こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第31主日(ルカ19:1-10)失われたものを捜して救うためにできることをする

2016-10-30 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/10/30(No.853)
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年間第31主日
(ルカ19:1-10)
失われたものを捜して救うためにできることをする
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年間第31主日C年は「徴税人ザアカイ」の物語です。「この人は徴税人の頭で、金持ちであった。」(19・2)少し嫌味を感じる登場の仕方をしています。その彼が、イエスと出会うことになります。たくさんの人がイエスの前を通り過ぎ、出会うことなく去っていく中で、ザアカイは確実に主との出会いの機会を捉えました。出会うことなく去っていく人々には何が足りないのでしょうか。ザアカイには出会うことのできる何が備わっていたのでしょうか。

徴税人ザアカイと言いますと、わたしには思い出される人がいます。長崎教区の補佐司教から福岡教区の司教となった松永久次郎司教様です。わたしが福岡の大神学院にいた時、特別講話だったか、黙想会指導だったか、よく覚えませんがお話をしていただきました。

実際の講話は、あまりの優秀さに雲の上の人だと感じました。一つ例を挙げると、司教様はローマの神学院を卒業してからギリシャ語をたった1年で習得したそうです。そんな話を聞かされると、わたしたちは「努力が足りず申し訳ありません」としか返事のしようがありませんでした。それでもユーモアを感じさせる話もありました。それは松永司教様が司祭叙階の恵みを受けた時に選んだ聖句についての話でした。

皆さんもよくご存知かと思いますが、松永司教様は背の低い方でした。ご本人はどう思われていたか知りませんが、ローマで司祭に叙階された際の記念カードに、ラテン語で次のように記したそうです。<>.これはイエスがザアカイに言われたことばです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(19・5)背の低いザアカイに自分をなぞらえて、イエスが声をかけ、わたしを召し出してくださった。神の不思議な計画を、思い切った聖句の使い方で残そうと思われたのでしょう。

ひょっとすると、松永司教様は、ご自分がのちに司教に叙階されることも見据えて、この聖句を選んだのかもしれません。神は、背の低いわたしを取り上げて、教区の牧者としてくださる。その姿も見据えてのことだとしたら、ものすごい先見の明だと思います。

福音書に戻りましょう。ザアカイには、イエスと出会う何かが備わっていたはずです。何だったのでしょうか。イエスの最後のことばに答えがあります。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(19・10)ザアカイはイエスにとって失われたもの、捜して救うものだったのです。

ザアカイは、はじめ「イエスがどんな人か見ようとした」(19・3)のですが、彼が望めば人々を横に押しやって、一対一でイエスの前に立つこともできたでしょう。彼は人々に嫌われる仕事をしていたとは言え、「頭(かしら)」であったわけですし、金持ちでもあったので、人々を横に追いやることは簡単だったでしょう。

しかし彼は、いじちく桑の木に登ってイエスを眺めることを選びました。つまりザアカイは、イエスとそれほどかかわりを深めようとは思っていなかったのです。イエスにもそんなつもりはないだろう、きっとそう思っていたはずです。ところがイエスは、ザアカイに会って、話を聞き、食事を共にする気持ちでいっぱいだったのです。

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ただ木に登っているだけでは、イエスの目には留まらなかったかもしれません。ザアカイも、たとえ自分が木に登っても、イエスの目には留まらないだろうと思いながら眺めたかもしれません。けれども「失われたものを捜して救うために来た」イエスは、敏感にザアカイの存在に気づいたのです。

ところで「失われたもの」の立場にある人は、イエスと出会うと必ず救われるのでしょうか。わたしは、イエスが出会おうとされるときに心を開いて耳を傾ける人には、救いが与えられると思います。しかし、イエスが捜し求めて出会おうとされても、心を開かず、耳を貸そうとしないなら、その人に救いは訪れないと思います。

ザアカイは、イエスが捜し出してくれたことを深く心に刻み付けます。彼は180度向きを変え、「失われたもの」から「捜してもらい、救われた者」として生きる決心をしたのです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(19・8)

しかし周りにいた人々はザアカイを認めようとしません。罪人が救われるはずがないと決めてかかっています。それはわたしたちがつい陥ってしまう考えでもあります。「あの人は変われない。」たしかに自分一人では、誰も過ちから立ち帰り、まともな生活に戻れないかもしれません。けれどもイエスが働いてくださったのなら、変われるかもしれないのです。イエスが捜し出してくださったことを繰り返し思い出し、歩み続けるなら、人間の努力を超える力が人を導くのではないでしょうか。

11月から地区集会に伺います。わたしも、捜し求めている人がいます。誰にも相談できないでいる人です。家族に心配をかけたくないと相談できずにいる人、子どもに叱られるから言えないと悩んでいるお年寄りの方です。その人たちを捜し求め、解決策を考えたいと思っています。

わたしは、イエスが捜し出そうとしている人でしょうか。あるいはそのような人と知り合いではないでしょうか。イエスがあなたを捜し当てた時、「わたしはあなたの勧めに耳を傾けます。生き方を自分中心から、キリスト中心に向け直します」と答えることができるでしょうか。

あるいはイエスが捜し求めている人を知っているなら、「イエスよ、どうかあの人を早く捜し当ててください。わたしたちでなく、あなたのことばで立ち直らせてください」と祈るべきです。失われている人が一人でも多くイエスのもとに導かれ、救われて、神の国が広がっていきますように。このミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第32主日
(ルカ20:27-38)
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ちょっとひとやすみ
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▼「この話は来週に」と引っ張った日本シリーズだったが、原稿を書いている時点では広島カープは崖っぷちの2勝3敗である。原稿を書いている土曜日夜に決定する可能性もあるが(それは見たくないが)、現時点では何とも言えない。ただ日本ハムが大谷を第6戦に投入しなかったのはどんな魂胆があるのだろうか。第7戦を覚悟しているのか。
▼長崎教会管区司祭集会に参加してきた。福岡教区の司祭はわたしが聞いた範囲では不満が噴出していた。長崎教区以外のほかの教区ではどこも似たような状況か。長崎は大いに期待されている教区なので、それに応えるべく、宣教のためにもっと教区間の協力に目を向けるべきだし、宣教する司祭でなければならないと思った。
▼しかし個性的な司祭を捜せとなると、長崎教区よりもほかの長崎教会管区の司祭・司教たちのほうがよほど個性的だと思った。了解は得ていないが、懇親会で手品を見せてくれた若い司祭を、長崎教区は持っていない。確かに長崎教区の出し物も面白かったが、侮れないと思った。
▼今、3つの個人的な予定を頭に描いている。1つは11月15日(火)に浜串教会の献堂五十周年が祝われ、その感謝ミサの説教を頼まれたということ。現在の主任司祭がすればいいものを、なぜわたしに振るのかわからないが、まぁ悪い気はしないので引き受けている。同時に浜串教会は鐘つきを自動化したそうで、その祝別式もあるそうだ。
▼2つ目は、これは未定だが、18年ほど前に当時の大司教様がリーダー育成の目玉として計画した青年たちとの聖地巡礼でお世話になった旅行会社の社長から、「来年1月上旬、7日間のイスラエル巡礼に行きませんか?」と誘われている。非常に興味深い。若いころに青年と行った土地の記憶は薄れてきている。もう一度確かめに行くのも悪くない。しかし日曜日のミサをどうするか、考える必要がある。
▼3つ目はこれはどこかで話したが、日本カトリック神学院東京キャンパスでの講話(月の静修)に出張することだ。説教の準備としては浜串教会が先にあるが、ぼちぼち考えておかなければならない。楽しい予定ばかりだが、気を緩めることはできない。

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今週の1枚
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第460回目。わたしたちの教区には、昔のように名物神父は見られなくなった。

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年間第30主日(ルカ18:9-14)わたしたちを義としてくださるのは神

2016-10-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/10/23(No.852)
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年間第30主日
(ルカ18:9-14)
わたしたちを義としてくださるのは神
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年間第30主日を迎えました。「30主日」と聞くと、「あーそろそろ年間の主日も終わりだな。次に待降節がやってくるな」と意識できると素晴らしいと思います。今週与えられた「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえから、学びを得ることにしましょう。

皆さんは自転車のパンク修理をしたことがあるでしょうか。わたしは、今は亡くなった父から修理の仕方を一度だけ教わって、それ以来自分でパンクのたびに修理をしていました。最近は自転車にも乗らないのでパンク修理がどうなっているのか知りませんが、わたしが小学生のころは、タイヤからチューブを引き出し空気を入れながら水を張ったたらいにつけ、泡が出る様子で穴を突き止め、修理に取りかかっていました。

自転車店で買い求めたパンク修理キットを使い、穴の開いたチューブの周辺をやすりでこすり、接着剤をチューブ、張り合わせるゴム両方に塗って張り合わせ、十分に乾いたらもう一度水を張ったたらいに入れて空気の漏れがないかを確かめ、最後にタイヤの中に戻します。ちょっと面倒ではありますが、男の子にとってはこれら一連の作業が、一人前に自転車を乗り回せる証でもありました。

この自転車のパンク修理、意外に思われるかもしれませんが今週の福音朗読を読み解くのに役に立つのではないかと思っています。パンク修理のポイントは2つで、先ず破れを見つけること、そして破れを外から塞ぐことです。

さて福音朗読ですが、神殿で祈る二人は、言わば「パンクした自転車に乗っている人」です。そしてどちらの自転車のパンクが修理を終えて帰ったかというと、ファリサイ派の人ではなく、徴税人だったということです。

二人の祈りを比べましょう。ファリサイ派の人の祈りは、自転車のタイヤがパンクしていることに気づかないで祈っているような祈りです。「わたしはほかの人たちのようなものではなく、ましてやここにいる徴税人のような者でもないことを感謝します。」さらに自分の自転車がパンクしていることを認めようともせずに、空気入れで空気を入れ続けています。「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(18・12)祈りの言葉にどれだけ自分の犠牲を詰め込んでも、タイヤのチューブが破れていれば意味はありません。

しかし徴税人は、自分の自転車はパンクしており、修理が必要なことを知っていて、神に憐れみを乞い求めるのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」人間の目からも明らかですが、破れを認め、修理を乞い求める人こそ、助けの手を差し伸べてもらえる人なのです。

タイヤのチューブに破れがあれば、どれだけ空気を入れてもすべて抜けてしまいます。中からチューブを膨らませても、結局無駄なことです。破れを見つけ、破れを認めて外から塞いでもらわなければ、永遠にその自転車のパンクは直らないのです。

ファリサイ派の人が取った態度は、まさにこの中から空気を詰めようとする行為でした。むしろ自分の破れに気づき、認め、その破れを外から塞いでもらうことを願うべきだったのです。そうすれば破れが直り、並の人では到底できない週に二度の断食とか全収入の十分の一のささげものも、神の義に叶ったことでしょう。

いっぽうの徴税人は、自分の欠けた所と正直に向き合っていました。後ろ指さされるような稼業をしていたのですから、自分の破れは火を見るよりも明らかでした。そこで彼は、自分の破れを外から塞いでもらえるように神の憐れみにすがったのです。

神はいつも、人間の破れを覆い塞いでくださる方です。神は人間を、天使よりやや劣るものとして造られました。天使は破れが生じませんが、人間は破れが生じる者としてお造りになったのです。神は創り方を知らなかったのではなく、神の憐れみによって、時々生じる破れを覆い塞いでもらいながら生きる者として人間をお造りになったのです。

わたしの知る限り、自転車のパンク修理は中からはおこないません。中から空気をどれだけ入れ続けても、外から破れを塞がない限り永遠に終わりが来ないのです。人間には必ず何かしらの破れがあるのです。それを自分の祈りや英雄的な努力でどれだけ中から詰め込んで修理しようとしても、その努力は永遠に終わらないのです。ただ一つ、自分の破れを認め、神の憐れみで破れを覆い塞いでもらう。これ以外に、自分を直してもらう方法はないのです。

わたしたちはどうでしょうか。わたしたちの祈りの家である教会に来た時、わたしはどんな祈りをしているでしょうか。周りを見回して、ほかの人のような者でないことを感謝しますとどこかで自分を納得させていないでしょうか。あるいは自分の祈りで破れを埋め尽くそうと考えて、かえって空気入れを使って入れた空気が、破れから噴き出していないでしょうか。

イエスが示したたとえは、わたしたちにも示されたたとえだと考えるべきです。わたしたちにも破れがあります。人によっては針の孔ほどで、勢いよく空気が抜けていないために気づかないかもしれません。けれどもイエスは、たとえばゆるしの秘跡であなたが立ち寄るなら、「空気が減っています」と指摘してくれるでしょう。ぜひそのわずかの孔を、自分のおこないで埋めようと思わず、神の憐れみによって直してもらう道を選んでほしいのです。

「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」イエスの答えは今も昔も変わりません。わたしも、神の憐れみといつくしみにより頼んで、破れを直してもらいましょう。目に見えない破れであればなおさら、神に指摘してもらわなければ見落としてしまいます。ゆるしの秘跡、聖体拝領など、神の憐れみはわたしたちを義としてくださるのです。心を開いて、神の手当てに自分を委ねることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第31主日
(ルカ19:1-10)
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ちょっとひとやすみ
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▼今週日本シリーズだが、まだ結果を語れないのでこの話は来週に。今週は長崎教会管区の司祭研修会について。火曜日から木曜日まで、ぴったり日本シリーズのパ・リーグ主催ゲームと重なる日程で缶詰めになる。ソフトバンクが勝ち上がっていたらなぁ、いやこれは過ぎたことだから言わないでおこう。
▼長崎教会管区と言えば、わたしにとっては大神学院時代に共に学び、共に祈った仲間たちとの再会である。どの先輩後輩も、一言では語れない物語がある。その先輩後輩たちと久しぶりに会って、話に花を咲かせることができそうだ。
▼もちろん研修会だからそれなりの研修はしないといけない。だが管区の集まりなど滅多にあるものではない。一度も会ったことのない先輩もいる。後輩もいる。そんな中にいて、貴重な話を聞くことができたら、本題の研修にも負けない学びになると思う。
▼会場は福岡市の中心部。車で直接行きたいが、3日間車を停めると目の飛び出るような駐車料金を請求されそうだ。そこで一計を案じた。福岡教区の同級生の教会にいったん立ち寄り、そこで車を置いて、そこからは公共機関で会場入り。これで最小限の費用で済む。
▼今回訪ねて車を置かせてもらう同級生は福岡に行ってからのずっと親友である。腹を割って話せる親友はそうそういないが、彼はそういう親友である。実はほかの司祭から、もっと安く費用を上げる方法を聞いたのだが、同級生にお世話になるほうを選んだ。

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今週の1枚
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第459回目。ロザリオの月。祈りの声が聖堂に響く。

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年間第29主日(ルカ18:1-8)気を落とさずに絶えず祈り続けるなら

2016-10-16 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/10/16(No.851)
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年間第29主日
(ルカ18:1-8)
気を落とさずに絶えず祈り続けるなら
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「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(18・8)イエスは信仰が一時の熱狂で終わってしまい、人の子の再臨の時に絶えてしまわないか心配しておられます。地上に、わたしたちの教区、小教区に、イエスが期待するような信仰が見られるでしょうか。

広島に行ってきました。「白浜司教様に面会して翌朝は司教様とミサをささげてくる。ついでに野球観戦もしてくる」と先週繰上げミサの中学生に話すと「どっちがついでだか・・・」と言われましたが、真っ先に司教館で白浜司教様に面会してから野球観戦に行き、翌朝も司教様とミサをささげたのだから、わたしの主張に間違いはありません。

マツダスタジアムでは広島教区のH神父様のご厚意で、6人掛けのテーブル席を押さえてもらっていました。招待されていたのはわたしと仙台教区のK神父様、横浜教区に派遣されている仙台教区のW神父様、それと司教館で働くMさんとIさんの6人で、主審のプレイボールの号令とともにテーブル席も生ビールのプレイボールがかかり、ゲームセットまで飲み続けていました。わたしと広島教区のお三方が熱心なカープファンです。ただ9回の田中の一発の時、わたしは隣のW神父様とおしゃべりしていて、せっかく球場に来ていたのに見逃してしまいました。

翌朝は司教館のチャペルで司教様と朝7時から一緒にミサをおささげしました。司教館は幟町教会の敷地にあるので、同じ時間に聖堂でもミサがささげられていました。ほかの神父様はそちらに出ていたのかもしれません。わたしがチャペルに行きますと、わたしのほか誰もいませんでした。純粋に二人きりで、ミサをささげたのです。

わたしは司教様とミサをささげながら、この司教様が自分とは違うものを見てミサをささげていると感じました。わたしの目には、おそらく八畳くらいの、誰もいない空っぽの小さなチャペルしか見えていませんでしたが、司教様の目にはきっと広島教区民すべてが見えていたのだと思います。一緒にささげているミサでありながら、わたしと司教様とでは取り組む姿勢に天と地の開きがある。そう認めざるを得ませんでした。本当に貴重な体験をさせてもらいました。白浜司教様が福者になるようなことがあれば、体験したことを喜んで証言したいと思います。

福音に戻りましょう。イエスは「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」(18・1)と考えておられます。たとえ話の中で、やもめが裁判官にひっきりなしにやって来て、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と願っています。

登場人物の置かれている立場をおさらいすると、やもめは夫を亡くして社会的に非常に弱い立場に置かれている女性です。裁判官は、一般的な揉め事を仲裁するために立てられた「にわか裁判官」でしょう。揉め事は例えば金持ちとの金銭トラブルで、金持ちはわいろを裁判官に渡して、もみ消してほしいと頼んでいるかもしれません。日常ありがちな、弱い者が泣く目に遭うという構図なのでしょう。

やもめは正しい裁きを求めてひっきりなしにやってきます。「うるさくてかなわない」とすら言っています。「さんざんな目に遭わせる」という場面は、元の言葉の意味を汲むと、「目の下をこぶしで狙ってアザを付ける」そういう意味合いだそうです。おちおち寝られず、目の下にクマができている様子を想像すると滑稽でもあります。

弟子たちが、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と言われているのは、これくらいの圧力、これほどの圧倒的な熱量を指しているわけです。わたしたちは日頃、188福者の列聖を願い、また高山右近の列聖を願っています。わたしたちの祈りは、「うるさくてかなわない」「さんざんな目に遭わせる」と思わせるほどの圧倒的な熱量があるだろうかと考えてしまいます。桑の木が山から海に根を下ろすというのも、通常考えられないようなことさえ引き起こす熱意にほかなりません。この熱意が、わたしたちには欠けているかもしれません。

振り返って、白浜司教様の一日を始めるミサでの祈りを考えてみました。もしわたしがあの日ご一緒しなかったら、たった一人でミサをささげていたのかもしれません。けれどもお話ししたように、わたしがそばにいようがいまいが、司教様のささげているミサからは広島教区民が二重三重に取り囲んでいるような熱意を感じたのです。司教様のミサの奉献文の祈りは、広島の全教区民をイエス・キリストを通して御父におささげしていることがひしひしと伝わる祈りだったのです。

わたしはどうだろうかと思いました。一人でミサをささげることはほとんどありませんし、白浜司教様のような環境に置かれたら、心が折れて一人ではミサをしなくなるかもしれません。そんな気を落としそうになる環境にありながら、黙々と、高い志でミサをささげている姿を拝見して、大いに勇気づけられ、慰められました。

白浜司教様が日々こなさないといけないことは分刻みに手帳に書き込まれていました。しかしどんなに忙しくても、気を落とさずに絶えず祈ることができるか。たった一人で、教区民のため、小教区のため、ミサをささげ続けることができるか。これは別の問題だと思いました。

「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」広島教区は幸せだと思います。少なくとも一人、白浜司教様が気を落とさずに絶えず祈り続け、人の子が来るときに顔を上げることができるからです。

わたしたち田平小教区には、こんな信徒が見いだされるでしょうか。誰の目に留まらなくとも、たとえどれだけの人が気落ちして祈ることをやめてしまっても、絶えず祈り続けてくれる人がいるでしょうか。イエス・キリストの再臨の時、恐れずに顔を上げる人がわたしたちの小教区に与えられますように。ミサの中で願い求めましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第30主日
(ルカ18:9-14)
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ちょっとひとやすみ
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▼父はずっと学ぶ姿勢をわたしたち子どもに示してくれた。この話を結婚講座の人々に話して聞かせるのだが、最近この話の内容に致命的な欠陥があることに気づいた。父からの話を基に話してはいるが、そもそも県北とはどこで、農業高校とはどの高校なのか、確かめたことがなかった。この致命的な欠陥に、先の結婚講座の中で答えが出たのである。よくよく考えると県北とは中田神父が今生活している平戸市田平町のことで、授業を受け、試験会場となったのは田平教会から200mも離れていない「長崎県肉用牛改良センター」だったのである。
▼さらに、農業高校というのはこの田平教会から500mしか離れていない北松農業高校のことで、ラーメン屋は田平教会のTさんの証言で、農業高校のすぐそばで弟が経営していたラーメン屋だろうと分かった。下宿した場所も推定できた。現在のサムソンホテルが建っている場所はかつて「田平荘」という町営の宿で、資格を取得しに多くの人が滞在していたそうだ。
▼今回の結婚講座に来たカップルが言った。「先生、先生はきっとお父さまが下宿して苦労されたその土地に、巡り巡って赴任してきたのではないでしょうか?」わたしは、雷に打たれたような衝撃を受けた。わたしは今、父が自慢げに話し、資格を取得するために苦労した土地に、30年後に住み着いているのだ。これまでは、父の話を結婚講座に来たカップルに単なる参考として話していたに過ぎなかったが、父の体験は、目の前の景色の中で繰り広げられていたのである。
▼そう考えるとき、話す内容は単に書物からの借り物とか、だれかの話の二番煎じとか、そういうものではなく、生きている話、まるで絵本から飛び出してきたような話となった。県北のどこかとか、県北のとある農業高校といったあいまいな話ではなく、生き生きと語ることのできる材料を、父は息子であるわたしに与えてくれていたのだ。
▼もちろん父には、そこまでの深い計画はなかっただろう。わたしに一生の宝物となる話を与えてくれたのは神なのだと思う。一介の人間が、このような深遠な計画を立てることなどできるはずがない。しかし神は永遠であり、神の計画は人間の知恵の及ばないものなのだ。本当に素晴らしい宝をいただいた。
▼最後にこの話を完成させるためには、わたしの父から声をかけられて、無理やり家庭教師をさせられた当時の農業高校の生徒を捜すことである。どこかにいて、この話を読んだなら、ぜひ声を上げてほしい。直接会って、話を聞きたい。

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今週の1枚
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第458回目。田平教会ほか紹介した建物の位置関係。地図は「いつもNAVI」より。

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年間第28主日(ルカ17:11-19)あなたのすべてを知ってくださる方がいます

2016-10-09 | Weblog
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年間第28主日C年の福音朗読は「重い皮膚病を患っている十人の人をいやす」という物語でした。6年前の説教ですが、内容が面白かったのであらためて取り上げて、今週の学びを得たいと思います。

間違い電話は、よくある話ですが、わたしは過去に間違い電話の人とお友達になったことがあります。デートして食事をしたりとか、そういう付き合いではなくて、間違い電話のあとも、しばらく電話友達になってあげた、という程度です。

深夜に、電話が掛かってきました。主任司祭を始め、その教会には4人の司祭がいて、わたしはいちばん若い司祭だったので、先輩司祭よりも先に電話を取る必要がありました。深夜に電話がかかっても、まずわたしが電話を取るわけです。

電話は女の子からで、中学卒業後高校に行っていない子でした。本人はてっきり、自分の彼氏に電話をかけているつもりだったらしく、「もしもし」と言ったらいきなりまくし立ててきました。日頃あまり話を聞いてもらえないのか、よくまぁ間違えている相手にこれだけ話せるなぁと、しばらく感心して聞いていたのです。

「あのね、電話間違ってるけど。」すると、その女の子はびっくりして、すぐ謝りました。わたしは面白かったものですから、「大変だね。良かったら続きの話、聞くよ」と言ったのです。2時間くらいは話を聞いていました。

話を聞いてもらって、嬉しかったのか、また電話していいかと言うものですから、あーいいよって、返事をしたのです。まだ若かったので、深夜の電話を受けても次の日の仕事に響いたりはしない時代でした。10回くらいは続いたでしょうか。その後は安心して、ピタッと電話はやみました。

電話の相手をしていて、こんなことを思ったのです。どんな人でも、自分がここにいるということを、必死になって知らせたい、知ってもらいたい、分かってくれる人がいてほしい。人は自然に、自分を分かってくれる人を求めるんだなぁ。そんなことを感じました。

福音朗読ですが、重い皮膚病を患っている十人の人が、イエスに憐れみを求めます。律法の規定によると、重い皮膚病と診断された人は、社会から切り離され、礼拝にも参加できず、共同体の交わりに加わることができませんでした。家族とも離れ離れでした。健康な人が重い皮膚病の人のそばをたまたま通るときは、重い皮膚病の人たちは大声で「わたしは汚れた者です。わたしは汚れた者です」と叫んで、知らせなければならなかったのです。

こうした律法の規定は、重い皮膚病の人をさらに追い詰めていただろうと思います。誰もが、自分を分かってほしい、自分を知ってほしいと思うのに、当時のユダヤ社会は、自分たち病気の人を避けるように、関わりを持たないようにと仕向けていたのです。

そこへ、イエスが通りかかりました。本来なら、「自分たちを避けて通ってください」と大声で叫ばなければなりませんでしたが、なんと「イエスさま、わたしを憐れんでください」と叫んだのです。自分を知ってほしい、自分を分かってほしいと、大声で叫びました。

この人々は、どこかで、イエスの噂を耳にしていたのかもしれません。自分たちを分かってくれるのは、この人しかいない。だから、必死になって、自分のことを訴えかけたのでしょう。

イエスは彼らの訴えに耳を傾けました。イエスは、すべての人が、たとえ社会から切り離されている人でも、自分を知ってほしい、自分のことを分かってほしいと思っていると十分理解していたのです。イエスは人間の心の奥底からの願いを知るお方なのです。

イエスは何も特別な動作はしませんでしたが、奇跡が起こり、重い皮膚病はいやされました。問題はここからですが、サマリア人だったとされていますが、十人のうち一人だけ、イエスのもとにかけより、感謝を捧げたのです。

わたしはこう考えました。最初はイエスに自分のことを知ってほしいと十人とも願ったのですが、自分の置かれた状況を理解できる人はイエスしかいないと感じたのは一人のサマリア人だけだったのではないでしょうか。残る九人はユダヤ人でした。ユダヤ人は、ユダヤ人社会に戻ることで、迎えられる可能性があります。

ところがサマリア人は、ユダヤ人と敵対関係にありましたので、たとえ健康を取り戻しても、社会的には孤立してしまう可能性があったのです。ほかに何も頼るものがない。そういう中で自分を知ってくださった唯一のお方に、感謝しに来たのではないでしょうか。

ここからわたしたちが学びたいことは、「イエスだけが、わたしの拠り所です。」そんな気持ちが、わたしたちの信仰にあるでしょうか、ということです。信仰は持っているけれども、拠り所はほかにもあって、イエスだけを拠り所にしているわけではない。それがわたしたちの現実の生活ではないでしょうか。

人は、見られたくない部分は人に隠そうとします。それは家族に対しても、一緒に生活している人に対しても同じでしょう。そんな中で、わたしの良い点も悪い点も、すべてを打ち明けて拠り所になれる。そんな相手はどれだけ探しても見つるものではありません。すべてを知ってもらうことができるのは、イエスのほかにいないからです。

感謝しに来たサマリア人は、イエスを自分の唯一の拠り所、すべてを感謝できる唯一の相手として理解しました。わたしたちも、日頃受けているもの、良いものも悪いものもすべてを感謝できる。イエスに対して、あらためてそのような信仰を呼び起こすことができるよう、このミサの中で恵みと力を願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第29主日
(ルカ18:1-8)
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ちょっとひとやすみ
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▼父の葬儀説教を読み返したと先週書いたが、父からの(あるいは神からの)知らせだったのだと合点がいった。先週火曜日の結婚準備講座で、毎回話の材料に使っている父の思い出話のいくつかの疑問が解き明かされる。そのことを教える予兆だったのだろう。
▼その日のテーマは、「将来生まれてくる子供に、いつまでも学び続ける姿勢を見せて、人生の教科書、お手本になってほしい」というものだった。2008年に亡くなったわたしの父がモデルになっている。
▼父はもともと中学卒業の学歴で、遠洋漁業船に乗って家族を養っていた。のちに船上の事故でけがをして船を降り、地元新上五島町の農協のお世話で牛を飼うことになる。全くの素人で、失敗も多く、しかも子牛を育てる畜産業でどうしても必要な、雌牛に受精させる免許を持たなかった。そのため毎度獣医師を呼んで手数料を払っていた。一年に20頭受精させると、成功したかどうかにかかわりなく、手数料を5千円ずつ払わなければならない。年間10万円の出費がまだ軌道に乗らない経営を圧迫した。
▼そこで父は、一念発起して資格を取るために県北の試験場近くで一ヶ月下宿し、参考書と問題集を買い集め、受験勉強を始める。当時45歳くらいか。年齢には逆らえず、参考書の内容もさっぱり理解できない。困った父は一計を案じ、近くにあった農業高校の生徒が時々ラーメン屋に立ち寄って帰るのを知り、ラーメン屋で待ち伏せしてだれかれ構わず声をかけ、今日のラーメンをおごるから勉強を教えろと言って勉強したそうだ。
▼その甲斐あってか、見事に必要な資格を取得して帰ってきた。意気揚々と帰った父は、最年長で試験に合格したのだと威張っていた。高校生だったわたしにとって、いつまでも学び続ける姿は立派な教科書となり、わたしは自分の勉強を頑張ることができたわけだ。
▼このように、結婚する二人も、生まれてくる子供に対して、いつまでも何かを学び続ける姿勢を見せてほしい。何かに磨きをかけ続ける姿勢を見せたら、目の前の宿題を教えてもらえないとしても、子供に対して立派な教師、立派な教科書になれる。このような話をしていた。来週に続く。

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今週の1枚
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第457回目。雌牛の受精には人工受精師の資格が必要。農林水産省のHPより。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

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† 神に感謝 †
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年間第27主日(ルカ17:5-10)神がまいてくださった信仰により頼む

2016-10-02 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/161002.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
16/10/02(No.849)
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年間第27主日
(ルカ17:5-10)
神がまいてくださった信仰により頼む
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「わたしどもの信仰を増してください」(17・5)弟子たちはなぜ、このような願いをしたのでしょうか。そこから出発して、イエスが言う「信仰」がわたしたちに備わっているのか、考えてみたいと思います。

司祭団ソフトボール大会に参加してきました。4チーム対抗で、長崎市内チーム、五島チーム、佐世保・平戸チーム、そしてお隣の韓国テグから1チームやって来ていました。聞けば長崎教区とテグ教区は姉妹教区の覚書を交わしているそうです。そこで司教さま同士で話が進み、大会に参加させてほしいということになったということのようです。

試合の結果は、午前中に長崎チームと佐世保・平戸チームが1試合おこない、五島チームと韓国テグチームが1試合おこないました。佐世保・平戸チームは長崎チームに最終回の2アウトまでリードしていたのですが、若手の司祭に逆転3ランホームランを打たれて負けてしまいました。逆転のランナーはたしか山内ケイスケという神父さまでした。

午後からは第1試合に勝った長崎チームと韓国テグチーム、負け同士の平戸・佐世保チームと五島チームの試合でした。長崎チームは昼ご飯、韓国テグチームに缶ビールをしつこく勧めて飲ませたのですが、試合は韓国テグチームが勝利し、今年の優勝チームとなりました。わが佐世保・平戸チームは午後の試合も負けて最下位でした。

わたし個人の成績ですが、第1試合はそこそこ貢献しまして、2回打席が来て2回とも塁に出てホームに帰りました。守備でも失点につながるエラーもなくこなしました。しかし午後の試合バットは空を切り、守備も乱れ散々でした。

このあと教区報に記事を書くのですが、どんなふうに書くか頭を痛めています。「来年は韓国に優勝旗を取り戻しに行く」と書こうと思うのですが、向こうが優勝旗の領有権を主張して譲らなかったらどうしようかと心配しております。実際は心配無用でしょうが。

福音朗読に戻りましょう。弟子たちが「わたしどもの信仰を増してください」と言った直前の箇所が関わっています。次のような言葉でした。「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(17・4)

イエスの言葉を聞いた使徒たちは、「今のわたしたちの信仰では七回赦してあげるのは難しい」と感じたのでしょう。そこで信仰を増し加えてほしいと考えたのではないでしょうか。ところがイエスが示そうとする信仰は、使徒たちの考えている信仰の延長線上にはないものでした。

「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」(17・6)この違いは何なのでしょうか。わたしたちにも関わってくる問題なので、押さえておきましょう。

考える材料を示したいと思います。わたしたちには練習や努力でたどり着けるものと、それらではどうしても追い付かないものがあるのではないでしょうか。たとえばプロ野球の大谷選手は、今年ピッチャーとして10勝し、バッターとしてホームランを22本打ちました。

ほとんどのプロ野球選手は、練習や努力を惜しまなければ、ピッチャーとして10勝することはできるでしょう。あるいはバッターとしてホームラン22本打つことは可能でしょう。しかしそれを同時に達成するのは、特別な才能であって、努力や練習では追い付かないのではないでしょうか。何かそこには、天から与えられたものがあるのだと思います。

使徒たちが考える「信仰」と、イエスが言う「信仰」にも、似たような違いがあるのではないでしょうか。使徒たちが描いていたのは、努力や経験によって増し加わる部分で、信仰のある一面だと思います。

しかし根本的には信仰は「神から与えられるもの」ではないでしょうか。「天から与えられる信仰」は、わたしたちが努力や経験では増し加えることのできないものであって、たとえそれがからし種一粒ほどでも、あっと驚くわざをおこなうものなのです。

ちなみに、「天から与えられる信仰」もさまざまあるのかもしれません。「からし種一粒ほど」のものもあれば、「十タラントン、五タラントン、一タラントン」といった違いも考えられますし、「多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(ルカ12・48)ということからも、違いがあると考えられます。

最終的に「天から与えられる信仰」は、誰もが持っているものなのでしょうか。持っていると考えたいです。何年前でしょうか。上五島にお年寄りの神父さまが赴任してきて、上五島地区司祭団の仲間入りをしました。わたしたちは内心「平均年齢が上がるなぁ」とか「ソフトボールの戦力がダウンした」などと勝手なことを言っていたのです。

しかしよくよく考えれば、70歳を過ぎてから転勤して新しい教会に根付くというのは、それこそ「桑の木」に海に根を下ろせと言われてその通りに実行するくらい難しいと思ったのです。経験を積み、年齢を重ねて大ベテランになれば、山から海に住まいを変えるのは簡単になるでしょうか。現実はその反対のはずです。わたしはその大先輩に改めて尊敬の念を持ったのでした。

天から与えられる信仰に、わたしたちは信頼を置く必要があると思います。それは人によっては「からし種一粒ほどの信仰」かもしれません。それでも、わたしたちの努力や経験で積み重ねたものにまさるのです。神が与えた信仰は、あっと驚くわざをわたしたちに行わせます。神により頼むことで、神が与えてくださった信仰は力を発揮します。

わたしができると思うかどうかにより頼むのではなく、神の全能により頼む。こうしてわたしたちは神が与えてくださる信仰を世に示すことができるのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第28主日
(ルカ17:11-19)
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ちょっとひとやすみ
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▼2008年の父の葬儀の時の説教をもう一度読み返してみた。何がきっかけで読み返したのか思い出せないが、読み返して1文字抜け落ちていたので補ってあげた。「ミサを拝んで生きた人でした」と書くべきところを、「ミサを拝んで生た人でした」と表記していた。
▼ふと思い出したのは、何かの知らせだと思う。何の知らせなのかは考えてみたいが、これに関連して前々から思っていることがあって、わたしには何かを知らせてもらう「天賦の才」があると思っている。わたしにとっての「からし種一粒ほどの信仰」である。
▼いつもそうなのだが、間に合うタイミングで何かが示され、間に合っている。何度もこの体験をした。そこで思ったのは「何か与えられたものがあるに違いない」ということだった。同じ天賦の才を与えられた人もいるだろう。どのように使うか、人それぞれだが、わたしは説教を考えるために使う。
▼説教はほとんどが「降りてきたものを書き留め」出来上がったものだ。ある司祭は「説教がいちばん苦労する」と言う。もしそれが、「書き上げる苦労(まとめあげる苦労)」だとしたら、わたしにはそれはない。「降ってくる」から、あとは書き留めれば完成する。
▼もし「苦労」が「降ってくるまでの苦労」だとしたら、わたしもこれ以上ないくらいに苦労してきた。たまには自分の努力と経験で準備して、済ませることもあった。だがそういう説教に限って、どうしてもしっくりこないのである。
▼何かが「降ってきた」ときは、わたしの経験や努力ではないので、納得できる。示されたものなので、わたしの経験を超えていることもある。たまに説教をほめてもらうことがあるが、それはきっと「降ってきたもの」「示されたもの」をうまく展開できたから信徒にも納得できるのだと思っている。説教はわたしの能力でどうこうできるものではない。
▼今週もある場面で語るべきことが「降ってきた」。しばしばハラハラするが、これを生涯続けていけたらと思う。わたしに種まかれた「からし種一粒ほどの信仰」を世に示すために。

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今週の1枚
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第456回目。遅ればせながら、夏休みのミサとラジオ体操のご褒美に。

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† 神に感謝 †
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