こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

聖パウロの回心(マルコ16:15-18)パウロの回心は、実は私たちの刷新に直結します

2009-01-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/01/25(No.398)
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聖パウロの回心
(マルコ16:15-18)
パウロの回心は、実は私たちの刷新に直結します
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今日1月25日は、日曜日と重なってしまいましたが、「聖パウロの回心」を祝う日です。今年は教皇さまが特別に「聖パウロ年」を制定されましたので、日曜日のミサのうち1度だけ、「聖パウロの回心」の典礼でミサをささげることができると指示されています。

私たちの小教区では、大明寺教会が聖パウロにささげられた教会なので、大明寺教会で聖パウロの回心の典礼でミサをささげました。そして説教も、本来のように福音書に沿って説教するのではなく、聖パウロについて説教をしました。私は怠け者なので、馬込教会でも高島教会でも、説教だけは大明寺で説教したものをそのまま繰り返しさせていただきます。

さて、皆さんは聖パウロについてどのようなことを理解しておられるでしょうか。今年は聖パウロ年ですから、聖パウロについてできるだけ学ぶというのはすばらしい心がけです。ただし、皆さん一人ひとりが十分に材料を持っているわけでもありませんし、探せば材料はいくらでもあると言っても、それを探す手段も限られていると思いますので、できる限り、私が聖パウロについて学ぶ機会を提供したいと思っております。少なくとも3つ、聖パウロについて学ぶ機会を提供できると思います。

3つの材料を並べておきましょう。1つめは、今日の説教で聖パウロについて大まかな所を押さえてもらおうと思います。今年、聖パウロ年ですが、「聖パウロってどんな人ですか」と聞かれた時に、だれもがためらわずに「パウロという人は、こんな人でした」と言えるくらいの内容は持って帰ってもらいたいと思っています。

2つめは、土曜日から始まる「聖パウロの手紙を学ぶ会」がパウロについて私たちが知るための良い機会となるでしょう。パウロはイエスの12使徒ではありませんでしたが、ある意味彼ら以上に活動的に、イエス・キリストを地中海世界に告げ知らせたのです。パウロの宣教旅行の様子を、今回の聖書朗読会で十分味わうことができるでしょう。

3つめですが、これはもしかしたらばらさない方がいいのかも知れませんが、今年の黙想会は聖パウロについてじっくり学びたいと思っています。全体で5回くらい説教があるでしょうから、聖パウロについて集中的に話を聞けば、私たちは聖パウロの生き方を深く掘り下げることができるようになると思います。

それでは、今日は日曜日の説教として、聖パウロの回心について耳を傾けることにいたしましょう。パウロは、回心するまではサウロと呼ばれていた若者でした。この若者サウロが登場するのは、イエスへの信仰を受けた人々のお世話のために使徒たちによって選び出された7人のうちの1人、ステファノが殉教する場面です。

ステファノはイエス・キリストについて大胆な説教をし、それを憎んでいた人々がステファノを殺害しようとします。石投げの刑にして迫害するにあたり、人々が着物を若者サウロのもとに預けるのです。使徒言行録にそのあたりの事情が描かれています。

「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言った。それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。サウロは、ステファノの殺害に賛成していた」(使徒言行録7:55-8:1)。

この若者サウロが、ダマスコという町にイエス・キリストを信じる人々を捕らえて牢に入れるために出かけている時に、不思議な体験をしてイエス・キリストを信じるようになります。ステファノの殺害に賛成していた若者ですから、イエス・キリストを信じる者はけしからん人々だと本気で思い込んでいたのです。

それほど強い偏見を持っていた人が、ダマスコの途上でイエス・キリストと出会う体験をし、すっかり人が変わってしまいます。彼の回心の出来事は、使徒言行録第22章に詳しく書かれています。大まか紹介すると、天から強い光がサウロの周りを照らし、彼は地面に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞きます。

「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである」と答えがありました。さらに「主よ、どうしたらよいでしょうか」と尋ねると、「立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる」と返事がありました。この時、サウロはその光の輝きのために目が見えなくなり、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入ります。

ダマスコにはアナニアという人がいました。アナニアにも主が現れて、アナニアに導かれたサウロは目が見えるようになり、アナニアの勧めに従ってイエス・キリストを信じる洗礼を受けたのです。こうしてサウロは、かつてけしからん人々だと思い込んで牢屋に入れることすらためらわなかった人々と同じ仲間になり、大胆にイエス・キリストを知らせる者となったのです。ここまでが、聖パウロの回心と言われる出来事です。

ここには、なかなか簡単には理解できない出来事がいくつも出てきます。第一は、のちにパウロとなる彼が、イエス・キリストと出会ったということです。強い光に照らされ、地面に倒れるほどの経験とは、いったいどのような出来事だったのでしょうか。これは、パウロだけが味わった特殊な体験で、ほかの人には決して理解できないものなのでしょうか。

第二の理解困難な出来事は、光の輝きのために目が見えなくなり、アナニアが「兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい」と言うと、見えるようになったというのですが、この「目が見えなくなったこと」とか「元どおりに見えるようになった」という体験は、イエスが生まれつき目が見えない人をいやした時の奇跡と、同じように考えるべきなのでしょうか。それとも、何か別の説明が可能なのでしょうか。

ほかにも、パウロのダマスコでの出来事には、興味を持って深く分け入ることのできる点があるようです。それらも含め、ぜひ今年の黙想に参加して、聖パウロについての学びを得ることにしましょう。今年6月いっぱいまで設定されている聖パウロ年を大きな実りの期間にするために、ぜひ「聖パウロの手紙を学ぶ会」と、「今年の黙想会」に参加することをお勧めいたします。


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ちょっとひとやすみ
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▼メルマガは現在398号です。そうです400号が近いのです。100号の時は「パチパチパチ」なんて自画自賛していました。200号の時は落ち着いてその日を迎えました。300号の時は301号を書く時に「あれっ?先週300号だったんだ」みたいな感じで、気づかないうちに通過しました。
▼400号はもちろん、十分意識しています。ここまで支えてくださった方、1度でも立ち寄ってくださった方、いろんな方との出会いがあって400号を迎えられそうです。400号発行が目の前に見えた今、また1つ見えなかったものが見えるようになりました。それは、読者のみなさんのことです。
▼読者がいるという客観的な事実はメルマガ創刊のときから分かっていたことです。そうではなく、1人ずつ、違った思いでメルマガを受け取っておられるのだろうなぁと、そういうことがようやく見えるようになったということなのです。
▼何人の人が読んでくれているという数字のことではなくて、このメルマガが届いたその向こうには、その人だけの生活があって、その人の1週間の中で、何かの縁があって、このメルマガがちょっとおじゃましているのだろうなぁ。そういうことが、感じられるようになったのです。
▼見えていなかったことが見えるようになるということは楽しいものです。もちろん、私のような意地悪な人間は、私に見えているものが目の前にいる人に見えてなくて、「それはどこにあるのですか」「どうやったら見えるのですか」と悪戦苦闘しているのを見るのもおもしろいのですが。
▼ゆっくり400号のその時を迎えたいと思います。400号のことだけに構っていられないのが現状ですので、1つずつやって来る日々の出来事の中で、確実にやってくるのだという楽しみをじっくり味わいながら、その日を迎えたいと思います。いつもその場しのぎの人間が、こんなに長く1つのことを続けることができた。その事実を、ゆっくり味わいたいのです。

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新企画今週の1枚
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第5回目。こうじ神父の住む長崎市伊王島町でここまで雪化粧するのは希です。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第4主日
(マルコ1:21-28)
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年間第2主日(ヨハネ1:35-42)本当につながるべき相手はイエス・キリストです

2009-01-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/01/18(No.397)
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年間第2主日
(ヨハネ1:35-42)
本当につながるべき相手はイエス・キリストです
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今週はまず第1朗読から話を始めたいと思います。サムエル記の主人公である少年サムエルは、神殿で寝起きして祭司エリに仕えていました。その少年サムエルが、眠っている間に主に呼ばれます。主に呼ばれ、将来の預言者に向けた導きが始まっていく、その最初の出来事が今日の第1朗読でした。

少年サムエルははっきりと自分に呼び掛ける声を聞いたので、祭司エリのもとに行って、「お呼びになったので参りました」と祭司に答えます。もちろん祭司エリは少年を呼んでないのですが、おもしろいなぁと思ったのは、ひと晩で3回も、「お呼びになったので参りました」と祭司のもとに行くわけです。私が祭司だったら、「いい加減にしてくれ。寝られないじゃないか」と言いたくなります。

それに、ひと晩で3度ぐっすり眠って、声を感じてその度に祭司のもとに出向いたわけですよね。起こされてまたぐっすり眠って、起こされてまたぐっすり眠ってと、そんなに切り替えができるものなのかなぁと変な所で感心しました。あまり妙なことが起これば、眠れなくなるのではないかと私などは心配するのですが、少年はすぐに眠りにつくのだなぁ、羨ましいなぁとか思ってしまいました。

さてサムエルが、主の声を聞いて祭司エリのもとに行ったのは、ただの勘違いとも言えないと思います。少年サムエルは、神殿で祭司エリにお仕えして暮らしていました。祭司エリは、言わば親代わりであり、サムエルにとって離れてはならない相手だったのです。いつも祭司のそば近くで仕えて、祭司エリとの深い絆を感じていたわけです。

もちろん祭司エリも、そんなサムエルの気持ちを知っていたでしょう。少年の心が祭司に固く結ばれていることを再確認したと思います。けれども最終的には、祭司エリは少年サムエルをお呼びになったのは主だと理解しました。そこで彼は、人間である自分との絆よりも、主との絆を理解させ、主に固く結ばれるよう優しく導いたのです。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい」(サムエル上3:9)。

私はここに、祭司エリの優れた素質を感じました。起こっている出来事を正確に読み取り、目の前にいる少年にいちばん必要な指示を的確に与える。これは優れた指導者、賢者でなければできないことです。もっと言うと、祭司エリを優れた指導者となるよう導いた主である神の働きに、圧倒されてしまいます。

優れた人というのは、たまに優れているのではなくて、やはりその人全体が優れているのだと思います。たまたま人の心の中にあるものを言い当てたとして、その人が優れているかどうかはまだ分かりません。すぐに化けの皮がはがれることもあるでしょう。その全体が優れているという指導者に少年サムエルは巡り会い、彼から全宇宙の指導者である主へと導かれていったのでした。祭司エリに固く結ばれた少年を、さらに大きな方との絆に入るように促したことで、祭司エリは真の賢者だったのです。

この第1朗読の流れは福音書につながっています。洗礼者ヨハネは自分の弟子であった2人を、イエスへと向かわせました。ヨハネの2人の弟子は、ヨハネに固く結ばれていたはずです。もしヨハネが頑なな人であったなら、「お前たちはまさかわたしを捨てないだろうな」と言って脅したかも知れません。

けれどもヨハネは、真に偉大な預言者でした。自分に固く結ばれていた弟子を、イエスに向けさせるのです。「見よ、神の子羊だ」(ヨハネ1:35)。2人の弟子は戸惑ったことでしょう。「自分たちがイエスという人のもとに行けば、先生のもとを去ることになる。本当にそんなことをしていいのだろうか」そんな迷いがあったのではないでしょうか。

2人はヨハネへの未練を残しつつ、イエスのもとを訪ねます。そしてイエスの魅力をすぐに理解し、イエスのもとに泊まるのです。2人はイエスの偉大さに惹きつけられると同時に、自分たちをイエスのもとに向かわせた洗礼者ヨハネが真に偉大な預言者であったことをあらためて知ったことでしょう。

イエスという、本当に結ばれるべき相手を知りながら、その邪魔をするなら、その人は真に偉大な人物とは言えません。真に偉大な人は、「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」(ヨハネ3:29)ときっぱり言える人なのです。

祭司エリ、洗礼者ヨハネという偉大な指導者のことを話しながら、私は1つのことを思い出しました。滑石教会から転勤となって太田尾教会に異動になった時のことです。私が教会の役員たちと一緒に苦労した時間を思い出してくれて、自分と離れなければならないことを思って婦人会の方が涙してくれました。その時私はこう言ったのです。

「ありがとう。わたしのことをそんなに思ってくれるのだったら、次にやってくる神父さまに、わたし以上にお仕えしてくださいね」。その婦人会の方は、わたしが転勤した後に婦人会長になって、あとでこんなに言ってくれました。

「神父さま、神父さまに言われたことはちゃんと守っていますよ。今の神父さまに、今まで以上に協力していますから、安心してくださいね」。その言葉を聞いて、私はほんのちょっとだけ、洗礼者ヨハネと同じような使命を果たせたのかなと思いました。

本当に結ばれるべき相手がイエス・キリストであると知っている人は幸せです。祭司エリの中にその種が見られますし、洗礼者ヨハネは明らかにイエス・キリストこそ栄えるべきであり、自分は衰えねばならないと知っていました(ヨハネ3:30)。イエスの弟子となっていく2人も、イエスを知れば知るほどヨハネの偉大さが分かり、自分たちはイエスに結ばれるべきであると確認します。

それぞれの生活で、だれもがイエスこそ自分が結ばれるべき相手なのだと知る必要があります。自分自身をイエスに結び付けなければなりませんし、それと同時に、身近な人が、イエスに結ばれるようにお世話する必要があるのだと思います。

人をイエス・キリストに結び合わせるということについて、私は1つの機械作業を見て、はっとさせられたことがありました。その場面を紹介して、今週の説教の結びとしたいと思います。それは、金属の水道管をつないでいる作業を見た時でした。ステンレスの水道管だったかなぁと思うのですが、最初はまったくつなぐ部分のない水道管に、ねじ切りの機械を当てて溝を切っていくわけです。そうやって2本の金属管を、小さな継ぎ手でつないでいました。

一見なんでもない作業のようですが、私はその一連の作業を見てほとほと感心しました。まったくつながるはずのない2本のステンレス管が、機械で溝を切って、小さな継ぎ手でつながっていくのです。そして私は知らないおじさんがそういう作業をしているのを見て、心の底からこう思いました。「わたしは、ステンレス管をつないでいる継ぎ手になりたい」。

ステンレス管は、普通であればどんな接着剤を使っても簡単につながるものではありません。溝を切って、その溝にピッタリ合った継ぎ手を用意しなければ、つながらないのです。また、完全に適合した継ぎ手でなければ、水が漏ってしまうでしょう。

あんなに簡単に、溝を切って継ぎ手でステンレス管をつないでいる様子を見て、私は感動しました。私もあの継ぎ手になりたいと思います。小さな道具ですが、それがなければ絶対に2本のステンレス管はつながらないのですから、かけがえのない物のはずです。そのように、私は信者のみなさんと神さまとをつなぐ継ぎ手でありたいと思いました。

自分は、信者のみなさんに、どこにつながるべきかをはっきり示す役割がある。その役割に徹しなければならない。そう思ったのです。特に、信者のみなさんと神さまとの間に溝を切って継ぎ手でつなぐ部分は、この建物としての教会であり、ミサだと思います。教会でのミサを通して、私はみなさんを神さまとつなぐ。そのために自分は小さな継ぎ手でありたいと、心から願いました。

だれもが、本当につながるべき相手はイエスであると知る必要があります。自分自身が、イエスにつながろうと懸命に努力して生きるべきですが、あわせて、周りの人を、イエスにつながるように手を貸してあげましょう。あなたが、だれかの継ぎ手になって、周りの人を神さまに堅く結び付ける人となれるように。今日そのためにミサの中でお一人おひとりのために祈りたいと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼長崎教区には成人の日に必ず「誓願式」を組む修道会があり、今年もその修道会の案内にのこのこと出かけていった。結論から言うと、行って良かった。というのは、この日初誓願を迎えたある修道女は、名前は知らなかったけどちょっとした有名人だった。
▼どういう有名人かと言うと、叙階式とかの答唱詩編で、よく祭壇の朗読台に上がって詩篇を歌っていた志願者だった。歌を聞く度に、「いい声してるなぁ。どこかでレッスンを受けたんだろうか」などと勝手に想像していたが、教区の聖歌を指揮している神父さまが祝賀会で隣の席だったので聞いてみると、「何も特別なレッスンは受けていない。持っている素質そのままだよ」ということだった。
▼冗談抜きで、叙階式にでも出席して、答唱詩編を聞きに来てもらうとそのすばらしさが分かる。何と表現したらよいか、テクニックで歌っていない、言葉を歌にできる才能である。典礼聖歌75番「神よあなたのことばは」の3番、「あなたのすすめからそれないように、心を尽くしてあなたを求める」と歌えば、彼女がおそらくそのように思っているのだなと伝わる歌い方なのだ。これでどんな歌い方が伝わればいいのだが。
▼こう言っては褒めすぎかも知れないが、「惚れてまうやろ~」というような歌であることだけは確かである。もちろん専門的にはいろいろ不足もあるのかも知れないが、あんなシスターが聖歌を歌ってくれる教会の信者は幸せだろうなぁ。いったい将来どこの修道院に派遣されていくのだろう。
▼個人的な好みばかり書きすぎてしまったが、最近歳を取ったのか感動したり感激したりすることが多くなった。今手にしているデジカメも然り。よくできたカメラである。これからたくさんの写真を撮って、思っているものを思い通りに切り取れるようになりたいものだ。今週は、写真と言うよりは私自身を投影したポスターのようだ。制作者の高校生にこの場を借りてお礼申し上げる。

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新企画今週の1枚
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第4回目。このキューピーは、私をイメージして高校生が作ってくれました。

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‥次の説教は‥‥
(本年に限り)
聖パウロの回心
(マルコ16:15-18)
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主の洗礼(マルコ1:7-11)洗礼によってイエスは最後の水まで清めた

2009-01-11 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/01/11(No.396)
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主の洗礼
(マルコ1:7-11)
洗礼によってイエスは最後の水まで清めた
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「主の洗礼」の説教を、うんうん唸って、もだえながら考えていたのですが、あーこれはいいかもしれないなぁと思ったことを眺めてみたいと思います。洗礼に水が用いられているという点にもう一度じっくり目を向けた時、何かしら響いてくるものがありました。

「水」の基本的な性質は、「高い所から低い所へ流れる」ということです。この原則は、人が無理矢理に何かの細工をしない限り変わることはありません。今日馬小屋に、1つの絵を掲げてみました。本当は、ここに1メートルちょっとの大きさの御像を置く予定でしたが、今年の「主の洗礼の祭日」に完成できませんで、来年の同じ祭日にはお見せできると思います。

この御像の写真はまさに、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けている場面ですが、イエスの頭に水が注がれています。ここにも、私たちがよく知っている水の姿、「高い所から低い所に流れる」その特徴が現れています。

また、水はものを洗い清めますが、私たちの経験によれば、ものを洗う時はよごれの少ないものから洗い始めて、だんだんよごれのひどいものへと使われていきます。川が流れる土地では、水はまず飲み水に使われ、それからちょっとした洗い物に使い、いろいろ使い回された最後の水を、洗濯に使っていました。洗濯は、最後の最後に、水を使い切る手段だったわけです。

イエスは洗礼者ヨハネから、水による洗いを受けました。洗う必要のあるよごれなど、これっぽっちもなかったのに、水による清めを受けました。何も清めが必要でなかったのに、イエスはヨハネから洗礼をお受けになりました。私はここで、イエスが水のどの部分にいたのだろうかと考えたのです。

先に話したように、水で何かを洗い清めるには、順番があります。よごれの少ないものから始まって、最後の最後、いちばんひどいよごれ物を洗い流すのです。では、イエスの思いの中で、ヨハネから受けた水は、どのあたりを意識して受けたのでしょうか。

私はこう考えます。イエスは、最後の最後、いちばんひどいよごれの物を洗い流す水を意識して、洗礼をお受けになったのではないか。そう考えたのです。つまり、イエス自身は一切清めが必要なかったのであり、清めが必要だったのは、むしろ水のほうだったということです。

これから水と聖霊によって多くの人が洗礼を受ける。その水を、全世界の水を、今ヨルダン川の水に代表して、清めるためにこの洗礼の場においでになった。聖霊と水による新しい洗礼によって、もともと心の清い、ほとんどけがれに染まっていない赤ん坊に始まって、社会のドロドロした場所に浸かってその後に導かれて洗礼を受ける人々に至るまで、すべての人を洗い清める洗礼の水となるように、イエスが洗礼を受けることで全世界の水を清めた。私はそう考えたいのです。

そのように考える時、イエスがヨハネから受けたその水は、けがれに染まっていない赤ん坊を清めるきれいな水だけではなく、ドロドロによごれきった人間関係の中にあった人を清める最後の最後の水でもあったと考えることもできます。イエスは、この水は最初の頃に使う水だけではなく、最後の最後の水としても、人々を洗い清めるのだと、そういう意識で洗礼をお受けになったのではないか。そんなことを考えたのです。

イエスは、洗礼を受け、水の中から上がる動作をなさいます。最後の最後に使う水まで降りていって、そのいちばんよごれたものを洗う水の所まで行って、そこから上がってきて、いっさいの水を清めた。最後の最後、その場所にも罪の闇にある人間がいることでしょう。そこへもイエスは降りていって、人間を救うために、聖霊と水による洗礼を用意してくださるのです。

水から上がってくる時、すべての水、いちばんひどいよごれを洗う水さえも意識して、すべての水から上がってきた。そこへ天からの声が響きます。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」(1・11)。

イエスは、水が流れていってたどり着く最後の最後まで沈められてそこから上がってきたので、御父に愛される子であると思います。すすぎも要らない、軽く流すだけできれいになる場所だけを見てきたのではなく、もはや清められることなど不可能と思われるような場所まで、イエスは降りていって救いの手を差し伸べ、上がってこられたのです。それはつまり全人類を救う場所まで降りていったのです。だから、御父に愛されるのだと思います。

イエスが洗礼者ヨハネから受けた水は、「上から下に流れる水」でした。当たり前のようですが、実は当たり前ではありません。いちばん最後の、最後に流れ着く先まで降りていって、その水を清めてから上がってこられたのです。ですから、イエスが残してくださった聖霊と水による洗礼を受けた人は、どんな人であれ、どんな過去があったとしても、必ず救われるのだと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼具体的に書きたいけれども、書くと「どんだけ~嬉しいのか」がバレてしまうのでぼんやりと書いてみる。思いがけないことで声が掛かり、スキップしたい気分になっている。責任を持って果たさなければならないけれども、協力依頼の声が掛かるとは、夢にも思っていなかった。年の初めからいい感じ。
▼1月10日は1年に何日もないくらいの暴風で、雪が少しだけ積もった。積もったのは少しだけだったが、しばらく前が見えないほどの雪になった。この日、長野から来客があり、午前中島を案内したり話したりして時間を過ごしたが、まれに見る荒天は訪問者には手荒い歓迎だったと思う。船に乗ることも滅多にないのだろうから、伊王島に向かう時は生きた心地がしなかったかも知れない。
▼デジカメは画質、操作性共に申し分ない。あとは使う人間の腕次第。単焦点の設定にしているので、ピントが合っている部分がすなわち撮影者の狙っている部分であり、撮影者の意図がそこに表現されているはずである。そのような写真になっていないとしたら、まだまだ未熟だということだ。カメラに技術が追いつくのはいつの日か。
▼五島に帰り、雑煮を食べた。醤油味の雑煮。餅は焼いたものを入れる。具は、白菜。雑煮も食べたしそのほかにも出ただけ食べたのでまたリバウンドしてしまった。こんな時は歩くに限る。どこをどう歩こうか。イメージだけは膨らむ。頭の中では万歩計も使って歩いている。だが実際にはいつも日が暮れて、とても外には出ることができないほど寒くなって、また1日が終わっていく。あー。
▼10日、御像を制作する工房の人が直接教会に訪ねてきて、制作中だったけれども明日までに完成できなかった「主の洗礼」の御像をポスターにして持ってきてくれた。秀逸な出来映えで、満足している。ただし、デビューは来年ということになる。全くのゼロから、オリジナルのデッサンを起こし、形にしてくれた。ちなみに、今週の説教の中心テーマも、制作途中の御像から湧いてきたものだ。

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新企画今週の1枚
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第3回目。新しいデジカメで撮影。1:1の構図で、見納めの馬小屋を。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第2主日
(ヨハネ1:35-42)
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主の公現(マタイ2:1-12)贈り物を献げた学者は、自分の国に帰ります

2009-01-04 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/01/04(No.395)
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主の公現
(マタイ2:1-12)
贈り物を献げた学者は、自分の国に帰ります
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主の公現を迎えました。東の国からやって来た占星術の学者たちも、ようやく幼子イエスのもとにたどり着きました。彼らはここに来る前にこの国の支配者であるヘロデ王にあいさつに行き、自分たちがユダヤに来た目的をはっきり伝えます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2:2)。

占星術の学者たちの態度を、今週私たちもしっかり心に刻みましょう。「わたしたちはユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝みに来ました」。学者たちは、ヘロデへの挨拶もそこそこにユダヤ人の王を探し当て、礼拝をささげたのです。

目的がはっきりしている人の足、目的を持っている人の目は誰の目にも明らかです。脇目もふらず、その人の足は目的地に向かいます。彼らの姿と、私の姿を比べてみましょう。私は、占星術の学者のように、目的を持ってこの神の家に集まっているでしょうか。

もっとはっきり言うと、「王としてお生まれになったお方を拝みに」やって来たでしょうか。もし、幼子を拝みに来ているなら、私の足はしっかり目的地に向かっている足と言えるはずですし、私の目は何をすべきかはっきり捉えている目をしているはずです。

次に、学者たちはひれ伏して幼子を拝み、「宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」(2:11)とあります。彼らは幼子を王として拝みに来たのでした。学者たちにとって、王である幼子にふさわしい接し方というのは、贈り物を献げることだと考えたのでしょう。まだ言葉も話しませんし、何かの意思表示をするわけでもありません。それでも、占星術の学者たちは幼子を王として扱ったのです。

私たちも占星術の学者たちに見倣いましょう。幼子イエスを王として受け入れる態度を考えてみましょう。私が、どんな態度を取れば、幼子を王であり救い主であると認める態度になるのでしょうか。

いちばん身近なことは、贈り物を献げることです。占星術の学者たちは黄金と、乳香と、没薬を献げました。これら3つの贈り物が意味するものを、私たちが献げるなら、私たちは立派に幼子イエスを王として、救い主として受け入れていることになります。

この3つの献げ物が意味しているものは何でしょうか。黄金は、この世でもっとも高価な金属です。この世でもっとも高価なものは、もっとも尊い相手にふさわしい贈り物です。つまり、黄金を献げることで、その人はイエスを神として認めることになるのです。

乳香は、お手元の聖書と典礼の第1朗読解説にあるように、アラビアから輸入される香料で、古くから神殿への供え物にも用いられたとあります。神殿とは、神がおられる場所です。学者たちがイエスに乳香を供えたことで、イエスは神殿であり、神殿におられる祭司であることを認めて献げ物をしたということになります。

没薬は、聖書と典礼の福音解説によれば、結婚式や埋葬の際に用いられた香料とあります。表敬を表す贈り物として用いたのです。こうしてイエスが王であることを学者たちが認めたことを表しています。

3つの献げ物をよく学ぶ時、私たちも幼子に王として、救い主として接する道が理解できるようになります。私たちもまた、3つの献げ物を用意することで、幼子イエスにふさわしい態度を取ることができるのです。

では3つの献げ物を自分自身に当てはめてみましょう。黄金とは、この世でもっとも高価なものです。私にとってこの世でもっとも高価なものはなんでしょうか。もしそれを、幼子イエスに贈り物として差し出すなら、私たちは幼子を神として認めることになると思います。あなたにとって、もっとも高価なものが何か、私には分かりませんが、それを惜しいと思わずに、幼子の前に差し出しましょう。

乳香とは、神殿に対する供え物です。もっとも高価なものとはまた少し違う意味合いがあります。私の持っているもので、神殿への供え物は何でしょうか。神殿におられるイエス・キリストに、すぐに役立つものです。例えばそれは、婦人会が土曜日に実行している教会掃除かも知れません。花飾りかも知れません。お父さんたちの土日の守衛さんの仕事も、神殿へのりっぱな供え物です。ぜひ続けてくださって、供え物を絶やさないようにしていただきたいと思います。

結婚式や埋葬の際に用いられた没薬は、歌であり、祈りだと思います。幼子の前で聖歌と祈りを私たちが献げるなら、私たちは幼子を王と認めることになります。まとめると、今集っているこのミサこそ、幼子イエスへのいちばんふさわしい贈り物になるのではないでしょうか。

しかしながら私たちは、いつまでもこの聖堂の中に留まっているわけではありません。聖堂の中で私たちは生活しているわけではありません。実際の生活の場所に戻っていきます。戻っていく時に、私たちはここで学び、目で見て確かめたことを置いて帰るのでしょうか。

そうではありません。私たちが何かを見、学んだのであれば、それを生活の場に持ち帰るべきです。今週であれば、「東の国からやって来た占星術の学者たちの前に、幼子イエスは王として、救い主として示された」そのことを私たちは持ち帰るのです。見て、確かめたことを持ち帰り、羊飼いのように、また東の国に帰っていく学者たちのように、人々に告げ知らせましょう。私たちが幼子イエスに贈り物を献げてきたことを、この一週間、人々に知らせる者となれるように、ミサの中で照らしを願いましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼確か、配信の前に音読して確認したはずなのに、ミスしたまま配信してしまった。第10段落、「出来事のの中に、『語らせる力』が秘められている」となっていた。「出来事のの中に」は、音読しても気付かないものなのだろうか。今回も説教してみて気がついた。
▼12月28日の「ちょっとひとやすみ」の中でも、途中では「残り2日」と書き、最後には「残り3日」と書いていたのに気付いた。うーん、あまり神経を使いすぎか。この程度のことは、流れを止めないためにスルーしても構わないのだろうか。私は今でも気になっている。
▼デジカメを手放した。300万画素のデジカメだったのだが、今の時代、300万画素はケータイでも撮影できる。そういうことで、ちょっと気になっているデジカメを自分へのお年玉に買ってしまった。名前は、「GR-DIGITAL II」だ。知っている人もいると思う。
▼どうやらフィルムのカメラ時代からこのカメラは静かなブームだったらしい。形もほとんど変えずに、ずっと継承されているカメラだ。これからこのカメラで、毎週何かのシーンを切り取って届けたいと思う。もちろんド素人なので、気に入らない人はどこをどう直してみたら?とアドバイスをしてほしい。
▼今週、正月休みを取って家に帰る予定。五島列島の、田舎。新上五島町のなーんにもない所。そこでしばらく放電して、さらに充電を終えたら、今週末からまた復帰します。五島ではかんころ餅をたべ、雑煮の味を懐かしみ、知った人が訪ねてきたら昔話でお酒を飲んで、最後のしめは風邪を引いて帰ってくることになると思う。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第2回目。博士~どこ探してるんですか?うしろにいますよ~。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の洗礼
(マルコ1:7-11)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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神の母聖マリア(ルカ2:16-21)幼子の持つ「語らせる力」に気付こう

2009-01-01 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/90101.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
09/01/01(No.394)
‥‥‥†‥‥‥‥
神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
幼子の持つ「語らせる力」に気付こう
‥‥‥†‥‥‥‥

皆さん、新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。今年、私の決意は、「片付ける。先送りしない。」としました。昨年、教会の改修工事をずっと先延ばししたことを大変申し訳ないなぁと思っておりました。今年、何か動かなければならなくなったら、もっと素早く動いていきたいと思います。

さて、1月1日、神の母聖マリアの祭日に与えられた福音朗読の箇所は、羊飼いが誕生した幼子を探し当て、幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせたという場面になっています。その後の展開は、「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(2:18-19)となっていきます。

そこで、毎年のことですが、この中にあるマリアの態度、「出来事をすべて心に納めて、思い巡らす」という部分から、今週の糧、また今年一年の計を探してみましょう。まず、羊飼いの態度から取り上げてみたいと思います。

天使から、羊飼いに告げられた言葉は次のようなものでした。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(2:11-12)。

この言葉に従って、羊飼いたちはベツレヘムに行き、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てます。そこまでは当然の流れですが、幼子を探し当てた羊飼いたちは、さっそく出来事を人々に知らせに行くのです。「知らせに行く」という行動は、天使に命じられたことでもなく、羊飼いたちが自発的に取った行動です。

この場合、2つの可能性が考えられます。1つは、羊飼いたちが活動的であったので、出来事を人々に積極的に知らせに行ったというケースです。もう1つは、出来事そのものが、語らせる力を内に持っていて、それを見た人は、どうしても語らずにはいられないと考えるかです。皆さんは、どちらだと思うでしょうか。

私は、後の可能性が高いと思っています。羊飼いたちは大変喜ばしい出来事を目撃したのですが、だからと言って人々に知らせに行くことまで求められてはいないと思います。たとえば、この喜ばしい出来事にすっかり有頂天になって、知らせに行かないで終わることもあり得るわけです。

例を挙げると、重い皮膚病を患っている10人をイエスがいやしてあげた時、感謝しに戻ってきたのは1人のサマリア人だけでした。あまりの嬉しさに、我を忘れるということはあり得ます。救い主誕生の出来事を、人間の知恵によって知らせに行くというのであれば、必ず知らせに行くとは限らないわけです。

私が、後者ではないかと思った、つまり、出来事の中に「語らせる力」が秘められていて、見た人はそれを言わずにいられなくなると考えた理由は、そういう体験が身近な所にいくらでもあるからです。ついでに言うと、出来事によっては、うっかり口を滑らせたくなるようなすばらしい出来事でも、人間が語ろうとしないという場合もあります。

出来事のの中に、「語らせる力」が秘められている例を挙げてみましょう。このたぐいの例を挙げるのは簡単です。私自身の体験で言いますと、昨年末最後の魚釣りは12月29日でした。「1年の締めくくりに、行ってくるか」ということで出かけました。この日は久しぶりに島の裏側に回りまして、伊王島と高島の中間あたりでイトヨリ釣りをしたのでした。

幸いに、まともな魚が1匹だけ釣れました。合計では5匹釣りましたが、そのまともな1匹のイトヨリは、30センチを越える、まぁまぁの型だったわけです。このイトヨリのことは、どこかでぜひ話しておきたいなぁと思っていたわけですが、今日やっと、チャンスが回ってきました。

私はたいして釣れてない時にホラを吹いてまで「たくさん釣ったよ」と触れ回るたちの人間ではありません。でも、大きな魚が釣れると、誰でもそうでしょうけど話したくなるんですね。それは、私が話したがりやだからではなくて、魚に、言わせるだけの力を内に秘めているのではないでしょうか。見せびらかしたくてたまらなくなるのは、魚そのものがそれだけ立派だからだと思います。

救い主誕生の出来事も、羊飼いが話したがりやだったから人々に知らせたと言うよりも、やはり、出来事そのものに、「語らせる力」があったのではないでしょうか。幼子のもとには、しばらくすると占星術の学者たちもやってきます。私たちの教会でも、星の導きを頼りに学者たちは今旅をして、幼子のいる場所を目指しているところです。

どんなに小さなしるしであっても、そこに「語らせる力」がある出来事は、見た人を動かし、「語る人」に変えるのだと思います。マリアは、羊飼いが幼子を探し当て、見つけた後に人々に知らせる人に変わったのを見ました。宿屋もなく、救い主としての飾りもない、体一つの幼子を見た羊飼いが、人々に知らせる者となった。この幼子の中に、「語らせる力」があるに違いないと、思い巡らしたのです。

マリアの姿は、私たちに取るべき態度を示していると思います。私たちも、今は小さなしるしで現れてくださった救い主を目に焼き付けて、思い巡らしてみましょう。私が、信仰のことを人に知らせるとしたら、幼子としてお生まれになったイエス・キリストを伝えるべきではないだろうか。

何も身構えなくても近づくことのできる姿で、神はおいでになったのですよと、私たちは知らせるべきではないか。マリアのように思い巡らすことで、お生まれになった幼子から、私たちのなすべきことを教えてもらえるのではないでしょうか。

2009年、新しい年が巡ってきました。これからの歩みの中で、何度か、信仰を言い表すような場面が生活の中に現れるかも知れません。私はその時、尻込みしないで何かを言い表すことができるだろうか。今マリアのように思い巡らすことにしましょう。今日からの1年、私たちがマリアの取り次ぎによって救いの出来事を人々に語る者に変えていただけるよう願いましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼旧年中は大変お世話になりました。嵐のような1年でした。家族のこと、列福式など、何年分ものことがありました。そんな中で、メルマガを読んでくださる皆さんお一人おひとりが、私にとっての宝物です。メルマガに所々誤字・脱字、まずい表現などあって、気にしておられた方もいらっしゃることでしょう。今年もそれらをすべてなくすことはできないと思いますが、よろしくお付き合い下さいませ。
▼さっそく、昨年末の説教原稿で、「主の降誕」(日中)にミスを見つけました。「ヨハネは、マタイ福音書やるか福音書のような降誕物語を採用しませんでした」と書きましたが、「るか福音書」はもちろん「ルカ福音書」です。実際に説教していてこうしたミスを発見するのですが、この経験から学ばなければならないのは、「発行する前に、一度読んでみなさい」ということでしょうか。
▼そう言えば、メルマガの配信で「めろんぱん」という配信先からの配信を受けている方々にはご心配をおかけしましたが、配信先の事務局に問い合わせたところ、「事務連絡は休みになりますが、配信作業は通常通り可能です」とのことでした。ですので配信も特別早めることもなく、すべての配信先から通常通り配信されております。この件で声をかけていただいたりもしましたので、ありがたいなぁとあらためて感謝しております。
▼今年の抱負を考えてみました。今年は、「片付ける。先送りしない。」を念頭に、1年を過ごしたいと思います。なにせ、机の周りはゴミなのか書類なのか、それらが渾然一体となった状態で富士山のように積み上がっています。まずはこの辺をどさっと片付けて、もう二度と机に積まないようにしたいですね。
▼さてさて、今年はどんなことが起きるでしょうか。去年ほど忙しい1年でないことを、個人的には願っています。従って、家族も健康で、福者がいきなり聖人になって列聖式となったりもせず、これまで出会った方々も健やかに、この1年を過ごすことができればと願います。もう1つ、欲を言えば、「片付ける」と言いはしましたが、「荷物の箱詰め」はできれば避けたいと思っております。ただ、こればかりは、決まったら決まった通りに従うしかありませんが・・・。

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新企画今週の1枚
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第1回目。初日の出。伊王島に住んでいると、香焼(こうやぎ)側から日が昇ります。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の公現
(マタイ2:1-12)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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