こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第22主日(マルコ7:1-8,14-15,21-23)いつでもどこでも、清い手を挙げて神を賛美したい

2021-08-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/8/29(No.1137)
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年間第22主日(マルコ7:1-8,14-15,21-23)
いつでもどこでも、清い手を挙げて神を賛美したい
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今週の説教は、2018年版をもとにしています。全国的に猛烈な感染拡大の中、中田神父は五島の母親の顔もなかなか見に行くことができずにいます。2年くらい見てないかも知れません。もう3年前になるでしょうか、侍者・先唱者の子供達と福江に巡礼に行きました。水ノ浦教会の敷地内に、野外の十字架の道行が設置されていました。私はこれを見てすぐに、「あー、これが田平教会にあったらいいなぁ」と思いました。

野外の十字架の道行は魅力的です。歩きながら、キリストの十字架の道をお供する。もちろん聖堂内でも十分な恩恵を受けることができますが、これが田平教会の野外でできたらどんなに素晴らしいだろうと思いました。場所は信徒会館の裏手になりますが、土地の所有者の寛大な協力の結果、目処が立ちつつあります。あわせて樹脂製の十字架の道行のレリーフを譲り受けたので、第一流を刻むのももうすぐそこまで来ていると感じています。

今週の福音朗読に「昔の人の言い伝え」をなぜ守らないのかとイエスの弟子たちにファリサイ派の人々が詰め寄る場面があります。「昔の人の言い伝え」を大事にするファリサイ派の人たちは必ずしも言い伝えに凝り固まった人たちではなく、もともとは聖書の教えを実生活に生かそうと努力した人たちでした。

ところが彼らの向かった先は、実際には神の思いを実生活に活かすところまでたどり着いてなかったのです。「清い手で食事をすること」はたしかに神の望みですが、家のもの一切合切洗い清めて食事をしなさいとは望んでおられないのです。細かな規則を作りすぎたあまり、「清い手で食事をする」ことから遠く離れ、「家財道具一切を洗い清めること」に終始してしまっていました。

冒頭で話した十字架の道行ですが、みなさんが十字架の道行で思い出すことはどんなことでしょうか。「イエスの十字架への道のりを偲び、黙想する」ことはもちろんですが、もしかしたら「十字架の道行は四旬節にするもの」「条件が整えば免償を得られる」そういった事かもしれません。

今並べた2つのこと「十字架の道行は四旬節にするもの」「条件が整えば免償を得られる」が、もし十字架の道行の信心に取り組むのを難しくしているとしたらどうでしょうか。「十字架の道行きは四旬節にするもの」という考えがこの信心業を私たちから遠ざけているなら、私たちもファリサイ派の人たちと同じ過ち、「伝統や習慣に縛られている」という過ちに陥っているのではないでしょうか。

十字架の道行は、イエスの受難・復活までの場面を思い起こす信心業のはずです。もっと頻繁に、この信心に加わって、イエスのご受難・ご死去・ご復活を黙想できたらと思うのです。十字架の道行を終えて疲れたと感じるのではなく、喜びを感じて帰ることができれば。十字架の道行をしながら実際に歩く。ルルドでロザリオをして時間を過ごすことに負けず劣らず、充実した時間を過ごせるでしょう。この教会に野外で十字架の道行を設置したいと思っている私の狙いです。

十字架の道行のような伝統的な典礼のわざ、またロザリオや連祷といった信心業に興味を失っている人は多いと思います。こんな流れだからこそ、神への忠実を呼び覚ます典礼のわざや信心業を次の世代に伝える工夫が必要だと思います。個人的な信心業は、神の思いを実生活に活かす助けとなります。私の在任中に、たとえば十字架の道行のできる「祈りの園」を設けて、親から子に、重荷ではなく喜びと感じられるような伝え方を学ぶ一助ができればと願っています。

「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。」(7・14)イエスは神の思いが何であるかを確実に教えてくださる唯一のお方です。私たちが神の望みをどのように実生活に活かすことができるのか、常に教え導いてくださいます。私も、この教会と平戸地区のために熱望している「祈りの園」の計画が本当に神の思いを学ぶ場所になりうるのか、イエスの照らし、導きに心を開いて教えを請いたいと思います。

実現に向けて、まだ課題があることも事実です。田平教会聖堂は、耐震工事を必ず施さなければなりません。ひょっとしたら、信徒会館の裏手の土地は、耐震保修工事関連の土地使用が先に来るかも知れません。ただ、聖堂が使用できなくなるのが間近に迫っているのに、十字架の道行ができないのは教会の典礼活動にとって多大な損失です。どうかご理解いただき、皆さんの声で、計画を前に進めていただきたいと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第23主日(マルコ7:31-37)
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ちょっとひとやすみ
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▼ワクチン接種は予想以上に影響を受けた。2日間は腕が腫れたし、1週間経った今でも違和感がある。幸か不幸か、長崎教区は私がワクチン接種をした週から公開ミサが中止になり、その5日後には政府が長崎県を「まん延防止等重点措置」の対象に加えて、期間は9月12日までとなった。
▼実は9月11日が2度目の接種に当たっており、公開ミサの中止は9月6日までだったのだが、主任司祭の事情を加えて12日まで中止としていた。たぶん、後から公開ミサの中止が延長され、「予定調和」となるだろう。
▼ワクチンの影響は2回目が強い反応が出ると聞いている。1回目であの調子だから、2回目はどうなるだろうか。それにしても、ワクチンの影響を軽く考えなかったのは本当に良かった。ついでの話だが、公開ミサの中止が決まってから、説教は9月12日分まで、すらすらと書けた。不思議なものだ。

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今週の1枚
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第744回目。ふだん漫画を読まないが、これは面白い。「よしもとこうじ」作(笑)

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年間第21主日(ヨハネ6:60-69)イエスのもとに来る→信じる→肉を食べ血を飲む(3)

2021-08-21 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/8/22(No.1136)
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年間第21主日(ヨハネ6:60-69)
イエスのもとに来る→信じる→肉を食べ血を飲む(3)
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三週連続で共通のテーマを掘り下げてきました。「イエスのもとに来る」「イエスを信じる」「イエスの肉を食べ血を飲む」このテーマも今週で完成します。イエスのもとに来て、イエスを信じたなら、私たちはミサの中でイエスの御体と御血にあずかることができます。

ミサの中でイエスの御体と御血(ほとんどの場合御血の拝領は司祭だけですが)をいただくのは、私たちがふさわしかったからではなく、イエス様からの溢れる愛のおかげです。神が私たちにくださる溢れる愛を、私自身の体験と重ね合わせて考えてから、もう一度聖体の恵みに戻りたいと思います。

私はおよそ30年前に司祭に叙階していただいたのですが、この恵みが人間の努力や才能で手に入れたものだとはとても思えません。努力や才能で決まるのであれば、足りなかったと思います。私は中学1年生の時から成績は神学校の同級生の中で3番目、4番目でした。最も優れた人が選ばれるのであれば、いつも少し足りなかったのです。

また、聖歌隊にも選ばれることはありませんでした。中学3年生の時、高校を卒業して福岡の大神学院に入学してから、さらに上級生になってスータンを着るようになってからも追加の聖歌隊選抜試験がありましたが、ことごとく不合格でした。

努力と才能で司祭に選ばれるのであれば、最も優秀な人が選ばれるべきです。けれども神様は、その溢れる愛で「少し足りない」私を選んでくださったのです。いざ司祭になってみると、社交性、リーダーとしての適性、将来を見通す計画性、どれも少し足りなかったのでした。そんな私を神様は辛抱強く使い続けてくださいました。

しかし溢れる才能を持っていても、神様が選んでくれるかは分かりません。人によっては、才能を生かして立派な資格を手に入れたりするでしょう。その資格があれば、当然置いてもらえる地位や役割があるはずです。けれども神様が、その資格を手に入れた人を必ずそれにふさわしい地位や役割を与えるとは言えないのではないでしょうか。

もし神様が、期待できるはずのものを与えなかった時、私たちはどう反応するのでしょうか。神様は不公平だと、怒りを表すのでしょうか。私たちは神様の溢れる愛を知っています。しかし私たちには、神様と同じ溢れる愛は備わっていないので、神様のなさり方が理解できない時に、苦しむのです。その時私たちには謙虚さが必要です。謙虚さが少し足りないので、待たされているのかもしれません。

日曜日から日曜日まで、一週間ありました。ここに集まっている(緊急事態で集まっていないかも知れませんが)私たちは、イエスを信じ、イエスを知り、愛しているからここにいるのですが、それでも一週間の間には「報われて当然のことが報われなかった」「理解されるはずのことが理解してもらえなかった」いろんなことで怒りを覚えたり不信感を持ったりしたでしょう。

それは、本来であれば祭壇の食卓に近づくにはふさわしくない心の状態です。ふさわしくないのに、イエス様は溢れる愛で私たちを招き、その愛の形見を分け与えてくださるのです。それで十分なのではないでしょうか。人には知られていない怒りや憎しみを持って、祭壇に近づいている。それでもイエスは赦してくださって愛の記念を与えてくださる。この世のことが思い通りにいかなくても、イエス様の愛の記念をいただいたのですから、この世のことは赦してあげてはいかがでしょうか。

私たちは今、災害に見舞われているような苦しい日々を送っています。それでも、イエスが祭壇上で御体と御血を私たちに分けてくださっています。これ以上の慰めが、私たちに必要でしょうか?イエスのもとに来てイエスを信じる者にとって、御聖体以上に、変わらない愛を見つけることができるでしょうか。できないと思います。

多くの人が、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(6・60)そう言ってイエスから心と身体が離れようとしています。「あの人が離れていくのですか?」「あのような召し出しをいただいた人が離れていくのですか?」そんな出来事も起こるかも知れません。けれどもイエスの溢れる愛は、信頼に値するものなのです。

私の判断ではなく、神様の溢れる愛に、愛の記念である御聖体に、判断を委ねましょう。私が正しい判断をし、正しく愛することができる年齢に達するはるか昔から、イエスは私を呼んで、愛してくださっていたのですから。

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‥次の説教は‥‥
年間第22主日(マルコ7:1-8,14-15,21-23)
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ちょっとひとやすみ
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▼いよいよ、長崎県でも県独自の緊急事態宣言が発令されて、これに呼応するようにして教区からの通達が出され、公開のミサが中止となった。今のところ期間は3週間。木曜日の典礼委員会に出席した時、メンバーの一人から「また、『聖書と典礼』など、配り物を用意しなければなりませんね」と声が上がった。
▼すぐに私の頭の中では考えがよぎった。「『聖書と典礼』を配るということは、それに合わせて説教案が必要になる。それはすなわち、21日までのうちに数週分を作らないといけない、ということか・・・。」
▼偶然、22日(日)の説教が木曜日に出来上がり、「今週は1回目のワクチン接種もあるし、早めにできて良かった」と思ったのも束の間、「金・土とあと2日あるのだから、配り物に合わせて説教を用意しなさい。あなたを遊ばせたりはしない」という「天からのしるし」だったのだろう。

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今週の1枚
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第743回目。台風前に「もちの木」の枝をかなり落とした。ボランティアに感謝。

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聖母の被昇天(ルカ1:39-56)イエスのもとに来る→信じる→肉を食べ血を飲む(2)

2021-08-14 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/8/15(No.1135)
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聖母の被昇天(ルカ1:39-56)
イエスのもとに来る→信じる→肉を食べ血を飲む(2)
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聖母の被昇天、この日は終戦記念日、そしてカトリック平和旬間の最後にあたります。一人ひとり、世界平和・社会の平和・家庭の平和のために祈りましょう。今日お祝いしている聖母マリアは神によって天に上げられた最初の人物と言えます。私たちはマリアに与えられた栄誉に目を留め、母マリアを鏡として生きることにしましょう。

先週から、三週連続で共通のテーマを取り上げることにしていました。「イエスのもとに来る」「イエスを信じる」「イエスの肉を食べ血を飲む」という一連の流れです。先週は「イエスのもとに来る」ということに注目しました。今週は「イエスを信じる」ということを中心に考えてみたいと思います。

聖母マリアは、生涯をイエスへの信頼の中で過ごされた方です。先週は「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」(ヨハネ6・44)このいえすのみことばを強調しましたが、マリアは常にイエスを信頼していましたので、いつもイエスのもとに来るお方でもありました。私たちは御父に引き寄せられてイエスのもとに来るのですが、マリアはいつもイエスのそばにいる、そういう方でした。

聖書の箇所を読む限り、マリアのイエスへの信頼は一瞬も揺らぐことはありませんでした。イエスのもとを片時も離れたことがないので、イエスを信じる心も決して変わることはありませんでした。神殿礼拝の際にイエスを見失い、三日後に見いだした時にも、母マリアのイエスを信じる心は変わることなく、出来事の意味が示されるまで、心の中で思い巡らしたのでした。

もっと言えば、母マリアは十字架上でのイエスの出来事を最後まで見届けましたから、十字架による救いに最初にあずかった人の一人だったのです。私たちはミサの形で、十字架によるイエスの救いの働きに預かりますが、母マリアはそれよりも早く、救いの恵みにあずかったのではないでしょうか。

すると、「イエスのもとに来る」「イエスを信じる」「イエスの肉を食べ血を飲む」この三つの出来事は聖母マリアの生涯の中で実現していた、と言えるでしょう。聖母マリアは幼子イエスを神殿に奉献する時から、「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(ルカ2・35)と預言を受けていました。ですからマリアの中では、私たちが取り扱う三つは同時に存在し、三つを生涯を通して実現していたのです。

私たちは聖母マリアのように三つが同時に存在することはできません。それでもマリアを模範とし、イエスのもとに来るたびにイエスへの信仰を呼び起こし、感謝してイエスの御体と御血に近づきます。イエスを遠くから信じるという道は存在しません。日々、イエス・キリストをより近くに感じる生活を心がけましょう。マリアを模範とする生き方が、イエスに近くいてイエスを信じるための最も近道となるはずです。

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‥次の説教は‥‥
年間第21主日(ヨハネ6:60-69)
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ちょっとひとやすみ
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▼マリア様を見たことはないが、こんな方だったのではないか、ということは想像できる。司祭でなくても、それは当然可能なことだ。中田神父が考えるマリア様は、「常に神に心を開いて生きている女性」という姿である。
▼神に心を開いて生きるなら、神の照らしを常に受け、必要な力も受けるに違いない。私たちはどれだけ神に心を開いて生きるかで、マリア様の姿に倣うことができるのではないだろうか。マリア様の模範は遠い雲の上の模範ではない。

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今週の1枚
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第742回目。ヘチマを収穫し、スポンジのような中身を取り出した。台所で使用

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年間第19主日(ヨハネ6:41-51)イエスのもとに来る→信じる→肉を食べ血を飲む(1)

2021-08-07 | Weblog
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年間第19主日(ヨハネ6:41-51)
イエスのもとに来る→信じる→肉を食べ血を飲む(1)
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年間第19主日、来週の聖母の被昇天、再来週の年間第21主日を、繋がりのあるテーマで説教してみたいと思います。その繋がりとは、「イエスのもとに来る」「イエスを信じる」「イエスの肉を食べ、イエスの血を飲む」この流れで考えるということです。

先週初金曜日に、病人訪問に回りまして、暑さ対策に飲み物をちゃんと用意しなければと、冷蔵庫を開けました。運転中にペットボトルのキャップを回すのは至難の業なので、飲み口にストローが付いた別売りのキャップをはめて用意しました。

冷蔵庫を開けると、「しそジュース」と炭酸水が入っています。「おー、シュワシュワーっとしておいしそうだなぁ」と思い、ペットボトルに「しそジュース」と炭酸水を詰め、出発しました。「炭酸入りのしそジュースはさぞうまかろう。」そんな想像を膨らませて出かけたのです。

病人訪問はいつも軽トラックで回っています。一軒目は県道沿いの個人宅です。二軒目は山の中のぽつんと一軒家です。二軒目に向かう頃にはさすがに喉が渇きまして、楽しみにしていた「しそ炭酸ジュース」のキャップに手をかけました。キャップは「パチッ」と音がして開いて、ストローが飛び出すので、運転中でもラクに水分補給ができます。いつも通りに「パチッ」とキャップの音がしました。

すると、何ということでしょう!それまで軽トラックがガタゴト揺れていたためにペットボトルは炭酸が膨張していました。飛び出したストローから勢いよく「しそ炭酸ジュース」が車の中であふれ出し、私は海外の表彰台でよくあるシャンパンファイトのように、大量の「しそジュース」を浴びたのです。飲み口が狭いストロー形状だったために想定外のことが起きたのでした。楽しみにしていた「しそ炭酸ジュース」は、結局一口しか飲めませんでした。

福音朗読に戻りましょう。三週連続で見渡す最初の一週目は、「イエスのもとに来る」というテーマです。イエスのもとに来ることくらい、朝飯前ではないか。皆さんはそう思うでしょうか?今週の朗読箇所でイエスはこう言います。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」(6・43-44)

自分の力で、自分の理解力で、イエスのもとまで来ることができるはず。多くの人がそう考えています。しかし実際は、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」のです。

田平教会には毎年数え切れないほどの観光客が訪ねてきます。ステンドグラスがきれいだ、レンガ造りの聖堂が見事だ、いろんな驚きと感嘆の声を上げて帰りますが、その中の誰も、信仰に導かれる人はいません。ただの一人もいないのかと言われれば分かりませんが、時々そういう人が現れるのであれば、今ごろは洗礼の勉強会で大忙しのはずです。観光客が肉眼で見るものは私たちが見るものと同じはずですが、私たちのように祭壇に近づき、聖書のみことばに近づくことはないのです。

私が先ほど引用したみことばは、ある場面で頻繁に唱えたり耳にしたりしていますが、何の場面か思い出せるでしょうか?「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」

ここまで言えばたいていの人は思い出すでしょう。これは、葬儀ミサの告別式の中で繰り返し唱えている言葉です。亡くなった人は、自分の意思でイエスのもとに来ることはできません。御父が引き寄せてくださって初めて、イエスのもとに行くことが可能なのです。

私たちは自分の足でミサに来たと考えています。自分の意思で教会に来たと考えています。教会に来るか来ないかを決めたのは自分だと考えています。果たして本当にそれだけでしょうか?自分の意思でミサに行きたいと思っている人すべてが、ここに集まることができたのでしょうか。あるいは、ミサに行きたくないと思っている人はすべて、ここには来ていないのでしょうか。

そうではないと思います。私たちは何らかの形で、御父に引き寄せられて、御子イエスが祭壇上でささげるミサに与れているのです。私たちがみことばと御聖体まで近づくことができているのは、恵みによるものなのです。恵みは、私たちの努力の対価ではありません。完全に無償で与えられているものです。私はその恵みに感謝しているでしょうか。

ミサに参加したいのに参加できない人がいる中で、私はこのミサに参加しています。これが恵みでなくてなんでしょうか?当たり前のように思っていること、朝起きて夜眠りにつくこと、そばにいる人が今日もそばにいてくれていること。あらためて感謝の気持ちを表してください。今週のテーマである「イエスのもとに来る」とは、ここまで踏み込んで近づくことです。

「行こうと思えば行ける」「しようと思えばできる」それは何の言い訳なのでしょうか。私には、捨てられない何かが自分の中にあるので言い訳しているようにしか見えません。これまで捨てきれなかった何かを自ら捨てなければ、イエスのもとに来ることはできないのです。

今オリンピックが開催中ですが、一つのものを得るために、参加している選手達はどれだけ多くのものを捨ててきたことでしょうか。3年後、4年後には過去の栄光となるかも知れないのに、ただ一つのもののためにすべてを犠牲にして準備します。

「イエスのもとに来ること」は、私の力、意思だけではたどり着けません。この祭壇に、このみことばの食卓に触れる人は、父なる神の恵みによって引き寄せられた幸いな人たちなのです。心から感謝しましょう。恵みに気付いて感謝できる人こそが、次の週に取り上げる「イエスを信じる」人へと導かれるのです。

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聖母の被昇天(ルカ1:39-56)
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ちょっとひとやすみ
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▼オリンピックが最終盤になってきた。女子ゴルフの銀メダルを勝ち取った日本人選手は「イナミモネ」と言うそうで、私はすぐに、「あー、故郷に凱旋すると『お帰り!モネ!』と言われるんだろうなぁ」とひとり笑った。
▼これが話題になるのかは分からないが、物の見方として誰とも違う視点が欲しいとよく感じる。違う視点が、違う成長を与えてくれると信じている。同じ視点で同じ成長では、面白くないではないか。

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今週の1枚
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第741回目。ヘチマが実った。タワシを作ってもらおう。身体は洗わないけど。

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