こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第22主日(マルコ7:1-8,14-15,21-23)イエスは私の心に飛び込んできて照らしを与える

2024-08-31 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/9/1(No.1313)
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年間第22主日(マルコ7:1-8,14-15,21-23)
イエスは私の心に飛び込んできて照らしを与える
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8月31日は、フランシスコ・ザビエル島本要大司教様の命日でした。中田神父は助祭叙階・司祭叙階ともに島本大司教様によって秘跡の恵みを授けていただきました。今でも思い出しますが、司祭叙階の場面でリハーサルに無いことが起こりました。

前日に、私を含め司祭叙階候補者の三人は入念なリハーサルを受けていました。もしも当日、リハーサルと寸分違わず叙階式が行われていたなら、のちに記憶は「リハーサルの通りだった」と置き換えられていたかも知れません。実際はそうはなりませんでした。

大司教様が次のように問いかけました。「わたしとわたしの後継者に、尊敬と従順を約束しますか。」もちろん私たちは、リハーサルの通り「約束いたします」と答えるわけです。すると島本大司教様は私たちだけに聞こえる声で「そうか。ありがとう」と言ってくださったのです。大司教様の前でずっと緊張していた私たちに、大司教様自らが飛び込んできてくれたような瞬間でした。

人の心に入っていくというのは、決して簡単なことではありません。初対面の人と話しをしている時や、初対面の電話など、私たちは相手の人の本心を探ろうとしていることがあります。様子を伺っているので、心を開くことができないわけです。それは社会の中だけでなく、教会の中でもそうでしょう。

そこで、もっとお互いを理解するためには、どちらかが相手の心に飛び込む必要があるわけです。島本大司教様は叙階の秘跡を受けようとしている私たち三人に、私たちから飛び込むことは難しいので、ご自身のほうから飛び込んできてくださいました。

どんな人に対してであっても、自分の方から相手の心に飛び込むほうが、より早く理解し合えると思います。ただその方法は相手によってさまざまかも知れません。固く心を閉ざしている人、耳を傾けようとしない人に対しては、時には相手の心の扉を打ち壊して飛び込まなければならない場合もあるでしょう。

それが、今週の朗読のファリサイ派の人々と律法学者たちでした。彼らは自分たちのしていることが正しいと信じ切って、心の扉を閉ざしていました。昔の人の言い伝えを固く守る。ほかの道で正しい生き方を示そうとする人が現れても、決して心を開こうとしなかったのです。

こうなると、イエスが正しい道についてまことの光で照らそうとしても、彼らの心に光は届きません。そこでイエスは、少々乱暴な手段ですが、彼ら宗教指導者たちの心の扉を打ち壊して、心を照らす光を届けようとしたのでした。

宗教指導者たちを納得させるためには単なる言葉ではなく、彼らが拠り所としている律法と預言者の言葉が必要だったので、イザヤの預言(29・13)を引用して、心の扉を壊しました。ただし、イエスが心に飛び込んできてくれたことを歓迎できるかどうかは別の問題です。

ときおり、特別な才能の持ち主と出会うことがあります。心の扉を閉じている時に、まるで扉が存在しないかのように飛び込んでくる人です。自分では閉ざした心を開けずにいる。それを通り抜けてきた。その人は、イエスが私に遣わしてくれた人かも知れません。

「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(7・15)とイエスは仰います。イエスはいつか、そのような人と出会わせてくださって、その人の向こうにおられるイエスにつねに心を開いておくように招いているのです。イエスにつねに心の扉を開いている人は幸いです。

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‥次の説教は‥‥
年間第23主日(マルコ7:31-37)
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ちょっとひとやすみ
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▼台風10号は広い範囲に影響を与えている。九州では鹿児島・宮崎で被害があった模様。土曜日の進路も、太平洋に抜けるかと思ったが迷走して日本海に向きを変えようとしている。8月で10号。15号まで発生すると考えると、9月も台風に用心が必要だ。
▼1日が日曜日の9月が始まった。8日・15日・22日・29日まで日曜日が来る。第5日曜日はめったに来ないので、福江の司祭たちの当番表と、当番に合わせて奉仕してくれるシスターたちも勤務の提出とにらめっこで神経をつかう。どこかで心も身体もリフレッシュが必要だ。

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今週の1枚
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第920回目。二次離島久賀島に渡るフェリーのドック入り。移動に少し影響が。

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† 神に感謝 †
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年間第21主日(ヨハネ6:60-69)信仰に上限を付けると「ひどい話」に聞こえる

2024-08-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/8/25(No.1312)
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年間第21主日(ヨハネ6:60-69)
信仰に上限を付けると「ひどい話」に聞こえる
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「種を蒔く人」のたとえをご存知でしょう。ルカの8章にありますが、たとえを説明するくだりの13節に「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである」とあります。

試練は、私たちの信仰がどこまで成長しているのかを確かめる機会となります。イエスを信じる信仰は、中田神父の考えでは「どこまでもイエスのことばと行いに従うこと」だと理解していますが、信仰がそこまで成長していない人の場合、「これ以上は信じられない、これ以上はついていけない」と、見切りを付けてしまいます。

イエスに従い始めた人々の中には、そうやってイエスに見切りを付け、離れていく人々が現れ始めていました。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」(6・60)離れていく弟子たちとは、イエスのことばに自分たちの方から見切りを付けた人たちです。本当はイエスの進む道に最後まで従うことが正しいのに、正しさを貫くことが出来ませんでした。

試練は、現代の教会でも当然起こります。教会活動を続けていくために、礼拝のための聖堂は欠かせませんが、建物ですから年数が経つと当然手を入れる必要があります。更に年数が経てば、建て替えの必要も出てくるでしょう。

しかし、耐震補強や教会建設で積み立てが必要になると、なぜか一定数の人々は背を向けてしまいます。あからさまに転出する人々も出てきます。残念なことですが、自分たちで自分たちの教会を続けていくために協力しあいましょうと呼びかけると、身を引いてしまう人々がいるのです。ただ不思議と、補強工事や教会建設が終わると戻ってきます。

その教会にとどまって耐震補強や教会建設に協力してくれる人々は、それが「必要だと信じ、必要だと知っている」人々です。イエスがパンを取り、割いて弟子たちにお与えになった。杯も同じようにして分けてくださった。そのために今の建物に手を加えたり、新しく建て直したりすることを「必要だと信じ、必要だと知っている」これは、現代にあって最後までイエスへの信仰に従う中での試練だと思います。

イエスへの信仰は、試練によって鍛えられます。ペトロの手紙に次のように書かれています。「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」(一ペトロ1・7)

イエスに最後まで従っていく弟子たちの言葉にもう一度耳を傾けましょう。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(6・68-69)

今では懐かしさすら覚えますが、私たちの信仰もこうでありたいものです。イエスへの信仰は、「ここまでは信じるけれどもこれ以上は信じることができない」というものではなく、試練の中で「信じます」と繰り返すことで磨かれていくのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第22主日(マルコ7:1-8,14-15,21-23)
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ちょっとひとやすみ
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▼"Switch Bot(スイッチボット)"という家電を便利にする道具がある。簡単に言えば、離れていても「スイッチ」を押せる道具で重宝するのだが、例えば「部屋の電気」を考えると、一度に押せるのは通常「ONかOFF」どちらかのスイッチしかない。
▼離れたところから電気のスイッチを押せるようになったとしても、「消すことができるようになったが、つけることができない」ということになる。もちろん、スイッチそのものを付け替えると、同じ場所を押してつけたり消したりできるので、"Switch Bot(スイッチボット)"の恩恵を存分に受けられる。
▼ただし、器具を取り替えるには電気工事士の免許を持った人が必要になる。あ~。前任地だったら「ちょっと来て~」で取り替えてくれる人がいたのだが、ここでは「ちょっと来て」と気安く呼べる人はまだ見つかっていない。そもそも、布団に潜ったまま勉強部屋の電気をつけられるようになったら、ミサに寝坊するではないか。

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今週の1枚
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第919回目。福江教会聖母祭(夏祭り)恒例の無茶振り。お手本など完全無視。

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年間第20主日(ヨハネ6:51-58)私たちは生涯かけて命のパンを消化していく

2024-08-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/8/18(No.1311)
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年間第20主日(ヨハネ6:51-58)
私たちは生涯かけて命のパンを消化していく
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昔の先輩司祭は、結論だけを若い司祭に伝える方々が多かったと思います。中田神父がお仕えした主任司祭は、「これから25年は働いてもらわないと、元は取れない。しっかり働いてくれ」と念押しされました。ほかにも、じわじわ効いてくる教えをいくつも受けました。

25年と一口に言っても、紆余曲折有るわけです。「こんなこと、あんなこともあるよ」といった途中のことはお話しなさらず、25年黙って働いてくれ、言いたいことはその後で言ってくれという教育でした。その主任神父様は、私が銀祝を迎える頃には病状が進み、「25年働きました。元を取りましたよ」という話をすることは叶いませんでした。

考えてみると、イエス様のことばも、ズバッと結論だけを言っているのかも知れません。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(6・51)だからユダヤ人は「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めたのでした。

ユダヤ人は、すぐに理解できる説明を求めました。しかし、イエスが全生涯をもって示そうとすることを、目先の説明で理解しようとするのは無理があります。イエスが「天から降って来た生きたパン」であることを、全生涯をもって証明しようとしている。そうであれば、今は理解できなくても、イエスに耳を傾け、イエスに従って歩み続ける必要があります。ユダヤ人はその覚悟を受け入れず、拒否しました。

結婚生活には銀婚式があり、奉献生活には銀祝があります。司祭も銀祝があります。それまでの間に起こることをすべて説明してもらったとして、では25年の年月は必要ないと果たして言えるでしょうか。

「わたしは、天から降って来た生きたパンである」とイエスが仰ったことを短時間で効率よく説明してもらったとしても、それで私には長い信仰生活は必要なくなる、イエスを信じるのに長い年月など必要ないと、果たして言えるでしょうか?

無知な発言をした当時の私に、最初の主任神父様が言い残してくださった戒めを、私は決して忘れません。「お前なぁ。60(歳)にならんと言えんこともあるとぞ。」新米司祭でも、言いたいことがあればどんな発言も可能でしょう。しかし、長い年月が与えてくれた言葉は、年月によって重みが与えられ、その年齢にならないと意味を持たないのです。

イエスは、今も私たちを招いています。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(6・56)命のパンを受ける私たちの内に、いつも主イエスがいてくださいますように。毎週の福音朗読を読み込んで準備した説教の中に、主イエスがいてくださいますように。私たちの言葉や行いは拙くとも、その中に主イエスがいてくださるなら、私たちの言葉や行いは決して無駄ではないのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第21主日(ヨハネ6:60-69)
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ちょっとひとやすみ
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▼最近思い出してYouTubeでチェックしている動画がある。お笑い芸人「ですよ。」の動画。お笑い芸人は「一発屋」が多いと言われ、消えていくことが多いわけだが、今も現役で、言ってみればたった一つの「当たりネタ」を全力で続けている。
▼最近見た動画では、千原ジュニアさんがインタビュー形式で「ですよ。」の深掘りをしていたのが印象に残った。一発屋と言われようが、一つの当たりネタを今も全力で続けている「動機」「モチベーション」を知り、一つのことを続けていくすごみを少し理解できた気がした。
▼司祭も、「イエスキリストに倣う生き方」しか知らないし、それしかできない。知的・身体的衰えが急速に追い付き追い越そうとしているが、生涯一つのことを積み重ねていく。

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今週の1枚
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第918回目。あまりの暑さに日傘を買った。日傘男子で「あいとぅいまてん」。

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聖母の被昇天(ルカ1:39-56) 神が示されたすべてを受け取ったマリアは天に上げられた

2024-08-14 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/8/15(No.1310)
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聖母の被昇天(ルカ1:39-56)
神が示されたすべてを受け取ったマリアは天に上げられた
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年間第19主日で、命のパンを受け取る手の形は、手のひらを上にして、授けてもらう・頂くという手の形でないと受け取れませんよ、と話しました。私は聖母被昇天の今日、マリアが神を賛美した言葉の中にもそのことを見つけました。

朗読でマリアは神をたたえて、「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」(1・51-53)と言いました。

神が力を振るうとき、きっとそれは手の甲を上にして力を振るうでしょう。思い上がる者を打ち散らす、権力ある者を引き降ろす、富める者を空腹のまま追い返す、こうした力を振るうときにも、手の甲を上にしてなさるのだと思います。

一方で、身分の低い者を高く上げる、飢えた人を良い物で満たす、こうした働きのために神は手のひらを上にして人々に近づいてくださるのです。先週のミサで説教をしたとき、すでに聖母被昇天の朗読箇所との繋がりを考えていたわけではないのですが、びっくりするほどうまく結び付きました。神様のなさることは、「時」に叶っていると思います。

賛美の歌を唱えたマリアは、小さくされた人の代表です。何よりご自身が、神に対して手のひらを上にして、差し出されたものを受け取る生涯を貫きました。幼子イエスを神殿に奉献したとき、幼子を抱く手のひらは上を向いていたはずです。

シメオンの預言には、目を背けたくなるような未来も含まれていました。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(ルカ2・35)それでも、マリア様の手は、示されたものをそのまま受け取る手の形を変えなかったのです。

また少年イエスと共に神殿礼拝に出かけ、わが子を見失って心配したときも、すべての出来事を心に納め、思い巡らしました。心に納めるための手の形も、きっと手のひらを上にしていたでしょう。それは、シメオンの預言が実現し、十字架の上でイエスがお亡くなりになったときも、変わらぬ姿でした。

マリア様は生涯を、神が示されたものをすべて受けとめる、手のひらを上にして頂く、その生涯を貫かれました。神が示されたものをすべて受け取る生き方を貫いたマリア様を、その体も魂も、天の栄光にあげてくださることは、ふさわしいことだと思います。

天に上げられたマリアは、「わたしの生き方に倣いなさい」と、私たちを手を開いて招いています。私たちは子供のようになって、マリアを慕ってここに集まっています。その手のひらはきっと、天に向けて開かれた手のはずです。

出来れば今日一日は、マリアの生涯を賛美するために、マリアの生き方を最高の栄誉で満たしてくださった神様を賛美するために、手を開いて、手を天に向けて差し出して、過ごしたいものです。

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‥次の説教は‥‥
年間第20主日(ヨハネ6:51-58)
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ちょっとひとやすみ
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▼いわゆる「お盆」の帰省客で下五島(五島市)もごった返している。上五島の実家には、妹夫婦と甥っ子が帰省して、実家の母を楽しませてくれた。海水浴に来た様子を妹が送ってくれたが、一年でびっくりするほど背が高くなり、幼い少年ではなく青少年といった雰囲気になっていた。日程が合わず、上五島に行けなかったのが残念。
▼8月15日聖母被昇天の日に、数多くのミサ依頼を受けている。「聖母の被昇天にあたり、・・・」というミサの依頼も小教区会計さんから用意してもらったが、そうではなく先祖のためのミサである。
▼「お盆」という感覚は、信仰とは別に日本人の中にはあると思うし、それをとやかく言う必要は無い。8月15日、聖母被昇天の祭日にミサをしてもらって、そのあと墓参りに行く。日本のカトリック信者にとってごく自然な振る舞いである。

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今週の1枚
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第917回目。餡入りふくれ饅頭。甘い物が無かった頃、聖母被昇天の日定番。

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年間第19主日(ヨハネ6:41-51)あなたの手は命のパンを受け取る形になっているか

2024-08-09 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/8/11(No.1309)
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年間第19主日(ヨハネ6:41-51)
あなたの手は命のパンを受け取る形になっているか
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8月、危険な暑さが続いています。下五島の教会は、エアコンの付いている教会とそうでない教会とあります。それぞれ事情があってのことでしょうが、身を守るために主任司祭のいる教会はエアコンを設置してくれたらと願います。

何かを手にする時、先を争って手にしようとする場合と、順番にいただいたりする場合とでは、手の出し方が違うと思います。先を争って手を出す時は、手の甲を上にして、上から掴もうとするはずです。順番に並んでいてももらえないかもしれない場合は、それも仕方の無いことかも知れません。

一方、順番に何かを手にする時、それは配られたもの、並んでさえいれば受け取れるものでしょうから、手の甲は下に、手のひらを上にして受け取るはずです。手の甲を上にするか、手のひらを上にするか。あらためて考えてみると面白いと思いませんか?

ここで尋ねたいことがあります。今あなたが手にしようとしているものは、手の甲を上にして掴みと取ろうとするものですか、手のひらを上にして、大切にいただこうとするものですか、どちらですか?ということです。

今週の福音朗読で、イエスははっきりと「わたしは命のパンである」(6・48)とおっしゃいました。ここで先ほど考えたことを当てはめてみましょう。命のパンであるイエス様を手に入れるのに、あなたは先を争うように手の甲を上にして手を伸ばし、掴み取ろうとするのでしょうか。それとも手のひらを上にして、与えられるその時を待っていただくのでしょうか。どちらでしょうか。

これはまさに私たちが聖体拝領をするときの動作です。司祭が「キリストのおんからだ」と言って聖体を授けます。私たちはどのように手を準備するのでしょうか。先を争って掴み取る手の出し方ですか?そうではないでしょう。もし手の甲を上にして掴み取ろうとするなら、中田神父はその人がカトリックの洗礼を受けた聖体拝領の準備のできている人かを不安に思うかも知れません。

興味深いと思いませんか?聖体を頂くみなさんの手の形が、私たちに命のパンであるイエス様との向き合い方を教えてくれているのです。私たちが命のパンにあずかるためには、順番を待つ人のように、心を整えておく必要があるのです。もっと言うと、命のパンが手のひらに授けられるその時をじっと待つ。そんな心構えが必要なのだと思います。

残念ながら、福音朗読に登場する群衆は、手を伸ばし、手の甲を上にして、先を争って掴み取ろうとする人たちになっていました。手の甲を上にして争って集まる人たちからは、命のパンであるイエスはこぼれ落ちていくのです。

神の恵みを待ち望む時。祈りに答えてくれる神に信頼して顔を上げる時。照らしを求めている時。苦しみの意味を教えてくださいと願っている時。あらゆる時に私たちは手のひらを上にして、手の甲を下にしていなければ、恵を受け取り損ねてしまいます。

私たちはこれまで、命のパンをいただくためにイエスとどんな向き合い方をしてきたでしょうか。身近なところでは聖母マリアが私たちの模範です。聖母被昇天のミサで、そのことに少し触れてみたいと思います。

私たちの手は、命のパンを感謝して受け取る手の形になっているでしょうか。恵みをいただくにふさわしい心が準備できるよう、主に照らしを願い、ミサを続けてまいりましょう。

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‥次の説教は‥‥
聖母の被昇天(ルカ1:39-56)
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ちょっとひとやすみ
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▼自国開催はやはり有利のようだ。パリオリンピック、フランスのメダル数は過去最高になったらしい。ただ、ニュースになる出来事の中には、「そんなことある?」という珍事も会っているらしい。女子の競輪種目、最終周を知らせるために鐘を鳴らすのが通常である。しかし担当する人が最終周の数え間違いをしたらしく、選手はもう一週全力で走らされたという。
▼人間のすることだから、間違いはある。しかし、選りすぐりの担当者がそのような間違いをして「間違いました」で済むのだろうか。間違いましたでは済まないこともある。責任が重くなればなるほど、任せられた務めを楽しむのは難しくなる。

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今週の1枚
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第916回目。「神父様このカセット覚えてますか?」大切にしている信徒に感謝

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年間第18主日(ヨハネ6:24-35)イエスは必要なときに必要なパンを与えてくださる

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こうじ神父
「今週の説教」
2024/8/4(No.1308)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第18主日(ヨハネ6:24-35)
イエスは必要なときに必要なパンを与えてくださる
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約一週間、体調不良でお休みしておりました。ご心配をおかけして申し訳ありません。助任司祭は今回司祭生活でいちばん働かされた一週間だったと思います。大変だったと思いますが、どこかで「これ以上無いくらいきつかった」という体験をすると、大きく成長すると思います。

今年の小教区黙想会で主任司祭から、「聖書の一節を自己紹介に使ってみてはいかがでしょうか」と話したのを皆さんは覚えているでしょうか。黙想会のテーマは「廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5・17)でした。中田神父は自己紹介に「『廃止するためではなく、完成するためである』を自分の生涯の目標として働こうと思っています」、そういうふうに説明しました。

イエス様のみことばの一節を大切にして信仰生活をあゆむ方法は大いに勧められるのですが、その中ではこの一節は大変難しい生き方かも知れません。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(6・27)ほとんどの人が、望んでそうしているわけではなくても、「朽ちる食べ物のため」働いていると思うからです。

上五島で、言い伝えになっている話があります。島の東側と西側にそれぞれ集落が広がっているのですが、その一つに奈良尾と桐という二つの集落があります。そしてこの二つの集落の特徴を私はこう言い聞かされていました。「奈良尾は稼ぐために働くが、桐は勉強させる為に働く」イエス様の「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないもののために働く」これに通じるのではないかと思います。

ご存知のように、桐教会からは何人もの司祭を輩出し、一人は司教様になりました。単純な比較をしてはいけないと十分分かっていますが、いつまでもなくならないもののために投資した結果が、このような形になったのではないかと考えています。

イエス様の示す生き方「道」は、いつも「朽ちる食べ物」ではなく「永遠の命に至る食べ物」でした。この世の物差しで計るなら、それはほとんど恩恵をもたらさないかも知れません。しかし、イエス様が示されたものを受けて食べた人は、それによってもたらされた結果を永遠に失わないのです。

中田神父も一週間のうち最初の三日間はベッドからほとんど動けませんでしたが、初金曜日にはベッドからほとんど動けない人に病人訪問で御聖体を運んでいたことをあらためて考え直すことができました。症状の重い期間を体験しなかったときは「元気な人が病気の人を見舞う」この形でしたが、これから10年20年は、「ほとんど動けない経験をした後に病気の人を見舞う」という形に変わります。御聖体を受ける人を思う気持ちは全く違うと思うのです。

イエス様ははっきりと仰いました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(6・35)イエス様から示されたものを、謙虚に受け、それをパンとして食べるとき、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る糧に変わるのです。

ただし、イエスが示されるパンの形を、私たちが選ぶことは出来ません。そこは注意が必要です。それが癒やしの奇跡を与えている姿であるか、最後の晩餐で弟子たちに配られるパンとぶどう酒の姿であるか、あるいは十字架上で命をささげている姿であるか、私たちは選べません。「これをどうやって食べろというのですか?」と疑うのではなく、「あなたが示されるもの、それを私はパンとして頂きましょう」そのような受けとめかたができるように私の心を準備しましょう。

今週は広島原爆の日、長崎原爆の日を迎えます。現在広島教区には上五島仲知小教区米山教会出身の白浜満司教様がおられます。白浜司教様のモットーは参考になると思います。モットーは「福音のためならどんなことでも」でした。

私たちも同じように、「イエスが与えてくださるものなら何でも受け取ります」そう心に決めましょう。どの場面のイエスであっても、それは私たちに必要なものを与えてくれる命のパンなのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第19主日(ヨハネ6:41-51)
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ちょっとひとやすみ
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▼完全に元に戻ったり、以前より強くなったりする年代があったと思う。しかし今は、いったん調子を落としたりすると以前の状態まで戻らないと感じている。それが「年齢」というものなのだろう。
▼完全に戻らないのだけれども、目の前のことは同じ量こなさなければならない。より慎重に、自分の調子を考えながら、務めを果たすようにする。場合によってはもっと量を減らす。そこまで考えないと、今年の夏は乗り切れそうにない。

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今週の1枚
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第915回目。田平修道院が新築落成された。近いうち必ず、正式に訪問したい。

ホームページもご覧ください。
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† 神に感謝 †
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