こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第30主日(マルコ10:46-52)私も「なお道を進まれるイエス」に従いましょう

2006-10-29 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/10/29(No.264)
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年間第30主日
(マルコ10:46-52)
私も「なお道を進まれるイエス」に従いましょう
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金曜日と土曜日、天気良くて、二日続けて釣りに行かせてもらいました。どちらも3時間くらいです。金曜日はまあ、いろいろ釣れたのですが、納得できる結果ではありませんでした。翌土曜日は、皆さんもご存知でしょうが、ビックリするくらいの天気で、海は鏡のような凪でした。けれども、金曜日にさらに輪をかけて結果は思わしくなくて、今はションボリしています。いつでも釣れるなんてことはないですね。

福音に入りましょう。今日の福音で、道端に座っていた物乞いバルティマイがイエスから憐れみを受けることになります。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」という叫びは、イエスに確かに届きました。

バルティマイは、大声で叫んだので、イエスに聞き入れてもらったのでしょうか?確かに大きな声は、注意を引くのに有利かも知れません。けれども、私は思うのですが、もしもバルティマイが心の中で同じ言葉を言ったとしても、イエスに届いたのではないかなと思うのです。

バルティマイが大声で叫んだ言葉は何だったでしょうか。「ダビデの子イエスよ」そして、「わたしを憐れんでください」というものでした。この叫びは、イエスがどのようなお方であるかを十分に理解していたことを物語っています。バルティマイの叫びは、「わたしは、あなたが弱き者、小さき者を憐れむ救い主であることを知っています」という信仰告白だったからです。

群衆はそのことを理解していたのでしょうか。まったく理解していなかったようです。群衆はこの物乞いを「叱りつけて黙らせようとした」(10:48参照)とあります。彼らには、この物乞いの訴えが、イエスの歩みを邪魔するものとしか映りませんでした。群衆の考えているイエスとは、「目の見えない物乞いなどには目もくれない、そんなささいなことにかまってはいられない方だ。このお方は政治の舞台で活躍する華々しい人物なのだから」と考えていたのでしょう。

もう一つ興味深い描写があります。イエスや弟子たち、また大勢の群衆は道を歩いていて、バルティマイは道端に座っていたという点です。ここには隠された意味があると思います。イエスは今日の物語の舞台であるエリコを出ると、救いの計画の完成のためエルサレムに向かっていきます。救いの計画の途上にあるのです。これに対して、バルティマイは今のところ道端にいて、同じ歩みをできないでいます。

ところが、イエスは彼をお呼びになりました。目も見えず、人の憐れみにすがって生きる物乞い、群衆が「イエスを理解しない愚か者」として退けた人間、さらに救いの計画への道のりに関係ないと思われていた人物が、神の憐れみを受けるにふさわしい者、イエスを理解している者、イエスと共に道を歩む救いの計画の協力者として人々の前で取り上げられたのです。

さらにマルコはイエスへの深い信仰を持っているバルティマイと、目先のことで付いてきている群衆の違いを際立たせる場面を盛り込んでいます。イエスは群衆に「バルティマイ(あの男)を呼んで来なさい」と言います。人々は「安心しなさい、立ちなさい、お呼びだ」とバルティマイに声をかけるのですが、イエスにバルティマイを案内する群衆はそれでもバルティマイとイエスの深い絆に気付いていないのです。群衆は「イエスをまったく理解しない、群がる人々」でした。

自分たちのことを「見えている」と思い、「自分たちこそは、イエスのことを理解して、後をついてきている」そう思い込んでいたのでしょうが、彼らのほうが「何も見えていなかった」のです。その証拠に、イエスは群衆の前でバルティマイを「目の見える者」「わたしと同じ思いを抱いて歩いてくれる者」と認めてくださったのです。

結果として、バルティマイの願いは、イエスによって二重三重にかなえてもらいました。つまり、視力を回復してもらうということと、イエスが誰であるか、よく理解しているのはむしろこの人だと人々の前で証明してもらったこと、神の呼びかけを聞いて共に歩む人のモデルとして群衆から取り分けてもらったのです。

こうしてイエスにすべてを報いてもらったバルティマイは、「なお道を進まれるイエスに従い」イエスと歩みを共にするようになります。イエスは、「行きなさい」と仰って、バルティマイに行くべき道を選ばせますが、彼が選んだのは、「イエスに従い、同じ道を歩く」ということでした。これは、神の呼びかけを聞いて、それに答えて歩み始めるという召し出しの道です。

今、バルティマイに召し出しの道を重ねてみましたが、それはただ単にイエスといっしょに歩くという意味ではありません。イエスはこれから十字架への道を歩くことになるのです。バルティマイは、その同じ道を選び取ったのでした。イエスが十字架を通って人を救われるなら、私も自分の十字架を背負って、人生の道を歩きます。私はイエスの招きに従って生きていきます。そういう覚悟が、ここには現れているのです。

バルティマイは大勢の人間の中に埋もれているかのようでいて、イエスに確実に見つけてもらえる信仰の持ち主でした。私たちも、イエスに確実に見つけてもらえる人間でありたいものです。最初から、私はものが見えている人間だと思い、教会の中ではまともなほうだと思っていては、イエスからは群衆の一人として扱われ、声もかけてもらえないかも知れません。

大なり小なり、私たちには改めるべきことがあるわけですから、改めないといけないことを素直に認め、「わたしを憐れんでください」と声を上げる謙虚さを持ちたいものです。それでこそ、私たちはイエスの目に留まるのだと思います。

もう一度、物語の結びに注目しましょう。バルティマイはイエスのあとに従う決意をしました。十字架を担って人を救う道についていきました。私たちも、日々、イエスに変えていただきながら、あらためて、私の担うべき分をしっかり担って、イエスについていくことにしましょう。それによって、私たちは毎日の生活の中で神の国の完成に協力することができるわけです。


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ちょっとひとやすみ
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▼私は苦労人が大好きです。カージナルスの田口壮選手、涙が流れました。ワールドシリーズの優勝おめでとうございます。外野の守備には定評があったけれども、パワー不足で自分をどのようにアピールすればいいのか分からなかった時代を経験しています。それでも、メジャーでどうしても必要な選手として監督に認めてもらって今年すべてが花開きました。
▼彼はマイナー時代の苦労を話したがりませんが、その時期に覚えてきたことは、「いつでも結果を出せることが彼に求められている」ということでした。いつでも結果を出すためには、技術的なことは言うまでもありませんが、それを支える強靱な精神力も必要になります。
▼代打に出て必ずヒットを打つ、守りに出て絶対に長打を許さない。チャンスが来るまでじっとベンチで待っていて、声が掛かって必ず結果を出す。スタメンよりも大変かも知れません。でも彼はその重圧に屈せずに見事に結果を出し、「信じられない」といって無邪気にシャンパンファイトに興じていました。
▼苦労人が好きな理由はもう一つあります。自分自身が、練習嫌いで泥まみれになるのが嫌いだからです。努力はするけれども、努力を見せるのが嫌いなのです。無い物ねだり、自分にまったく身に付いていないものを他人に見るとき、純粋に尊敬し、頭が下がります。

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こうじ神父絵手紙
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第49回目。聖スルピス大神学院(福岡)に11月3日に行きます。ちょっと待ってね。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第31主日
(マルコ12:28b-34)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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年間第29主日(マルコ 10:35-45) あなたがたは皆に仕える者になりなさい

2006-10-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/10/22(No.263)
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年間第29主日
(マルコ 10:35-45)
あなたがたは皆に仕える者になりなさい
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東京に行って来ました。それぞれの教区で「教区報」を作っている広報委員会の人たちが全国から集まって研修を受けました。東京に3日間もいたので、東京弁が抜けなくなったらどうしようかなあと心配していましたが、行ってみたら長崎教区の司祭が3人も中央協議会に派遣されていまして、しかもその3人が上五島の出身の司祭ばかりでしたので、結局五島弁を東京で話して帰ってきました。

研修した内容は、「よきおとずれ」の2面にいろいろ書いていますのでここですべては話しませんが、最初に講演をしてくださった共同通信社に勤める講師が、「記事は分からないまま乗せたり、はっきりしないままで載せてはいけません。分からないときは、分かるまで尋ねるようにしてください」と話したのが印象に残りました。

この話をしてくださった共同通信社の講師は、入社して初めに新聞に載った記事は、確認を取るために何と20回も電話をしたのだそうです。それからすると、「よきおとずれ」に記事を載せるときに、私はあやふやなことを載せたり、たぶん大丈夫だろうという見込みで見切り発車したりしている気がします。反省させられました。

さて今週の朗読につながる体験を2つ紹介したいと思います。1つは、中田神父の携帯電話に入った相談です。東京にいる間に携帯電話が鳴るとは思いもしませんでしたが、かかってきた電話は結婚式に関わる電話でした。電話をかけてきた人たちはいったん教会に電話をかけたようです。すると、留守番電話で「これこれの携帯の番号にかけ直してください」という案内が流れますので、案内に従って携帯にかけたということでした。

「もしもし、そちらの教会で結婚式をしたいのですが、できますか」。あー、いつもの電話だなと思いました。それでいつもどおりに返事をするわけです。「カトリック教会で結婚式をされる方は、週に1度の勉強会を2ヶ月受けてもらう必要があります」。すると電話の相手は、「そうですか。分かりました」と言って電話を切りました。実は土曜日の午前中にも同じような電話がかかって、「分かりました」と言ってまた電話は切れました。

私は思うのですが、これらの相談相手は、このあと結婚の勉強にも来ないし、もちろん結婚式をすることもないだろうなあと思います。ですから、「分かりました」と彼らは言いましたが、私は、「分かっていない」と思っています。

彼らは確かに結婚式をしたかったのだと思います。そして、私が勉強会が必要ですよと言ったことも、理解できたと思います。「なぜ勉強が必要なのですか」とか、「勉強会ってどんなものですか」と尋ねたりはしなかったことから考えると、彼らは本当は分かっていなかったのではないでしょうか。本当に結婚式をしたかったら、教会が求める勉強会も受けようとするはずです。ですから、「分かりました」と言って電話を切った彼らは、「何も分かっていなかった」ということになります。

今日のイエスの出来事の中で、イエスが2人の弟子に「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(10・38)と尋ねて2人の弟子が「できます」と言いましたが、彼らはイエスが言うように、「何を願っているか、分かっていない」状態だったと思います。苦しみの杯を父である神に捧げ、命を人間すべてに差し出すことがイエスの言う「わたしの杯」「わたしの洗礼」だったのですが、2人の弟子たちはよく分かっていなかったはずです。

結婚式の相談をしたカップルの話をしましたが、本気で「分かりました」と言ったのであれば、何曜日にその勉強会はあるのですかとか、自分たちは県外にいますが、その場合はどうしたらよいですかと詳しく尋ねたでしょう。

実際、近くの教会で結婚講座にあずかり、修了証を持参して結婚式を受けに来る人たちがいるのですから、本当の意味で分かった人たちではなかったのです。分かっていないのに分かりましたと言うくらいなら、いっそのこと「わたしたちは勉強会をしてまで結婚式を受けようとは思っていないことが分かりました」と返事をして欲しいものです。

今週の朗読につながる2つめの点は、長崎から東京の中央協議会に派遣されている3人の神父様のことです。せっかくですから名前を挙げておきましょう。3人とは私と同級生で、中央協議会で出版部長をしている下窄神父、中堅で中央協議会広報部長をしている久志神父、それからベテランに入ると言ってよい神父で中央協議会事務局長に選ばれていった前田神父です。私が考えるに3人の神父様は「偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」(10・43)というイエスの言葉を、より高いレベルで実行していると思ったのです。

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」(10・43)この招きは、努力すればできるようにも思えますが、実際考えているよりも険しい道のりなのです。多くの人にとって「理解できる」教えですが、「実行できない」つまり「本当の意味は分かりにくい」教えなのです。

私も、イエスが言っていることは分かります。そして、ある程度は実行しています。けれども、「皆に仕える」ことはできていません。長崎教区のどこかの教会で、そこにいる信者の皆さんに仕える、その教会を宣教活動の中心に置いて「よきおとずれ」だとか、「メールマガジン」だとか、全国紙の記事を書くとか、たまには大学の授業を受け持つとか、そういったことでかなりの部分で奉仕しているとは思いますが、それでも「皆に仕える」ことはできていないと思うのです。

例えばですが、「じゃあ中央協議会の人もそろそろ交代だから、あなた行ってきなさい」と言われても、私は絶対にイヤです。ということはもうこの時点ですでに、「皆に仕える」ということはできていないわけです。この小教区にいて、さらにもう一つ二つ仕事が増えたとしても、おそらく私はそれを引き受けることでしょう。けれども、すべての仕事から解放してあげますから、県外に行ってくださいと言われたら、私はイヤだと言うと思います。

この時点で私は、いったい何人の人に仕えていないことになるのでしょうか。イエスは「皆に仕える者になりなさい」と言うのですから、仕えたくない人の名前が並べば並ぶほどイエスの招きに背を向けていることになります。

「県外には行きたくない」と言っているのですから、姿形は分かりませんが、多くの人に仕えていないことになるかも知れません。もちろん派遣先の良さが分かっていないからこうなるのであって、実際にそのようなことが起これば違った態度を取るかも知れませんが、今と同じように力を発揮することが派遣先でできるのかという疑問はあります。

いろいろ言いましたが、大切なことは3人の長崎教区の司祭が現実に東京の中央協議会で奉仕している、仕えているということです。私にはとてもできない高いレベルで、イエスの命令を受け入れ、毎日を過ごしているということです。去年初めて中央協議会での研修会に行った日の夜に2次会で小さな店に呼ばれ、「長崎からエビを送って」と言われて何と横柄な、と思ったのですが、今年は違うことを思いました。

彼らもきっと、長崎のほうがのびのびとできるに違いない。けれども、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」という招きに忠実であろうと腹を決めて、留まっているのではないでしょうか。エビを送ろうとまでは思いませんが、心から応援したいと思いました。

県外への派遣を断るのであれば、せめてこの長崎で、もっと多くの人に仕えていこう。もっと高いレベルで仕えていこう。そういう思いを新たにした東京での三日間でした。


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ちょっとひとやすみ
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▼東京にも親切な方がいます。夜の何とかブリッジを車で走ってもらいました。・・・レインボーブリッジ。そうそう、それそれ。東京タワーが夜景に映えていました。レインボーブリッジ渡るとき、観覧車が見えました。東京地検のそばを通りました。国立劇場、帝国劇場、国会議事堂、どれもがテレビで見た光景でした。
▼それらテレビで眺めていたものを肉眼で見ていると、あーここが東京なんだなって実感できます。20年前、スクーリングでお世話になっていた時代に麹町教会に通っていましたが、四ツ谷駅の雰囲気は懐かしくて涙が出そうでした。「よつや」って、間違ってたらごめんなさい。現在眠くて確認する元気なし。
▼麹町教会にも足を運びましたが、本聖堂ではザビエル巡礼コンサートが行われていて、直接入ることができず、脇にある「ザビエル聖堂」というのかな、小聖堂に入って静かに祈りました。都会の中にあって、別世界の静けさを味わうことができました。なぜか、あの場所では長崎と変わらない落ち着きを感じることができました。
▼東京で集まりを持ちましたが、たくさんの方と再会できました。中にはお便りまで届いたりしていましたが、この場を借りてお礼申し上げます。こうじ神父は東京にいて長崎を探していたと気付きましたので、やはり自分の活動の場は長崎なんだと再確認しました。お互い、置かれた場所でキリストを証しできたらと思います。

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こうじ神父絵手紙
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第48回目。最近DVDカムを買いました。デジカメより写真の画質が高いのはなぜ?

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‥次の説教は‥‥
年間第30主日
(マルコ10:46-52)
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年間第28主日(マルコ10:17-30)すり切り一杯の正義ではなく

2006-10-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/10/15(No.262)
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年間第28主日
(マルコ10:17-30)
すり切り一杯の正義ではなく
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私は車に乗っていてとっさにブレーキを踏むとき、後ろを見る習慣が付きました。もちろん、厳密には、前を見てブレーキを踏むわけですが、同時に後ろの車の動きも見ることにしているのです。

この習慣が身に付いたのは苦い経験をしてからです。そのうちの一つを話しますと、私がまだ大神学生だったとき、上五島で大神学生によるクリスマス劇をするためにとある教会に向かって走っていました。もう15年以上も前の話になりますが、集合時間が近づいていてすごく急いでいました。

私の後ろにも、福江から上陸してレンタカーであとをついてきていた大神学生の車がいました。集合場所である丘の上の教会を探しながら走っていたのですが、うっかりしていたため教会への登り口を行き過ぎようとして、急ブレーキを踏んでそこから右に曲がったのです。

「キキーーーー!」悲鳴のようなブレーキの音が私の後ろから聞こえてきました。私が突然急ブレーキを踏んだものですから、後ろの大神学生も衝突を避けるために猛烈にブレーキをかけて危険を回避したのです。あたりまえのことですが、前の車が突然止まれば、後ろの車はたまったものではありません。あのときの自分の運転を考えてみると、私がとっさに止まって曲がろうとしたとき、もし後ろの大神学生の車がそれに気が付いてなかったら、いったいどうなっていたことでしょう。

今考えるとゾッとします。あのとき事故を起こしていたら、私も生きてはいないでしょうが、もしかしたら後ろで運転していた大神学生の将来にも迷惑が掛かっていたかも知れません。それ以来、あっ!と思ってブレーキを踏むときは、後続の車は私のブレーキに気付いただろうか?そう思ってミラーを見る癖が付いたというわけです。

もう少し余裕があれば、何回かブレーキランプを点滅させるように心がけています。なぜかというと、自分は100%悪くない、どんな状況に際しても、自分さえ悪くなければ、責任を取る必要はなくなります。そういう状況を作るためです。私はずるいかも知れません。はたしてこんな態度は通用するのでしょうか。まずはこの点から考えるきっかけにしたいわけです。

教会への登り口を行き過ぎようとしたので、急ブレーキを踏んで曲がろうとした。私にとっては仕方ない判断でした。もしかしたら、私の急ブレーキに気付かずに、私の後ろの車が、私に飛び込んでくるかも知れない。そうなると、自分では仕方ないと思っていても、周囲の人にとって良い判断だったと言えるでしょうか。いったん安全に止まって、後ろの車にも「申し訳ない。登り口を行き過ぎた」と伝えてそれから次の行動を起こす。そこまで考える必要があったのではないでしょうか。

今日の福音で、金持ちの青年が、イエスに真剣な相談を持ち込みました。「ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた」という部分が、本人の真剣さをよく描いています。彼は本気で、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのか」(10・17)知りたかったのです。

イエスは、当時だれもが大切に考えていた「十戒」を思い起こさせます。イエスはこの「十戒」を思い起こさせた時点で、これで青年の悩みは解決すると思っていたでしょうか。イエスはおそらく、この青年はそういうありきたりの答えには満足できないだろう、と考えていたのではないでしょうか。青年が、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えるのを、あらかじめ予見していたかも知れません。

「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」。青年がこう答えたとき、イエスは「そうら来た」と思ったことでしょう。イエスは続けて、この金持ちの青年に財産に執着しないことを勧めました。青年の心に浮かんだことのない、新しい生き方に目を開かせるためです。

先に車の運転で失敗した話をしましたが、急ブレーキとは言え、ここで曲がらなければ、と思って思いっきり止まろうとしたことは、私にとって正しいと思える判断でした。ですが、もし私にもう少し余裕があれば、自分さえ正しければいいという考えから、もう少し周りのことも考えてあげることができたはずです。このできごとを、もっと広い物の見方を身につけるチャンスにできたです。

金持ちの青年は、自分の正しさをイエスに主張しましたが、イエスはその答えに満足していませんでした。あなたは自分のことだけを守るので精一杯の身分ではないのだから、もう少し、人のためにも心を開くことはできませんか?あなただったら、すり切り一杯の正義ではなくて、財産を貧しい人に寛大に施して、溢れるほどの正義を果たすことができるのではありませんか?そう呼びかけたかったのです。

残念ながら、この金持ちの青年は立ち去ってしまいます。イエスの招きに答えるだけの心の広さは持ち合わせていませんでした。イエスが示す「神の国で受け入れられる正義」に目を向けることはできませんでした。正義を守り、永遠の命を受け継ぐのに、この青年はギリギリ足りるだけしか、心を開くことはできなかったのです。

「お釣りはいいよ」とか、「あずけたお金で余ったらあなたの良いように使ってください」とか、さすがにこうしたことがすべての人に可能だとは思いません。ですがある人にとっては、寛大に自分の持ち物を提供して、ほかの誰かの分までも協力できる人もいます。

そうした人に、イエスは「勧め」をお与えになるのです。ギリギリの正義・ギリギリの愛ではなくて、溢れるばかりの正義と愛を施しなさい。私はあえて、このことをあなたに勧めます。そう促しました。この呼びかけはあくまでも勧めです。事実イエスも、金持ちの青年が去ったときに、「あの人は神の国に入れない」そんなことを言ったりはしませんでした。

自分の生活を守るのが精一杯、自分の安全を守るのが精一杯。そういう場面もないとは言いません。ただし、体験を通して「わたしはもう少し周りに気を配ることができる」そういう人も、中にはいるでしょう。今回中田神父の体験から考えてもらいましたが、一人ひとり、イエスの呼びかけを前にして、もう少しできるのではないか、自分を振り返ることにいたしましょう。

私は、ギリギリしかイエスの呼びかけに答えようとしていないのではないか、溢れるばかりの寛大さで、イエスの呼びかけに応える人になりたい。そのようなキリスト者に育てていただけるよう、ミサの中で祈ってまいりましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼一年ぶりに東京に行ってきます。教区の広報委員会が年に一度研修を行うために集まります。東京に行っても名所を見て回るわけでもなく、息を呑むような大都会を堪能するわけでもありません。だたただ、研修会場で先生のありがたい講義を受けて、各教区の報告をして、全国に関わる二三のニュースを聞いて帰るだけです。
▼その中で、初日の晩に、ささやかな会合が開かれます。メルマガつながりです。だれかは「口外するな」と言っていましたが、このメルマガの配信される頃であれば問題にはならないと思って、こうして話しています。それに、最初の段落であれだけ東京行っても何もないと言っているのですから、次の段落でこのような展開が待っているのは容易に想像つきます。
▼私は、残念ながらつきあいが下手です。幅広く、いろんな人と交流を持って、人脈を持つというようなことがからっきしできません。それなのに、今回の会合では合計13人もの集まりになるのだそうです。不思議としか言いようがありません。何を話したらいいのか、どんな話が飛び出すのか、楽しみというより心配しています。
▼東京も長崎も、それぞれ人が住んでいて、それぞれの現実があるのだと思います。東京で長崎の生活はできないでしょうし、長崎で東京の基準は当てはまらないと思います。それでも、お互いの良さがあって、それがまずはメルマガで触れ合って、こういう出会いが生まれてくるのでしょう。神に深く感謝します。

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こうじ神父絵手紙
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第47回目。ふだんは対岸に小さく見えている「神の島教会」です。さすがに美しいです。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第29主日
(マルコ10:35-45)
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年間第27主日(マルコ10:2-16)子供たちをわたしのところに来させなさい

2006-10-08 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/10/08(No.261)
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年間第27主日
(マルコ10:2-16)
子供たちをわたしのところに来させなさい
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今日の福音は、前半が本来の結婚の姿を考えるきっかけとなったファリサイ派の人々との議論についてでしたが、今回は後半部分の人々がイエスに触れていただくために子供たちを連れてきた場面について取り上げたいと思います。ちょうど、木曜日から土曜日にかけて、京都のノートルダム学院小学校に行って6年生の修養会を指導してきたところでしたので、朗読の後半部分とうまく結びつくように話したいと思います。

まずは三日間での京都の行き帰りですが、ちょっとこたえましたね。大村空港まで45分、伊丹空港まで飛行機が1時間10分、大阪から京都まで高速道路を利用したりして1時間15分、合計3時間ちょっとで京都にたどり着いたわけですが、時間はわずかでも突然京都の真ん中に放り込まれたような感じで戸惑いました。

先に話しておきますが、帰りは朝の9時55分の飛行機を予約していたのですが遅刻してしまい、次の12時40分の空席をドキドキしながら待つことになりました。京都からの出発は朝8時でしたので約2時間以内に着けば十分間に合うはずでした。ところが高速道路で渋滞に巻き込まれ、2時間前に出発したのに間に合わなかったのです。

ちなみに高速道路で渋滞に引っかかった場所の看板には「吹田(すいた)」と書いてありました。「すいた」で渋滞に巻き込まれたのですからシャレになりません。「どこがすいた(空いた)なんだよ」って思ってしまいました。

もう一つ、ついでの話しですが、修養会を行った学校所有の山の家からの帰り、「途中」という地名を見つけました。珍しかったので、「ここは、『途中』と書いてますが、本当に『とちゅう』と読むのですか」と尋ねたのです。すると事も無げに「そうですよ」と言われてしまいました。

たとえばですが、「途中で待ち合わせ」とか、「途中で待っています」「途中で拾ってください」とか言われたら、事情を知らない私はきっと「なんていい加減な返事だ」と思うかも知れません。「途中の途中で待ってます」なんてことになったらそれこそ混乱してしまうんじゃないのかなって、よそ様の心配までしてしまいました。

さて実際の修養会ですが、学校が置かれている街中から車で40分移動した山の中に別荘が建てられていまして、そこで6年生160名のために2回話しをしたわけです。小学生6年生と言っても大変聡明な子供たちで、おそらく将来東京大学や京都大学、大阪大学を目指すような子供たちなのだと思います。

この子供たちは、少し難しいのではないかなあという内容の話をメモも取らずにただ聞くだけで理解していたのです。単に聞くだけなら驚きませんが、話のあとにおこなった班別活動では、多くの子供たちが聞いた内容を立派にまとめて感想を述べてくれていました。子供たちが何となく聞いていたわけではないことが一人ひとりの分かち合いでよく分かりました。

この子供たちはなぜこんなに立派に育っているのでしょうか。私の理解ですが、それは、カトリックの学校で十分に教育を受けたからではないかなあと思いました。カトリックの学校ですから、当然宗教の授業が行われています。この宗教の授業を通じて、彼らは公立の学校では得られない導きをいただいていたのではないでしょうか。

もっと突き詰めて言うと、カトリックの小学校でどのような宗教教育を受けたので今回出会ったような優秀な6先生に育っていくのでしょうか。私は、あれやこれやの細かな技術ではなく、イエス・キリストが、宗教の授業の中で直接教え導いてくださっているからあのような子供に育っているのだと理解しました。

朗読箇所後半部分の中で、イエスは次のようにはっきり仰いました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(10・14)。子供たちが大胆にイエス・キリストに触れる環境がカトリックの学校として用意されているおかげで、子供たちがあそこまで立派に育っているのだと思ったのです。

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」。この言葉は大変意味深いと思います。子供たちがご自分のそば近くに来ることをイエスが強く望んでおられるのです。子供たちはイエスに近づくことで、イエスから直接教え導かれて育ちます。

私たち大人のさまざまな思惑で子供たちが作られていくのではありません。ひたすら、イエスに触れることができる環境を作ってあげること。私たちはそのことだけに心を配れば、あとはイエスがすべてを計らってくれるのではないでしょうか。

今回私も、及ばずながら子供たちをイエスに触れさせるお手伝いができたと思っています。私があの子供たちを立派に導いたなどとはこれっぽっちも思っていません。彼らを教え導いたのは、私が紹介したイエスそのものです。「子供たちをわたしのところに来させなさい」という言葉は、「わたしが責任を持って子供たちを教え導きます」という強い決意の表れだと私は考えました。

もう一つ、見落とせない点があります。それは、「子供たちをわたしのところに来させなさい」の後に続く「妨げてはならない」という言葉です。私たち大人は、いろんな障害物をそのまま放置して、子供たちがイエスのところに来るための環境を悪くしてしまっているということがあるのではないでしょうか。

たとえば、朝のミサに子供たちが参加するためには、まず第一に家庭で朝のミサに間に合う時間に起きなければなりません。子供たちは疲れて眠たいから、朝のミサには起こさないでそのまま寝かせてあげよう。それが親の配慮だと思っているとしたら、私たち大人はイエスに叱られるのではないでしょうか。

むしろ、子供たちがイエスに近づくのに障害となるものを取り除いてあげることが、私たちにできるお世話なのではないでしょうか。日曜日の朝に眠くてミサに来ることができないのは、おそらく寝る時間が遅いからです。土曜日にもっと早く子供たちを休ませるようにすれば、朝の8時のミサは決して早い時間ではないはずです。

部活や習い事など、どうしても外せないことで子供たちがイエスに触れる機会が遠ざけられているとしたら、それを仕方がないであきらめるのではなく、ほんの少しでもいいから、子供たちがイエスに触れるチャンスを確保してあげるように大人たちが努力して欲しいと思います。

また、「妨げてはいけない」と言ったのは、本当に今子供と言われる人たちのことだけ考えなくてもよいと思います。あなたに子供と言える人がいるなら、その子供をイエスに近づけるようにして欲しいのです。あなたの子供がたとえ何十歳になっていたとしても、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」という言葉は生きているのです。

今回出会った子供たちがイエスに親しく触れる機会を持って見事に育っていったように、イエスの招きは今も私たちに迫っているのだということを肝に銘じて、すべての子供たちがイエスに親しく触れることができるように、これからも努力を続けていくことにしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼今回中学・高校時代の同級生の依頼でノートルダム学院小学校6年生と関わることができた。実際利発な子供たちばかりで、きっと将来は社会に出て大きな貢献をする人に育っていくのだろうと思った。そんな子供たちに私のあのような話しが本当に役に立ったのだろうか。
▼役に立ったとすれば、説教で書いたとおり「どれだけイエスに触れさせることができたか」この一点に尽きると思う。「少年イエス」をテーマに取り上げたわけだが、イエス・キリストがこれまで以上に身近に感じられ、子供たちのそばで歩みをともにしてくれて、共に成長してくれる姿を感じ取れたら十分である。
▼いたずら好きのこうじ神父をも十分喜ばせてくれた。私の薄くなった頭のことを「これはトップシークレットですが、みなさんにはすべてを正直に話して何も隠し事をせずにこの修養会を始めましょう」と話した。そして最後のお別れになる話しの場面で、「みなさんはわたしのトップシークレットを知っていますが、あとでお母さんに尋ねられても『トップシークレットはトップシークレットです』と答えてください」と言ったら全員がうなずいてくれた。
▼さらに「来年は中学生になるわけですが、ちなみに来年も6年生の人は手を挙げてください」と言ってみたら、「はい!」と数名の男子生徒が手を挙げた。「なかなかやるじゃないか」と本当にワクワクさせてくれる子供たちだった。録音をあらためて聞いてみると、いちばん楽しんでいたのは自分だったような気がしてならない。

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こうじ神父絵手紙
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第46回目。京都のカトリック小学校で修養会を行いました。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第28主日
(マルコ10:17-30)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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年間第26主日(マルコ9:38-43,45,47-48)私たちは一杯の水を与えたことがあるのです

2006-10-01 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/61001.asx

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/10/01(No.260)
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年間第26主日
(マルコ9:38-43,45,47-48)
私たちは一杯の水を与えたことがあるのです
‥‥‥†‥‥‥‥

「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(9・41)。今日はこの、イエスが取り上げた「一杯の水」「一杯の水を飲ませてくれる者」を私たちの生活の中で見つけましょう。身近なところでイエスが取り上げた「一杯の水」を見つけるなら、私たちはイエスの言葉に固く信頼を置いて生きることができるようになります。

一ヶ月前のことだったでしょうか、私が伊王島からの船に乗り長崎の大波止に降りたとき、傘の用意をしてなかったところに雨降りに遭いまして、夢彩都までのあいだを小走りに走っていたときのことです。伊王島の信者さんだなあと分かる人を一人見つけまして、「雨になったねぇ」と声をかけました。その方は雨の中、傘を持ってない私に「よかったらこの傘使いませんか」と言ってくれたんです。

天気は不安定で、確かに雨も降っていたのですが、じつはあの日は長崎でバイクに乗るつもりでいたので傘の申し出を遠慮しました。あとでバイクに乗ってからの話、思いっきり雨に降られまして、琴海にある大型店に駆け込んだあと30分ほどそこから出られませんでした。バイクに乗りながら傘はさせませんが、傘を勧めてくれたのは正解だったと思います。

一つの例を挙げてみました。雨降りの中、お互い傘は必要なわけですが、「キリストの弟子だという理由で」傘を使いませんかと勧めてくれたあの親切は、「一杯の水」だったのではないかと思います。

ここでもう少し、当時の水事情も含めて「一杯の水」について考えておきましょう。イエスが住んでおられたパレスチナ地方は、冬に雨が降る以外は一年を通して乾燥した土地です。雨はいっさい降りません。実際2000年の夏にイスラエル巡礼をしたとき、2週間で一滴も雨は降りませんでした。それほど乾いた土地ですから、水は大変貴重なのです。

当時水を手に入れる方法は、一般的には井戸からくみ出すというものでした。井戸も、各家庭にあるわけではなくて、町の中に何箇所かしかないわけです。それを苦労して汲んできて、自分たちの飲料水や生活用水にしていました。このような点を踏まえて「一杯の水」を考えるならば、案外貴重な一杯だったかも知れません。コップ一杯の水が大変貴重であれば、それを人に譲る、キリストの弟子に譲ってあげるというのは、大変勇気のある行動だったのかも知れないということになります。

ですから「一杯の水」はつまり、その人にとって大事なものを分けてあげる、譲ってあげるということを表しているわけです。雨だなあというときに寛大に傘を譲ってくれた人は、自分も伊王島に戻ればすぐに傘が必要だと知りつつ、それを寛大に譲ろうとしたわけです。ですから私はこの人は確かに「一杯の水を飲ませてくれる人」だったと思います。

ほかの例を考えてみましょう。私たちの教会には幸いに絵葉書セットがあります。みなさんも一度はお買い求めになったことがあるかも知れません。この絵葉書、たとえば誰か遠方の親戚に送ったりする場合には、送料がかかります。絵葉書をプレゼントするために、おそらく絵葉書代の500円以外に、送料も自分で引き受けることになるでしょう。送ってくれた相手は喜ぶでしょうが、送る私は、小さな額とは言えいくらかを負担しなければなりません。

こういうとき、絵葉書を送ってくださるみなさんは、この教会の絵葉書を喜んでくれるあの人のために、そういう気持ちで喜んで出費をしてくれているのだと思います。それは、やはり「一杯の水」なのではないでしょうか。送る相手は、教会の絵葉書を喜んでくれる相手です。教会のことを喜んでくれるキリストの弟子だからという理由で、絵葉書を送る送料を負担してくれるみなさんは、すでに「一杯の水を飲ませてくれる者」なのではないでしょうか。

さらに寛大な方もいらっしゃいます。いろんな機会をとらえて、たとえば年忌であるとか月の命日であるとか、あるいは何かの記念日に家族のため親戚のため、亡くなった方々のためにミサを捧げてくれる人です。このような人も、ミサを捧げたい相手が信者だから、キリストの弟子だから、きっと喜んでくれる。そう思ってミサを捧げているのだと思います。このような人もまた、「一杯の水を飲ませてくれる者」なのです。

私は、司祭館の建設のおりに、さらに寛大な多くの人と出会いました。司祭館の建設は世帯あたりの割り当てが信徒総会で決められていたわけですが、その上にさらに寄付を申し出てくださったたくさんの人のことを決して忘れません。この人々も「一杯の水を飲ませてくれる者」です。この司祭館が自慢できるとすれば、それは建物が立派だと言うことよりも、むしろ小教区のすべての人が、「キリストの弟子だという理由で、教会建設のために一杯の水を飲ませてくれた」そのことがいちばんの自慢だと思うのです。

こうした「キリストの弟子に対して一杯の水を飲ませてくれる者」にイエスは何と言っているでしょうか。「必ずその報いを受ける」と言っています。イエスが「必ず」と言ったことは必ず起こります。私たち人間が「必ず」と言ったときとはわけが違います。イエスが報いを約束すればそれだけですでに確かな約束ですが、「必ずその報いを受ける」と念を押しているのは特別な気持ちからなのです。「キリストの弟子だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる者」を、イエスは決して忘れないと言う強い決意の表れだと思います。

こうしていろんな場面を考えてみると、私たちはこれまで何度となく、「キリストの弟子」に「一杯の水」を与えて来たのだと思います。イエスが「必ず」と言ったその報いは失うことはありません。これからも、私にできる「一杯の水」を、キリストの弟子に施していきましょう。そして、決して失うことのない報いを、さらに一つでも二つでも積み上げて人生を全うしていきたいと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼GSX250Sカタナを航送船に特別に乗せて伊王島に持ち込んだ。2000円と言われた。金曜日の朝にお願いしますと○○運送事務所に出向いてお願いしていたのに、船を運航する船員たちには木曜日と伝えられていたらしくて、「ちゃんと約束した日に来てもらわないと困りますねー」といわれのない文句を言われた。
▼航送船は車専門の運搬船。金曜日もトラックが2台、自分の前に並んでいた。航送船にトラックが後ろ向きで進入し、このトラックの運転手は伊王島に到着するとそのまま前進して上陸することになる。自分も船に乗りなさいと促された。後ろ向きで進入するの?と思いはしなかったが、8年前に西海市大島行きのフェリーで車を何度も運んだことを思い出して懐かしかった。
▼久しぶりに高速船ではなく遅い船で伊王島を目指したので、景色をのんびりゆっくり味わうことができた。急いでいては見落としてしまう景色もある。いつも急いでいる自分には、得難い貴重な時間となった。本心を言えば、早く上陸して走り回りたかったのだが。
▼これから伊王島でのカタナライフが始まるが、長崎でそれ以前に目にした光景が浮かんできた。船の待合所でのこと。杖をそばに置いていた高齢者の女性が、体を「くの字」に曲げて向かいの人と長話をしていた。30分以上話し込んでいただろうか、その間一度も体を起こすことなく、「くの字」になったままだったのだが、私はその光景を見てバイクの「前傾姿勢」を思い出した。
▼あの高齢者のように、30分間体を「くの字」に曲げたままでいられたら、バイクの前傾姿勢なんてへっちゃらだろうに。一度も起こさなかったのだから、よほど腹筋背筋に自身があるに違いない。少なくとも私にはできない芸当だ。あの高齢者の完全な前傾姿勢を身につけるためには、あと30年はかかるのだろうか。いや40年か。

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こうじ神父絵手紙
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第45回目。今日のカップルもお幸せに。結婚式中の話は前回と同じにしました。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第27主日
(マルコ10:2-16)
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