こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

聖家族(ルカ2:22-40)何かをささげて家族は絆を見いだします

2008-12-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/12/28(No.393)
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聖家族
(ルカ2:22-40)
何かをささげて家族は絆を見いだします
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今日の福音朗読は、イエスが両親に連れられて神殿に奉献される箇所でした。今こう言っただけでピンと来た人もいると思いますが、今日の朗読箇所と2月にやってくる「主の奉献」の朗読箇所はまったく同じになります。

2ヶ月もするとまったく同じ朗読箇所で説教をしなければならないというのは私にとっては暴力に近いものがあります。ほんと、こんな意地悪はやめてほしいです。ただ幸いに、日本では主の奉献の祝日が2月2日の月曜日に割り振られているので、本当に助かっています。

さて、幼子イエスを連れたヨセフとマリアが神殿に詣でてみると、聖家族のお参りを首を長くして待っていた人が2人待機していました。1人はシメオンという男性、もう1人はアンナという女預言者でした。その2人のうち、今年はシメオンの預言の言葉を取り上げたいと思います。

取り上げたいのはシメオンの最後の言葉「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」(2:34-35)です。このシメオンの預言の言葉から、「家族は何かを奉献することで、真の家族になっていく」ということを考えてみたいと思います。

ヨセフと一緒に神殿に向かったマリアがシメオンから受けた預言は、幼子の将来について、それもマリアにとってつらい結果を伴った将来でした。「剣で心を刺し貫かれる」それほどの苦しみが待っているというのです。これはイエスの受難のことを預言しているのですが、まだ幼子に過ぎない今、生後40日しか経っていない今、このような未来を示されたマリアは、胸がつぶれるような思いだったのではないでしょうか。

シメオンの預言を考えれば、ヨセフとマリアはイエスを神殿に奉献したその時から、将来イエスに起こる出来事のために大きな十字架を担って生きたということになります。十字架を担い、またその十字架を日々おささげして、生きたのです。なかなか、私たちには理解できない大きな犠牲だと思います。

ところが、よく考えると、ヨセフとマリアが担ったその大きな犠牲に近い犠牲をささげている家族は、あちこちにいるかも知れないのです。私は過ぎた1週間で、そのような家族を知りました。実は私の従兄弟が、火曜日の夜に脳出血で亡くなりました。40歳?でした。

ご両親は、私の父の兄弟です。一番上の兄で、私の父は一番下の弟だったのでずいぶんかわいがってもらっていたそうです。このおじさん夫婦が失ったのは一人息子でした。ヨセフとマリア、そして幼子イエスという聖家族と同じ家族構成だったのです。
私は金曜日にその従兄弟の葬式のために長崎の滑石教会に行きました。おじさん夫婦は本当に疲れ、また一人息子を亡くしたことで暗闇の底に突き落とされたような状態だったと思います。

ただ、先に子供を失った、それも一人息子を失ったおじさん夫婦には、これからも先の時間があるわけです。とても辛いことですが、これからの人生を、その悲しみを背負って生きていかなければなりません。

私はこのおじさん夫婦に、信仰に裏打ちされた家族の力を見た思いでした。亡くなった息子さんは戻っては来ませんが、家族の中から、神さまへ、1つの完全な奉献を、成し遂げたのだと思います。取り戻したくても取り戻せない、神さまのもとに一人息子を委ねました。それは、大きな犠牲、大きな献げ物なのだと思います。

そして、犠牲をささげることで、家族は神に特別に近づくのです。アブラハムが息子イサクをささげたことで、神に特別に愛される人となったように、たとえ相手が神さまでも、ささげるのはちょっとためらう、そんな大切な何かを十字架としてささげるとき、家族はさらに神に近づくのではないでしょうか。

いつでもささげることができるものは、通常の献げ物です。ですが、ある時家族は、どうしても神に求められて、何か尊いものをささげなければならない時がやってきます。夫婦のどちらかが配偶者を神に召されるとか、または親を送らなければならなくなったとか、できればその日が来ないでほしいと思えるような辛い別れ、犠牲をささげる日がどこかで巡ってきます。

けれども、別の見方をすると、そうした特別な犠牲を神にささげる時、家族はもっと深い絆を与えられるわけです。生きていた時にはそばにいてくれることを特別に思っていなかったのに、神さまに配偶者が呼ばれると、そばにいてくれたことがどんなにありがたかったかが分かります。子どもが、親の存在をありがたいと思うのも、親を神さまに送り出した時だったなぁと感じる人も多いはずです。特別な犠牲を家族がささげた時、家族はもっと深い絆に結ばれた家族になるのではないでしょうか。

聖家族は、シメオンの預言を聞いたことで、幼子イエスをささげなければならないことを知り、覚悟を決めました。この時、家族の絆はこれ以上ないほど強まったのだと思います。

特別なささげものは、私たち家族も絆を強めます。私の家族は、人でも物でも、神さまにささげるのは気乗りしないとと思っていないでしょうか。神さまのために時間を使うのがもったいない気がすると思っていないでしょうか。

ぜひ、聖家族が神への献げ物によって強められたように、私たちの家族も何か大きな献げ物を通して神さまから強い絆を与えてもらえるように願いましょう。聖家族の姿に、必ず私たちの家族が成長する模範を見つけることができます。これからの生活に照らしとなる点を、聖家族の中に見いだすことがように、ミサを通して願いましょう


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ちょっとひとやすみ
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▼今年の最後、いとこの葬式をすることになった。どうして?と思う気持ちもあるが、神さま自身への信頼と神の計画への信頼を問われているかも知れない。まだ1度も、親戚で近い年齢の人を送ったことがないので、今回の葬式は考えさせられた。ご両親共に生きておられるわけで、一人息子を失ったこれからをどう生きていくのか、本当に心配だ。
▼年賀状を書く必要はなくなったわけだが、今年はなぜかいろいろの心づくしが届く。もしかしたら私のことを心配してなのかも知れない。そうであるとすれば、私はもう少ししおれていなければ同情票をもらえないことになる。こういう時、中年太りしていると損をする。それでも、前よりも髪が抜け落ちているので、その面では同情してもらえるかも。
▼机の上を片付けたい。それはつまり積み上げた仕事を片付けなければ片付かないのだが、私の机は永久に表面を見ないで終わるのかも知れない。何ものせずに机の天板が見えている場所は、今のところどこもない。どうしてこんなに片付けが悪いのか。いっそのこと全部段ボール箱に押しやって、見なかったことにしたいくらいだ。
▼今年もあと2日となり、できたこととできなかったことを振り返る時期が来た。できなかったことがはるかに多いが、たくさんの人の協力で、列福式の広報活動に携わり、一定の足跡を残すことはできたと思う。ほかにも何かできたかも知れないが、あまり長期の計画を立てずにその日暮らしをしているゆえに、特別思い出すこともない。
▼何も思い当たる節はないけれども、決まり切ったこととして1年間やり通したことはまるまる1年分積み上がった。このメルマガがそうだし、録音説教がそうだし、視覚障害のある方に毎月届けた宗教の話の録音がそうだし、子ども向けのカトリック雑誌「こじか」に1年間掲載した記事もそうだろう。そうしたことは、確かに形になったと言えば言えないこともない。
▼ただ、それらは私の記憶には残らないだろう。なぜなら自分のためには何一つしていないのだから。あとで報酬という形で何かが返ってくるかも知れないが、それも忘れた頃にやってくれば、何の報酬だったかなとこちらが考えるくらいだから、お金のために働いたのでもない。かっこよく言えば、「だれかのための仕事」である。だれかが、それを覚えてくれて、「あの時あの記事で勇気づけられた」とか、そういうことがあれば本望である。
▼残すところあと3日。あと3日後にも、元気で皆さんと会えますように。もしそうでない人とは、3日後に復活して、私とまた会ってください。

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今週のワンショット
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第65回目。この子が、巡回教会で洗礼を受けました。来年小学1年生です。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)言は肉となった。わたしたちはその栄光を見た

2008-12-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/12/25(No.392)
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主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-18)
言は肉となった。わたしたちはその栄光を見た
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私たちはあらためて主の降誕を祝うためにミサに集まりました。朗読された福音はヨハネ福音書です。ヨハネ福音書はマタイ福音書やるか福音書のような誕生物語を採用していませんが、今日の朗読箇所は「目には見えない誕生物語」だと思います。

私が、「目には見えない誕生物語」と言った理由をいくつか紹介すると、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1・11)とか、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1・14)などです。家族構成とか、生まれた場所を描いているわけではありませんが、神の独り子がこの世にやってきたことを十分感じさせる表現だと思います。そして具体的な描写や写実的な表現をあえて避けていることで、かえって神が人となったという出来事を学びやすくしてくれていると思います。

たとえばこういうことです。「飼い葉桶に寝かされている幼子」のイメージはそれはそれで大切だと思うのですが、「言が人となった」「神が人となった」ということにとことんこだわるならば、幼子の姿はむしろ背後に隠れても構わないと思うのです。

つまりこういうことです。幼子の姿が目の前にあると、私たちの意識は必要以上に飼い葉桶の幼子に向かってしまいます。暖かい環境も準備してもらえなくて大変だったろうなぁとか、病気になったりはしないだろうかとか、幼子の姿があまりに強すぎると、本質的でないことまで想像してしまう危険があるわけです。

ヨハネにとっては、「言が人となった」「神が人となった」そのことが伝えられれば十分だったのです。寒かっただろうなぁとか、健康な体で生まれただろうかとか、そういうことに心を乱されたくなかったのでしょう。純粋に、「言が人となるとはどういうことか、どういう喜びが人類に与えられることなのか」この点に集中したかったのだと思います。

そこで今まで話したことを前置きにして、1章14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」について考えてみたいと思います。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」この説明で、神が私たちの世界にやってきてくださったことを言い表しています。私たちは神を見ることができませんが、神のほうから不可能を飛び越えて、見ることができるようにしてくださったのです。

私たちのほうから会うことができなかったのに、神のほうから会うことのできる方になり、話し掛け、話を聞くことのできる方になってくださった。神が人となって、私たちに喜びをもたらしてくださったのです。そうであれば、私たちは家畜小屋に近づき、見ることができるようになった神さまを眺め、話し掛け、話を聞くべきだと思います。

「わたしたちはその栄光を見た」とあります。私はこの箇所で、シメオンという人の話を思い出しました。ヨセフとマリアは、のちに幼子イエスを神殿奉献に連れていきます。その時シメオンと出会い、幼子を腕に抱いて、次のように神をたたえました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」(ルカ2:29-30)。

シメオンがもう少し長生きするなら、イエスの少年時代や、もしかしたらイエスの宣教活動を見ることができたかも知れません。それなのに、幼子を見ただけで「もう十分です。わたしを去らせてください」と言ったのです。このシメオンの心境を、今日の最後のまとめにしましょう。幼子を見ただけで満足できるというのはどういうことなのでしょうか。

それを言葉で説明するのはなかなか難しいと思いますが、こういうことかなぁと思い当たる一つの体験があります。それは、私がある人からもらった記念カードに書かれていた言葉でした。その人はカードに、生まれてくれてありがとうと書いていました。初めてそのようなカードをもらったのですが、ずっと後になって、あーこの人は、私が将来どんな人間になるのか、どんな人生を歩むのかまで確かめなくても、私のことを喜んでくれているのだなぁと思い出したのです。

シメオンも、同じような心境だったかも知れません。彼は、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」(ルカ2:26)と言われていましたが、イエスが成長していくその先を見なくても、ある意味、幼子の中にすべてを見て、すでに神さまに感謝できると感じたのだと思います。

私たちも、幼子のもとにひざまずき、「イエスさま、生まれてくれてありがとう」と言ってみましょう。その言葉を掛けてあげた時、なるほどイエスさまが生まれてくれた。それだけで嬉しいという思いに触れることができるかも知れません。

私たちはこれからの典礼の暦の中で、イエスのさまざまな出来事を体験できる幸せな時代に生まれています。その1つ1つに「ありがとう」と言ってもよいくらいです。そう思える人はぜひ、今日馬小屋に近づき、「イエスさま、生まれてくれてありがとう」と声をかけてみましょう。声をかけてみて、今まで気付かなかったことに初めて気付かされることがあるかも知れません。


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ちょっとひとやすみ
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▼月曜日、行政センターで入手する書類を受けて、それを五島の次男に送った。詳しくは書けないが、もっと早くに送ってやれば弟も安心しただろうに。悪かったなぁ。それと、行政センターで書類を受け取った時、2枚綴りの領収証をもらったが、司祭館に戻ったらメールが追っかけてきて、「2枚綴りのうち、下の1枚は、行政センターで処理すべき紙でしたので、受け取りに行きます」という内容だった。
▼ほかの担当だった人がその場で応対してくれて、それで書類のミスが起こったのかなとか思った。取りに来てくれるのはありがたいが、持って行ってもいいけどなぁとも思うが、持って行く口実がない。でも月曜日はもう1つ何か用事を入れていたようなのだが、どうしても思い出せない。そんな時のための手帳ではないのか?と突っ込まれそうだが、あの手帳は書きたいことだけしか書かないので、あまりためにならない。
▼そうしていると、今度は司祭館手伝いのSさんから電話。「神父さま、ちゃんとインフルエンザの予防接種には行ったでしょうね。わたしは金曜日に前もって連絡して、月曜日に来ますからと予約を入れていたのです。わたしの責任になるのでちゃんと行ってください」。「はいはい、分かりました」と返事をして、あーこれで出ていく口実ができたと安心した。
▼予防接種に行くと、だいたい予想した通りのことが展開した。まず受付に行くと巡回教会のひとが窓口をしているので、「あら、怪我したんですか」と聞かれた。「予約が入ってませんかね」と聞きたかったが聞かなかった。どんな予約をSさんはしたのだろうか。それはそうと、「予防接種をお願いします」と声をかけて待合室に行くと今度は馬込の人が2人いて、「どうしたんですか?具合でも悪いんですか」と心配してもらった。
▼「具合悪かとさね」と言ったら顔色が変わったので、「うそ」と言ってすぐに否定した。予防接種だと言うと、「わたしたちは費用が安かとですよ。いいですねぇ。若いから。わたしも高い費用を払ってでも若い人に入れてもらいたいわ」。あまり喜べないぞ。とか何とか言っていたら順番が回ってきて、「チクッとしますよ」と言われて注射が終わった。司祭館に戻ると痛みが出て来て、あとではぼーっとしてきて、結局夜6時から8時半までは布団にもぐっていた。
▼23日、久しぶりの平日の休日。ちょっと気晴らしに、いつもと違う場所に出かけてみた。まぁやることにたいした変わりはないのだが、バーチャルとリアルの違いとだけ言っておこう。大いに楽しんだし、次の日からの忙しい期間への充電になった。これから新しい年に向かって、エンジン全開で説教書くぞ。

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今週のワンショット
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第64回目。洗礼を受けて神さまの手帳に記録されました。

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‥次の説教は‥‥
聖家族
(ルカ2:22-40)
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主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)私たちは神の家族に登録されています

2008-12-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/12/24(No.391)
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主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
私たちは神の家族に登録されています
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主の降誕、おめでとうございます。すでに、ご承知かも知れませんが、この説教の後に、1人のお子さんが洗礼をお受けになります。ずっと聖歌隊の席にいて、知っている歌は元気に歌い、司祭の招きにも答えることができるまでになっていました。今日は、洗礼式のことを少し意識して、説教したいと思います。

今日の出来事は、全世界にとって大きな出来事です。救い主である幼子は、ベツレヘムで生まれました。ベツレヘムで歴史が始まりました。ただし、人間の世界での歴史です。そこには必ず人間の働きが見え隠れします。

ヨセフとマリアがベツレヘムに向かったのは、自分たちがお産の場所としてベツレヘムを選んだからではなく、人口登録をせよとの皇帝の勅令があったので、ヨセフも、いいなずけのマリアと一緒にベツレヘムに向かったのでした。彼らがベツレヘムに行ったきっかけは、お産のためではなく、登録のためだったのです。

ところが、人間のこのような介入があったとしても、神さまの計画が妨げられるわけではありません。神さまは、ご自身のご計画に沿って、独り子をこの世にお遣わしになりました。ベツレヘムで救い主が生まれることは、ずっと前に聖書の中で預言されていたのです。

「ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである」(マタイ2・6)。

きっかけは人間に過ぎない皇帝の勅令でしたが、その皇帝の命令も含めて、神さまのご計画の中で出来事は動いていたのです。このヨセフとマリアが、ベツレヘムで登録に来たことを、クリスマスのメッセージとしてまずは取り上げたいと思います。

私たちはみな、出生のルーツがあります。そのルーツを知っている人もいれば、知らない人もいるでしょう。また、知ることのできる人もいれば、知り得ない人もいるかも知れません。いずれにしても、私が今存在しているのは、何かのルーツがあるからだということです。そして私たちは、そのルーツをたどっていく中で、神さまと出会うのです。

ヨセフとマリアは、この事実を私たちに教えてくれます。ヨセフは、皇帝の勅令という強制がきっかけではありましたが、自分のルーツであるベツレヘムというダビデの町に上っていきました。ルーツをたどっていく旅の中で、いいなずけのマリアは月が満ちて、初めての子を産みました。幼子イエスは、天使ガブリエルのお告げで示された「救い主」なのですから、彼らは幼子イエスを通して神に出会ったということになります。

今日洗礼を受けるお子さんも、洗礼の恵みによって登録されることになります。神の家族、教会の一員として登録に来たのです。登録されていなくても、神さまの胸の中に記憶されているかも知れませんが、目に見える形で登録することは大事なことです。ヨセフとマリアも登録に行きましたし、幼子イエスも、のちに神殿奉献を通して、人としては登録に出かけたわけです。

今日洗礼を受けるお子さんの様子を、私たちは目の当たりにします。私たちはすでに登録を済ませている者ですが、今日の洗礼式を通して、あらためて自分が神の家族、教会の一員に登録されていることを確認するとよいと思います。

ただ単に、自分が教会に結ばれているということを思い出すだけではなくて、私がこの世にいるのは、神さまの家族に登録されているからなんだなぁということをしみじみと味わってほしいのです。

教会に滅多に顔を出さない人であっても、もしかしたらクリスマスの日にしか教会に来ないという人であっても、神さまの心の中に、私が登録されているおかげで今生きている。そのことをもう一度思い出して、感謝をささげてほしいなぁと思います。

これから、伊王島幼児園の年長さんである○○○○君が洗礼を受けます。神さまの家族の仲間入りをします。私たちも喜んで迎えることにいたしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼クリスマスにお子さんの洗礼を祝うことができました。救い主である幼子イエスを迎えた喜びが2倍になった気持ちです。この子の将来に乾杯。ということでこっそりミサ用のワインを失敬してきて、クリスマスケーキをほおばりつつ、祝杯を挙げようと思います。ただし、ひとりぼっちですが。
▼年末年始に向けて、説教案は快調に書き続けています。この分だと、「めろんぱん」を発行スタンドにして当メルマガを読んでおられる方は、12月28日に来年1月1日号と1月4日号を受け取ることができるでしょう。やはり、遅いよりも早いほうが読者のためには意味があると思います。
▼今、沸々とわき上がっているのは、「今週の○○」は、やはりいまいちなのでどこかで切り替えようかなということです。「今週のワンショット」というのは私も興味があるので、デジカメ片手にもう一度いろんな写真を撮ってみようと思っています。前もそんなことをしたのですが、続きませんでした。はてさて、今度はどうなりますやら。
▼11月に彫刻家舟越保武展を見学に行った。彫刻はある意味私の中に血が流れていると思う。決して威張っているわけではないが、血統には工房を構えて教会の聖像を作ったり修復したりしている人がいるので、まったくゼロではないと思う。加えて、自分も興味があるのでどこかでトライしてみたいという気はある。
▼ただし、彫刻も元になるのはデッサンである。私はデッサンはまったくできない。興味もない。だから、やはりまともな彫刻は無理だと思う。しっかりしたデッサンがなければ、作品は根拠のないものになるからだ。根拠は要らないが、ちょっとは「へぇ。こんなことができるんだね」という所は見せたい。あー、そう言っていたら、ケーキのクリームをナイフでいじって彫塑したくなった。

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今週のワンショット
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第63回目。しばらく新調した馬小屋の御像を紹介しておきます。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-18)
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待降節第4主日(ルカ1:26-38)神は私たちのために飛び越えてやって来ます

2008-12-21 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/12/21(No.390)
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待降節第4主日
(ルカ1:26-38)
神は私たちのために飛び越えてやって来ます
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いよいよ、御降誕も目の前にせまってまいりました。今週はマリアに天使ガブリエルが遣わされて、神さまのご計画を告げる場面が選ばれています。その中で私は、マリアの戸惑いの言葉「どうして、そのようなことがありえましょうか」(1・34)という箇所を御降誕直前の糧としたいと思います。

マリアの戸惑いは、前例のない出来事を前にしての戸惑いです。誰にも、どんなに想像を巡らせても、本当は理解できないものだと思います。その時代、救い主の到来をすべてのイスラエルの民が待ち望んでいたとは言え、天使ガブリエルがどんなに分かりやすく説明しても、あーなるほど、と飲み込めるような話ではないからです。

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」(1・30-31)。人によっては、恐れることはないと言われること自体が恐れを感じさせます。「大丈夫だよ、怖くないよ」と近寄ってくる人を怖がるのと同じ道理です。

さらに天使ガブリエルの説明は続きます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」(1・35-37)。

果たしてこのような説明で、目の前の不安がたちまちにして消え去るものでしょうか。私にはとてもそうとは思えないのです。マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(1・38)と言いましたが、私たちの精一杯の理解では、「もう心配してもしかたない。神さまがこのような計画をしたのだから」という心境だったのではないでしょうか。

もちろん、マリアは特別に選ばれた女性ですから、特別に勇気があり、何も恐れず、どんなことでもそのまま受け入れる才能に恵まれていたかも知れません。そのように考えてもよいのですが、もし、マリアがごく普通の女性であったとしたら、天使ガブリエルに答えたあの返事は、「わたしは、もう恐れないことにしました。そう決めました」という意味だったのではないでしょうか。

だれもが戸惑い、不安を乗り越えられそうにない時、そこに神は働きます。提示されている要求を前にして、自分にはその才能も覚悟もできていませんと言いたくなる時、神がそれらの不安を飛び越えるだけの働きかけをしてくださいます。

例を挙げたいと思います。皆さんの中に、大人になってから洗礼を受けた人がいると思います。成人洗礼を受けるきっかけはいろいろだと思いますが、キリスト教の教えが完全に分かったので洗礼を受けたという人はまずいないのではないでしょうか。それは、幼児洗礼を受けた人も同じことだと思います。幼児洗礼を受けているからキリスト教の教えを完全に理解できるわけでもありません。

それでも、一定の条件のもとで、洗礼を受けることになります。もしかしたら、洗礼を受けるその瞬間にも、不安がぬぐえないままだったかも知れません。信頼が足りないということではなくて、本当にこれまでの準備で大丈夫なのだろうかとか、これからちゃんとやっていけるのだろうかといった不安です。

そうした不安があったとしても、洗礼の恵みは確実にその人に与えられます。洗礼の恵みが確かにその人を神の家族にしてくださいます。それは、私たち人間の不安を飛び越えるだけの働きかけを、神さまがしてくださっているということなのです。

私たちの力で神の家族になれたのではありません。確かに準備はしたでしょうし、ある程度の覚悟も用意したでしょう。けれども、最終的に人を神の家族にしてくださったのは、すべてを飛び越えて私たちに恵みを注いでくださった神のわざなのです。

どんな努力があっても、人間が自分の力で神と絆を作ることはできません。神と人間が絆で結ばれるのは、神が私たちのほうに立場を飛び越えてきてくださるからです。いつも、いつでも、神さまが私たちのほうにすべての妨げを飛び越えてきてくださって、私たちは救いに招かれているのです。

マリアは、そのことを直観していたのかも知れません。「ちょっかん」と言いましたが、「直接感じる」ではなく、「直接観る」という意味の直観です。神さまが、身分も何も飛び越えて私のもとにおいでくださる。そのことが直接伝わったので、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言えたのだと思います。

その、マリアの直観は現実となります。神は、すべてを飛び越えて、人間社会においでくださいます。それが、幼子イエス・キリストです。人間がどんな準備をしても神の子をお迎えすることなどできません。それを十分承知の上で、宿屋もないのに、ほとんど誰にも気付かれないうちに、さらに命を狙われる危険も顧みず、すべてを飛び越えて救い主を送ってくださるのです。

私たちも、マリアの言葉を口ずさみ、神のなさり方に思いを向けましょう。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。神は、私たちの不安や戸惑いを飛び越えてやって来ます。この神の大きな計らいに感謝しましょう。まもなくおいでになる幼子を心待ちにして、私の救いを、全人類の救いを、ミサの中で祈り求めましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼忘れていた。テレビの故障のこと。よく知られていないメーカーのテレビだったが、神奈川県の修理工場に「着払い」で送り、検査の結果待ちだった。検査の報告は、「当社の不具合であり、お客様が費用を負担することは一切ありません」とのことだった。ありがたやありがたや。
▼いまだに手帳には2日分とかまとめて書き込んでいる。まだ習慣が身についていない証拠だ。そう言えば、自分の知り合いの修道女が2人、ブラジルに派遣されていくらしい。地球の裏側。日本とは環境が違うので、少しずつできることを積み上げて立派な奉仕をしてほしい。修道女って、本当は度胸あるんだなぁ。私は行けと言われても無理かも。
▼列福式の反応がぼつぼつ届いている。列福式がよい縁となって、神さまの恵みが家族に届いたという話も聞こえてきている。すばらしいことだ。やはり、神さまは時にかなって必要な配慮をしてくださるのだと思う。私たちでは目が行き届かないような大きな視点でも、小さな視点でもである。
▼弟から、お嫁さんの故郷の果物が届いた。「日向夏」と言って、ちょっと変わった食べ方をするミカンだ。皮を薄くむいて、皮と一緒に食べる。皮を取ってしまうと酸っぱくてとてもじゃないが私は食べられない。「おいしい食べ方」というメモには、醤油をちょっと差して食べてみてと書いてあったが、私は「どうでしょー、いわゆるそのー」と思っている。
▼「めろんぱん」というメルマガの発行スタンドが、12月29日(月)から来年1月4日(日)まで業務を休止するらしい。そうなると、メルマガの来年1月1日と1月4日号の配信をしてくれないということになる。それで困っている。
▼2つの選択肢がある。その1。がんばって12月28日までに1月1日号と1月4日号を書く。その2。あきらめて1月5日以降に配信してもらえなかったものを配信する。こんな時こうじ神父はどう出ると思っておられるだろうか。今現在、私の頭の中ででは、「2を選択すると思わせておいて1に打って出る」というシナリオであるが、できるのだろうか。

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今週のワンショット
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第62回目。しばらく新調した馬小屋の御像を紹介しておきます。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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待降節第3主日(ヨハネ1:6-8,19‐28)光について証しする生活を目指しましょう

2008-12-14 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/81214.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
08/12/14(No.389)
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待降節第3主日(ヨハネ1:6-8,19‐28)光について証しする生活を目指しましょう
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今週も先週に引き続き洗礼者ヨハネの活動が福音朗読に選ばれています。今週の朗読の中で、次の箇所から糧を得ることにいたしましょう。「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」(1・7-8)。

まず、洗礼者ヨハネは、「神から遣わされた一人の人」でした。何のために遣わされたかというと、「光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるためである」と遣わされた目的もはっきり示されています。

さらに、洗礼者ヨハネがどのように証しをしていたかの報告まで詳しく紹介されています。どのような証しであったかというと、自分はメシアではない、あくまでもメシアの到来に備えさせる役割を与えられた人間であるという証しのしかたでした。

ここで私は、大胆に踏み込んで今週の福音朗読を受け止めたいと思います。神から遣わされた洗礼者ヨハネの使命を今確認しましたが、私たちも自分の生活の中で洗礼者ヨハネの役割を引き受けることはできないでしょうか。そのようなことを考えてみたいと思います。

「神から遣わされた一人の人がいた」(1・6)。私たちの中で、神から遣わされずにこの世に存在している人がいるでしょうか。神から遣わされることなく、自分でこの世に現れて、自分の望む国で望むように生活している人がいるのでしょうか。

私は、そのような人は一人もいないと思います。むしろ私たちは、だれもが「神から遣わされた人」なのだと思います。もしそう思えるなら、私たち一人ひとりはすぐに次の問いへと移るべきです。つまり、「何のために遣わされたのか」「遣わされて、何をなすべきか」です。そしてこの問いについても、洗礼者ヨハネの使命を、私たち一人ひとりに当てはめていくわけです。

では、私たちは何のためにこの世に遣わされたのでしょうか。「光について証しをするため、また、すべての人が証しに導かれて信じるため」です。私たちは、自分の生活を「光について証しをするための生活」に向けていくべきだし、実際そのようにできるのです。

「洗礼者ヨハネだから光についての証しができたのであって、わたしたちにそんなことができるはずがない」と思っているかも知れません。果たしてそうでしょうか。証しが可能かどうかを確かめるには一つのことを思い出せば十分です。「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」。

洗礼者ヨハネは光ではありませんでした。「光ではない」ということをよく理解していました。私たちも、「自分は光ではない」という自覚があるなら、洗礼者ヨハネと同じ方法で光について証しをすることは、可能なのではないでしょうか。

そこで、「どのような証しをするか」ということですが、理解しがたいかも知れませんが、「わたしは光ではない」と意思表示することだと思います。あわせて、人々の心を救い主に向かわせる何かをすることです。

例えば、この時期、すべての教会で馬小屋飾りが飾られています。人々が「どうして、すべての教会が例外なく馬小屋飾りを作っているのだろう」と考えるようになれば、それだけでも立派に「わたしは光ではない」「わたしはこの方のために道を備えている者だ」と人々に伝えることになるのです。

もしも、待降節のこの時期に、自分たちの教会で馬小屋飾りを作っているかどうか知らずに日々を過ごしているなら、私には責任があります。神からこの世に遣わされた人間として、誰もが何かの形で「光について証しする」必要があるからです。

ほかにも、日常のちょっとしたことで私たちは「光について証しする」生活を送ることが可能です。そして全員が、ここで述べるような例をヒントにして証しするなら、大きな力を発揮するのです。誰もが例外なく、光について証しするようになれば、きっとより多くの人が、光について信じるようになるはずです。

日常の中に、その「ちょっとしたこと」は転がっています。食事の後先に、祈りをすることもその一つです。祈りをすることでまず私たちは「わたしは光ではない」という証しを立てることになります。そして、祈る姿で、その場にいるすべての人をまことの光である方に向けさせることができます。

すべての人が一致して、生活の中で祈るべきです。健康な人はもちろん、病気で入院している人も、祈りをして食事をする、祈りをして食事を終えるなら、その場にいるすべての人が、私たちに導かれてまことの光を知るようになるでしょう。働いている人は職場において、学校で学んでいる人は学校でと、それぞれの場で例外なく証しを立てるなら、きっと大きな力となるはずです。

日曜日に、確実にミサに足を運ぶこと。これだけでも立派な証しです。カトリック信者の誰に尋ねても、「日曜日は教会に行く」そういう返事を聞くなら、「この人たちは自分たちが光でなく、光である誰かをわたしたちに教えようとしている」と気付くはずです。

ぜひ、小さなことの中に転がっているたくさんのチャンスを活かして、「わたしは光ではない。光であるお方を紹介しよう」。そういう証しの生き方を生活の中で続けていきましょう。まもなく来られるお方を、より多くの人が待ち望む社会を目指していくことにいたしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼12月に入って、新しい手帳に切り替えた。来年は、列福式が行われた今年のように忙しくはならないだろうが、今年手帳を真面目に使ってみて、何もない時でも結構書くことはあるものだと気付いた。12月1日から書き始めたのではないが、今年から久しぶりに日記を付けるようにしようと思っている。
▼手帳に書きつけるようになって分かったことだが、何を書いて、何を書かないかで、自分の傾向がよく分かってくる。今のところ、ほとんど、大切なことは書かずに、どうでもいいことを書いている。ということはつまり、毎日をどうでもいいような過ごし方をしているということかも知れない。
▼最近どうにも眠くてしょうがない。10年ほど前のことだが、朝は毎日と言っていいほど眠くてしょうがないと言っていた先輩司祭のことを思い出す。実はその先輩は病気を抱えていた。肺炎を患っていて、酸素が脳に行き届いてなかったために、毎日眠気と闘っていたのである。もしかしたらそういうことなのか。それにしても、早く寝ても遅く寝ても朝眠いのはなぜだ?
▼ウィーフィット、100日達成。2.5キロしか体重減ってない。3ヶ月で2.5キロは悪くないのかも知れない。ただし、確実に毎日ゲーム機でフィットネスができているわけではないので、もっと規則正しい生活に近づける強靱な精神力が必要である。どうしても眠い日はサボってしまうし、外で歩き回った日は言い訳をして運動しない。こんなことだから、ゲーム機にもナメられてしまう。
▼いよいよ底冷えのする時期に入ったようだ。勉強部屋の暖房は、無理を言ってエアコン暖房と床暖房の両方を組み込んでいてどちらも選択可能だが、できれば床暖房はもっと寒くなるまで延ばしたいと思っている。今から床暖房にすがってしまうと、足もとが暖かいためについ眠くなり、仕事をサボってしまうからだ。かといってエアコンを使っても頭がぼーっとするばかりで、効率的ではない。寒くない程度に、勉強に集中できる方法ないかな。
▼今年は年賀状書きをしない。年賀状は少し来るかも知れない。けれども、今年は喪中の身。いつものようににぎやかな正月とはいかないと思う。いつもは箱根駅伝をはりきって応援しながら年賀状の返事を書いているわけだが、今年はどんな正月になるのだろうか。

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今週のエッセー
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第61回目。小切手の危険性。小切手が不渡りになっている場合もあります。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
待降節第4主日
(ルカ1:26-38)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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待降節第2主日(マルコ1:1-8)悔い改めはそうたやすい歩みではありません

2008-12-07 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/12/07(No.388)
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待降節第2主日
(マルコ1:1-8)
悔い改めはそうたやすい歩みではありません
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11月24日に188殉教者の列福式が行われ、この日までにいろんな機会に188殉教者について学びの機会がありましたので、多くの人が多少なりとも188殉教者について学ぶことができたと思います。

その中に、トマス金鍔次兵衛(きんつばじひょうえ)という神父さまがいます。この神父さまが、外海の金鍔谷と言われる山奥に潜んでいたという話は聞いたことがあるでしょう。黒崎の信者さんが、7年かけてその場所を突き止めたというニュースも、大抵の人が知っていると思います。

話のついでに、私がある人に、「あの神父さまが潜伏していた場所をどうやって見つけたか知ってる?そこにタバコの吸い殻があって、それでこの場所が潜伏していた場所だって分かったんだよ」と言いましたら、「本当にですか?」と言われました。

「本当にですか?」と言われたので、すぐ「嘘よ」と言いましたら、その人から腹を立てられました。迫害の時代に金鍔神父さまがタバコを吸ったりするはずもありませんし、吸い殻を捨てたとか、ましてや吸い殻が今まで残ってるはずもないわけで、まさか本気にするとは思っていませんでした。

同じことを別の人に言ったら、「ま~た始まった。それでそのタバコの銘柄は何だったんですか」と言われましたから、まず本気にすることはないだろうと思っていたのですが、ちょっと冗談が過ぎたかなと思っております。今年の待降節は、相手が腹を立てるような嘘は言わないという決心を立てようと思っています。

さて、待降節第2主日は、洗礼者ヨハネを登場させます。彼は2つのメッセージをたずさえて荒れ野に現れています。1つは、「悔い改めを促すこと」です。もう1つは、「すべてを『後から来られる方、イエス・キリスト』に向けていくこと」です。2つはお互い密接に関わっています。「悔い改める」とは、「イエス・キリストに向き直ること」であり、「イエス・キリストに自分を秩序づけること」が悔い改めのわざなのです。

では、洗礼者ヨハネのメッセージに耳を傾けましょう。彼は自分のもとに集まってきた人に、「悔い改め」を促します。マルコ福音書には出て来ませんが、ルカ福音書によると1人ひとりに具体的に指示を出しています。つまり、各自改めるべきことがあって、各人に見合ったことを実行する必要があります。

この洗礼者ヨハネの最初の呼びかけを自分自身に当てはめてみましょう。私にとって、何をすれば生活を改めることになるでしょうか。全員の指示をここで示すことはできませんので、少しだけ例を挙げてみましょう。私たちの小教区には、1年に1度しかミサに来ない人がいるのではないかと思います。なぜか知りませんが、クリスマスだけ来るとか、復活祭の時だけ来るとか、そういう人もいると思います。

そんな人には、まずは年に2回、ミサに来てもらいたいと思います。自分で心に決めて年に1度だけおいでになっている人に、いきなり毎週来てくださいと言っても無理でしょう。ですから、その人は年に2回ミサに来ることが、具体的な悔い改めの態度だと思います。

もっと言いましょう。ここ何年も、ミサに来ていない人もいるかも知れません。たしかに、船の中とか、島の中ではすれ違いますが、聖堂内でお目に掛かったことのない人がいます。機会を見ては、「教会では会わんねぇ」と言ってはみますが、無理矢理縄を付けて連れてくることもできませんので、教会に来ることをただ祈るばかりですが、ここ何年も、1度も教会に来ていない人にとっては、今年のうちにまず1度教会のミサに参加することです。それが具体的な悔い改めの態度だと思います。洗礼者ヨハネが求めたのは一般的な呼びかけではありません。1人ひとり、具体的に変わることを求めるのです。

次に、洗礼者ヨハネは「イエス・キリストに自分を秩序づけること」を求めます。洗礼者ヨハネ自身が、「わたしよりも優れた方が、後から来られる」(1・7)と言って、自分の置かれている立場をはっきり示しました。洗礼者ヨハネは自分に与えられた役割が、イエス・キリストにつながって初めて意味を持つのだとはっきり分かっていたのです。

では振り返って、私たちはどうでしょうか。私が今あるのは、イエス・キリストのおかげであると感じているでしょうか。たとえば、今週私は、クリスマスの御像を新調できたことを皆さんと一緒に喜ぶことができました。これは決して私1人の努力ではありません。

仮に私が依頼をして、支払いも私がしたとしても、私が何かできるのはイエス・キリストのおかげです。馬込小教区にいるこれまでの4年間に、何かを達成できたかも知れません。ただし、そのどれ1つを取っても、私はイエス・キリストにつながってでなければ実現できなかったのだと思っています。

同じように、皆さん1人ひとりも、自分が今あるのはイエス・キリストのおかげであると感じているなら幸いです。洗礼を受けたすべての人が、例外なく自分のことをイエス・キリストに結び付けて考えるようになること。これが洗礼者ヨハネのもう1つの呼びかけなのです。

私の力でここまで来たのだとか、ここまでできたのは私のおかげだと思っている人がいるとすれば、あなたをこの世界で使ってくださったのはいったい誰なのかを考えるべきだと思います。私たちすべてのために、この世界においでくださる方、イエス・キリストのおかげで、私たちは何者かでいられるということを、決して忘れてはいけないのです。

洗礼者ヨハネの呼びかけは、突き詰めると同じ目的地にたどり着きます。それは、「イエス・キリストにすべてを秩序づける」ということです。聖パウロがそれをみごとに言い当てています。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ローマ14・8)。

毎年、典礼暦が新たにされる度に、また洗礼者ヨハネを登場させる待降節第2主日に、パウロのこの言葉を確認する必要があると思います。悔い改めとは、何かをちょこっと変更することではないのです。まず今ある自分をイエス・キリストに結び付けて考えること、そして行き着くところは、一切をイエス・キリストに結び付けて考えるようになることです。

洗礼者ヨハネは「悔い改めなさい」と今も呼び掛けています。「悔い改めました」と言うだけに終わらず、一切を横に置いた荒れ野に来てみて、じっくり考えてみる必要があると思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼手帳を新しい物に変えた。2009年の手帳は去年よりもずっとシンプルになっていて、大きく書き込みの部分を取っているのが特徴である。1日あたりの書き込み部分がしっかり取れるようになっている。2008年12月から使い始めている。
▼これがいいと思って買って、月刊のスケジュールにはぼつぼつ記入しているが、1日ごとの書き込みにはまだ1回も書き込みをしたことがない。おかげで今週「ちょっとひとやすみ」に書くはずのステキな出来事も、貴重な出会いも、何もかも記録に残らない羽目となってしまった。申し訳なし。この1週間はとても中身の濃い1週間だったに違いないが、残念無念。
▼メモは大事。最近斎藤茂吉氏の長男(故人)のインタビューを見た。するとその人も晩年まで頭脳明晰であったにもかかわらず、手帳に克明にその日あったことをメモしていると言っていた。手帳のおかげで40年近い記録がさかのぼれるらしい。そこまでは行かなくても、明日からでも実行して、私もこれから30年先までの記録を書いてみようかな。30年先と言ったら、72歳か。生きてるのかな?
▼メモが残れば良きにつけ悪しきにつけ人生を振り返ったり将来に活かしたりすることができるに違いない。人間の記憶は当てにできない。私のそばには76歳のご婦人が奉仕してくれているが、彼女を見ているとそれは明らかだ。最近できたショッピングモール「みらい長崎ココウォーク」を、「店の名前は『ちょっと寄ってみらんね』だ」と言い張るくらいだから、記憶なんて当てにしてはいけないのだ。
▼本当は、気がついた時、思い出したその時に書きつけるのがよいのだが、悲しいことにそうできない時に思い出したりする。ミサの途中であったり、船に乗っている時だったり、お風呂に入っている時だったり。そんな時は、どうやって思い出したこと、気付いたことを残せばよいのだろうか?もし、よい方法を知っていたら教えてほしい。

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今週のエッセー
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第60回目。小切手は便利だけれども、本物のお金ではないので注意が必要らしい。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
待降節第3主日
(ヨハネ1:6-8,19‐28)
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