こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第13主日(マルコ5:21-43)イエスは必ずご自身との真の出会いに導く

2024-06-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/6/30(No.1303)
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年間第13主日(マルコ5:21-43)
イエスは必ずご自身との真の出会いに導く
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私は日曜日のミサ後、信者さんからスータンの裾を掴まれたことがあります。その日の福音朗読が今週の「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」でして、二つがおり混ざった奇跡物語でした。スータンを掴んだ高齢の女性は、私を通してイエスに触れ、救いの体験を味わいたいと思ったのでしょう。当時の説教を少し練り直してお届けします。

二つの物語のうち、十二年間出血の止まらない女性は、「この方の服にでも触れればいやしていただける」(5・28)と考えてイエスに近づき、服に触れると確かに出血は止まりました。この女性にとっての目的は十分果たされたのですが、イエスはその女性を探しています。女性にとっての目的は果たされていても、イエスがその人に積ませたい体験は、まだ終わっていないからです。

女性が勇気を出して名乗ると、イエスから声をかけてもらいます。イエスと出会い、イエスを信じる人になること。それが女性に積ませたい体験でした。イエスとの出会いが信仰に変わり、「救われた」と実感して生きていく。奇跡の先で、この体験を女性は積んだのです。

会堂長ヤイロは、きっとその光景を目に焼き付けたでしょう。すでにイエスを信じ始めていましたが、試練を受けます。会堂長の家から人が来て、人間的な希望を断ち切られてしまうのです。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」(5・35)。

娘が回復することがイエスに近づいた目的ですから、ヤイロはイエスに期待することは何もありません。そんなヤイロにイエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」(5・36)と言います。イエスにとって、ヤイロに積ませたい体験はまだ終わっていないからです。

「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」(5・39)人々はイエスをあざ笑います。これも会堂長ヤイロにとって試練です。この先もイエスを信じ続けることができるだろうか。迷いやためらいが生じても不思議ではありません。

そんな中でもイエスは娘を生き返らせ、父親に返してくださいました。ここでヤイロは自分が最初に持っていた目的にたどり着いたのですから、物語は終わりでしょうか。それだけでは終わりません。会堂長ヤイロは、娘の回復という目的のその向こうに、たどり着きます。イエスとの出会いが信仰に変わり、「救われた」と実感してこれから生きていく。その体験をヤイロは積んだのです。

イエスはすべての人に、同じ体験を積ませようと考えておられます。イエスの服に触れ、いやされるだけの出会いではなく、自分の娘を返してもらうだけの出会いでもなく、イエスとの出会いが信仰に変わり、「救われた」と実感してこれから生きていく。この体験をすべての人に与えようとされるのです。

私の父は肺がんで亡くなりました。71歳でした。担当した医師はカトリック信者でした。家族は「余命半年でしょう」と告知を受け、その通り半年で旅立っていきました。闘病中、どのような精神状態だったか知るよしもありませんが、主治医に父は「自分は神様を信じているから何も怖くない」と伝えたそうです。実際にはそれだけではなかったと思いますが、根底にある覚悟は揺らぐことはなかったのでしょう。

私なら「半年です」と医者に言われても受け入れられず、食ってかかるでしょう。しかし父は、自分のことだけ考えていたのではなく、司祭である息子のためにも、最後の教えを残そうとしていたのだと思います。「神様に出会ったのだから、恐れずに自分を委ねて旅立つ。」私は父親の最後の半年で、イエスと出会わせてもらった。そう思っています。

長崎港の沖合にある伊王島の馬込教会から月に一度、有川の病院を訪ねました。刻々と状態が変化する中、私はついに一度も「父を取り上げないでください」とは祈りませんでした。「信仰の道から逸れないように、最期まで歩ませてください」その思いだけでした。

5月31日、父の命日が来ると、祭服を着ながら、イエスの服に触れているのだと考えています。服に触れるだけではありません。実際には救い主イエスに出会わせてもらっているのです。この境地に導いてくれた父には今でも感謝しています。

イエスはすべての人に、「ご自身と出会って救われた」この体験を積ませようとしています。詰まるところそれが、人々に証しすることの出来る唯一の体験です。これまでの人生振り返って、人に証しできる救いの体験、信仰の体験に思い当たるでしょうか。

イエスが、すべての人にこの体験を積ませようとしているのであれば、それは必ず見つかるし、必ず体験するのです。私たちは、人に証しするだけの救いの体験を積んで、宣教する人に必ずなれるのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第14主日(マルコ6:1-6)
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ちょっとひとやすみ
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▼洗剤に特別のこだわりはないので、洗剤が切れたら目に付いた物を買う。去年までは液体洗剤を買っていたが、今年になってから「ジェルボール」タイプの洗剤を使い始めた。簡単ではあるが、分量の調節はできないので、そこが難点。
▼全く違う洗剤を見つけた。シートタイプの洗剤。「シート」と聞くと、レシートをポケットに入れたまま洗濯して紙くずが服のあちこちに付き、ひどい目に遭ったことがあるので心配だが、「水に溶ける」と書いてあるので信用してみる。

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今週の1枚
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第910回目。果たして使用感は?汚れ落ちは?いろいろ気になる。

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† 神に感謝 †
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