こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

キリストの聖体(ヨハネ6:51-58)命がけで愛する人々に残してくれたもの

2008-05-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/05/25(No.359)
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キリストの聖体
(ヨハネ6:51-58)
命がけで愛する人々に残してくれたもの
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先週も父の見舞いをしてきました。病室でミサをささげてきました。父の霊名はフランシスコです。そこで、霊名の祝日に当たっているわけではありませんでしたが、聖フランシスコの取り次ぎを願って、アシジの聖フランシスコの記念日の典礼でミサを捧げました。神父である息子にできる、ささやかな親孝行です。

有川病院の担当の先生に外出の許可をもらい、25年近く働いてきた牛小屋に連れて行きました。ご存知の方もおられると思いますが、牛小屋は働く人が仕事をしやすいように小屋の中央が通路になっていて、通路をはさんで左右に牛を並べ、えさを食べさせる造りになっています。

その中央通路を車いすに乗せて行ったり来たり何往復かしました。父は大変喜んでくれましたが、牛小屋の仕事をする力が自分にはもうないのだと分かった途端、牛の顔も見たくない、こんな所にいたくないと怒りだしました。けれども、牛舎の牛は飼い主である父の顔が懐かしかったらしく、一頭残らず顔を近づけてくれたのです。

牛小屋を見学させたあとは、もう最後になるかも知れないので、家の中に運び上げました。いつも自分が座る場所に腰を下ろすと、「もう病院には戻らんけんな」と言って私たちを困らせました。それでも時間までには病院に帰らなければならず、心を鬼にして父を車いすに乗せ、レンタカーで病院に連れ帰りました。「おれをだましたな」と言われた時には、薬のせいだ、病気のせいだと思ってはいても、悲しい気持ちになりました。

刻々と、最後の時が近づいている気がします。顔は真っ黄色になり、言葉ははっきり聞き取れるのに何を言っているのか分からず、家族がそばにいてもお構いなしに自分一人で過ごしているような様子でした。こんな最後の日々を父と過ごすことになるとは思いませんでした。

父は、いろんな理解不可能な面があるにしても、人が最後に残してあげられるものは何か、命がけで教えてくれているような気がしています。命がけで、一度しか教えられないものを教えようとしているような気がします。一度しか見せることができないから、見逃さないようにしなさいと全身で私たちに訴えかけているのだと思います。

今日私たちは、キリストの聖体の祭日を迎えています。イエスは最後の晩さんで、ご自分の体と血を、食べ物としてお与えになりました。そして、出来事を記念として行いなさいと命じました。ご自分の体と血を与える最後の晩さん、聖体の秘跡の制定は、イエスが命をかけて、一度だけ執り行ってくださったものです。私たちにご自分の体と血を与えようとする最後の晩さんのように、父は一度しか教えられない最後の授業を、私たち子供に、家族にしているのだと思いました。

命がけで教え、残してくれるものは、たとえ一度きりであっても見る者に伝わるのだと思います。その場ですべてが伝わり、すべてが理解できるとは必ずしも言えませんが、少なくとも、真剣に見届けたものは、すべてを見たわけですから、必ず受け継いでいけるのだと思います。

何だか最後まで、朗読福音とつながらないような説教になってしまいましたが、一点だけ朗読箇所とのつながりを考えておきたいと思います。「これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる」(マタイ6・58)という箇所です。「このパンを食べる者は永遠に生きる」とあります。聖書のみことばと、ご聖体のうちにおられるイエス・キリストを拝領する者は、永遠に生きます。そして、命がけで家族に何かを残そうとしている肉親の父親もまた、最後まで生きようとした姿を家族が全身で受け止める時、家族の中で永遠に生きるのだと思います。

イエスは最後の晩さんの出来事を「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22・19)と命じました。一度しか弟子たちの前で行っていない出来事を、これからずっと引き継いでいくのです。病室の父が命を削りながら残そうとしている一回限りの天国への旅支度を私もこの目で見届けて、受け継いでいくべき何かを学ばなければならないと感じました。

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ちょっとひとやすみ
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▼月に1度、教区の広報紙「よきおとずれ」を発行するために委員と集まっている。今月はひんぱんに父親のもとに帰ったりしたために、紙面準備の多くを手伝ってもらった。まさに「おんぶに抱っこ」の状態だった。こんな仕事柄、身内の家族のことを引きずってはいけないのだが、編集委員には相談にまで乗ってもらって、本当に助けられた。
▼この教区報「よきおとずれ」には、「みことばとともに」という箇所がある。1面ではあるが、もしかしたらほとんどの人がこの箇所に目も留めていないかも知れない。けれどもこの箇所もそれなりの思いを込めて選んでいる。6月号のためには、マタイ26章36節「イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、『わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた」を選んだ。
▼全然、何を意図して選んだのか分からないかも知れない。6月は、「イエスのみ心の月」と呼ばれている。そこで、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた弟子たちが、イエスの思い(み心)をどう考えたのだろうかと思ったのである。
▼実際は、弟子たちは眠ってしまい、イエスから「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(26・40-41)と叱られている。それでも、私は弟子たちをかばいたいと思っている。
▼「あー、どうしよう」「あー、このあとどうなるんだろう」私たちもこのような思いは経験したことがあると思う。眠れないという人もいるだろう。ところが私は、「どうしよう」と思ってもすぐ眠ってしまうタイプである。悩んでも、3分ともたない。だから、あの時弟子たちが眠っていたのは、何も悩まなかったのではなく、私と同じタイプだったのではないかと考えるのである。

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今週のセンテンス
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第32回目。かつては「菜食主義者」と聞くと「変人」でしたが、今は違います。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
主日
(朗読箇所)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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三位一体の主日(ヨハネ3:16-18)父と子と絆である聖霊に少し触れました

2008-05-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/05/18(No.358)
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三位一体の主日
(ヨハネ3:16-18)
父と子と絆である聖霊に少し触れました
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先週先々週と、一週間おきに五島の有川病院に入院している父の元に帰っています。肺ガンの診断で抗ガン剤の治療を受け始めたのが1月下旬でしたが、今はあちこちに転移も見られ、残りの時間をどんなふうに過ごさせるかに先生は心を配ってくださっています。食べることができないため、痛み止めの薬を混ぜた栄養剤の点滴を受けていて、痛みがない代わりに薬の影響と病気の進行の影響が会話に出ています。先週はミサの道具をもって病室に見舞いに行き、病室でミサをしました。

ミサは喜んでくれたのですが、パンを供える祈り「神よ、あなたは万物の造り主、ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです」と祈りを唱え、パンを高くかかげてパンを降ろしたら、父がそのパンに手を伸ばして口に運ぼうとしたのです。息子としては、あまり見たくない光景でした。

ほかにも、記憶が前後したり、会話している相手を取り違えたりすることもあって、こちらが強い気持ちをもって接していないと、力を落としてしまいそうになる場面もありました。一泊して翌朝様子を見に行き、「11時の船で帰るけんね」と声をかけた時に「島原に帰るとか」と言われ、悲しい気持ちになりました。今週も何とかして顔を見に行きたいと思っていますが、もしかしたら今度は、私の名前を言わなければ私が誰か分からないかも知れないという覚悟を持ちました。

たとえ、目の前でミサをしている私が誰なのか分からなくなっていても、ミサのことが分かっている間は、ミサをしてあげたいと思います。私が分からなくなることは悲しいですが、それよりも信仰に関わることが分からなくなるほうが私には心配です。信仰のことが分かっているなら、私はそれで良しと思いたいです。

先週の面会の中で、一つだけ微笑ましい場面がありました。長崎に帰る日の朝、私が顔を出した時父は正座していて、「おー来たとか」と言って、今日帰ることとか少しだけ話をしました。私は、いっぱい話したかったのだけれども、父は私の顔を見たあとすぐに横になり、眠ってしまったのです。眠っているのを邪魔するわけにもいかず、そのまま黙って寝顔を見て、時間になったので病室を出ました。

父は、息子の顔を見て安心し、眠ったのかも知れません。安心して眠っているんだなと思えば、私も慰められます。本当のところはどうか分かりません。もしかしたら私がそこにいることも分からずに、起きているのがきつくてただ横になっただけかも知れません。でも私は、安心して横になったのだなと思いたいです。

父の寝顔を見ながら、私は今週の説教について聖書と典礼を開いて考えていました。今週は三位一体の主日です。御父と御子と聖霊が、完全に一つになっているその神をたたえる日です。私が最初に考えたのは、御父と御子の一致が、何とかこの病室にいる父と子の姿で表せないかなぁと思ったのです。幸い、父の寝ている姿を見て、「この体験は説教に使えるかも知れないなぁ」と思いました。

私たちは身近な経験として、幼子が母の胸の中ですやすやと眠るということを知っています。たとえどんなに泣いていた赤ん坊でも、母親の胸に抱きかかえられると、安心して泣きやみ、しまいには眠るのです。その幼子にとって、母の胸元はどこよりも安心できる場所なのでしょう。そんな光景を見ると、母と子は、深い絆で結ばれて一つになっているのだなと感じます。

私は、この母と子の姿を目の前にいる父と息子である自分に置き換えてみました。父は子が側にいることで安心することができ、一時的にせよ不安から解放されます。その安心感があって、父は眠りに就いたのではないでしょうか。前の日の夕方、私が病室を出たあと、一人きりになって、夜眠れなかったかも知れません。今朝私が見舞いに来て安心し、眠れずに過ごした夜の疲れも手伝って、つい眠ってしまったのかも知れません。私は、父が安心して眠っている姿を見て、言い過ぎかも知れませんが、母親の胸の中で眠る幼子を思い浮かべたのです。

安心して眠った父と、息子である私との間を、静けさが覆っていました。ただの静けさではなく、何も話さなくても、合図を交わさなくても、親子の間は信頼の絆で結ばれていたと思います。父は、子を見て安心する。子は、父の姿を見守る。父と子の間には確かな絆がある。これは、ちょうど今週お祝いしている三位一体の姿に近いのではないかなと思いました。

御父と御子、また御父と御子を結ぶ聖霊。この三者は一つです。病室で、眠っている父を見ながら、そのことが分かりました。同じ時間を、同じ場所で、一つの絆で結ばれて過ごして、あー、三位一体の神の姿って、こんな感じなのかなと思ったのです。

もう一つ考えたことがあります。受け入れがたいことですが、まもなく父を神さまにお委ねしなければならない時がやって来ます。それは辛いこととは言え、失望するわけではありません。同じことが、福音朗読にも示されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(3:16)。御父は御子をこの世に与えてくださいました。御子をこの世に渡すことは、よほどの思いだったかも知れません。それでも、悲しい出来事ではなく、愛に満ちた出来事だったわけです。

三位一体の神が、この世に御子を与えたという深い愛は、一時的にせよ御子をこの世に明け渡すことです。その決意を、病室の父親と息子である私との静かな時間の中で黙想することができました。大変有意義な時間でした。


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ちょっとひとやすみ
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▼父親の残りの時間もいよいよ短くなってきたようだ。担当医も、そのことを認めざるを得ない状況だと教えてくださった。また、今週のどこかで、水曜日か、木曜日かに上五島に帰り、病室でミサを捧げてあげたい。今度は、私が長男息子であることを分かってくれるだろうか。
▼いつどんな状況になっても親は子供のことが心配なようで、一人ひとり思い出しては、「あいつはとうとう結婚できずに終わるのだろうか」とか「どう言ってあげればあいつはおれの言うことを聞き入れてくれるのだろうか」とか言って、さんざん家族の心配をしていた。自分の心配は最後までしないのかも知れない。
▼皆さんは、両親とお別れしなければいけないというその日を考えてみたことがあるだろうか。特に長男、長女の方は、お別れの時に何を言おうか、どんなことを言葉にして集まった人々に最後の様子を知らせようかとか、考えてみたことがあるだろうか。こうじ神父は、ここ数年の間、「母のお別れのあいさつ」については考えたことがある。
▼具体的に、どんな説教をするかまで、考えている。それはある意味、まだまだ時間があると思っているので、考える余裕があったのだろう。もしかしたら、年齢から言っても順番が先に回ってくるだろう父の将来を予想するのが怖くて避けていたのかも知れない。今は避けることなく、考えなければならないところまで来た。
▼すでに何度か、父の葬儀を果たしている先輩を見てきている。いろんな話を説教の時にしている様子を実際に聞いている。ただ、いずれの場に立ち会っても、しっくりとは来ない。もしかしたら、今まででいちばん身近に感じたのは、一年後輩の司祭が説教した時の経験が自分には一番近いかも知れない。
▼今思い出せることは、謝っても謝りきれないことばかりだ。「バカな息子を赦してほしい」という題で説教したいくらいだ。せめて、最後の親孝行に、父について精一杯の見送りの言葉を用意してあげたい。そして、会話が成り立つ間に、少しでも最後の言葉を聞き取ってあげたい。

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今週のセンテンス
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第31回目。イギリスでは階級制度が生きています。発音でその人の身分が分かります。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
キリストの聖体
(ヨハネ6:51-58)
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聖霊降臨の主日(ヨハネ20:19-23)聖霊は教会の誕生と密接に関わっています

2008-05-11 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/05/11(No.357)
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聖霊降臨の主日
(ヨハネ20:19-23)
聖霊は教会の誕生と密接に関わっています
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今週私たちは聖霊降臨の主日を迎えました。聖霊降臨は教会の誕生の日と言われたりもします。そのことを少し心に留めて、出来事を私たちの生活と結び付けていきましょう。

まず今日の3つの朗読箇所から、聖霊の役割について考えてみたいと思います。第1朗読、「使徒たちの宣教」の中で、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒言行録2:4)とあります。聖霊が注がれて誕生した教会は、その出発の時からあらゆる国の人々に語りかける言葉を持っていた、あらゆる国の人々に理解される価値を持っていたということです。

この第1朗読のメッセージを福音書で探すなら、復活したイエスは弟子たちの前に現れ、「あなたがたに平和があるように」(20:19)と声をかけた場面になるでしょう。その時、「手とわき腹とをお見せになった」(20:20)ことから、弟子たちに届く平和は、イエスの手とわき腹の傷が、その土台となっている、つまりすべての人のために十字架にかけられ、神との和解を取り戻してくれたイエスの犠牲が土台です。イエスの犠牲が土台となった平和は、すべての人に価値のある平和に違いありません。

この点を、教会の誕生と結び付けると、教会はその誕生から、弟子たちに注がれた聖霊に、イエスが築き上げてくださった平和によって世界中の人に理解され、誰にとっても価値のある存在として出発したことが分かります。

今日私たちにも聖霊降臨の喜びが与えられます。私たちには、誰にでも誇れる信仰の良さが理解できているでしょうか。また、教会の家族として、平和を保っている家族でしょうか。考えてみたいと思います。聖霊降臨によって、教会は誕生し、出発しました。私たちの教会にとっても、教会が誕生し、成長していく第一の鍵は、誰にでも誇れる信仰を示すことができるか、平和を皆さんと共にしているか、ということです。

次に、第2朗読から聖霊の役割を探ると、「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(一コリント12:11)。教会がイエスのわざを引き継ぐ力強い道具となるためには、教会を形づくっている一人一人が全体の益となる振る舞い、発言を心がけるべきです。

第2朗読のメッセージは福音朗読にも引き継がれます。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(20:22-23)。ここで言われているのは、罪から人を清める役割です。御父と御子から与えられる聖霊によってしかできないわざを、弟子たちは引き継いで果たしていくのです。

それはつまり、聖霊降臨によって誕生した教会は、イエスのわざを世の終わりまで続けていく力強い道具だということです。福音の箇所は、罪が赦されることを強調していますが、洗礼を授けること、社会に対して神の言葉を告げる預言者となること、奇跡を行うことまで含めて、神の民である教会は聖霊のたまものを受けてイエスのわざを続けていくのです。

私たちの教会とのつながりも考えておきましょう。私たちはそれぞれ、神の道具として働いてきたでしょうか。聖霊の注ぎを受けた人にしかできないわざを人々の前に証明してきたでしょうか。

聖霊の第二の役割は、秘跡にあずかるときにも発揮されます。ゆるしの秘跡、ミサの時の聖体拝領、洗礼、堅信、病者の塗油、叙階、婚姻、どの秘跡の場合も、その場に積極的に参加することで、神がこの世に残されたわざを、告げ知らせることができます。あるいは周りの人にも、秘跡の交わりに参加を促したりすることで、私たちは教会の誕生とその成長に関わっているのです。

聖霊降臨に見られる第三の役割は派遣の働きです。福音朗読にそのことがはっきり示されています。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21:22)。聖霊を受けて誕生した教会は、誕生と同時に成長していくのです。成長するとは、もちろん神の民が増えていくことですから、神の民があちこちに派遣されて、新たな神の民をもうけることを意味しています。

そこで、私たちの教会とのつながりを考えて結びとしましょう。今日の典礼の中で、聖霊の続唱を唱えました。「聖霊来てください」と唱えました。この祈りは、ただ単に聖霊の恵みを願う祈りではないのです。かつての弟子たちはイエスに指示された通りに聖霊を待ち望み、聖霊が注がれると教会が誕生しました。当然、誕生したものは同時に成長し始めるのです。

同じことは私たちの教会にも当てはまります。「聖霊来てください」と唱えたのですから、私たちも教会も誕生と当時に成長が始まります。「聖霊来てください」と願うことで、私たちの教会の誕生と成長に関与しますという意思表明をしたことになるのです。この点をもう一度確認しておきたいと思います。

さらに、私たちはミサの終わりに、「行きましょう主の平和のうちに」という言葉を受けて派遣されていきます。特に今日の典礼では、復活からの一連の出来事の完成として「アレルヤ」が付け加えられています。私たちはいつも派遣の祝福を受けて生活に戻っていくのですが、私たちの派遣にも聖霊を受けて教会が始まったという当時の弟子たちの体験が関わっていなければならないと思います。

教会の誕生、また教会の成長と発展に一役買うために、私たちは「聖霊来てください」と願い、派遣の祝福を受けて社会に送られていきます。使命をしっかり心に留めて今週一週間過ごしていきましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼いよいよその時が来た。父が肺ガンを発病し、今年1月にほぼ末期と言える状態であることが判明した。それから3ヶ月、手術への道を信じて抗ガン剤の点滴を受けたが、手術可能なまでにはガンは縮小しなかった。さらにガンは転移し、副腎を肥大させ、残りの時間も少ないことが分かってきた。
▼金曜日のミサに選ばれていた福音朗読は、ペトロがイエスに「わたしを愛しているか」と問われる箇所だった。復活のあとの出来事という設定だから、ペトロにとって最高法院でイエスを三度知らないと言い、十字架のもとから逃げてしまったあとである。ペトロにとっては逆境の中での問いかけだった。
▼ところが、ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(ヨハネ21・15)と答えている。ギリシャ語での正確な意味合いはここで問わないことにして、ペトロが逆境の中でそれでもイエスを愛していると答えたことに心を打たれた。感動したと言うよりも、私は今その言葉にためらいがあるからだ。
▼今月なのか来月なのか、あるいは再来月なのか、いずれにしても聖母被昇天頃までには父とこの世の別れをしなければならない。こんな状況の中で、「わたしを愛しているか」と問われているのだ。「はい、主よ」と、ためらわずに答えられるとは正直言えない。何とかなりませんか、何とか避けることはできませんかと、そのことしか頭には浮かばない。
▼聖体拝領と病者の塗油の秘跡を授ける準備をして木曜日に見舞いに行った。これまで何十回も、中には明らかに黄疸が出て、最期が迫っている人を前にしても、平常心で病者の塗油の秘跡を授けたが、さすがに木曜日は声が震え、祈りを唱えながら何度も言葉に詰まった。父は秘跡を受けて涙を流し、それを見た自分ももらい泣きをしてしまった。
▼今になってみれば、髪の毛がすべて抜けてしまう前に、いろんな写真やビデオを撮っておけばよかったと思う。まだ生きているのだし、悔やむのは早すぎるわけだが、ほとんどこれといったことをしてあげられなかったのではないかと胸を引き裂かれる思いがする。
▼木曜日に見舞いに行く時に、途中で「あー、ミサの準備をしていけばよかった」と心底思った。できれば来週にでも、ミサの準備をしてもう一度見舞いに行こうと思う。故郷の鯛ノ浦教会でのミサは記憶に残っているだろうが、本当に父を前にしてのミサは一度も捧げたことがない。その記憶も父に残してあげたいと思う。

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今週のセンテンス
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第30回目。日本人は西洋人とは違う心の込め方を知っている国民です。

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‥次の説教は‥‥
三位一体の主日
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主の昇天(マタイ28:16-20)主は全人類と共にいてくださいます

2008-05-04 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/05/04(No.356)
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主の昇天
(マタイ28:16-20)
主は全人類と共にいてくださいます
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主の昇天の祭日を迎えました。先週広報活動ということについてちょっと話しましたが、この教会に集まる全員が、誰に聞いてもこれから続く教会の祭日を言えるようになれば、それだけでも十分広報活動になると思います。今週から続く一連の祭日は、「主の昇天」「聖霊降臨」「三位一体」「キリストの聖体」「イエスのみ心」です。リズムよく口ずさむようにして、ぜひ覚えてください。

また、五月に入っていますので、ロザリオの祈りにも目を向けるようにしましょう。それぞれの家庭で今月中に1回でもいいですから、唱えてみてください。それが無理なら、教会ごとに決まったロザリオの祈りの時間を組んでいると思います。その時間に参加しましょう。近所の人が「えー、どうしたの?最近まじめな信者になっちゃって」と言われるなら、十分に広報活動の効果が上がっていることになります。

さて主の昇天の朗読の中で、要点を押さえておきましょう。2点、考えてみたいと思います。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(28・18)と「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(28・19)の2点です。

まず、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(28・18)を確かめたいと思います。イエスが地上で一切の権能を授かっていることは、中風の人をいやす場面と、ペトロに教会の鍵を授ける場面でよく現れています。

「『人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。』そして、中風の人に、『起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい』と言われた」(マタイ9・6)。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ19・16)

地上での一切の権能についてはこうした箇所を挙げるだけで十分だと思いますが、天上での一切の権能を授かっていることはどのようにして証明されるのでしょうか。私は今週の主の昇天こそが、天上での一切の権能を授かっている証明だと考えます。天に昇ることができるのは、救いのわざをすべて成し遂げて復活したイエスお一人しかできないことです。だれの力も借りず、みずから天に昇り、父の右に座ることができるのですから、天上での一切の権能を授かっていると言えると思います。

次に、イエスは弟子たちに最後の使命を授けます。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(28・19)。弟子たちに授けられたこの使命によって、時代と場所を越えてイエスの弟子が生まれることになります。弟子たちが活動を続けていく力の源は次の言葉です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28・20)。

「世の終わりまで、いつも共にいてくださる」主とは、どのようなお方でしょうか。「天と地の一切の権能を授かっている」お方です。天にも、地にも一切の権能を持っておられるのですから、今ここにいるということと同じです。弟子たちは不安を乗り越えていきます。イエスは天に昇って、地上からいなくなったのではなく、天と地の一切の権能を授かっているイエスが今もいつもこの世にいてくださるからです。

すると、昇天の出来事は、イエスがただ単に天の父のもとにおられるだけでなく、より親密にこの世にも留まり、人々に働きかけていることになるのです。天に昇られたことで、地上でのイエスの働きが弱まるどころか、すべての場所、すべての時代にさらに深く関わってくださるのです。

イエスは、天に昇られてから、どのようにこの地上に影響を与え続けるのでしょうか。どのように地上で働き続けるのでしょうか。それは、聖霊を注ぐことによってです。父と子から与えられる聖霊が、弟子たちを通して、また彼らによってイエスを信じる弟子となった人々の中で働き続けます。

けれども、聖霊を注げば、自動的にイエスの権能が世界に及ぶのでしょうか。そうではありません。聖霊を注がれた弟子たちの協力を必要としています。聖霊を注がれた弟子たちが、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」との使命を忠実に果たす時、天と地の一切の権能を授けられているイエスがこの世で働き続けることになるのです。

さらに、弟子たちに託された使命は、イエスが共にいてくださる限り、私たちの使命でもあります。すべての民を、イエスの弟子にする。それは人間の側からは雲を掴むような計画ですが、イエスが共にいてくださることを信じて、一歩でも二歩でも前に進める必要があります。すべての民が、イエスに耳を傾けるように、私にも使命に協力することが期待されています。私たちの協力によって、天と地の一切の権能を授けられているイエスが、今もこの世界に留まっていると証しすることができるのです。

私たちは今週迎えた主の昇天の祭日に、今まで以上に父と子と聖霊の神がこの世界に働きかけるという確信を得て生活に戻りましょう。弟子たちだけではなく、今や私たちの暮らしにも共にいて働いておられる神に、私たちのすべてを委ねましょう。何を行うにしても、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とのみことばに信頼を置いて取り組むことにしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼こうじ神父は「方言」に特別な執着がある。方言でなければなかなか表現できない言い回しがあると思っている。郷里の方言で「あよー(あおー)」とか「あよなー(あおなー)」という言い方があるが、これを標準語でどう言い換えるか、適当な言葉が見つからない。私の記憶では、「あよー」は「何とまぁ」で、「あよなー」は「たまらなくイライラする、何とまぁ」ということになる。
▼当然、方言に執着を持つ私は、伊王島の方言をひそかに収集しようと試みている。方言の収集源は、76歳のおばあちゃんである。だがこのおばあちゃんがなかなか方言を口にしない。うっかり口を滑らせないと言った方がよい。そこでしかたなく、方言が出るような会話に持って行くことになる。そうしてようやく、2つの方言(厳密には3つ)を聞き出すことができた。
▼1つは、「なっきー」という言葉。いわゆる足の「すね」のことらしく、語源は「泣くほど痛い場所」らしい。標準的な使い方は「この前なっきーば思いっきり打ってさ。あざになっとっとばい」。これはなかなかお目にかかれない掘り出し物の方言だと思う。方言によっては多少の揺れはあるものの(例:うすらごと→「うそ」の意。「うっすらごと」「うーすらごと」とも言う)、共通しているものも多いからだ。
▼もう1つは、「ちけ」という言葉で、「ちけ持ち」という使い方があり、雨降り前に起こる偏頭痛持ちのことらしい。もしかしたら差別用語ではないだろうかとの心配もあるが、まぁ、ここでは論議しないでおく。実は水曜日の夕方、私が原因不明の強烈な頭痛に悩まされ、2時間何もできなかったことを76歳のおばあちゃんに話したところ、「神父さまはちけ持ちなんですね」と言われた。ここで意味が分かった。

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今週のセンテンス
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第29回目。世界には変わったものが「お金」として通用している地域があります。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
聖霊降臨の主日
(ヨハネ20:19-23)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
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