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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2018/4/1(No.938)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活の主日(日中)
(ヨハ20:1-9)
聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった
‥‥‥†‥‥‥‥
あらためて主の復活おめでとうございます。復活徹夜祭と復活の主日日中のミサは、同じ復活の主日と思われがちですが、朗読される福音が違うということ一つを取り上げても、私は違うミサだと思っています。つまり、別々にあずかってほしいミサだということです。
ある人は、「復活徹夜祭にあずかったから、明けて復活の主日日中のミサは行かなくてもよい」と考えているかもしれません。先週のミサでしたら、繰り上げミサと当日のミサは朗読が全く同じなのですから、それは当日あずかれない人が繰り上げミサで務めを果たすというのはもっともなことです。
ですがこの復活を祝う両方のミサは、選ばれた聖書朗読が違いますから、同じミサとは言えないと思うのです。もし「両方とも同じだからどちらかあずかればよい」と考えていた人がいらっしゃれば、来年からは改めましょう。同じことは「主の降誕」にも当てはまります。
さてこの日の日中のミサは、少し切り口を変えて考えてみましょう。マグダラのマリアがからの墓に驚き、弟子たちに自分たちが見たことを告げました。ペトロともう一人の弟子が墓に向かいます。この二人について最後にこう書かれています。
「シモン・ペトロも着いた。(中略)それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(20・6-9)
もしかしたら、シモン・ペトロ一人では、イエスの復活に思い至らなかったかもしれません。また、もう一人の弟子、おそらくヨハネのことだと思いますが、かれもまた、一人ではイエスの復活を信じることはできなかったかもしれません。つまり、彼らは二人で出来事を思い巡らしているうちに、聖書の言葉「イエスは必ず死者の中から復活されることになっている」ということを理解したのではないでしょうか。
今年、聖週間の一連の説教を「イエスをどのように呼ぶか」ということで考えてみたのですが、受難の主日を迎えた直後には、まだ今日の復活の主日までのつながりについて道筋は見えていませんでした。ところが月曜日と火曜日、どのように聖週間全体の説教をまとめるかを人に話してみたら、はっきりと道筋が見えたのです。一人で考えているときには見えそうで見えなかった道筋でしたが、だれかと分かち合った時に、道筋がはっきり見えたのでした。
これは、シモン・ペトロともう一人の弟子が空の墓で体験したことに重なると思います。イエスが復活し、暗く沈んでいた弟子たちの心に光を届けてくれました。そのとき一人で救われたのではなく、複数の人が助けを求めて一緒に思い巡らしているときに、救いの光が差してきたのです。
私たちにとってもそれは同じことではないでしょうか。人は一人で救われるのではないのです。かつてイエスが言われたように、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18・20)複数の人がイエスについて学びあったり語り合ったりするところに、求めるものが与えられるのだと思います。
そこで一つの呼びかけをして説教を結びたいと思います。復活の喜びは、一人で心に持ち続けるのではなく、二人三人で、分かち合うべきだということです。複数の人が集まると言っても、皆がイエス・キリストへの信仰を持っている必要はありません。だれかと一緒にイエス・キリストの復活を語り合うとき、そこに復活の主がおいでになり、喜びと希望を与えてくださる、復活した主を理解する恵みが与えられるということです。
わたしたちは四六時中同じ信仰を持つ仲間と時を過ごしているわけではありません。むしろ、違う信仰の人と、あるいは信仰すら持たない人と席を共にしていることのほうが多いと思います。家庭の中にあっても、自分一人カトリック以外の宗教の家に嫁いでいることも考えられます。だれともイエス・キリストのことを語り合ってこなかったかもしれません。
そうではなく、だれかと復活したイエスのことを分かち合うとき、あなたに復活した主への理解が授けられるのです。私一人がイエスを信じている場所でも構いません。自分の持っている信仰を分け合うとき、それまで以上の理解を、分かち合ったことで授けられると思います。いつかそのことが、そばにいる人にイエス・キリストを知る機会を与えてくれて、身近な福音宣教に結びついていきます。
まっすぐにイエスについて行ったシモン・ペトロと、イエスの愛する弟子だったヨハネ、この二人であっても一人だけではイエスの復活を十分理解できなかったのです。考えてみれば、イエスの復活は複数の人がいる場所で示されています。墓に最初に言った婦人たち、家に閉じこもっていた弟子たち、エマオに向かう弟子たちなどです。私たちは孤独のうちに復活を読み解くのではないのです。
そこでもう一肌脱いでもらう必要があります。残念ながらこの社会には、孤独に生きる人、一人きりで復活の主日に家庭で祈っている人、そういう人がいるはずです。ぜひ訪ねて行って、二人または三人で主の復活を迎えられるようにしてほしいと思います。共に主の復活を祝ううとき、私たちの喜びは何倍も深まるのです。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハ20:19-31)
‥‥‥†‥‥‥‥
‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥
▼聖週間に賽銭泥棒がやってきた。鍵をこじ開けるのが難しくて未遂に終わったようだが、警察がやってきて現場検証と監視カメラの記録を持ち帰った。泥棒よ、監視カメラが作動しているから田平教会は狙わないほうがいいぞ。
▼それにしても監視カメラの画像は驚くほど鮮明だ。ある日のミサの様子を見させてもらったが、よほど私の眼鏡をかけた視力よりもよく見ることができる。あれでは賽銭箱をいじったりすれば、だれなのか一目瞭然である。
▼監視カメラが聖堂内に設置されているのは、本来は喜ばしいことではない。祈る場所だから、祈る姿を神さま以外に見られているのは気持ちの良いものではない。しかし現実に賽銭箱をこじ開けたりする人がいれば、防犯上必要にもなる。田平教会の賽銭箱がそんなに興味があるのなら、主任司祭に聞きに来てほしい。大した額ではないのだから。
▼田平教会献堂百周年を節目に、何かこれまでとは違う一歩を踏み出したいと思っている。自分たちが迎えた献堂百周年から、何か一つでも新しい芽が出て、実を結ぶようにしたいと思っている。そのために私はここにいる間に何か手を打ちたいと思う。田平教会の信徒にも、何ができるか考えてほしい。
▼実にたくさんの人が、今回の献堂百周年を支えてくれている。田平教会信徒、この教会を故郷に持っている人、この教会に特別な思い入れがある人。その人々の思いにこたえるためにも、何かができればいいと思う。
▼多分その中で分かりやすい働きかけは、「人を育てる」ということだろう。司祭・修道者がその先頭だ。あるいはカテキスタとか、活動団体の会員に新メンバーを加えるとか、「人を育てる」ということは、仮に最後までたどり着けなくても、その過程だけでも価値がある。そうだ。ご復活を機に、召命について一緒に考えてくれる親子を探すことにしよう。
‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第545回目。復活徹夜祭前の祭壇。すべての覆いが取り払われている。虚飾なし。
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【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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復活の主日(日中)
(ヨハ20:1-9)
聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった
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あらためて主の復活おめでとうございます。復活徹夜祭と復活の主日日中のミサは、同じ復活の主日と思われがちですが、朗読される福音が違うということ一つを取り上げても、私は違うミサだと思っています。つまり、別々にあずかってほしいミサだということです。
ある人は、「復活徹夜祭にあずかったから、明けて復活の主日日中のミサは行かなくてもよい」と考えているかもしれません。先週のミサでしたら、繰り上げミサと当日のミサは朗読が全く同じなのですから、それは当日あずかれない人が繰り上げミサで務めを果たすというのはもっともなことです。
ですがこの復活を祝う両方のミサは、選ばれた聖書朗読が違いますから、同じミサとは言えないと思うのです。もし「両方とも同じだからどちらかあずかればよい」と考えていた人がいらっしゃれば、来年からは改めましょう。同じことは「主の降誕」にも当てはまります。
さてこの日の日中のミサは、少し切り口を変えて考えてみましょう。マグダラのマリアがからの墓に驚き、弟子たちに自分たちが見たことを告げました。ペトロともう一人の弟子が墓に向かいます。この二人について最後にこう書かれています。
「シモン・ペトロも着いた。(中略)それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(20・6-9)
もしかしたら、シモン・ペトロ一人では、イエスの復活に思い至らなかったかもしれません。また、もう一人の弟子、おそらくヨハネのことだと思いますが、かれもまた、一人ではイエスの復活を信じることはできなかったかもしれません。つまり、彼らは二人で出来事を思い巡らしているうちに、聖書の言葉「イエスは必ず死者の中から復活されることになっている」ということを理解したのではないでしょうか。
今年、聖週間の一連の説教を「イエスをどのように呼ぶか」ということで考えてみたのですが、受難の主日を迎えた直後には、まだ今日の復活の主日までのつながりについて道筋は見えていませんでした。ところが月曜日と火曜日、どのように聖週間全体の説教をまとめるかを人に話してみたら、はっきりと道筋が見えたのです。一人で考えているときには見えそうで見えなかった道筋でしたが、だれかと分かち合った時に、道筋がはっきり見えたのでした。
これは、シモン・ペトロともう一人の弟子が空の墓で体験したことに重なると思います。イエスが復活し、暗く沈んでいた弟子たちの心に光を届けてくれました。そのとき一人で救われたのではなく、複数の人が助けを求めて一緒に思い巡らしているときに、救いの光が差してきたのです。
私たちにとってもそれは同じことではないでしょうか。人は一人で救われるのではないのです。かつてイエスが言われたように、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18・20)複数の人がイエスについて学びあったり語り合ったりするところに、求めるものが与えられるのだと思います。
そこで一つの呼びかけをして説教を結びたいと思います。復活の喜びは、一人で心に持ち続けるのではなく、二人三人で、分かち合うべきだということです。複数の人が集まると言っても、皆がイエス・キリストへの信仰を持っている必要はありません。だれかと一緒にイエス・キリストの復活を語り合うとき、そこに復活の主がおいでになり、喜びと希望を与えてくださる、復活した主を理解する恵みが与えられるということです。
わたしたちは四六時中同じ信仰を持つ仲間と時を過ごしているわけではありません。むしろ、違う信仰の人と、あるいは信仰すら持たない人と席を共にしていることのほうが多いと思います。家庭の中にあっても、自分一人カトリック以外の宗教の家に嫁いでいることも考えられます。だれともイエス・キリストのことを語り合ってこなかったかもしれません。
そうではなく、だれかと復活したイエスのことを分かち合うとき、あなたに復活した主への理解が授けられるのです。私一人がイエスを信じている場所でも構いません。自分の持っている信仰を分け合うとき、それまで以上の理解を、分かち合ったことで授けられると思います。いつかそのことが、そばにいる人にイエス・キリストを知る機会を与えてくれて、身近な福音宣教に結びついていきます。
まっすぐにイエスについて行ったシモン・ペトロと、イエスの愛する弟子だったヨハネ、この二人であっても一人だけではイエスの復活を十分理解できなかったのです。考えてみれば、イエスの復活は複数の人がいる場所で示されています。墓に最初に言った婦人たち、家に閉じこもっていた弟子たち、エマオに向かう弟子たちなどです。私たちは孤独のうちに復活を読み解くのではないのです。
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(ヨハ20:19-31)
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▼それにしても監視カメラの画像は驚くほど鮮明だ。ある日のミサの様子を見させてもらったが、よほど私の眼鏡をかけた視力よりもよく見ることができる。あれでは賽銭箱をいじったりすれば、だれなのか一目瞭然である。
▼監視カメラが聖堂内に設置されているのは、本来は喜ばしいことではない。祈る場所だから、祈る姿を神さま以外に見られているのは気持ちの良いものではない。しかし現実に賽銭箱をこじ開けたりする人がいれば、防犯上必要にもなる。田平教会の賽銭箱がそんなに興味があるのなら、主任司祭に聞きに来てほしい。大した額ではないのだから。
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