こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第26主日(ルカ16:19-31)188殉教者は神のもとで慰められる生き方を証しします

2007-09-30 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/09/30(No.319)
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年間第26主日
(ルカ16:19-31)
188殉教者は神のもとで慰められる生き方を証しします
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昨日9月29日、大変喜ばしい記者会見の場に立ち会うことができました。ペトロ岐部と187殉教者の列福式の正式発表です。夜のローカルニュースや今朝の新聞、あるいは朝のニュースで目にした人もいるかも知れません。来年の11月24日に、長崎で列福式が行われることが正式に決まりました。

記者会見に参加して、2つのことを思いました。1つは、日本人の数多くの殉教者の生き方が、公の場で尊敬される日がようやく来るという安堵感、もう1つは、この記者会見の呼びかけにテレビ局3社、新聞雑誌など9社、カトリック教会の雑誌社が2社、合計14社の報道関係の方々が集まってくれたことです。400年前の殉教者が現代に届けようとしているメッセージは、十分に人々を引きつけ、心を動かすことができると感じました。

昨日の列福式正式発表を、今週の福音朗読に結び付けてみたいと思います。188人の殉教者は、この世で迫害を受けた人々です。それは、福音朗読にあてられている「金持ちとラザロ」のたとえの中の「ラザロ」にあてはまると思います。次の箇所がそのことを物語っています。

「アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ』」(16・25)。

殉教者は、受けた迫害によって今は慰められています。まるで、今週の物語のラザロのようです。そこで、今週は188殉教者の中の有馬で殉教したディエゴ林田少年のエピソードを紹介して、神のもとで喜び楽しむために私たちは何が必要かを学ぶことに致しましょう。

今から読み上げる内容は、今年の2月4日から11日までの8日間に設けられた「殉教者を想い、ともに祈る週間」のために準備されたパンフレットの、第6日目の内容1613年10月7目、長崎の島原半島、有馬川の中州で、3家族8人が柱に縛られ、火あぶりにされて殉教しました。

有馬の教会には、信者たちの信仰生活を助けるために、「サンタマリアの組」、「ご聖体の組」、「ミゼリコルディアの組」などが組織されていました。1612年、有馬で迫害が始まると信者たちは城下町に新しい組、「殉教の組」を結成しました。これは殉教できるよう祈り、苦行をもって神のおん助けを求める信心会でした。

この大人の模範に倣って少年たちも「子どもの殉教の組」をつくり、大人に負けないほどの熱心さで祈り、苦行に励んでいました。12歳のディエゴ林田少年は、このとき、有馬の「子どもの殉教の組」のかしらでした。彼は、仲間とともに殉教の恵みを受けるために祈り、組の集まりでは皆を導き、ともに苦行に励んでいました。

殉教までの記録は、素朴なこころの少年が、精神的には立派な大人に成長していたことを伝えています。有馬の信者たちが殉教に立ち合おうと集まってきて、捕われた人びとをすでに殉教者としてその取次ぎを求めると、ディエゴ少年は、「死ぬ前にその名はふさわしくありません。でもその名前をいただくのはうれしいことです」と言いました。

そして、「まだまだ。まずオラショ(祈り)を頼みます」と、皆の祈りに支えられることを願ったのです。オルファネル神父はディエゴ少年のこのことばを日本語のまま記録しています。

ディエゴ少年のこれらのことばは、長崎の潜伏キリシタンが殉教の心得として伝えてきたことを思い起こさせます。「殉教とは死ぬこと、殉教は神からの恵みであること、人は皆弱いので、殉教のとき力を与えられるよう、普段からいつも祈りと苦行に努めること」などです。

処刑が、日之江城の前を流れて有明海に注ぐ有馬川の中州で行われることを知った信者たちは、ろうそくとロザリオをもって集まり、川の両岸で祈りながら見守っていました。

川を渡るとき、一人の役人が12歳のディエゴ少年を背負って渡ろうとしましたが、「歩かせてください。イエス様はカルワリオ山へ歩いて行かれました」と、それを断りました。十字架の苦難を経て栄光へと変えられる救いの神秘を、神様は幼い子どもに示しておられたのでしょうか。

殉教がイエスに導かれる至福への道であると、彼らは信じていました。パライソ(天国)でイエスとともに永遠の幸せが待っていることを教えられ疑うことなく信じていました。だから、イエスがなさったように、少年も歩くことを選びました。

父レオ林田助右衛門、母マルタ、姉マグダレナ、そしてディエゴ少年は、それぞれの柱に縛られ薪に火がつけられました。「聖少年ジャコベ(ディエゴ)の両手をくくった縄も焼かれた。火が襦袢や下ばきや髪の毛に移ると、イエスの官美な御名を唱えながら母のもとに駆け寄った。すると母が天を仰ぐようにいい、そこで少年は母の傍らで魂を創造主の御手に委ねた」と、殉教報告に記されています。

姉のマググレナは綱が焼け落ちるとひざまずき、足元の燃える薪を手にとって頭上にかざしました。こうして、燃え尽きることのない信仰と感謝のしるしを示すと、力尽きて静かに横たわったのです。

有馬の教会の最初のあかしは、神が信仰の神秘を「幼子のような者にお示しになった」ことを示して、それによって、教会がイエスとともに喜びにあふれて感謝することを教えています。

「金持ちとラザロ」のたとえに登場するラザロとディエゴ林田少年との違いは、殉教者である少年は迫害を受けているときにすでに神のもとでの慰めを確信して疑わなかったということです。私たちには188人の模範がすでに与えられています。必ず顔と顔を合わせてお会いする神のもとで慰めを受ける生き方を、私の生活のどの部分で積み上げていくのか、考えてみることにしましょう。

最後に、188殉教者についての最新の手引きがカトリック中央協議会から出ました。各家庭各世帯に1冊ずつお配りしますので、ぜひよく読んで、たとえこの世で良いものを受けなくても、神のもとで慰められる生き方のコツをこの本の中から見つけ出してほしいと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼体重76.0キロ、ウエスト85.5センチ、体脂肪率23.0で運動は止まっている。チェックシートというのを郵送したので5000円は確かに返ってきたが、毎日欠かさず運動するのは私にとっては海のことを考えずに1日過ごすことくらい難しい。比較がまず分からないか。
▼記者会見を見学して(最初は司会者に予定されていた)思ったことは、偉くなると大変だなぁということ。あのひな壇に並ぶところまで偉くならない方がいいなぁとしみじみ思った。記者会見そのものは50分くらいの出来事だったが、打ち合わせや準備を含めると1日がかりの大仕事である。そんな場所に飾られるのはご免こうむりたい。
▼最近「すぐ忘れる男、決して忘れない女」という本を手に入れた。忙しくてまだ読む暇がないが、このタイトルだけでも「そうそう」と思ってしまう。内容をざっと目を通した限りでは、そんな安易な中身ではないみたいだが。造りが違うから、意見も感じ方も違うというのはよく分かる。
▼話変わって絵手紙。30回くらいは絵を描いたかなと思うが、ひとまず100回目で区切りとします。何の脈絡もないのですが、その後は自分の向学心のために毎週英語学習書に掲載されている英文を暗記していくことにします。毎週1テーマずつ暗記できればいいですが、無理かも知れません。とにかく、覚えたことを紹介できるようにしていこうと思います。これって、厳密に言うと著作権の問題が発生するのかな?

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こうじ神父絵手紙
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第99回目。これは痛そうです。本人は掲載を嫌がっていましたが。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第27主日
(ルカ17:5-10)
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年間第25主日(ルカ16:1-13)永遠の価値あるものに一つひとつを結びつけよう

2007-09-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/09/23(No.318)
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年間第25主日
(ルカ16:1-13)
永遠の価値あるものに一つひとつを結びつけよう
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この世の富の一つ、株のことから入りたいと思います。アメリカがくしゃみすると、世界中が風邪を引くのでしょうか。ニュースを何気なく聞いていると、アメリカで住宅ローンが焦げ付いて株価が下がると、あっという間に世界中の株価が同時に下がって、世界中が影響を受けてしまいます。(おかげで私の持っている株もかなり下がってしまいました。ウソです。)

さて今日の福音朗読の中で、イエスは2つの形で「永遠のもの」を目指すように促します。1つめは、不正な管理人のたとえを話ながら、この世の富について、賢く利用しなさいと仰います。もちろん、賢くとは「神様の前で」賢いとほめられるような使い方をしなさいということです。

「不正にまみれた富で友達を作りなさい」(16・9)。イエスが例として示された、「神の前に賢い」使い方です。富を増やすとか、富を守ることに重きを置くよりも、手に入れた富で、友情とか、絆とか、信頼を築くことに心を向けるようにと仰います。人との豊かな出会い、かけがえのない絆を結ぶことに役立てるとき、富を神の前に賢く使っていることになるのです。この世のものを眺める「見方」について、貴重な勧めではないでしょうか。

あらためて考えてみると、やはりこの世で長く続くものは、人と人との出会いを通して築き上げられた信頼関係や絆だと思います。世界同時株安などのニュースで分かるように、「不正にまみれた富」と言われている、さまざまな資産・財産は、一瞬で消えてなくなるのです。

一瞬のものは、確かにその時は美しく、輝いています。今日、町民運動会ですが、運動会のあらゆる場面に、一瞬の輝きがちりばめられています。それを映像に収めて、長く保存することも可能でしょう。けれども、たとえ映像に収めても、昔を懐かしむことぐらいにしか役に立たないのです。

イエスは、一瞬の輝きではなく、永遠に続く輝きを失わないようにと私たちに注意を呼び覚ましているのです。イエスは私たちに、最後にこう呼びかけます。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(16・13)。私たちがしっかり見つめておかなければならないのは、一瞬のものではありません。永遠の輝きを見据えて、生活を組み立てて行くべきです。この世のもの、一瞬の輝きは、むしろ、この永遠の輝きに従わせる。この世の宝は、人と人との絆を結び、最後に永遠の命を得るために利用するのです。

2つめに、イエスのいましめは、小さな事の積み重ねが大きな結果につながるという形でも繰り返されています。朗読された箇所の10節と11節で次のように呼びかけています。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」「だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」。

これらは、限りあるものに忠実であれば、いつかは永遠のものを任せてもらえるといういましめです。この呼びかけを考えるためには、生活の中のうまくいかないことを例にすると分かりやすいと思います。

自分の生活に何かうまく行かないことがあって、それはもとをただせば小さな事の積み重ね、小さなことが複雑に絡んで起こっているということがあります。こんなとき、いちどに解決してしまおうともがくことはないでしょうか。あるいは、いちどにまとめて解決するまで、結局すべてを棚上げすることはないでしょうか。

何もかも一度に解決しようと思っても、そう簡単ではありません。一つずつ、できる小さなことをできること順に、忠実にこなすしかないのです。それが、ひいては大きな結果を成し遂げることになるのではないでしょうか。

そのさい、イエスは一つの規則に従うように注意を向けます。それは、1つめの結論に通じます。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」ということです。悪いことを数々しながら、良い人になろうというのは虫の良い話で、一つずつすべきことを果たして自分を造り上げ、この世でも、後の世でも唯一の主人である神に喜ばれるほうを選んでいくということです。

はじめに取り組むのは小さな事かも知れませんが、それでも忠実に神に喜ばれる方を選び続ける、この基本を守れば、私たちはできることから一つずつ解決し、この世のものから最後には永遠のものへと生活を向けていけるのだと思います。

神に褒められる生き方に、一瞬の輝きはないかも知れません。また、階段を何段もまとめて登るような急激な進歩もないかも知れません。けれども、永遠の、深みのある輝きを、神様はその人に与えてくださるのではないでしょうか。ごく小さな事に忠実な人は、やはりどこかに大きな事を成し遂げる可能性を感じさせるのではないでしょうか。

私は、一瞬のものばかりを追いかけていなかったでしょうか。一瞬のものに囲まれて生きてきたのではないでしょうか。あるいは目の前のことを見もせずに大きな夢だけを追いかけてなかったでしょうか。これまでの自分を振り返りながら、今週一週間を新たな気持ちで歩んでいきましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼こうじ神父は41歳なのだが、世の中で男性の41歳は厄年らしい。過ぎた週、かなりションボリする出来事があった。財布を落とし、盗まれたのである。今になって考えると、失わないで済むはずのお金だったと思うと悔しさがこみ上げてくる。
▼いきさつはこうだ。巡回教会のある高島のパソコンプリンターの調子が悪くなり、どうしてもメーカーに送っての修理が必要になった。その間代替機を送ってもらうことも可能だが、たまたまただでもらったプリンターがあったので、伊王島から持ち込んで使うことを思い付いた。
▼伊王島から、高島の司祭館に着くまでには、船で島と島を移動し、高島に着いたらバスに乗らなければならない。少額のお金が必要なので、財布をポケットに入れてプリンターを両手に抱えて船に乗った。バスは乗車するときにすぐ代金を払うので(どこまで乗っても100円)、船の中で100円を用意し、財布はポケットにしまったつもりだった。
▼プリンターを両手に抱えていたのがまずかったのだが、高島の司祭館ですべての用事を済ませて帰ろうとしたとき、財布がないことに気付いた。どうせまた、どこに置いたか分からなくなったのだろうと思い、お金がないので信徒に車で送ってもらい、何とか船に乗った。
▼夕方5時、長崎本土の「石橋交番」というところから、電話がかかってきた。「なかだこうじさんですか。財布が届けられています。現金は一切ありません。領収証やメンバーズカードだけが残っています。確認に来てもらえますか」。
▼お金はン万円。本来、プリンターを運んできて帰ってくるまでに必要なお金は、数百円。財布を持っていかず、小銭をポケットに入れておけば済んだのに、余計なことして失ってしまった。それにしても、海に捨てることもなく、道端に捨てるんだなぁ。それ以上に、ちゃんと拾ってくれる人も、まだまだいるんだなぁ。

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こうじ神父絵手紙
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第98回目。敬老会の様子をちらっと。

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‥次の説教は‥‥
年間第26主日
(ルカ16:19-31)
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年間第24主日(ルカ15:1-32)見失ったものは、最上の喜びであるイエス・キリストです

2007-09-16 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/09/16(No.317)
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年間第24主日
(ルカ15:1-32)
見失ったものは、最上の喜びであるイエス・キリストです
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私は、ようやく手に入れた物でさえもすぐに見失ってしまい、探した挙げ句にもう一度買い直すという情けない経験を何度かしています。その私が「見失った羊」「無くした銀貨」「放蕩息子」のたとえを語るのは本来ふさわしくないのです。

なぜ、「見失った1匹、1枚の銀貨、放蕩の限りを尽くした息子」が持ち主にとって、また息子の父親にとってそれほど大切なのでしょうか。兄からさんざんなじられたあの弟を、父親は縁を切るのではなく、ゆるして受け入れてくれるのはなぜなのでしょう。

それは、見失ったものがどれも、「神の独り子、イエス・キリスト」だからではないでしょうか。3つのたとえのうち先の2つのたとえの中で、悔い改める1人の罪人について大きな喜びが天にあると言います。ここで言う罪人は、まったく似ても似つかないように思えますが、「神の独り子、イエス・キリスト」なのではないでしょうか。

そのことをはっきり示すのが今日の3つめのたとえ「放蕩息子のたとえ」に出てくる「下の息子」です。この下の息子は、たとえとしては父親から分配してもらった財産を無駄遣いしてあわれな姿となり、父親の元に戻ってゆるしを願ったわけですが、これは、父なる神にゆるしを願う独り子イエス・キリストを象徴しているのです。

イエスは、神の独り子として与えられている誉れや美しい身なりや、神の子としての身分もすべてはぎ取られ、十字架の上にはりつけにされて、父なる神にゆるしを願うのです。それはまさに、財産をすべて失い、着る物もボロボロになって帰ってきた放蕩息子の姿なのです。

福音書の中には、放蕩息子と言える人物が何度も登場しています。なかには回心した人もいますが、十字架上で最後までイエスをののしった犯罪人は、人生のほとんどすべてを無駄にした人です。イエスを憎み、見せかけの裁判で十字架に追いやった宗教指導者たちも、イエスの三年間の宣教活動を完全に無にしようと躍起になったのです。たとえ、回心したいと思っていたとしても、イエスにゆるしを願った犯罪人も、イエスに出会わなかったら、回心もなかったかも知れません。

人からとんでもないと切り捨てられるような人生を送った人がもしかしたらいるかも知れません。たとえ、どんな人生を送った人でも、イエスはそれらの人を含む人類すべてのためにご自分の命を渡されました。父なる神が、いわば放蕩息子である人類のために独り子を遣わし、人類の一員となって、人類すべてのゆるしを願う「救いのいけにえ」となることを受け入れてくださったのです。

神の独り子はその身分と誉れを保ったまま、あわれな姿に落ちてしまった弟のもとまで降りていくことなく、たとえ話の長男のような態度で、人類に対して非難を浴びせることも可能だったかも知れません。けれども実際は、だれも助けの手を差し伸べなかった放蕩息子の立場にまで降りてくださり、父なる神にゆるしを願ったのです。

たとえ話に登場するものはすべて「イエス・キリストの投影」なのだと思いました。「見失った羊」「無くした銀貨」「放蕩息子」これらが、「大きな喜びが天にある」「祝宴を開いて楽しみ喜ぶ」となるからには、最上のものであるに違いありません。天で最上の喜びを与えるのは言うまでもなく、神の独り子と、「神の独り子に結ばれた人類すべて」であるはずだからです。


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ちょっとひとやすみ
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▼今月1ヶ月間利用し続ける典礼の備品に「毎日のミサ」という冊子がある。もうかれこれ17年ほど使い続けていると思うが、この冊子の表紙には毎月印象的な写真が使われている。ここ1~2年ほどは日本のあちこちの教会の写真を使っていると記憶している。
▼9月の「毎日のミサ」に使われている教会の写真は、ある意味ではほとんど知られていない教会だと思う。なぜかというと、この教会が建てられている施設は、国立療養所菊池恵楓園で、ハンセン病施設の中にある教会だからだ。
▼知られていない教会だが、意外にもこうじ神父は何度か足を運んでいる教会である。なぜかというと、自分が協力しているボランティア団体マリア文庫は、年に1度、桜の季節に菊池恵楓園に訪問しているからだ。
▼訪問は、ハンセン病で、なおかつ視力が失われている方々に会うためである。もはやハンセン病を発症する人はいないという理由もあり、ここに留まっている方々はかなりの高齢の方である。私たちの年に一度の訪問を、いつも心待ちにしてくれている。楽しみに待ってもらっていると心の底から感じることのできる訪問である。
▼この教会の写真を1ヶ月眺めながら毎日ミサを捧げるわけだが、今月のうちにいつか取り上げよう取り上げようと思っているうちに今日まで来てしまった。この写真を見るたびにイエスは全世界の人々にみことばを告げておられるのだとの思いが迫ってくる。

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こうじ神父絵手紙
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第97回目。国立療養所菊池恵楓園の写真が載った冊子「毎日のミサ」。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第25主日
(ルカ16:1-13)
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年間第23主日(ルカ14:25-33)十字架を担うことを避けないで

2007-09-09 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/09/09(No.316)
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年間第23主日
(ルカ14:25-33)
十字架を担うことを避けないで
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今日の福音朗読の中で、「もし・・ならば、わたしの弟子ではありえない」という言い回しが3回も出てきました。一つの話の中に、同じ言い回しを三回も繰り返すということは、大切な呼びかけがそこに含まれていると考えるべきです。また、ほかの方法はないよ、ほかの道はないよと強く念を押していることもこの言い回しから伝わってきます。

特に最初と二つ目は大切です。「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(14・26)この言い方と、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(14・27)ということが、ほとんど同じであるかのような扱いをされています。

ですが、皆さんの中には、先の二つの中身が、ほとんど同じことを言っているなんて、にわかには信じがたいと思われる方もおられるのではないでしょうか。イエスの弟子になるために、自分の十字架を背負ってついてくる。それはそれでいいでしょう。ですが、十字架を背負ってついてくることが実は、自分の父、母、妻、子供、兄弟姉妹を背負ってくることだよと言われても、それはちょっとねぇ、と思っておられるのではないでしょうか。

自分の父、母、妻、子供、兄弟姉妹を背負って生きていくことにためらいを感じるのには理由があります。私たちの身の回り、家族、親戚を見渡すと、ときおり、あの兄弟以外はいいんだけどなあとか、あの子供のことは親として頭が痛い、そんな現実にぶつかることがあるからではないでしょうか。

あまり認めたくないかも知れませんが、迷惑をかけているある人、または、人一倍苦労させられる人が、自分の家族や親戚の中に一人や二人はいるものです。家族、親戚を誇りに思っているけれども、それはあの人を除いての話、あの人がもう少ししっかりしていれば、そう思うときに、迷惑と感じる人が重荷に感じられるわけです。

関わりたくない、そう思うわけですが、それが現実なのですから逃げたくても逃げられません。そこでイエスは私たちに「あなたが重荷と感じているその兄弟を真っ先に認めてあげなさい。あの人がいなければではなくて、あの兄弟、あの姉妹が、まずはわたしが担っていく現実です、そう心に決めなさい」と、私たちに勧めておられるわけです。

それでも私たちにはこぼしたい気持ちもあるでしょう。「わたしはあの人にさんざん苦しめられました。できれば、あの人とは関わりたくないのです」と。イエスはどう考えておられるでしょうか?

イエスはどのように答えるでしょうか。もうすでに、今の私たちに答えを残してくださいました。「わたしは、あなたたち一人ひとりを、十字架上で担いました。二千年前に、あのゴルゴタの丘で、わたしはあなたたちを担ったのです。だから、あなたたちも、父、母、妻、子供、兄弟姉妹を、担ってあげてください。あなたたちはみな、わたしに担ってもらったのだから、わたしに倣いなさい。」

「わたしたちは、これまで、自分の十字架をちゃんと担ってきましたよ」そう思っていたかも知れません。けれども、身近なところ――それは家族や、親戚の中に――「あの人とは関わりたくない」という強い思いをもっているとしたら、それこそ、イエスの真の弟子になるための妨げとなっているものなのです。

イエスは、「憎まなければ」と仰ったのですが、それは、父、母、妻、子供、兄弟姉妹のことで、関わりたくないという独りよがりな思いを、憎みなさいと言っておられるわけです。この道しか、イエスの弟子となる道はないと言っているわけです。

これまで、目の上のたんこぶとか、厄介者扱いしていた人が、家族や兄弟、親戚の中に実際にいるかも知れません。もうすでに、その人から迷惑を受けて痛みや苦しみを感じているかも知れません。イエスはそういう人に真っ先に近寄ってくださり、「大丈夫、結果を担っていくことは恐くないよ、きっとできるよ、先にわたしが、あなたを担ってあげたからね」と、励ましてくださいます。

結果を恐れて目の前の十字架を避けようとしていたかも知れません。もしそうであれば、今の自分に打ち勝って、イエスがいっしょに担っておられることを思い起こしましょう。その人を、私に与えられた十字架として担っていく。イエスが私を、本当の弟子として迎えてくださるために必ず通らなければならない道だと心得て、正面から向き合っていくことにいたしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼9月4日火曜日、日帰りの東京出張。朝7時15分の飛行機に乗って、夕方4時5分の飛行機で帰った。何ともないと思っていたが、木曜日に疲れが出て、あくびがどうにも止まらなかった。あくびの出るような会議だったからではないのだが、東京は島に住むこうじ神父にとってはちょっと場違いな気がした。
▼会えないはずの人に何人か会った。本来休みが取れないことになっていた人が当日の午後休みになり、車で東京を案内してくれて、羽田まで送ってくれた。偶然昼からの時間に空きができたことにも、偶然では説明できない神さまの計画を感じた。それはもう一人の同級生神父との面会にも当てはまる。
▼この同級生神父とは福岡で4年間初期の養成段階で共に過ごした。優秀な学生だった。大学の通信教育を共に学んでいたが、自分はほとんどがC評定でギリギリ合格、彼はほとんどがA評定で楽々合格が多かった。東京でまず女子修道会に1人の修道女を訪ねに行ったら前日に休暇を取ったばかりだと言われ、お隣の男子修道院に同級生の神父がいることを聞いて10年ぶりの再会を果たした。
▼彼は前日まで黙想会で出張し、翌日からも黙想指導で出かける予定になっていて、間の1日でたまたまいたのだが、たまたまいたとは思えず、深い神の配慮を感じた。会うべき人には会える。自分自身の信念をここでも再確認することができた。彼は最近母上を亡くしており、その時に声をかけてあげることができなかったので、今回遅くなったけれども声をかけてあげることができてよかった。東京でのある意味思いがけない収穫だった。

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こうじ神父絵手紙
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第96回目。東京のカトリック新聞社での会議の模様。

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‥次の説教は‥‥
年間第24主日
(ルカ15:1-32)
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年間第22主日(ルカ14:1,7-14)神の国の宴で私を高めてくださる方

2007-09-02 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/09/02(No.315)
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年間第22主日
(ルカ14:1,7-14)
神の国の宴で私を高めてくださる方
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先週から賄いさんが巡礼旅行に行ってしまい、掃除、洗濯、料理、転勤してすぐの頃のように自分でしなければならなくなりました。巡礼先で坂田さんはいったいどうしているでしょうか。グループ行動にちゃんと遅れずについて行っているでしょうか。前の人の服をしっかり握って、離れずにくっついて移動しているでしょうか。もしそうだとしたら、ルルドの大聖堂も、バチカンの壮麗な聖堂も、何も目に入らずに帰ってくることになるかも知れません。

非常に良くできた賄いで、巡礼に行っている間に神父様がちゃんと食べることができるか、それが心配で出発の準備にも気持ちが入らないのですと言っておりました。「よかけん要らん心配はせんで、自分の心配だけしときなさい。わたしは坂田さんの巡礼中は、毎日海の上で暮らすけん、何も心配要らんよ」と言ったんですが、どうも心配だったようです。良くできた賄いです。

賄いがいない間に私は地元の人が「コウゴダイ」と呼んでいる魚を釣りました。全身キジハタの模様の鯛です。かなり大きくて、ビシヨマで手釣りをしていたものですから十分引きを楽しみました。仕掛けのスジを3号じゃなくて6号にしていて正解だったと思います。3号だったらやりとりに失敗して糸を切られていたかも知れません。かなり大きかったんです。お父さんたちの忠告を守ってスジを6号にして助かりました。ギーギー引きましたよ。

釣りは好調なのですが、陸に上がると頭のはげたカッパはもう手も足も出ません。洗濯物は増えるし、部屋は汚くなってくるし、台所の洗い物も減らないし、困っています。ふだんどんなに助けられているかということと、助けがなければ本当に無力だなぁと実感しています。洗濯物が消えてなくなる祈りって、祈祷書に載ってないのでしょうか?

さて、この無力感とか、非力感とかいった体験は、今日の福音を味わうために、役に立つかも知れません。人は、自分の力不足を受け入れるときに、だれかに手を貸してもらえる、助けてもらうことができます。イエスはそのあたりから私たちを案内しようとしています。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(14・11)。宴会に招待されたとき、末席に座ることで面目を保つたとえは、考えをもっと先へ進めるための導入であろうと考えています。自分は、そんな大それたものではない、謙虚に末席に座ろう。そういう心構えが、招待してくれた人に取り上げてもらえて、高められることになります。たとえの中では、人間同士のあいだでの賢い振る舞いについてでした。

ただ単に、人間同士での賢い振る舞いを教えるためにイエスはこのたとえを話したのでしょうか。そうではないでしょう。もっと高いところにイエスは私たちを案内しようとしているのではないでしょうか。それは、自分が謙虚になることで、謙虚な生き方を探し求めるすべての人を取り上げてくださる神に心を向けなさいということです。私たちは、謙虚な生き方で、人に取り上げてもらってそこで満足してしまうのではなくて、最終的には、神に取り上げてもらうことをこそ願うべきだ。そんな思いを、イエスはたとえの中に込めていたのではないでしょうか。

そう考えてみると、人間の力ってたかがしれてるなぁ、人間は無力だなあといった体験が私たちの中にあることは、素晴らしいことだと思います。人間の弱さ、無力さというへりくだるきっかけを持っていることで、人は神に心を向け、神に高めてもらう生き方を求めていけるようになるからです。

私たちは、キリスト信者として、本当に報いてくださるのは神だと信じているわけですが、そうであれば、神に報いてもらうことだけを、最終的には価値のあることとして考えるべきだと思います。人生のある時期には、だれかに「さあ、もっと高いところへ」と取り上げてもらうこともあるでしょう。けれども、そういう人間同士の「偉さ」というものを越えて、神様に高めてもらう生き方を、信仰者は探し求めるべきです。人間のあいだでの誉れに目がくらんで、神に高めてもらうことを探そうとしなくなったときから、私たちの生き方は神の前には意味がないのです。

たとえ話をもう少し踏み込んで考えてみましょう。このたとえは、婚宴に招かれた中での様子でしたが、私たちの人生全体を、イエスが招待してくれた婚宴と考えることもできるのではないでしょうか。与えられた人生を終えて、私にとってこの席がふさわしいと考えていったん座ってみると、招いてくれた人から「この方に席を譲ってください」(14・9)と言われるかも知れません。人生全体を通して、神への信仰をどれくらい形にしてきたかで、自分としては神への信仰を十分形にしたつもりでも、他の人に席を譲らなければならないということも考えられます。

反対に、生活の中で信仰を形に表してきた。その結果、私はこの席に座れるかなと思って座ってみたら、招いた人が来て、「さあ、もっと上席に進んでください」と言ってもらえるかも知れません。「あなたは、生活の中で信仰を十分に形に表してきました。もっと主の近くに来て、さらに親しく主と交わることのできる席に座ってください」。与えられた人生をどう生きるかで、私たちは上席を勧めてもらえるか、末席に退かなければならないか、変わってくるのではないでしょうか。

もう一つの当てはめ方も示しておきたいと思います。それは、たとえ話の婚宴は、毎週参加しているミサと考えることもできるということです。日曜日のミサの中で聖書が3箇所朗読されています。特に福音の朗読の中で、ある表現に注意を向けて、この呼びかけは私にとっていったいどういうことだろうかと、答えが出るまで黙想してみるのです。

例えば、今週の福音朗読の後半部分では、お返しのできない人々をもてなしてあげなさいと言っています。この招きを聞いて「はいそうですか」で終わるのではなくて、私にとってお返しのできない人とは、どんな人のことだろうか、それをじっくり考えてみることです。

考えた末に、あー、こういう人のことを言っているのかなぁと思ったら、ぜひその人々のために心のこもったもてなしをしてあげてください。そうすることで、私たちはいつか宴会の席で、イエスのたとえ話がもっとよく分かる席まで、イエスが福音書の中で言おうとしていたことがもっとよく分かる席まで、「さあ、もっと上席に進んでください」(14・10)と言ってもらえるのではないでしょうか。

私は、本当に報いをくださる方(高めてくださる方)は神であることを十分わきまえて、神に取り上げてもらう生き方を日々探し求めているでしょうか。そのような生き方に価値を見いだす者となれるように、今日のミサの中で、照らしを願うことにいたしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼先週の絵手紙「ざーま」は「すごく」という意味でした。さてカトリック中央協議会から呼び出しがかかり、急きょ東京行きが決まりました。8月31日(金)に招集がかかり、9月4日(火)出発。飛行機のチケットもほぼ正規の価格で申し込むことに。といっても向こう持ちなんだけどね。こういう旅行を何と言うのだろうか。
▼釣りだとエサの付け替えからかかった魚の取り外しまでしてもらうことを「大名釣り」と言ったりするが、「大名旅行」という表現があるのかしら。中央協議会に出向いたら、カトリック新聞社と話し合いの時間を持つと言っていたけれども、果たしてどうなることやら。
▼いやぁ、コロダイは大きかったねー。ものすごく引きの強い魚で、漁師が手釣りの時に使うビシヨマで指を切るケガもしましたが、それを差し引いてもお釣りが来るくらい引きを楽しませてもらいました。感じとしては・・・2キロのマダイを釣り上げた感じでしょうか。釣りをしない方々には伝わらないと思いますが、久しぶりに興奮する釣りでした。
▼猛暑が続いた夏、だれも釣りに出ない日中に一人釣りに出て、今年はクラブ活動を何度か楽しませてもらいました。仕事に終わりはありませんので、行けるときに釣りに行く。季候が良くなってからでは、忙しくて釣りに行けなくなるかも知れません。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(2テモテ4・2)。折が良くても悪くても、私は釣りに行きます。

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こうじ神父絵手紙
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第95回目。8月19日、今年の大漁祈願祭を予定の合間をぬっておこないました。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第23主日
(ルカ14:25-33)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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