こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第31主日(マルコ12:28b-34)「遠くない」という評価で満足できますか?

2021-10-30 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/10/31(No.1146)
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年間第31主日(マルコ12:28b-34)
「遠くない」という評価で満足できますか?
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今週の福音朗読は「最も重要な掟」という小見出しが付けられている箇所で、律法学者が適切な答えをしたとして、イエスから「あなたは、神の国から遠くない」(12・34)と称賛される場面です。

福音書の中で律法学者はほとんど敵対する勢力として描かれていますが、この律法学者は偏見なしに、謙虚にイエスに耳を傾け、掟に込められた神の愛を正しく理解し、神に応える道も理解します。ただ、「あなたは、神の国から遠くない」というイエスの答えは、やや引っかかります。

説教の途中ですが、ミサの始めにお知らせしたとおり、福岡教区のドミニコ田川清美神父様が10月17日に亡くなり、司祭のみで18日通夜、19日葬儀ミサが福岡教区の司教座聖堂カトリック大名町教会で行われました。

中田神父がFAXの通知に気付くのが遅れ、通夜葬儀に参列できなかったばかりか、弔電も香典も届けることができなかったのは痛恨の極みです。代わって、本日と11月3日の墓地ミサと、来週のミサ、合計3回、ミサをささげたいと思います。申し訳ありませんでした。

田川神父様の経歴を見ると、隠退生活23年を除く現役の司祭生活44年のうち、いくつかの教会の助任として9年間務めたのち、あとの35年間は馬渡島教会と呼子教会の主任だけを務めておられます。珍しい経歴です。馬渡島教会と呼子教会に交互に2回ずつ赴任です。考えさせられるものがあります。

福音に戻りましょう。登場する律法学者は、「あらゆる掟の根本となる掟」をイエスから示され、それを十分に理解しました。彼は「先生、おっしゃるとおりです」(12・32)と言っていますから、手放しでイエスの答えに同意したのでしょう。ただ、「遠くない」という評価にとどまりました。

十字架にはりつけにされた犯罪人の一人は、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23・43)と約束してもらいました。ある百人隊長には、その部下のいやしを願う中で「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(マタイ8・10)と宣言します。

それからするとイエスの「遠くない」という表現は、やや評価が低いような気がします。何がその原因なのでしょうか。あえて、その「差」を考えるなら、律法学者は十分な理解ができていたのにイエスに自分を委ねるための一歩を踏み出せなかった、ということかも知れません。

そう思って読み返すと、律法学者は「これからイエスの答えに添えるよう生きていきます」とは言っていません。「『すべてに超えて神を愛し、隣人を自分のように愛する生き方』を十字架上の死に至るまで貫くイエスに従ってまいります」そんな態度表明もありません。それでイエスも、「あなたは、神の国から遠くない」という称賛にとどまったのかも知れません。

高校生の時の体験を思い出しました。高校には物理という授業がありまして、名前は思い出せませんが風変わりな先生がこの授業を担当していました。授業中に、「女の子を完璧に口説く方法を教えてあげよう。」そんな、授業とはおよそ関係のない話を大真面目にしていました。物理の授業は全く役に立ちませんでしたが、「女の子の口説き方」はその後、人を説得する時に大いに役に立ちました。

学期末試験の時のことです。勉強した内容がズバリ的中し、手応えのある答案を出すことができました。答案を返してもらう際、みんなの前で「100点」と呼ばれたのでやったねと思っていたら、別の生徒が「P」と呼ばれたのです。

先生から「P」と発表された生徒は、私が逆立ちしても成績を上回れない神学生仲間でした。「100点ではなく、『P』とは何だ?」としばらく考えて分かりました。「P」とは「パーフェクト」という意味で、私は一カ所、教科書のとおりに書いてなかったのです。私の答案は100点ではあるけれどもパーフェクトではなかった、ということのようでした。

あの体験は「あなたは、遠くない」という意味をのちに理解する出来事だったと思います。最後まで私は、その先生の科目で「P」を取ることはありませんでした。思い出すたびに今も「あなたは、遠くない」という言葉の意味を考えるのです。私は自分の務めに、あと一歩踏み込めていないのではないかと。

仮に50年、司祭職を務めさせてもらうとすると、あと20年ほど残っています。イエスは「第一の掟は、これである」「第二の掟は、これである」と示されました。司祭職の中で、神を力を尽くして愛する20年を生きる。司祭職の中で、隣人を自分のように愛する20年を生きる。どちらも表裏一体なのだと思います。言い換えれば、司祭職を愛し抜く。これが、第一の掟と第二の掟を同時に果たす生き方なのだと思います。

お一人お一人、「この二つにまさる掟はほかにない」とイエスが示された掟を自分に当てはめて考えましょう。「掟」としてだけ当てはめるのではなく、「生き方」として当てはめる時、この二つの掟は神をより深く愛するためにイエスによって示されたのだと理解できるでしょう。

神をより深く愛するための掟であるから、一歩踏み出すのは自然なことです。一歩を踏み出さず、「あなたは、神の国から遠くない」で終わる人生にすべきではありません。

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‥次の説教は‥‥
年間第32主日(マルコ12:38-44)
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ちょっとひとやすみ
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▼大阪から懐かしい親子が訪ねてきた。かつては田平教会の名物おじさんだったので、田平の多くの人が知っている。しばらく談笑し、時間が戻った感じだった。田平教会の恩人。
▼前晩のミサを収録し、また録音して「動画の製作」「ミサ録音CD製作」をしていたが、最近の動画撮影カメラは優秀なのでそちらの音声を「録音CD製作用」に回してみた。遜色ない音源だった。
▼これまで両方用意して、両方編集していたわけだが、ちょっと無駄な労力だったかも。時間は24時間と限られている。無駄に時間を失いたくないので、これからは撮影の際に収録された音源をそのまま録音CDに使っていく。

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今週の1枚
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第753回目。洗濯に出そうと上着を抜こうとしたら抜けなくなり、こんなことに。

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年間第30主日(マルコ10:46-52)私たちは最後の拠り所としてイエスを信じた

2021-10-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/10/24(No.1145)
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年間第30主日(マルコ10:46-52)
私たちは最後の拠り所としてイエスを信じた
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年間第30主日まで年間主日が進んできました。小学5・6年生には、年間は第33主日まであって、そのあと「王であるキリスト」の祭日がやって来て年間の主日は終わることをお勉強しました。年間の主日もあと一ヶ月です。

今週の「盲人バルティマイをいやす」物語の鍵となるのは、「バルティマイの声は、イエスを立ち止まらせた」ということだと思います。「イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた。」(10・49)では叫び声が、イエスを立ち止まらせたのでしょうか。

叫び声そのものが、イエスを立ち止まらせたのではないと思います。群衆はバルティマイが「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫ぶのを聞いていますが、「多くの人々が叱りつけて黙らせようとした」(10・48)とあり、立ち止まって彼の望みに耳を傾けようとしていません。バルティマイの声は、人々によって黙殺されようとしていました。

しかしバルティマイは叫び続けます。叫び声だからイエスの足を止めることができると考えていたのかは分かりません。ただ、バルティマイにはほかに方法がありませんでした。そしてこの機会を逃せば、二度とチャンスは回ってこないと考えていたはずです。

イエスは立ち止まってくださり、バルティマイを呼びます。彼の声はイエスの心に響いたのです。彼の声はイエスの足を止める力があったのです。大声ではない何かがイエスの心に響いて、イエスに呼ばれました。その何かとは、何でしょうか。

中田神父は今年の初め頃から、ミサの様子を収録して、動画を公開し始めました。一定程度の人が、このミサの動画を視聴してくださっています。人数はそれほど気にはしておりませんが、飛び抜けて視聴数の多かったミサ動画があります。それは今年の5月22日、聖霊降臨のミサ動画で、148回視聴してもらっています。

どのミサ動画も、ほとんど45分くらいで、特別なことをしているつもりはありません。むしろ最近のミサ動画のほうが、手の込んだ動画のつもりです。しかし今に至るまで、三桁の視聴にたどり着いたことはなく、後にも先にも、これが一度だけでした。

YouTubeの動画も、この世に溢れるほど流れています。たぶんミサの動画だけでも、目移りするくらい見かけるようになってきました。そんな中で中田神父が用意したミサ動画が人々の目に留まっているだけでもありがたいことですが、なぜか聖霊降臨のミサだけが、148回も視聴されたのです。何かが心に訴えかけたのでしょうか。何が、人々の足を止めたのでしょうか。

「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(10・52)イエスは、バルティマイの信仰が、ご自分の心に響いて足を止めたことを公言しました。イエスの足を止めるのは、大声ではなく、彼の信仰だったのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(10・47)この言葉しか、彼の信仰を伺わせる言葉はありませんので、ここから読み解くしかありません。バルティマイの信仰はどのようなものだったのでしょうか。

そこであらためて朗読箇所を読み返すと、彼はイエスに呼ばれると「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」(10・50)とあります。バルティマイは道端に座って、物乞いをして今日まで生きてきました。上着は彼の最後の拠り所だったでしょう。雨風をしのぎ、暑さ寒さから身を守り、もらったお金を保管しておくために必要な、たった一つの持ち物でした。

バルティマイはそのたった一つの持ち物を捨てて、イエスに近づいたのです。最後の拠り所を捨てた。それを言い表したのがあの「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」だったのです。

ついでになりますが、イエスにいやしてもらったあと、上着がどうなったのか何も書かれていません。私個人の推測ですが、もはや上着は、彼の最後の拠り所ではなくなった。そういうことでしょう。

「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(10・52)これは、直接的には視力の回復を指しているでしょうが、視力に問題のない人でも「見えるようになった」という体験をすることがありますから、心の目が開かれたことも指しているでしょう。

ここにバルティマイの決定的な変化が見て取れます。「上着」というこの世のものを最後の拠り所としていた生活から、「イエスへの信仰」という、目に見えないものを最後の拠り所とする人に変わったということです。バルティマイは、決して失うことのないものを、これからの最後の拠り所として生きることにしたのです。

この世界では、まさかと思えるものまで失うことがあります。事件に巻き込まれて、家族を失うことさえあります。まさかと思えるような喪失感を味わった人々は、見えているのに何も見えなくなった感覚を味わっているかも知れません。イエスはそんな人々の心の叫びに、今も足を止めておられるのです。

「何をしてほしいのか」(10・51)。他の誰も、その人に希望を示してあげることができない中で、イエスは決して失われることのない希望を示してくださるのです。そして私たちは、その場面を今週の福音朗読の中で学んだ者たちです。

どうか、力を落としている人のために足を止めてあげてください。その人に寄り添って、あなたが信じているイエス・キリストを最後の拠り所として示してあげてください。私たちはそのために、今日集まってミサを祝っているのですから。

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‥次の説教は‥‥
年間第31主日(マルコ12:28b-34)
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ちょっとひとやすみ
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▼ここにも、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んでいる人がいる。セ・リーグ3位のチームは残り2試合、4位のカープは残り5試合。「何をしほしいのか」「先生、クライマックスシリーズが見えるようにしてください!」今日から数日、この叫びを上げながら過ごすことになる。
▼それにしてもエンジンの掛かりが遅かった。オールスター明けに、やっと調子が上がってきた。オールスター前は「今年は終わったな」と暗い顔をしていたが、後半戦は別人のように選手が活躍し始めた。ただぬか喜びは禁物で、メジャー挑戦の話題が上がっている選手がいて、目の前の5試合に集中してくれるのかの心配もある。
▼結果はどうなるか分からない。3位のチームが最後を2連敗して球団ワースト記録を残してくれれば、カープにはわずかだが光が見えてくる。光が見えたら、今まで以上に「なお道を進まれるイエスに従った。」


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今週の1枚
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第752回目。24日午後の行事なので後日掲載となるが、BBQの中での演し物。
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年間第29主日(マルコ10:35-45)「そのまま」で価値を持っているもの

2021-10-16 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/10/17(No.1144)
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年間第29主日(マルコ10:35-45)
「そのまま」で価値を持っているもの
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年間第29主日の朗読箇所に登場するヤコブとヨハネは、イエスが栄光を受けた時、自分たちをその右と左に座らせてくださいと願いました。先週ペトロが、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(10・28)と念を押した場面と重なります。

実に人間くさい願望ですが、将来の安心に繋がる言葉を、弟子たちは欲しがっているのです。世に言う「論功行賞」みたいなものですが、見方によっては弟子たちがイエスに取引を持ちかけているようにも見えます。

「これだけのことをしたのだから、これくらいはもらえるだろう。」すでに今週の出来事までに、イエスは三度もご自分の死と復活を予告しておられますから、弟子たちの置かれている状況はより切迫しているわけです。「私たちも死ななければならないのではないか。」それでなおさら、ヤコブとヨハネは約束を取り付けたかったのでしょう。

イエスに危険が迫る中、弟子たちが考えていたことをもう一度確かめましょう。何を欲しがったのでしょうか。私はこう思います。「そのままで価値を持っているもの」これが欲しかったのではないか。そしてヤコブとヨハネが考えついたのは、「イエスの右と左に座らせてもらうこと」だったのです。

ところで、「イエスの右と左に座らせてもらうこと」は、そのままで価値を持っていると言えるでしょうか?例えば中田神父が、大司教様のミサで、右に座れるとしましょう。「私の右にどうぞ」と言われてミサの間右に付いた。大司教様の右と左は、確かにずっと注目してもらえますが、そのことだけで価値があると、言えるでしょうか?

もし大司教様の右に付いていても、他の司祭たちから、「ちょっとどいてもらえますか」と言われるならば、何の価値もありません。右に付いているということは、例えば祭壇ではカリスやパテナを大司教様にお渡しするはずですが、それもしないでただ突っ立っているなら、明らかに迷惑なだけです。

もっとそのままで価値を持っているものを人は求めるべきです。イエスはそのことを戒めようとして、弟子たちに全く違うものを示したのです。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10・43-45)

これこそが、イエスの眼に、「そのままで価値ある行い」「価値ある存在」です。理解してくれる人や身内にだけ仕えるのではなく「皆に仕える者」です。感謝してくれる人にだけ僕となるのではなく「すべての人の僕」となることです。これはこの世の物差しで測ることのできる「仕える者」「僕」を超えなければ、到底たどり着けないかも知れません。

参考のために、この世の物差しで測れない生き方をした人を紹介します。10月はロザリオの月ですが、1日の聖人は「幼きイエスの聖テレジア」でした。この聖女はカルメル会の厳しい生活の中に身を置きましたが健康に恵まれなかったために通常求められる「祈り、かつ働く」という生活ができませんでした。そこで修道院長から命じられたのは「雑用係」と「日記を付けること」でした。

彼女が果たした務めはささやかなものでしたが、「小さなことを、大きな愛を込めて」果たしていました。彼女が亡くなった時、一緒に暮らしていたどの姉妹も、彼女の偉大さに気付かなかったそうです。見た目には小さな務めしか果たせなかったからです。しかし後に日記が印刷され、一般の人の目に留まり、読んだ人から修道院に一日何百通もの手紙が届くようになったのです。

9年間という短い修道生活でした。身体の健康も含め、生きている間に何ももらえませんでしたが、神は彼女が果たした「皆に仕える者」「すべての人の僕になる生き方」を見過ごしはしなかったのです。これは、「皆に仕える者」「すべての人の僕になること」この生き方がそれだけでそのまま価値があることの証明ではないでしょうか。

世の中に、「皆に仕える者」「すべての人の僕」はたくさんいるでしょう。しかしカトリック信者は、その中でさらに「イエスが示した物差しをわきまえている人」であるはずです。わたしたちはカトリック信者として、この世の物差しに適合した「皆に仕える者」「すべての人の僕」を超える生き方を示すことが可能です。可能なら、実行しましょう。そして本当に偉大なことは何かを、世に示すことにしましょう。

「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(10・42-45)

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‥次の説教は‥‥
年間第30主日(マルコ10:46-52)
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ちょっとひとやすみ
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▼昔書いたことがあるかも知れない。100歳を迎えようとしている母親の葬式を出すことになった喪主が、司祭館に電話してきた。「聖堂に飾る花は、教会は何組まで受け付けるか?」「だいたい一対でしょうね」続けてこう尋ねてきた。「一対でいくらぐらいね?」「値段もいろいろでしょう。交渉してみたら?」何だかおかしいと思い始めた。
▼「曖昧なこと言わずに、はっきりいくらか教えてくれ」「私は分からないから、花屋に聞いてくれ」すると慌てた声で「え!おたくは花屋じゃないとね?」「司祭館の神父だよ」「失礼しました」そこで電話は切れた。この時中田神父は「皆に仕える者」「すべての人の僕」になれていただろうか。
▼久しぶりに雨が降っている。ずっと雨が降らなかったので、きっと喜ぶ人もいるだろう。

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今週の1枚
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第751回目。まぐれと言うべきか、間違ってかかったと言うべきか。青物が釣れた。

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年間第28主日(マルコ10:17-30)「何かを捨てること」と「何もかも捨てること」

2021-10-09 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/10/10(No.1143)
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年間第28主日(マルコ10:17-30)
「何かを捨てること」と「何もかも捨てること」
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今週年間の第28主日の中で、「何かを捨てること」と、「何もかも捨てること」この二つを考えるきっかけにしたいと思います。福音朗読を集中して聞いておられた方は、ペトロが「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(10・28)と言い出した場面を思い出したでしょう。ペトロは「何かを捨てた」のではなく、「何もかも捨てた」という自覚がありました。

テレビの解説者やコメンテーターを見ていると、「元」何々、という肩書きの人が出演していたりします。元プロ野球選手とか、元国会議員とか、そういう人たちです。彼らは何らかの理由で「元の仕事」を離れています。野球選手であれば引退した人だったり、国会議員であれば任期満了、それから転身した人だったりします。

この前民放のニュース番組で顔ぶれが一新しているなぁと思って顔を見てビックリです。メインキャスターは元NHKのアナウンサーではありませんか。時間帯は違うけれども、ライバル局で堂々と働くのだなぁと思ったのです。

こうした方々はきっと「何かを捨てて」現在に至っているのでしょう。才能に溢れているので、何かを捨てても何かが残るのでしょう。公共放送から民放に迎え入れられて、もしも用意された仕事が終わったとしても、何か仕事を見つけるか、新しい身分で迎えてもらえるのでしょう。

ところで、ペトロがイエス様に念押しするかのように言い出したのは、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」ということでした。何もかも捨てたのですから、もしもイエスに従ったという選択が失敗だった場合、何も残らないのです。何かの約束が欲しかった、ということかも知れません。

「何かを捨てる」という選択と、「何もかも捨てる」という選択肢とでは、「何もかも捨てる」ほうがより厳しい選択だと言えます。福音朗読に戻って、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(10・17)とひざまずいて尋ねた人は、イエスから「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(10・21)と言われます。彼はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去ったとあります(10・22参照)。「何かを捨てること」には同意できても、「何もかも捨てること」には同意できなかったのでしょう。

「たくさんの財産を持っていた」とされる男は、きっと「何かを捨てなさい」と言われても応じる覚悟があったのだと思います。そうでなければ、どうしてイエスの足もとにひざまずいたりできるでしょうか。相当厳しい命令を突きつけられても、やり遂げる自信があったはずです。それは「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(10・20)からもうかがえます。

ひょっとしたら、名の知れた資産家だったかも知れない。そうであれば、大勢の人の前で「それはちょっとできません」とは言えないでしょう。人々から「さすが」と言われたい気持ちも少なからずあったはずです。イエスはそんな金持ちの心に一石を投じるのです。

「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』」(10・21)

「何かを捨てる」というのは、まだ自分のうちに何かを残しています。「これだけは捨てられない」というものを持っています。目に見えるものばかりではなく、目に見えないもの、「評判」とか「プライド」とか、そういうものも含めて、捨てられないものを抱えているわけです。

イエスは一石を投じます。「火」を投じたと言うべきかも知れません。永遠の命を受け継ぐため、イエスに従うためには、「何かを捨てる」生き方ではなく、「何もかも捨てる」生き方が必要なのです。

年間第26主日の福音朗読を思い起こしましょう。「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。」(マルコ9・43)ここでも、違う生き方をしなければ、命にあずかれないと説いているのです。

「何もかも捨てること」にあまり縛られる必要はありません。「何かは捨てるが、これは捨てられない」この生き方を捨てることがむしろ必要です。「評判」「プライド」これらは捨てられないという考えをこそ捨てた時、私たちは永遠の命を受け継ぎ、イエスに従う人生を送ることができるのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第29主日(マルコ10:35-45)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年は南の海水温が例年になく高い。平均水温よりも1度か、それ以上高い。そうなると台風が発生すると勢力が増し、上陸すると甚大な影響を及ぼす危険がある。
▼「水温が1度上がったくらいで」と思うかも知れないが、私が見たニュースでは0.1度単位で上昇温度を調査していた。それはつまり、0.1度違うだけでも影響があるということだろう。
▼司祭館はいくつかのガラスに養生テープを貼っている。台風14号の前に貼ったものだ。心の中では「台風来てない時はテープが気になるなぁ」と思っているが、もう一度、あるいは二度、台風が来ないとも限らない。

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今週の1枚
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第750回目。養生テープで今年の台風からの被害をブロック。

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年間第27主日(マルコ10:2-16)わたしのところに来させなさい

2021-10-02 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/10/3(No.1142)
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年間第27主日(マルコ10:2-16)
わたしのところに来させなさい
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年間第27主日、「聖書と典礼」では福音朗読の後半になる「子供を祝福する」この場面は一段下げて印刷しています。司式司祭の中には朗読を省略することもあるでしょう。その場合おそらく、説教でも触れないのだと思います。中田神父は今回、この「少数派になるであろう」箇所を取り上げたいと思います。

県道脇の三角コーンと柵を取り外しました。早速観光客が来て、正面玄関で撮影会です。「ほらほら、集まって」「見て見て。献堂百周年だって」「なかは入れないんだって」その声を聞きながら、説教を考えたり、けいこの準備をしたりする日々が再開します。久しく観光客の声を聞かなかったので、大声で話していないとは思うのですが気になります。

今から40年前、のちに列聖されたヨハネ・パウロ二世が長崎にやって来ました。公式のスケジュールの合間を縫って、聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭ゆかりの聖母の騎士修道院を訪問したり、純心聖母会が運営している三ツ山の原爆ホームを訪ねたりしました。聖母の騎士を訪問された時、一組の若い夫婦が教皇様の目に留まりました。お母さんの腕には幼子が抱かれていました。

記憶に新しい教皇フランシスコの長崎訪問の折、野外ミサで教皇様が会場内を専用車で回る時、何度か車を停めさせました。そこには幼子を抱いた家族がいて、教皇様が幼子に目を留め、抱き上げてくださったのでした。教皇様が真っ先に目に留めるその先には、幼い子供がいました。

教皇フランシスコも、聖ヨハネ・パウロ二世教皇も、イエス様の姿を模範に生きておられます。一国の元首ですから、警備は相当厳しいでしょう。それはまるで、イエス様の周りを取り囲む弟子たちのようです。群衆が押し寄せて、何かが起こっては大変だという気持ちは理解できます。

ところがイエスは無防備な子供をありのまま受け入れてくださいました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(10・14)しかも子供たちを連れてきた人々を叱った弟子たちに対し、「イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた」(同上)とあるのです。

「憤った」とありますが、「子供を祝福する」場面はマタイ福音書とルカ福音書にもあります。ただマルコのような「イエスはこれを見て憤り」という記述は見られません。「イエスが憤られる場面は考えにくい」と思って削除したのか、ひょっとするとマタイは人々を叱った側にいたために、ばつが悪くて削除したのかも知れません。

イエスはこれ以前にご自分の死と復活について二度予告をしています。弟子たちには理解できませんでした。その直後には「弟子たちの中でだれがいちばん偉いだろうか」と議論していました。自分たちが師と仰ぐイエスがどんな人なのか、どのようについて行けば良いのか、理解が足りませんでした。

この弟子たちの理解不足が、子供たちへの接し方で頂点に達したのです。「あなたがたは何も分かっていない。」残念な気持ちが爆発して、イエスが憤られたという表現になったのでしょう。理解不足が伝わる態度を見せられ、ストレスが積もり積もって雷が落ちる。私もいたく共感します。

「神の国はこのような者たちのものである。」(10・14)イエスは単に目の前の子供だけを指して言ったわけではないはずです。「このような者たち」、イエスのそばに置いてもらうことを素直に喜ぶ人たち。イエスの言葉一つ、しぐさ一つでも喜んで受け入れる人たち。このような者たちの居場所を妨げる行動は、イエスの思いを妨げる行動になってしまいます。十分気をつけなければなりません。

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。」私たち一人ひとりにも、イエスのこの言葉は向けられていると思います。イエスのもとにどんな人でも置いてもらえる環境を、私たちは真剣に考えなければなりません。

「あなたは足手まといになる。イエスから遠く離れてください」と、言葉や態度で誰かに接していないだろうか。「すべての人のいのちを守る」この目標にも関わってきます。振り返りの一週間といたしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第28主日(マルコ10:17-30)
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ちょっとひとやすみ
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▼教会の外観見学が10月から可能になった。すぐに観光客が聖堂をバックに(言い方は良くないが)写真を撮っている。「観光客が頻繁に来る教会の日常がまた始まった」そう思った。
▼タイミングを同じくして、「教会式の結婚をしたいのですが」と電話がかかってきた。「カトリック教会は、聖堂をお貸しするだけ、というような結婚式は承れませんよ。勉強会を受けてもらうことになりますよ」と伝えると「それでは勉強会もお願いします」と言うので、話を詳しく聞いてみようと思っている。

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今週の1枚
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第749回目。杉板で日曜大工。これで田平工務店本格開業か???

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† 神に感謝 †
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