こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第8主日(マタイ6:24-34)神をすぐそこに感じて生きる

2017-02-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/2/26(No.871)
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年間第8主日
(マタイ6:24-34)
神をすぐそこに感じて生きる
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降誕節から四旬節までをつなぐ年間の主日も、年間第8主日で終わります。今週の水曜日は四旬節の開始となる「灰の水曜日」です。イエスは「思い悩むな」(6・25)と呼びかけていますから、心の整理を付ける何かをつかんで持ち帰ることにしましょう。

さて、来週初聖体を迎えるお子さんがわたしたちの教会にもいます。わたしにとって初聖体の思い出は白いタイツを履いたことくらいしかありませんが、わたしたち田平教会の家族の中で初聖体を受けるお子さんには、ご聖体を授かった思い出を残してあげたいと思います。

小さい子を前にしていつも心を痛めるのは、ミサの説教が難しいということです。子供たちからは「何を言ってるんだろう?」といつも思われていることでしょう。初聖体のお子さんはなおのこと、「早く終わらないかなぁ」くらいにしか思われていないはずです。

もしよかったら、「今日、神父さんはこんな話をしていた。聞き取れたか?」と、教会からの帰り道でご両親がもう一度説教を話題にしてくれたらありがたいです。わたしもできるだけ、帰り道でも思い出せるような話を用意しようと思います。

初聖体のお子さんには、来週二つのことを試験しようと思っています。どの教会でも同じことを試験しているので、共通一次試験のようなものです。将来堅信組になった時、二次試験をしますが、一次試験に通らなければ二次試験もないのですから、来週しっかり問いかけに答えてほしいなぁと思います。試験の内容は、今週のお話しからです。

今週イエスさまは、当たり前のように見ているものをたとえにしながら、大切なことを教えようとしています。当たり前のように見ているものから、「思い悩むな」と教えるのです。一つは「空の鳥をよく見なさい」(6・26)と言います。

空の鳥を養ってくださる神さまは、なおさら、わたしたち人間を養ってくださいますと教えます。もう一つは、「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」(6・28)と言います。野の花を美しく装ってくださる神さまは、なおさら、わたしたち人間の必要にも答えてくださるのですよと教えます。

当たり前のように見ているものが二つ出てきました。「空の鳥」と「野の花」です。実はこの二つでイエスさまは、世界のすべてを表しているのです。空と大地、そこにあるものを示したのですから、空と大地のすべてを、たった二つのたとえで言い表しているのです。何とイエスさまは頭がいいのでしょう。そのイエスさまが「思い悩むな」と言っておられるのです。思い悩む必要なんてどこにもありません。

それなのに人間は、毎日毎日悩んでいます。お母さんは献立で悩んでいるかもしれません。「あー、今日のご飯は何にしよう。昨日と違うものを考えて、家族が健康に過ごせるようにしたいなぁ。」そんな悩みがあるかもしれません。

お父さんも悩みがあるかもしれません。「子供たちが将来大きくなった時に困らないように、いろんなことを教えたり話してあげたいなぁ。どうすればお父さんの気持ちが伝わるだろうか。」そんなことを思っているかもしれません。

おうちの人が子供のためにいろいろ思い悩んでいます。ひょっとしたら、気持ちはたくさんあるのに、それをうまく伝えられなくて、うまく説明できなくて、悩んでいるかもしれません。

おうちの人がそんなに悩んでいるのなら、まして神さまはすべての人に、もっと思いが溢れていると思います。みんなが食べて満たされるために、どんな食べ物をあげようか。天と地のすべてに心を配っているわたしは、人間にはもっと心を配っているよと、どうやって伝えたらよいだろうか。「思い悩むな」と、どうやって伝えたらよいだろうか。おうちの人以上に、神さまはいつも気にかけていると思います。

そこで神さまは、答えを見つけました。わたしは、御子イエス・キリストを人間の食べ物として与えよう。御子イエスが人として生まれてからお亡くなりになるまでのすべての時間を、人間を初めから終わりまで守り導くしるしとして与えよう。神さまが出した最高の答え、それがイエスさまをわたしたちの食べ物として与えること、救いの切り札としてわたしたちに与えることだったのです。

神さまはわたしたち人間を必ず養う。そのためにイエスさまがパンとぶどう酒の形のもとにとどまることをお望みになりました。一つめの質問はこうです。「パンの形のもとにとどまっておられる方はどなたですか。」「パンの形のもとにとどまっておられるのはイエスさまです。」わたしたち人間を必ず養う。わたしたち人間をいつも養うために、イエスさまはパンの形のもとにとどまっておられるのです。

二つ目の質問はこうです。子供たちはおうちの人とお話をしながら育っていきます。親子の会話は、両親が子供をいつも見守り、導いてくれることのしるしです。では、「わたしたちが父である神さまとお話しをするために、イエスさまが与えてくださったものは何でしょうか。」「わたしたちが父である神さまとお話しをするために与えていただいたのは『主の祈り』です。」

主の祈りを覚えて、お祈りすると、神さまはわたしたちに答えて導いてくださいます。幼い時だけでなく、学生が試験を受けるときも、大学や就職を目指すときにも、大人になって何か決めなければならないときも、主の祈りを唱える人に神さまは答えてくださり、導きを与えてくださいます。天と地のすべてに心を配る神さまは、なおさらわたしたち人間、それも神様に祈る人に、心を砕いてくださるのです。

初聖体は、「思い悩むな」と励ますイエスさまからの最高の贈り物です。ご聖体を与えてくださる神さまがわたしたちの神さまです。思い悩むことをやめて、信頼を取り戻しましょう。すべてにまして配慮してくださる神さまの答えを、来週の日曜日、いただきましょう。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日
(マタイ4:1-11)
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ちょっとひとやすみ
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▼最近の「え?そんなはずないのに」という話。1992年3月17日に司祭に叙階されて、まもなく25年になる。長崎教区本部からも「祝賀会を設けるので来賓に家族・親戚を10人招待してください」という案内を受けた。自分自身も25周年の記念に何かを残そうと考えている。
▼それで記念の一環として、25周年(銀祝)の記念カードを製作することにした。司祭に叙階されたとき、ある修道会から贈られた色紙を記念カードの版に使わせてもらった。このカードはしばらくは在庫があったが、田平教会に赴任した時、開いてもらった歓迎会の参加者にすべて配ってしまった。
▼今回銀祝の記念カードを作るにあたり、同じデザインを版に使おうと考えた。司祭叙階の恵みを受けた時から今に至るまで、一貫しているというメッセージを込めたつもりである。そこで印刷所に版を製作してもらうため、本物の色紙を実家から送ってもらい、また田平教会の信徒に声をかけて、歓迎会の時に配った叙階式当時の記念カードを貸してくれとお願いした。
▼実家からの色紙はすぐに届いた。ところが、田平教会の信徒は「そんな記念カードは見たことがない」と言うのである。「いや、歓迎会の帰りに持って帰ってもらうように、手配したよ」と言うが、ご婦人方も教会役員も「知らぬ存ぜぬ」の一点張り。わたしも心配になって、「本当に持たないの?」と聞いたが持たないという。
▼どうしても信じられず、当時の歓迎会で記念カードを託した人に問い合わせると「確かに預かって、『欲しい方は帰りに持ち帰ってください』と声をかけました」と言う。ずいぶん尋ねて回って、なるほど受け取った人もいるようだったが、たいていの人は「持ってない。配られたことも知らない」と言う。
▼残念だが、もはやわたしの手元には一枚も残っていない。持っているあてのある人に尋ねて、裏のメッセージを写真で送ってもらった。「今週の1枚」のように書かれた記念カードをお持ちの方は、よかったら教えてほしい。カードの表は後日、25周年の記念カードで公開する。

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今週の1枚
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第478回目。司祭叙階の時の記念カードの裏。和紙で着物を着せた聖家族。連絡を。

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年間第7主日(マタイ5:38-48)聖霊の七つの賜物が一歩踏み出させる

2017-02-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/2/19(No.870)
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年間第7主日
(マタイ5:38-48)
聖霊の七つの賜物が一歩踏み出させる
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今週、すなわち年間第7主日A年に与えられた福音朗読は、堅信の秘跡を今まさに受けようとしている子供たちに向けて考えるとよいのではないかと思いました。一緒に学びを得て、直前の準備に充てることにしましょう。

それにしても、堅信組のテストの結果は意外でした。楽々と合格点をクリアできると思っていたのですが、5人の受堅者のうち1人しか、合格点の160点を超えてなかったのです。1人合格したと言っても160点ちょうどでした。

もちろん補修の課題を与えまして、紐差教会での最終チェックに答えることができないと分かれば、躊躇せず席を外れてもらいますと伝えております。2ヶ月の猶予を与えて試験問題と解答を両方配っているわけですから、わたしの要求はそんなに厳しいとは思っていません。皆さんはどうお考えでしょうか。

中には、同情してあげたいなぁと思うような回答もありました。「叙階の秘跡」についての問題で、「司教は、自分の協力者としてふさわしい(男性の信徒)を司祭に叙階します。」という問題がありまして、「男性の信徒」という部分が空欄となっていますから、すでに配った解答の通りに「自分の協力者としてふさわしい(男性の信徒)を司祭に叙階します」と答えればよいわけです。ところが5人のうち2人が、「自分の協力者としてふさわしい(助祭)を司祭に叙階します」と答えていたのです。

まぁ、間違いとは言えませんが、女性の信徒ではなく男性の信徒ですよ、ということを問うている問題なのです。解答に(男性の信徒)と書いてあるのを(助祭)となぜ書いたのか、田平教会ならではの事情があったのか、頭を抱えてしまいました。けっきょく(助祭)と書いた子には、半分だけ点数をあげました。

福音朗読に入りましょう。「復讐してはならない」という勧めと「敵を愛しなさい」という勧めが語られています。イエスはどちらについても「これまでの言い伝え以上の実践」を求めています。なぜなら、先週の福音朗読で考えたように、イエスは律法を「廃止するためではなく、完成するために来た」からです。

イエスは律法を通して神が本来求めていることを明らかにしました。当時の宗教指導者も一般のユダヤ人も、律法に書かれてあることは理解しましたし実行しようとしましたが、律法を通して神が期待していることが分かるためにはイエス・キリストの照らしが必要だったわけです。

イエスが律法の精神を明らかにし、律法を完成させてくださいました。神は律法を、そこから一歩も離れず、右にも左にもそれなければよいと思って与えたのではありませんでした。律法は人がより自由に、活発に神を賛美し、神の喜ぶ生活をするように促している。そのことをイエスが明らかにされたのです。

堅信の秘跡を受ける中学生も同じことを考えるべきです。祈りの試験の中で天主の十戒を暗記しました。たとえば「第七なんじ盗むなかれ」と、すらすら言えたと思います。「盗んではいけない」と命じられたのだから、物を隠したりしてイジメても掟に反しないと、悪意を持って受け取ってはいけません。イエスはそのために、「これまでの言い伝え以上の実践」を求めているのです。

友達が必要な時に物が見つからなかった。もし原因を作ったのがあなたであるなら、あなたは「第七なんじ盗むなかれ」という掟が求めている神の望みに反しているのです。言い伝え以上の実践を、イエスはお手本をもって示し、わたしたちにも同じようにしなさいと招いているのです。

わたしは、天主の十戒に文字通り書かれているそれ以上の実践をできるでしょうか。だれかが知り合いが友達のものを隠してイジメている。もしそのことに気づいても、関わらないなら「盗むなかれ」という掟には反していないでしょう。何もしなくても、掟から外れていないかもしれません。

けれどもイエスは、「掟を通して神が本来求めているのは、困っている友達を助けることではないのか?」と問いかけているのです。「君の持ち物は、どこに隠されているんだよ」と教えてあげることを、イエスは期待していると思います。掟から一歩も外れないことに満足するのではなく、掟から一歩踏み出してよいことを実践するように、求めているのです。言い伝えられている以上の実践に向かう人が、本当のイエスの弟子だと思います。

では本当に、自分の努力で実行できるでしょうか。自分にはそれだけの勇気が持てないかもしれません。そのための力はどうやって手に入れるのでしょうか。それこそ、堅信の秘跡があなたがたを強めてくれるのです。聖霊の七つの賜物、「知恵・理解・判断・勇気・神を知る恵み・神を愛する恵み・神を敬う心」これらの賜物が注がれて、掟に書かれている以上の実践ができるように強め、励ましてくださいます。

堅信の恵みは、洗礼のときにいただいた「人を神の子とするいのち」を成長させ、「信仰の証しを立てる力」を与えます。洗礼を受けて天主の十戒や教会の五つの掟の中で過ごしてきました。堅信の秘跡を受けた時から、これまでの掟に守られた中にとどまるだけではなく、一歩踏み出して、掟を超える実践、掟以上の実践を果たす力が与えられるのです。

堅信の秘跡が与えてくれる聖霊の七つの賜物に信頼してこれからの学校生活、社会生活に踏み出しましょう。堅信を受けたなら、教会の中では下級生のお手本として、積極的に声を出して祈り、聖歌を歌いましょう。イエスが期待するカトリック信者になれるように一歩踏み出す。神はあなたの決意を、聖霊の七つの賜物によって支え、実践へと導いてくれます。

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‥次の説教は‥‥
年間第8主日
(マタイ6:24-34)
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ちょっとひとやすみ
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▼「それで、列福式の会場まではどうだったの?」「無事にたどり着きました。大村空港でO神父様に会ったところまでお話ししたと思いますが、その神父様は航空会社が違ったのか、わたしたちより早い便の飛行機に乗りました。でも運よくH神父様を見つけたので、列福式会場の大阪城ホールまでくっついて行くことができました。」
▼「旅のしおりは使ったの?」「ええ、もちろん。」そう言ってはくれたが、おそらくH神父様にくっついて行ったのであれば見てないに違いない。「伊丹空港から最初はバスに乗って、JRに乗り換えるとき『H神父様、こっちこっち』と乗せた車両が女性専用車両だったのよね。びっくりしたー。」H神父さまもずいぶん困ったことだろう。
▼大阪城ホールでの列福式が無事に終わると、今度は宿泊先のホテルまで、「旅のしおり」が力を発揮する。ところがご婦人たちの話では、1時間でたどり着くはずのホテルに何時間もかかって着いたそうだ。「あーでもない、こうでもない」と言いながら帰ったそうだが、「旅のしおり」には混乱しないように乗り換え方法は1種類しか載せなかった。間違えようがないはずだが。
▼「何とか着いたことは立派」と褒めて、肝心の翌日玉造教会でささげられた「列福式感謝のミサ」に話を向けた。大村空港で「その話ですが、実は」と言ったご婦人が切り出した。「『列福式で大画面のスクリーンにM大司教様は何度も映ったので、明日あえて行かなくても大丈夫よね』という話で落ち着きまして・・・」
▼「つまり、行かなかったわけ?」「神父様が目の前にカトリック北梅田教会のあるホテルを探してくれたので、ちゃんとミサには行きました」「でも玉造教会での列福式感謝のミサには行ってないんでしょ?」「はい・・・」何のために「旅のしおり」を作ったのだか。けっきょく一度も「旅のしおり」が活躍することなく、ご婦人方の肝の太さに驚いた列福式珍道中であった。

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今週の1枚
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第477回目。南側の板壁が雨漏りしている。対策を施すため、足場が組まれた。

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年間第6主日(マタイ5:17-37)廃止するためではなく、完成するために

2017-02-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/2/12(No.869)
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年間第6主日
(マタイ5:17-37)
廃止するためではなく、完成するために
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年間第6主日の福音朗読は律法に目を向けさせる招きです。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5・17)しかし律法に固執したり、しがみついたりしなさいと言っているわけではありません。イエスが本当に言おうとしていることを汲み取る努力をしましょう。

そこでイエスが言われる「廃止する」「完成する」について考える材料を提供しましょう。現代の医学は急速に進歩し、臓器移植をするにも誰かに直接臓器を提供してもらうのではなく、細胞を培養して臓器を作り、移植するという道にさえ可能性が開けてきました。

ただそれでも、細胞という最小の単位はあるわけで、細胞を砕いてしまえばもうそれは使い物になりません。ここまで細かくすることには意味があるけれども、これ以上細かくしたり砕いたりすれば意味を失う。そういう線引きが最先端の医療にもあるわけです。

イエスが言われた「廃止する」という言葉の意味合いも、このようなものです。律法や預言者、つまり聖書が教える神の掟と命令を、律法学者やファリサイ派の人々は細かく分けて考えることで詳しく知ろうとしたわけですが、あまりにも細かく分けて、砕いてしまうと、神が示した律法と命令は意味を失ってしまうのです。

イエスが語った「廃止する」という言葉は、「ばらばらにする」とか「ずたずたにする」という意味があるそうです。律法学者やファリサイ派の人々は、掟を細分化しすぎて、ばらばらに、ずたずたにしてしまった。イエスはそのようことをしに来たのではなく、律法が血の通った掟、神の思いを適切に表す掟に再びよみがえらせるためにおいでになり、語られたのです。

ついこの前堅信組の試験をしました。祈りの暗唱の部と、学びを試す筆記試験を行いました。祈りが5問で50点、筆記試験が150点、合計して160点で合格としています。合格しなくても補習をして受けさせますが、やはり堅信の秘跡を受ける人に、使徒信条くらいは覚えていてほしいと思います。

そこで祈りの暗唱の部で使徒信条や、天主の十戒などを尋ねました。一字一句覚えているかどうかを聞きたいのではありません。多少間違えて暗記したかもしれない、たどたどしいかもしれない。けれども、唱えている使徒信条が血の通ったものかどうかは、試験官が聞いていれば分かるわけです。

特に使徒信条については、全員が血の通った使徒信条を唱えられる状態で、堅信の秘跡を受けてもらいたいなぁと心から願っています。使徒信条を暗唱できないなら、何を信じて堅信の秘跡を受けているかわかりません。自分が信じている父と子と聖霊の神を人の前で表明できてこそ、堅信の秘跡を受ける一人前の信者のはずです。そこは譲れません。

今週の選ばれた福音朗読の中で、イエスが律法について、殺人について、姦淫について、離縁について、誓いについて語っています。これらはイエスが宣言した「廃止するためではなく、完成するためである」に基づいて考えるとよくわかります。

律法学者やファリサイ派の人々は事細かに場面を分けて、この場合はこうである、あの場合はどうであると解釈していたのですが、これまでの行き過ぎた細分化はむしろ律法を破壊していたのです。だからもう一度イエスはこれらのずたずたに引き裂かれた律法を血の通ったものによみがえらせてくださったのです。

わたしたちも、ともすると教会にしっかりつながっている根拠を、教会の教えを事細かに説明できる、そういうことに求めているかもしれません。しかし、イエスが期待しているのは血の通った信仰です。別の箇所に書かれている神殿で祈る二人の人の姿です。

律法を隅から隅まで熟知し、週に二度断食し、全収入の十分の一をささげていると祈るファリサイ派の人。かたや目を天に上げもせず、胸を打ちながら、「神よ、罪人のわたしを憐れんでください」と祈る徴税人。血の通った信仰は、徴税人にあったわけです。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(5・20)

行いだけを見れば、ファリサイ派の人々の義にまさるわざはおそらく誰にもできません。けれども血の通った祈りを唱えること、血の通った悔い改めを示すことは、わたしたちの誰にでも可能なのです。

わたしたちの日頃の信仰生活は、血の通ったものになっているでしょうか。わたし自身を振り返ると、日曜日の説教案を準備する中で、「あーやっと書けた」こういう思いは「ファリサイ派の人々の義にまさらない」かもしれません。説教を書き上げたことには違いありませんが、「これで今週の福音朗読の何かが伝わりますように」そういう思いがなければ、血の通ったものとは言えないと思うのです。

もう一度、堅信の秘跡を受ける中学生に呼びかけたいです。使徒信条を、血の通った唱え方のできる人になってください。カトリックの信仰などさらさら持っていない同級生でも、「天地の創造主、全能の父である神を信じます」とオウム返しに言うことは可能なのです。

けれども堅信の秘跡を受ける皆さんの使徒信条は違うはずです。十分とは言えなくても、信じている。信じた上で、たとえたどたどしくても唱えている。そこがいいのです。そこに意味があるのです。

信仰の一つひとつのわざを、血の通ったものにしましょう。「廃止するためではなく、完成するために来た」イエスにわたしたちが従っている証しは、わたしたちの信仰に血が通っているかどうかにかかっています。

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‥次の説教は‥‥
年間第7主日
(マタイ5:38-48)
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ちょっとひとやすみ
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▼田平教会から申し込みをした6人が大阪での高山右近列福式に参加してきた。わたしは大村空港へ送る役と、大村空港へ出迎える役を買って出た。先週たしか「旅のしおり」を用意して渡したと言った。それが役立つことを願って大村空港へ送った。
▼大村空港で駐車場に車を入れ、念のためチケットを受け取るところまで確認して田平に帰ろうと思っていた。ところが車を降りてまもなく、O先輩司祭と同行の信徒に出会った。かつて大変お世話になった同行の信徒に当時のお礼など声掛けをしていると、わたしが連れてきた6人は「あらぁ~O神父様。懐かしい。」とそっちに飛んで行った。
▼それはまぁ、かつての主任司祭であれば無理もないので、それではご婦人たちのお世話はこの先輩神父様にお任せしましょうと思ってチケットを発券するところまでは確認せずに車に戻り、田平に帰った。
▼翌日の夜、6人が大村空港に帰り着く時間に合わせて出迎えに。無事6人が降りて来て、4人はお手洗いに。その場に残った2人に「列福式の翌日は、無事に玉造教会での列福式感謝のミサに参加してM大司教様にもお会いできたかな?」と尋ねると、「それが、ですね、実は」と口ごもる。
▼これは何かあったのだと思い、「残りは車で聞こう。そのほうが聞き取りやすい」とかなんとか言ってみんなを車に導いて家路についた。これからの話が傑作。直木賞か芥川賞がもらえそう。詳しくは次週。

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今週の1枚
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第476回目。今年の年賀状2等は6470。30番違いで惜しい!差出人にも教えた。

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年間第5主日(マタイ5:13-16)わたしたちは今もともし火であるべき

2017-02-05 | Weblog
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2017/2/5(No.868)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第5主日
(マタイ5:13-16)
わたしたちは今もともし火であるべき
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「山の上にある町は、隠れることができない。」(5・14)年間第5主日でイエスが思い描いたのはエルサレムの町かもしれません。エルサレムは標高800mの小高い丘の上にあるので、イエスの考えていた町にうまく合致します。このエルサレムの町に、イエスは何を重ねて考えたのでしょうか。

掲示してある写真は「山の上にある町」として紹介されたエルサレムを訪ねた時のものです。オリーブの茂るゲッセマネの園がわから見た景色、エルサレム旧市街を囲む城壁、聖墳墓教会、かつてあったエルサレム神殿の模型などを並べてみました。あらためて、今回巡礼したイスラエルの訪問地の中で、ひときわ印象に残る場所でした。

ところで皆さんは田平教会を海の上から眺めたことがあるでしょうか。わたしは漁船で海に出て三度目に、ようやく海の上から田平教会を眺めることができました。それまでは釣りをすることで精いっぱいだったのですが、周りを見回しながら船を出した三度目の出航で、初めて海の上から田平教会の塔が丘の上に見えたのです。それはまさに「山の上にある教会」でした。

「あー、これだ」と思いました。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(5・14-16)

田平教会が献堂されたとき、まだ山の木はそれほど高くなかったことでしょう。ですからなおさら、この平戸瀬戸を船で行き交う人々は、カトリック教会のすばらしさ、カトリック信者の働きのすばらしさを身近に感じ、天の父をたたえていたのではないでしょうか。

宣教師たちが教会を山の上に建てたり、港を見下ろす場所に建てました。それは、最も効果的な場所を選んでのことでした。見事な教会を眺めて、遠くから見る教会の明かりに導かれて、教会に足を運んだ人もいたに違いありません。そのような人の中から、天の父をあがめる人も現れるのだと思います。

「山の上にある町エルサレム」「山の上にある田平教会」と考えてみました。最終的に、「山の上にある町」とは何を指しているのでしょうか。「ともし火」は「家の中のものすべて」を照らし、「山の上にある町」は「隠れることのできないもの」「人々の前に輝くもの」「立派な行い」「天の父をあがめるきっかけ」となっていきます。すると、わたしこそ「ともし火」であり「山の上にある町」である、と言うのはちょっと言いづらいかもしれません。

このあたりで勘のいい人は気付いていることでしょう。最終的に「ともし火」「山の上にある町」とは、イエス・キリストのことではないでしょうか。わたしたちが燭台の上に置き、山の上にある町として大切にすべきものは、イエス・キリストなのです。

今年、2月5日が日曜日と重なりました。2月5日は日本26聖人殉教者の祝日です。この田平教会が日本26聖人にささげられた教会ですので、この教会の祝日と言ってもよいと思います。26人の殉教者は、西坂の丘の上で殉教したのだと思います。すると、彼らの殉教は「山の上にある町」のように、隠れることができない明白な出来事だったわけです。

一説によると、大浦天主堂は、26聖人の殉教の丘の方角に向けられて建設されたとも言われます。大浦天主堂もまた、「山の上にある町」のように、隠れることができない明白な信仰のシンボルとなっています。26聖人は、いのちをささげて、自分たちに注がれたイエスのともし火、イエスの光を人々の前に輝かせたのです。

26聖人は、西坂の丘の上で、迫害に正面から向き合って「地の塩」「世の光」「山の上にある町」となりました。わたしたちはどうでしょうか。わたしたちもこの山の上にある田平教会に集まっています。山の上で山上の説教を聞いています。山の上で秘跡の恵みを受けています。そして派遣されて、山を降りて生活の場に戻っていくのです。この集いの中で、何かを持ち帰るべきではないでしょうか。わたしたちの家の中のものすべてを照らす「ともし火」を、持ち帰る必要があるのではないでしょうか。

この田平教会には、26聖人を目指して22人も司祭を送り出した信仰があります。修道者はその何倍もです。何かこの教会になければ、22人もの司祭や数多くの修道者を送り出せるはずがありません。ひとつまみで味を決めてくれる塩、家の中のものすべてを照らすともし火、山の上にある町の輝き、何かがここにあるはずです。

もしわたしたちが、山の上にあるこの田平教会から、毎週何かをつかんで持ち帰るなら、わたしたちの家庭、わたしたちが出会う人、わたしたちが暮らす社会は、わたしたちを通してイエス・キリストを知り、天の父をあがめるようになるでしょう。

この神の家に集うたびに、何かをつかみ、持ち帰る。その習慣を身に付けましょう。毎回はつかめないかもしれません。しかし何かをつかもうと耳を積まし、目を見開いてこのミサにあずかる人が増えるなら、田平教会はこの21世紀にあっても地の塩世の光、山の上にある町なのだと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第6主日
(マタイ5:17-37)
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ちょっとひとやすみ
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▼大阪のユスト高山右近列福式に田平教会からの申し込みが6人いて、参加の手配をわたしが引き受けた。旅行会社の「フリープラン」を利用することにして、「列福式ミサ」と、翌日の「列福式感謝ミサ」を含めた「旅行のしおり」を作った。
▼わたしが参加すればそんな面倒なことをする必要もないのだが、あいにくわたしは列福式を失礼することにしているので、せめてもの償いに、参加者が迷子にならないように、「旅行のしおり」くらいは用意してあげようということになった次第。わたしは小教区の予定を優先して、今回列福式は見送った。
▼小教区に目をやると、今月第3日曜日は「平戸地区堅信式」、3月下旬は小学生の黙想会と大人の黙想会、おいそれと息を抜くこともできない。しかしそうした年度末の追い込みは、教会のいつもの風景。追われているけれども、気持ちよい日々でもある。
▼予定では、高山右近を学んで、それを黙想会に活かそうと思う。わたしが高山右近を語る資格などないのは百も承知だが、学んだことをかみ砕いて分かち合うのは、つねに司祭の務めだから、今回は高山右近を取り上げるということだ。
▼今年は自分で黙想会を引き受ける。来年からは誰か別の司祭にお願いしたいが、やはり最初と最後は責任があると思っている。もちろん最初は分かっているが最後はいつになるかは誰にも分からない。そういう意味では毎年黙想会の時期は自分の学びのためにも何かを準備して過ごしたいと思う。
▼田平教会で昨年末から今年の初めに取り組んできた「聖書愛読運動」は、わたしにはずいぶん勉強になった。詩編に取り組んでいるが、その週の朗読の前に、短い解説をわたしが用意して典礼係がそれを読み上げて実際の朗読に入ることになっている。
▼どんなスケジュールであっても毎週この解説が必要になる。準備を欠かさず続けたので、かなり自分を律する必要に迫られたし、それなりの勉強にもなった。こういう生活ばかりをしているといつかオーバーワークになる。どこかで息抜きが必要だ。

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今週の1枚
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第475回目。「大阪列福式の旅のしおり」。これは一部分だが、細かく記した。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

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文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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