こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

四旬節第1主日(マタイ4:1-11)悪魔は私たちに何もできない

2020-02-29 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

●●●重要なお知らせ●●●
ホームページサーバーを変更しました。「お気に入り登録」など
新しいURLに切り替えてください。ご不便をおかけしますが、
どうかよろしくお願いいたします。新しい「話の森」URLは、
http://ss104313.stars.ne.jp/
です。ブログのみの利用者の皆様は変更の必要はありません。
●●●重要なお知らせ●●●

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/200301.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2020/3/1(No.1049)
‥‥‥†‥‥‥‥
四旬節第1主日(マタイ4:1-11)
悪魔は私たちに何もできない
‥‥‥†‥‥‥‥

四旬節に入りました。ここは田平教会聖堂ですが、誰もいません。無観客ミサです。新型コロナウイルスで公式のミサが休みになったからです。また本日は、保育園年長さんの初聖体の日でもありました。楽しみに、この日を待っていたはずです。前日には初告解も終えて、準備万端だったのです。申し訳ないことをしたなぁと思っています。

でも中田神父は転んでもただでは起きません。この危機を、日本の教会がより力強い教会となるための痛みとして、決して忘れない四旬節第一日曜日にしたいと思っています。そして実際に、より強くイエス・キリストに結ばれる日になると信じております。

四旬節第一の福音朗読はイエスが誘惑を受ける場面です。イエスが誘惑を受けたと仮定して、誘惑に毅然として対処するのは自明の理です。なぜこの物語をマタイが採用したか。それはイエスの毅然とした態度を紹介するためというよりは、私たちに必要なことを教えるために採用したのです。「神に関わって生きる者」が歩むべき道、神の子の道を明らかにするためなのです。

今現在、中田神父は黙想会の材料にしようとしているフランシスコ教皇様の伝記を読み続けています。600頁あまりありますが、読めば読むほどフランシスコ教皇に引きつけられます。今はフランシスコ教皇がブエノスアイレスの司教として働いていた時代のアルゼンチンの政治状況について読んでいます。

フランシスコ教皇様、当時のベルゴリオ司教様は、私たちには想像も付かない状況で教会とアルゼンチンの国民を守り抜こうとしていました。国内ではクーデターが起こり、軍人が政府を掌握しました。教会の指導的立場にある司教様方は、ある人はクーデターを起こした軍人寄りの態度を取り、ある人は徹底的にクーデター行為を非難する側に回ります。そして大多数は、そのどちらにも属さず、息を潜めていました。

クーデターを非難し、軍と徹底的に対立する司教様、司祭たちは、ある日誘拐され、拷問を受け、ある日道端で狙撃され、無残な最期を遂げることもありました。そんな中で、当時のベルゴリオ司教様は、命を狙われている人を必死にかくまい、あるときは国外に脱出させ、あらゆる方法で命を守ろうとしたのです。命の危険にある人々を守るためには、クーデターの首謀者とも交渉しました。ベルゴリオ司教様は徹底して祈りの人であり、優れた政治手腕のある人でもあったのです。

アルゼンチンの政情不安の中でも必死に神の望む道を祈りの内に探し求め、命の危険にある人々を守り抜く姿が、今週の福音朗読にあるイエスの姿と重なりました。イエスはさまざまな誘惑をはねのけます。ベルゴリオ司教様も、クーデター政権側に付く誘惑とか、クーデター政権を糾弾し、華々しく命を散らす誘惑とか、さまざまな誘惑があったはずです。けれどもそれらすべてを拒否して、地味ではあるけれどもすべての命を守るための、祈りに導かれた行動を貫いたのです。

今週と来週の日曜日、実に残念ですが公式のミサを中止するようにと大司教様から通達が出ました。私は昭和の香りのする人間なので、「新型コロナウイルスで命を落としても、ミサをささげるべきではないのか?」と心の中では思いました。なぜ感染者の報告がない長崎で、感染者と格闘している都道府県と横並びの対応で済ませてしまうのか。葛藤を抱えたまま、3月1日を迎えました。

ですがそれは悪魔の巧妙な罠だったのかも知れません。あえて世の流れに逆らい、総理大臣の要請も聞かずに公式のミサを挙行すれば、世間の注目を浴びることになったかも知れません。それこそがしたたかな悪魔の作戦ではないか。考え直したのです。

日曜日、主日であるにもかかわらず、誰も聖堂に集まってミサをささげることができません。ですがこの苦難のときにこそ、悪魔の巧妙な罠に対抗して、神の子の進むべき道を選ばなければならないのです。私たち長崎教区の神の民のほとんどが、ミサに与れない時に何をすべきか知っています。

祈祷書の「ミサに与るを得ざる時の祈り」と、ロザリオ一環を唱える。これは私の祖父母の時代から、脈々と受け継がれてきた伝統です。これなら病気の人、寝たきりの人も、皆が心一つにささげることができます。ミサに誰も参加できない時に、参加できないからこそ一つになれる方法を持っているのです。

ある人たちは、手元に「聖書と典礼」があるかも知れません。ふだん日曜日にミサに参加すると、手元に持っていても実際に朗読している朗読者の声を聞くので、活用できていないかも知れない。今週と来週は、この「聖書と典礼」を大いに活用してください。できるなら、選ばれている箇所を実際の聖書から引いて、家族の中で誰かが読むと良いでしょう。

今、悪魔は私たちを罠に陥れようと狙っています。これほど罠にかかりやすい場面は他にないかも知れません。決して、悪魔の罠に安易にのらないようにしましょう。ミサの食卓を、今週と来週はいただけません。けれども今週と来週がまさに、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4・4)とのイエスのみことばを味わう時ではないでしょうか。

悪魔の誘惑に立ち向かいましょう。目の前のパンを絶たれても、私たちはみことばの食卓があるから揺るがない。毅然として、公式のミサが中止されている期間を乗り越え、四旬節の償いと犠牲の幕開けと致しましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
四旬節第2主日(マタイ17:1-9)
‥‥‥†‥‥‥‥

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼ホームページのサーバーを引っ越した。すでに引っ越した。それまでのサービスも良かったのだが、二週間ほど接続できなくなっていた。毎週更新する自分にとってはそれは耐えられないことだった。
▼調子の悪さを例えて言えば、毎週利用させてもらっているスポーツ施設で一つのロッカーを専用で使っていたが、鍵の調子が悪く、毎度スタッフを呼んでロッカーを開けてもらうような感じだろうか。
▼毎週スタッフにお世話になるくらいなら、使わせてもらっているロッカーを変える方がよほどストレスにならない。そういうことで、中田神父の私物(ホームページの素材)を置いているロッカー(サーバー)を引っ越すことにした(すでに引っ越し済み)。
▼案外、こういう作業を終えてみると、以前のサーバーが復旧していたりする。しかしそれでも、振り向かない。未練はあるが(月額200円と安かったから)、新しい未来を切り開くと決めたから、もう後戻りはしない。
▼いよいよ誕生日(3月12日)が近づいて、54歳になろうとしている。この歳になって失ったことを後悔するのは時間がもったいない。前に進んで、今この時からできること、お役に立てることに時間や労力や資源を向けるべきだ。
▼教区に住んでおられる諸先輩の50周年(金祝)、60周年(ダイヤモンド)、70周年(プラチナ)を迎えた感想を読んだ。たくさんのことがあったに違いない。振り返ればきりがないから、今を感謝するコメントが多い。それでも読み応え十分だ。
▼サーバーの引っ越しをすれば、引っ越したことに気づかず、「最近更新されないなぁ」とずっとその場で待ち続ける人が必ず出る。その人たちには連絡のしようが無い。この記事を読んでくれた人が知り合いに知らせてくれるかも知れない。私は前を向いていく。大事なのは過去を背負ってでも、前を向いて進むことだから。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第656回目。無観客ミサ。写真撮影してもらっているので、実際には誰かいる。

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年間第7主日(マタイ5:38-48)あなたの顔はイエスの模範を写し取っているか

2020-02-22 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/200223.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2020/2/23(No.1048)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第7主日(マタイ5:38-48)
あなたの顔はイエスの模範を写し取っているか
‥‥‥†‥‥‥‥

「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(5・44)今週の福音朗読箇所は先週の朗読と連続していますし、関連付けて考える必要がありそうです。

先週の朗読箇所では「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5・17)と言っておられます。律法を捨て去るのではなく、律法に命を吹き込みました。今週の招きも、「天の父の子となるため」(5・45)「完全な者」(5・48)となるため、私たちの取り組みに命の息を吹き込みます。

先週ヨハネ・ボスコ夫津木昇神父様の葬儀ミサに参列してきました。田平教会の役員も連れて行きました。私たちの教会からの弔電も披露されました。今日のミサは、夫津木神父様の追悼の気持ちを持っておささげしております。

聖パウロ会の司祭でしたので、聖パウロ会日本管区長の澤田豊成師が葬儀ミサを司式しました。彼と中田神父とは大神学院時代四年間机を並べて学んだ仲です。「へぇ~。もう管区長になったんだ」と素直に思いました。立派に務めを果たす姿を見て、誇らしくもありました。

葬儀ミサで、ご遺体のそばに置かれた遺影はとても印象的でした。喜びに満ちあふれた顔でした。今日のミサのために、少しカードをもらってきました。コピーも用意しました。ご覧になったらよく分かると思います。私はこのお写真がたくさんのことを語っていると思いました。きっと、すべての苦労を苦労と思わず、喜び一杯の司祭生活、修道生活だったのだろうと感じたのです。

福岡では最後は老司教会を任せられていました。ローマで学び、司祭に叙階され、イギリスのロンドンに留学と、華々しい経歴の持ち主でしたが、それを見せびらかすことなく、気さくな司祭として慕われていたのでした。

老司教会の信徒会長がお別れの言葉で一つの思い出を語ってくれました。夫津木神父様みずから司祭館の屋根に登ってペンキ塗りをしたことがあったそうです。職人を雇えばよいのに、喜んで自分から飛び込んでいく。あの人なつっこいお顔を二度と拝見できないと思うと胸が張り裂けそうだと仰っていました。

管区長の澤田神父様はあいさつの中でこう言っていました。「夫津木神父様は都合二回管区長の重責を担ってくださいました。いずれの時も、聖パウロ会が困難の中にあった時でした。人間的には引き受けたくない時期に管区長職を要請されましたが、それを寛大に引き受けてくださったのです。」私には、澤田神父様の苦労が話の向こうに透けて見える感じがしました。

管区長職は、権限を与えられた身分ですから、管区長でしかできない命令を、聖パウロ会の会員に求めることも可能だと思います。そうしようと思えば、「目には目を、歯には歯を」という処分をだれかに下すことも可能でしょう。けれどもそれでは、「異邦人でさえ、同じことをしているではないか」(5・47)ということになるわけです。

どんな苦境にあって管区長職を引き受けても、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」この姿勢を貫いて聖パウロ会日本管区を守り抜いてきたのだと想像しました。大変なご苦労を見せない。これこそイエスが今週の福音で語っておられる高い理想なのです。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(5・48)

中田神父は「完全な者」についてこれまでこう考えていました。「失敗しない人、働きに欠点不足のない人、誰にも隙を見せない人。」しかしイエスはもっと人間味溢れる姿を示してくださったのです。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(5・45)

「失敗のない教会共同体作り」とか、「欠点不足のない信徒を育てる」とか、「誰にも隙を見せない組織作り」とか、これらがイエスの求める教会の姿ではないようです。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」太陽の暖かさ、ゆっくりしみこむ雨の恵み、そうした取り組みですべてを慈しむ。私がこれまで考えてきた「完全な者となる」方向は、軌道修正が必要だと感じました。

葬儀ミサで頂いてきた夫津木昇神父様のお写真は、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」今週のイエスのみことばを語っているような柔らかなお顔です。

イエスが示そうとする模範であれば、人間にとって不可能なものはなく、聖霊の助けがあれば天の父に倣うことができるでしょう。夫津木神父様が田平教会を見守ってくださると信じ、イエスが示す「完全な者となる」道を、田平教会の信者と共に歩んでいきたいと思います。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日(マタイ4:1-11)
‥‥‥†‥‥‥‥

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼同級生はやはり意識するものだ。聖パウロ会の日本管区長になったことを横に置いても、「さすがだな」と思わせるたたずまいをしていた。言葉で表すなら、「香りが違う」ということだろうか。
▼小教区を巡り、主任司祭を歴任するうち、いつの間にか「古狸」になってしまっていた。同級生の「香り立つ」雰囲気を感じて「これが歩んできた道のりの違いか」とつくづく思ったのである。
▼彼はミサの説教で「共に哲学を学んだ仲です」と紹介してくれた。哲学を学んだとは自分の口からはとても言えない。「哲学思索への道」という本ですでに打ちのめされた感があった。彼はそこからさらに羽ばたいていった。
▼共に学んだのは確かだ。もっと長く、学び合っていたら、彼からたくさんのことを吸収したかも知れない。今や同級生の中で、同級生であることが誇らしいと思える存在になってくれた。できれば世界に羽ばたく人になって欲しい。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第655回目。献堂百周年の時もお祝いに駆けつけてくださった。お疲れ様でした。

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年間第6主日(マタイ5:17-37)わたしが来たのはあなたを完成させるため

2020-02-15 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/200216.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2020/2/16(No.1047)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第6主日(マタイ5:17-37)
わたしが来たのはあなたを完成させるため
‥‥‥†‥‥‥‥

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5・17)今日、中学2年生5人が紐差教会で堅信の秘跡を受けます。福音の学びを、堅信を受ける中学生たちへの励ましの言葉につなげたいと思います。

最初に引用した5章17節の箇所は、今回は短い形の朗読を選びましたので朗読されませんでした。けれどもここが、今週の朗読全体の要になっていると思ったので、説明をしたいと思います。「わたしが来たのは」とマタイ福音書の中でイエスが念を押す時、それは当時のユダヤ人たちの誤解を解くために語り始める場合です。四回登場します。

一つは今週の朗読箇所5章17節です。次に9章13節「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」三つ目は10章34節「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」最後は20章28節「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」どれも、当時の宗教指導者たちの考えを正すため、イエスが来た目的を理解させるためでした。

5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」もこの流れに沿って考える必要があります。宗教指導者たちは「この人は律法をないがしろにする不信仰者だ」と攻撃する材料になり得ますし、マタイ福音書が読まれていた初代教会の信者たちの中には「イエスの言葉によって律法は廃棄された」と受け取った人々もいました。これら両方の誤解を解く必要があったのです。

イエスは律法を完成するために来ました。人々にとって重荷とさえ感じていた律法は、命を吹き込まれて神の人間に対する思いやりを感じるものに生まれ変わらせる必要があったのです。バラバラで、どれ一つとっても喜びを感じられなかった律法は、「神への愛」と「隣人への愛」という一本の糸に結ばれて命が吹き込まれたのです。神は律法を通して、人間への溢れる愛を示そうとされた。イエスはそれを示したかったのです。

田平教会はレンガ造りの教会です。中田神父は偶然にもレンガ造りの教会に幼い時から親しんで育ちました。生まれ故郷の鯛ノ浦教会、今は旧聖堂となった教会堂は、正面が田平教会と同じ一つの塔の付いた構えをしていました。ただ幼かった私は、友達と一緒にこのレンガの塔のどこまで野球のボールを当てることができるか競ったりして、壁代わりにしていたのです。

上五島にはもう一つ青砂ヶ浦教会というレンガ造りの教会があります。親戚周りをする関係でこちらにも時々お邪魔して、同じようにボール遊びをしていたら、知らないおじさんからこっぴどく叱られました。「なして怒るとやろうか?」そう思ったのでした。時が経ち、私は中学校から小神学校に入り、堅信の秘跡を受けました。堅信を受けてから故郷の鯛ノ浦教会のレンガの教会、青砂ヶ浦の教会を見た時に、「あっ!」と思ったのです。「このレンガの教会を造った人たちは、どんな思いをして造っただろうか。私はその教会の壁をボール投げの壁代わりにして、叱られて当然だ。」

小学生の私にとって、レンガ造りの教会に、どんな苦労が詰まっているか、知るよしもありませんでした。けれども堅信の秘跡を受けたことで、二つの教会のレンガは、神様を敬う心という一本の糸で繋がったのでした。堅信の秘跡が注いでくれる「神への畏敬の念」が、レンガ造りの教会の見えない苦労や汗を、理解させてくれたのです。

イエスは律法を完成するために来ました。しかし律法を完成させるだけであれば、神の独り子がおいでにならなくても良かったかも知れません。御父の計画は、イエスによって律法に命を吹き込むにとどまらず、この律法はイエスご自身の生き方の中で完成したと示すことだったのです。神が人を愛しているから、律法があるのだよと伝えるだけでなく、神が人を愛しているから、必要とあれば人間のために神は独り子を十字架の上で献げることもためらわない。十字架のいけにえによって掟は完成したと示すのです。

私たちは堅信の秘跡を受けています。今日新しく5人が堅信の秘跡を受けます。天主の十戒も教会の掟も、守るべき祝日も知っています。イエスは堅信を受けた人に、「あなたはそこまでで十分完成した」と仰るでしょうか。私は違うと思います。掟を忠実に守るだけでなく、神の掟のために、ときには命を張ることも必要になるのです。「命に手をかけてはいけない。私はこの命を、生涯かけて守る。」こんな勇気を、イエスは堅信を受けた人皆に求めるのです。

教皇フランシスコは「すべての命を守るために」日本においでになりました。堅信の秘跡を受けた今こそ、「自分も、すべての命を守る。そのためには必要だったら命を張って守る」そんな決意を持って欲しいと思います。イエスは十字架の上で、すべての律法を完成させてくださいました。堅信を受ける皆さんをも、イエスは十字架上から招き、完成させてくださいます。完成されたキリスト者に近づくため、今日の堅信の秘跡を大きな希望をもって受けることにしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第7主日(マタイ5:38-48)
‥‥‥†‥‥‥‥

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼堅信組の筆記試験で珍回答があった。「○○○○補佐司教」という空欄に、選択肢の中に混ぜておいた「トマス中田輝次」を堂々と記入していた。後で考えてみたのだが、「パンチの効いたジョーク」だったのかもしれない。いくら何でも「補佐司教」の空欄に大真面目で主任司祭の名前を書かないだろう。そうだとしたら、肝が据わっているぞ。
▼「明治は遠くなりにけり。」昔こんな言葉を聞いたことがある。私にとっては「バレンタインは遠くなりにけり」となるだろうか。浦上教会の時はミカン箱を二つ用意して、お返しも150個とか、洋菓子店に頼みに行くのもちょっとしたイベントだった。今年はゼロか?と思いきや、土曜日15日に急展開となった。
▼ちなみにゼロでなかったことは念を押して言っておく。その上さらに、15日には引退した神父様が訪ねてこられ、「チョコレートよ(笑)」と言って箱を渡された。透明のフィルムに入っていたのですぐに物は分かった。まさかまさか、大先輩が「バレンタインプレゼント」を用意してくれていたのである。
▼志を同じくする者は、必要としているものも言わなくても理解できる。私がネット通販で「これ欲しいなぁ。でも買うほどでもないかなぁ」と思っていた部類の商品を、引退神父様が気前よく買ってくれた。まったく同じメーカー、シリーズのものではないが、「この手の品物があったらなぁ」と思っていたまさにそれを買ってくれていたのだ。
▼大先輩も今年は「ダイヤモンド祝」の年。何と言っても私に鯛ノ浦教会で洗礼を授けてくださった神父様だ。たとえ説教の準備で頭抱えている真っ最中でも、たとえ今日の面会人が何人も重なっていたとしても、たとえ「話しが長くなると時間が・・・」と頭をよぎったとしても、そんなことは問題ではない。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第654回目。据え置き型の高級品は私の腕前に似合わないが、欲しかった品。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年間第5主日(マタイ5:13-16)最適解を見つけることができる年齢になった

2020-02-08 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/200209.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2020/2/9(No.1046)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第5主日(マタイ5:13-16)
最適解を見つけることができる年齢になった
‥‥‥†‥‥‥‥

「あなたがたは地の塩である。」(5・13)「あなたがたは世の光である。」(5・14)生活を豊かにする物を引き合いにして、キリスト者は世にあって「塩」や「光」であることを表していく必要があります。私たちに求められていることと、私たちが避けるべきこと、両方について考えてみましょう。

全国版のカトリック新聞に、2月11日「世界病者の日」の教皇メッセージが掲載されていました。病者の置かれている弱い立場に、教皇様は深く思いを寄せておられます。病を得たことで、より一層イエスの「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11・28)このみことばに招かれていると語ります。

また、病者に寄り添う人にも「寄り添うことの大切さ」を語りかけます。キリスト者の果たすべき七つ身体的な慈善のわざとして、「飢えている人に食べさせること、渇いている人に飲み物を与えること、着る物を持たない人に衣服を与えること、宿のない人に宿を提供すること、病者を訪問すること、受刑者を訪問すること、死者を埋葬すること」というものがあります。私たち一人ひとり、また教会も、病者にとっての「宿」となるべきだと呼びかけています。

いつも、教皇様が発するメッセージは、身近な人にとっての「光」となる言葉です。教皇様の影響力があって、一つひとつの言葉はより輝くわけですが、教皇様の「光」のような言葉、その力の源は、間違いなくイエス様です。イエス様という「光」を、教皇様という立場で私たちに示してくださっているのです。

そうであるなら、私たちも考える必要があります。「あなたがたは世の光である。」私の中に、そのような光り輝くものがあるだろうか。教皇様から学べることは、自分の中におられるイエス・キリストをうまく示してあげるなら、私たちも光り輝く言葉、珠玉の言葉が語れるということです。

私の母方の祖母は、日曜日のミサには一山越えて来ていました。佐々から、江迎に来る山越えのような道でした。吉井町経由のように平坦なバス通りもありましたが、近道の山越えで必ず来ていました。何度か祖母と一緒にミサに来ました。祖母は、「山を越えて教会に行くのは辛いに違いない。しかし、歩く調子に合わせて『天にまします』を唱えれば、とても簡単に山を越えることができる。」繰り返しそう言っていました。

小学校も最後まで通えなかった時代でした。カタカナしか読めませんでした。そんな祖母でも、私に生涯残る教えを残してくれたのです。祖母は孫に「困難を乗り越える時に主の祈りを唱える」と教えることで、心の中におられる「イエス・キリスト」を光り輝かせてくださったのでした。

最近は私も料理に非常に興味があります。男性の料理教室もはやっているそうです。本日、前のほうに座っている60歳になられて健康を祈願する参加者も、料理をなさることもあるでしょう。その中で、「塩」をうまく料理に活かすコツもたくさんご存知だと思います。

「塩」はほんのわずかの量で料理を活かしたりダメにしたりします。「砂糖」はもしも量が多くてもまだ許せますが、塩が多すぎるのはもう食べられないと思うのです。本当に「塩」は、わずかの量で味を決めたり、長く保存することができたりするのです。

「あなたがたは地の塩である。」健康を願う本日の参加者も、社会の中にあって「塩」の働きをするのです。私たちが気の利いた「塩」というよりも、私たちの中にある「イエス・キリスト」という塩をお一人お一人うまく対人関係や社会活動の中で活かしていくわけです。

「塩気が足りない」「塩味がきつすぎる」もしそのようなことがあるなら、それはお一人お一人の中のイエス・キリストを引き出すときに、どこか手順に問題があった可能性があります。非常に有名な方を例えに、絶妙な「地の塩」としての働きを紹介します。

今は上皇后様となられた美智子様は、正田家に生まれ、熱心なカトリック信者でした。皇室に入られたので、ご自身の経歴を大上段に振りかざすと大問題になります。ですが上皇后様は、かつて訪問先でピアノを前に、「一曲演奏なさいませんか?」と勧められ、初めは丁重にお断りしたのですが、是非にと勧められたので「それでは・・・」と仰って「アヴェ・マリア」を演奏なさったというのは有名な話です。

上皇后様は、たくさんの曲を即興で演奏することが可能だったでしょう。けれどもその中で、あえて「アヴェ・マリア」を演奏なさった。控え目に、ご自身の深い奥底に流れていたカトリックの信仰、心の中の「イエス・キリスト」を、絶妙な加減で示されたわけです。

このような「地の塩」としての姿は、ご挨拶の結びに「祈ります」と添えられたことでも知られています。皇室は決して「祈ります」とは言わないのです。それが、上皇后様が皇室に入られてから、上皇様も含めて「祈ります」と仰るようになりました。

「地の塩」「世の光」私たちの中のイエス・キリストを指し示すのに、絶妙な加減とか、部屋全体を照らす最も適した場所を見つけ出すには、歳月を重ね、たくさんの経験を積むことがどうしても必要です。今日お集まりの、健康祈願祭のミサ対象者の方々は、まさにうってつけの人材です。これから、皆さんの中の「イエス・キリスト」を世に示す「地の塩」「世の光」としての活躍を期待します。そして皆様のために、続けてこのミサの中でお祈り致します。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第6主日(マタイ5:17-37)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼10年ぶりくらいにラケットを新調した。ここ田平に来てから4月には5年目に入るが、10年間で実力も変わり、思うようにテニスを楽しめなくなっていた。そこで「ラケット」のせいにして、気分一新しようというわけだ。
▼佐世保のヤマダ電機のそばにあるスポーツ店でラケットを見渡し、「これいいな」と思った物を手に取って、女性店員に「これでガットを張って購入したいです」と申し出た。すると店員は受け取ってすぐにこう言った。「お客様、このラケットでは軽すぎませんか?」
▼聞けば、女性にお勧めするラケットが260gから270gくらいで、私が握ったのが265gだった。この店員は小さな大会に出るレベルのプレーヤーで、「ちなみに私が使用しているラケットが270gです。もう少し思い物をお選びになりませんか?」と言ってきた。
▼色合い(レモン色)が気に入ったので手に取ったのだが、店員に促されて選び直した。次に手に取ったのは「赤」のラケット。「ではこれで」と依頼すると今度は「お客様、これは少し重すぎませんか?」と言ってきた。面倒な店員だ。
▼「手に取られたラケットは300gです。男性の大柄な選手ですとこの重量でも振り回せますが、お客様はたまに友達とテニスをなさる程度だと伺いました。でしたら270gから290gくらいの物をおすすめします。」私も疲れてきて、「では店員さんがいくつか取り分けてください」と少々投げやりになってきた。
▼「そうですね・・・これとこれ、それにこれなどいかがですか?」どれも重量280gのラケットだった。確かに微妙だが軽すぎず、重くもない。取り分けた中で聞いたことのある唯一のラケットメーカーを選び、これから約10年、このラケットを使うことになる。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第653回目。硬式テニスラケット。280グラム。本音は、レモン色にしたかった。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主の奉献(ルカ2:22-40)神殿に詣でることでシメオンと同じ恩恵に浴する

2020-02-01 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/200202.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2020/2/2(No.1045)
‥‥‥†‥‥‥‥
主の奉献(ルカ2:22-40)
神殿に詣でることでシメオンと同じ恩恵に浴する
‥‥‥†‥‥‥‥

主の奉献の祝日です。この祝日は本来「日付で祝う祝日」です。今年は日曜日に当たったので「主の奉献」の朗読箇所に沿って説教をしています。ちなみに前回2月2日が日曜日だったのは2014年、その前になると2003年までさかのぼることになります。

マラソン大会から無事に戻ってきました。練習不足で、去年よりも3分遅いタイムでした。しかも前日月曜日の過ごし方が悪かった。司祭たちは各地区月曜日の晩に「月曜会」(集まっての食事会)をしているのですが、日曜日上五島入りした私は、鯛ノ浦教会の主任神父様から「久しぶりに上五島の月曜会に来ませんか?」とお誘いを受けました。

それで月曜日の夜、上五島地区の司祭団と一緒になって飲み食いしたわけです。話題はもっぱら、翌日の天気のことでした。皆さんもご存知の通り、月曜日は大嵐でした。「明日、土井ノ浦から福江に船は出るだろうか?」「今日この天気ですよ?出るわけないじゃないですか。ウェザーニュースだってほら、波は4mですから。安心して飲みましょう!」こんな感じで調子に乗って焼酎のロックを飲んだわけです。

翌、火曜日の朝に鯛ノ浦教会の共同ミサに参加しました。前の日の嵐がうそのように静かになり、仕方なく、重い足取りで土井ノ浦港から福江港に移動し、堂崎天主堂をスタートして10キロ走ってきました。成績はぱっとしませんでしたが、切り替えて、今村教会までの120キロ「徒歩をメインにした巡礼」のトレーニングを積もうと思っています。

ついでですが、料理のレパートリーが増えました。この前煮込みハンバーグを食べました。ハンバーグは貰い物ですが、生涯一度も作ったことがない物まで手がけるようになりました。昔、「料理の鉄人」という番組がありまして、その中で「四川料理の鉄人・陳建一」という料理人が出ておりました。私も料理の幅が広がってきたので「田平の陳建一ならぬ陳輝次」とうそぶいてみようかと思っています。

福音朗読に入りましょう。マリアとヨセフが幼子イエスを神殿に奉献するためにやって来ましたが、マリアとヨセフの両親はすっかり背後に隠れ、抱かれてやって来たはずの幼子イエスに光が当たるように描かれています。シメオンの預言の場面でも、マリアはただじっと聞いているだけです。ここでは神殿でイエスに出会うと、人はどのように変わるのか、変えられていくのかを学ぶことにしましょう。

まずシメオンが神殿で待ち構えていました。彼は幼子イエスを腕に抱き、神をたたえます。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。」(2・25)夜昼神殿で祈りを捧げていた人は、「神をたたえる人」に変わりました。「メシアを待ち望む人」から、「メシアに会い、その喜びを感謝してたたえる人」に変えられたのです。

次に、女預言者アンナに出会いました。彼女もまた幼子イエスを見て「神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」(2・38)とあります。彼女は神をたたえる人に加えて人びとに幼子のことを語る人になりました。彼女もまた、「夜も昼も神に仕える人」から、「神をたたえ、告げ知らせる人」に変えられたのです。

シメオンとアンナは、幼子イエスに出会って変えられました。神殿で出会ったことは強調して良いと思います。神殿は人が神と出会う場所のはずですから、聖霊からお告げを受けていたシメオンは、直接イエスを見るまでもなくメシアの到来を賛美し、告げ知らせる人になっても良さそうなものです。けれども神は、当時の神殿で、奉献されるためにやって来たイエスと出会うことを計画しておられたのです。

この出来事を私たちに当てはめてみましょう。私はこれを、「日曜日、主の祭壇でイエスと出会い、私たちも変えられましょう」と当てはめたいと思います。シメオンもアンナも、当時の神殿が大切な場所だったので神殿でメシアを待っていたのですが、これからはイエスを囲んで集まる場所が「新しい神殿」に変わります。そこでイエスに出会い、変えられて、神をたたえ、宣教者とされていくのです。

私たちも、日曜日にこの聖堂でイエスを囲み、イエスに触れることで変えられていきます。祈りに熱心で、信仰あつく暮らすことは、家庭祭壇で祈る人にも可能です。ですがそれだけでしたら、イエスに変えられることは難しいのです。私たちが日曜日ごとにこの田平教会に来て、主の祭壇を囲むことが、救い主がおいでになった私たちには必要なことなのです。

シメオンの神を賛美する姿は、天と地をつなぐ姿です。アンナが人びとに幼子のことを語る姿は、地上のすべてを一つに結ぶ姿です。シメオンに天と地をつなぐ力があったのではありません。アンナに地上のすべてを一つに結ぶ力があったのではありません。イエス・キリストに触れたことで、変えられたのです。

私たちも同じです。聖体の秘跡に実際においでになるイエス・キリスト、このキリストに触れることで、私たちも変えられます。祈りはするけれども聖書の朗読を頼まれたら尻込みする人。あなたも、イエス・キリストに変えられて神のことばを賛美する人になることができます。

信心業には定期的に参加して、教会を離れることはしないけれども、教会の役員には向いていません。あなたも、誇りを持って自分の信仰を田平教会が前進するために役立てる人に変わることができます。イエス・キリストに触れる、それも日曜日に教会に来てイエスに触れることで、変えてもらえるのです。

最後に、3月20日の司祭叙階式に触れて終わりたいと思います。今年は助祭が一人と司祭が一人叙階される予定です。神の家で、イエスに直接触れて、イエスの身分で働く人に変えられる瞬間です。「わたしはこの目であなたの救いを見た」(2・30)シメオンの言葉を私もこれまで数十回浦上教会で目撃しました。私たちの田平教会も、この目で神の救いのわざを見るかけがえのない場所なのです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第5主日(マタイ5:13-16)
‥‥‥†‥‥‥‥

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼悔しくて、説教では触れなかった話題と、恥ずかしくてとてもではないが説教で触れることのできない話題。マラソン大会に大阪から「刺客」が送られてきていた。補佐司教様から情報を得たのか、それともこの説教メルマガ・説教ブログで目にしたのか。
▼二人の大阪教区の司祭がマラソン大会でそれぞれ脚光を浴びた。一人は成績2位。一人は最年長参加。成績2位は立派である。去年までの優勝者(平戸地区のK師)を押さえた人が二人も出て、そのうちの一人は誰も知らなかったのだからすごい。
▼参加者最年長の先輩は私の次、司祭の順位で14位だった。私がちょっとでも諦めれば、追い抜かれていたかも知れない。やはり「ようやく1時間を切る」というタイムではダメだ。50分を目標に、調子次第で45分でゴールできるようなタイムで走らないと楽しくない。
▼マラソン大会から帰って、田平教会でのミサ。この日はふだんよりも寒かった。「こんな日は格好付けずにパッチ(ももひき)を履こう。」そう思ってパッチを履いていった。しかしパッチを履いてもなお寒い。聖堂内はエアコンを入れて少し温めている。
▼「それなのに女子がスカートで過ごしているような・・・あ!」ようやくここで気づく。パッチは履いたけれどもズボンを履き忘れていたのだった。昨年そんなことがあって、司祭館玄関で気付いてズボンを履いて聖堂に入ったのだったが、今回はいよいよやってしまった。
▼しかし、偶然は重なるもので、この日子どもの侍者が来なかったために典礼委員長が侍者を務めてくれた。その典礼委員長がこう言った。「神父様、今日はスースーして寒いですから、香部屋と祭壇を区切っている木の扉を閉めてから入堂しますね。」私はてっきり、スータンの下にパッチしか履いていない私を見るに見かねてそう言ったのかとギョッとした。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第652回目。上五島土井ノ浦港。前日の嵐が一転、きれいな虹。マラソン日和。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする