こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

三位一体の主日(ヨハネ16:12-15)三位一体の神秘に生活の中で触れる

2010-05-30 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/05/30(No.478)
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三位一体の主日
(ヨハネ16:12-15)
三位一体の神秘に生活の中で触れる
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今日は三位一体の主日です。今回の説教は、ずいぶん苦労しました。水曜日の出張の時から、何を話そうかなぁと考えてきたのですが、木曜日に福見の司祭館に泊まった日にもまとまらず、金曜日の晩にもまとまらず、これは困ったなと思いながら土曜日の朝を迎えました。

土曜日の朝から、気分転換に髪を洗おうと思いまして、シャンプー1回分を手に取り、頭を洗面台に突っ込んだときに、聖霊が降りまして、あっ!これで何とかまとまりそうだと直感しました。この日のシャンプーと、三位一体が、わたしの中では1本の糸でつながったのです。

まず、三位一体の神秘を思いめぐらしてわたしが感じる神の姿を示したいと思います。それは、父と子と聖霊が、完全に一体でありながら、どの面を取り上げても、同じであるという姿です。

唯一の神で、父と子と聖霊の三つのお方(位格)でおられます。それは、三位一体の神は、どの面を取り上げても、まったく同じ神であるということです。御父の姿から眺めても、御子の姿から眺めても、聖霊の姿から眺めても、同じ唯一の神が見える、ということです。これが、わたしの今回の黙想で得られた答えです。

この黙想の実りが、シャンプーとどうつながるかと言いますと、シャンプーの中身は、全体が均一に混ぜあわされていますから、どこをとっても同じシャンプーです。1回目にポンプで押し出した部分も、50回目に押し出した部分も、同じ効果を持っています。人間の作ったものですから、完全ではないかもしれませんが、どこを選んで取り出しても、同じシャンプーの効果を得られるのです。

洗面台に頭を突っ込んで、頭を洗っているときに、あー、これは使えるなと思いました。三位一体の神は、もちろん混ぜあわされたものではありませんが、父と子と聖霊の三位の神でありながら、唯一の神でおられます。そして、どの姿から眺めても、同じ唯一の神を見ることができるのです。

わたしたちのほとんどが、御子イエスから神の姿を眺める人々だと思いますが、聖霊から神の姿を眺めようとする人々、たとえばそれは、聖霊運動に熱心な人々も、思い込みを取り除いて神を見出そうとするなら、同じ神を見つけ出すはずなのです。

ちなみに、全体と、部分とが、同じでないものもこの世の中にはあります。いちばんわかりやすいのは、お札です。お札は、50分の1に切ったものと、全体とでは同じとは言えません。シャンプーや石鹸や、豆腐やジャガイモは、50分の1でも同じと言えますが、お札はそうはいきません。全体で価値がありますが、ほんのわずかの切れ端では、価値がなくなってしまう種類のものです。

ここから、三位一体の神のお姿を考える材料になるものは、シャンプーでも石鹸でもよいのですが、ある部分だけでは全体と同じと言えないものは、材料としては使えないということです。そこで、わたしたちの生活の中に、三位一体の神秘に心を向けるものを見つけてみましょう。

すぐに思いつくものは、家族の愛です。家族が互いに持っている愛は、それが真実なものであれば、保護者のほうから眺めても、子供のほうから眺めても、同じ愛であるはずです。夫婦の愛、同じ志で生活をしている人、たとえば修道生活をしている人々の相互愛も、真実なものであれば、一方から見たものが、他方から見て食い違っているということはないはずです。そういう愛の中で、共同体が、夫婦が、家族が暮らしているなら、そこから三位一体の神の愛を学ぶことができます。互いの愛でありながら、唯一の愛なのですから、そこに生きる人々は、三位一体の神の愛をすでに生きているのです。

もし、唯一の愛を生きていないとしたら、その愛にとどまっていても三位一体の神の愛に向かうことができません。この子を独占して、わたしの思い通りに支配しよう。そうした考えの保護者がもしいるとして、その人の愛は子供の目から見たら迷惑この上ない愛なのですから、どれだけその独りよがりな愛を続けても三位一体の神の愛に触れることはできないのです。

生活に結びついていて、ぜひ考えてほしいものをもう1つ示したいと思います。それは、ミサ聖祭です。ミサに、週に1度参加している人も多いと思います。中には、参加できるのに、年に数回とか、あるいは申し訳程度に年に1度だけ通っている人もいるのかもしれません。

すべての人にもう一度考えてもらいたいのは、日曜日を含む主日のミサと、それ以外の週日のミサには、違いがあるだろうか、ということです。三位一体の神を学ぶ材料は、全体として唯一であり、部分を取っても全く同じものが学ぶ材料に適していると言いました。

わたしは、ミサもまた、最高の学びの場ではないかと思うのです。全世界で、365日絶えずミサがささげられていますが、主日のミサは恵みがいっぱいあって、週日のミサはちょっとしか恵みがないなどということがあるでしょうか?

主日のミサの中でイエスは、ご自分を完全に御父にささげているけれども、週日のミサでは部分的にしかイエスはご自分を御父にささげないというようなことが、起こりうるでしょうか?決してそんなことは起こり得ないと、だれでも分かります。

そこで、無理をしない範囲で結構ですから、週日のミサに参加してみましょう。高井旅教会は、物理的に無理なのですから、たとえば今話したミサのことを、祈りに換えて、主日には祈りをするけれども、週日には祈りをしないなぁと感じたら、祈りは主日と週日で効果が変わるだろうか?そんなはずはないから、毎日祈りをささげよう。そんなふうに当てはめてみてください。

週日のミサに参加してなかった人が、1週間のうち1日でも参加するようになれば、どの日を取り上げても全く同じ恵みであるミサを通して、三位一体の神をより近くに感じることができるようになると思います。

三位一体の神の神秘は、決して雲の上の遠い遠い教えではありません。日々の生活で生きることのできる教えです。ぜひ、今日示したことを1つの参考にして、わたしたちは三位一体の神のお姿に、生活の中で触れることができるのだと、自信を持って派遣されていくことにいたしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼五島に来てみて、離島であるがゆえにインターネットが割と普及していることに驚いている。先週の説教(録音)で触れたが、五島の人から「ブログ見てますよ」なんて言われるとはつゆほどにも思っていなかった。ここから今回の話は広がって行く。
▼5月23日に、新上五島町の観光課?の方々と、町長以下お偉い方々と、上五島地区の司祭団が席を交える機会があった。わたしは転勤して間もないので責任ある立場ではないのだが、自由な話が始まったときに、1人のカトリック信徒の方が隣に座り、「ブログ、素晴らしいと思います」と、共通の話題を取り上げてくれた。名前は明かせないが、「紳士服の店」にそういう名前があると思う。
▼この人はネットにも十分通じている人で、わたしにとっては本当に話がしやすい人だった。この人を通して推測するに、五島のような離島では、ある世代までは十分にネットの恩恵を受ける環境にいるが、受けられずにいるのではないかと感じるようになった。
▼手前味噌で申し訳ないが、メルマガを受信できる環境にある人、ブログをケータイで閲覧できる環境にある人は、相当数に上ると感じた。実際、遠洋漁業に従事している世帯では、海上で命を削っている人も、その無事を願って家にいる人も、ケータイを持っていてメールで連絡を取り合っている。こうした人々は、こういうものもありますよと教えてあげれば、もしかしたら関心を持ってくれるかもしれない。
▼世界広報の日の教皇のメッセージは、司祭たちにもっとインターネットに代表されるような現在のコミュニケーションの道具を自由に使えるようになってほしいと切に求めていた。まだまだ、使えてよさそうな世代の人々が、たくさんいる。まだ使っていないかもしれない人々もたくさんいる。
▼こうした人々を通して、何とか内に外に、発信し続けていけないものだろうか。5月30日、浜串教会では聖母行列を行ってからミサに移っていく。この様子を動画に収めて、世界に発信できればどんなに素晴らしいことだろう。

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新企画今週の1枚
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第85回目。うまくいくかどうかわかりませんが、浜串の聖母行列の1コマ。
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詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
キリストの聖体
(ルカ9:11b-17)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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聖霊降臨の主日(ヨハネ20:19-23)聖霊を、一人一人の真ん中に迎える

2010-05-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/05/23(No.477)
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聖霊降臨の主日
(ヨハネ20:19-23)
聖霊を、一人一人の真ん中に迎える
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誰でも、人によって感じ方は違うものです。何に感動するか、何が心に残るか、人それぞれです。聖書の朗読を聞いたとき、どこに心が動くか、これも人それぞれで、中田神父が注目して取り上げている箇所が、必ずしも全員に関心を持ってもらえるとも限りません。

そんなことを踏まえた上での話ですが、小学生の教会学校を受け持っている中で、聖霊降臨の出来事を一緒に学ぶ機会がありました。第1朗読の出来事です。わたしは、この使徒言行録の記録の中で、「すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国の言葉で話しだした。」(使徒2・4)という部分に興味を持ったのですが、生徒たちはそうでもありませんでした。

生徒はこう質問してきます。「神父さま、『炎のような舌が別れ別れに現れ、一人一人の上にとどまった。』と書いてあるけど、髪の毛は燃えんやったとね?」「髪の毛は・・・燃えんやろうなぁ」「どうして?ねぇ、どうして?」

まぁ、ふつうにわたしたちは「心が燃える」と言ったりしますから、”霊”の炎は、心を燃やす炎だと考えれば、髪の毛の心配はいらないわけです。けれども、子供たちはとても興味があったようでした。

聖霊降臨の日に朗読される福音についても、どこに注意が向くかは、人によってさまざまです。わたしは、次の部分に目を留めました。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」特に、「真ん中にお立ちになったこと」が、わたしには強く心に残りました。

今日朗読した箇所は、復活後に弟子たちに現れたイエスを、ヨハネが書き残した場面でしたが、「そこへ、イエスが来て、『あなたがたに平和があるように』と言われた」と書き残してもよかったわけです。「真ん中に立つ」というのは、よほど意識しなければ、気が付かない動作なのではないでしょうか。

そのことから、わたしはこう考えました。ヨハネ福音記者は、出来事を、ただイエスが復活後に弟子たちに現れたとは見ていなかったのだと思います。そうではなく、弟子たちの真ん中に立ったこと、ここに注目していたから、あえて付け加えたのではないでしょうか。端っこに立ったのではなく、真ん中に立った、ということです。

ここにはいろんな意味が込められていると思いました。イエスが来て真ん中に立つわけですから、弟子たちがいた家の真ん中は、ぽっかり空いていたはずです。それは、中心となるべき精神的な支柱が失われていたということでもあるし、弟子たちがイエスを自分たちの真ん中にお迎えしたという意味もあると思います。

彼らは、復活したイエスを自分たちの真ん中に迎えたとき、平和に満たされたのです。家の戸に鍵をかけるほど、恐怖におびえていたのに、イエスが真ん中に来てくださったことで、恐怖は去り、本来のあるべき姿を取り戻したのでした。

復活したイエスは弟子たちの真ん中に立ち、彼らに息を吹きかけてこう言いました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20・22-23)

イエスは弟子たちに、「聖霊を受けなさい」と促します。ここですでに考えてきたことを思い出す必要があります。イエスの招きは、弟子たちの真ん中に、聖霊を迎えなさいということではないでしょうか。もっと言うと、弟子たち一人一人の中心、精神的な支柱として、聖霊を受けるように促されているのではないでしょうか。

その結果、弟子たちはイエスと同じように、罪を赦すという偉大な業を行うことになります。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」聖霊が、弟子たち一人一人の中心にいてくださるのでなければ、このような偉大な業を行えるはずがありません。

弟子たちへのこうした促しを、イエスはわたしたちにも求めていると思います。あなたがたが平和に日々を暮らすために、わたしを真ん中に迎えなさい。わたしがあなたたち一人一人の真ん中に立つとき、あなたには平和がもたらされます。聖霊を、生活の中心に迎えなさい。聖霊があなたがた一人一人を導いて、偉大な業を行う人にしてくれます。イエスはそうわたしたちに促しているのではないでしょうか。

イエスを自分たちの真ん中に迎えるということで、ついこの前興味深い経験をしました。第1と第3木曜日に病人訪問を行っていますが、ある病院を訪ねてご聖体を授け、帰ろうとしたときに、帽子を忘れたまま帰ろうとしていたのです。

そのご婦人は、わたしが帽子を忘れているのに気づき、「神父さま、帽子忘れていますよ」と声をかけてくれました。よく気が付いたなぁと感心してご婦人に礼を言い、帰りました。話のついでに、しばらくその帽子をかぶっておきたいと思います。

帰り道、わたしは車の中で、いつものように日曜日の説教をどうまとめるか考えながら司祭館に戻っていたのですが、さっきのご婦人とのやりとりを思い出したのです。わたしが病人の立場だったら、帽子を忘れていますよと声をかけることができただろうか?後で思い出して、あぁ、声をかけてあげればよかったなぁと後悔するのが関の山ではないだろうかと思ったのです。

どうしてこのご婦人はよく気が付いて教えることができたのだろうか。あれこれ考えてみて、こんな思いにたどり着きます。あのご婦人は、わたしを真ん中に迎えてくれたから、帽子のことにも気づいて声をかけることができたのではないか。

つまり、こういうことです。そのご婦人は、ご聖体のイエスを携えたわたしを真ん中に迎えて、わたしが無事にその場を立ち去るまで、その場の中心にわたしを置いてくださっていたということです。わたしと言うよりもむしろ、ご聖体のイエスを中心に置いてくださっていたのでしょう。そして当然、中心にいる人を最優先に物事を考えるわけですから、わたしが無事に帰っていくまで、そのすべての動作に注意を払ってくれた、ということです。

もし、ご聖体を携え、見舞いに来たわたしを中心に置いてくださっていなかったら、結果は違っていたことでしょう。自分の脇に中田神父が座っているという感覚だったら、帽子にも気づかず、後で気づいても「あー、神父さまも忘れっぽいなぁ」で終わっていたかもしれません。ご聖体を運んできたわたしをその場の中心に置いてくださった。それが、小さな出来事の中に、すばらしい意味を見つけることに結びついたのだと思います。

ちょっとしたことですが、そのちょっとしたことの中にすばらしい意味を見つけることができるのは、中心にイエスをお迎えするかどうかにかかっています。今日は聖霊降臨ですから、聖霊を自分の中心にお迎えすることができるかどうかにかかっている、と言い換えてよいでしょう。同じことは、わたしたち皆に、起こりうることなのです。

1つの祈りを、今週1週間の道しるべにしましょう。祈祷書の中にある、「始業の祈り」です。「聖霊来りたまえ、信者の心に満ち給え。主の愛熱の火を、我らに燃えしめ給え。」「聖霊来てください」と願うとき、ぜひ生活の真ん中に、一人一人の真ん中に来てくださるように願いましょう。聖霊を、真ん中に迎えることで、わたしたちはなすべきこと、歩むべき道を、正しく導いてもらうことができます。


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ちょっとひとやすみ
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▼小学校の運動会に、先週の日曜日に出かけてきた。運動会に行くつもりだったのに、デジカメは忘れていったし、「靴を、スニーカーみたいなものに変えて出かけようかなぁ」と思ったくせに、結局は皮靴を履いていった。とってもちぐはぐ。
▼五島では教会の司祭の一挙手一投足は、総理大臣のそれのように影響があったり広がったりするので言葉を慎重に選ばなければならないのだが、カメラを忘れた代わりに、写真を手に入れようと小学生の子供を持つ保護者にあたってみたところ、小学校から連絡があり、次の日曜日までにはデジカメの画像を送ってくれそうなことを言っていた。
▼ところが、実際にはいっこうに画像は送信されてこない。できないことは、はっきりできないと言ってほしい。「まぁなんとかやってみます」と電話口では言っていたのだが、わたしは内心「あまり期待できないな」と感じつつ、電話を終えたのだった。やっぱりか。
▼説教の原稿を書いているのは金曜日の夜なので、実際には土曜日いっぱいまで、結果はどうなるか分からない。けれども、わたしは基本的には、デジカメの写真をメールで添付するくらいのことは、電話を切ってから5分以内にできるはずだと思っている。
▼写真も指定したし、こちらから送信先のアドレスもFAXした。それができないというのは、やる気がない以外に考えられない。できることをしないのがいちばん嫌いな性分である。自分にも腹が立つし、そのような人にも腹が立つ。だから、できないことをできますと言ってほしくないのである。
▼何だかこぼしてばかりで申し訳ないが、とにかく、はっきりさせてほしい。できることは出し惜しみしてほしくないし、できないことをできると言ってほしくない。ただそれだけである。わたしは、これからもできることは出し惜しみしないし、できないことまでできるとは言わない。

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新企画今週の1枚
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第84回目。高井旅教会。浜串、福見、船隠からもミサに集まります。
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三位一体の主日
(ヨハネ16:12-15)
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主の昇天(ルカ24:46-53)主は天に昇られ、いちばんよいものをくださる

2010-05-16 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/05/16(No.476)
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主の昇天
(ルカ24:46-53)
主は天に昇られ、いちばんよいものをくださる
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わたしは五人兄弟の第一子長男です。父は巨人の星のスパルタ教育が理想でした。わたしは元来左利きだったのですが、箸と鉛筆を左で持つのはおかしいということで矯正させられました。刃物を扱うのと、スポーツは変わらず左利きです。

父は40代まで遠洋漁業の乗組員でしたので、月夜間の3日間しか家にいなかったのですが、帰ってきてわたしが左で箸を持っていようものなら、「何で言われた通りにせんとか」と叱られ、ご飯の入った茶碗のほうを投げ捨てられていました。

最初に断っておきますが、父は巨人の星のスパルタ教育が理想の教育でしたので、ちゃぶ台をひっくり返すといったことは日常茶飯事でした。夫婦喧嘩で物が飛ぶ光景もよく見ました。

そんな怖い父でしたが、子供と遊びたい気持ちはあったようで、わたしを星飛雄馬に見立てて野球を教えてくれました。残念ながらわたしは運動音痴で、野球よりも学研の「科学」と「学習」が大好きな少年だったので、父はストレスがたまっていたに違いありません。

野球を無理やりやらされた挙句に、「はよー、月夜間の終らんかなぁ」という顔をしてキャッチボールをしていました。そんな顔で相手をされても面白いはずがなく、そのうちに父も「もうよか」と言ってグローブもバットも山に投げ捨てたりしていました。

2年前の5月31日に父は71歳で亡くなりました。肺ガンでした。今になってみると、もっと父を喜ばせてあげられたらよかったのになぁと思います。周囲の話では、野球のときは名サードだったそうです。絵を描かせても惚れ惚れするような絵を描きましたし、メジロの巣箱も、竹ひごを作ることから始めてそれはもう芸術品でした。なぜもっと、もっとたくさんのことを父に習わなかったのだろうと、後悔することばかりです。

けれども、生きていて残してあげることのできるものもあるでしょうが、亡くなって初めて、子供たちに残すことのできるものもいろいろあるのではないでしょうか。一般に財産分与は亡くなってからです。亡くなることで、与えてくれるものに意味と価値が出てくる場合もあるのだと思います。

わたしの父は、たいした財産も残せませんでしたが、わたしは父が亡くなる数か月前に、振り返りをするためのノートを買ってきて、父に覚えていることを書いてくれるように頼んだことがあります。

長男息子の願いだからと、父はまじめに自分史を書き残そうとしていました。病気があっという間に進行して、思い残すことはないというところまでは書けなかったようですが、その時々の喜びや苦労をノートに書き遺してくれていたので、今は大切な形見です。

父の振り返りの中で、わたしの目にとまった部分がありました。わたしが司祭になったときのことを書き残した部分です。病気と闘い、症状が刻一刻と悪化する中で、わたしのことを忘れず書き残してくれた、それだけでも感謝の気持ちでいっぱいです。少し、紹介します。

「わたしはこれから自分の生活を極める者として、悔いのない、より高い信仰生活に没頭するつもりで毎日のミサに行っていれば神父さまの良い教えが神学校の子供にも、養護学校に入所している子どものためにもあると信じていた。

それから、鯛之浦の神父さまは説教で自由意志という言葉をよく使った。それはイエスさまの生き方を自由に、のびのびと生きることかなと受け止めた。また、地区集会のときにも、自我を捨てることなど大切なことを教えてもらった。(中略)

そうこうしている間に、新司祭をわたしの家に迎えることになった。夢のようだった。それまでにスータンをいただくことから始まって、その1年後には聖書をいただく式にあずかったり、またその1年後には聖体を配るようになり、それから長崎の浦上教会で助祭式にあずかり、1年後に司祭の恵みをいただいた。

貧しさの中にもうれしくてうれしくてたまらなかった。これが神のお恵みであると確信した。その時からわたしはお祈りを切らさないで生きようと決めた。」

地域でも指折りのやんちゃな父でしたが、息子が無事神父になれるように毎日ミサに通うと決心し、そのために給料のいい船の仕事をあきらめて、全くのゼロから牛飼いの仕事を始めたのだと知りました。

多くを捨てて、1つを選び、わたしに残してくれていた。父が亡くなってからようやく、はっきり知りました。生きているときに、口に出して褒めてもらおうとは思わなかったのだろうか。名誉心はなかったのか。今になって、亡くなることで残った父の遺志を思い返すのです。

長くなりましたが、とにかく、生きているうちに残すものもありますが、亡くなることで残してくれるものがあるということです。わたしは自分自身のこの経験から、イエスが昇天したことを考えたいのです。イエスが天に昇られた。それはイエスにとって素晴らしい出来事でした。けれども、弟子たちにとってはある程度覚悟はあったとしても十分受け止めることのできない出来事だったはずです。

第一朗読を思い起こしてください。使徒言行録でしたが、「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた」(使1・10)となっています。つまりこれは、弟子たちはイエスが天に昇られるのを、口をぽかんとあけて見ていたということです。

弟子たちが突っ立ったままなので、白い服を着た二人の人がそばに立って、言うのです。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使1・11)

イエスは、亡くなって、天に昇られたことで、またおいでになるのです。キリストの再臨は、復活し、昇天したキリストが、再びご自分をお与えになるということではないでしょうか。イエスは亡くなって復活し、昇天したことで、最後にとっておきのものを与えることを計画されたのです。昇天という、完全にお姿がこの世から取り去られることで、最高のものを与えようとしたのです。

主の昇天は、天に昇って行かれる様子に見とれているだけでは、その意味を理解することはできません。天に昇る、その向こうにあるものは何だろうと考える人にならなければなりません。

亡くなることで、初めて与えることができるようになるものがあります。イエスも、この世からすべて奪い去られたことで、わたしたちにご自身を与え、聖霊降臨を通して聖霊をお与えになろうとしています。

イエスさまが弟子たちのもとを去って、最後にお与えになるものは一番よいものに違いありません。もちろん、今日の天気も、イエスさまがお与えになる最高のものでしょう。今日から聖霊降臨までの数日を、楽しみに待って過ごしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼こんなに不愉快なことがあるだろうか。インターネット環境が劣悪だったのが、金曜日の工事で劇的に変化した。それは文句なしにありがたいことだったが、この作業にやってきたプロバイダーの業者の態度は、お世辞にも良いとはいえなかった。
▼「お客様のプロバイダー設定はこれです。」1枚の紙を渡され、そう告げられた。その紙を見ると、メールアドレスがすでに決め打ちされて用意されていた。しかも、名前を読み間違えて、間違ったフリガナから作成していることがバレバレだった。「tnakata@****」と、設定表には書かれているのである。
▼「これ、何ですか?わたしの名前はナカダコウジだから、普通に取ってもknakadaのはずでしょ。」そう言うと「あれっ?テルジさんじゃなかったですかね?」とこともなげに言う。カチンときた。「申し込みにフリガナまで書かせて、挙句に間違うわけですか。冗談じゃない。このメールアドレスではわたしは承知しませんよ。」
▼ここまで来れば、普通のサービススタッフなら、「申し訳ありません」と言うに違いない。ところがこのスタッフたち、2人とも「ダメですかね。」と言うだけで決して謝ろうとしない。腹が立って、「そんなことが許されるのか。」と食ってかかった。
▼これに対しても、「じゃあ、設定を作り直して、今晩メールで届けますので、今日はこの設定表で」と言う。あくまでしらを切るらしい。「サービスしてやってるんだ。これくらい我慢しろ」といった高飛車な態度は最後まで変わらなかった。
▼乗り換えるプロバイダーがあるなら、突っ返してやりたかったが、ほかに選択肢がないので文句を言いつつも受け入れた。わたしも心の狭い人間だと思うが、フリガナ書いた申込書を見もせずに、しかもメールアドレス作成にあたって相談もないのはいかにも不親切ではなかろうか。交渉の末に、今回利用することになったプロバイダーのメールアドレスは、k.nakada@tubaki.ccとなった。

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新企画今週の1枚
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‥次の説教は‥‥
聖霊降臨の主日
(ヨハネ20:19-23)
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復活節第6主日(ヨハネ14:23-29)あなたの今は一緒に住んでいる御父と御子イエスのおかげ

2010-05-09 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/05/09(No.475)
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復活節第6主日
(ヨハネ14:23-29)
あなたの今は一緒に住んでいる御父と御子イエスのおかげ
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わたしの記憶の中には、決して忘れないだろうと思える人々が何人かいます。大人であったり子供であったり、出会った時の年齢はさまざまですが、当時の記憶のままに、一生涯忘れないだろうという人がいます。

ある教会での侍者の話をします。2人1組で侍者をしたいという子供が名乗りを上げて、前日に一通りの練習を終え、いよいよ翌日の日曜日から侍者デビューをしました。2人とも低学年の同級生でしたが、1人はとても賢い子で、もう1人はふつうの子でした。

侍者デビューを無事に果たしたのですが、その日はとても賢い子のほうが、鈴を鳴らしたり聖体拝領の時の受け皿を司祭のそばで持ったり、とてもテキパキと立ち回りまして、さすがこの子は気が利くなぁと感心したのです。

それでも、同じ日に侍者デビューをすれば、いつかは同じことをしたくなるわけで、もう一方のふつうの子も、鈴を鳴らしたりさせようかなぁと思いまして、ある日曜日に向けてこう言いました。「今度は、右と左の役割を交代しようか」。

わたしにはある考えがありました。皆さんも同じことを考えるかも知れませんが、気が利く賢い子がそばにいるのだから、役割を交代しても、ちゃんと合図して導いてくれるだろう。そういう計算で、役割を交代させて侍者に就かせたのです。

狙いは半分的中しました。とても気が利く相方が、すべて指示を出してもう一方を助けてくれています。その様子は、祭壇中央でミサを捧げてはいても、わたしにも十分すぎるほど伝わりました。そしていよいよ、鈴を握って鳴らす場面がやってきました。鈴を握りしめて、いつでも鳴らせますよという張り詰めた雰囲気が伝わってきます。

司祭がパンとぶどう酒に手を差し伸べ、最初に鈴を鳴らす場面です。その時、緊張して鈴を握っている子供が隣の相方にこう言いました。「ねぇ、もう鈴を鳴らすところかなぁ?」「鳴らせ。鳴らせって」そうしているうちに、最初の鐘を鳴らすタイミングを外してしまいました。

次に鈴を鳴らすのは、御聖体に変化したパンを、高く掲げる場面です。わたしが「これは、あなたがたのために渡される、わたしの体である」と唱えている時に、鈴を握りしめた子供は相方に「今度はちゃんと鳴らすけん。もうそろそろかなぁ」という声が聞こえていました。

相方はまた「鳴らせってば」と催促しています。今度こそは鳴らしてくれるものと思っていたのですが、御聖体になったパンを掲げても、深くお辞儀をしても、御血に変化したぶどう酒を高く掲げてもさらにお辞儀をしても、いっこうに鈴は鳴りません。

相方は懸命に「鳴らせ。鳴らせってば」と教えてくれているのに「今鳴らすと?もう、鳴らすと?」と言っているうちにどんどん鳴らす場面はなくなり、最後に司祭が御血を拝領する場面が近づきました。

そこへ、わが子の初めての鈴デビューを楽しみにしていた両親が、たまらず会衆席から合図を出しまして、司祭が御血を拝領する間際に、「鳴らさんか!鳴らさんか!」と身振り手振りで伝え始めました。それを見た、鈴を握っている息子は何を思ったか「お母さん、ここにいるよ」と手を振ったのです。

結局、この日鈴は一度も鳴りませんでした。最後の最後、司祭が御血に変化したぶどう酒を拝領したあとに、チリンと鳴ったので「なぁんだ。やればできるじゃないか」と思って振り返ったら、鈴を片付ける音でした。

この、子供の侍者たちは、わたしの心の中で今も生き続けています。ただの記憶なのではありません。わたしにとっては今でも生きているのです。ここで、今日の福音朗読の1節を思い出しましょう。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(14・23)特に、「一緒に住む」というところを考えてみましょう。

2人の子供たちは、懸命に侍者の務めを果たしてわたしに応えてくれました。愛らしいなぁとわたしはこの子たちを思いました。そして2人は、一生涯消えない生きた出来事として、わたしの中で一緒に住むことになります。

これは、イエスを愛する人の中に、御父と御子イエスが一緒に住むと言われているのと似ています。イエスを愛する人にとって、御父と御子イエスの姿は単なる歴史なのではなく、自分の中に一緒に住んでくださっていると言えるくらい確かなのです。同じように、中田神父にとっての愛らしいあの2人の侍者は、単なる思い出で残っているのではなくて、その存在が、今も生きているかのように確かなのです。

誰にとっても、今も生きているかのようにその存在がはっきり感じられる出来事が、1つや2つはあると思います。その、鮮やかな出来事を持っている皆さんに語りかけたいのです。御父と御子イエスの存在は、わたしの中で「一緒に住んでおられる」と言えるくらいに鮮やかに刻まれているでしょうか。

御父と御子イエスの姿が、わたしの中で一緒に住んでおられる実感がないという人もいるでしょう。その人のために、2つのことを示しておきたいと思います。どうしても理解できない出来事や受け入れられないことを抱えている人が、わたしの抱えている悩みはどんな意味があるのですかと神に問いかけ、問いかけ続けた結果その意味が説き明かされたとしましょう。

それは、あなたの中で御父と御子イエスが一緒に住んでくださっているしるしです。イエスはこう仰っています。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(14・26)あなた自身の力ではどうしても理解できなかったことでも、一緒に住んでおられる御父と御子イエスが、聖霊を通して抱えていたものの意味を説き明かしてくださったのです。

また、さまざまな心配を抱えて暮らしながらも、心の中に大きな平安を感じているとしましょう。周りの人からも、「どうしてあれだけの難しい中で暮らして、そんなに心を落ち着けて暮らせるのか知りたい」と声を掛けてもらったとしたら、それは、あなたの中で御父と御子イエスが一緒に住んでくださっているしるしです。

イエスはこうも仰っています。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(14・27)あなた自身の力では平和を取り戻せない困難の中で、一緒に住んでおられる御父と御子イエスが、聖霊を通して平和を与えてくださっているのです。

もし、「わたしが今の暮らしができるのは、御父と御子イエスが一緒に住んでくださっているおかげかも知れない」と感じることができるなら、あなたには十分に証しをする材料があります。その材料を携えて、今週新たな生活に入ることに致しましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼ゆるしの秘跡を受ける人のために、告白場に座って待機していた。どやどやどやと人が入れ替わり立ち替わり入ってきた。5人くらいいただろうか。すべて男性だった。途中、3人目か、4人目で考えた。「なぜ、今日は男性ばかりやって来るのだろうか。」
▼考えているうちに気がついた。今、3週間海の上で命を削って働いていた男たちが、1週間の休みのために陸に上がっている時期なのだと。長崎教区では教会祝日表というのを独自に編纂しているが、この長崎教区版の祝日表には旧暦も掲載されている。その4月と5月を見てみると、なるほど、旧暦の15日を挟んだ時期になっていた。
▼このタイミングでしかゆるしの秘跡に与れないお父さんたちだったのだなと思うと、もう少し早くそのことに気付いて、早めに告白場に座って、待ってあげればよかったなと反省した。もちろん、次の時には早めに告白場に座って、わたしも人を獲る漁師になるつもりである。
▼告白を済ませた男たちは、今日5月5日朝に船に乗って東シナ海へと出航していった。聞けば、魚釣島(尖閣諸島の1つの島)周辺まで漁に出るらしい。沖縄と台湾の中間当たりの場所である。3週間、海に出たままの厳しい仕事。わたしが小学生の頃は父は27日間連続だった。
▼そんなことも知らずに、3日間しかない子供とふれ合う時間を、子供であるわたしは面倒くさがって逃げ回っていたことを思い出した。可哀想なことをしたなぁ。今日は5月5日。命がけの漁場に行く父親を、今の子供たちはどんなふうに見送ったのだろうか。

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新企画今週の1枚
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第82回目。聖母月とロザリオの月には、マリアさまを豪華に飾ります。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/100509.jpg

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
主の昇天
(ルカ24:46-53)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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復活節第5主日(ヨハネ13:31-33a,34-35)イエスの掟はなぜ新しいのか

2010-05-02 | Weblog
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(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
10/05/02(No.474)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ13:31-33a,34-35)
イエスの掟はなぜ新しいのか
‥‥‥†‥‥‥‥

司祭になりたてのころ、ゆるしの秘跡で忘れられない経験をしました。告解場に座っていると、1人のお父さんがやって来て、「神父さま、昔の仕方でお願いします」と言うのです。わたしは18年前に司祭になりましたが、そのお父さんの言う「昔の仕方」という意味がよく分からなかったのです。

告白に来たお父さんは、わたしが面食らっているのもかまわず、自分のペースで告白をし始めました。
「前の告解はいついつしました。罪はこれこれです。おわりです。」

わたしはさらに面食らいました。わたしの知っている範囲では、昔の告白の祈りには、「我、霊父の御祝福をこいねがう」と前置きしてから告白が始まっていたと思うのです。それがいきなり、「いついつしました、罪はこれこれ、終わり」とやられたものですから、わたしのほうが腰を抜かして、「このお父さんの告白の仕方のほうが、よっぽど最新式じゃないか」と思ったのでした。

告白はそれだけでは終わりませんでした。「神父さま、終わりです!」と催促されまして、それでわたしは夢から覚めて、あ~、わたしの指示を待っているのだなと理解し、「償いはこれこれの祈りを唱えてください。」「それでは、『悔い改めの祈りを唱えてください』と言ったのです。

「悔い改めの祈りを唱えてください」と言ったのはよかったのですが、お父さんの祈りが始まりません。耳を澄ましてみると、向こうでぶつぶつ何かを言っているようなのです。「悔い改めの祈り?悔い改めの祈り・・・知らんなぁ」あー、そうかぁ。「悔い改めの祈り」では意味が分からなかったんだなと察して、「それじゃあ、『痛悔の祈り』を唱えてください」と言い直したのです。

すぐに反応が変わりました。「あー、『痛悔の祈り』ね。それなら分かる。」そう言って、こう唱えました。「神よ、わたしはあなたに罪を犯したことを心から悔やみ、お助けによってこの後再び罪を犯さないと、固く固く決心いたします。」「痛悔の祈り」と言って、「悔い改めの祈り」を唱えるのも傑作ですが、「固く固く決心いたします」と答えたのがわたしには面白いなぁと感じました。

わたしはこのときに、「昔の仕方」とか「新しい仕方」ってなんだろうなぁと考えました。あとでこの話は説教の終わりにつながってきますので、記憶しておいてください。ひとまず、福音の学びに入りましょう。

イエスは弟子たちに掟を授けました。しかも、「新しい掟」と念を押しました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ15・34)

イエスが「新しい掟」と念を押していることに注意しましょう。「新しい」の受け取り方に注意が必要です。何かを新しいと言うときは、2つの場合が考えられます。1つは、「何がどう新しいのか」です。もう1つは、「なぜ新しいと言えるのか」ということです。

お魚で考えてみましょう。日曜日ごとに子どもたちは賄いのシスターに「シスター、釣りに行こう」とせがんでいるようです。どうやら大人が同伴していないと磯に行ってはいけないというのが理由のようですが、今日釣ってきた魚は、釣って3日経過した魚より当然新しいわけです。これは、「何がどう新しいか」に入ります。

他方、仮に釣ってきた魚がアラカブだとして、もしもこのアラカブが「卵から育てたアラカブ」だとしたら、それは画期的に新しいアラカブのはずです。もしもこの「卵から育てたアラカブ」が釣って1週間経っていたとしても、「卵から育てた」ものであるとしたら(そんなアラカブがいればの話ですよ)、新しいと言えます。これは、「なぜ新しいと言えるか」に入る新しさです。2通りの新しさ、みなさんも違いは分かると思います。

そこで、イエスが言われる「新しい掟」について考えてみましょう。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」これは、2通りの新しさのどちらに入るのでしょうか。

「新鮮」という意味の新しさで考えると、「互いに愛し合う」ことはまったく新しくありません。旧約聖書の中のレビ記という書物に、こう書かれています。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」(レビ19・18)イエスがおいでになるはるか前から言い伝えられているのですから、いまさら何が新しいのか、と言うくらいに古い掟なのです。

そうだとすると、残る1つの新しさを考えなければなりません。「なぜ新しいと言えるのか」ということです。なぜ新しいと言えるのか。それは、「隣人を愛する」だけではなく、「敵をも愛する」。もっと言うと、互いにすべての人を愛しなさいと言っているところが画期的なのです。これまで誰も、「敵を愛しなさい」とは教えられてこなかったのです。違う国の人、違う信仰の人を愛しなさいなどということを聞いたことがなかったのです。

ところが、イエスはまったく新しい相互愛を求めます。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」隣人も、敵も、違う国籍、違う宗教、豊かな人も、貧しい人も、わけ隔てなく愛しなさい。今までこんなこと誰も求めなかった。これが、イエスの求める新しさです。

なぜ、そんな相互愛を求めるのでしょうか。イエスはなぜすべての人を愛する必要があるかも説明します。それは、「わたしがあなたがたを愛したのだから」ということです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」イエスは、誰も分け隔てしないで愛した。これが新しく示された互いに愛し合うお手本です。

イエスのお手本は、十字架の上に完全に現されました。イエスは正しい人のためだけに命を捧げたのではないのです。隣に磔にされた殺人犯のためにも、イエスの十字架のそばで泣いていた婦人たちのためにも、磔の場面から逃げ去った弟子たちのためにも、すべての人のために命を捧げたのです。すべての人のために命を捧げたのでしたら、わたしのためにも命を捧げてくださったのではないでしょうか。

そのイエスが、掟を授けます。「互いに愛し合いなさい。」分け隔てなく愛し、全人類のために命を捧げたイエスが「互いに愛し合いなさ」と命じたのであれば、わたしたちがあの人は愛さなくてよい、あの人は嫌ってもかまわない、あの人には文句を言ってもよいということになるでしょうか。わたしは決してそうであってはならないと思います。すべての人を、互いに愛し合うのでなければ、イエスの命令を果たしたことにはならないのです。

今日、わたしたちはここにミサに集まりました。考え方の違う人が集まりました。礼拝に参加するという目的は同じですが、わたしと考えの違う人が集まっています。「わたしと考え方が真っ向から食い違うので、あの人は愛せません」この言い分は、本当に通用するでしょうか。

正直に言いますが、中田神父が見ても、わたしと考え方が真っ向から食い違う人はいるのです。ここにいるという意味ではありませんが、18年、5つの教会巡回して、真っ向から食い違う人が誰もいなかったといったら嘘になります。わたしは今思い出してみて、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように」というイエスの新しい掟の、足元にもたどり着いていなかったと思うのです。

ここで説教の最初に話したことを思い出して欲しいのですが、「昔の仕方でお願いします」と告解のときにお願いしたお父さんがいました。「昔の仕方」とか「新しい仕方」にこだわることこそが、もはや鮮度を失っていると思います。もしも、誰かが「昔の仕方でお願いします」と言われたら、司祭は慌てることなく、その人にとって神のゆるしが十分伝わるような接し方をしてあげる。これこそが、画期的な新しいゆるしの秘跡ではないかなぁと思いました。

イエスは、わたしたちに新しい掟を授けました。分け隔てなく、互いに愛し合う生き方です。自分の信念と合わない人と、互いに愛し合いましょう。わたしが正しいと思っていることに異議を唱える人と、互いに愛し合いましょう。

イエスが、「わたしがあなたがたを愛したように」とのお手本を示したのですから、わたしたちには「この人は愛せません」「ミサに来ている中で、この人は受け入れられません」などという限界をもうけることはできないはずです。まったく新しい、画期的な相互愛の生き方を、困難を感じても一歩ずつ進めていくことができるように、ミサの中で助けを願いましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼会議で長崎に出ることになり、ついでに伊王島時代にお世話になった賄いさんを含め個人的な人と夕食をすることにした。賄いさんは食事も喉を通らないほどだったらしいが、わたしと会って安堵したのか、集まった中でいちばん食べて満腹になった。
▼五島を出発する際、伊王島での賄いさんへのおみやげに、五島のお土産でいちばん大好きな「ちゃんここ」を買って行った。上五島・奈良尾のターミナルには売店が2軒あって、そのうちの1軒に立ち、「ちゃんここの(小)を2つ」と頼むと、店のご婦人が「最近転勤してきましたよね」と声を掛けてくれた。
▼何だろうと思って、16日にターミナルに集まってくれた人たちを全員置き去りにして高井旅教会に行ってしまったのだと話すと、「えー知ってます。ターミナルの人たちは慌てて横断幕を仕舞って、追いかけたのですが、つかまらなかったみたいでした。」そうかぁ、売店でも有名人になってしまったんだなぁと思い、ひとしきりおしゃべりした。
▼火曜日の夕食、伊王島時代の賄いさん含むメンバーで、現在の賄いさんも毎日楽しいぞぉと話をしたら、自分と同じような人がいるんだとわかって興味を持って話を聞いていた。遺伝子の型が、きっとこのお2人は似ているに違いない。
▼話をしてなかったかも知れないので、ついでにもう1つ。17日(土)の夕方、主日の前晩のミサをした時のこと。初めてのミサでもあり、戸惑いながらミサを終えた。もちろん、右に行ったり左に行ったり、右往左往してミサを終えたのだが、侍者をしてくれた兄弟のうち、中学生のほうがわたしにこう言った。
▼「神父さま、あまり、ミサに慣れてないようですね。」これには参ったが、いちおう切り替えしておいた。「うん。これから勉強するけん。」この出来事は、わたしの記憶の中で一生忘れることはないだろう。そして、一生涯語り継がれる出来事となるだろう。

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新企画今週の1枚
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第81回目。個人的に押しかけてきた人を案内して教会を回りました。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/100502.jpg

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ14:23-29)
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