こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活の主日(日中)(ヨハ20:1-9)聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった

2018-03-31 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2018/4/1(No.938)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活の主日(日中)
(ヨハ20:1-9)
聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった
‥‥‥†‥‥‥‥

あらためて主の復活おめでとうございます。復活徹夜祭と復活の主日日中のミサは、同じ復活の主日と思われがちですが、朗読される福音が違うということ一つを取り上げても、私は違うミサだと思っています。つまり、別々にあずかってほしいミサだということです。

ある人は、「復活徹夜祭にあずかったから、明けて復活の主日日中のミサは行かなくてもよい」と考えているかもしれません。先週のミサでしたら、繰り上げミサと当日のミサは朗読が全く同じなのですから、それは当日あずかれない人が繰り上げミサで務めを果たすというのはもっともなことです。

ですがこの復活を祝う両方のミサは、選ばれた聖書朗読が違いますから、同じミサとは言えないと思うのです。もし「両方とも同じだからどちらかあずかればよい」と考えていた人がいらっしゃれば、来年からは改めましょう。同じことは「主の降誕」にも当てはまります。

さてこの日の日中のミサは、少し切り口を変えて考えてみましょう。マグダラのマリアがからの墓に驚き、弟子たちに自分たちが見たことを告げました。ペトロともう一人の弟子が墓に向かいます。この二人について最後にこう書かれています。

「シモン・ペトロも着いた。(中略)それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(20・6-9)

もしかしたら、シモン・ペトロ一人では、イエスの復活に思い至らなかったかもしれません。また、もう一人の弟子、おそらくヨハネのことだと思いますが、かれもまた、一人ではイエスの復活を信じることはできなかったかもしれません。つまり、彼らは二人で出来事を思い巡らしているうちに、聖書の言葉「イエスは必ず死者の中から復活されることになっている」ということを理解したのではないでしょうか。

今年、聖週間の一連の説教を「イエスをどのように呼ぶか」ということで考えてみたのですが、受難の主日を迎えた直後には、まだ今日の復活の主日までのつながりについて道筋は見えていませんでした。ところが月曜日と火曜日、どのように聖週間全体の説教をまとめるかを人に話してみたら、はっきりと道筋が見えたのです。一人で考えているときには見えそうで見えなかった道筋でしたが、だれかと分かち合った時に、道筋がはっきり見えたのでした。

これは、シモン・ペトロともう一人の弟子が空の墓で体験したことに重なると思います。イエスが復活し、暗く沈んでいた弟子たちの心に光を届けてくれました。そのとき一人で救われたのではなく、複数の人が助けを求めて一緒に思い巡らしているときに、救いの光が差してきたのです。

私たちにとってもそれは同じことではないでしょうか。人は一人で救われるのではないのです。かつてイエスが言われたように、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18・20)複数の人がイエスについて学びあったり語り合ったりするところに、求めるものが与えられるのだと思います。

そこで一つの呼びかけをして説教を結びたいと思います。復活の喜びは、一人で心に持ち続けるのではなく、二人三人で、分かち合うべきだということです。複数の人が集まると言っても、皆がイエス・キリストへの信仰を持っている必要はありません。だれかと一緒にイエス・キリストの復活を語り合うとき、そこに復活の主がおいでになり、喜びと希望を与えてくださる、復活した主を理解する恵みが与えられるということです。

わたしたちは四六時中同じ信仰を持つ仲間と時を過ごしているわけではありません。むしろ、違う信仰の人と、あるいは信仰すら持たない人と席を共にしていることのほうが多いと思います。家庭の中にあっても、自分一人カトリック以外の宗教の家に嫁いでいることも考えられます。だれともイエス・キリストのことを語り合ってこなかったかもしれません。

そうではなく、だれかと復活したイエスのことを分かち合うとき、あなたに復活した主への理解が授けられるのです。私一人がイエスを信じている場所でも構いません。自分の持っている信仰を分け合うとき、それまで以上の理解を、分かち合ったことで授けられると思います。いつかそのことが、そばにいる人にイエス・キリストを知る機会を与えてくれて、身近な福音宣教に結びついていきます。

まっすぐにイエスについて行ったシモン・ペトロと、イエスの愛する弟子だったヨハネ、この二人であっても一人だけではイエスの復活を十分理解できなかったのです。考えてみれば、イエスの復活は複数の人がいる場所で示されています。墓に最初に言った婦人たち、家に閉じこもっていた弟子たち、エマオに向かう弟子たちなどです。私たちは孤独のうちに復活を読み解くのではないのです。

そこでもう一肌脱いでもらう必要があります。残念ながらこの社会には、孤独に生きる人、一人きりで復活の主日に家庭で祈っている人、そういう人がいるはずです。ぜひ訪ねて行って、二人または三人で主の復活を迎えられるようにしてほしいと思います。共に主の復活を祝ううとき、私たちの喜びは何倍も深まるのです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハ20:19-31)
‥‥‥†‥‥‥‥

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼聖週間に賽銭泥棒がやってきた。鍵をこじ開けるのが難しくて未遂に終わったようだが、警察がやってきて現場検証と監視カメラの記録を持ち帰った。泥棒よ、監視カメラが作動しているから田平教会は狙わないほうがいいぞ。
▼それにしても監視カメラの画像は驚くほど鮮明だ。ある日のミサの様子を見させてもらったが、よほど私の眼鏡をかけた視力よりもよく見ることができる。あれでは賽銭箱をいじったりすれば、だれなのか一目瞭然である。
▼監視カメラが聖堂内に設置されているのは、本来は喜ばしいことではない。祈る場所だから、祈る姿を神さま以外に見られているのは気持ちの良いものではない。しかし現実に賽銭箱をこじ開けたりする人がいれば、防犯上必要にもなる。田平教会の賽銭箱がそんなに興味があるのなら、主任司祭に聞きに来てほしい。大した額ではないのだから。
▼田平教会献堂百周年を節目に、何かこれまでとは違う一歩を踏み出したいと思っている。自分たちが迎えた献堂百周年から、何か一つでも新しい芽が出て、実を結ぶようにしたいと思っている。そのために私はここにいる間に何か手を打ちたいと思う。田平教会の信徒にも、何ができるか考えてほしい。
▼実にたくさんの人が、今回の献堂百周年を支えてくれている。田平教会信徒、この教会を故郷に持っている人、この教会に特別な思い入れがある人。その人々の思いにこたえるためにも、何かができればいいと思う。
▼多分その中で分かりやすい働きかけは、「人を育てる」ということだろう。司祭・修道者がその先頭だ。あるいはカテキスタとか、活動団体の会員に新メンバーを加えるとか、「人を育てる」ということは、仮に最後までたどり着けなくても、その過程だけでも価値がある。そうだ。ご復活を機に、召命について一緒に考えてくれる親子を探すことにしよう。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第545回目。復活徹夜祭前の祭壇。すべての覆いが取り払われている。虚飾なし。

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復活徹夜祭(マコ16:1-7)あの方は復活なさって、ここにはおられない

2018-03-31 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/3/31(No.937)
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復活徹夜祭
(マコ16:1-7)
あの方は復活なさって、ここにはおられない
‥‥‥†‥‥‥‥

主の復活おめでとうございます。今年の聖週間を、イエスの名前をどのように呼ぶかという切り口で考えてきました。今日、その答えが与えられました。私たちは復活の主を、「あの方」とお呼びします。

与えられた朗読の中で、白い長い衣を着た若者は、イエスについて二通りの呼び方を示しました。「十字架につけられたナザレのイエス」と、「あの方」という呼び名です。「十字架につけられたナザレのイエス」とは、イエスに油を塗りに来た婦人たちが理解していたお姿です。

イエスが裁判を受け、お亡くなりになるまで、イエスの呼び方はひどいものでした。「お前」とか「あの男」「あの人」こんな呼び方をたしなめる人も、堂々と反論する人もいなかったのです。最後の晩餐で「主よ」と呼びかけたペトロさえも、イエスの死に際して「そんな人は知らない」かかわりを否定しました。人間は命のかかった場面では弱くみじめで、ただじっと、遠くから様子を見守るだけなのです。

勇気ある婦人たちも、墓に出向いたとき「十字架につけられたナザレのイエス」としか呼び名を持ち合わせていませんでした。そこへ、新しい呼び方が示されたのです。それは「あの方」という呼び方でした。

「あの方」「あのお方」こうした呼び方は、明らかに敬意をこめた呼び方です。それは、一緒におられた間も、お亡くなりになっても、イエスが変わらず尊い姿であることを思い出させました。さらに加えて、神の使いであるこの若者は「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と付け加えたのです。墓に眠る人を呼ぶ呼び名はイエスにふさわしくないと知らせたのです。

神の使いは決定的な変化を付け加えます。イエスの呼び方を「十字架につけられたナザレのイエス」から「あの方」に変えてくださっただけでなく、復活して、さらに栄光が増し加えられたと教えてくれたのです。「あの方」と呼んで過去を振り返るだけでなく、「あの方は今生きておられる」と教えてくださったのです。

復活の出来事は、まず墓に出向いた婦人たちに、イエスは「十字架につけられたナザレのイエス」のままでは終わったのではない。人前で話すのもはばかられる呼び方で終わったのではなく、今生きて、「あの方」「あのお方」と呼びかけることができると気づかせたのです。

神の使いは婦人たちに使命を与えました。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(16・7)。まだ弟子たちにとって、イエスの呼び名は人前でうっかり語れない呼び方しか持っていません。その弟子たちに、婦人たちが伝えるのです。「イエスは、名前を呼ぶのもはばかられる姿ではなく、復活して、『あの方』と呼ぶことができるのです」と。

弟子たちには、イエスのことを語り合う勇気はまだ育っていませんでした。言葉と行いによって神の国の到来を告げたのに、最後は宗教指導者たちと彼らに動かされた人々によって死に追いやられた人。弟子たちの中ではイエスについて語ることができるのはそこまででした。

けれども婦人たちの報告ですっかり変わります。うかつに名前など呼べない。ましてやイエスのご生涯について語れない。そんな恐怖にとらわれていた弟子たちは一つの呼び方を示されて変わるのです。イエスを「あの方」と呼んで、イエスについて人々に語ることができる。イエスは生きておられ、ガリラヤで会うことができるのです。

私たちの間でも、呼び方が一つ変わるだけで、人と人とのかかわりは大きく変わるものです。結婚している夫婦が、「おいお前」と相手を呼んでいる間は、配偶者は言うことは聞くかもしれませんが、心の底から相手を尊敬することにはならないでしょう。その配偶者は外に出れば、「あの人は」とか「あいつは」とか言っているかもしれません。

呼び方が変わることで、お互いの尊敬や信頼も深まります。私は配偶者がいないのでどう呼ぶのが適当か分かりませんが、花子さんとか何とか、配偶者の名前をいくつになっても呼ぶなら、もっと互いが寄り添う関係であり続けるのではないでしょうか。

復活した主は、ご自身を呼ぶために「あの方」という呼び方を婦人たちと弟子たちにお示しになりました。つまり、尊敬の念をもって、自信に満ちて呼ぶことができる呼び名を授けてくださったのです。私たちはどうでしょうか。生活の中で、イエス・キリストという名前が、呼ぶのもはばかられるのであれば、復活した主は私の中で生きているとは言えません。

むしろ、堂々と「あの方は生きておられる。あのお方はわたしの生活を喜びと希望で満たしておられる」このように言える信者となりましょう。私たちが、イエスを「あの方」と呼んで人々に示すとき、復活した主は確かに今私たちを導いておられるのです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活の主日(日中)
(ヨハ20:1-9)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼主のご復活おめでとうございます。司祭館は一足先に聖金曜日に復活。これは教義のことを言っているのではなく、聖金曜日に復活徹夜祭の説教を書いたので、こう言ってみたのだが、復活の視点から様々な出来事を見直すと、違ったものが見えるかもしれない。
▼「不思議な大漁」という出来事が福音書には収められているが、共観福音書はこれを「漁師を弟子にする」出来事として採用しているが、ヨハネ福音書は復活した主が弟子に現れる一場面として描いている。復活した主の働きとして読み直すと、出来事は違ったことを教えてくれるということの表れだろう。
▼かなり前から気になっていた司祭間の寒さの問題。玄関を開けると夏でも冬でも司祭館内から玄関に向かって風が出ていく。これでは部屋が温まらないと会計さんを通して大工さんを呼んでもらった。大工さんは蚊取り線香の煙が流れるのを見ながら、主な原因を突き止めてくれた。
▼主な原因は、外から司祭間の床に入った空気が、床下から吹き上げて、それが玄関に流れているということだった。百周年の建物ゆえ、廊下など床板は隙間があって、そこからどうやら噴き上げているらしい。合板の床などは問題ないのだが、廊下はたしかに隙間がある。確かめることができたのはまず第一歩だ。
▼復活祭を迎えたのだから、お祝いをしよう。主の名を呼び、大いに喜びあおう。お魚で祝うか、肉で祝うか。賄さんが腕を振るってくれるに違いない。復活祭のごちそうって、なんだ?

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第544回目。献堂百周年ミサのパンフレット見本が届いた。中を確かめる。

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聖金曜日(ヨハ18:1-19:42)私たちもイエスを「あの人」「あの男」と呼んだ

2018-03-29 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/3/30(No.936)
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聖金曜日
(ヨハ18:1-19:42)
私たちもイエスを「あの人」「あの男」と呼んだ
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聖金曜日、主の受難を記念しています。マルコ福音書を解説した書物の中に、「思い起こし、物語れ」という本がありまして、上下二巻の書物で、合計一千頁ほどあります。「主の受難を記念する」という言い方に前から私は抵抗がありましたが、この本のタイトルのように、「思い起こし、物語る」ことが記念することの本質なのだと思いました。

さて、聖週間の連続した説教の中で、私が取り上げているテーマは「イエスをどのように呼ぶか」ということです。受難の主日、ピラトはイエスを「お前」と呼びました。聖木曜日、イエスを裏切ろうと決意したユダの引き金となった言葉として、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」という言葉を引用して、ユダがイエスを「あの男」と呼んだことに触れました。

今日、十字架の上でいのちをささげるイエスをペトロは「知らない」と言います。問い詰める人々が「あの人」と呼んだり「あの男」と呼んだりしてイエスの仲間だと追い詰める中で、直接は書かれていませんが、「あの人のことなど知らない」「あの男のことは知らない」と否定するのです。

イエスは孤立しています。イエスから遠い人が「お前」と呼ぶのは仕方がなくても、最も近い場所にいる弟子たちがイエスを「あの人」「あの男」と言い放っているのです。イエスを「先生」とか「主」とか呼ばなければならない人々がその呼び方でイエスから心が遠く離れてしまっていることがわかります。

こんな人のために十字架にかかる必要があるでしょうか。すべての人をご自分のもとに引き寄せるためでした。私たちが犯した大なり小なりの罪を、認めるためです。イエスから遠く離れている人のためにも、イエスのそば近くにいて心苦しくもイエスを知らないと言ってしまった人のためにも、すべての人をご自分のもとに引き寄せるために、イエスは十字架の上でいのちをささげるのです。

私たちは残念ながらイエスを「あの人」「あの男」と呼んだ者たちの仲間です。イエスの弟子が「あの男」と呼んだのでした。私たちも洗礼堅信を受けて、イエスの弟子となっています。「あの男」と呼び捨てた覚えはなくとも、ふだんの生活で誰かにイエスのことを「主」とか「イエス様」とかなかなか呼べない弱い存在です。

私たちはいつになったらふさわしい言葉でイエスを呼ぶことができるのでしょうか。それはイエスの復活を待つしかありません。復活したイエスが私たちを勇気づけ、ふさわしい呼び方をわたしの唇に授けてくださいます。復活のその時を待って、今日は静かに十字架を礼拝しましょう。

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‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭
(マコ16:1-7)
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ちょっとひとやすみ
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▼聖木曜日に聖金曜日の原稿を書いた。聖木曜日に聖金曜日の気分に切り替えて書く必要がある。そして数時間後には聖木曜日に復活徹夜祭の気分に切り替えて原稿を書く。この切り替えにエネルギーを消費すると言ったら信じてもらえるだろうか。
▼残念ながら信じてもらえないかもしれない。けれども自分の中では、聖木曜日の主の晩餐の席に立ち会い、聖金曜日の主の受難に立ち会い、その後に復活の場面を弟子たちとともに目撃しているつもりである。しかもほぼ一日で。だから私にとってはエネルギーを相当消費している。
▼復活祭を無事に迎えられたら、いったんネジを緩めたい。何か気分転換ができることを見つけて、頭の中を空っぽにして、それから次の大きな通過点である献堂百周年に向かうことにしよう。まずは釣りか。あるいは実家に帰らせてもらうか。実家に帰るのは間違いないが、実家では寝るだけで、ほとんどの時間前任地で釣りをするか。
▼まぁいずれにしても限られた器であるから、一度空っぽにしてそれから前に進みたいものだ。黙想会の時に痛いほど経験したが、説教師の接待やゆるしの秘跡のお手伝いの神父様の接待をしただけで疲れてしまった。たまたま土曜日に終わったが、土曜日は間髪入れずに受難の主日の典礼だった。
▼切り替える暇もなく、聖週間に突入した。だから今年は相当疲れた中で聖週間を迎えている。疲れているとろくなことがない。典礼の流れを間違えたり、大事なことを見落としたり、説教の録音をし忘れたり。
▼思い出したが、故郷鯛之浦教会での銀祝ミサの時、ICレコーダーを忘れてきてしまった。生涯悔やまれる出来事だった。年齢のせいにはしたくないが、きっと疲れていたのだと思う。

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今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第543回目。再掲。十字架を担う人が、軽やかに担うことができれば。宣教学。

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聖木曜日(ヨハ13:1-15)今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる

2018-03-29 | Weblog
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こうじ神父
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2018/3/29(No.935)
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聖木曜日
(ヨハ13:1-15)
今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる
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聖木曜日、主の晩餐を祝います。聖体の秘跡と、聖体を取り扱う司祭職の制定が聖木曜日の中心です。聖体は「与えられたキリスト」の姿を示します。「与えられたキリスト」の姿とはどういうことでしょう。

「与えられたキリスト」と言いましたが、それは権威を示す姿やゆるしをお与えになる姿ではなく、受け身の姿、司祭の手を通して信者に授けられ、ご自分からは動かない姿です。通常ご聖体は司祭によって授けられますが、聖体拝領の列にだれが連なっているか、司祭は完全には把握できません。

ご聖体のイエスは完全に把握しておられても、司祭が間違って授ければその人のもとに授けられていきます。そんな姿にまでへりくだってくださいました。見える形では弟子の足を洗う姿によく表れています。

イエスはこう言われました。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(13・7)。ここにはもはや言葉では説明できない、へりくだりの姿が示されているのです。

「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」(13・2)謙虚さとか、仕える者となるとか、そういう言葉では裏切ろうと考えているイスカリオテのユダの足をイエスが洗う姿は説明できません。

「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」(マタイ26・14)。ユダはこう言ってイエスを裏切ったのです。イエスは、最もそば近くにいながら、イエスのことに触れながら金をくれと言う人、金を要求する人の足を洗ったのです。謙虚さとか、仕える者とか、そういったありきたりの言葉を超越したへりくだりがここにはあるのです。

ご聖体は弟子たちの足を洗うこのイエスの姿なのです。だれが裏切り者であるかを完全に把握しているのに、司祭が授けるままになり、仮に司祭が間違った人に授けても、拝領した人の中に留まるのです。

「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13・15)司祭職は、互いに足を洗いあうことのようです。司祭の判断ミスで、ふさわしくない人にご聖体を授けてしまうかもしれません。イエスのそば近くに仕えていながら「幾らくれますか」と言う人にも、足を洗うために膝をかがめました。司祭も、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように」この模範に従うように招かれたのだとあらためて考えました。

裏切る人に膝をかがめるのはどんなに悔しいことでしょう。どんなにみじめなことでしょう。それら人間的な感情を超越して、イエスはへりくだったのです。ご聖体を取り扱う司祭職に招かれた司祭は、生涯、主の晩餐で示された模範を刻みつつ、悩みつつ生きていきます。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖金曜日
(ヨハ18:1-19:42)
‥‥‥†‥‥‥‥

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼イエス・キリストをどう呼ぶか。これが今年の聖週間から聖なる三日間までの説教の切り口となっている。ひょっとしたらそれを見抜いておられる読者もいるかもしれない。日曜日にはぼんやりとしたイメージだったが、月曜日にははっきりとそうなった。
▼いろんな具体化の方法があると思うが、頭の中にあることを言葉で言い表そうとしたときに今回の切り口がはっきりした。短い言葉で頭の中にあることを説明しようとしたことで、頭の中にあったことが明確になったのである。
▼多くのカトリック信者は聖週間もそれほど通常の日々と変わりなく暮らしているかもしれない。だが典礼を執り行う司祭は、本当に忙しい一週間である。そうでない司祭もいるかもしれないが、私は説教の切り替えのためにふだんの一週間の何倍も苦労する。
▼いわばそれは、司祭にとっての「死と復活」なのかもしれない。教会の中で一人くらいは「死と復活」をくぐる人がいてもよい。イエスが体験したことを体験して、教会家族に分かち合うのはそれなりに意味がある。だから司祭が、率先して「死と復活」を体験し、分かち合っているわけだ。
▼一週間に五つの説教を準備する。死ぬような思いだ。しかし四回目、五回目の説教は復活の説教である。復活の説教まで準備すれば、司祭も復活できる。毎年、少しずつでも自分なりの「死と復活」を経験して、それを教会全体で分かち合う。こうして教会は豊かになるのかもしれない。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第542回目。今は完全にノートパソコンで仕事。背景のデスクトップは動きが遅い

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受難の主日(マコ15:1-39)イエスを「お前」と呼ぶ人々

2018-03-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
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受難の主日(マコ15:1-39)イエスを「お前」と呼ぶ人々
‥‥‥†‥‥‥‥

受難の主日、聖週間が始まりました。私たちの主が成し遂げられる救いの御業を、最後まで見届け、復活の喜びを迎える大切な一週間としましょう。

黙想会に参加した皆さん、本当にご苦労様でした。私が依頼することのできる神父様の中で、いちばん真面目に黙想指導してくださる神父様をお願いしました。来年も中濱神父様でお願いしますという人がもしいたら、喜んでカレーを買って頼みに行きます。

本日の朗読個所は典礼暦B年なので、マルコによる福音書の受難の場面が朗読されました。与えられた朗読個所を見る限り、イエスに従う人々、イエスに同情する人々は誰一人登場しません。あえて、登場させていないのだと思います。そのことが、イエスが完全に見捨てられたということを強く印象付けます。

また、イエスを呼ぶ人々の呼び方も、だれもイエスに同情を寄せていないのです。その中で、いちばん特徴的なのはピラトがイエスを呼ぶときの「お前」という呼び方ではないでしょうか。「お前」という呼び方は、完全にイエスを見下している呼び方です。

さて、私たちはこの朗読個所を、どのように見ているのでしょうか。私たちは本日の朗読個所の、どこに立っているのでしょうか。いくつか示してみますので、自分がどれに当てはまるのか考えてみてください。

まず一つは、自分が本日の朗読個所で繰り広げられている舞台の目立つ場所に立っているのではないか、ということです。それはつまり、イエスに同情すら向けない人々の一味であり、声を出す機会が与えられれば自分もイエスに「お前」と呼び捨てにする。そういう立ち位置で朗読個所を見ているでしょうか。

二つ目は、私たちは全く本日の朗読個所で取り上げられた舞台に関わりのない人物でしょうか。つまり私が立つ位置はこの朗読個所のどこにもなく、存在すらしないと考えるでしょうか。本日の朗読個所で描かれた舞台と何の関係もなければ、それはそのまま、イエスとも何の関係もないことになります。

最後のケースは、私たちはイエスに従うつもりがあるけれども、恐怖のあまり体が動かず、遠くに立ってただ眺めているだけなのでしょうか。この場合、積極的にイエスを「お前」とののしることはしませんが、かといって命を懸けることもできない弱さの中で震えながら遠くからただ眺めているだけなのです。

きっと、私たちの立ち位置は、イエスに従うつもりはあるけれども、何もできないでいる弱くはかない存在で、遠くに立って眺めることしかできない。そんな貧しい人間なのではないでしょうか。ふだんどんなに威勢が良くても、ふだんどんな人の前に立っても動じないという人でも、四方八方敵だらけの中で渡り歩いている人でも、イエスの最後の場面ではだれもが弱く、ただ遠くから眺めるだけなのです。

いかに弱い人間か。いかに無力なことか。今は私たちは、そのことを認めるために今日このミサに参加しているのです。枝をいただいて、枝を振ればイエスの目に留まるかもしれません。けれども枝を振れば、私たちはイエスの仲間であり、イエスとともにはりつけにされるかもしれません。はりつけにはされたくないので結局枝を振ることなく降ろしてしまう。そんな弱さみじめさを味わって、今日は帰っていくのです。

「私は『お前』などと言うののしりの言葉は決してイエスさまに言わない。」そう思っているかもしれません。けれども私たちは、「お前」とは言わないけれども助けにも行けないのです。その弱さを担って、イエスはわたしたちを救ってくださいます。

聖木曜日から復活徹夜祭までの三日間、できるだけ典礼にあずかり、イエスの救いの御業を十分に学びましょう。助けることのできない私を助けてくださる主に信頼を寄せて、今日はそれぞれの生活に戻りましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖木曜日
(ヨハ13:1-15)
‥‥‥†‥‥‥‥

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼黙想会が無事に終わった。世の中の人は自分の体の痛みがある時に「痛い」と言わない人か、「痛い痛い」という人か、どちらかだと思うが、今年黙想会の説教師に呼んだ神父様は後者だと思った。
▼「ゴホゴホ。俺は最後まで務まらないかもしれない。」何度もそう言っておられた。司祭館で何度弱音を吐いていたか、だれも知らない。私はそれをなだめながら「最後までよろしくお願いしますよ。頼みますから」と尻を叩いて毎度の説教に送り出した。
▼結果はどうだったか。咳はしていたかもしれないが、元気そのもので熱気は聖堂から待機している司祭館まで届くくらいだった。「俺はダメかもしれない」そういう人に限って長く生きるとよく言ったものだが、あの先輩はその典型的な例だと思う。
▼それでも、それを割引しても、百周年を間近に控えた田平小教区の黙想会をお願いするのはこの先輩以外に思いつかなかった。それだけ固い説教、確実な説教をしてくれると思っていたからだ。
▼私のように何かに包んで「わかる人はわかってね。わからない人はわからなくてもいいよ」みたいな説教をしない。そこに目を付けたわけだから。黙想会の効果はどれくらいかかって現れるか分からないが、少なくとも、百周年の直前にねじを締めなおしてもらったことだけは間違いない。心から感謝したい。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第541回目。前回は記念ミサに使う1枚だったが、今回は記念カードの1枚。

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四旬節第5主日(ヨハ12:20-33)何かに死ぬことで豊かに実を結ぶ

2018-03-17 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2018/3/18(No.933)
‥‥‥†‥‥‥‥
四旬節第5主日
(ヨハ12:20-33)
何かに死ぬことで豊かに実を結ぶ
‥‥‥†‥‥‥‥

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(12・24)四旬節の最後の日曜日にあたり、イエスがはっきりとご自分の死を意識して語られた言葉に耳を傾けましょう。

使徒ヨハネ田邊徹神父様が亡くなられました。皆さんに大変申し訳なく、お詫びしたいのですが、亡くなられたのは3月5日、鹿児島の郡山司教様によって葬儀ミサが行われたのは3月8日です。今日ですでに10日も経過しています。じつは私が回覧されてきたFAXを見落としたのです。

月曜日は決まってお休みをいただいているので、まったくFAXで緊急連絡が入ることは頭にありませんでした。一か月以上前から、数週にわたって田邊神父様の容態が悪いのでお祈りしてほしいと信徒の皆さんに願っていたところだったのに、こんなことになって大変申し訳なく、心が痛みます。鹿児島の教区本部にはお詫びの手紙を送りましたが、せめて田平教会のほうでも、鹿児島教区の始まりのころから尽力してくださった神父様のために、ミサをささげ、祈りたいと思っています。

今週の朗読で、イエスは次のように言われます。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」(12・27-28)イエスが「この時のために来たのだ」と言われるのは、「十字架を通して救いの計画を完成される時」のことです。救いの計画が完成されるその時のために、神の計画は人類が罪を犯して救いの状態を失った最初の時から始まっていたのです。

考えてみればわたしたちも、「この時のためにあった」という体験を持っています。私が言うまでもないことですが、お産を間近に控えた女性は、赤ちゃんが産声を上げるその時のために、すべての産みの苦しみをささげるのです。またある人は、だれにも評価されないような地道な研究を積み重ね、ある日人々があっと驚くような、称賛を受けるような成果にたどり着くことがあります。最後にすばらしい結果が待っている人にとっては、「すべてはこの時のためにあったのだ」と、過去を振り返り、神に感謝することができます。

3月17日は中田神父の叙階記念日でした。島本要大司教様から司祭叙階のお恵みを受けました。今年の17日は26年目が始まった日でした。叙階式の時、瞬間的には「これまでの歩みは、この日のためにあったのだ」と思いましたが、司祭生活はここから始まるわけですから、叙階式のその日がゴールではありません。

むしろその日から、イエスが歩んだ「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」これと「わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」この両方を胸に刻んで歩き続けることになります。

司祭が一粒の麦として死ぬとはどういうことかと考えることがあります。25年過ぎてみると、結婚しないということが、司祭にとって一粒の麦として死ぬことかなぁと思うようになりました。結婚すると、家族を持ち、子や孫の顔を見ることができたかもしれません。ただ、結婚した夫婦が子や孫の顔を見るといっても、せいぜいそれは十数人、多くても30人くらいではないでしょうか。

司祭は違います。司祭は洗礼を授け、ゆるしの秘跡の恵みを与えます。洗礼は人を神の子として新たに儲けることです。地上での子を儲けませんが、天の国の子を儲けるので、多くの実を結ぶのです。数えたことはありませんが、これまでに百人くらいは洗礼を授けたのではないでしょうか。

ゆるしの秘跡は、「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」(ルカ15・32)秘跡です。何年もゆるしの秘跡から遠ざかっていた人が、黙想会などで現れることがあります。洗礼の秘跡と同じくらい、もしかしたらそれ以上に、多くの実を結ぶ機会ではないかなぁと思います。司祭は一つの生き方である結婚には死にますが、死んだことで、天の国のために多くの実を結ぶのだと思います。

こうした恵みを体験するためには、ある程度の時間が必要です。司祭に叙階されたその日に、百人の洗礼を授けるのは不可能ですし、長らく許しの秘跡から遠ざかっていた人に出会うこともできません。長い時間をかけながら、「一粒の麦は、(中略)死ねば、多くの実を結ぶ。」「わたしはまさにこの時のために来た」これら二つのイエスの言葉に出会うことができるのだと思います。

実際に、「私はこの時のために来た」という時があったか?と問われると、はっきり分かりません。病者の塗油を授けて、死の淵から帰ってきた人を見た時にも「私は司祭になってよかった」と思いましたし、余命宣告を受けたカトリックの妻のために、自分がカトリックになり、カトリックの婚姻の秘跡を受けた時にも「司祭になってよかったなぁ」と思いました。もちろんここ田平教会の献堂百周年記念に、中田藤吉神父様の縁者として赴任していることにも深い喜びを覚えています。

みなさんは、「一粒の麦として死ぬ」「豊かに実を結ぶ」そう確信できる体験をお持ちでしょうか。何かに死ななければ、何かを極めることはできません。何かを極めた時、「いろんなことに死んだけれども、豊かに実を結んだ。私の選んだ道は素晴らしかった」思うことができるでしょう。イエスが先頭に立って歩まれた道は、私たちにも豊かな実りをもたらしてくれる道なのです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
受難の主日
(マコ15:1-39)
‥‥‥†‥‥‥‥

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼百周年の記念誌も、いよいよ大詰めになってきた。大量の文書、写真、目を通すのも大変だが、委員の皆さんがよくやってくれている。ありがたいことだ。この一年で、多くの信徒が教会の節目をより強く感じ、責任も担ってくれた。神の民の成長を見ることができた。
▼数日前に「一粒の麦が死ねば、多くの実を結ぶ」このみことばを何とか伝えられないだろうかと考えていた。何がきっかけで説教案をまとめることができたのか思い出せないが、田平教会に来たから、考えがまとまったのだと思う。「まさにこの時のために、私は来たのである。」
▼黙想会がいよいよ近づいている。説教師はご自分の教会を務め終えたばかりで本当にご苦労だと思う。自分が赴任している教会とはまた雰囲気も違うだろうから、どうか心置きなく話してほしい。私との因縁の話をなさるだろうと予測されるのだが、聞いてみたい気もするし、恐ろしくて聞けない気もする。そこはお手柔らかに。
▼考えられないようなことをすることが最近多くなってきた。この前も、口を開けたままパソコンに向かって眠っていた。服は汚れ、なんとも見苦しい格好になっていた。父親を看取るしばらくの間に、口元を拭いてあげたりしたのを思い出した。格好悪いけれども、いつかは誰かにそんな場面を見られるのだろうし、その時にはお世話になる覚悟も必要だ。
▼多くの実を結ぶ生き方に招かれた。せっかく招かれたのだから、多くの実を結ばなければ責任を問われる。まだ洗礼を受ける可能性のある人は田平小教区にも残っている。その人たちが心を打ち明けてくれるその日のために、人を引き寄せる魅力的な人、人を引き寄せる司祭館であり続けたい。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第540回目。夕映えの墓地。ここに眠る人々も、田平教会の大切な人である。

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四旬節第4主日(ヨハ3:14-21)イエスの声を聞く人になろう

2018-03-10 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2018/3/11(No.932)
‥‥‥†‥‥‥‥
四旬節第4主日
(ヨハ3:14-21)
イエスの声を聞く人になろう
‥‥‥†‥‥‥‥

今週四旬節第4主日B年は、福音朗読から「声を聞く」ということについて考えてみたいと思います。初めは私がかつてお仕えした川添神父様の遺作となった著書「やぶ椿」を材料にして、後半は与えられた福音朗読から、「声を聞く」努力をしてみましょう。

川添神父様の遺作「やぶ椿」を読みました。一気に読み終えました。俳句を切り口に、カトリック信者の生き方を示してくれた本だと理解しました。ミサのお知らせで「手に取ってみてください」と呼びかけておりますが、なかなか、個人的なお付き合いのあった神父様の本を強く推すことができなかったのですが、実際に読みましたので、客観的に中身を紹介できます。

川添神父様は上五島の桐教会出身です。私も、上五島に生まれたので、川添神父様が五島の景色を俳句で読んだものは、とても印象深く、自分の生まれ故郷の話として身近に感じることができました。その中で、ふるさと桐を訪ねた時に詠んだ俳句「道消えて家朽ちて島やぶ椿」が心を打ちました。

この句は、本のタイトル「やぶ椿」のもとになった俳句だと思います。見開きのページで右頁にこの句が、左頁に説明文が載せられています。私の故郷の鯛之浦でも、道が消えていく、家が朽ちていくさまを間近に見ていますので、信仰の故郷が限界集落となって信仰の灯が消えていくのではないかと心を痛めているのだろうと感じました。

その中で、島のやぶ椿は、ひっそりと花を咲かせている。繁栄したものでも、消え去っていく日は来るわけですが、変わらずに存在するものがある。その変わらずに存在するお方を、やぶ椿で切り取っているのではないかと思いました。私は桐の出身でもないし、桐教会に赴任したこともないですが、あたかも私の故郷の景色を詠んでくれた俳句のように思えて、とても身近に感じました。

さらにもう一つ、私はこの川添神父様に、叙階して最初の五年間、ご指導いただいたのでした。浦上教会に配置されて、右も左も分からない中で、叱られたり諭されたりしながら、すべてを教えていただきました。ですから今でも、川添神父様の声が聞こえるのです。

私には、遺作となった「やぶ椿」を読みながら、神父様の声が聞こえてきました。本を読むとき、声に出して、音に置き換えて読むと思いますすが、たいていは自分の声で読んでいるでしょう。しかしある場合、はっきり誰かの声を浮かび上がらせて読むことがあります。今回の「やぶ椿」は、はっきり川添神父様の声で読み終えることができました。

福音朗読に移りましょう。与えられた朗読個所は、一般的には「イエスとニコデモの対話」として理解されている箇所です。ただ、ここでイエスはご自分のことを「独り子」とか「光」とか呼んでいます。こうした呼び方は、当時のイエスが好んで用いていた呼び方ではなく、「ヨハネ福音書が読まれていた時代の信仰共同体」がイエスを指して呼ぶときにこのように呼んでいたのでした。

ですから、今日の箇所は、当時のイエスの語りを書き取ったというよりは、「ヨハネ福音書が読まれていた時代の信仰共同体がもっていた信仰理解を、イエスの言葉に託している」と考えるとよいと思います。彼らはイエスの言葉を、「迫害のさなかにある自分たちを強め、励ましてくれている」と理解したでしょう。イエスの生の声を聞いたことはないけれども、各自自分の声でヨハネ福音書を読んでいるのではなく、朗読から生き生きとイエスの声が聞こえていたのではないでしょうか。

朗読から生き生きとイエスの声が聞こえる。わたしたちも同じ体験をしたいと思います。日曜日のミサで福音朗読を聞くとき、実際には中田神父の声しか聞こえていないかもしれません。ですがよくよく耳を澄ますと、いつか私の朗読を通してイエスの声が聞こえるようになると思います。

私は、あえて抑揚をつけないように、淡々と朗読することを心がけています。登場人物が増えてくるといろいろ声を変えたりして読む方法もあると思いますが、かえってそれは、何かの固定観念を与えるのではないかと思っています。司祭は男性ですが、朗読個所によっては女性が登場することもあります。そこでわざわざ女性の声を作ったりすれば、変な思い込みを与えてしまうのではないでしょうか。

ある教会で、マタイ福音書の受難朗読の時に男性がピラトの妻の部分を声を変えて朗読したのです。「一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。『あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。』」(27・19)これをわざわざ女性の声をまねて私が朗読したら、皆さんは想像を膨らませてしまうでしょうし、少なくともスムーズに内容に入り込めないのではないでしょうか。

ですから、私は朗読はしますが、私の声がイエスの声をかき消してはいけないと思っています。私の声はいつの間にか消えてしまい、イエスの声が聞こえるように、そういう思いで朗読をしているつもりです。その人なりのイエスの声が聞こえるようになれば、朗読はもっと意味のあるものになり、お一人お一人を照らすようになると思います。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(3・16)とあります。四旬節第一日曜日に話しましたが、必要なものを与えてくださるのが神です。世を愛してくださっていることをどんな方法よりも理解できるように、独り子を与えてくださいました。この思いがよく伝わるように、私も朗読を心がけていますし、朗読を聞く皆さんも、御父の思いを語っておられるイエスの言葉が聞こえてほしいなと強く思います。

日曜日の朗読に限らず、ご家庭に聖書と典礼を持ち帰って福音朗読を読んでみてください。朗読した時、あなたの耳と心に、どんな声が聞こえたでしょうか。やはり、あなたの声しか聞こえないでしょうか。イエスが私に語りかけている。福音朗読を極めた時、わたしたちは時代を超えてイエスの声を聞く人になるのだと思います。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
四旬節第5主日
(ヨハ12:20-33)
‥‥‥†‥‥‥‥

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼神学院時代、年に一度謝恩会のようなものがあり、学生たちはラテン語科、哲学科、神学科に分かれて劇を上演していた。上級生の劇は、常に教授たちやシスターたち、下級生たちをうならせていたものだ。私も恥ずかしながら、主演女優を7年間務め、役作りについては全く知らないわけではない。
▼当時は、主演女優であるから、女優の声を想像しながら演じていた。当時の写真などを見ていると、恥ずかしさで穴があったら入りたいくらいだが、一方でこの時代に身につけたことを今は心の中で生かしつつ、福音朗読を果たすことができる。大変貴重な時間だったと思う。
▼聖書の朗読に限らない。聖歌を歌うとき、たとえば「神はわたしを救われる。そのいつくしみをたたえよう」という聖歌を歌うとしよう。「神はわたしを救われる」と歌いながら、「実際はどうか分からないけどね~」と思っているなら、その歌声は何を歌い、何が聞こえてくるだろうか。むなしい歌声になるに違いない。
▼だが、現実には「この人はどんな思いで朗読しているのだろうか」と疑問に思う朗読もある。「だれに語りかけているのですか?」「あなたの朗読をだれか聞いてくれているのでしょうか?」とつい思ってしまうことがある。いちばんそば近くで、ミサをささげる司祭が朗読を聞いている。朗読者の声が、いちばん近くで聞いている司祭の心を打たないなら、どうしてその朗読が会衆の心を打つだろう。
▼ピラトの妻の部分を朗読したと例に出したあの時の朗読は今も私の耳に、記憶に残っている。ぜひ誰か、ピラトの妻の場面にすんなり入れる朗読を読んでくださり、私の記憶を書き換えてほしいと願うのである。

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今週の1枚
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第539回目。今年野球観戦はほぼ見込みなし。その中で貴重なオープン戦。

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四旬節第3主日(ヨハ2:13-25)まことの礼拝を危うくする私心を運び出す

2018-03-03 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/3/4(No.931)
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四旬節第3主日
(ヨハ2:13-25)
まことの礼拝を危うくする私心を運び出す
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四旬節第3主日はしばしば「サマリアの女」という、いのちの水についてイエスとサマリア人の女性が対話する場面が読まれますが、典礼の暦がB年の今年は「神殿から商人を追い出す」場面が朗読されました。与えられた朗読に沿って、学びを得ることにしましょう。

3月2日は個人的に楽しみが待っている日でした。3月12日の誕生日ではありません。この日はプロ野球の公式戦チケットの予約販売が開始される日でして、指折り数えて待っておりました。皆さんが「早く暖かくならないかなぁ。春にならないかなぁ」と思うのと同じくらい、待ちに待った日でした。

3月2日のその日は午前10時から発売開始になっていましたので、初金曜日の病人訪問の途中でしたが、病人訪問もそこそこに、スマートホンでチケット予約窓口を開いたわけです。ところがわたしと同じように予約を入れようとする人が殺到して、予約サイトはパンクしていました。

1時間待っても2時間待っても予約に入れませんで、3時間後にようやく窓口が開いたのですが、なんとその時点でほぼすべてのチケットが予約完売していたのです。わたしも周囲があきれるほどのカープファンですが、土曜や日曜は観戦に行けないので、どうしてもその他の日程を探す必要があります。

可能性があるのは振替休日の月曜日か、中学生のけいこを「腹が痛い」と嘘を言って金曜日に行くか、どちらかです。振替休日でしかも本拠地開催は4月30日と9月24日でしたが、なんと9月24日も、チケットはありませんでした。わたしの中で、今年のプロ野球観戦ツアーはこれですべて潰えてしまいました。

かつて慶応大学の学生だった時に後楽園球場付近で「お兄ちゃんチケットあるよ。内野指定席8千円。どう?」と声をかける人たちがいました。たぶん正規のチケットを3倍くらいの値段で売ろうとしていたのを思い出します。

こうなったら、わたしもチケット持たずに本拠地に行って、3倍に吊り上がったチケットを買って球場に入ろうかと思っているところです。4月30日が取れないのは仕方ないとしても、いくらなんでも9月24日がチケット販売開始初日の数時間で完売するというのは困るなぁと思いました。

福音朗読に入りましょう。神殿では牛や羊や鳩を売っていました。両替屋さんもありました。当時の神殿礼拝でどうして牛や羊や鳩が売っていたのか、両替屋さんがあったのか、今回は話を聞くだけではなく、話して聞かせることができるようになってください。

念を押しておきますが、わたしたちはだれもが「宣教者」になる必要があって、この聖堂は話を聞いて、話して聞かせることができるようになるための「宣教の拠点」なのです。「へぇ」と言うだけで、人に話して聞かせることができるよう持ち帰らなければ「絵に描いた餅」になってしまいます。ここで聞いたことのうち1つでも2つでも、話して聞かせることができるようになってください。

そこで神殿礼拝の話ですが、当時の神殿では、いけにえをささげることが礼拝の中心でした。お金持ちは大きな動物を、一般の人は中型の動物を、貧しい人は小さな動物を持ち込んで祭司に渡し、祭司がそれを屠っていけにえにしていたのです。

礼拝にやって来た人々が立ち会えるのは祭司に動物を渡すところまでです。その動物をいけにえにするのは祭司の務めだったので、簡単に言うと礼拝に来た人々は動物を祭司に渡せば、礼拝は終わりで、あとはそれぞれ祈って帰っていたわけです。

動物は自分たちで持ち込むことができました。しかし、いけにえにささげることができるのは傷のない動物でした。いろいろの決まりごとに合格できる動物をだれもが用意できるはずもなく、そこで商売の余地が出てきます。

「いけにえ用に合格した牛はいらんかね~いけにえ認証マークを受けた羊はいらんかね~。」「遠方からですか?うちはお隣よりも安くしますよ。隣の値段を聞いてきてください。それより安くで売りますよ。」現状ではそんな甘い誘いが神殿の中で飛び交っていたのでした。

さらに問題をこじらせていたのは神殿専用のお金でした。神殿は特別な場所だから、いけにえの動物を買うためにはユダヤを支配しているローマの貨幣は使えないと言うのです。そこで日常生活で使っているデナリオン銀貨を、神殿専用の貨幣に交換する必要があります。

「お客さん。うちのレートは隣よりも条件がいいから、うちで両替しませんか?今ならお得だよ。」両替商も神殿に巣くって甘い汁を吸っていました。当然イエスは、礼拝に来る人の弱みに付け込んで動物を売り、両替をする商売人たちを一掃しようとしたのです。ここまでの話は、人に話して聞かせることができるでしょうか。ここからは、どんな学びを得るかです。ですから一人ひとり当てはめて、自分の言葉で言う必要があります。

「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(2・16)そもそも動物を買い求めて祭司に渡せば、巡礼者が礼拝を果たしたことになるという仕組みそのものを、イエスは神殿から運び出してほしかったのです。この時から、まことの礼拝が始まる。まことの礼拝はイエス・キリストを通して行われるのです。

金曜日に、保育園の主任と一緒に年長さん2人が初聖体の準備をしていました。「日曜日が楽しみですね」とわたしが話しかけたら、「神父さまも日曜日まで元気でいてください」と言われました。イエスさまをいただく子供たちの真心を、受け取ったような感じがしました。神殿で、現代は聖堂で、やり取りされるべきは神さまに対する真心だと思います。

「真心のやり取り。」その最上のものはイエス・キリストです。神さまはわたしたちにイエス・キリストを与えてくださり、わたしたちは御父にイエス・キリストを通して礼拝をささげます。まことの礼拝は「キリストによってキリストとともにキリストのうちに」なのです。キリストがおいでになったことで、まことの礼拝が始まりました。

まことの礼拝に妨げとなるものを運び出しましょう。「イエス・キリストを受け、イエス・キリストを通して真心をおささげする」この原則を不確かなものにしてはいけません。イエス・キリストを受けるための心の部屋は、掃き清められているでしょうか。

この世のものがそこら中に散らかっている部屋ではいけないのです。イエス・キリストを通して御父におささげするわたしの心は、曇りのないものでしょうか。だれかに反感を持ったままだったり、だれかに見られたいという余計な思いが満ちていないでしょうか。

今日初聖体を受ける2名の子供たちをわたしたちは見守ります。イエスさまを全身で受け止め、全身で祈りを父なる神におささげする姿は、「このようなものはここから運び出せ」と言われるイエスに素直に従う姿です。わたしたちも生活の組み立て方を教わりながら、歩んでいきたいと思います。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
四旬節第4主日
(ヨハ3:14-21)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼2週連続で金曜日に通夜、土曜日に葬儀ミサとなった。土曜日の葬儀ミサは正直ヘトヘトになる。大司教様も土日はヘトヘトになるくらい忙しいのだろうと思うと、お体が心配である。52歳に間もなくなろうとしているが、大司教様はそれ以上だ。本当にご苦労様である。
▼少し暖かくなってきた。春の兆しは釣りへのお誘いだ。九州では「サクラ鯛」とか「上り鯛」と言ってこの季節を楽しみに待っている。冬の水温低下でじっとしていた鯛が、水温上昇とともに活発になる。「荒食い」とも言われる旺盛な食欲で餌を捉えようとするわけだ。
▼たいていこの時期に鯛釣りを覚えた人は、「鯛は簡単に釣れる魚」と思っている。実際この時期は面白いように釣れるので、そう勘違いしても不思議ではない。だが実際の鯛はかなり警戒心が強く、春に簡単に釣ったから年中簡単に釣れるかというとそうでもないのだ。
▼そういう駆け引きを、ようやくできるようになった。問題は釣りのための「時間と都合」である。時間があっても都合がつかない。今すぐ行きたくても時間がない。なかなか時間と都合が合致しないので、困ったものである。
▼これから送り出す高齢女性の家族に見覚えのあるシスターがいた。なんと滑石教会時代に幼稚園の主任だったシスターである。20年近く時が過ぎて、シスターのお母さんの教会に赴任し、見送ることになった。巡りあわせとは言え何とも不思議なものだ。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第538回目。IDとパスワードがあっても、チケット完売では何にもならない。

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