こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

四旬節第2主日(マコ9:2-10)この世のどんなものも及ばない白さ

2018-02-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/2/25(No.930)
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四旬節第2主日
(マコ9:2-10)
この世のどんなものも及ばない白さ
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四旬節第2主日です。B年ですのでマルコ福音書からですが、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」(9・2-3)とあります。この場面を何度も考えてきたわけですが、違う切り口から考えることができそうだと思い、今年の学びとしたいと思います。

久しぶりの韓国語です。動詞で、「~を好む」は韓国語で「チョアハダ」と言います。反対に、「~を嫌う」は「シロハダ」と言います。初めてこの単語を勉強した時、おやっ?と思いました。「~を嫌う」が「シロハダ」だなんて。わたしはどちらかと言うと「シロハダ」は好みだがなぁ、と思ったのです。

この冗談はもちろん韓国人には通用しません。日本語をよく理解できる韓国人なら、通用するかもしれません。50歳の手習いで韓国語を学び始めたので、まぁこれくらいの語呂合わせは許してください。韓国の巡礼者と二言三言会話するのはもう少しかかりそうで、つい韓国語を思い出すよりは英語であいさつするほうが楽なので、なかなか韓国語も上達しません。

福音朗読に戻りましょう。「服は真っ白に輝き」ここに注目してみると、「服の白さ」とか、「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」とか、「白さ」にこだわっています。しかし、この世の白さですと、 完全なものなど何一つないと思います。それなのにここでは、この世のものでない、完全な白さに言及しているのです。

そこで、この世のものでない白さとはどのようなものか、考えてみました。わたしは黙示録のある一節を思い出しました。「長老はまた、わたしに言った。『彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。』」(黙示録7・14)小羊の血で洗って白くした。

ここに、この世のものではない白さを考えるヒントがあるのではないでしょうか。イエスの姿が変わった場面にモーセとエリヤが現れます。ほかの福音書から補うと、「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(ルカ9・31)とあります。イエスの死と、イエスの姿が変わることを結びつけるのに十分だと思います。

すると、イエスがまとわれたこの世のものではない白さは、黙示録で「小羊の血」と表現されたイエスの死のことではないでしょうか。イエスの死が、この世のものを白くする。しかも、この世のものでは表現できない白さにする、ということです。

わたしたちは、白さについてどこまでこだわりがあるでしょうか。この世のものではない白さに、関心があるでしょうか。むしろ、白さなどどうでもよいと思っていないでしょうか。時間の経過とともに、この世のものは白さを保てなくなるのはある程度仕方のないことかもしれません。

「白さ」は物の白さだけでなく、心の白さ、心の清さについても当てはまります。時間の経過とともに、一切妥協しなかったことにも妥協するようになり、正しいものを正しいと認める潔さも失われ、居心地の良さや快適さを心の白さよりも優先している。こんな状態になっていないでしょうか。

そんなわたしたちに、イエスは道を示します。あなたが白さを保ちたいなら、それもこの世のものではない白さを保ちたいなら、わたしに近づきなさい。自分自身を白く保つためには、血を流して人類を白くするわたしに近づかなければならない。イエスはそう言っているのだと思います。

小さい頃はまじめに教会に行き、朝夕の祈りもよく唱えていたかもしれません。その時心は白かったはずです。今その白さを保つためには、努力して、イエスに近づき、触れる必要があるのです。イエスから自分を遠ざける理由はいくらでもありますが、イエスに触れなければ、小羊の血で洗ってもらわなければ、わたしたちはこの世のものでない白さを手に入れることができないのです。

「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」この世のどんなものも、わたしたちをこの世のものではない白さに導くことはできません。イエスに触れ、イエスの血によって白くされることを願い求めましょう。祈ること。ミサにあずかること。聖体を拝領すること。わたしたちがイエスに触れて白くしてもらうことのできる身近な手段です。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日
(ヨハ2:13-25)
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ちょっとひとやすみ
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▼ものすごく長い一日だった。朝6時のミサ、音訳図書を利用する人々に届くする15分間の宗教講話(これは会員のために毎週用意する朝礼動画とは別)、教会が毎月発行する「瀬戸山の風」に提出する主任司祭の原稿提出。
▼11時の葬儀ミサ、午後から説教を練り始め、午後3時過ぎに納骨、そしてまた説教づくり。結局短めになってしまったが、ようやく説教案を書き上げて夜7時のミサ。ミサ後、夜8時からはメルマガ配信、ミサの録音の編集とアップロード。目が回りそうだった。
▼ちょっと葬式の話を紹介。故人は黙想会や日曜日のミサに出席しては、家に戻ってさっそく母親と黙想会の説教でこんな話をしていた、こんなところに共感したと話してくれていたそうだ。その中で、とても慰められた話があった。
▼「神父さんは小学生の時の過ちを包み隠さず話してくれた。神父になった人が、過去をあそこまで赤裸々に打ち明ける必要はないだろうし、そうする人も聞いたことがない。感心な神父さんだ。」心を打たれた。この話を切り口に、葬儀ミサの説教をしようと考えた。
▼葬儀ミサ。わたしはあえて「すべての民族を裁く」(マタイ25・31-40)選んで朗読し、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(25・35-36)に触れてこう話した。
▼「個人はまことの食べ物、まことの飲み物、まことの着る物を求めて教会のミサや黙想会においでになり、わたしはたまたま主任司祭として、まことの食べ物飲み物を提供し、まことの着る物をお着せしました。故人は今、神のもとで、『わたしはまことの食べ物飲み物を与えてもらったことがあります』と証言しているのではないでしょうか。
▼与えた側だけではなく、受けた側も証言ができる。与えた側だけが救われて、受けた側が救われないはずがない。きっと救ってくださると信じている。そういう話をした。わたしは旅立っていく人のどこか神に取り上げてもらえそうな点を見つけて、証言するのが使命だと思っている。

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今週の1枚
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第537回目。堅信を受けた子供たちは、自覚をもって教会に来る。本物目指せ。

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四旬節第1主日(マコ1:12-15)神の「試練」を恐れるな

2018-02-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/2/18(No.929)
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四旬節第1主日
(マコ1:12-15)
神の「試練」を恐れるな
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四旬節に入りました。イエスさまが十字架の上で亡くなって、三日目に復活する大切な出来事をこれから四十日にわたって準備していきます。毎週ミサに参加して、イエスさまの死と、復活を確かめるための段階を確実に積み重ねていきましょう。

中学生の皆さん、いよいよ堅信の秘跡を受ける日がやってきました。堅信の秘跡は、洗礼の秘跡で受けた信仰を、はっきりと人々に証明する、証言するために聖霊のたまものを受ける秘跡です。大人の信者にしてもらう秘跡と言ったりもします。神父さまが考える本物の大人のカトリック信者についても後で話したいと思います。

まず今週の福音朗読から始めましょう。「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」(1・13)とあります。きっと四十日間、休みなくサタンから誘惑を受けられたのだと思います。一日三十分、それが四十日間続いたという意味ではないと思います。二十四時間ずっとサタンの誘惑を受け、それが四十日続いたのだと思います。

それほど長く激しい誘惑に、イエスさまはなぜ打ち勝つことができたのでしょうか。イエスさまが神さまだったからでしょうか?イエスさまが誘惑を受けられたのは、わたしたちに模範を示すためです。神さまとして誘惑に打ち勝ったのでは、わたしたちの模範になりません。わたしたちは神さまとして模範を示されても、真似できないからです。

イエスさまは人として、誘惑に打ち勝ったのです。人として模範を示してくれたのなら、わたしたちは見倣うことができます。ちょうど今はオリンピックの時期ですが、金メダルを取った人が指導してくれたりアドバイスをくれたりしたらそれはお手本になりますが、もし神さまがわたしたちに、「フィギュアスケートの10回転はこうするんだよ」とお手本を示されても真似できないのです。

イエスさまは人として、誘惑に打ち勝つ姿を見せてくれました。ポイントはどこでしょうか。「誘惑」と日本語に訳した言葉は、元のことばに近い日本語では「試」この漢字に当てはまります。2つの読み方ができますね。1つは、「こころみ」です。「試みに遭わせる」というのが「誘惑」です。

「試」この漢字はもう1つの読み方もできますね。「試練」ということです。「試練」であれば人はそこから多くのことを学んで、成長し、より強くなることができます。イエスさまがサタンの誘惑を受けていた間、野獣と天使がそばにいます。野獣は、「試み」を表し、天使は「試練」を表しています。

サタンの誘惑を「試み」と受け止めてしまえば、野獣にかみ殺されてしまうことでしょう。けれども同じ誘惑を「試練」と受け止めれば、これまでよりも多くを学び、より強い人となって、四十日後にイエスさまが神の国の宣教に出かけて行ったように、試練を乗り越えて強くなった皆さんは、自分の信仰を表に出せるようになるのです。

イエスさまが示してくれた人としての模範はこうです。「サタンの誘惑を、試練として受け止めるなら、試練はあなたを強くしてくれます。」堅信の秘跡を受けたなら、試練と正面から向き合い、聖霊の七つのたまものに助けられながら試練を乗り越えて、洗礼を受けたカトリック信者としてより強くなってほしいと思います。

実際、同じことが「試み」にも「試練」にもなるものです。今、中学生は学期末試験の真っ最中でしょう。神父さまも経験がありますが、試験勉強をしていると眠たくなったりします。「眠気」は「試み」でしょうか、「試練」でしょうか。「あー眠くなった。もうあきらめよう。」そう思った人は「眠気」を「試み」と受け取ったわけです。

「うー眠い。でも今寝てしまったら後悔する。力を出し切るために、納得できるところまで頑張ろう。」こんな受け止め方をした人は、「眠気」を「試練」と受け止めた人なのです。同じことが、ある人には「試み」になってその人をダメにするし、ある人には「試練」になってその人を成長させます。

堅信で注いでもらう聖霊の七つのたまものは、「試」この漢字を「試み」ではなく「試練」に変えて、あなたを成長させてくれます。七つのたまものをもう一度思い出しましょう。「知恵」「理解」「判断」「勇気」「神を知る恵み」「神を愛する恵み」「神を敬う心」でした。どれも、目の前にある同じものを「試み」ではなく「試練」に変えて、あなたを成長させ、強くしてくれるのです。

最後に、中田神父が考える「大人のカトリック信者」を示したいと思います。世の中に「大人」はたくさんいます。皆さんより後ろに座っている人は、きっと皆「大人」でしょう。けれども、その大人たちの中には、「試」に出会うと、それを「試み」に受け取ってしまって負けてしまう大人も結構いるのです。

サタンは「試み」しか与えることができません。サタンは人間を成長させるものを何も与えることができないのです。「試」この出来事を巧みに「試み」に変えて、次々と人をダメにしていきます。

神は「試み」を与えません。反対に「試練」を与えて、常に人を成長させ、強くしてくださるのです。「神さまは、目の前にあるこの出来事『試』を『試練』に変えてわたしを成長させ、強めてくださる。」こんなふうに考える人こそ、中田神父が考える「大人のカトリック信者」です。

堅信の秘跡を受けて大人の信者になっても、「試」は次々とやってきます。仕事がうまくいかなかったり、自分の考えをわかってもらえなかったりすることは数えきれないのです。けれどもこれらを、「これは試練だ。神さまはきっとこの試練を通して、成長させ、強めてくださる」と考えることができる人だけが、本物の大人です。

堅信の秘跡で本物の大人、本物のカトリック信者にしていただけるように、このミサと堅信式のミサの中で心から願い求めましょう。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第2主日
(マコ9:2-10)
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ちょっとひとやすみ
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▼皆さんにお祈りいただいたおかげだろうか。病者の塗油の秘跡を授けたおばあちゃんは、その後も病院での入院生活だがひとまずの危機は脱したようだ。神が定めた時はだれにも分からない。毎日神に自分をゆだね、明日を思い煩わないで生きようではないか。
▼話変わるが、司祭生活25年の中でまともにぶつかってまともに言い返された経験が3度ある。1度目は結婚準備の勉強会を引き受けたカップルが頻繁に勉強会を休むので、このままでは結婚式を引き受けられなくなると本人に伝えたら、男性側の父親から電話できついことを言われた。
▼「前の神父が長男の結婚を引き受けてくれた時は簡単に勉強会を済ませてくれたぞ。お前はそれでも神父か?」全く受け入れられなかったが、念のため父親の家を訪ね、もう一度勉強会の大切さを説明した。家を訪ねて初めて知ったが、その家は布団屋さんで、中学1年生で神学校に入学したときにお世話になった店だった。
▼2回目は、ある離島でのこと。人からミニトマトを提供してもらった。その人が「キンカンが手に入ったので、どうぞ食べてください」と言う。どう考えても黄色いミニトマトだったが、本人には「キンカン」らしい。わたしは言った。「食べるまでもなく、これはミニトマトだよね」
▼その人はむきになって「何を言ってるんですか。これはキンカンです。昨日わたしは家で何個か食べたのですから。」「じゃあますます、トマトだよね。わたしの実家は裏庭にキンカンが植えてあったから、間違いようがない。キンカンだと言うあなた、病院に行って診察してもらったら?」
▼これには相当頭に来たらしく、「わたしを侮辱するのですね。お前が病院に行きなさい!」と言い返された。しかたなくその人に果物ナイフでミニトマトを半分に割ってもらい、目の前で食してもらった。そこでようやく「すみませんでした。これはトマトですね」と認めてくれた。
▼3度目はついこの前である。主任司祭として、場合によっては強く言って、事の重大さを理解させるために出た行動の顛末。ある人に電話をかけ、語気を強めて「司祭館に来てください。すぐに来てください」と言った。その人は何か言っていたが、それを遮って「すぐに、今、来なさい!」と言った。
▼するとその人は、わたしにとって生涯忘れない言葉を返してきた。年下の者から話を遮られた上に強い口調で命令された年配者が、堪忍袋の緒が切れて吐く言葉である。想像に任せるが、わたしは最終的にこう思った。「この人は育てたい。」つまり、主任司祭が強い覚悟で司祭館に来なさいと言ったなら、「これは余程のことだろう」と察し、飛んでくる。そういう人に育てたい、と思ったのである。
▼そこまで育つかどうか。これは主任司祭の力量だ。育たずに終われば、わたしはその程度の司祭ということだし、育てば、何事か教会で起こったらすっ飛んでくる、そういう芯の一本通った信者を田平教会に用意してあげることになる。百周年の収穫が、当然予想される場所とは別に、思わぬところであるかもしれない。

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年間第6主日(マコ1:40-45)「よろしい。清くなれ」を保つために

2018-02-10 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/2/11(No.928)
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年間第6主日
(マコ1:40-45)
「よろしい。清くなれ」を保つために
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年間第6主日B年、「重い皮膚病を患っている人をいやす」場面です。過ぎた金曜日に本日の朗読個所を読む切り口を神さまから与えていただきました。そのひらめきというか、照らしを取り入れながら、与えられた朗読から学びを得たいと思います。

堅信式も一週間後と迫ってきました。この前の金曜日に試験をしましたが祈りの試験で残念な点数をあげた子供がいました。信仰宣言を唱えることができなかったのです。わたしはある医者から、「病人が医者の所に訪ねてきたら、まずその人に医者は謝るべきだ。なぜなら医者の力不足で、その人に病気の予防をほどこせなかったのだから」という言葉を聞いたことがあります。

実際の医者が「病気にさせてしまい、申し訳ありません」と謝っている場面を見たことはありませんが、信仰宣言を唱えることができなかったこの子供に、わたしはまず謝りたいと思いました。わたしの力不足のために、この子は祈りを覚えることができなかったのです。

今週金曜日は堅信式のリハーサルで、この日までにこの子には信仰宣言を覚えてくるように伝えました。きっと覚えてきてくれると思っていますが、仮に覚えてくることができなかったとしても、それはわたしの力不足だったのですから、生涯わたしは今年の堅信対象者の子供たちに果たせなかった責任を背負って生きていこうと思っています。

今週の福音朗読では、重い皮膚病を患っている人がイエスに「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(1・40)と言います。イエスがためらうことなく「よろしい。清くなれ」(1・41)と言われたことからも、重い皮膚病の人は純粋な気持ちで願い求めたのでしょう。

清くなった人は、純粋にその清い状態を保つ必要がありました。ところが清くされた人は、イエスに寄せていた信頼を清く保つことができなかったのです。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」(1・44)イエスの指示を、忠実に、かたくなに守ることも、イエスに対する信頼を清く保つために必要なことです。

しかし「彼はその場を立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ」(1・45)たとあります。悪気はなかったかもしれません。けれども清くされた人の行為は、イエスに寄せていた清い心から離れてしまったのです。たとえ言い広めることで多くの人が出来事を知ったとしても、イエスに寄せていた清い心を失った人のことばは、出来事の意味を違った形で、あたかも魔法使いのわざのように伝えてしまっていたのです。

わたしは祈りの試験で残念な点数を与えた子供に対し、内心腹立たしさを覚えました。しかしそれは正しいことなのかと、この説教を準備しながら考え直したのです。たしかに傍目には「毎週けいこの初めに天主の十戒、けいこの終わりに信仰宣言を唱えてきたのに、ただの一行も唱えられないとは何事だ」と思います。

けれどもわたしは、叙階してから25年後に、そういうくだらないことを言うために司祭になったのだろうかと考えたのです。「もう一人のキリスト」とまで言われる身分にしてもらったのに、イエスに寄せる清い心は失われ、「それが一年間施したけいこにたいする君の答えか?」と言っているのです。間違っているのはわたしのほうです。

重い皮膚病の人にイエスは「よろしい。清くなれ」と言いました。だからたしかに清くされたのです。けれどもその清さを保ち続けるかどうかは、本人の努力にかかっています。たとえばわたしも、叙階の秘跡を通して「もう一人のキリスト」に変えていただきました。叙階の秘跡の中では、聖香油を両手に塗られ、清い手に変えられたのです。

皆さんの中にも、尊敬する人と握手をして、その日一日手を洗いたくないと思うことがあるでしょう。そのように、わたしは大司教様によって聖香油を手に塗っていただき、同じ気持ちになりました。けれどもその時の気持ちを保ち続けるのは本人の努力や心がけです。清くけがれのない手にしていただいたのに、25年たった今はどうだろうか。堅信を受ける子供たちの試験を終えて、子供たちへの接し方を振り返って、思い返すのです。

今日このミサを始めるにあたり、健康祈願祝福式を行い、3名の方が祝福式に臨まれました。祝福はたしかに受けたのですから、祝福されたのです。ですがこれまで話しましたように、これからの日々を祝福された状態で積み重ねていくのは、やはりご本人の努力と心構えなのではないでしょうか。

例えば、「神の祝福を、人生の節目に受けた。神の祝福を真剣に受け止めながら日々を積み重ねていくことが、祝福された人生につながっていくのだ」こういう考え方は必要だと思います。「祝福を受けなさい」との神からの招きは、今日この日の一瞬なのではなくて、「これからも祝福を受けて生きる人でありなさい」という「人生にわたる招き」だと考えましょう。

「よろしい。清くなれ」(1・41)。わたしもロザリオやベールの祝福を依頼されれば祝福の言葉を取り次ぎます。けれども「祝福されたロザリオやベールを持っているから祈らなくても安全だ」という意味ではないのです。祝福されたロザリオやベールを用いながら祈ることで、祝福された日々を積み重ねていくのです。

重い皮膚病から清くされた人は、清くしてくださったイエスが続けて言い渡した言葉を軽んじました。これから灰の水曜日を迎え、イエスは十字架へと歩みを進めます。奇跡や権威に満ちた言葉を聞いていた時は心躍らせたのに、イエスが十字架を選ばれると背を向ける人であってはいけません。イエスがなさるすべてにわたしたちもついて行くことにしましょう。

「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」「よろしい。清くなれ」わたしたちを招くお方は、十字架の最期の場面までわたしたちの望みに答えて働いてくださるお方なのです。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日
(マコ1:12-15)
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ちょっとひとやすみ
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▼平昌オリンピック、ついつい遅くまで見てしまい、夜更かしをしてしまった。朝はどうしても頭が回らず、少し休ませてもらっていた。そのため説教案を仕上げる時間が1時間くらいずれ込み、昼からの配信作業になりそうだ。
▼昼は昼で、できれば説教案ではない時間の使い方をしたいと思っているので、午前中にメルマガ配信、ブログの更新、ホームページの更新まで終わらせるのが理想ではある。そこまでできていれば、午後に急に病院に呼ばれても、あるいは来訪者の応対が必要になった場合でも、説教のことを気にしないで済む。
▼このような考えに落ち着いたのは、初めて主任司祭になった太田尾小教区の時だった。それまでは助任司祭だったから、任せられた範囲は限られていたが、主任司祭は小教区で起こりうるあらゆる状況に対処しなければならない。
▼「説教が出来上がっていないから病院に来るように言われても無理です」とは言えない。だから、「土曜日の午後は、ない物と思うべきだ」という結論にたどり着いたのである。もちろん何もしないのではないが、すぐにその場を離れることができることにとどめて午後は過ごしている。
▼小さなことだが、主任司祭になってより「司祭はもう一人のキリスト」「司祭は仕えられるためではなく、仕えるために存在する」そういうことが実感としてわかるようになってきた。オリンピックの厳しい練習を積み上げた人にはかなわないが、司祭もどんな環境にあっても結果を出せるよう、日々自分と向き合っている。

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今週の1枚
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第535回目。iPhoneにも、望遠レンズが装着できるんだ。日南キャンプに持参。

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年間第5主日(マコ1:29-39)イエスは人々を神に従う人に変える

2018-02-03 | Weblog
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こうじ神父
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2018/2/4(No.927)
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年間第5主日
(マコ1:29-39)
イエスは人々を神に従う人に変える
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年間第5主日B年の朗読は先週の朗読の続きで内容もつながっています。先週は汚れた霊に取りつかれた人をイエスがいやす場面が選ばれていました。今週も必要に応じてシモンのしゅうとめの熱を取り除き、悪霊を追い出し、宣教しています。これらを一言で言い表すことができれば、先週の朗読と今週の朗読のつながりを説明できると思います。

田平町地区対抗駅伝、五島市福江での司祭団マラソン、どちらもいい仕事をしました。駅伝はタイムこそ物足りないですが、雨にもかかわらず教会の前をあれだけ人が埋めたのはわたしのおかげだと思います。応援してくれた皆さん、小手田地区の皆さん、ありがとうございました。

司祭団マラソンは、結果的に目的を達成して帰りました。10キロを1時間切るタイムで走り、前を走る何人かを追い抜き、胸に貼り付けた献堂百周年の宣伝もちゃっかり果たしてきました。ただこれらは結果的にということでして、いろいろとんでもないことをやってきました。

30日(火)司祭団マラソンに向かうため、長崎の大波止から7時40分の高速船を予約していました。宿泊させてもらった大司教館から大波止は少し離れています。たとえて言うと、田平教会の司祭館から平戸港くらいの距離です。7時40分きっかりに船が出航するのですが、この日わたしは寝坊して、7時20分に大司教館で目が覚めました。

慌ててマラソンの格好だけを整え、他は置いたまま飛び出し、浦上教会下でタクシーを呼び止め、大波止に向かいました。平戸港に行くくらいの距離です。切符は後輩の尾髙神父さまに建て替えて買ってもらい、到着した時は7時35分。恥ずかしい思いをしながら船に乗り込みました。

それでも何とかスタート地点に立ち、半分位走ったところでエンジンがかかり、前の人を追い抜きにかかります。最大の難所の上り坂で歩いている後輩も追い抜きましたし、最後はゴールの福江教会手前で、田平教会がゴールなら、生向(いけむこ)公民館くらいの距離で手足の長い蟹股の後輩司祭を抜き去り、25人中11位でゴールしました。

教会献堂百周年の宣伝もしっかり果たしてきました。沿道のじいさんばあさんたちが「胸の張り紙は何て書いとっとやろか~」と言うので、「読みづらいのだな」と思い、必要に応じてじいさんばあさんの前を「欽ちゃん走り」して読みやすいように走りました。宣伝もばっちりです。

前にも言いましたが、わたしが走るのは好きだからではありません。賑わせのためです。教会に目を向けてもらいたい、教会と地域をつなげたい。そういう思いです。実は今週の福音朗読にも、イエスの心にある一つの思いが込められていると思います。それは「神の国を告げ知らせる」ということです。

先週の福音朗読でわたしたちは、汚れた霊に取りつかれた人がいやされ、神に背を向ける人から神に従う人に変わっていく様子を見ました。今週の朗読の始め、シモンのしゅうとめが熱を出していたのがいやされると彼女は一同をもてなしています。それはイエスに従う女性たちがおこなっていたすぐれたわざでした。

ルカ福音書に「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」(ルカ8・3)とあります。シモンのしゅうとめも、イエスに従う女性の姿を示していたわけです。

このシモンのしゅうとめの態度が、今週の朗読全体を生き生きとさせています。あとに続く悪霊に取りつかれた人は悪霊を追い出され、本来の神に従う生き方に戻してもらいました。けれどもイエスは奇跡をおこなうことに縛られてはいませんでした。

「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」(マルコ1・38)「神の国を告げ知らせる」これがイエスの最優先の使命だったのです。ある時は言葉で、ある時はわざで神の国を告げ知らせ、人々を神に従う人に創りかえていったのです。

わたしが参加した駅伝大会でもマラソン大会でも、ひょっとしたら多くの人は「また何か変なことをしている」と思ったかもしれません。どう思われようとわたしは構いません。そこに田平教会のことを知らせることのできる人がいるなら知らせる。それだけのことです。

イエスが人々に示した先週と今週の結び目は、「神の国を告げ知らせる」ということでした。わたしたちも自分の活動の範囲内で「神の国を告げ知らせる」必要があります。イエスは病の人、悪霊に苦しめられている人を全員いやしたわけではありませんでした。町々を巡って示されたのは、イエスによって変えられた人が、後を引き継ぐことができるように、道を開いてくださったのです。

イエスに声をかけられて従った12人の弟子、言葉や奇跡で神に従う人に変えてもらった人々、ほかにもそれらを目撃した人たちが、時代を超え、場所を越えて「神の国を告げ知らせる」、つまり人々を神に従う人に変えていくことを期待しているのです。

今朝あなたは、起きた時に顔を洗ったでしょうか。それだけでは父母に倣う人、兄弟姉妹に倣う人にすぎません。では今日一日を祈りで始めたでしょうか。その時あなたは、神に従う人、神の望みに耳を傾ける人に変えられたのです。教えるのは小さなことで構いません。食前の祈りを唱えて食事を始める。これ一つ教えるだけでも、あなたは自分の子や孫を、神に従う人に変えているのです。「神の国を告げ知らせる」とは、こうした小さなことの積み重ねなのです。

あと3カ月もすれば田平教会の献堂百周年ですが、告げ知らせるためにどうか一役買ってください。友達との会話に一言付け加えてください。「わたしたちはこの教会に百年結ばれて、今日を迎えています。」「神の国を告げ知らせる」これは遠い場所での話ではなく、身近な場所で起こるものなのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第6主日
(マコ1:40-45)
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ちょっとひとやすみ
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▼お祈りをお願いしたい。田平教会の高齢の女性が肺炎で命を削りながら病院に入院している。教会のために寛大に土地を提供して駐車場用地を与えてくださった。耳が不自由で、ある時「日曜日の説教原稿をあげようか?」と声をかけたら喜んでくれて、毎週家で読み返してくれる。
▼日曜日の説教原稿は、まさかきちんと読んでくれているとは思っていなかった。ところがいつもていねいに読み直してくれているらしい。わたしはこういう人に支えられて、今に至っていると思っている。だから、もし共感してくれる人がいたら、このおばあちゃんのために祈ってほしい。
▼一方で、「しょうがないなぁ」と同情してわたしに助け舟を出してくれる人にも生かしてもらっていると思う。韓国時代劇ドラマを最近よくDVD鑑賞しているが、王宮で政敵から追放された人が復帰したり、昨日まで手を組んでいた人に手のひらを返されたり、そんな場面を観ていると、「昔も今も変わらないし、人を動かす世界は政治も宗教も変わらないなぁ」と思う。
▼こねて、こね返されて、紆余曲折しながら前進する。それがこの世なのだと思いながら、陰に陽に助けてくれた人に恩返しをする。25年を折り返しとするなら、そういう折り返しをしたいものだ。

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今週の1枚
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第534回目。司祭団マラソン。一般信徒の順位を横に置くと25人中11位。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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