こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)イエスは必ず死者の中から復活する

2013-03-31 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/130331.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
13/03/31(No.644)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
イエスは必ず死者の中から復活する
‥‥‥†‥‥‥‥

あらためて、主のご復活おめでとうございます。このあいさつを、今年、上五島の11の小教区が、11人の主任司祭によって交わされるのはおそらく無理だろうと思っておりました。いつかお話ししたと思いますが、1つの小教区の主任司祭は昨年夏脳出血に倒れ、リハビリ生活に入っていたからです。

ところが、この後輩司祭は、該当する小教区信徒の報告によると、聖火曜日に小教区に戻り、何と聖木曜日からの聖なる三日間の典礼をこなし、小教区復帰を果たしていると言うのです。三日間の典礼をどのように執り行ったかまでは聞いておりませんが、驚異的な意志の強さだと思いました。

聖火曜日は、長崎の浦上教会で聖香油ミサが執り行われ、今わたしが話している後輩司祭もミサに参列していました。実はそれより前の3月17日の叙階式にも彼は参加していたのですが、正面玄関からの入堂には加わらず、前もって自分で決めた席で司祭団の入堂を待って、一緒にミサをささげたのです。

以前にも話したと思いますが、右半身はいまだに機能が回復していません。右手はぶらりと下がったまま、右足も引きずってようやく歩いているといった状態でした。しかもどこで転んだのか、右目を覆うように握りこぶし大のあざができていました。およそ10日後の聖火曜日でも、状態はほとんど変わりませんでした。

つい最近まで大相撲春場所が行われていました。力士は場所中に怪我をした場合、怪我を押して土俵に立つことも、大事を取って休場することも選べると思います。わたしが若手司祭と同じ立場だったら、おそらく休場を選択することでしょう。しかしこの司祭は、あくまで土俵に立つことを――司祭ですから土俵ではなくて祭壇ですが――に立つことを、選んだのです。

わたしはこの後輩司祭を褒めるつもりもけなすつもりも、どちらの意図もありません。ただ言いたいことは、祭壇に立つのでしたら痛いのなんのと言って欲しくないと思っています。休む権利も持っていて、いろいろ言われることを承知の上で祭壇に上がってきたのですから、一人でこなすべき部分は一人でこなし、だれからも何も言われなくても当たり前だと思って欲しいのです。

「わたしは病人なんだから、周りが手助けしてくれるのが当然だ」とか、そういうことをもしどこかで漏らすのでしたら、はっきりお休みをいただいて、もっとリハビリを続けてから復帰して欲しいと思っています。もちろん、足を引きずってでも祭壇に上がってきたその気持ちは、認めたいと思います。

今回わたしは「復活の主日・日中のミサ」に選ばれたヨハネ福音書第20章の9節、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」(20・9)という箇所を、小教区に復帰した司祭のことを思い浮かべながら考えてみました。

同じ地区で働く他の司祭たちは、本人のことを心配してあえて厳しい言葉を掛けています。わたしたちはわたしたちの立場で話しかけているわけですが、彼自身は、わたしたちには分からないような死者の国までいったん行ったのかもしれません。そして、イエスが必ず死者の中から復活されることになっているのであれば、いくらかでも「死」の体験をした彼は、今回イエスの復活の何かの部分に触れたのではないでしょうか。

すると、今回小教区に復帰した同僚司祭は、自分の体験で「死者の中からの復活」を教えてくれているのかもしれないと思いました。評価はさまざまあると思いますが、自由にならない体を引きずって、ほかの司祭の何倍も時間を使って、何かをしようとしています。

そこまでの死ぬ思いをしたことのないわたしにとっては、思い通りにならない手足を引きずって、脂汗をかいて一つひとつの所作をこなすその気持ちを十分には理解できません。しかし考えてみれば、イエスが真っ先に「死」というこれ以上ない不自由な状態から復活したのです。

イエスはまったく自由のない状態にいったん置かれて、それから栄光の姿をまとったのです。この驚くべき出来事が「死者の中からの復活」のはずです。今回復帰した司祭は、ほかのどの司祭よりも不自由を味わったのですから、ある意味上五島地区でいちばん、イエスの復活について学びを得たのかもしれません。

弟子たちが空の墓を見ても驚くばかりで聖書の言葉を十分理解できなかったように、わたしたち司祭もしばしば頭でっかちで、言葉を連ねる割には真実が見えていないのかもしれません。長く十字架にはりつけにされ、今も自由を奪われたまま、その体を引きずって祭壇に這い上がってきたこの後輩司祭の体験談に、耳を傾けてもよいのかなと思いました。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼個人で活動するtwitter(ツイッター)のアカウントを2つ取得している。1つはプライベートの活動のため、もう1つはカトリック教会のためと思って活動しているもの。プライベートのアカウントは、500ツイートを超えた頃からちらほらフォロワーが現れ、楽しく交流している。
▼もう1つのアカウントは実験を兼ねていて、「自分のためにはまったく役に立たないけれども、もしこんなツイートが流れていたら、ほかの人は役に立つのではないか」そういう思いで続けている。
▼こちらは、300ツイートを超えたあたりから認知されてきて、どこにも、だれにも宣伝していないが、とうとうプライベートアカウントのフォロワーを追い越してしまった。この実験から推測できることは、やはりこの手のツイートを必要としている人がいるということだ。
▼繰り返しておくが、わたしはこの手のツイート(情報と言ってもよいが)は不要である。例えて言えば時計のようなもので、わざわざ身につけていなくてもどこかで時計を見つけるし、身につけていても丸1日時計を見ないことだってある。わたしにとってはあらゆる場所で目にするので、この手のツイートは不要なのである。
▼ただ、第三者にとっては、ちょっとは役に立つツイートなのかもしれないと思って開始した。その点に狂いはなかったようである。おそらく、まったく自分を伏せて活動しているアカウントで流すツイートなので、フォロワーのタイムラインで流れたときに個人的感情を持たずに判断できて、カトリックのちょっとした情報収集に貢献しているのだろう。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第251回目。マンガに出てくる鼻ちょうちんができたのに、うまく写ってない(泣)

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復活徹夜祭(ルカ24:1-12)復活したイエスに出会えるのは「捜す人」

2013-03-30 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/130330.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
13/03/30(No.643)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活徹夜祭
(ルカ24:1-12)
復活したイエスに出会えるのは「捜す人」
‥‥‥†‥‥‥‥

主の復活、おめでとうございます。聖週間が始まる頃から、まったく声が出なくなり、復活徹夜祭の復活賛歌はどうなることかと思っていました(この原稿は24日に作成)。わたしの声も復活してハレルヤです。

さて今年の復活の喜びを、イエスを捜す人に光を当てて考えたいと思います。まず婦人たちが、週初めの日の明け方早く、墓に出かけました。けれど墓にはイエスの遺体が見あたらなかったとあります。彼女たちは復活したイエスに会いに行ったのではありませんが、イエスを捜しに行ったのはたしかです。

そこへ輝く衣を着た二人の人が現れ、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」(24・5)と声をかけられました。イエスを捜しているのはよろしいが、生きておられる方を死者の中に捜してはいけないと言うのです。この場面も「イエスを捜す人」に大事な意味が込められていることを感じさせます。

婦人たちは墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせました。婦人たちの話を聞いた弟子たちは意見が分かれます。彼女たちの話をたわ言のように思った仲間と、ペトロのように婦人たちの話に動かされてイエスを捜しに行く人たちです。

わたしはこの「捜しに行く」という態度が、復活したイエスと出会うために大切なことだと考えます。与えられた朗読箇所の中では、婦人たちも、ペトロも、墓にイエスを捜しに行きましたが結局は見つけることができませんでした。

それでも、捜すことは大切なのだと思います。捜す人がいて、復活したイエスに出会うことができるからです。もしだれも捜さなかったら、つまり婦人たちも捜しに行かない、弟子たちもだれも捜しに行かなかったとしたら、イエスが復活したにもかかわらず、誰もイエスと出会わなかったかもしれません。

日本の教会はこの点で歴史の中で大きな体験をしました。250年近く司祭がいない時代を信徒だけで信仰を守り抜き、プチジャン神父が大浦に派遣されたとき、イザベリナ杉本ゆりほか数名が、司祭を捜しに行ったのです。

捜しに行ったから、プチジャン神父と出会うことができました。捜しに行ったから、潜伏していたキリシタンは復活し、神の民の交わりを取り戻したのです。

一方で、司祭を捜しに行かなかった人々もいました。捜しに行かなかったのか、見つけることができなかったのかは分かりませんが、捜すことをやめたために、復活の喜びを味わうことなく、今もひそかな信仰を守り続けています。これは日本教会の歴史に刻まれた悲しい一頁です。

わたしたちの生活に踏み込んで考えてみましょう。わたしたちも、復活したイエスに出会うために、「捜す人」でなければなりません。生活と信仰の結びつきを、自分に備わっている才能と信仰の証しとの接点を、教育や価値観と信者としての生き方を。こうした現実社会と信仰の接点で、イエスを捜し求める人でなければ、復活したイエスに出会うことはないのです。

今の生活があるのはだれのおかげだろうか。今の生活を、だれに一番感謝すべきだろうか。そういうときに、捜し求めていって復活したイエスのおかげだ、イエスにいちばん感謝すべきだとの答えにたどり着くでしょうか。

わたしの才能や特徴は、聖書の登場人物ではあの人に似ているかも知れない。聖書の中でその人はこんな働きをしたのだから、わたしも教会の中で同じようにイエスのお役に立てるのではないだろうか。才能や特徴からイエスを捜し求めることもできます。

日常生活のまっただ中で、わたしたちはイエスを捜し求める人になることができます。こうして、頭の中だけでなく、生活の中でイエスを捜し求めるなら、わたしたちは復活したイエスと出会うでしょう。復活したイエスと出会い、喜びに満たされる生活に入っていく。そのための恵みを、今日のミサの中で求めましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼御復活おめでとうございます。これからもたくさんのメルマガの読者とtwitterやfacebookの方々とのふれあいがあって、充実した日々を過ごしていきたいと思っています。もう十分暖かいので、マラソンも復活しなければならないのですが、まだ冬眠しています。
▼ボートのほうは、4月にもなることだし、陸揚げしている「さざなみ号」を戻して、ボート釣りに行こうと思っている。釣りは例外はあるとしても、たいてい「見えない相手との駆け引き」をする楽しみがある。
▼魚が口を開けるのを見ながらする釣りもあるかも知れないが、ほとんどは竿先の動き、手に伝わる釣り糸の微妙な変化で相手を捕獲するのだから、繊細な感覚が要求される。ぴくりと竿先が動いたのを、揺れる船上で捉えなければならない。あるいは、ほんのわずかウキが上下したのを見逃さないようにしなければならない。
▼「魚の動きが読み取れるのに、なぜ教会の動きが読み取れないのか。」聖書の言葉をもじってみた。教会の動きは、「信徒発見150周年」である。250年近く司祭がいなかったのに、信仰を守り伝え、司祭がやっと戻って、その司祭に自分たちが受け継いできた教えが間違っていないか確認に行った。
▼信徒が250年の歴史を繋いだ。司祭ではない。150年経って、やはり信徒が信仰を受け継いでいくために、現代に何が必要かをもう一度考えるときが来ていると思う。これから長く司祭が与えられない教会もやって来るだろう。そんな厳しい時代を乗り切って、教会が復活するために、このタイミングで何か手を打つべき時が来ていると思う。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第250回目。司祭の日。金祝・銀祝・新司祭おめでとうございます。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/130407.pdf
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)血と水が流れ、いのちを与えてくださった

2013-03-29 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/130329.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
13/03/29(No.642)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
血と水が流れ、いのちを与えてくださった
‥‥‥†‥‥‥‥

聖木曜日に、イエスが弟子たちに示した愛を、「御自分を裂いて与える愛」と話しましたが、今十字架上でわたしたちのためにいのちをささげてくださったイエスこそ、「御自分を裂いて与える愛」そのものです。

十字架にはりつけにされたイエスは「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」(19・34)とあるように、引き裂かれ、血と水とが流れ出て、全人類のために与えられたのです。

イエスは別のところでこう言っています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)しかもその与えかたは、「御自分を裂いて与える」という痛みを伴うものでした。

人類を救うために、痛みを伴わないで御自分を与え、救いのわざを完成することは可能だったのでしょうか。わたしは、痛みを伴わない愛は考えられなかったのではないかと思います。

今日の福音朗読の中に、イエスを知らないと言うペトロが登場します。不正な裁判を起こした宗教指導者たちがいます。また兵士は平手でイエスを打ち、ピラトはイエスを死刑に引き渡す裁判に加担し、その上イエスを鞭で打たせました。槍で、イエスのわき腹を刺した兵士もいます。

この人々をゆるし、救いに導くためには、痛みを伴わない愛は考えられなかったはずです。イエスはこうして、どんな人をも救うには、御自分を引き裂いて与える愛、痛みを伴う愛が必要だったのです。

わたしたちは、イエスの愛によって救われました。御自分を裂いて与える愛によって、いのちが繋がりました。そうであるなら、わたしたちは「自分を裂いて与える愛」を学ぶ必要があると思います。痛みを伴う愛を避けては通れないと思います。

では実際の生活はどうでしょうか。痛みを伴うのはゴメンだ。自分を裂いて与えるのは勘弁して欲しい。わたしたちは自分を痛めてまでは、愛を分け合えない弱い存在ではないでしょうか。

わたしたちは、自分を裂いて与える愛にたどり着いていません。そうであるなら、せめて御自分を裂いて与えてくださったイエスに、心からの礼拝をささげましょう。ゴルゴタの中央にあるいのちの木から、イエスが御自分を裂いて与えてくださったので、わたしたちは罪がゆるされ、救われたのです。

このあと、十字架の礼拝をいたします。人間の罪をあがなうために、痛みを伴う愛をなかなか実行できないわたしたちの救いのために、イエスは十字架にはりつけにされました。心からの礼拝をささげて、イエスの前にへりくだりましょう。せめて、わたしたちの心を裂いて、イエスにすべてを委ねましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭
(ルカ24:1-12)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼生と死の境目は、そんなに極端な切り替え作業をする場所ではないのかも知れない。わたしが知っている何人かの人は、集中治療室にわたしがたどり着いて間もなく医者から「○時○分、ご永眠です(ご臨終ですだったか?)」と宣告を受けた。
▼かつてわたしの中では、生死の境目というのはかなりはっきりしていて、とても大きな変化がそこで見られるものだという思いがあった。言ってみれば、生きている人が突然死体になるような、そんなものだと思っていた。しかし事実はそうではなかった。
▼わたしが父を看取ったときもそうだったが、さっきまで息をしていたのが呼吸が亡くなり、死の宣告を受ける。体はまだ温かい。手を握ろうと思えば握ることもできる。だがその相手はすでに死亡していて、徐々に、死体になっていくのである。
▼本人にとっての、生死の境目はどんなものなのだろうか。もしかしたら、「あれ、今死んだのかな?」くらいの変化しかないのかも知れない。突然の停電のような変化ではなく、痛みが感じられなくなったり、手で触る感覚がなくなったり、そうやってゆっくりと「死んだのだな」と納得するのかもしれない。
▼初めて聞く人はビックリするかもしれないが、病者の塗油は仮に本人が医者から死の宣告を受けても、体が温かいうちは(1時間くらいか?)秘跡を授けることになっている。医学的には死の宣告を受けているが、魂はゆっくりと肉体を離れる、ということなのだろう。
▼時に病者の塗油を授けに行く司祭は、残酷な場面に遭遇することがある。秘跡を授けている間に容態が急変し、医者から宣告を受けたりする。すると、家族は泣いている一方で、秘跡を授けに来た司祭に感謝の言葉を述べなければならなくなる。
▼司祭も、医学的には間に合っていない場面で授けているとき、かける言葉が見つからなかったりする。生死の境目では、神だけがふさわしい言葉を知っている。神だけが知っているふさわしい言葉は何だろうと、たまに思い巡らすことがある。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第249回目。断食(大斎、小斎)の日。フルーツ・グラノーラで過ごします。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖木曜日(ヨハネ13:1-15)イエスは裂いて与えるほどの愛を示された

2013-03-28 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/130328.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
13/03/28(No.641)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
イエスは裂いて与えるほどの愛を示された
‥‥‥†‥‥‥‥

選ばれた福音朗読は、「弟子の足を洗う」場面でした。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(13・1)となっています。イエスの深い愛は、弟子の足を洗う場面と、このあとに続く最後の晩さんの場面を貫くテーマです。

弟子たちに注がれた「イエスの深い愛」を、何か違う言葉で言い表すとどうなるでしょうか。わたしは「御自分を裂いて与える愛」と表現したいと思います。

イエスは、「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たこと」(13・1)を知った上で、弟子たちの足を洗っています。この世の別れを意識して取った一つひとつの行いは、本当は「胸を引き裂かれる思い」に基づいていたのではないでしょうか。

イエスはご自分の深い愛を、さまざまな形で伝えます。弟子たちの足を洗う行為も、このあとに続く最後の晩さんもそうです。マタイ福音書によれば、最後の晩さんで、「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた」(マタイ26・26)とあります。

引き裂かれたパンは、いわばイエス御自身です。御自分の体を引き裂いて、弟子たちのいのちを養うと約束してくださったのです。愛情深い親が、子に対してどんな苦労も厭わないことをだれもが体験しています。自分を引き裂いて、子供に良いものを与える経験があれば、イエスが示そうとしておられる深い愛も、よくお分かりなのではないでしょうか。

「引き裂かれる思いの中で弟子の足を洗う」「パンを裂いて渡す」イエスには、御自分の姿を弟子たちに受け継いで欲しいという思いがあったことでしょう。これまで、イエスが群衆の求めに応じる場面は、しばしば困難を伴う場面でした。

解散する様子のない群衆に食べ物を与えたり、叫びながらついて来る女性の願いを叶えてあげたり、近くの町や村を残らず回った上に、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆を見て、深く憐れまれたりといったことです。

もし決められた時間の中で活動しておられたら、「時間になったのでまた明日お世話します」という対応をしたかもしれません。イエスが語ったたとえ話の中にも、「もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません」と答えることもできるでしょう。

けれども、イエスはどんなときにも御自分を引き裂いてお与えになります。それは、とくに弟子たちに模範を示すためです。ゆだねられた羊を深く愛するとは、自分自身を引き裂いて与えることだ。それが、弟子たちに託した遺言なのです。

もちろん、それが簡単なことだとは思っていません。わたし自身、仕事を中断したくないと感じているときに何かの用事に応対するのは辛いと感じることがあります。相手の立場に立ってあげられないことがあります。間違い電話が最近立て続けに掛かり、「大谷さんですか」という電話には、とうとう「ここは浜串教会だ」怒鳴ってしまいました。

そんな、欠点だらけのわたしたちに、イエスは御自分を引き裂いて与えるという模範を示してくださるのです。弟子たちの足を洗うとき、もはやこの世の別れだという引き裂かれるような思いがあり、最後の晩さんでパンとぶどう酒のもとに御自分をお与えになるときも、裂いて弟子たちに与えました。明日記念するイエスのご死去も、裂いて御自分を与えるその頂点だと思います。

裂いて与える姿は、弟子たちを極みまで愛するイエスによって示されました。イエスが、わたしたちの考え方や振る舞いの物差しです。わたしの物差しは、イエスが示す物差しと同じにできているだろうか。このミサの中で考えることにしましょう。

足を洗う式、「洗足式」がこの説教に続いて行われます。足を洗って奉仕する司祭も、洗っていただく信徒の皆さんも、イエスの深い愛、「裂いて与える愛」を学び合うことにしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼ここ数年、聖週間の説教を「聖なる三日間の典礼」が始まるまでに用意し、印刷して信徒に配ったりしている。もちろんこのメルマガを利用している人なら、パソコンから「話の森」ホームページに入ると、PDF形式での聖週間の説教をひとまとめにして受け取ることができる。
▼始めたきっかけは、わりあい高尚な理由だったと思う。「『聖なる三日間の典礼』に、すべてあずかることのできない人もいるに違いない。そういう人に、せめて説教だけでも届けたい。」最初はその一念だけで続けていたが、最近はそうでもない気がする。
▼それはつまり、「続けてきたからやめられない」「続けてきたのを中止して、みんなに何かを言われたくない」そんな低俗な動機に変わりつつある。本当に、読者の利便性のために続けているとは言えない気がする。
▼たしかに役には立っているだろう。前任地では教会の玄関にある説教プリントを手に取って「こんなことまでしているんですね」とたいへん喜ばれたこともある。だから結果的には意味あることをしているのだが、その何というか、熱意が以前ほど湧かない。
▼けれどもこの取り組みは続けようと思っている。聖週間を自分自身実りあるものにする助けになっているのだから。だれかのために準備して、自分のためにもなっているなんて、こんなにありがたい仕事はそう見つからないはずだ。
▼何年も続けているから、そのうちに数年分まとめて見るのもよいかもしれない。自分がその年の聖週間にどんな過ごし方をしていたのか、そのあたりも見えてくるだろう。この時期がやって来ると、「あー、脇目も振らずに身を投じるのも悪くないなぁ」と思う。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第248回目。小さい写真だが、新司祭との共同司式ミサ。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

受難の主日(ルカ23:1-49)わたしたちは園の中央にいのちの木をもっている

2013-03-24 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/130324.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
13/03/24(No.640)
‥‥‥†‥‥‥‥
受難の主日
(ルカ23:1-49)
わたしたちは園の中央にいのちの木をもっている
‥‥‥†‥‥‥‥

長い朗読でした。簡単な説教でこの受難の週を過ごす道案内としたいと思います。イエスは息を引き取る直前、犯罪人の一人に「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23・43)と言われました。この点を取り上げたいと思います。

「楽園」は旧約聖書ではどのように描かれているでしょうか。2つのことが思い出されます。園の中央にはいのちの木があるということと、楽園は神によって守られている場所で、楽園を追われたアダムとエワは、神の保護を失ってしまったのでした。

すると、「楽園にいる」という約束は、十字架にはりつけにされているイエスにおいて、すでに実現しているのではないでしょうか。つまり回心した犯罪人がいるゴルゴタの丘の中央には、いのちをもたらしてくれた十字架の木が立てられています。イエスはその十字架にはりつけにされ、犯罪人にゆるしを与えて、神の見守りがそばを離れないことを約束してくださいました。

ここに、創世記がおぼろげに描いた楽園が実現しています。あとは、ゴルゴタの場面をわたしたちが「楽園」と理解できるかどうかです。これから一週間を、イエスが十字架上で成し遂げたわざが、わたしたちに必要な楽園なのだと理解するための歩みといたしましょう。

さて、楽園の中央にいのちの木があるのですから、イエスがはりつけにされた十字架はいのちの木であるはずです。では園の中央の木の実は何でしょうか。それはイエス・キリストです。創世記の物語では食べてはいけない、触れてもいけないとされていましたが、新しい楽園の中央にある木の実は、わたしたちの食べ物となってくださいました。何を食べさせてくださるのでしょうか。

2つ、示してみたいと思います。1つは、苦難をその身に背負う僕の姿です。イエスは、だれも背負うことのできない全人類の罪を背負い、その罪をゆるしてくださいました。

わたしたちはイエスに倣うことでイエスの模範を食べ物とすることができます。すなわち、毎日の苦難を精一杯受け止めることで、イエスを信じる者が放つ良い香りを、周りの人に示すのです。

イエスがくださるもう1つの実りは、復活の栄光です。この実りは、今はまだ味わうことができません。けれども、十字架を通らなければ、復活の実りはもたらされないのです。この一週間、イエスのそばを離れないでいるなら、イエスの復活によって、わたしたちは永遠のいのちをいただくのです。

イエスの2つの実りをいただくことで、神の子として良い香りを放ち、永遠のいのちの希望に喜び踊る者となれるよう、ミサの中で恵みを願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼頻繁に移動する生活をしていると、移動の荷物にため息が出る。もっと言うと、イライラする。荷物を抱えて浜串から福見に移動する。浜串の司祭館を出るときに司祭館の玄関に鍵をかける。
▼ポケットから鍵を探すのに、どちらかの荷物を地面に置くか、無理矢理もう一方の手で持とうとする。両手でやっと抱えていた荷物を片手で持とうとすると、当然余計な負担が掛かる。
▼やっとの思いで鍵を閉めても、車で移動するときはまた荷物を地面に置くか、片方の手ですべて持って鍵を開かなければならない。ようやく車に荷物を詰め、乗り込んで福見に到着。だが車から荷物を出して、車に鍵を閉めるのに荷物を地面に置くか全部片手で持つ化しなければならない。
▼だいたいこの時点でイライラは頂点に達している。それなのに、移動した先の福見教会の司祭館の玄関の前で、またもやため息をつく。司祭館の玄関を開けなければ、中には入れない。「もーいや!」と独り言をつぶやく。週に2回か3回、この繰り返しである。
▼その結果たどり着いた結論は、「荷物は、片手で持てる分量にしなければならない」ということだ。しかも、瞬間的に片手で持てる分量というのではなく、常に、片手で持てる分量にしなければ、このストレスからは解放されない。
▼イライラが身体にどのような影響を及ぼすのか分からない。血圧に影響があるかも知れない。食事の消化に影響があるかも知れない。体重に影響があるかも知れない。どう考えても、良い影響はなさそうである。だが今日も、両手に荷物を抱えて巡回教会に向かっている。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第247回目。ある人から、「もしもの時は下の写真を使って」と言われた。本当に?

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四旬節第5主日(ヨハネ8:1-11)わたしたちが人に投げかけるものとは

2013-03-17 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/130317.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
13/03/17(No.639)
‥‥‥†‥‥‥‥
四旬節第5主日
(ヨハネ8:1-11)
わたしたちが人に投げかけるものとは
‥‥‥†‥‥‥‥

すばらしい喜びの知らせです。アルゼンチン出身の枢機卿さまが新しい教皇「フランシスコ」として選ばれました。教皇選挙のジンクスとして、「候補者として話題に上った人は選ばれない」という言い伝えがあるそうですが、今回選ばれた教皇さまも、噂されていた人ではなく、まさに神さまがお選びになった人だったようです。

聖ペトロ大聖堂のバルコニーから広場に集まった人々にあいさつしたとき、ちょっとしたジョークで笑いを誘ったのが印象的でした。「ここにいる兄弟の枢機卿たちは、地の果てまで行って教皇を見つけてきたようです。」そこには、ご自身選ばれるとは思っていなかったという驚きが込められているのだと思います。

今年は、3月17日がちょうど日曜日になりました。3月17日は、わたしにとって叙階記念日です。1992年(平成4年)3月17日、亡くなった島本要大司教さまから司祭叙階の恵みを受けてまるまる21年、今日から22年目を歩き出すところです。

もう1つ、今年は3月17日が叙階式に選ばれました。最近は何月何日が叙階式と言えなくなってきたので、今年は3月17日だったと言っております。かつて里脇枢機卿さまが教区長だったときは、3月19日聖ヨセフの祭日が叙階式の日と決まっていました。今はいろんな変遷があって、日曜日の午後3時から叙階式が行われています。日曜日の午後3時に叙階された神父さまと言えば、最近はみな当てはまるかもしれません。

今年の叙階式には、滑石教会の川端神学生が助祭に、本原教会の中野助祭が司祭に叙階されます。2人とも、ちょっとした縁があります。2人の叙階式のために、11時鯛ノ浦発の船で長崎に渡り、浦上教会でその姿を見届けてきます。皆さんは、各自で受階者のためにお祈りください。

中野師については、こちら浜串とも縁がある方ですから、近いうちに浜串教会で初ミサがささげられるだろうと思います。本人と連絡を取って、日取りが決まり次第お知らせします。初ミサは、特別なお恵みをいただけるミサとされていますから、ぜひ参加されることをお勧めします。

さて、四旬節第5主日を迎えました。福音朗読にはイエスが「わたしもあなたを罪に定めない」と仰って、姦通の現場で捕らえられた女性をゆるす物語が選ばれています。先週の「放蕩息子のたとえ」と同じように、すっかり立場を失った人を、神が憐れみ深く接してくださるという、四旬節の大切な心構えを考えさせる箇所です。

律法学者やファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女性を連れて来ました。宗教指導者たちは、彼女が犯した罪は死に値すると騒いでいます。当時は石投げの刑というのがあったようで、どうやらモーセの律法を盾に取れば、その罰を免れそうにありません。

しかしイエスは、事件がご自分を訴える口実に使われていることをすぐに見抜きました。イエスの返事次第では、イエスは窮地に立たされるわけです。イエスがこの女性に石殺しを命ずるなら、ユダヤ人から取り上げられている石殺しの権限を行使したかどでイエスをローマに訴えることができるし、もしこの女性を大目に見て釈放するなら、律法を無視する不届き者だと騒ぐでしょう。指導者たちの罠を打ち破る必要がありました。

イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(8・7)と答えます。確かに、石投げの刑に値するのだろう。しかし、もし投げるのならあなたにその資格があるかと問われたのです。

人を罪に定めることができるのは、紙に書かれた律法でもなく、罪から逃れられない人間でもありません。罪とは無縁な神、また神の子イエス・キリストだけが人を罪に定めることができるのです。「石を投げなさい」というイエスの言葉に宗教指導者たちは我に返り、人を罪に定めることなどできないと気づき、一人また一人とその場を去って行きました。

「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」「主よ、だれも」「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(8・10,11)

婦人とイエスとのやり取りに、イエスの憐れみ深い思いが溢れています。イエスだけは、彼女に石を投げることができたはずです。そのイエスさえも、彼女に投げかけたのは愛とゆるしだったのです。イエスが示した優しさは、そのままわたしたちに示されたお手本だと思います。わたしたちが人に投げかけることができるのは、人を傷つける石ではなく、人を守り、包む愛と、憐れみなのです。

イエスと婦人とのやり取りは、婦人の罪を見逃すという意味ではありません。「だれもあなたを罪に定めなかったのか」というイエスの問いは、罪があったことを見逃してはいません。彼女が「主よ、だれも」と答えることも、神の憐れみが注がれたことを思い出させています。

イエスと彼女とのやり取りは、どれ一つ取っても不必要なものは含まれていません。イエスが「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と送り出すことで、これからの人生で神の憐れみを受けた人として、神の憐れみを忘れない人として生まれ変わったのです。彼女もまた、「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」(ルカ15・32)人物と言えるのではないでしょうか。

わたしたちが人に投げかけるものは何でしょうか。また投げかけることのできるものは何でしょうか。イエスがその答えを示してくださいました。わたしたちに投げかけることがゆるされているのは、愛といつくしみ、ゆるしです。

なぜなら、わたしたちもイエスと同じように、「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」その喜びのために召し出されているからです。今年もまた長崎教区に司祭が与えられますが、四旬節に示された神の愛をこの地上に行き渡らせる司祭となってくれるように、共に祈りたいと思います。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
受難の主日
(ルカ23:1-49)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼ふとしたことで、だれかを思い出したりする。「あの人はどうしているかなぁ。」それまでまったく思い浮かばなかった人が、ふと思い出される。そんな時、不思議とその人から連絡が入ったりする。皆さんにはそういう経験がないだろうか。
▼わたしはたくさん体験してきた。だれかが助けてくれるというか、だれかがその人を思い出させ、その思い出す相手の人にも働きかけてくれている。そんな気がする。この前も、「あの宿題は今週のうちに決着したいけど、どうなっているかなぁ。」ふっと、そんなことを思った瞬間に、facebookを通して仕事が進んでいることを知らせる連絡が入った。
▼その瞬間まで、抱えていた宿題のことを思い出さなかったのに、思い出した途端に繋がった。「あの人は今、どうしているんだろう。」それは何年も連絡のなかった人で、その日の晩に、しかもそのタイミングでしか電話に出ることができないちょうどのタイミングで電話がかかった。それはとても偶然とは思えない。
▼たくさんの出張と外出を繰り返す中で、人が亡くなったりする。それも、出張を理解してくれているかのような旅立ちで、そのタイミングでしか通夜と葬儀ミサを組めない、それをちゃんと心得てわたしに最後の務めを託して旅立っていく。こんなことを数限りなく経験してきた。
▼もし、そうした偶然とは思えない巡り合わせを数多く経験するなら、この人生に神が関わっていることをごく自然に受け入れてくれるのではないかと思う。「神」と呼ぶのがどうしても受け入れられない人も、「この目に見える世界を超える存在」を感じることができるのではないだろうか。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第246回目。3月12日の誕生日を13日に中学生と半強制的に祝いました。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四旬節第4主日(ルカ15:1-3,11-32)唯一の選択肢が、神の国の祝宴を広げていく

2013-03-10 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/130310.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
13/03/10(No.638)
‥‥‥†‥‥‥‥
四旬節第4主日
(ルカ15:1-3,11-32)
唯一の選択肢が、神の国の祝宴を広げていく
‥‥‥†‥‥‥‥

これまで10日間、「ベネディクト16世」の名前を唱えないでミサをささげてきています。そう努めてきましたが、10日間のうち半分は、「ベネディクト16世」と唱えたあとに「しまった」と気づきました。

言い間違えたのは唱え直すことができますが、省くことになっているのを唱えてから、唱え直すというのも変な話です。ちなみに、「3月12日」から教皇選挙(コンクラーヴェ)が始まるそうです。時代にもっともふさわしい牧者が与えられるように、心を合わせて祈りましょう。

四旬節第4主日C年は、福音朗読に「放蕩息子のたとえ」が選ばれています。英語聖書の同じ朗読箇所の見出しは「見失った息子のたとえ」となっています。これは物語のとらえ方の違いと関係しています。

下の息子を中心に物語をとらえると、上の息子が見事に言い当てたように、「娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来た」(15・30)という物語なのですが、父親を中心に物語をとらえると、「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」(15・24)息子の物語となります。父親を中心に物語をとらえてこそ、この物語に学ぶところがあるわけですから、「見失った息子のたとえ」としたほうが適切な気がします。

先週、伊王島の馬込教会を訪問して、土曜日の朝ミサにわたし一人が寝坊したという話しをしました。その土曜日の福音朗読は、何と第4主日と同じ「放蕩息子のたとえ」の箇所でした。まだ頭の中は眠った状態で絞り出した説教は、「司祭生活21年、たとえ話の中の下の息子の立場が、今日ほどよく分かった日はありません」というものでした。

わたしは寝坊したことでみんなを待たせ、主任司祭にも迷惑をかけたし、一緒に訪問していた浜串の婦人部のみなさんのメンツも丸つぶれになってしまいました。たとえ話の中で下の息子は放蕩の限りを尽くして完全に立場を失って帰って来ました。そのように、わたしも完全に立場を失って、皆さんの前に現れたわけです。

もうどんな裁きを受けてもしかたのない状態でした。通常の生活ではなかなかそのような場面は起こらないわけですが、けれども決して起こり得ない話でもないと思います。1年ほど前に、NHKが「はつ恋」というタイトルの10回くらいの連続ドラマを放送していまして、木村佳乃さん演じる主人公が家庭を崩壊させてしまうような過ちを犯し、それがどのようにしてゆるされて本来の家庭の姿に戻っていくかというテーマが取り上げられていました。最近はNHKでもこういうドラマを取り上げるんだなぁと思いましたが、主演の女優さんは見事にその役を演じきりました。

今のは1つの例ですが、家庭の中で、立場をなくしてしまうような過ちを犯したり、会社の中で立場を失うようなことをしでかしたりというようなことは、ないとは言い切れません。そんな時、どのようにその過ちを犯した人をゆるし、受け入れるか。どのようにして過ちから生じた深い傷を修復し、立ち上がって新たな一歩を踏み出すか。そういう問題をまさに今週の福音朗読は考えさせてくれると思います。

そこで父親として登場している人物の姿を学ぶ必要があるわけです。父親は、放蕩の限りを尽くしてあわれな姿をさらしている下の息子を、遠くにいるうちから見つけ、走り寄って首を抱き、接吻したとあります。

ただここでも問題があります。わたしが父親だったらどうだろうか。同じように振る舞うだろうか。そう考えたとき、もしかしたらわたしが父親だったら、「本当はわたしはお前に期待していたのだ。その期待をこんな形で裏切ってくれるとは。お前の望み通り、雇い人と同じ生活をしなさい」と言うのではないだろうかと思ったのです。

しかし、イエスがわたしたちに求めているのは、物語に登場する父親の態度に見倣うこと、それだけが唯一の答えだと教えていると思います。もし父親の立場に立って、同じ態度を取れないとしたら、それは唯一の取るべき態度にたどり着いていないことになります。わたしたちが求められている態度はたった一つ、「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」選択肢は他には与えられていないのです。

この、唯一の取るべき態度にたどり着くためには、何が必要なのでしょうか。おそらく、「死んでいた」「いなくなっていた」という姿から立ち帰ることがいかに大事であるかを心底理解することだと思います。人が、死んだような状態にあることがどんなにもったいないことで神が悲しみ、深い憐れみを感じる状態かということをよくよく理解しなければなりません。

立場を失うようなことがあっても、もう一度神に立ち帰るなら、その時から人は死んでいたのに生き返るわけです。その時、周りの人は原因となった過ちを強調するのではなく、神に立ち帰ろうと決めたこと、ここにこそ目を留める必要があるのです。この態度が、父である神に倣う唯一の取るべき態度だのだと思います。

もちろん、そう簡単ではないでしょう。先にちょっと触れたNHKのドラマでも、家庭に亀裂を生じさせた妻を受け入れるのに6年の歳月が必要でした。それでも、ただ一つの選択肢を選んだことで、家庭はもう一度あるべき姿に進むことができたのです。

イエスは、十字架の道をたどることで、唯一の取るべき態度を選ぼうとなさいます。人類が、死んでいたのに生き返るためには、神との和解からはるか遠くにいるうちからイエスが見つけ、走り寄って首を抱き、接吻する以外に方法はなかったのです。

イエスが歩まれた道が、ただ一つの道です。イエスが選んだ選択肢が、ただ一つの選択肢です。わたしたちも、立場を失った人が立ち帰ろうとするときにもう一度受け入れましょう。父なる神の態度を唯一の選択肢として神の民それぞれが選ぶとき、祝宴を開いて楽しみ喜ぶ神の国が広がっていくのだと思います。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
四旬節第5主日
(ヨハネ8:1-11)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼もしも、気を悪くする方がおられたらおゆるしを。司祭の自炊について。長崎教区司祭は食事を軽視すると痛い目に遭う。4度目の赴任地で、賄い方を探せず3ヶ月自炊をした。しかしどうにも司祭本来の仕事が回らなくなり、教会役員に泣きついて社会福祉協議会で働いていた信徒に職場を辞めてもらい、司祭館の賄いに入ってもらった
▼何せミサが終わって朝食に取りかかり、食べ始めるのが8時。食べ終わって皿洗いまで終わるころには9時近く。教会の台帳を開いてここ数年の小教区の動きを把握しようと努めるも、あっという間に10時を過ぎる。
▼11時になれば昼食の準備。1時間も掛かって料理を作り、10分でそれを食べる。片付けにすぐに取りかかりたいが、連続テレビ小説は見たいので台所は午後1時以降に後回し。朝と昼の料理で疲れ果て、買い出しをしたらもう子供たちが教会学校に来る。
▼要理をして、また台所に行って料理本で前日作らなかった料理を作ってみる。夕方5時から料理にかかり、6時に食べるが、7時のNHKはどうしても見たい。クローズアップ現代も見てしまい、片付けは夜8時。その頃には結婚予定のカップルがやって来て、夕食の片付けは夜10時になるか、諦めるかである。
▼自炊に追われ、通し番号になっている台帳の記録も滞り、日常の掃除洗濯も破綻し、そのうち司祭館はゴミ屋敷となり、生物学的に死ぬか、死んだ司祭となるかのいずれかの運命が待っている。だから、食生活がきちんとできる体制を守ってもらう必要があると思うのだが。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第245回目。今年は保育園の卒園式を撮影し忘れた。私物の紫の祭服の刺繍。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四旬節第3主日(ルカ13:1-9)まことの神は忍耐強く、いつくしみ深い

2013-03-03 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/130303.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
13/03/03(No.637)
‥‥‥†‥‥‥‥
四旬節第3主日
(ルカ13:1-9)
まことの神は忍耐強く、いつくしみ深い
‥‥‥†‥‥‥‥

浜串教会のミニバレーをしている女性陣を引き連れて、伊王島の婦人会のみなさんと試合をして交流を深めてきました。馬込教会のチームは長崎南地区のミニバレー大会で優勝をしたと聞いていましたので、やや身構えて試合に臨んだのですが、結果は浜串チームの圧勝でした。

第1セットこそエンジンがかからずにひやりとした場面もありましたが、あとは地力の差が出る一方の試合でした。それでも最後の試合では馬込教会チームからは84歳の選手がサーブに出て、浜串チームが動揺したのか、その選手で3点取ったりして大いに盛り上がりました。

今回の訪問を快く受け入れてくださった馬込教会の岡神父さま始め、婦人会のみなさん、役員のみなさん、そして何よりも応援してくれた伊王島のみなさんに、心から感謝したいと思います。

では福音の学びに入りましょう。「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(13・3,5)今週の朗読の前半部分で、2度も繰り返されています。 「似たような表現」というのではなく、「まったく同じ表現」なのですから、これは内容を強調していると考えるべきでしょう。

みなさんは、「悔い改めなければ滅びる」という呼びかけを使う人々と言ったらどんな人を思い浮かべるでしょうか。わたしは、世の終わりをことさら強調して信者を獲得しようとする新興宗教の人々を思い出します。ふだん平和に暮らしている人々の心を不安にさせ、自分たちを信じなさいと勧誘する人々です。この人たちはまことの神を知らないのに知っているかのような態度を取り、うっかり信じて来た人々を二度と正常な判断ができないようにしてしまいます。

しかし、イエスが「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と述べるのは、新興宗教の人々と同じように人々を不安にさせ、恐れで縛り付けるためでしょうか?決してそうではありません。イエスがこのように呼びかける目的はあくまで一つ、「悔い改めを促すため」です。たしかに悔い改めなければ滅びるでしょうが、神はどこまでも、人が悔い改めて立ち返ることを願っておられるのです。

イエスが「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と述べるのと、新興宗教の人々が述べるのとは、言葉は同じでもその意味はまったく違います。新興宗教の人々が滅びを強調するのに対し、イエスは悔い改めを強調します。新興宗教の人々が滅びを強調するのにはわけがあります。それは、自分たちの主張でだれかが悔い改めたとしても、その人々を本当の救いに導くことができないからです。

イエスが悔い改めを強調するのにも当然わけがあります。イエスは悔い改める人々を忍耐し、いつくしみで包み、迎えてくださるからです。イエスは人を本当に救うことができるので、恐れで人を縛ることはありません。

イエスの悔い改めへの招きに関して、わたしたちはすばらしい讃美歌を知っています。「主に立ち返れ、主に立ち返れ。主は恵みに満ち、あわれみ深い。主は忍耐強く、いつくしみに富んでおられる。主に立ち返れ、主に立ち返れ。主は恵みに満ち、あわれみ深い。あわれみ深い。」

今週の朗読の後半では、「実のならないいちじくの木」のたとえが語られています。朗読の前半で悔い改めを強調するイエスの思いはここでも受け継がれています。主人は、実がつくのを当然期待できる時期が来てからさらに三年待ち続けています。

ここには、神の忍耐が見えます。また農夫は、いちじくの木にいつくしみを示し、木の周りを掘って肥料をやってみますと答えます。まことの神は、滅びを強調せず、どこまでも人間の悔い改めを待っておられるのです。

大きな声では言えないのですが、伊王島での交流の翌朝、6時半からみんなで一緒にミサをすることになっていました。ところがわたしは久しぶりに伊王島の青年やお父さんたちとワイワイ騒いでお酒を飲み、そのあとひとりで信徒会館に寝たところ、ミサに寝坊してしまいました。

穴があったら入りたい気分でした。6時半に伊王島の議長さんが起こしに来てくれて、みなさんも忍耐して待ってくれました。わたしはあらゆる罰を受けてもしかたがない状態でしたが、ミサのために集まってくれた伊王島と浜串のみなさんを通して、滅びを強調せず、どこまでも人間の悔い改めを待ってくれる神さまの姿を見た思いです。

いちじくの木はわたしたちです。神はどんなに実のならない木であっても滅ぶことを望まず、忍耐しいつくしみを示すことで受け入れようと努力してくださいます。神の深い愛に、無条件に感謝しましょう。滅んでも仕方のない命さえも忍耐といつくしみで包んでくださる方に、この四旬節、何か1つでもお返しができるよう、目標を持ちましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
四旬節第4主日
(ルカ15:1-3,11-32)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼インターネットブラウザも人によっていろんなものを使っていると思うが、ブラウザによって、できることとできないことがある。ふだん何気なく使っている人も多いだろうが、嫌でも意識させられることが起こった。
▼ネット上のストレージを利用できるさまざまなサービスをご存知だろう。その中でわたしは「スカイドライブ」と最初に出会ったのでそれを利用しているが、Google Chromeを使ってファイルをアップロードしていたのが、いつからかアップロードできない状態になった。何度試みても、「不正な文字のファイルはアップできません」という警告を受ける。
▼仕方なく、ファイル名をすべて小文字のローマ字表記に変えてみた。ところがそれでも状況は好転しない。しまいにはなぜアップロードを受け付けないのか分からなくなってしまった。しばらくその状態が続いたのだが、あるとき同じファイルでも、firefoxからアップローとしたときは受け付けてくれて、Google Chromeからアップロードしようとすると拒否されることが分かってきた。
▼理論的に原因が理解できて、対処法も分かったというわけではないが、Chromeが得意にしている部分と、firefoxが得意としている部分が違っていて、使い分ける方が簡単だということが分かってきた。今回も、firefoxでアップロードすると、ファイル名を気にすることなくすんなりアップロードできた。
▼ネット上の中継を再生するときは、今度は反対の現象が起きる。firefoxでは再生してくれない中継があり、このサイトをGoogle Chromeで確認すると中継もスムーズに再生してくれる。
▼全部を満たしてくれるのは実のところInternet Explorerなのだが、わたしがこのブラウザを大嫌いなので、問題がこじれているというわけだ。嫌いな理由を書こうとすると、あと1回分このコーナーを消費してしまう。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第244回目。伊王島訪問の様子。翌朝(寝坊した)ミサ後の集合写真。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする