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こうじ神父
「今週の説教」
11/04/24(No.531)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活の主日
(ヨハネ20:1-9)
イエスは復活し、愛を残してくださった
‥‥‥†‥‥‥‥
あらためて、主の御復活おめでとうございます。高井旅教会の皆さんにとっては、いよいよ待ちに待った復活の喜びの日です。昨晩の復活徹夜祭でも話しましたが、イエスの死と復活は人間に解放を告げるというのが今年の説教の主眼点ですが、今日の福音朗読にもそのことは表われています。
マグダラのマリアが墓に行きました。「朝早く、まだ暗いうちに」(20・1)とありますが、「暗闇」は、実際の時間帯と同時に、マグダラのマリアの心の状態も表していると思います。彼女は、イエスが十字架の上で亡くなったことで、恐れにとらえられていたのです。墓から石が取りのけてありましたが、それを遠くから眺めるだけで、近づく勇気は持てなかったのでしょう。すぐに弟子たちのもとへ報告に戻ります。
シモン・ペトロと、イエスが愛しておられたもう一人の弟子は、マリアの知らせにすぐに応じて墓へ急ぎました。身をかがめて中をのぞき、亜麻布が置いてあるのを見つけました。それでも、もう一人の弟子は墓に入ろうとはしませんでした。墓に入ることが怖かったのではないでしょうか。墓に入り、遺体を確認すれば、あらためてイエスが死んでもういないのだと打ちのめされることになります。また、墓に入る様子を他人に知られたら、自分たちの身も危険にさらされると考えたかもしれません。
シモン・ペトロは恐れを振り払って、墓の中に入りました。「墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。」(20・6-7)となっています。
この場面について、つい先日、長崎で貴重な写真展と講演を聞くことができました。イタリアのトリノには、「聖骸布」というものが存在します。この布は、イエスのご遺体を包んだ布だと考えられています。この布について50年以上研究しているサレジオ会のコンプリ神父さまが、長崎で聖骸布を撮影した写真の展示と講演会をしておられたのです。18日(月)に、参加しました。
この聖骸布が、確かにイエスのご遺体を包んだ布であると、だれも証明することはできませんが、たくさんのデータがこの布から出ているそうです。背中の部分には100発以上の鞭打ちの跡が残っていますし、手首と足首に釘跡が残っています。また、膝や、鼻の部分に、倒れて付着したと思われる土が発見されていますが、この土はエルサレムの土と成分が同じなのだそうです。いろんなデータがあって、大いに興味をかき立てました。
その中で、最も興味を引いたのは、アメリカのNASAがある時期調査をして、この聖骸布から立体的な輪郭を描き出したという研究です。もしも、人間の遺体を包んだ布が、遺体が腐敗したあとも包んでいたとすれば、布に残された痕跡から、立体的な輪郭は描けなかっただろうと思ったのです。腐敗する前の状態を包んで、その痕跡が残ったので、聖骸布から立体的な姿を描くことができたのだろうなぁと思いました。
コンプリ神父さまは、日本語の新共同訳聖書が、この場面での大切な言葉をうまく訳しきれていないと残念がっていました。「亜麻布が置いてあるのを見た」(20・6)となっているのですが、もとの言葉は「横たえる」という意味があるそうです。亜麻布が置いてあるだけでは、遺体を誰かが盗みに来て、亜麻布はそこに置いて帰ることも可能でしょう。
けれども、横たえられていたというのは、第三者が意図的にできるものではないのです。その場を動かさず、横たえた状態のままであった。その点が、墓に入って確かめた弟子たちに、イエスの復活を感じさせたのではないでしょうか。
布についての興味深い話も含めて、シモン・ペトロとヨハネが思い切って墓の中に入った時、彼らはイエスの復活を信じることができました。恐れのために、墓を遠くからしか眺めなかったマグダラのマリア。墓をのぞいてみたけれども、中には入らなかった弟子。恐れにとらえられていた人間が、ありのままの墓の中を見た時に恐れから解放されたのです。
恐れを解き放ったのは、そこに残された亜麻布でしょうか。そうではないと思います。亜麻布が横たえられていた、その状態で残してくださった方が布の向こうにおられるのです。横たえられていた亜麻布を通して、弟子たちの心を解き放ち、本来思い出すべきこと、イエスが亡くなられる前に残してくださった言葉に導いてくださったのです。
弟子たちは、イエスの復活に気付き、恐れから解放されたときに何を思ったでしょうか。わたしは、聖木曜日のことを思ったのではないかと考えました。つまり、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(13・1)この場面です。
イエスは、復活なさって、自分たちをこの上なく愛し抜かれたことを証明してくださった。十字架上の死は、自分たちを見捨てたのではなく、この上なく愛しておられた証しだった。弟子たちはイエスの深い愛を、思い出していたのではないでしょうか。
もしそうであるなら、わたしたちもイエスの復活を喜びながら、わたしたちを愛し抜かれたことを思い出す必要があります。イエスの復活は、弟子たちにも、わたしたちにも、名誉も権力も財産も何も残しませんでした。ただ一つ残してくださったのは、罪から逃れられないわたしたち一人一人を、この上なく愛し抜かれた、その愛です。
イエスはその復活によって、わたしたちも解放します。イエスの愛を、あなたを愛し抜いたその愛を、人々に知らせに行きなさい。見捨てられている人、孤独にある人、ちょっと周りの人から外れている人。だれにでも、イエスが愛してくださったことを知らせに行く。イエスはわたしたちの心を解き放って、証しを立てる人へと変えようとしています。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
‥‥‥†‥‥‥‥
‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥
▼今年も、聖週間の説教と「ちょっとひとやすみ」を一つにまとめ、パンフレットにして信徒に配った。紙がもったいないと思う人もいるかもしれないが、聖週間の説教を通して、次の聖週間まで神の救いの計画と、イエスの愛に、少しでも触れることができればと思ってのことである。
▼それにしても今年は時間が足りなかった。出張が重なって、どうしても腰を据えて説教に取り組めなかった。ある時は新幹線の中で、ある時は船の中で、ある時は宿泊先で、四苦八苦して考えた。考えてばかりでは頭だけのようだが、福音朗読から何か聞こえてこないかと、何度もテキストを読み、耳をすませた。
▼パンフレットは、当然一人の手では作れない。いつもだれか協力を仰いでいるのだが、今年はだれに頼もうかと考えあぐねていたが、いいメンバーを思い出した。中学生だ。確か6人はいたと思うので、お願いしてみよう。できれば、このパンフレットを真っ先に中学生に読んでほしいところだが、はたして興味を持ってくれるだろうか。
▼昨日のワインは甘すぎた。調べた範囲で銘柄を紹介すると、フランスワインで、ヴァル・オーリス バニュルス グラン・クリュ Banyuls Grand Cru 1966年物。1966年物というのは、つまり自分の生まれ年ワインということである。
▼ちょっと飲むのはおいしいけれども、グイグイ飲むには甘すぎると思う。ミサワインも、かなり甘いが、それ以上だったかもしれない。とにかく、一度に空けてしまうほどお酒に強くもないし、あの甘いワインではお酒に強くても飲み干せないのではなかろうか。
▼昨日の「ちょっとひとやすみ」を読み返すと、「キリストの声」を思い巡らすと書いてあったが、ワインを一杯飲んだ時点で、その計画はボトルの中に沈んで消えてしまった。キリストの声は、これからもずっと追い続けよう。もしチャンスがあれば、十年に一度開かれるキリストの受難劇を観て、そこでも考えてみたいと思う。
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新企画今週の1枚
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第138回目。復活祭の卵。全体のうち、6個「当たり」が入っている。
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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復活の主日
(ヨハネ20:1-9)
イエスは復活し、愛を残してくださった
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あらためて、主の御復活おめでとうございます。高井旅教会の皆さんにとっては、いよいよ待ちに待った復活の喜びの日です。昨晩の復活徹夜祭でも話しましたが、イエスの死と復活は人間に解放を告げるというのが今年の説教の主眼点ですが、今日の福音朗読にもそのことは表われています。
マグダラのマリアが墓に行きました。「朝早く、まだ暗いうちに」(20・1)とありますが、「暗闇」は、実際の時間帯と同時に、マグダラのマリアの心の状態も表していると思います。彼女は、イエスが十字架の上で亡くなったことで、恐れにとらえられていたのです。墓から石が取りのけてありましたが、それを遠くから眺めるだけで、近づく勇気は持てなかったのでしょう。すぐに弟子たちのもとへ報告に戻ります。
シモン・ペトロと、イエスが愛しておられたもう一人の弟子は、マリアの知らせにすぐに応じて墓へ急ぎました。身をかがめて中をのぞき、亜麻布が置いてあるのを見つけました。それでも、もう一人の弟子は墓に入ろうとはしませんでした。墓に入ることが怖かったのではないでしょうか。墓に入り、遺体を確認すれば、あらためてイエスが死んでもういないのだと打ちのめされることになります。また、墓に入る様子を他人に知られたら、自分たちの身も危険にさらされると考えたかもしれません。
シモン・ペトロは恐れを振り払って、墓の中に入りました。「墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。」(20・6-7)となっています。
この場面について、つい先日、長崎で貴重な写真展と講演を聞くことができました。イタリアのトリノには、「聖骸布」というものが存在します。この布は、イエスのご遺体を包んだ布だと考えられています。この布について50年以上研究しているサレジオ会のコンプリ神父さまが、長崎で聖骸布を撮影した写真の展示と講演会をしておられたのです。18日(月)に、参加しました。
この聖骸布が、確かにイエスのご遺体を包んだ布であると、だれも証明することはできませんが、たくさんのデータがこの布から出ているそうです。背中の部分には100発以上の鞭打ちの跡が残っていますし、手首と足首に釘跡が残っています。また、膝や、鼻の部分に、倒れて付着したと思われる土が発見されていますが、この土はエルサレムの土と成分が同じなのだそうです。いろんなデータがあって、大いに興味をかき立てました。
その中で、最も興味を引いたのは、アメリカのNASAがある時期調査をして、この聖骸布から立体的な輪郭を描き出したという研究です。もしも、人間の遺体を包んだ布が、遺体が腐敗したあとも包んでいたとすれば、布に残された痕跡から、立体的な輪郭は描けなかっただろうと思ったのです。腐敗する前の状態を包んで、その痕跡が残ったので、聖骸布から立体的な姿を描くことができたのだろうなぁと思いました。
コンプリ神父さまは、日本語の新共同訳聖書が、この場面での大切な言葉をうまく訳しきれていないと残念がっていました。「亜麻布が置いてあるのを見た」(20・6)となっているのですが、もとの言葉は「横たえる」という意味があるそうです。亜麻布が置いてあるだけでは、遺体を誰かが盗みに来て、亜麻布はそこに置いて帰ることも可能でしょう。
けれども、横たえられていたというのは、第三者が意図的にできるものではないのです。その場を動かさず、横たえた状態のままであった。その点が、墓に入って確かめた弟子たちに、イエスの復活を感じさせたのではないでしょうか。
布についての興味深い話も含めて、シモン・ペトロとヨハネが思い切って墓の中に入った時、彼らはイエスの復活を信じることができました。恐れのために、墓を遠くからしか眺めなかったマグダラのマリア。墓をのぞいてみたけれども、中には入らなかった弟子。恐れにとらえられていた人間が、ありのままの墓の中を見た時に恐れから解放されたのです。
恐れを解き放ったのは、そこに残された亜麻布でしょうか。そうではないと思います。亜麻布が横たえられていた、その状態で残してくださった方が布の向こうにおられるのです。横たえられていた亜麻布を通して、弟子たちの心を解き放ち、本来思い出すべきこと、イエスが亡くなられる前に残してくださった言葉に導いてくださったのです。
弟子たちは、イエスの復活に気付き、恐れから解放されたときに何を思ったでしょうか。わたしは、聖木曜日のことを思ったのではないかと考えました。つまり、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(13・1)この場面です。
イエスは、復活なさって、自分たちをこの上なく愛し抜かれたことを証明してくださった。十字架上の死は、自分たちを見捨てたのではなく、この上なく愛しておられた証しだった。弟子たちはイエスの深い愛を、思い出していたのではないでしょうか。
もしそうであるなら、わたしたちもイエスの復活を喜びながら、わたしたちを愛し抜かれたことを思い出す必要があります。イエスの復活は、弟子たちにも、わたしたちにも、名誉も権力も財産も何も残しませんでした。ただ一つ残してくださったのは、罪から逃れられないわたしたち一人一人を、この上なく愛し抜かれた、その愛です。
イエスはその復活によって、わたしたちも解放します。イエスの愛を、あなたを愛し抜いたその愛を、人々に知らせに行きなさい。見捨てられている人、孤独にある人、ちょっと周りの人から外れている人。だれにでも、イエスが愛してくださったことを知らせに行く。イエスはわたしたちの心を解き放って、証しを立てる人へと変えようとしています。
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神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年も、聖週間の説教と「ちょっとひとやすみ」を一つにまとめ、パンフレットにして信徒に配った。紙がもったいないと思う人もいるかもしれないが、聖週間の説教を通して、次の聖週間まで神の救いの計画と、イエスの愛に、少しでも触れることができればと思ってのことである。
▼それにしても今年は時間が足りなかった。出張が重なって、どうしても腰を据えて説教に取り組めなかった。ある時は新幹線の中で、ある時は船の中で、ある時は宿泊先で、四苦八苦して考えた。考えてばかりでは頭だけのようだが、福音朗読から何か聞こえてこないかと、何度もテキストを読み、耳をすませた。
▼パンフレットは、当然一人の手では作れない。いつもだれか協力を仰いでいるのだが、今年はだれに頼もうかと考えあぐねていたが、いいメンバーを思い出した。中学生だ。確か6人はいたと思うので、お願いしてみよう。できれば、このパンフレットを真っ先に中学生に読んでほしいところだが、はたして興味を持ってくれるだろうか。
▼昨日のワインは甘すぎた。調べた範囲で銘柄を紹介すると、フランスワインで、ヴァル・オーリス バニュルス グラン・クリュ Banyuls Grand Cru 1966年物。1966年物というのは、つまり自分の生まれ年ワインということである。
▼ちょっと飲むのはおいしいけれども、グイグイ飲むには甘すぎると思う。ミサワインも、かなり甘いが、それ以上だったかもしれない。とにかく、一度に空けてしまうほどお酒に強くもないし、あの甘いワインではお酒に強くても飲み干せないのではなかろうか。
▼昨日の「ちょっとひとやすみ」を読み返すと、「キリストの声」を思い巡らすと書いてあったが、ワインを一杯飲んだ時点で、その計画はボトルの中に沈んで消えてしまった。キリストの声は、これからもずっと追い続けよう。もしチャンスがあれば、十年に一度開かれるキリストの受難劇を観て、そこでも考えてみたいと思う。
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第138回目。復活祭の卵。全体のうち、6個「当たり」が入っている。
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