こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第17主日(マタイ13:44-52)あなたの決断に迷いはありませんか

2008-07-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/07/27(No.368)
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年間第17主日
(マタイ13:44-52)
あなたの決断に迷いはありませんか
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梅雨が明けてから、魚釣りに行き始めました。私は魚釣りに行くと、「釣れないからもう帰ろう」という気持ちになることはまずありません。釣れない日は、何か釣れるまでと粘りに粘って帰ろうとしません。または、さっそく何かが釣れた日も、もっといい魚が釣れるのではないだろうかと思ってなかなか帰ろうとしません。もしもこういう人間を待つ家族がいたら、心配でたまらないことでしょう。

どちらにしても、私はいったん魚釣りに行くと、満足してこれで帰ろうと決めるのが難しい人間なのです。その1匹が釣れたからあとはもう釣れなくても満足。いつ帰ってもいいよ。そんな1匹はどの魚だろうかと考えてしまいます。自分勝手な考えですが、釣れている日は、もっといいのが釣れるかも知れないと考えてしまうのです。

今週の福音朗読も、少し状況が似ているような気がします。畑に宝が隠されていて、見つけた人は、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買います。畑に隠されている宝を見つけたから、もうこれで満足できる。たとえ話のこの人は、自分なりの見極めをして、大切な宝を手に入れました。

もう一つのたとえ話の商人も大胆に決断をしています。商人は良い真珠を探しています。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買うというのです。

たとえ話に登場する人は、見極めのできる人、決断に迷いのない人だと言えます。畑に隠されている宝も、それ以上にすばらしい宝に出会うかも知れません。良い真珠を探す商人も、その時まで持ち物を売らずに待つことも考えられます。けれども、実際にはそれ以上の宝に出会う可能性は低いと思います。それなのに、欲に目がくらむと、大切なチャンスを逃すことになります。

どこで満足できると考えるか。この点を今日は問われていると思います。それは生き方を問われているのであって、正しい人々と悪い者どもを天使たちがより分けることにつながっていきます。正しい人々と悪い者どもの区別がどこかにあるはずです。私たちは、何かの物差しで、人生の総決算として正しい人々であるか、悪い者であるか、区別されることになるわけです。

正しい人々に入れてもらえる基準は何でしょうか。実際の場面を考えてみましょう。私が釣りに行って満足できるのは、人に見せびらかせる魚が釣れた時かも知れません。よくやることなのですが、ボートで港に戻ってくるときに「誰か近くに人がいないかなぁ」と思って港に入ってきます。

なぜ港に戻って人を探すかというと、誰かいればその場で見せびらかして、人に知らせてもらおうという魂胆があるのです。まさに、自分勝手な物差しです。このままでは、悪い者どもに入れられてしまうことになります。

たとえ話に登場する人のように、見極めのできる人間になるためには、誰に対して「今日はこれでいい。これで十分だ」と思うべきでしょうか。これまでの私は、自分に対して「今日はこれでいい」と言い聞かせていたかも知れません。むしろ私は、神に対して、「今日はこれくらい釣らせてもらったから、感謝します」と言える人間にならなければと思うのです。

自分に満足できるまで粘るのではなくて、釣れても釣れなくても、神さまに感謝して帰ることができる。「今日はこんなに釣れました。感謝します」「今日は釣れなかったけど、それでも感謝して帰ります」こんな物差しでいられて初めて、人生の総決算の時、私は正しい人々の中に入れてもらえるのだと思います。

もちろんそれは人生のすべてに当てはまる物差しですから、司祭としての務めも、自分が満足できるからいい働きができたと考えるのは身勝手なことで、神さまに感謝できる働きを求める。これが最後の時に正しい人々の中に入れてもらえる働きぶり、決断の仕方なのだと思います。

他の場面を考えてみましょう。私たちは毎日体を動かして働いています。考えてみると、私は自分に満足することばかりを追い求めてきたのではないでしょうか。自分に納得できる仕事ができたときは満足するけれども、納得できなかった日は不満が残り、人にその不満をぶつけたりしていたのではないでしょうか。本当は、そうではない物差しが必要だったのです。

私は、一日が終わるとき、神さまに感謝しますと言って眠りに就くことができるでしょうか。一日の内容は、自分としては満足できないものかも知れません。不満の残る仕事ぶりであったり、自分の働きぶりが理解されなかったりしたかも知れません。

もしそのことを自分が満足するかどうかで計るなら、感謝の気持ちはわかないでしょう。けれども、自分としては不満の残る一日であったとしても、「今日も一日、あなたに感謝して眠ります」と思うことができるなら、私たちは神さまの前で正しい人々に数えてもらえます。

自分を物差しで考えれば、もっと欲張って働くこともできたでしょう。もっと自分の好きなことをし続けることもできたでしょう。自分を物差しに考えるのではなく、神に感謝できることが大事だと考える。こんな迷いのない決断、見極めのほうが大切なのです。

畑の宝を見つけた人も、もっといい宝を探そうと思えばできたかも知れません。良い真珠を探している人も、あともうワンランク上の真珠を欲しがれば、もっと粘ってみるということもできたでしょう。けれどもたとえ話の中の人々は迷わず決断したのです。それは、「わたしはこれで十分神さまに感謝できる」その線を見極めたからだと思います。

上を見ればきりがないと言ったりします。上を見て欲張るのは、自分が満足できるかどうかで生活を見渡しているからです。今、神さまに感謝できるかどうか。私と神さまと向き合って考えてみてはいかがでしょうか。今日のたとえ話で言われている「正しい人々」とは、「今日一日を神さまに感謝できる人」だと思うのです。誰かと比べたり、上を見て欲張ったりして感謝できない毎日を過ごす人は、目の前に感謝できる材料があっても感謝できないという、「悪い者ども」ということになるのです。

私は、今日一日を神さまに感謝できるでしょうか。今日を神さまに感謝できないとしたら、いったいいつ神さまに感謝できる日が来るのでしょうか。一日一日が、神さまに感謝できる、そんな物差しで過ごせる人に変わることを、ミサの中で願うことにしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼このメルマガを発行してすでに368号となっています。全部読み続けているのは私一人です(笑)。それにしても100回、150回、もしかしたら200回以上読んでくださっている人がいるかも知れません(★200回以上読んでおられる方がいれば、ぜひ名乗り出てください。その方にはこれから書く内容のものを「無料プレゼント」としてお届けします)。
▼メルマガをスタートしたのが2002年3月10日ですが、録音説教をずっと録りだめていました。原音のままで通常の音楽CDを制作しようとすると、単純に考えても70枚を超えてしまう量です。それは非現実的なので、録音形式をmp3形式にしてデータCDとしてまとめてみました。すると、第1号の録音説教から第364号までの分がCD3枚に収まりました。
▼CD3枚に収録された音声説教のファイル数が、なぜか368ファイルありました。メルマガは6月29日までで364回発行のはずです。おかしいなと思い返していたら、そのうちの2つは思い出しました。1つは、かつて堅信式が行われた日曜日で、その日の自分の説教と、当時の大司教の説教が収録されています。
▼もう1つは、日曜日が12月24日になっていた日があって、メルマガは日曜日夜の「主の降誕(夜半)」を発行して通常の日曜日の説教は録音はしたけどメルマガは配信していない分です。これで364号+2つのおまけ。あと2つおまけがあるのですが、いったいどんな事情だったのでしょうか?
▼うまくCD3枚に収まったことだし、これは何かの形で恩返しをしたほうがいいなぁということで、皆さんにお裾分けします。ただし実費+制作費を切手で郵送してください。費用の内訳としては、CD1枚30円×3枚で90円、CDに貼り付けるラベルシール(後述「今週の関連画像」を参照)が1枚20円×3枚で60円、郵送する封筒と、包装用のプチプチ、プリンターのインク代をあわせて150円、送料が140円。実費はあわせて440円です。プラスチックのCDケースはご自分で探してください。
▼あとは制作費。手際よく作ったとしても、たぶん30分はかかります。最近の最低賃金は時給いくらなのか知りませんが、700円の半分とすると、350円。実費と制作費を足すと、790円となります。四捨五入して、800円でいかがでしょう。ご希望の方は、送り先の郵便番号、住所、氏名を書いたメモと、切手800円を同封して中田神父のところまで連絡ください。
〒851-1201 長崎県長崎市伊王島町2丁目617 カトリック馬込教会 中田輝次神父
▼念にも念を押しておきたいのは、「mp3形式のデータCD」は、通常のCDプレーヤーやCDデッキでは再生できないということです。あくまでも、mp3形式のデータCDが再生可能なプレーヤーをお持ちの方のみ、利用できます。絶対間違えないでください。あとで「再生できない!お金返して!」と言われても困りますので。
▼ちなみに、mp3形式データCDを再生可能な持ち運び型のプレーヤーとして、「MX(マクサー) ポータブルCD/MP3プレーヤー(MPCD-IW、税込3680円、送料別)」「ソニーCDウォークマン (D-NE730、税込8190円、送料別)」などが販売されています。価格は店舗によってばらつきがあります。何度も繰り返しますが、「mp3対応プレーヤーでないと、再生できません!」
▼しかしながら、パソコン(ノートパソコンも同じ)のCDドライブは、ほぼすべてのもので再生可能です。パソコンで試聴する分には、まったく問題ないと思います。「パソコンで聞くよ」という人は、よかったら切手800円を同封して予約してください。また、最近流行の「デジタルオーディオプレーヤー」に転送して聞くことももちろん可能です。以上、こうじ神父からの「営業」でした。

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今週の関連画像
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第41回目。メルマガをこれまで200回以上読んでいる方には無料でプレゼントします。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第18主日
(マタイ14:13-21)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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年間第16主日(マタイ13:24-43)最後まで希望を棄てずに寄り添う

2008-07-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/07/20(No.367)
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年間第16主日
(マタイ13:24-43)
最後まで希望を棄てずに寄り添う
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今日の福音は、先週に引き続き、神の国の成長について、違った見方で私たちの準備をうながしています。今日は特に、たとえに登場する僕たちの言葉に耳を傾けながら、私たちの態度をもう一度見直すことにいたしましょう。

僕たちは、主人が持っている畑を、実際にお世話する人々だと思われます。畑の持ち主が最初に号令をかけて、それにもとづいてたくさんの人が手伝い、収穫を分け合います。ですからこの僕たちは、畑にしばしば出向き、畑の様子を詳しく知っていたわけです。

僕がいち早く、毒麦が現れたことに気づきました。この毒麦に関して、主人と僕の考え方がずいぶんと食い違っています。僕たちは、毒麦は今すぐに、根こそぎにしなければならないと考えています。ところが主人の方は、今すぐに行動を起こすべきではないと、僕たちを思い止めようとしています。

「では、行って抜き集めておきましょうか」。この僕の答えは、主人が当然自分たちの考えと行動に賛成してくれて、それを許してくれるものと期待している、そんな雰囲気が込められています。僕たちは、あるいは主人みずから、「わたしが行って抜き集めよう」と言うかもしれない。それには及びません、私たちがそのつとめを引き受けましょう、そんな気持ちで「抜き集めておきましょうか」と答えたのではないでしょうか。

最後まで待つとか、最後まで見守ってあげるというのは、非常に難しいものです。先週13日の日曜日朝5時から、NHKで宗教や人生に深い考えを持った人と対談する番組が放送されていました。朝が早い人は、同じ番組を見ているかも知れません。先週は、カトリックの司祭で大阪のあいりん地区に活動の拠点を置いて働いている神父様が登場していました。

名前はよく聞く神父様でしたが、姿を見たのは初めてだったのかも知れません。最初の印象は、「へぇ、日雇い労働者や路上生活者のひしめき合っているこの地区で、本当に汗を流して一緒になってキリストを証ししているんだな」と感心しました。それが最初の印象なのですが、しばらく番組を見続けていると、ある所で私は眉をひそめてしまいました。私の心がけが悪いのかも知れませんが、その場面を見てからそのあとは、その神父様が何を話しても、どうも心に入ってこなかったのです。

私が抵抗を覚えた場面とは、ミサの場面でした。神父様がミサをささげていたのですが、神父様は祭服を着ていませんでした。祭服の上からかける「ストラ」(肩から掛ける帯)だけをTシャツの上に掛けて、ミサをささげていたのです。

インタビューをするNHKの聞き手の人が、さっそくそのことを神父様に尋ねました。「ミサをささげるときは普通、司祭の祭服というのがありますよね。神父様はそれを着用しないのですか」。それに対して神父様はこう言いました。「ここには日雇い労働者や路上生活者がたくさん集まってきます。この人たちと同じ立場に立って、思いを同じくして、わたしはミサをささげたい。それで、私は集まっている労働者たちと同じ格好で、ストラを着用してミサをささげているのです」。

神父様の説明で、理由は分かりました。理由は分かりましたが、それでも受け入れるのは難しかったです。例えば皆さんの前にいる中田神父が、畑仕事をしている人が多いからと言って、作業着の上にストラを着用してミサを始めたら、皆さんは私を受け入れてくださるでしょうか。私は同じ司祭でありながら、祭服を着ないで作業着の上からストラを着けてミサをささげるのは、「ありえない」なぁと思いました。もし、意見があれば聞かせてください。

さてその神父様とNHKの聞き手の人との話は、おおまか、イエスはしいたげられている人の側に立つ方なのだという話でした。弱い立場に置かれている人と同じ立場に、イエスはしばしば立っておられる。だから、弱くされている人々の立場に回らないと、イエスのことが本当は分からないんだ、そういう話でした。

その思いが、ミサの時の服装につながっているのだと思うのですが、どうしても私は理解できませんでした。それが引っかかって、番組が進む間も、その神父様の話がなかなか心に響いてきませんでした。ところが、最後の最後に、弱い立場に追いやられた人々を理解するとはこういうことだと、神父様の深い考えが現れたのです。

それは、次のような言葉でした。「『理解する』という言葉は、英語で”understand”と言いますね。この”understand”というのは、文字通り考えると、”under”(下に)”stand”(立つ)という意味ではないでしょうか。上からその人を分かってやるというのではなくて、その人の下に行って立つ。その人と同じ場所にではなくて、その人よりも下に立って、その人の心に触れることですよね」というようなことを言った時でした。

心底貧しい人たちの心を学んだ神父様だからこそ言える、深い考えだなと思ったと同時に、Tシャツの上からストラをかけただけでミサをするその神父様を、外面だけにとらわれないで内面を見なければいけないなとも思いました。

とても鮮やかな祭服を身にまとってミサをささげることも、荘厳さを表すのでそれなりにすばらしいかも知れません。けれども、それだけがミサをささげるたった1つの正解ではないかも知れません。私は、荘厳なミサをたった1つの正解と決めつけてしまったために、金箔の祭器具もなしにパンとぶどう酒だけでミサをささげたイエスの姿を忘れていたのかも知れないと思いました。

私たちも、いろんな形でだれかの側にいます。隣にいる人は配偶者であったり、子どもであったり、地区のみんなであったり、小教区民です。いろんな人々の側に寄り添って、相手の実りを自分のことのように喜び合うために、最後まで辛抱強く見守りなさいと呼びかける神の思いに倣うことにしましょう。

相手の欠点について、私は神よりも先に見つけるかも知れません。けれども、それを補えるほどの良いものを、神は1人ひとりに与えています。それは忍耐、赦し、和解などによって勝ち取るものです。大きな収穫が、互いの欠点を補うほどに実りますように、ミサの中で祈ってまいりましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼スクーターのバッテリーが逝ってしまい、まったく始動できなくなってしまった。それ以降もキックでエンジンをかけて動かしていたのだが、6月にまったく乗らずに7月2日、キックでエンジンをかけようとしたがどうしても、どうしても、どうしてもかからなかったのでバッテリーを購入することにした。
▼バッテリーをスクーターから取り外し、古いバッテリーの型番をもとに注文をしようということで、プラス(+)のドライバーを1本持って車庫に向かった(これが間違いのもとだったのだが)。いざネジの部分にドライバーを当ててみると、ネジのくぼみが思ったよりも小さく、慌てて司祭館にサイズの違うプラスドライバーを取りに行った。
▼司祭館の玄関に戻ってみると、子だくさんの若い夫婦がおばあちゃんに「拝観できないみたいだね。帰ろうか」と言っている。「うーん、しょうがない」と思って「お祈りしていきますか?こちらで待っていてください」と言って教会に案内した。そして本来の目的のため別のドライバーをまたも1本だけ持って、車庫に戻った。
▼今度はネジのくぼみにはピッタリ合うのだけれども、ドライバーが貧弱で、力を入れようとしてもうまく力が伝わらず、ネジが回らない。天を仰ぐ。するともう1本、役に立ちそうなドライバーを思い出した。取っ手がT型になっていて、効果的に力を伝えられる。あのドライバーならうまくいくだろう。
▼そう思ってまたもそのドライバーを「1本だけ」取りに行くと、先ほど教会に入った家族が「お祈りしてきました」と礼を言って帰っていった。ちょうどよかったなぁと思いつつ、ドライバーを手に取り、車庫へ。今度は成功。カバーを開ける。バッテリー発見。ところが、バッテリーはナットで固定されていて、ナットを緩めないと取り外せない。
▼だんだん頭に血が上りながら、今度はペンチを探してきて、ナットを緩めようとした。すると、ナットの角が、ペンチで傷つけられ、つぶれそうである。再度天を仰いだ。ということは、レンチが必要だ。ここでようやく、「工具セット」を取りに行くことになる。工具セットには当然、ドライバーもペンチもレンチもあったのだが、ものすごく遠回りをしてしまった。
▼ようやくバッテリーを取り出し、「ふーん、この型番なのね」と眺めながら、汗だくになって取り出したバッテリーに文句を言った「世話やかせやがって」。あとは戻ってネットショップを検索し、該当するバッテリーの注文を入れようと机の前に向かったが、取り出したバッテリーはどうやら車庫に置いたままらしい。何とか型番を思い出そうとするも、「CT・・・わからん!」またも車庫に出向くことになった。
▼最終的にバッテリーはYahooオークションで入手となった。通常のショップは「品切れ」「入荷待ち」ばかり。待ちきれず、少し高いと思ったが2580円で落札して手配した。近日中に届くらしい。楽しみだ。それにしてもヘトヘトになった。

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今週のセンテンス
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第40回目。最近は新聞の役割が、娯楽に重点が移ってきています。

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‥次の説教は‥‥
年間第17主日
(マタイ13:44-52)
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年間第15主日(マタイ13:1-23)茨におおわれた心にもイエスは種をまきます

2008-07-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/07/13(No.366)
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年間第15主日
(マタイ13:1-23)
茨におおわれた心にもイエスは種をまきます
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今日の福音は、皆さんもよく知っているたとえ話の1つ、「種まきのたとえ」です。イエスはつねに、たとえの向こう側に、本当に伝えようとしている何かを携えておられます。イエスが今週私たちに伝えようとしておられることに、一人ひとりたどり着けるように、今週の福音朗読を味わってみましょう。

イエスのたとえを聞きながらも、みなさんの中には種をまく人の行動があまりしっくりこないという方もおられると思います。心の中でこう考えたかもしれません。「この人はどうして大切な種を道端に落としたりするのだろうか。石だらけで土の少ないところに落としたりするのだろうか。わたしだったら用心してそんなことは絶対しないのに。」

もちろん、日本の畑作や、稲作の考え方からすると、福音に登場する人の行動は無駄が多く、いかにも不注意、軽率な行動のように受け取られます。けれども当時のパレスチナで、畑作がどのように行われていたかを知っておくと、種まく人の態度に気を取られることも少なくなると思います。

当時のパレスチナ地方の種まきは、畑を作ってから種をまく日本の習慣とは正反対で、畑にする予定の場所一面にまいていました。「ここからここまで、耕して畑にする」そう決めた場所であれば、どこにでも種はまかれました。

ですから農閑期に人が歩き、踏み固めて道のようになっている場所や、畑を休ませている間に茨が生え出たところも、あとで耕して土をかぶせる予定がありますので、かまわずに種をまいたのです。

「ある種はどこそこに落ちた」という言い方は、人間の不注意でそうなったのではなくて、畑一面に種をまいた結果、そのうちのいくつかは道端、土の少ない石地、茨の生え出たところに落ちていったということなのです。

イエスからこのたとえを直接聞いた人々は、実際種まきをこのようにしていたので、種まく人の態度に気を取られず、本当にイエスが伝えたいことをまっすぐに考えることができました。私たちがイエスのたとえを聞くときは、習慣の違いに注意しないといけません。そうしないと、道端に種をまくなんてどう考えてもおかしいと、出だしでつまずいてしまうからです。福音に登場する種まく人は、はじめから無駄なことをしようとしているのではなくて、どの場所も耕して、それなりの畑にしようと考えているのです。

この点がわかると、イエスのたとえから本当に伝えたいことに心が向かい、私たちを動かすようになります。畑として利用しようと考えている土地全体を、私に当てはめてみましょう。すると、イエスは種まく人として、私たちに御言葉の種をまき続けておられるのです。

畑にする土地全体は、私の心です。その中にはいろんな状態の場所があります。人間的な弱さがあって、いつも同じところへ傾いている部分もあるでしょう。たとえば傲慢とか、虚栄心とか、しばしば陥る弱さは、同じ傾きで踏み固められて、一つの道のようになってしまっています。

また、自分の考えだけにこだわって人を受け入れないという部分もあるでしょう。人の勧めを最初からはねつけて、関わり合おうとしなくなるとき、そこは耕すのが困難な、石だらけの場所になってしまいます。

自分の好きな人とはつきあうけれども、嫌いな人とは目も合わせないということもあります。時として薬になる話も、その人が嫌いだから聞かないというようなことをしているうちに、雑草が生えてしまうわけです。

心はいろいろな要素を含んでいますが、手を加えればどの場所でももう一度畑として使えます。ある場所はとても手間がかかるかもしれませんが、それでも立派に畑に戻すことができるはずです。「御言葉」そのものをまこうとしておられるイエスは、種の持つ力を十分ご存じなので、道のようになったところにも、石地にも、茨の生えた場所にも、種をまくのです。どの場所も、イエスが「ここを畑にしよう」と決めてくださった場所だからです。

もちろん、土地はよい土地であるに越したことはありません。良い土地、肥えた土地とは、イエスの言葉を聞いて、それを受け入れる土地のことです。土地の持っている力を引き出す神の言葉を、素直な気持ちで受けとめる心が、御言葉の力で100倍、60倍、30倍の実りになって現れるのです。

余計に耕す必要がある場所をそのままにしておくと、実りはまったく期待できません。「道端に蒔かれたものとは、こういう人である」「石だらけの所に蒔かれたものとは、こういう人である」「茨の中に蒔かれたものとは、こういう人である」それぞれ残念な結果が示されています。妨げとなるものを取り除き、十分に耕せばきっと実りをもたらしたはずなのに、まかれた種に見合う努力をしませんでした。十分可能性があったのに、です。

もう一度、私の心を見つめてみましょう。種をまかれた場合、あなたの心はどれくらい耕さなければなりませんか。神はおりが良くても悪くても、御言葉をまき続けます。準備のできていない畑でも、種をまいておけば種はとどまり続けます。耕すのがどんなに難しい心であっても、神はそこに種をまき、その実りまで面倒を見ようとされるのです。

最後に、今日朗読した箇所の、最後の言葉を読み返しましょう。「耳のある者は聞きなさい」(13:9)。イエスは、御言葉が必ず実をつけ、かたくなな心に対しても必ず勝利することを確信しておられるので、「耳のある者は聞きなさい」と言われます。御言葉そのものが持っている力が、冷えた心を暖め、堅い心をやわらげ、曲がった道をまっすぐにしていくからです。

私の中に、神の言葉が日々まかれています。豊かな実りに与るため、実りにはっきりと気づかせてもらうため、「主よ、あなたの言葉を響かせてください。わたしは耳を澄まして聞いています」と祈ることにいたしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼ラジオ放送に「FEBC」というキリスト教の放送があるのをご存じだろうか。周波数はAMの1566kHzである。こうじ神父は知ってはいたが、放送そのものは聞いてはいなかった。5年ほど前にインターネットでこの放送のことを知り、放送はのちにカセットテープになったりCDになったりしていたので、購入する程度だった。
▼先週くらいから、このラジオ放送を聞くようになった。生放送は、その場の雰囲気が伝わり、録音とは違うすばらしさがある。ぜひ聞いたほうがよいと思う。このキリスト教放送局については、ウィキペディアにも紹介があり、聞いてみたくなるような記事が掲載されている。
▼このウィキペディアの記事を読んでいて、別のことに目が留まった。「日本の放送法では宗教放送局が認められていない」という1文である。勉強不足だったと言えばそれまでだが、宗教放送局が認められないのはなぜなのだろうか。法律が悪法なのだろうか。この表記が目に留まってから、「法律を変えたい」とまで思うようになった。
▼もちろん実際には法律を改正することは無理かも知れない。けれども放送に宗教がそぐわないという考え方は、一方的な考え方なのではないだろうか。「番組の一部としては許可するけれども、放送局を持つことはいけません」という姿勢が、なぜか無性に腹が立った。こんな考え方のほうが一方的だろうか。
▼宗教放送局が認可されるようになった社会を想像してみた。朝から晩まで、宗教の宣伝に1つの周波数が利用されるようになるだろうか。私はそうは思わない。もっと健全な放送のジャンルがきっと育っていくと思う。例えば、いのちのはじまりについて、どんな理由があったにせよ、いのちに手をかけてはいけませんと、リスナーに訴えかける。
▼もちろん宗教的な価値観が背景にあるわけだが、それが特定の宗教の強引な宣伝に使われるとは思わない。いのちの大切さを、宗教放送局が堂々と社会に訴えかける。そういうチャンスが与えられるはずである。ある日ある時間だけの放送ではなくて、いつでも、イエスとの印象的な出会いについて放送されている放送局があるなら、それはとってもステキなことではないだろうか。
▼話がそれたが、FEBCは韓国から日本に向けて一定時間(夜)日本語放送を流している。私はこういう活動はもっともっと知ってもらうべきだと思う。この機会に、声を大にして宣伝しておきたい。

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今週のセンテンス
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第39回目。アメリカは自由と平等を理想とし、その理想は新しい国に合っていました。

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年間第14主日(マタイ11:25-30)わたしのもとに来なさい。あなたを休ませる

2008-07-06 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/07/06(No.365)
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年間第14主日
(マタイ11:25-30)
わたしのもとに来なさい。あなたを休ませる
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今日は歌を1曲歌ってから説教に入ろうと思います。

『来なさい 重荷を負う者』

1.来なさい 重荷を負う者
  苦しむ者はみな わたしのもとに
  わたしはあなたを 休ませる
2.わたしは柔和で謙遜だから
  受けなさい わたしの軛を
  なりなさい わたしの弟子に
3.わたしの軛は負いやすく
  わたしの荷は 軽いから
  あなたの心は 安らかになる

この歌、もしかしたら聖歌隊の皆さんも今日のミサのどこかで歌うかも知れません。その時にもじっくり聞きながらこれから話すことを考えてみてください。中田神父は今、「来なさい 重荷を負う者」という歌を歌いながら、3箇所、特に気持ちを込めて歌いました。それぞれ、歌に込めた思いを紹介します。

1番では、「来なさい」という部分です。「来なさい」「おいで」という言葉は、人を引き寄せる、引きつける力がなければなりません。たとえそれが歌の歌詞であっても、「来なさい」という言葉を聞いた人にちゃんと伝わって、呼びかけている人のところへ行ってみたいな、近づきたいなと思わせる歌い方でなければならないと思うのです。「来なさい」と言葉では言うけれども、「本当は来てもらっちゃ困る」というのでは意味がありません。

先ほどの歌のもとになっているのは、もちろん今週の福音朗読の箇所です。イエスはこう言いました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(11・28)。イエスの「来なさい」という言葉に、多くの人が耳を傾けました。

イエスの「来なさい」という言葉には、本当に疲れた人、重荷を負う人にとっては大いに引きつけられる力があったのでしょう。私も、「来なさい」と歌うからには、心から「おいで」という気持ちを込めて歌えるようになりたいと思うのです。

2番の歌詞で私が特に心を込めたのは、「受けなさい」という部分です。「受け取りなさい」と言って、示しているのは「軛(くびき)」です。つまりそれは「服従」とか「つらい仕事」を受け取りなさいという意味です。いくらイエスが「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(11・29)と言ったって、簡単に「はいそうですか」と言えるでしょうか。

「わたしの軛を受けなさい」と言っているイエスの言葉を考える時、私は父親が病床で過ごした最後の三日間を重ねて考えます。最後となった週の木曜日あたりから、父は周囲の呼びかけに返事ができなくなりました。それでも、苦しそうにしている様子を見ると、たくさんの重荷を背負っていることが伝わってきます。

金曜日は、さらに反応がなくなってきました。先生や看護師の方が何度も父のまぶたにライトを当てて、瞳孔の反応を見るようになりました。まったく苦しい様子を見せないなら私たちも辛くないのですが、やはり苦しそうにしています。私はその時にこう思いました。もはや家族の声は遠くなって、イエスの呼びかけ「受けなさい、わたしの軛を」という声に従っているのだと思ったのです。

苦しくても、イエスから「受けなさい、わたしの軛を」と呼ばれれば、イエスの軛を負う。父の姿は、イエスの呼びかけ「受けなさい、わたしの軛を」という言葉に偽りがないことを教えてくれたと思います。

最後の3番の歌詞の中で、私は「安らかになる」という言葉に特に気を付けて歌いました。イエスが求める軛を負い、イエスに学ぶ人は、安らぎを覚えるというのです。果たしてそれは、生活の中で、この日曜日の礼拝に集まって、体験できているのでしょうか。

自分自身の体験から言えることは、毎週日曜日の説教を考えながら、ああでもない、こうでもないと頭をひねり、腕組みをし、イエスが私に伝えようとしていることを何とか形にしようと毎週格闘しています。そして何かの形にまとまった時、いつも感じるのは「やっと終わった」という安心感です。中田神父にとっての軛を負い、今週の学びを得た時、そこには必ず安らぎが待っています。

それは終わりのない経験です。今年何かの安らぎを得たからと言って、3年後にはまた何かを求めてイエスの軛を負い、イエスに学び直します。そこには新たな安らぎが待っています。私の経験から言えることは、何度イエスの軛を引き受けても、その度に何か新しい学びがあり、安らぎを得ると言うことです。

お一人おひとりにも、イエスのもとに来る度に新たな安らぎがあるように、イエスの思いを伝える協力をしたいと思います。「あなたの心は 安らかになる」そう歌うだけで十分、説明してもらわなくても分かる。それほど、イエスの呼びかけを考えに考え抜いて、とことん吟味して、歌えるようになりたいと思います。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(11・28)。だれもがこのイエスの言葉を味わえるミサにしていきましょう。日曜日にミサに来てこの言葉の意味が分かったと思えるような教会づくりを、一緒に進めていくため、ミサの中で照らしを願いましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼今、個人的に意地になって続けていることがある。縄跳び。小学生の時に皆さんもよく取り組んだに違いない。42歳のおじさんが今になって縄跳びを思い付いた理由はただ1つなのだが、これが思うようにいかない。最初、1分間飛び続けようと縄を回し始めたら10数秒でさっそく失敗してしまった。
▼そんなはずはないと、再び挑戦するも、30秒程度で中断。それを繰り返しているうちに息が上がり、リズムよくと頭は思ってもオットセイが縄跳びしているようだった。でもこんなたとえを使ったら、オットセイに失礼かも知れない。
▼縄跳びを始めたら、当然昔できていたことはいまでもできるものだと思い込んでしまう。8の字、2重飛び、後ろ飛び、後ろ2重飛び。ほかにも「ハヤブサ」とかいろんな技があるそうだが、実際に飛んでみると先の3種類は飛ぶには飛んだが、後ろ2重飛びはついに飛ぶことができなかった。
▼絶対飛んでみせると意気込んでも、ヤンバルクイナが飛べないのと同じように、オットセイは昔のようにはどうしても飛べない。しかたなく何度も失敗しながら、15分ほど時間を消費してシャワーを使った。その日は体も心も適度な疲れを感じ、夜もぐっすり眠ることができた。
▼思い付いて縄跳びをしたのは6月14日の土曜日だったが、翌日曜日の朝6時半、けたたましく司祭館のチャイムが鳴った。日曜日の朝6時半と言えば、大明寺教会のミサが始まっている時間である。ビックリして飛び起き、玄関に行ってみたら修道院のシスターが立っていて、「もう時間過ぎてますよ!大明寺教会に連れて行ってください」と角を出していた。到着した時にはすでに6時45分、大明寺の信者には寝坊したことを説教中に謝ったのだった。
▼今はようやく「その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6・34)に近づいてきている。とりあえずその日の疲れが翌日、翌々日に出るという状況ではないようである。ちなみに、縄跳びはいちばん効果的にエネルギーを消耗します。ジョギングよりも短時間で同じ効果が得られます。

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今週のセンテンス
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第38回目。アメリカに移住した人々の「るつぼの思想」について。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第15主日
(マタイ13:1-23)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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