こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第21主日(ヨハネ6:60-69)この夏、あなたをおいてだれのところへ行きましょうか

2006-08-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/08/27(No.255)
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年間第21主日
(ヨハネ6:60-69)
この夏、あなたをおいてだれのところへ行きましょうか
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夏休みもいよいよ終わりに近づきました。神学生、特に中学時代などは、夏休みが終わろうかというこの時期になると天気予報を穴の開くほど見て、「フェリーが欠航にならんかなぁ」といつもつぶやいていました。ちょうど台風が長崎を通過する時期でもありましたので、強風波浪注意報とかが発表されると小躍りして喜んでいたものです。けれども結局はフェリーも欠航せず、競り市に引かれていく牛のような重い足取りで上五島の奈良尾ターミナルに向かったものです。

戻りたくないなあと思いながらフェリーの2等客室に行ってみると、すでに下五島の福江ターミナルから乗り込んでいた神学生たちの顔が見えます。ほかの神学生の顔を見るとますます神学校が近づいていると感じますから、ますます憂うつになります。

ところが福江からの学生たちの中に、船にめっぽう弱い先輩がいまして、福江から出発した船が上五島の奈良尾に着いた時点で真っ青な顔をして、こんな感じの死にそうな顔になっているんです。そんな先輩を見ていると、自分は上五島に生まれたから、福江の学生たちより船に乗る時間は少なくて済む。あの先輩が耐えているんだから、自分ももう少し頑張ってみるかなあ・・・と思ったのでした。

今日、イエスのこれまでの発言や行動にとうとう付いていけなくなり、離れていった弟子たちが紹介されています。これまで行動を共にしていた弟子たちでしたが、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(6・60)と酷評しています。この時点で12人の弟子たちが残ったわけですが、イエスは「あなたがたも離れて行きたいか」と問いかけました。

イエスが言われた「あなたがたも離れて行きたいか」という言葉は、この8月の終わりの時期に聞くと、神学生当時神学校に戻りたくなくて、フェリーが欠航すればいいのにと思っていた時期と重なるのです。まるでイエスが「あなたがたもついて来たくないのか」と言っていたようで、人ごとにはどうしても思えないのです。

「あなたがたも離れて行きたいか」というイエスの言葉には、「きみたちだけは残ってくれるよな」という期待が感じ取れます。弟子たちはどうだったか知りませんが、現実の神学生は案外冷たいもので、何か口実があればとっとと神学校をやめたいと、大半の学生が思っていたのではないでしょうか。

しがみついてでも留まりたい、校長先生がここを出て行きなさいと言ったとしても絶対にその場を動かない、そんな根性のある人は私を含め、いなかっただろうと思います。それなのに今こうして祭壇に立っていられるのは、例えば五島のフェリーに乗ってみたら青ざめた顔の先輩が必死で船酔いをがまんしているのを見て、どうしてここまでして神学校に行かなければならないのだろうかと、そういう悩みがなかったので続いたのだと思います。

どうしてここまでして神学校に残らねばならないのだろうかと、そこまでの悩みがなかったことは本当に幸いだったのかも知れません。もし、どうしてこんな所にいられようかと感じていたら、今日の離れ去った弟子たちのように、今この場にはいなかったのかも知れません。

もしも、五島に生まれていながらものすごく乗り物に弱かったら、続いてなかったかも知れません。もしも、先輩のしごきを苦痛と感じ、どうしてここまでして神学校に残らねばならないのだろうかと感じることがあれば、やはり続いてなかったことでしょう。よく神学校の掃除のときには先輩にしごかれました。板張りの教室で先輩がバケツに足を引っかけてバケツを倒し、「ちゃんと全部拭き取るんだぞ」と言い残して後輩の私たちだけで掃除をさせられたこともありました。

あるいは神学校の中で物がなくなって、みんながみんなを疑い始め、だれも信じられなくなったこともありました。あのときも、どうしてここまでして神学校に残らねばならないのだろうかとちらっとでも思っていたら、今の私はなかったと思います。

中学一年生で堅信式の代父になってくれた高校三年生の先輩をたいへん尊敬していましたが、私が大神学校に行ったときにはその先輩はやめてしまっていました。大神学校に面会人が来たので受付係だった私が応対すると何とその先輩が顔を出しに来ていたのです。

「おー、中田か。頑張れよ」と言われました。堅信の代父をした人が神学校をやめていて、しかも気安く神学校に顔を出すことが許せなくて、「あなたに声かけられる筋合いはありません」と突っぱねたことがありました。

同じ面会係をしていた時期に、大神学校の神父様が神学校の芝生の中でゴルフをしていて、ゴルフが終わってその神父様は学生用の玄関のチャイムを鳴らしました。「外からドアが開かなかったの。教授の玄関を開けてちょうだい」と言われました。学生の授業中に、自分はゴルフをして、ドアを開けてくれとは何事かとこの時ばかりは思いました。何度も何度も「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(6・60)というようなことが繰り返されましたが、離れ去ろうという気持ちにまではなりませんでした。

何が自分を思いとどまらせたのでしょうか。きちんと説明はできないかも知れません。ただ、最後まで残った12人を代表して答えたペトロの言葉の中に、何か同じ思いがあるかも知れません。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(6・60)。

あんな死ぬ思いまでして神学校に帰りたくないとか、あんな先輩のいる神学校にはいられないとか、人間不信になるようなあんな環境は神学校じゃないとか、しまいにはあんな教授の態度につまづいたとか、「ひどい話だ」と思わせるような実例はいろいろありました。けれども大切なことは、そんな苦労をいくら並べたところで、ミサをささげる司祭になるのに、ほかに留まる場所がないのだから、今のこの神学校をおいてどこへ行きましょうかとそういう思いだったのだと思います。

先輩らしくない先輩、これでも司祭かという司祭、これが神学校かというような学校の雰囲気、どれだけキリストを写す鏡が曇っていても、鏡が曇っていることでキリストが曇ることはありませんでした。

この夏、普段よりも身近に子どもたちに接する機会がありました。私を通して子どもたちに、キリストをいくらかでも伝えられただろうかと思い巡らしています。子どもたちにとって、教会がより身近なものとなり、司祭がキリストの魅力を伝えるよりよい奉仕者として感じられた夏であったならと、願わずにはいられません。


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ちょっとひとやすみ
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▼いつだったかフッと心に浮かんだこと。3月に40歳になったわけだが、考えてみると2度目の成人式のようなものだし、同級生に久しぶりに会いたくなってきた。ふるさとでも同級生のお母さんから声をかけられ、懐かしさがわいてきた。同級生の人がこのメルマガを読んでいたら、ぜひ声をかけて欲しい。
▼昭和40年4月から41年3月生まれで、東浦小学校の卒業生、あるいは長崎南山中学、高校の同級生、よかったら2度目の成人式をどこかで集まれないだろうか。みんなおじさんおばさんになりかけているかも知れないけれども、何か一つは今でも輝いているものがあるだろうから、この指止まれ。
▼と思ったが、昭和40年生まれはもうすでに41歳になっているか。案内状が遅かったかなあ。それなら、昭和41年生まれ限定でもいい。昔の思い出話でも、今一心不乱に傾注していることでも、温め続けている将来の夢でもいい。語ってくれ、聞かせてくれ。
▼成功している人もいるだろう。失敗した人もいるだろう。いろいろいるだろうけど、同じ同級生じゃないか。同じ学校の卒業生じゃないか。同じ先生に学び、同じ女の子に熱を上げ(俺じゃないよ)、同じ青春をくぐってきた者同士じゃないか。何でもいいから、同じ土俵に立って、勝ち組も負け組もなかったあの頃に戻って語り合いたいなあ。

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こうじ神父絵手紙
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第40回目。中浦ジュリアンを中学生と学びに行きました。太田尾教会にも行きました。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第22主日
(マルコ7:1-8,14-15,21-23)
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年間第20主日(ヨハネ6:51-58)イエスの肉と血は何にも代えられない

2006-08-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/08/20(No.254)
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年間第20主日
(ヨハネ6:51-58)
イエスの肉と血は何にも代えられない
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真夏の八月も下旬に入りました。子どもたち学生たちはあと10日しかないなあと思っているかも知れませんが、おうちの人はあー早く夏休みが終わって学校に行ってくれんかなぁと思って・・・いるかも知れません。親の心子知らず。こういう場合は使わないのでしょうか。

皆さんは肉食の動物が獲物を捕まえて食べるシーンをテレビで見たことがあるでしょうか。どんな動物でもいいのですが、例えばライオンがシマウマを捕らえたことにしましょう。ライオンは必ず母親が狩りをするのだそうですが、母親のライオンがシマウマを捕らえて息の根を止めると、子供のライオンも含めて家族全員でそのシマウマを食べることになります。

この様子を見たとき、人によって二通りの反応をするでしょう。ある人は、なんてかわいそう、残酷だと思うかも知れません。私は反対の意見で、肉食の動物が獲物を食べるのは当然と思っていますから、おいしそうに食べているなあとしか思いません。

さらに私の個人的な考えを言わせてもらうならば、野生の動物は自分の食べる分しか獲物を捕らえませんし、食べ残しが出てもおこぼれをもらって生きるほかの動物によってすっかり食べ尽くされてしまいます。けれども、人間は食べるかどうかも分からないのにまとめ買いをし、いざ作ってみると作りすぎて、食べ残してしまうとゴミに出すのです。そういう無駄の多い食事に比べたら、かえって動物のほうが節度があると思うのです。もちろんすべての人に当てはめているわけではありませんが。

もう少しライオンのひいきをするなら、ライオンは一生懸命追いかけて捕まえてから食べています。人間はたくさん食べるので、魚でも野菜でも肉でも、まとめてたくさん育てています。ライオンは獲物にありつけずに食べられないときもありますが、人間の場合今日は食べられずに絶食したという状況はあまり考えられません。

実は今日の福音は、動物が肉を食べている場面に当てはめても良いような書き方をしています。ヨハネ福音書が選ばれていますが、先週の朗読と比べると今週の朗読にあえて使っている生々しい表現があるのです。例えば、先週の朗読で「命のパン」と表現されているものが、今週の朗読の中では「わたしの肉」「わたしの血」と言い換えられています。また、単に「命のパン」が「肉と血」と言い換えられているだけでなく、「食べる」という表現も、今週は「肉にかみつく」という意味で使う言葉が選ばれているのです。

ヨハネ福音書が書かれたもとの言葉はギリシャ語です。ギリシャ語では一口に食べると言ってもいろんな場合があって、言葉を使い分けることができるのです。日本語ではどれも「食べる」という訳になってしまいますが、今週の朗読で「食べる」と訳されているギリシャ語は「動物が音を立てて餌を食べる様子」を表すそうです。

日本語でも、例えば肉食の動物が獲物を食べるときに「いただく」とか「食す」とは言いません。あえて言えば、獲物を「食う」という表現になるかも知れません。この、「食う」という言葉を今日の朗読の中でイエス様に語らせているのです。「人の子の肉を食べる」「わたしの肉を食べる」。これは、本来の意味をくみ取ってあげると、「人の子の肉を食う」「わたしの肉を食う」となるのです。

このような、やや品の悪い表現を使ってまで言い表そうとしていることは何でしょうか。表現としては動物の食べ方なのですから、動物の食べる様子にヒントがあるかも知れません。最初のたとえで、ライオンは獲物を苦労して追いかけ、ようやく捕らえてから食いつくと言いました。

ですから私たちが人の子の肉を食べるというのは、初めから食卓に置いてあるものを易々と食べるというものではなく、追いかけてようやく捕まえてから食べる、もしもここで肉にありつけなかったら次のチャンスまで空腹のまま過ごさなければならない。そんな、命をつなぐための真剣勝負を言おうとしているのです。

ライオンは、肉が食べられないからその間は野菜を食べようとか、そういうことはしようと思ってもできません。肉食の動物は肉を食べることでしか生きられないのです。もしも長い間動物を捕らえることができなければ、たとえそこに野菜があっても飢え死にすることになります。

今日のイエスの呼びかけは私たちに同じ事を考えさせるのです。私たちはイエスを食べなければ、代わりの食べ物はないのです。イエスを食べないまま長く暮らしているとキリスト信者は飢え乾き、霊的には死んだ状態になるのです。「人の子の肉」に代わる「肉」は、この世界のどこにもないからです。

イエスに代わる食べ物はこの世界にない。そのことをよく理解するならば、確実にイエスを食べるためのチャンスを確保しなければなりません。それは信徒の皆さんだけでなく、司祭や修道者についても同じことが言えます。司祭は毎日ミサをしているのだからイエスを食べることに何の苦労もないじゃないかと思っているかもしれません。

けれども司祭は日曜日のミサにただ行けばよいというものではありません。日曜日のミサの説教を準備しなければなりません。ある意味で、司祭の説教はみことばの食卓からよく噛んで味わった実りなのですから、みことばの食卓から食べ物を得るためには、司祭は説教を準備する時間を確保しなければならないのです。

説教も生き物ですから、時間が来ればできあがるというものでもありません。2時間でうまくできあがるときもありますし、考えても考えても出てこなくて、10時間とかそれ以上かかるときもあります。それでも、日曜日のミサの始まりまでには、2時間だろうが10時間だろうが、出来上がるまでの時間を確保していなければならないのです。ライオンが何かを捕らえるために何時間でも努力するように、イエスから食べるために必要な時間は、どれほど時間がかかっても惜しんではいけないのです。

ほかに代わるものがない、永遠に生きるための肉を食べるために、わたしは今週心を配ってきたでしょうか。もし精一杯の努力をしてイエスを食べることができたなら幸いです。もしかしたら周りにイエスという食べ物にたどり着けなかった人がいるかも知れません。その人のためには、イエスを食べた私たちがお世話してあげましょう。

ちょっとしたことでいいのです。聖書と典礼を持って行ってあげるとか、説教をかいつまんで話してあげるとか、一緒に祈る時間を取るとかです。私たちがいただく肉と血は、代わりのものがないと同時に、すべての人に配られるべきパンでもあるからです。


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ちょっとひとやすみ
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▼だんだん知名度が上がってきているのだろうか。前回の結婚式の男性が東京で結婚講座を受けるために目黒の教会に行って「結婚式を馬込教会で挙げてもらう予定です」と伝えたところ、「『こじか』の記事を書いている中田神父さんですね、知っていますよ」と言われたそうだ。
▼今日高島に出発する前におばさん体型の女性が司祭館のチャイムを鳴らして「教会でお祈りしたいので入らせてください」と言ってきた。隣にはターザンのような髪型をした男性がいて、「ターザンとその相棒か」と心の中で思っていたら、「本を書いている神父様ですよね」と確認をしてきた。ぞんざいに扱わなくて良かった。
▼明日20日は大漁祈願祭。翌日から伊勢エビの解禁。20日に網を入れて、21日の夜中に網を引き上げて今年後半最初の伊勢エビ漁。ぜひ豊漁になって、伊勢エビを2匹司祭館に差し入れして欲しい。1匹はゆがいて食べ、1匹は刺身で食べる予定。うまいぞー。

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こうじ神父絵手紙
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第39回目。大漁祈願祭。3週ほど絵手紙サボってるなあ。どうしよう。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第21主日
(ヨハネ6:60-69)
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聖母の被昇天(ルカ1:39-56)神の祝福は人間の想像を超えるほどすばらしい

2006-08-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/08/15(No.253)
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聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
神の祝福は人間の想像を超えるほどすばらしい
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今年、聖母被昇天の祭日の説教を考えながら、すごく基本的ですごくあたりまえのことになるほどなあと一人で感心してしまいました。それは、「祝福は神から来るものだ」ということです。祝福は神が人間に与える恵みであり、祝福の場には神がおられて人間と深く関わっているということに一人でうーんと唸っていました。

祝福を考える身近な例を紹介しましょう。この前の土曜日は、結婚式が組まれていました。確かに私は祝福の祈りを唱えました。ただ、中田神父がカップルを祝福したのかというと決してそうではありません。神がこのカップルを幸せにしてくれるようにと祝福を取り次ぐこと、それが私の使命です。

祝福するとは、気分良くさせるような言葉を連ねて相手をねぎらうことではありません。突き詰めれば幸せを与えることです。冷静に考えれば、人間が人間に幸せを与えることなんてできるはずがありません。そうであれば、本当に祝福することができるのは神だけだということは明らかです。ここまでは、私たち誰もが納得すると思います。

さて、私たちの生活の中には祝福を願う場面が結構たくさんあることに気付きます。一般的に言うと厄除けであったり安産であったり、あるいは家を建てるに当たって安全と無事を願うとか、身近なところで祝福を願っています。これら祝福に関わる事柄は、よく考えれば神がそこにいて、祝福してくださっているに違いないと思っているから、式を司る人が祈りをささげると安心するわけです。

人間へのこうした祝福は、いつからいつまで向けられるのでしょうか。それは命の始まりからです。そしていつまででしょうか。その答えが、今日の聖母の被昇天にあるのではないでしょうか。つまり、神のあふれるほどの祝福は、人間の死後も注がれるということです。

聖母がからだも魂も天に上げられたという教会の教えは、神は人間を、その命の始まりから祝福し、また死後も祝福してくださることを雄弁に物語っています。しばしば祝福を願う私たち人間は、互いに生きている間には祝福を求めるものですが、死後にも祝福を受けようとは思っていません。

ところが、祝福を与えてくださる神ご自身は、祝福が生きている人間にだけ届くのではなくて、死後にも届くということを今日私たちに示してくださったのです。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」(1・44)。

エリザベットは自分を訪ねてきてくれたマリアにこう言いました。もちろんこれはエリザベット自身がマリアを祝福しているのではなくて、神の祝福がマリアに注がれていることをたたえたものです。そしてこのエリザベットの言葉は、実際は彼女自身が理解していた以上に意味深いものだったのです。

この場面には見落としがちな一つの点があります。それは、「エリザベットは聖霊に満たされて、声高らかに言った」(1・43-44)ということです。先の言葉は、エリザベットの思い付きなのではなく、聖霊が彼女に働いて話をさせた、もっと言うと、マリアに対する神の望みが、エリザベットを通して示されたということです。マリアは、特別に祝福を受けた女性であるということです。

特別に祝福を受けているのであれば、マリアが死後に肉体の腐敗を免れて天に上げられたということは十分に考えられることです。神の祝福に満ちあふれていたマリアにはいかなる滅びも腐敗も及ぶことはなかったのです。

まとめるとこういうことになります。聖母の被昇天は、神の祝福が生きている間だけに注がれるものではなく、死後も与えられる、そしてマリアはさらに特別に、祝福に満ちあふれていることの証しとして、いっさいの腐敗から免れて天に上げられたということです。

この聖母被昇天の祭日に、あらためて祝福が神からの賜物であり、神からの賜物だからこそこれほどのすばらしい栄誉を人間に与えることができるのだと納得しました。そして終戦記念日との兼ね合いでは、紛争の絶えない多くの国々に対して「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6・28)とイエスは今も促しているのではないだろうかと感じました。


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ちょっとひとやすみ
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▼こんなことを聞いたことがないだろうか?「15日は地獄の釜が開くので、海へ行ってはいけない」。別の言い方もある。「15日は死者が生きている人を引き込むので海へ行ってはいけない」
▼こうまで言って8月15日に海に出ないように戒めるのはなぜなのだろうか。詳しいことは知らないけれども、何か根拠があるのかも知れない。それなのにギリギリまで釣りに行こうかなあと考えていた私を含めての一行は何を考えているのだろうか。
▼今回は3人の予定だった。自分が「これこれの理由で釣りは控えた方がよいのではないか」とメールを入れたら怖くなったのか、電話がかかってきて取りやめになった。こちらとしては地域の目もあるし、やはり取りやめて正解だと思っている。
▼8月15日に向けてのコラムとしては、かなりピンぼけしているかも知れない。もっとこの日に向けて、戦争の悲惨さとか平和への熱い思いを吐露すべきかも知れない。もしかしたら、こういう書き方すら、ずれているのかも知れない。いずれにしても、自分が前日に考えていることは、この程度だ。
▼どこかで書いたかも知れないが、40歳になってみると間違いなく「折り返しを過ぎた」という感じがする。どう考えてもあと40年だ。思考回路も肉体の健康も、この先40年以上維持できるとはとても思えない。そう考えると、これでいいのかという思いがますます強くなるのだが。

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こうじ神父絵手紙
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今回はお休みします。

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‥次の説教は‥‥
年間第20主日
(ヨハネ6:51-58)
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年間第19主日(ヨハネ6:41-51)天からのパンを今いただくことが永遠につながる

2006-08-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/08/13(No.252)
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年間第19主日
(ヨハネ6:41-51)
天からのパンを今いただくことが永遠につながる
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今週の福音は、私たちに一日一日のこと(日常)と永遠とがどのようにつながっているかを考えさせてくれます。朗読箇所から関係する一節を取り上げてみましょう。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる」(6・44)。

ここでイエスは、「父である神がわたしたちを引き寄せてくださる」ということと「終わりの日の復活」ということはつながっていると言いたいのでしょう。「父である神が引き寄せてくださる」という働きは、今この時に行われていることです。当時はイエスの直接の呼びかけによって引き寄せられていましたし、今はこうして日曜日の礼拝を通して引き寄せられています。

これに対して復活は、未来のことであり、私たちは復活によって変えられた姿を永遠に保ち続けるわけですから、永遠に関わりのある働きと言うことができます。私たちが今父である神に引き寄せられているならば、未来においては復活にあずかることができる。今何をしているか、またどのような暮らしを保っているかが、永遠に続く未来に深く関わるということです。

一日一日どのようにして暮らしているかが、永遠に続く未来の姿を形づくるというのですから、今の暮らしに十分気を配るということは大変意味のあることです。今週の朗読も、日々の配慮が永遠の命につながっていくことを考えさせるために、食べ物を例に話を結びます。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(6・51)。

パンは日々食べるもののことです。パンと書いてあるからと言って、食パンやフランスパンを想像する必要は全くありません。もしも文字通りのパンだとしたら、中田神父は長いこと食べていないことになってしまいます。そうではなく、日々の食べ物のこと、今日のご飯のことと考えるべきです。私たちが三度三度の食事を心がけるように、父である神から遣わされたイエス・キリストにたえずつながっていること、この心がけがあれば、私たちは永遠の命、復活の命を未来にいただくことになるのです。

そうしてみると、永遠の命に結びついているのはずっと先のいつかではなく、今この時なのだということが分かります。今この時に、イエス・キリストという永遠の命のパンを食べなければ未来はないということなのです。今教会との関わりを拒む人がよく言う言い訳は、「暇になったら行く、歳を取ったら行く」というものですが、永遠の命につながっているのは連続した「今」であって、「あとでいつか」というような曖昧なものではないのです。

今天からのパンを食べることが大事だと分かってもらえたとして、一つ問題が出てくるかも知れません。天からのパンを食べるということが聖体拝領だけを意味しているならば、そこにはいろんな問題が起こりえます。ミサに来ても、聖体拝領しない人、聖体拝領の条件が整っていない人いろいろいらっしゃるからです。天からのパンが、聖体拝領のことだけを指しているとすれば、ミサに参加する人すべてには恵みが届かないかも知れません。

ここではっきりさせておきましょう。イエスがご自分のことを「わたしは命のパンである」と仰ったとき、それは聖体としてのイエスのことと、福音書を通して私たちに語りかけるみことばとしてのイエスと、両方を意味しています。決して御聖体だけを意味しているのではありません。ミサの前半で語られるみことば、特に福音書の中でも、イエスはご自分を食べ物として与えておられるのです。

このみことばに注意深く耳を傾けるすべての人は、ミサの中で命のパンであるイエスをいただいているのです。そして、今という時間の中でイエス・キリストとの交わりを保っているのですから、聖体拝領にあずかれなくても、福音書に注意深く耳を傾けるなら、その人はみことばの食卓から永遠の命に至る食べ物を今いただいているのです。ミサの中ではみことばの食卓と聖体の食卓の両方が天からのパンとして私たちに与えられているのです。

このことをしっかり理解すれば、説教が終わった頃にミサに参加してくる人は、みことばの食卓にあずかっていないということになります。よく聖体拝領ができるのはミサのいつ頃から参加している人ですかということが議論されますが、聖体の食卓のことを議論する前に、まずみことばの食卓を私たちはもっと大切にしなければいけないと思います。聖書が朗読されるその時から、ミサにあずかってみことばの食卓に間に合うようにしたいものです。

また御聖体については、今目の前で御聖体が準備されるその瞬間、つまり「みな、これを取って食べなさい」「みな、これを受けて飲みなさい」と司祭が唱えているときには最低でもいなければ、一般的には聖体の食卓にあずかることはできません。ですが現代の教会はあまりにも聖体の食卓だけが強調されて、みことばの食卓のことがおろそかにされている気がします。十分に天からのパンをいただくためには、みことばの食卓がもっと大切にされなければならないと思います。

日曜日の礼拝のあらゆる可能性が失われている人がもしかしたらいるかも知れません。そんな人はいないと思いたいのですが、日曜日のためのミサの時間に、自分はすでに決められた職場にいてどうしても参加できない。そんな人がもしかしたらいるかも知れません。ではそのような人は天からのパンにあずかるすべての可能性が奪われているのでしょうか。

まずはそのような人は、自分で選んだ生活の形を見直して欲しいと思います。たとえば教会の掟では日曜日にミサにあずかることが明記されていますが、本当に日曜日に来ることができないのであれば、日曜日の代わりに、平日の朝のミサに来てください。もしもそう言われて、「眠たいから無理だ」という人は、眠たければすべてがゆるされるのかどうか、胸に手を当ててよく考えて欲しいと思います。

この夏休み、一人の子は朝の8時から部活だというのに朝6時半のミサに欠かさず来ています。日曜日も当たり前にやってきて、さらに平日もミサに来てくれています。時間がないからとか、眠たいからとか、この子を前にして一体誰がそんなことを言い訳にできるでしょうか。私だって、頭の下がる思いです。

永遠の命に生きる努力は、今この時をイエス・キリストとどうつながっていくかにかかっています。命と滅びには何の関わりもありません。今この時に、命に向かう努力をしなければ、永遠の命とは無関係になってしまいます。今はまだまだ滅びの道を歩いて、いざとなったら命に至る道を歩きますと言うかも知れませんが、滅びへの道を歩いた時期は取り戻せないのです。そんなハラハラするような生き方ではなく、着実に命に至る道を歩いていくキリスト者でありたいと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼久しぶりに外部から引き受けた結婚式を執り行った。おおむね、次のような話をした。人間は「絶対」という言葉を使えるほど強い者ではない、そんな弱い人間なのに、永遠の愛を誓う。その不思議さを考えておこうと。
▼明日自分が絶対に生きているなどと、誰も言うことはできない。明日まで呼吸が止まらないように自分で配慮することすらできない。それなのになぜ、一組の男女は生涯にわたる誓いを交わすことができるのか。それは、神の助けがそこに働くから。
▼神は、絶対的な方である。二人の誓いを、必ず、永久に守りましょうと神は誓うことができる。だから、不確定な人間の誓った言葉を支えて真実な誓い、永遠の誓いとするために神は働いてくださる。神が支えてくださって人間の生活は確かなものとなる。そんなことを大まか話したと思う。
▼筋肉の力が失われ、物を持つことができなくなり、食べ物を飲み込むことができなくなり、自発的に呼吸することができなくなり、死ぬことも生きることも自分で選べなくなっていく病気がある。配偶者がそのような病気になったとき、生涯にわたる愛を注ぎ続けることができるだろうか。
▼愛を注がれている配偶者は、愛されていることに苦しむことがあるかも知れない。それでも愛し、愛される夫婦の力の源は何だろうか。私は、神の助け、支え以外に考えられないと思うのだが。

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こうじ神父絵手紙
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第38回目。結婚式の様子を撮影しておけば良かったなあ。返す返す残念。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第20主日
(ヨハネ6:51-58)
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主の変容(マルコ9:2-10)結果に至るまでの過程を踏まえて見ていますか

2006-08-06 | Weblog
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/60806.asx

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/08/06(No.251)
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主の変容
(マルコ9:2-10)
結果に至るまでの過程を踏まえて見ていますか
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皆さんようやくこの日がやってまいりました。タオルを振って、一生懸命応援してください。選手のみんなも、一生懸命練習しましたので、きっとよいところを見せてくれると思います。今年のドラたたきは経験もだんだんと積み上がって、魂のこもったドラたたきを披露してくれると思います。

ずいぶん鍛えられました。一生懸命声を出したせいで、声もドラみたいになりました。本人から話を聞いてきましたので、間違いないと思います。今日ばかりは高校生たちもミサに来て明日の試合のために祈ってくれていると思いますので、力を十分に発揮できるように一緒に祈ってあげてください。

さて、噂は手紙よりも電話よりも早いものです。おそらく中田神父が土曜日の昼間に釣りに行ったことは説明する必要もないくらい誰もが知っているかも知れません。もしかしたら、マダイとアマダイとイトヨリとエソと釣ってきたことも、すでにご存じかも知れません。さすがに大きさだけは聞いていないでしょうから、ちょっとミサの始まる前に、写真を後ろに貼り付けておきました。

今回は独りの釣りではありません。お客様の接待で行ってまいりました。純心のシスターを差し置いて申し訳ないことですが、よそのシスター一人と、一組の夫婦、合計三名のお客様を連れての釣りです。

お客様のための釣りですから、私がバンバン釣り上げれば接待になりません。そのへんをわきまえて、中学2年生くらいのアマダイ一匹と、小学生くらいのイトヨリを一匹釣って、あとはお客さんに喜んでもらえるように案内しました。

結果的には、十分満足できる接待でした。ただ、結果というものはあとで付いてくるもので、結果だけを受け取りに行くということはどんな事柄においてもできない相談です。今回の接待の結果は、一つの失敗と一つの貴重な情報によって与えられたものだと思っています。

一つの失敗とは、ちょっと前に別のグループでボートに乗って出かけたときに、三人がかりでたったの一匹しか釣り上げられなかったという苦い経験でした。船頭自身が釣ったことのある場所を何ヶ所か案内したのですが、どの場所も芳しくありませんでした。船頭としての面目も丸つぶれでした。

帰ってきたその日、夕方は浜でバーベキューに顔を出したのですが、その場で昼に釣れなかったことを知っていたある人が、この時期はもっとへたで釣りをしないと釣れないのだと貴重な情報を入れてくれました。私が考えていた場所よりも思い切って海岸よりの場所が狙い目なのだと、見かねて教えてくれたのだと思います。苦い経験と貴重な情報から考えて、土曜日は思い切った場所を狙ってみました。そのおかげで、予想以上の結果を手に入れることができたわけです。

結果だけが一人歩きしているわけではありません。明日のペーロン大会も、目標は一つ、大きな結果を手に入れることですが、それまでに苦い経験もしなければならないし、何か貴重なヒントも手に入れる必要があるでしょう。目標としている結果は、それまでの苦い経験も貴重な情報も全部通ったその先にあるものなのです。結果にたどり着くまでに通らなければならない苦しみや周りからの応援、貴重な教え、これらを避けて通ったり煙たがったりしたら、結果は得られないわけです。

今日主の変容の祝日を迎えています。山の上でイエスの姿が変わり、イエスにこれ以上ないほどのすばらしい栄光が与えられた瞬間を選ばれた弟子たちが目にします。弟子たちは、栄光に輝く姿、つまりイエスにとっての「結果」を、仮小屋にとどめて人々に見せようと考えました。

けれども私たちがここまで考えてきたことは、結果だけが一人歩きしているものではないということでした。結果というのは、それまでたどるべき道のり、苦難や無理解や、御父からの照らしなど、それらをすべて通ってきた人々にとって価値のあるものなのです。結果がすばらしいからといって、その結果だけをこれまでの道のりを通っていない人々が正しく理解することは困難なのです。

イエスは輝く姿になりましたが、ある意味結果であるこの姿にたどり着くための受難と死、この正反対にも思える苦難を通って得られた栄光であるからこそすばらしい価値があるということを、目の前の弟子たちさえもまだ十分には理解していませんでした。ましてや、山のふもとにいる何も知らない人々には、その価値を理解することは不可能なのです。だからイエスは「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じたのです。結果だけを触れ回れば、結果だけが一人歩きするからです。

イエスが教えてくれた教訓を明日のペーロンに当てはめてみましょう。明日、結果がどういうものであっても、結果だけを言いふらされたりすれば、選手は迷惑するのではないでしょうか。どんな結果であれ、そこまでに通ってきた辛い練習も一緒に分かってもらっていなければ、結果だけ取り上げられても喜べないと思います。これまでの練習も含めて声をかけてもらえるなら、選手は報われるのではないでしょうか。

中田神父の釣りの結果も、前回の苦い経験と貴重な情報が活かされて結果につながったものです。そう考えてみると、土曜日の結果につながる一週間すべてに意味があったわけです。結果を心から喜ぶまでにたどった苦い経験も貴重な情報にも、すべてにおいて神に感謝したいと思いました。

イエスの輝く姿にたどり着くまでの受難と死という道のりもありのままを受け入れる強い信仰が育って初めて、私たちはイエスの御生涯について何かを語る資格があるというものです。私たちは結果だけ見て一喜一憂しません。イエスの生涯についても、私の生涯についても、あるいは何かの行事についても、結果を生むそれまでの道のりを地に足をつけてしっかり歩んでいるなら、結果にかかわらずこれまでのすべてに意味と価値を見いだせるに違いありません。


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ちょっとひとやすみ
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▼長崎地区では金曜日の午後4時から「愛し君へ」が再放送されている。「愛し君へ」と言えば馬込教会(なぜそうなる)。ドラマの最終回、主人公とヒロインが結婚式を挙げる。結婚式の司祭はこうじ神父。最初で最後、ドラマのちょい役で出させてもらった記念すべきドラマだ。
▼役者はドラマをとおしていろんな人になるが、ちょい役で出た自分はいつまでもその時の自分から変われなくて、「この馬込教会は『愛し君へ』というドラマの最終回に使われました。その時結婚式に立ち会った司祭はわたしです」といつまでも繰り返し言っている。
▼俳優、女優はどんどん変化していくのに、まったく時間が進んでいない。進歩がないということだ。すでに2年2ヶ月過ぎているのに、過ぎた時間はどう活かされているのか。ドラマで見せる演技や表情はすべて何かしら意味がある。ドラマでさえそうなのであれば、実際の人生はどれほどの人情や機微が織りなされていることか。
▼オフラインミーティング。ネット上でしか知らない人と、実際にあって交流を深める活動だ。8月5日午後、伊王島沿岸のボートの上でオフ会を開いた。ようするに釣りをした。説教の原稿にある通り、マダイ、アマダイ、イトヨリ、エソ、ヒラアジを釣り上げた。交流になっていただろうか?

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こうじ神父絵手紙
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第37回目。何かペーロンの画像が見つかれば掲載します。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第19主日
(ヨハネ6:41-51)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
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