したのは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味の「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という言葉だけでした。

群衆に向かって、「あなたたちは、何も十字架につけるものはないのか」と追及することもできたはずです。けれども、イエスは御父のみ旨だけを尋ねて亡くなりました。わたしたちが十字架に磔にしなければならないものをすべてイエスが引き受けて、御父にゆるしを願ったのです。

この一週間、イエスが成し遂げてくださる救いのみわざを一緒にたどっていきましょう。わたしたちには何も手を出すことのできないイエスの尊いみわざを、できれば三日間通して、この目に焼き付けることにしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼聖週間が始まった。この1週間は1年のどの季節よりも頭の回転を速くして過ごさなければならない。受難の主日の説教に始まり、聖木曜日・聖金曜日・復活徹夜祭・復活の主日と、連続で説教が続き、それをメルマガで配信させなければならないからだ。
▼さらに加えて、できればこの説教を材料にして、小さなプリントを作りたいとも思っている。それは、聖なる三日間をすべて参加できない人のため、また、この三日間を病院で過ごす人たちのためだ。
▼ここ数年は、プリントも用意してきたのだが、去年はプリントの売れ残る率が多くて(もちろん無料。販売したわけではない)紙の無駄ではなかろうかと思ったが、ほんのわずかだが「とてもありがたい」という声もあったので、今年も続けようと思う。
▼浜串教会の聖書朗読担当は、間違いが無いように決められていて、特に毎月第1日曜日は中学生と決まっている。ということは受難の主日の聖書朗読は中学生が担当ということになる。それは自動的に、福音朗読の受難の朗読も、中学生が役割分担に加わって手伝うということを意味している。この「ちょっとひとやすみ」を書いている時点では結果がどうなったのかは分からないが、きっと予想通りにはならないと思っている。
▼聖週間が始まると復活のお祝いがやって来る。やはり復活祭は、洗礼式があって、新しい神の家族が増えることがいちばんの楽しみだが、ここ2年、その喜びが味わえていない。ひとえに主任司祭の努力不足である。何か知恵を絞って、洗礼の喜びを皆で味わえるように、働きかける必要がある。
▼先週の新司祭初ミサの会場では、ある教会の主任司祭が、とある家族に働きかけて、その場で洗礼の約束を取り付けたと聞いた。何という早業。きっと何かが違うから、働きかけも力がありその結果も違ってくるのだろう。次の季節に向けて、すでに動き始めなければならない。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第189回目。小学生合同黙想会。上五島も集まれば子どもはたくさんいますね。
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