こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第30主日(マルコ10:46-52)イエスは立ち止まり、わたしを呼んでくださる

2009-10-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/10/25(No.441)
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年間第30主日(マルコ10:46-52)イエスは立ち止まり、わたしを呼んでくださる
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わたしは大波止に少し早く着いた時に、椅子に座って周りの人を見渡すことがあります。癖なのかも知れません。周りの人を見渡して、興味深い人を見つけると、知っている人か、知らない人かは関係なく、次のようなことを思い巡らします。「あの人は、今、どんなことを考えているのだろうか。」時間があると、よくこんなことを考えています。

わたしが興味を持って、「今この人は何を考えているだろうか」と推理する人はいろいろです。人生の晩年にさしかかっている人、わたしよりもはるかに若い人、わたしと同世代かなぁと思える人、男性女性、いろんな人に興味関心を持って、言わば観察しているわけです。おそらくこんなことかなぁと見当のつく人々もいますが、中にはどうしても見当つかない人々がいます。

具体的に何がどう分からないかと言うと、ある人々は、座っていてほとんど動きません。全く動かないので、考えていることを予想するきっかけがありません。何かを見ているようなのですが、何を見ているのか分かりません。どうやら、目の前のものを見ているわけではないようです。そこでひとまずこう考えました。「あの人については、何を考えているのかは分からない。」

けれども、何も分からないというのも悔しいので、なぜ皆目見当がつかないのかを次に考えることにしました。そこで1つのことに思い当たったのです。それは、「その人の考えそうな場所に、一緒に立ってみる必要がある」ということでした。

たとえば、わたしが興味深いなぁと思った人が、わたしよりも早くから大波止ターミナルに座っていたとします。おそらく、その人が座りに来た時間に座って、立ち上がるまでそこにいなければ、その人のことは何も分からないかも知れません。ちらっと見ただけでは、早くから座り、そこで時間を使っている人の気持ちにはなれないということです。

反対に、大波止ターミナルに長く座っていない人の考えていることは、いろいろ考えつきます。その人のしぐさや、待っている様子を観察していると、あー、今こんな気持ちでここに座っているんだなぁと、何となく分かるわけです。対照的に、大波止ターミナルに30分も前から座って船を待っている人の気持ちは全く分かりませんので、30分前から一緒に座って研究する価値があると思いました。

さて、福音に入りたいと思います。目の不自由な人が登場します。イエスは弟子たちや大勢の群衆と一緒にエリコを出て行こうとしていました。ティマイの子バルティマイとイエスとは、エリコを出て行けば、この先2度と、会うことはないかも知れません。イエスでなければ、深い深い悩みを取り除いてはもらえないと直感した彼は、大声で叫びます。

わたしは、イエスのちょっとした動作に興味を持ちました。「イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた。」(10・49)という部分です。イエスが立ち止まったということに、特別な興味と関心を持ちました。目の不自由なバルティマイが「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(47節)とどれだけ叫んでも、多くの人々は叱りつけて黙らせようとはしましたが、立ち止まることはなかったのです。

弟子たちおよび群衆と、イエスとの違いを見逃さないようにしましょう。弟子たちと群衆は、立ち止まらなかったのです。ところが、イエスは立ち止まり、「あの男を呼んで来なさい」と仰ったのです。イエスは立ち止まることで、目の不自由なバルティマイと同じ場所に立ち、バルティマイの深い深い悩みを、理解しようとしたのです。イエスだけが、「あの大声で叫んでいる人は、今何を思っているのかなぁ」と考えてくださったということです。

誰も立ち止まらずに、バルティマイを叱りつけて黙らせ、立ち去る危険性もありました。皆、イエスについて行くので精一杯だったのです。イエスに遅れたら、自分たちは今の時代に取り残される。イエスという流行の最先端に取り残されてしまう。乱暴な言い方かも知れませんが、そういう人々が群がっていたのです。

ところがイエスが立ち止まったことで、すべてが一変します。皆が立ち止まらざるを得なくなりました。イエスが先に行かないのですから、イエスとともに立ち止まらざるを得ません。なぜ目の不自由な人1人のために足を止めるのか理解できていませんが、すべての人の目がイエスとバルティマイに注がれます。

バルティマイは、イエスが立ち止まってくださったことを誰よりも早く気づいたはずです。皆、イエスにくっついて動いている人々ですから、イエスが立ち止まったことで、全員が立ち止まり、自分に目が向いていることが手に取るように分かったのです。この時点でバルティマイにはイエスが見えていなかったわけですが、イエスの存在は手に取るように分かっていました。

誰も立ち止まらなかった中で立ち止まってくださったイエスは、目の不自由なバルティマイと顔と顔を合わせて話します。「何をして欲しいのか。」(51節)こんなことを言っていいか、確信はありませんが、バルティマイはイエスの「何をして欲しいのか」という声を聞いただけで満足だったのではないでしょうか。あとの結果がどうであれ、バルティマイは十分満たされていたのではないでしょうか。

なぜかと言うと、イエスは自分のために立ち止まってくださったからです。日頃バルティマイは、誰かが立ち止まり、憐れんでくれなければ生きていけない存在だということをいやというほど思い知らされていました。今日もイエスと、イエスを取り巻く群衆が通り過ぎました。通り過ぎて終わる危険もありました。その心配を覆して、イエスは立ち止まり、心を配ってくださったのです。

バルティマイは誰にも言ったことのない願いを打ち明けます。「先生、目が見えるようになりたいのです」(51節)。誰にも言ったことがなかったはずです。これまで出会った誰も、目が見えるようにはできないからです。憐れんでくれることはできても、憐れみを受ける状態から解放し、自由にすることはできないからです。

この、生まれて初めて打ち明けた願いに、イエスは応えてくださいました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(52節)ここにもすばらしいやりとりがあります。マルコ福音書によれば、イエスは「よろしい。見えるようになりなさい」とは言ってないのです。バルティマイが、自分の不自由な目をいやしてくださるのはイエスしかいないと信じていたこと、ここに彼の深い信仰を読み取って、「あなたの信仰があなたを救った」と、宣言してくださったのです。

最後の最後、今日の福音朗読箇所の結びも、今年あらためて読み返すと感動的だなぁと思いました。「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(52節)家に帰ったわけでもなく、自分の行きたいところに自由に出かけることにしたのでもなく、なお道を進まれるイエスに従ったというのです。

イエスが先を急いでいる道とはどのような道でしょうか。それは、エルサレムへの道です。3度、ご自分の死と復活を予告なさった運命の場所です。その道に、バルティマイは従ったというのです。それはつまり、バルティマイがこれから残りの人生を使って、わたしを救ってくださったイエスを知るために、同じ場所に立ちたいと決意したということなのです。

今日の説教の最初に言いましたが、誰かのことをより深く知ろうとするためには、その人の立つ場所に立たなければなりません。かなり早くから大波止に来る人を知るためには、それと同じくらい早くから大波止で待ってみる。バルティマイを知るためには、バルティマイの立っている場所に足を止める。そして、イエスがどんな方かを知るためには、イエスが最期を遂げるエルサレムに、一緒に立つ必要があるのです。

バルティマイの行動は、わたしたちにも考えるきっかけを与えてくれます。わたしたちはイエスへの信仰を確かに持っていますが、わたしにとってイエスはどんなに大切なお方であるか、それほど突き詰めては考えてないかも知れません。つまり、イエスが立っている場所まで行って、わたしのことをイエスはどれほど大切に思ってくださっているか、確かめるまでは動いていないのです。

わたしたちは自分の置かれた生活の場所があります。それぞれ、違った生活の場所です。しばしばわたしたちは、この自分の置かれた場所からイエスを見つめているのです。イエスが先を急いでいても、イエスが「わたしはエルサレムに行く」と言っても、その場所まで行きますとは言わずに、自分の生活の場所から眺めるだけで終わっているのです。

これは問題です。あの人は何を今考えているだろうか。とことん知ろうとするならついて行くはずです。同じように、わたしたちはイエスがわたしたちをどれほど愛してくださっているのか本当に知りたければ、イエスが行かれる場所に従うべきではないでしょうか。

ミサの中で、次のような言葉があります。「主よ、あなたは永遠の命の糧。あなたを置いて誰の所に行きましょう。」これは聖体拝領の前の信仰告白です。足を止めて、救いを求める人の心に寄り添ったイエスをもっともっと深く知るために、聖体拝領前のこの信仰告白を思い出しながら、イエスに従う決意を新たにいたしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼老化の話。わたしにとっての「老化」は、白髪が生えること。髪を見る限り、それほど白髪が生えていないので(もともと髪も生えていないが)、おーこれは、まだまだ年取ってないなぁと高をくくっていた。
▼そんな時、鼻の穴を指でいじっていて、ながーい毛が指に触れたので、抜いてしまうかと軽い気持ちで抜いてみた。おー、どうしてこんなに長いままでとどまっているのだろうか。2センチはありそうな毛が、ぶちっと音を立てて抜けた。
▼それで終わればいいのに、もう抜ける毛はないかなぁと言いつついじっていたら、何と白い毛が抜けたではないか。鼻毛で白い毛・・・もしや、これは白髪ではないのか?鼻の穴の奥では、確実に老化が始まっているということなのか?
▼詳しいことは知らないが、明らかにこれは白髪である。うーん、認めたくないけれども確実に老化だ。ごま塩のもみあげみたいに、鼻の中がなっているのかも知れない。そう思って鏡を取り出し、鼻を思いっきり開いて覗いてみたら・・・
▼ああっ!鼻の中に白いものが!そうかぁ。老化が忍び寄ってきていたんだなぁ。それを認めようとしないなんて、自然に逆らっているよなぁ。素直に白髪もハゲも認めて、これからの人生を風を切って生きていこうじゃないか。
▼朝晩は寒いだの、日中はまだ紫外線がきついだのと言って、250ccのバイクに乗っていないけど、そろそろ冬に向けて走り込んでおこう。今からバイクに乗るのは、冬にバッテリー上がりを起こさないためであって、バイクに入れ込むためではない。あくまでバイクが死なないためだ。

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新企画今週の1枚
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第48回目。時間が経ちましたが、レデンプトリスチン長崎修道院で。祝賀会。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
諸聖人
(マタイ5:1-12a)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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年間第29主日(マルコ10:35-45)報いとは関係なく、困難を受けて立つ

2009-10-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/10/18(No.440)
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年間第29主日
(マルコ10:35-45)
報いとは関係なく、困難を受けて立つ
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今週の福音朗読は、ヤコブとヨハネが自分たちの栄誉になるような約束を取り付けようとする場面から始まっています。前後の流れを確認すると、イエスは十二人の弟子を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話した後に、今日の出来事が続いています。

イエスは自分の身に起こる出来事をはっきりお話しになりました。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」(10・33-34)

この時、イエスの死と復活の予告はすでに三度目になっていました。ですから、十二人の弟子たちは、これはもう苦難は避けられないということを理解していたはずです。どの程度理解していたかは別として、これは師匠であるイエスが苦しんで死ぬことになれば、わたしたちにも影響が及ぶのは必至だなとうすうす感じていたと思われます。

そんな中で、ヤコブとヨハネがイエスに約束を取り付けようとしているのです。何となくの保証が欲しかったのではなく、想像を絶するような苦しみが避けられないのだったら、そのあとの栄誉ぐらいはなければやってられない。そういう気持ちだったかも知れません。

しかも、イエスはご自身の苦しみと死のあとに、復活が用意されていることをはっきり言っています。復活がどんなすばらしい出来事か分からなくても、イエスさまも苦しみの後に輝かしい報いがあるのだから、後に続くわたしたちも苦しみのあとの報いを約束してもらおうではないか。だいたいこういったところがヤコブとヨハネの願いの根拠だったのでしょう。

2人の願いに、イエスはご自分の右に座る栄誉、左に座る栄誉を約束しませんでした。約束しなかったわけは2つあるでしょう。1つは、ご自分の復活の出来事は、苦しみの報いではないからです。もう1つは、苦しみは報いがなければ無意味なのではなくて、苦しみそのものに意味があることを知らせたかったからです。

それぞれ、考えてみましょう。まず、イエスは死んで、そののちに復活するお方です。どのような死に方をしたにせよ、イエスは復活するお方です。死に勝利して、永遠の命を持っておられることを宣言するお方だからです。ですからイエスの復活は、苦しんだことの報いではないのです。苦しみは、苦しみそのものに意味と価値を見いだす必要があります。

次に、弟子たちは報いがあるのは当然だと考えています。苦しんだだけで終わるというのは、損をしていると考えているのかも知れません。自分たちにも苦しみが及びそうな予感がしています。苦しんだだけで終わりなのだろうか。師匠であるイエスのために苦しみを受けるのだから、イエスからその報いを受けても悪くないではないか。そう考えての行動だったのかも知れません。

けれども、イエスは右と左の席を約束しませんでした。約束がなかったことで、苦しみは報いとは直接結びつかないのだということが分かってきました。イエスは問いかけます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」(38節)苦しみを苦しみとして、そのまま受け入れることができるか。イエスは知りたかったのです。

ヤコブとヨハネは、「できます」と答えました。これはイエスが期待していた通りの返事ではありません。ヤコブとヨハネは、右と左の席という報いを約束してもらいたかったので、「できません」とは言えなかったのです。引くに引けなくて、「できます」と言ったと考えた方がよいでしょう。

それは例えて言えば、弟子をいっさい取ろうとしない先生に弟子入りしたくて、「どんなことでもやります」と言っているようなものです。その人は、弟子になれるという報いを当てにして、「どんなことでもやります」と言っているだけなのです。報いとは無関係に、どんなことでもやりますと答えているわけではないのです。

ヤコブとヨハネもそうでした。自分たちも何かしら栄誉を受ける当てがあれば、いくらでも苦しみを受け入れよう。報いのない苦しみは、考えられなかったのです。ごく最近あったことですが、中学生にこんなことを聞いたことがありました。「なぁ。神父さんの説教、聞いていて分かるね?」その中学生はすぐにこう答えました。「いちおう分かりますよ。難しいときもありますけどね。ちゃんと聞いてますから、安心してください。」

涙が出るほど嬉しかったですね。嬉しかったんですが、中学生に、その子は大波止ターミナルで英語の課題をこなしていたのですが、自分の説教のことがついつい心配になって聞くところが、自分で修行が足りないなぁと思ったのです。中学生からの良い返事が聞きたい。そういう報いをちょっぴりだけど当てにしているわけです。

やはり、報いを横に置いて困難に立ち向かおうとしないのが、人間の正直な姿かも知れません。今日は世界宣教の日に当たっていますが、報いを横に置いて、報いのことなどいっさい気にせず、宣教に目を向ける人になりたいと思います。わたしたちキリスト者がいるその場所が、宣教の場所です。

わたしが何かをしたからって、何も変わらないかも知れません。何も変わらなくても、宣教しましょう。報いを気にしないで、報われないことを恐れないで、困難に立ち向かう力と勇気を、イエスに願いたいと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼「ダミアン神父」という本を買った。実は持っている本なのだが、恐らく本棚から見つけ出すのは砂漠で落とした10円玉を拾うようなものなので、お金で解決しようという魂胆である。かつての中央出版社から昭和55年第5刷発行、著者は小田部胤明氏。
▼昭和55年(1980年)の書籍を一般の書店で探すのは難しい。かといって今回の30年ぶりに再会する本をパウロ書院に探しに行くのは、「え~、持ってなかったのですか」と誤解されそうで面倒。ということで、古書店に並んでいないか、ネットの古書店検索で探してみた。
▼今は便利な時代で、古書店を歩かなくてもいろんな本が手に入る。今回、2つの書店が提供できるとあり、早速そのうちの1店舗に注文をかけた。先週火曜日時点で確認したところ、同じ本は検索でヒットしなかったが、「ダミアン神父帰天百周年記念誌」(発行・イエズス・マリアの聖心会)という本が1件ヒットして、それはそれでギョッとした。
▼楽しみにしていた本が3日ほどで届いた。懐かしい~というのが第1印象だったが、本をざっと調べると、いろいろこの本のたどった運命につながる形跡が残されていた。まず、この本はカトリック教会図書の蔵書で、しっかり教会印が押されていた。さらに貸し出ししていた本だったようで、貸し出しカード入れがはがされていた。
▼「図書から売りに出されたんだなぁ。自分のところによく来てくれたね。」そう思って本を机に横倒しに置いた瞬間だった。本の底面に、「佐藤○○○」というハンコが押してあるではないか。書店というものは、こういった印鑑や名前などを、手をかけずにそのままにしておくのだなぁと、多少驚いたのだった。
▼執念深いわたしは、ではカトリック○○教会から、売りに出ていた○○書店まで、地図でどれくらいの距離があるのかを調べてみた。1.7キロ、徒歩で30分といったところか。ということは、わりと近い場所で売りに出されたのだと分かる。
▼もし○○書店に行って、○○教会の図書だなぁという本を見つけたとしたら、わたしだったらあまりおもしろくないだろうと思う。本を売った人はどう思うか知らないが、もうちょっと遠くで売ってほしい。さらに言うと教会印とか、本人が推理できるハンコとか、そういうものはサンドペーパーで少し隠してくれよと言いたい。わたしはこれからサンドペーパーをかけるつもりでいる。

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新企画今週の1枚
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第47回目。10月17日、教区司教は横瀬浦のとある区画を、「巡礼地」としました。

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‥次の説教は‥‥
年間第30主日
(マルコ10:46-52)
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年間第28主日(マルコ10:17-30)手放したくないものを手放してイエスに従う

2009-10-11 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/10/11(No.439)
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年間第28主日
(マルコ10:17-30)
手放したくないものを手放してイエスに従う
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今週の福音朗読箇所は、皆さんもよく知っている箇所ではないかなぁと思います。ある人が「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(17節)と尋ねる場面から始まり、その人がどんな結末を迎えるかも、よく記憶しているはずです。

ただ、十分知っている場面であっても、味わってみる部分は残されています。たとえば、わたしたちは、イエスに永遠の命について尋ねた人が、「たくさんの財産を持っていた」(22節)ことを知っています。

ところが、この人が金持ちであったことは、最後の最後に明らかになった事実です。つまり、前もって、「金持ちの人の質問だ」と決めてかからないほうがよいということです。彼は「何をすればよいでしょうか」と尋ね、イエスが十戒を示したとき、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(20節)と答えています。

金持ちであるかどうかが、前置きになっていないと分かれば、この人の質問は実はわたしたちの質問なのだと考えることもできます。わたしたちもイエスに、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねたいし、その答えを聞きたいのです。

物語に登場する人の答えに、注目ましょう。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」彼は、あと一言、何かを言いたいのではないでしょうか。「そうなんだぁー。十戒を守っていればよいのですね。だったら安心です。」そんな意味でしょうか。

そうではないはずです。彼はイエスの答えを聞いても依然として不安なのです。なぜなら、彼にとって十戒を守ることは当然のことであって、そのレベルであれば、ここに居合わせている皆が、永遠の命にたどり着けるわけです。

同じ場面が、マタイ福音書にも収められています。第19章ですが、そこではこれまでの返事に、あと一言、付け加えられています。「まだ何か欠けているでしょうか。」(マタイ19・20)これは考えるヒントになるはずです。

「まだ何か欠けているでしょうか。」この通りに彼が言ったかどうかは分かりません。もしかしたらマタイの追加かも知れません。それはともかく、あと一言付け加えたかったに違いないという考えは、マタイ福音書から十分伺えます。

彼は特別でありたかったのでしょう。あとで分かるように、たくさんの財産を持っていましたから、周りの人には決してできない大きな依頼をイエスから託されてそれを成し遂げ、うらやましがられて永遠の命を受け継ぐ者と認められたかったのかも知れません。

あるいは、どんなにあら探しをしても塵一つ見つからない。それほど十戒を忠実に守っていることを、人々の前で讃えてもらいたかったのかも知れません。いずれにしても、イエスはこの人が期待していることに反応しませんでした。代わりに、この人が期待していないことを求めます。イエスはこの人に、いちばん手放したくないものを手放すようにと求めたのです。

わたしはあえて、「いちばん手放したくないもの」と言ったのですが、それにはわけがあります。この物語で登場した人は、たまたまたくさんの財産を持っている人でした。そのためイエスは、「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(21節)と求めました。

条件が変われば、イエスの求めるものは変わってくるのではないでしょうか。旧約聖書を思い出しましょう。神はアブラハムに、イサクをいけにえとしてささげなさいと命令しました(創世記22章)。

アブラハムもきっと、たくさんの財産を持っていたことでしょう。けれども神は、財産には目もくれず、愛する一人息子をささげるように要求したのです。もちろん、イサクはアブラハムにとって「いちばん手放したくないもの」です。

また、列王記の中に、ソロモンの知恵を示す物語として、自分たちの間を裁いてほしいとやって来た2人の女性の話があります。同じ家に住んでいた2人の女性が時期を同じくしてお産をしましたが、一方の母親が眠っている間にうっかり自分の赤ん坊に寄りかかり過ぎて赤ん坊を死なせてしまいました。

母親は赤ん坊を取り替えて、生きている赤ん坊を自分のものにしようとたくらみます。当然、本物の母親が黙っているはずがなく、訴えに出たのです。そのとき、ソロモンが試しに「生きている子を2つに引き裂き、1人に半分を、もう1人に他の半分を与えよ。」(1列3・25)と命じたのです。

赤ん坊をまんまと取り替えようとしていた母親は、それがいいと主張したのですが、生きている子の実の母親が、その子を哀れに思うあまり、「王さま、お願いです。この子を生かしたままこの人にあげてください。この子を絶対に殺さないでください」と言ったのです。ソロモンはすぐに、どちらが生きているこの実の母親かを宣言しました。

列王記のこの物語では、実の母親はわが子の「命」こそが、「いちばん手放したくないもの」でした。体が引き裂かれてしまえば、その子の命は消えてしまいます。そのため、泥棒と呼びたいほどの女性にわが子を託すことさえも辞さなかったのです。人によって、「いちばん手放したくないもの」は、それぞれ違ってくるのではないでしょうか。

そこで、わたしたちに当てはめて、今日の福音朗読箇所を考えてみましょう。いったい、わたしたちにとって、「いちばん手放したくないもの」とは何なのでしょうか。

名誉・名声を手放したくない。それを守るためなら、人をけ落としても構わない。そういう人もいるでしょう。人からどんなに笑われても、自分を見放さなかった親友を選ぶという人もいるでしょう。何か、自分だけの「いちばん手放したくないもの」があるのではないでしょうか。

先週月曜日から水曜日にかけて、教区の広報委員が全国から集まる年に1度の研修会に参加してきました。わたしは一人の人に会い、話を聞いて大変感銘を受けました。その人は、それまで積み上げてきたものをすべて失い、いちばん手放したくないものを手放さなければならなくなりました。

当たり前のことですが、「いちばん手放したくないもの」は手放したくないのです。けれどもその人は、いったん手放し、まったくの身一つになって、そこから新たに出発することを選びました。その、大切なものを手放し、一からやり直して今に至っている話を聞かせてもらい、偉いなぁと思ったのです。心が洗われました。

もし仮に、いちばん手放したくないものを手放したとき、わたしたちには何が残るのでしょうか。きっと、何も残らないのだと思います。けれども、何も残らないはずの、その人の「すべて」を満たしてくださる方がおられるのです。過去も未来も失ったその人に、「今から、わたしに従いなさい」と言って、未来を用意してくださる方が、おられるのです。言うまでもありませんが、イエス・キリストだけが、それを可能にするお方です。

わたしたちは、このイエス・キリストを信じて生きていきましょう。たくさんの財産を持っていた人は、過去も未来も失うことになると恐れ、立ち去ってしまいました。

わたしたちは、イエスを信じたいと思います。「いちばん手放したくないもの」を手放して、希望を失ってもなお、イエスはわたしに未来を約束してくださるお方なのです。


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ちょっとひとやすみ
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▼広報担当者研修会に絡んで3つの話題を提供しようと思う。もちろん1つは広報担当者会議。初日の発表は、長崎教区が列福式を通して一般報道と協力した体験、また一般報道と協力してどのようにカトリック教会をアピールしていくか、そういうことについての発表だった。
▼長崎教区の広報委員会には優秀な事務方がいて、わたしは優秀な事務方が用意したペーパーを、みっちりレクチャーを受けた上で発表したわけである。よくまとめられた資料のおかげで、長崎教区広報委員会の委員長として恥をかかずにすんだ。本当に頭の下がる思いである。あまり頭を下げすぎると周りに乱反射するので30度くらいしか頭は下げないが。
▼2つめは、掲示板などでよくコメントをしてくれるA氏と、ほかに東京でしか会えないと思われるB氏、C氏に半年ぶりに会った。A氏とは月曜日の夜、広報担当者との2次会をすっぽかして丸ビルのどこかに行って、ドイツビールとドイツの料理を味わった。
▼ペースが速かったのか、ビールは500mlの2杯目で体調がおかしくなり、やむなくA氏に事情を言って1時間半くらいで夜の町をあとにした。月曜日は朝5時45分から発表のことでストレスがかかってしまい、胃に影響があったのかも知れない。A氏には申し訳なかった。
▼B氏とC氏とは、帰りの便を待ちながら空港で会話を楽しんだ。途中、「中央協議会もいつかは異動があるわけで、そんなとき指名されたらどうするのですか」と、いちばん触れたくない話にもおしゃべりは飛び火した。「田舎司祭」を貫いている自分が、そんな中央だなんて、と思う一方で、同級生が9年も中央に出向していることを思うと、痛し痒しである。
▼3つめ。「全速力で走る東京」を飛行機で離れ、大村空港に降り立った。目の前の高速バスに乗ることができず、次の高速バスを待って広報委員3人が乗り込み、一路長崎市へ。何の気なしに運転手の名札に目を遣ると、「山口○○」とある。「不思議なものだなぁ。毎年年賀状が届く山口さんと同姓同名だ。」そう思ったものの、運転中に声を掛けるわけにもいかず、終点で思い切って尋ねてみた。
▼「山口○○さん、あなたは浦上教会で結婚しませんでしたか?」「そうですけど」「奥さんの名前、由美さんと言いませんか?」「どうして知ってるんですか?」「だって結婚式してあげたのはわたしだよ。」「えぇー!うゎー懐かしい。ご無沙汰してます。」そんなこんなで、15年前に結婚式を受け持った男性と、思いがけず再会したのでした。

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新企画今週の1枚
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第46回目。ドイツビールと、すね肉料理。食べ過ぎ飲み過ぎちゃいました(爆)

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第29主日
(マルコ10:35-45)
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年間第27主日(マルコ10:2-16)神が結び合わせてくださったものを守る

2009-10-04 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/10/04(No.438)
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年間第27主日
(マルコ10:2-16)
神が結び合わせてくださったものを守る
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わたしは浦上教会時代に、悔やんでも悔やみきれない失敗をしたことが2つ3つありまして、そのことは今もずっと思い出しますし、わたしが記憶を失うまで、決して忘れないだろうと思います。

今日の福音朗読を考えるきっかけとして、そのうちの1つを、話せる範囲で、告白したいと思います。ある親子が、司祭館に相談に来ていました。たまたまわたしが玄関に出て応対しました。

話を聞いて、それは教会法をわたしが理解している範囲で考えると、ゆるされないこと、許可できないことですと伝えました。その方は、表情をこわばらせました。その場面に、たまたま主任神父さまが出くわしました。「どうしたのかね」と尋ねられましたので、これこれの状態にあって、お願いに来ていることをかなえてもらえるだろうかと言っていますとわたしは伝えました。

すると、主任神父さまが直接、親子の相談に乗ってくださり、「うん、話は今、助任神父から聞いて分かった。その上で今から聞くことに答えてくれんね。こういう予定はあるね、予定はないね」「ありません」「じゃあ問題ない。希望通りにできるよ。」

「じゃあ問題ないよ。」その言葉を聞いたとき、親子は一度に悩みから解放されたのでしょう、こらえていたものがこみ上げて、涙を流しました。玄関に立ったまま、ハラハラ涙を流したのです。

今思い出しますと、主任神父さまのような経験も場面に応じた適切な判断もできず、教会法という法律だけを物差しにしてその人に判決を下していたわけです。あのときから15年以上が経過していますが、同じような場面が何度か巡ってきました。

そして今は、わたしも当時の主任神父さまのように、その人の置かれている事情を総合して、可能な方法を伝えることができるようになりました。できない理由を並べるのではなく、あなたがこうしてくれたら、できるようになりますと言えるようになったのです。

当時のことを思い出すと、今でも申し訳ない気持ちで一杯です。相談に来ているだけでも辛い思いだったでしょうに、わたしはその人のこわばった表情を和らげることすらできませんでした。

もし、あの場面に主任神父さまが出くわしていなかったら、わたしは主任神父さまに相談することなく、おいでになった人をそのまま帰していたかも知れません。「うんうん、大丈夫。心配要らないよ。」と声を掛けられて涙を流していた場面は、今でもはっきり焼き付いています。わたしの理解不足で、目の前にいる親子を神さまから引き離してしまうところでした。

わたしの過去の告白は、今週の福音朗読の一節と結びついています。「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(10・9)実際の朗読箇所では、結婚についてファリサイ派の人々に答えたみことばです。神のご意志として用意された結婚の恵みを、人間が壊してはいけないということです。

わたしは、このイエスのみことばを、もっといろんな状況に当てはめて考えてみました。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」つまり、神がお望みになっていることを、人間が壊してはいけないということです。

神がお望みになっていることは、今週の福音朗読にあるような結婚生活のことだけではありません。人と人とのあらゆる関わりの中に、神がお望みになっていることがあるわけです。それを、神が望んでいることなんて、そんなの意味がないとか、そんなの古くさいとか言って、人間が壊してはいけないと言いたいのです。

わたしは全体を見渡すヒントとして、十戒を思い描いたらよいのではないかと思います。あの中に示されている掟は、どれも神が人と結んでくださった掟です。神が、人のことを思って結び合わせてくださったものです。

それを、人は離してはいけない、つまり、掟なんて気にしていたら何もできないぞとか、そんなの今の時代に意味がないとか言って、神と結び合わせるための大切な掟を、人から引き離してしまう。その絆を壊してしまう。生活の全般にわたって、人を神から引き離すようなことはしてはいけないと、要求しているのだと思うのです。

そう考えてくると、わたしたちは日頃、いろんな場面で、神が結び合わせてくださったものを、人間の都合で引き離しているのだなぁと気づくことが出てきます。教区が決定したことなのでどうこう言える筋合いではないのですが、司祭の叙階式、ここ数年で毎年のようにコロコロ変わっています。

わたしは信徒発見の日に司祭に叙階されましたが、わたしよりも上の先輩たちは、多くが聖ヨセフの祝日に叙階されているはずです。わたしも小さい頃、叙階式は3月19日にあるものだと暗記して理解していました。

それが、やれ日曜日にした方が集まりやすいだの、やれ日本の祝日に合わせたほうが子どもたちも叙階式をその目で見ることができるだの、いろんな理由が付いてここ数年は決定したことがくるくる変わっているのです。

もう1つ言わせてもらうと、26聖人の殉教記念ミサですが、最近日曜日に変更になりました。叙階式は、その年によって実施する日がくるくる変わってもその年に2度行うことはありませんが、26聖人のミサを日曜日にしても、結局は2月5日にもう一度祝うわけです。西坂の26聖人記念館で実際にそのようなことが起こっています。

この状況は、わたしの中で「教区が決めたことだから仕方がない」という理解で無理矢理受け止めていますが、26聖人を、神が2月5日に結び合わせてくださったのですから、それを人が引き離してしまうのは、どういうものかなぁという思いがいまだに拭えません。

「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」わたしはこのイエスの思いが、よくよく見渡すといろんな場面で破られているのではないか、守られていないのではないかと心配しています。

もし人が、いろんな都合をつけて、神が結び合わせてくださったものを引き離すようなことをしているとしたら、率直にそれを認めて、修正していきたいと思います。あるべき姿を最大限取り戻すことで、カトリック教会はもう一度日本の社会に対して影響力を持つ神の民になれるのではないでしょうか。


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ちょっとひとやすみ
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▼今、自分の中でちょっとしたブームになっているのが、「写真コンテスト」で、納得できる写真があれば、応募しようかな、というやる気満々の状態でいる。興味のある人は、「長崎チャーチトラスト」というNPO法人のHPを覗いてみてほしい。
▼関連して、長崎市内の書店では、写真コンテストの「公式ガイドブック」が販売されていて、一般の人でもガイドブックの応募要項に沿ってコンテストに参加できる。コンテストの分野は2通りあって、1つは「教会写真部門」、もう1つは、スポンサー部門となっている。詳細は、ここでは省くが、1等は賞金100万円である。
▼そこで、自分も馬込教会を題材にして、コンテスト用の写真を撮影し続けているというわけ。ちなみに今日2009年10月3日は、今年の中秋の名月になっている。長崎は絶好の月見日和、夜景の撮影日和である。自然な流れで、夜景の写真撮影に臨んでみた。
▼いろんなアングルで馬込教会は撮影可能だが、写真として見栄えがするのは正面と、背面からの両方かも知れない。正面は教会の威風堂々とした姿、背面からだと教会と、海と、長崎の港の風景が1枚に収まるので、見ていて飽きない写真が出来上がる。もちろん、自己満足の世界ではあるが。
▼中秋の名月限定の夜景も、なかなかいい写真が撮れた。公開はまだできないが、へぇと言いたくなるような1枚が出来上がっている。これらの写真をおかずに、5日から7日までの東京での研修会に、懐かしい顔と会おうかと思っている。できれば、の話だが。

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新企画今週の1枚
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第45回目。中秋の名月。自画自賛しているだけで、実際にはダメダメの写真?

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第28主日
(マルコ10:17-30)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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