こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

聖家族(ルカ2:41-52)イエスがいてくださる家族を目指そう

2009-12-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/12/27(No.452)
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聖家族
(ルカ2:41-52)
イエスがいてくださる家族を目指そう
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今年最後の日曜日になりました。教会の典礼としては、すでに暦は新しくなっているわけですが、わたしたちの感覚はやはり年末という感覚があります。福音朗読箇所から、聖家族のお手本をわたしたちも写し取ることにしましょう。

考えるきっかけとして、ヨセフとマリアが「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」(2・48)と声をかけた時の、少年イエスの答えを取り上げたいと思います。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(2・49)

イエスの答えは、2通りの受け止め方が考えられます。「本当に、わからないのですか」と、両親を問い詰めている可能性と、「ご存じのはずです」と、確認を求めている場合です。ここでは、少年イエスに両親を問い詰めるつもりは全くないでしょうから、あえて言葉を補うと「どうしてお捜しになったのですか。(あなたがたもご存じのように)わたしが自分の父の家にいるのは当たり前でしょう」という意味に取るべきです。

「あなたがたもご存じです」「わたしは自分の父の家にいる」ヨセフとマリアは少年イエスの答えに面食らったことでしょう。ヨセフがどのような受け止め方をしたのかは分かりませんが、マリアはいつか分かる日が来るまでずっと思い巡らしたようです。「母はこれらのことをすべて心に納めていた。」(2・51)

わたしも、少年イエスの神殿での出来事を機会あるたびに思い巡らしています。少年イエスが、神殿に留まっておられる。少年イエスは、そのことを「当たり前だということを、知らなかったのか」と返している。どういう事なのだろうかとずっと考えています。

そうして、わたしの中で1つの考えがまとまりました。ヨセフとマリアは、少年イエスを捜し回っています。きっと、他のことはすべて横に置いて、捜し回ったのでしょう。なぜなら、少年イエスは、ヨセフとマリアにとって何よりも大切な宝だからです。家族として、何よりも大切なものを見失って、見つけ出そうと必死に捜して、ついに神殿で少年イエスを見つけました。

現代人にとって、また現代の家族にあって、イエスはどんな存在でしょうか。ヨセフとマリアのように、何よりも大切な宝でしょうか。他のことはすべて横に置いて、捜すべき相手と考えているでしょうか。もし、そう考えているとしたら、あらゆる場面に、あらゆる出来事に、まずイエスを捜し求めるはずです。

今年1年の生活を振り返ってみました。生活の中で、イエスを何よりもまず捜し求める生活だっただろうか。その時々で、果たしている務めはいろいろですが、その務めの中で、人に気に入られたいとか、人から感謝されたいとか、誰かを納得させたいとか、自己中心的な目的を第一に捜し求めていたのではないだろうか。そんなことを考えました。

そこへ、イエスは答えを示すのです。「なぜそれほど大切でもないものを捜し求めているのか。(ご存じのように)捜し求めるものはわたしである。」何よりも大切なものを捜して毎日を過ごしているつもりですが、実際にはずいぶん遠回りをしていたかも知れません。求められているものを日々こなしていますが、その中心は、イエス・キリストでないときがたくさんあった。反省することばかりです。

お一人お一人、生活に重ねて考えてみましょう。ヨセフとマリアのように、何よりも大切なものを捜し求めて毎日を暮らしています。必死になって捜していますが、見つからずに、あきらめかけて教会に行ってみると、そこにいちばん大切なものを見つけるわけです。イエスは皆さんにこう言っています。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

教会に行ってみると、いちばん大切なものが分かるようになります。いちばん大切なもの。それは、目の前のものではなく、イエス・キリストがそばにいることです。しばしば、1週間働いて、大切なものを手に掴もうとしているけれども、掴んだものはどれも消えて無くなる物、本当に大切なものではなかったりします。

家族皆が、いちばん大切なものを身近で捜そうとしているのですが、見つかりません。そして教会に来てみて、あー、いちばん大切なものは、イエス・キリストだったのではないかと気づきます。

実はわたしたちは、どこへ行っても、どこにいても、イエスがそばにいてくれたのではないでしょうか。わたしたちを、何よりも大切に思っているイエスがそばにいるのに、ある時は忙しさで気付かなくなってしまい、仕事が中心だ、給料が中心だ、家族が中心だと思っています。

けれども、仕事の中にも、家族の中にも、イエスはそばにいたのではないでしょうか。忙しさのために、気付かなくなっていたのではないでしょうか。忙しい中でも、捜し求め、ついにイエスにたどり着くのはここ教会です。

個人で、また家族で、現代の神殿である教会に来て、ようやく気がつくのです。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前でしょう。」捜しても捜しても見つからないと思っていたのに、いつもそばにいたのです。いつもそばにいる。このことに気付くまで、長い長い回り道をしているのかも知れません。

生活のいちばん深い所で流れているイエスの照らし、導き。なかなか生活の中で気付かずにいます。生活の中で気付くことができれば幸いですが、遠回りのようでいて、教会に足を運ぶことが、イエスという何よりも大切な宝に気付く近道なのです。

ぜひ、いちばん大切なはずのイエスの姿を、教会の中で見いだしてください。「わたしがいつもあなたのそばにいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」この言葉に励まされて、また新たな年に向かう力を願い求めましょう。

あなたの中に、あなたの家族の中に、いつもイエスがそばにいるなら、イエスと共に家族は成長し続けます。


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ちょっとひとやすみ
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▼12月22日時点では「これを書いてみようかな」と思っていたことがあったような気がするが、もはやどうでもよくなった。南米から、クリスマスのグリーティングカード(インターネット)が届いて、嬉しくて嬉しくて、嬉しくて嬉しくて。
▼カードを送ってくれたのは、南米に派遣されたシスターだった。南米と言っても広いが、まぁ、南米だ。彼女は昨年終生誓願を立て、わたしもその姿を祝うためミサに行ったという縁がある。もっと詳しく書くべきだが、プライバシーもあるだろうから、この辺で止めておく。
▼わたしは、終生誓願を立てたのだから、さあこれからは誓願式に参加した人の目に触れるような場所でバリバリ働いてくれるのだろうと思っていたのだが、南米に派遣されると聞きあっけにとられた。彼女がみずから志願していたのだろうから、シスターのことを何も知らなかったということだ。とにかく驚いた。
▼メッセージカードに、さりげなくこう書かれていた。「暑いクリスマスを始めて体験します。」言葉には出さないが、相当苦労しているのではないだろうか。何もしてあげられないので、ただただ健康を祈り、彼女の夢が実現することを祈るばかりである。
▼派遣されて、一回りも二回りも成長すると信じて疑わないが、頭の切り替えがよくできるものだとまずはそのことに感心する。日本では物が溢れている。たとえシスターだからと言っても、物が溢れている国に住んでいれば、その溢れている物の恩恵に少なからずあずかっているはずだ。それが、南米に行けばそうはいかないに違いない。頭の切り替えはどうやってなし遂げたのだろうか。
▼哀れな話だが、たとえば物が無くなり、2~3日全力で探し、どうしてもどうしても見つからない時、わたしはオークションでもネット古書店でも、あらゆる手を尽くしてカネで解決する。それが日本では可能だからだ。ところが、派遣されていったシスターの住む場所では、物が無くなったら諦めるしかないのではないだろうか。もともと、無くなる物さえも無いのかも知れない。想像すらできない過酷な環境。偉いなぁと見上げてしまう。
▼その、過酷な環境に置かれているシスターが、わたしを思い出してカードを送ってくれた。涙が出るほど嬉しかった。わたしはシスターに、派遣される直前にメールを1通送ったきり、そのまま音信不通だったのに、シスターはわたしを思い出してくれた。思い出してもらえるほどの存在でもないのに、思い出してくれた。
▼このメルマガを読んでくださっている皆さんに、今年最後の「ちょっとひとやすみ」を借りて感謝申し上げます。深いものもなく、思うことを思うまま書いたメルマガだったのに、ずっとずっと応援してくださり、感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとう。そして、どうぞよい年末と新年を迎えてください。皆さまのために、神の祝福がありますようにと祈ります。

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新企画今週の1枚
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第59回目。高島教会の馬小屋。割れた像とかもあり、手をかける必要が。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)人は、神が語り掛けることのできる唯一の存在です

2009-12-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/12/25(No.451)
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主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-18)
人は、神が語り掛けることのできる唯一の存在です
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クリスマスの朝、主の降誕の日中のミサは、福音朗読がヨハネ福音書になっています。朗読を聞いて、皆さんも感じたかも知れませんが、とても抽象的で、救い主が幼子となってお生まれになったことを祝う御降誕には、ちょっと扱いが難しい箇所だと感じます。その思いが、これまでずっとぬぐえませんでした。

けれども、今年はちょっと違います。わたしの中に、何か、語るべき内容が降りてきまして、選ばれたヨハネ福音書の朗読箇所が、御降誕を黙想するためのすぐれた材料を与えてくれることが見えてきました。この点を、皆さんと分かち合いたいと思います。

与えられた朗読箇所は、ヨハネ福音書の始まりの部分です。聖書は読みやすくするためにまとまりごとにタイトルが付けられています。今日朗読されているヨハネ福音書の冒頭部分には、「言(ことば)が肉となった」というタイトルが付けられています。ここから、今日の物語全体の中で、「言(ことば)」が大切なのだということが伝わってきます。

さらに、「言(ことば)」に工夫が加えられています。人間が使う言葉と区別するために、「言う」という漢字に「ことば」というふりがなを付けて読ませています。この表現で、「神のことば」「御言葉」ということを表しているのです。「神のことば」が「肉」となったというのです。「肉となった」という表現も、「人間となった」とは言わず、「この世」に属するものという意味を強調して言っています。

「神のことば」が、「肉」となりました。このことで、何が言いたいのでしょうか。わたしは、長いこと勘違いして理解していたかも知れません。神が、わざわざ、人間となってくれたんだなぁ、有り難いなぁという理解を、長く持っていたのです。

けれども、今年は、違った考え方を示したいと思います。わたしはこれまで、「神のことばが、なぜ人間となったのか」ということを考えてなかったと気がついたのです。なぜ、神のことばは人間となったのだろうか。それは、神のことばを曲がりなりにも理解できるのは、この世にあって人間しかいないからなのです。ご自分が造られた生き物の中で、人間だけが、神のことばを理解できるので、人間となって、語り掛けに来たのです。

人間は、神のことばを理解できると言いました。ところが実際は、今日の朗読箇所にあるように、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1・11)のです。理解できるはずなのに、理解しようとしなかったのです。

このことを、イエスの御生涯と具体的に重ねていきましょう。神のことばが、人間に語り掛けるために、肉となってくださいました。人となった神のことば、イエス・キリストは、人間が神のことばを受け入れてどのように人生を歩むべきかをご自身の生き方をとおしてお示しになります。

たとえば、少年時代に、イエスは神殿に留まっておられたことがありました。父なる神と、少年時代から親しく過ごす。その姿を学ぶことができると思います。さらに宣教活動に入られてからは、しばしば静かな時間を選んで、騒々しい場所を離れて、父なる神と親しく祈る時間を持ちました。

そして最後まで、父なる神のみ心に適う道を選び、危険を避けようとすれば避けることもできたのに、十字架上で命をささげたのです。これらは、「神のことばを理解できる人間」に、神がその独り子を通してしめされた生き方の模範、歩むべき道だったわけです。

その結果はどうだったでしょうか。「世は言を認めなかった」(1・10)「民は受け入れなかった」(1・11)というさんざんな結果だったのです。それでも、受け入れた人々もいました。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(1・12)この受け入れない人と、受け入れる人に別れていく姿は、今の現実でもあると思います。神のことばを理解できるはずなのに、理解しようとしない人々が、実際にはたくさんいるのです。

では、この現実の中で、わたしたちには何が求められているのでしょうか。わたしは、本来の姿に立ち帰るように、働きかけることが求められているのだと思います。あなたも、あなたも、神のことばに真剣に耳を傾けるなら、神のことばが理解できるのです。

人間が、どのように人生を生きるべきかが分かるはずです。神の望みを探し求めながら生きていくべきだと、理解できるはずです。こうした本来の姿に、1人でも多くの人が立ち帰るように、働きかけてください。このメッセージを、「肉となった言」は、語り掛けているのではないでしょうか。

そこであらためて、静かに眠る幼子をこの目に焼き付けましょう。ここに眠る救い主は、「言が肉となった」お方です。今は語らなくとも、わたしたちに人間の本来あるべき姿を語り掛けるお方なのです。

人間だけが、神のことばを理解できる存在です。あなたが出かけて行って、神のことばを理解して生きる人間本来の生き方を生活の中で示してくださいと、幼子イエスは存在そのもので訴えかけているのです。

「言」は「肉」となりました。わたしたちは、神のことばを理解できる唯一の存在です。もっともっと、理解できてなかったことにも目を開いていただけるよう、幼子イエスに恵みを願うことにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼命の始まりがあれば、命の終わりもある。今月、親戚の男性が急な心臓の病で亡くなった。異常を感じてから3時間で息を引き取ったそうである。わたしはその通夜に参加して、次のような話をさせてもらった。
▼「突然の悲しみに、谷底に突き落とされたような思いかも知れません。わたしは、12年前に赴任している教会の主任司祭が12月16日に重症の肺炎で亡くなった時、谷底に突き落とされたようなショックを受けました。クリスマスどころではないとさえも感じました。
▼ところが、主(あるじ)を亡くして悲しみに暮れる教会に、クリスマスのメッセージを語る人は自分しかいないと気付いたのです。この教会の神の民にも、イエスは希望を届けてくださる。暗闇の中にある民に、光を届けてくださる。それができる唯一のお方であると。
▼ですから、この深い淵から、イエスは必ずご家族を救ってくださいます。希望を失いかけているところに希望を届ける唯一のお方が、いつもそばにいてくださいます。どうか、信頼を寄せてください。
▼すべての人に、それは悲しみの淵にある人にも、救いを届けるためにおいでくださった方は、すべての人の終わりについても責任を持ってkづあさいます。お父さまは、あっという間に旅立たれましたが、すべてのことに責任を持ってくださるお方のもとに呼ばれたのです。信仰の内に、お委ね致しましょう。」
▼十分な慰めにならなかったかも知れない。けれども、あれこれ考えた挙げ句に、「わたしの言葉ではなく、あなたの言葉を語らせてください」という気持ちで話し掛けた。12年前の出来事も、最初から意識していたのではなくて、ギリギリになって語るべきこととして降ってきた。わたし個人としては、「やはり神はいるなぁ」という実感を持った出来事だった。
▼クリスマスケーキを囲み、にぎやかに昨日と今日を過ごしている人が多いに違いない。わたしも、クリスマスケーキと向き合って、すべての人の幸せを祈りたい。すべての人が、「神のことば」に耳を傾け、照らされて生きるように。メリークリスマス!

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新企画今週の1枚
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第58回目。忘れていなければ、わが家の教会の馬小屋。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
聖家族
(ルカ2:41-52)
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主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)民全体に、救い主は与えられた

2009-12-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/12/24(No.450)
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主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
民全体に、救い主は与えられた
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主の降誕、おめでとうございます。今年も無事に、降誕の喜びを迎えることができました。イエスの誕生を記すルカ福音書の朗読箇所から、今年の降誕のメッセージとして2つの点を示したいと思います。1つは、「羊飼いが、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける」という点です。もう1つは、幼子の誕生が、「民全体に与えられる大きな喜び」であるという点です。

ヨセフとマリアは、皇帝の勅令に従って住民登録をしにベツレヘムに向かっていましたが、その途中でマリアは月が満ちて、初めての子を産みます。ヨセフとマリアは、幼子イエスを布にくるんで飼い葉桶に寝かせます。宿屋を見つけることもできず、家畜小屋のような場所で留まっていたのでしょう。

この幼子を最初に訪問したのが、羊飼いでした。羊飼いは、なぜお生まれになった救い主を最初に訪ねることができたのでしょう。確かに、天使が「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。」と予告してくれましたが、それだけで見つけることができるものなのでしょうか。

わたしはこんなことを考えました。羊飼いは、家畜である羊の番をしながら夜を過ごします。羊飼いのために、村のはずれのあちこちに家畜小屋があったのかも知れません。彼らは心当たりのある家畜小屋を訪ね回っているうちに、救い主にたどり着いたのではないでしょうか。いくつもの家畜小屋があったとしても、彼らが日頃からそれらを利用していたとすれば、たやすく見つけることができたでしょう。

羊飼いが布にくるまっている乳飲み子を見つけた様子には、もっと大切な意味があります。出来事が、人間の歴史の中心ではなく、外れた場所で起こったということです。人間的な歴史を考えれば、今話題の中心は住民登録です。支配されている領土で、全住民を対象に、人口調査が行われているのです。実際、ヨセフとマリアも、登録のためにベツレヘムに上って行ったのです。マリアのお産のために、ベツレヘムに向かったのではありませんでした。

ところが、神の計画の中心は、人間的な計画の中心部にはなかったのです。人間が今一番関心を持っている場所ではなく、外れていると思われる場所で、神さまの計画の中心が、動き始めたのです。

これは、よく考える必要があります。わたしたちもふだんの振る舞いを考えると、どうしても人間的な計画が暮らしの中心になっています。仕事が入ると、ミサに平均的に参加している人でも、仕事に行かざるを得ません。考えの中心は、やはり生きるために働かなければならない、仕事や家庭のことを中心に考えざるを得ないと思っています。

その思いは、おそらくどうにも変えられないでしょう。わたしもそのことを、間違っていると言う勇気はありません。ただ、神の計画の中心は、人間が考えている中心とは少し違う場所にあることを知ってほしいのです。この特徴は、救いの歴史という大きな枠組みだけではなくて、あなたの救いという枠の中でも同じです。あなたを救おうとしている神の計画の中心は、あなたが中心に考えていることとはちょっと外れた場所にある。そのことに気づく必要があると思います。

次に、幼子の誕生は、「民全体に与えられる大きな喜び」です。「民」と言いましたが、人類全体と言ってもよいでしょう。クリスマスという名で祝っているこの日が、人類全体にとって、大きな喜びをもたらす出来事なのです。

そこで、すべての人が今日をどのように迎えたのか考えてみましょう。ある人は、幸せいっぱいでこの日を迎えたことでしょう。当面の心配事もない中で、無事に今日を迎えることができました。素直に、今日を祝う気持ちが与えられていると思います。

違う人たちもいます。今日を、悲しみの中で迎えている人々もいるはずです。わたしは12年前、12月16日に自分の主任司祭が肺炎で亡くなって、10日も経たないうちにクリスマスを迎え、お祝いの気持ちになれなかった年がありました。どうやってクリスマスのメッセージをミサの時に伝えればよいのか、途方に暮れていました。

けれども、そんな沈んだ気持ちの中でも、何かが与えられたのです。わたしが、クリスマスの希望のメッセージをその教会で語らなければ、誰が希望を語ることができるでしょうか。わたししかいないのだと思った時、何かが与えられました。わたしはその年、1997年に、次のような説教をしています。

(ですから)すべての「恐れ」から解き放たれて、今わたしたちは幼子の誕生を喜び祝うのです。「(主任司祭が今年も生きていて、)去年と同じクリスマスのはずだったのに」という恐れ、「こんな時にクリスマスどころではない」という恐れ、(一部省略)それらすべてから解放されて、今こそ、おおいに喜び合いましょう。幼子は来たのです。この○○教会に来たのです。誰もが、一筋の光を探し求めているところに来たのです。

希望が見いだせない人にも、幼子イエスは希望としておいで下さいます。誰にも慰めてもらえない、それほどの深い闇の中にある人にも、幼子は喜びとして与えられるのです。神が、その御子を、民全体にお与えくださったからです。すでに幸せを感じている人だけではありません。深い淵にある人にも、救い主は与えられたのです。だからこそ、互いに今日この日を喜び合いましょう。

巡回教会のここ大明寺教会では、説教のあとに幼子の洗礼式が控えています。ある保護者は言います。「子どもが自分で判断できるようになってから洗礼を受ければよいではないか。」これは、人間的な計画を中心に据えて考えた結果です。自分の判断で決めればよいではないかと言っているのですが、しばしば神の計画の中心は、それとは少し外れた場所で始まるのです。そして、この神のなさり方を受け入れる人こそが、神の計画に育てられて育つのです。

今日ここにおいでになっているご家族は、人間の思いを超えて働く神の思いに、わが子を委ねようとおいでになっています。大いに歓迎いたします。そして、今日すでに人間の思いを超えて働く神のわざを受け入れることで、いつか、困難や理解に苦しむ出来事を乗り越えなければならない時に、神がいつもそばにいること、神がわたしたちにも働いてくださることを実感できるようになるでしょう。

それでは、洗礼式に移ります。共同体全体で、見守り、見届けることにしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼今年も年末となり、振り返るとどんな1年だっただろうか。個人的には、責任ある決断をしなければならないことが多い1年だった。何かを決めた時、この決定が2~3年後も意味があるのか、先々重荷になる決定ではないか、感謝されるだろうか、そんなことを考えることが多かった。
▼来年に向けては、どんなことを考えるだろうか。来年のことは、あまり思い付くことはないけれども、今年の反省から1つだけ触れるとすれば、健康な体づくりを考えなければいけないということだろう。腰の筋肉が弱り、視力の調節が困難になり、思いもかけない障害が忍び寄ってきた。体のよりいっそうのケアと、ケガに強い体づくりを心がけなければいけないとつくづく思った。
▼夜半のミサ、巡回教会で、女の子の洗礼式が行われた。お母さんが大明寺教会出身で、現在は結婚して伊王島を出ているが、故郷で、おじいちゃんおばあちゃんの見守る中、洗礼を授けたかったのだろう。初めて赤ちゃんを連れて司祭館にやってきた時、女の子と男の子を取り違えてしまい、ガッカリさせてしまった。
▼年賀状を気にしつつ、年末によくやっていることがある。説教の型枠を次の1年分用意することだ。型紙がないと年末年始、受難の週などはバタバタするので、前もって準備するのが習慣になっている。保存用のワードファイル、HP閲覧用のPC用とケータイ用のHTMLファイル、メルマガ発行用の型枠などだ。結構面倒なのだが、作ってしまえば1年間苦労知らずなのでここは踏ん張りどころである。
▼1年先まで型枠のファイルを作ってみて、楽しみな気づきがあった。今回のメルマガも、450号で嬉しいのだが、500号を2010年の10月末に迎えることが分かった。予定では来年の10月31日、年間第31主日となっている。400号もずいぶん続いたなぁと喜びをかみしめていたが、この500号はさらに味わい深いものとなると思う。
▼とは言え、目の前のことを1つ1つこなしていかなければ嬉しいその日もやって来ない。クリスマスが楽しみだからと言って、12月1日の朝に布団をかぶったところで、クリスマスが早まるわけではない。1歩ずつ、踏みしめて、過ごしていきたい(地味な決意だなぁ)。

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新企画今週の1枚
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第57回目。予定では、洗礼式を終えた赤ちゃんとその両親。

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‥次の説教は‥‥
主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-18)
‥‥‥†‥‥‥‥
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待降節第4主日(ルカ1:39-45)あなたの「挨拶」は聖書的な挨拶ですか

2009-12-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/12/20(No.449)
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待降節第4主日
(ルカ1:39-45)
あなたの「挨拶」は聖書的な挨拶ですか
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御降誕を直前に控えているこの待降節第4主日に、福音朗読は洗礼者ヨハネの母エリザベトと、イエスの母となるマリアを取り上げています。マリアが、ザカリアの家を訪ねて、エリザベトに挨拶します。今日は、聖書の中に出てくる「挨拶」について考えてみたいと思います。

マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4つの福音書を通して「挨拶」という言葉が何回出てくるかを調べた所、13箇所見つかりまして、そのうち1箇所は日本語では「挨拶」という訳が入ってますが(ルカ7・45)、英語では挨拶に当たる言葉が見つかりませんでしたので、12箇所が実際には関係していることになります。

12箇所出てくる「挨拶」の場面をもう少しよく見てみると、はっきり2つの種類に区別されます。1つは、日本人がふだん考えている「挨拶」です。たとえば、イエスが弟子を宣教に派遣する場面で、次のような指示を与えて送り出しています。

「財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。」(ルカ10・4)ここで言う挨拶は、「やあこんにちは。いい天気ですね」というような挨拶で、日本人にもよく分かる種類の挨拶です。この、「日本的な挨拶」が、12箇所のうち7箇所現れます。

あとの5回の挨拶ですが、これは日本語の「挨拶」では括れない場面です。たとえば、マタイが記すイエスによる弟子の派遣の場面で、「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。」(マタイ10・12)と言っています。わたしたち日本人は、「平和があるように」と挨拶しません。つまり聖書に現れる挨拶の中には、日本人の感覚で掴みにくい「聖書の世界の挨拶」という感覚があるということです。この点を、まず押さえておきましょう。

では、「聖書の世界で考えられている挨拶」には、どのような内容が含まれているのでしょうか。先ほど紹介した「『平和があるように』と挨拶しなさい」とのイエスの指示からすると、聖書の世界で交わされる「挨拶」には、「こんにちは。お元気ですか」以上の何かが含まれていることが分かります。

さらに考えを進めるために、マリアに関わる例を拾ってみましょう。「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」(ルカ1・29)マリアにかけられた挨拶とは、天使ガブリエルの「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(ルカ1・28)というものです。

これは、日本人の感覚から言うと、「祝辞」に当たります。つまり聖書の世界の挨拶には、「祝辞の意味合い」「相手の祝福を願う意味合い」が含まれるということです。そう考えて福音書に出てくる挨拶を読み返すと、なるほどねと思います。「日本的な挨拶」と区別される挨拶の場面は、すべて「相手の祝福を願う」という意味合いがあるのです。

5つとも、ざっと目を通してみましょう。「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。」(マタイ10・12)「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」(ルカ1・29)「(マリアは)ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。」(同1・40)「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。」(同1・41)「あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。」(同1・44)

みごとに当てはまります。まとめると、聖書の世界で「挨拶」は「こんにちは。お元気ですか」に終わらないということです。相手の祝福を願い、相手に祝福を送り届ける。それが聖書の世界で言う「挨拶」の意味合いなのです。

聖書の中の挨拶は今確認できました。ではわたしたちは、この聖書の世界の挨拶とどのような関係にあるのでしょうか。「聖書の世界の挨拶は分かるけれども、ここは日本だから、関係ない」ということでしょうか。わたしは、そうであってはいけないと思います。むしろ、聖書の世界での「挨拶」の役割を積極的に取り込んで、日本における「挨拶」の役割を塗り替えるような気持ちを持ってもいいのではないかと思います。

こういうことです。日本には、カトリック信者が40万人ほどいると言われています。日本の人口がざっと1億2750万人だとすると、318人に1人の割合になります。この、318人に1人しかいないカトリック信者が、「こんにちは。お元気ですか。神さまの祝福がありますように」と挨拶をすることで、日本的な挨拶が、聖書的な意味合いの挨拶に塗り替えられるのではないでしょうか。

もちろん、声に出して「神さまの祝福がありますように」と言うのは難しいかも知れません。わたしもたぶん声には出せないと思います。けれども、そんな気持ちを込めて挨拶をすることは、可能なのではないでしょうか。

わたしが、日本的な挨拶の中に聖書的なものの考え方を取り入れましょうと話している理由は、別のところにもあります。この日本では、聖書にしか出てこないはずの言葉がちゃっかり日本語で使われているのに、聖書的、あるいはキリスト教的な意味が完全に抜き取られて、いわば盗作されている言葉があるからです。

すぐに、2つ思い付きます。「洗礼」と「三位一体」です。プロ野球で初登板のピッチャーがめった打ちに遭い、火だるまになったとしましょう。翌日の新聞には「彼はプロの洗礼を受けた」と書き立てられます。当たり前のように「洗礼」という言葉が使われていますが、意味はまったく違っています。これは聖書の言葉を勝手に使っているいわば「盗作」です。

小泉純一郎さんが総理大臣だった時、「三位一体改革」という言葉が盛んに使われました。意味は横に置いて、言葉だけ借りてきての「盗用」です。日本語はどんな言葉でも探してきて、いつの間にか意味を横に置いて、日本で通用させているのです。本当の意味を、本当の使い方を、日本の中で取り戻すために何か行動を起こす必要があるのではないでしょうか。

「挨拶」の話に戻りますが、一方で聖書本来の意味、キリスト教本来の意味を持つ言葉が日本で乱用されているので、本来の姿に立ち帰らせるよう行動を起こす必要があるでしょうし、日本人がこれほど、もともと持っていなかった言葉を巧みに取り入れる国民なのであれば、「挨拶」に、わたしたちが積極的に関わって、「聖書的な意味合い」を少しずつ浸透させるなら、ひょっとすると成功するのではないかということなのです。

今は、318人に1人であっても、40万人全員が「こんにちは。お元気ですか。神さまの祝福がありますように」との思いを込めて挨拶をすれば、日本語の挨拶の意味合いは、いつか塗り替えられるのではないでしょうか。

マリアは、エリザベトに挨拶します。「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった」(1・41)のです。マリアの挨拶に込められた祝福が、エリザベトのお腹にいたヨハネを喜び踊らせたのです。

わたしたちも、挨拶を交わす相手に、「祝福」を願いましょう。まずは、ミサの中での「平和の挨拶」からです。「主の平和」という挨拶は、「主のこんにちは」という意味ではありません。「主の平和が、あなたの上にありますように」という意味のはずです。

日本語の挨拶ですが、聖書的な意味合いを心に留めて挨拶し合うことで、この日本にキリスト教的な価値観、福音の種蒔きをしていくことができるように、機会あるごとに実践してみましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼ありがたいことに、先々週の「アレルヤ唱が歌えない」についていくつもメールを頂いた。中には、フリーソフトを紹介してくださり、合わせて待降節のアレルヤ唱の譜面を入力したファイルも用意して、いつでも練習ができるように協力くださった人もいた。有り難いなぁと思うし、メルマガをまめに読んでおられるのだなぁとあらためて思った。
▼では、その後の実践はどうかというと、これが未だに歌えないでいる。練習をして、さぁこれで歌えるぞと巡回教会に行ったものの、答唱詩編を歌ったあとにアレルヤ唱の音符に向かってみると、譜面から音が聞こえてこないのである。いろんなアレルヤ唱の旋律がその場で浮かんできたけれども、すべて待降節用でないものばかり。ある意味見事だと思う。
▼またも、歌えない屈辱を味わい、気落ちしてミサから帰ってきた。プレゼントで作ってもらった譜面の音を聞き直す。あーこれだこれだと、ようやく思い出せなかった音に再会する。この繰り返し。一体どういう事なのだろう。「ミソソファミー・ファソファミーレー」。これだけなのだと思うけれど、その場になるとまたも歌えなかった。
▼12月16日で待降節前半が終わり、17日から待降節後半の歌に切り替わった。もちろん、練習はしているが、本番で歌えるだろうか。「やればできるはず」と言い聞かせて、要求を下げないで、はたして成功するだろうか。神は、この場面に、何を学ばせようとしておられるのだろうか。
▼先週と今週、馬込教会でクリスマス前のゆるしの秘跡を設定している。わたしは思う。無駄かも知れないが、長崎教区の7つの地区に1教会ずつ、毎週日曜日、一定時間必ずゆるしの秘跡のために待機している司祭がいたら、長崎教区にとって大きな恵みの場になるのではないだろうか。要望は本部事務局が採用しなければ、ただの絵に描いた餅なので、教区本部が受け付け、吸収する仕組みが先に必要かも知れない。
▼根本的な問題だが、アイディアを一覧表にしたような掲示板が教区で機能していない。この問題について、すでに取り組まれているものを探す。探せば何か見つかる、そんな掲示板が必要だと思う。個々の小教区とか、主任司祭とかはアイディアを盛り込んで活性化を図っているけれども、「こういうことに取り組んだら、こんな結果でした」ということを見つけ出す場所がない。「よきおとずれ」はその手段になりうるが、いかんせん検索するには紙媒体は都合が悪い。
▼教区全体のことを言ったのでついでの話だが、長崎教区内すべての地区で、毎週街頭説教をしたらどうかと思うことがある。いつか話したかも知れない。わたしが中学生時代、平和公園で「ある修道会」の修道士さんを見た。彼は、自分の会の出版物を手に持って、道行く人々に語り掛けていた。立ち止まる人はほとんどいなかった。冷やかし半分で、わたしはよく宣教師の話し相手になっていた。
▼そのような宣教は現代的ではないかも知れない。無意味・無駄かも知れない。けれども、わたしは街頭説教に個人的に興味がある。現代でも、「荒れ野に叫ぶ声」が必要なのではないかと本気で思っている。いつになるか知らないが、警察の許可を得た上で、毎週毎週どこかの場所に立って、ゲリラ説教をしてみたい。わたしにはその夢がある。

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新企画今週の1枚
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第56回目。サーカスを生まれて始めて観に行きました。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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待降節第3主日(ルカ3:10-18)ごく普通の準備に、神の偉大なわざが実現する

2009-12-13 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/91213.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
09/12/13(No.448)
‥‥‥†‥‥‥‥
待降節第3主日
(ルカ3:10-18)
ごく普通の準備に、神の偉大なわざが実現する
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馬込教会のクリスマスの飾り付けの日になりました。クリスマスの準備を、見える形で表す絶好の機会です。ぜひたくさんの人に参加してもらって、立派に飾り付けてほしいと思います。

クリスマスの準備は、見える形での準備と、見えない準備とがやはり必要だと思います。そこでわたしは、見えない準備について今日少し話してみたいと思います。馬込教会のように、待降節が始まると待降節専用のローソク台を準備する教会があります。待降節第1主日にはローソクが1本灯され、第2主日になると2本灯され、そうやってローソクが増えていきます。今週はローソクが3本灯されて、色鮮やかです。

このローソクは、ある人にとっては心の準備を促すともし火となります。先週、ローソクは2つだったなぁ。今週は、また1つ付け足されたなぁ。わたしの中で、先週よりも今週と、少しは準備が進んだかなぁ。そんなことを考えさせるきっかけのローソクになっているかも知れません。

もう1つ、見えない準備の例を挙げると、クリスマスの前のゆるしの秘跡です。ゆるしの秘跡を通して、心の準備をします。これも、見えない準備と言えるでしょう。そこで、思い出に残る、ゆるしの秘跡の話をしたいと思います。

確か、クリスマス前のゆるしの秘跡だったのだと思います。告解場に座っていて、足もとからしんしん冷えて、「あ~、誰も来んやっか(誰も来ないじゃないか)」と思っていた時のことです。1人の男性が告白しに来ました。その男性は、20年ぶりに告白しに来たと言いました。

これ以上は秘密を守る必要がありますので言いませんが、わたしの心にはとても温かいものが伝わってきて、その日の2時間ほどのゆるしの秘跡の間、まったく寒さを感じることなく務めを果たすことができたのを覚えています。もう15年以上前のことなので、懐かしく感じます。

わたしは、当時の主任司祭に、その日に起こったことをどうしても話したくて、ゆるしの秘跡に20年ぶりに来たという人がいましたと話したのです。もちろん誰かも分かりませんし、来たことだけしか話しませんでしたが、主任司祭は「良かったなぁ」と言って喜んでくれました。今になって思うと、あれは神さまからのステキなクリスマスプレゼントだったのかなぁと思います。

福音朗読に入りたいと思いますが、人々は洗礼者ヨハネのもとに来て「では、わたしたちはどうすればよいのですか」(3・10)と尋ねます。それぞれ、いろんな立場の人々が、ヨハネの促す回心を実行したいと心の底から思っていたのです。

ヨハネの返事は、ごく普通の実践的な指示に留まりました。福音朗読の繰り返しになりますが、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(3・11)とか、「規定以上のものは取り立てるな」(3・13)また、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」(3・14)と勧めます。皆があっと驚くようなことではなく、毎日の生活で、毎日できることが、ヨハネの勧めた回心の実践だったのです。

わたしも、ヨハネのもとに行って、「わたしは、何をしたらよいでしょうか」と問いたい気がします。おそらく、毎日できることをヨハネはわたしに命じるでしょう。ヨハネが命じる回心のわざは、何を言わんとしているのでしょうか。

こう言うことかも知れません。だれもがあっと驚くことを見せびらかすよりも、毎日できること、今日しなさいと言われて今日できることを続けることのほうが、回心のわざとしては価値がある。そういうことなのかも知れません。そして、この当たり前のようなことを当たり前に続けていく中に、神さまのあっと驚く働きがある時降りて来るのではないでしょうか。

当時の、洗礼者ヨハネが勧めた、ごくごく自然な回心のわざを実践している場所に、イエスがおいでになりました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」

「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(3・16-17)人間では決してなし得ないわざが、イエスによってなし遂げられます。それも、あっと驚くような回心を果たしている場所にイエスがおいでになるのではなく、ごく普通の、毎日できることを繰り返しているその場所に、イエスはおいでになるわけです。

このことでわたしは、15年前のクリスマス前のゆるしの秘跡を思い出すのです。「あ~寒い。誰も来んやっか」と文句たらたら告解場に座ったわけですが、神さまは1人の男の人を遣わしてくださいました。毎年の、クリスマス前のゆるしの秘跡の時間を設けたことで、その人はやって来ることができたわけです。

いつ来るか分からない人を、いつ来るか分からないからと言って待たないのでは、きっとその人と出会えないのだと思います。20年ぶりにやって来るその人と出会うためには、20年間、毎年毎年、同じことを同じように繰り返して待ってないと、出会えないのかも知れません。

20年前と、告白をした神父さんは違っていたかも知れません。けれども、20年前から、毎年変わらずクリスマス前のゆるしの秘跡を続けていたので、その人は告解場に座ったのかも知れないなぁと思ったのです。司祭にとって、司祭にできる当たり前のことを、当たり前に果たしているその場所に、神はあっと驚くわざをなし遂げられるのだと思います。

神の独り子の降誕は、神が行うわざの中でも、最上のわざ、あっと驚くわざだと思います。その、神にとってもあっと驚くわざは、人間があっと驚く回心を準備していたから与えられたわけではないのです。救い主を、いつも通りに、いつもの形で準備しているところに、与えられたのです。わたしたちは、この神の不思議ななさり方を、じっくり思い巡らせたいと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼つい最近のことだが、わたしから「無能」と判を押されたDVD・HDDレコーダーのDVD機能が、一定の条件下で作動することが分かった。すでに4年ほど酷使してきた機器だが、1年ほど前から、録画したものをDVDにしようとすると失敗、この繰り返しだった。
▼いちばん腹が立つのは、新品のDVD-Rディスクで記録しようとしているのに、「ディスクに傷があり、録画できません」とメッセージを出すことだ。つまり、「あなたの入れたディスクが不良です」と言っているのである。悪いのはどっちだ。おかげで神経をすり減らし、最終的に「お前は無能だ」とわたしから判を押されてしまったのである。
▼機器のエラーは、いつも同じ場面で発生した。素材となる映像を選び、2時間分をDVD-Rに焼き付ける。この過程の、本当にあと少しという最終段階で、「このディスクは使用できません」と作業をボイコットする。使用したディスクが無駄になること、かけた時間が無駄になること、それにともなう失望感、いらだち。次はうまくいくかと、あと1回だけ期待をかけてみる。
▼すると、またも「このディスクは傷があり、使用できません」と言う。ここに至って怒りは倍増することになる。結果、機械に当たり散らし、「お前は能無しだ」と宣告し、その後、ごく最近まで、レコーダーのHDD部分しか使用していなかった。
▼それでも、どうしてもDVDディスクを作成したい場面があるわけで、DVDドライブへの要求を下げてみることにした。わたしは基本的に、「ここまでできる」と性能をうたっているものには決して要求を下げない。「DVDディスクに2時間記録できます」と書いてあれば、何が何でも2時間分の機能を求めるのだ。
▼しかし、背に腹は替えられず、まずは30分の素材を選び、それが成功したら15分ずつ記録時間を延長して作業を進めた。45分、60分、75分、90分。105分のところで、「ディスクに傷が・・・」と不平不満を言い出すことが分かった。どうやら、90分までの記録は、問題なく作業できるが、それ以降の部分で、何か作業に支障を来しているのだろう。
▼2時間のうちの30分、録画可能な領域が使用できないが、90分録画できることが分かったのは大きかった。問題を起こせば即「お前は無能だ」と言うのは間違っていると思った。機械に限ったことではないだろう。人に対する見方も、わたしは同じだったかも知れない。
▼こちらの要求は下げずにいて、要求を満たさない相手には非常に厳しい判断を下していたのだろう。申し訳ないことをしたと今は感じている。能力のすべてを出し続けるように要求するのではなく、5割とか、7割でこちらが了承すれば、ずっとずっと働いてくれる。そのほうが結果的にはプラスになる。これから考えてみてもよい発想だと思った。

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新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第55回目。前歯が抜けています。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
待降節第4主日
(ルカ1:39-45)
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待降節第2主日(ルカ3:1-6)谷は埋められ、山は低くされる

2009-12-06 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/91206.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
09/12/06(No.447)
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待降節第2主日
(ルカ3:1-6)
谷は埋められ、山は低くされる
‥‥‥†‥‥‥‥

土曜日に、大明寺教会でたった1人残っている小学生に声を掛けて、ミサのお手伝い、「侍者」の練習をさせました。もちろん、日曜日のミサで侍者デビューをさせるためです。大明寺教会では、今日のこの日のミサから、侍者をしてイエスさまにお仕えしております。侍者は、見える形では司祭にお仕えしていますが、本質的には目に見えないイエスさまにお仕えしているのだとわたしは思っております。

さてその土曜日の練習ですが、小学1年生ということもあって、最初から全部を教えませんでした。全部教えると全部忘れる可能性がありますので、今回は説教が終わって、パンとぶどう酒、お賽銭などの奉納を受け取る部分まで、要するに前半部分までを教えたのです。わたしの考えとしては、次にもう1度練習の時間を設けて、後半部分を練習して、それで全体を教える予定でおりました。

本当に素直な子なので、練習はスムーズに進んだのですが、それでも分からないことを尋ねる時はドキッとする時もありました。こんなことがありました。「神父さまのお話『説教』が終わったら、ちょっとお祈りをしたあとに、ぶどう酒とか、パンとか、献金とかを真ん中に行って受け取るんだよ。お説教の終わった後だけど、『説教』って分かる?」

「わかりません」「神父さまのお話さ」「神父さまって、どんな話をするんですか?易しい話ですか?」「易しくはないねぇ。難しいかな~」「大人の人は話を聞いて笑いますか?」「少し、笑うかなぁ」かなり鋭い質問でたじたじでしたが、どうやら一回も話を聞いたことがないらしいなぁということははっきりしました。

もう1つおもしろいなぁと思ったのは、奉納を受け取る部分まで終わって、それをさらにもう1度おさらいして、さて今日の練習は終わりだよと小学生に声を掛けますと、その子がこう言ったのです。「えー?鈴を鳴らす練習はないのかなぁ。」

これには参りました。「鈴?そうかぁ。鈴をどうしてもやりたいか。じゃあ鈴の練習もするか。鈴は6回鳴らすんだよ。」6回鳴らす場面を実演して教えますと、本人は安心したようでした。○○君にとって、侍者とは鈴を鳴らすことができる特権を与えられるということなんだなぁ、今までやっていた侍者のおじさんの姿を見ていて、鈴を鳴らす場面が、何よりもその子の心を捉えていたんだなぁとよく分かりました。

数年ぶりに侍者をする子が与えられて、神さまは何か、その教会に必要なものを与えてくれるんだなぁと実感しました。すべての教会共同体に侍者が与えられるという意味ではありませんが、どの教会にも、何かを与えて下さって、「地の塩」「世の光」としての使命を果たしていけるようになさるのだなぁと思ったのです。

福音朗読では、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れ、使命を果たす活動が始まりました。ヨハネが現れた時代に限ったことではありませんが、社会には谷があったり、山があったりします。社会で光が差さない部分、落ち込んでいる部分を谷と表現していると考えてみると、明るい話題がないなぁとか、この先じりじりと活力がなくなっていきそうだなぁとか考えている人々に、希望の光を神は与えるわけです。

そのことを洗礼者ヨハネは、荒れ野で人々に告げ知らせるのです。ただし、ヨハネが与えるのではなく、神が、来るべきお方を通して与えてくださると知らせます。

「山と丘とはみな低くされる」(3・5)とあります。問題が山積み、抱えている課題がいっこうに解決しない。そういう状況は、ため息の出る山のように見えるかも知れません。解決できそうにない現実を、神は解決に導いて低くして下さいます。この場合も、洗礼者ヨハネがそれを果たすのではなくて、あとに来られる方が必ずそうしてくださると、人々に告げるのです。

誰も、このような希望を語ることができなかった時に、神は洗礼者ヨハネを与えて下さって、語り掛けたのでした。「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」(3・6)とは、未来を語る人がいなかった時に、洗礼者ヨハネが未来を語り、もうすぐ救い主が来ることを知ったということです。深い谷と、ため息の出るような山を、なだらかにしてくださる救い主が、すぐそこまで来ています。

洗礼者ヨハネの姿は、神がその民に、また時代に応じて何かを与え、力強く導いてくださることのしるしだと思います。わたしたちはどうしても、あれもないこれもないと考えがちですが、きっとどこかで見落としがあるのではないでしょうか。何も与えてくれず、何も残してくれずに、神がご自分の民を放っておくとは思えません。きっと、何かを与え続けておられるはずです。

わたしは、主の降誕が、見えるしるしだと思います。幼子としておいでになった主は、豊かな場所に降りてきたのではありませんでした。家畜が避難する場所に、お生まれになりました。人が、人として扱われる場所ではなく、動物が世話を受ける場所に置かれたのです。それは、社会の谷底、光の届かない場所に、神は光を届けるというしるしだったのではないでしょうか。

ぜひ、この待降節に、わたしたちの教会にどんな光が注がれようとしているのか、考えながら御降誕の日を待ちましょう。なかなか光が見えない中で、見落としているものがあるかも知れません。こんな形でわたしたちに「地の塩」「世の光」となれる材料を下さっていた。そんな気づきが与えられて、喜びをもって御降誕を迎えることができるように、聖霊の照らしを願うことにしましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼音痴で困っている。日曜日、高島教会ではオルガンを弾いてくれる信徒がいないため、伴奏なしで、こうじ神父が答唱詩編とアレルヤ唱の音を取っている。答唱詩編は何とかなっていると思うが、アレルヤ唱は待降節になった途端に、音が取れなくなった。しかたなく、「今日は唱えます」と言って唱えて終わった。
▼頭の中で試しに歌ってみるが、音符とどうも合わない。音程も合わない。おそらく、年間のアレルヤ唱か、他の季節のアレルヤ唱が頭の中で巡っているのだろう。同じことは、もう1つの巡回教会、大明寺教会の木曜日のミサでも困り果てている。この前の木曜日、とうとう歌えずに唱えてしまった。何かいい方法はないものか。
▼現在は、高島教会に行く前に大明寺教会と馬込教会を済ませてから行くので、少なくとも2回はアレルヤ唱を歌うチャンスがあるはずである。それなのに、高島に行って試しにアレルヤ唱を口ずさんでみると、違う季節のアレルヤ唱にすり替わっている。いろいろ歌い方を変えても、目の前の音符の歌い方だけが出てこない。ある意味天才的だ。
▼平気な顔で、別の季節の歌い方でアレルヤ唱を歌っても、信徒は疑いもせずに同じ歌い方で歌ってくれるかも知れない。それほど、誰も自信がない。説教の続きではないが、誰も歌う自身がない共同体に、神はどんなプレゼントを用意してくれるのだろうか。歌うために、無いものばかりが見えている中で、どんな発見が残されているのだろうか。
▼もし、読者の中で、季節毎のアレルヤ唱を歌い分けるコツの分かっている人がいたら、ぜひ知恵を拝借したい。音符を見ていて、歌えないのである。音符を目の前にして、別の歌い方ができるのである。そんな音痴に、救いの手があるなら、妙案があるなら、ぜひお知恵を拝借したい。

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新企画今週の1枚
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第54回目。侍者デビューした子を載せる予定。タイマー撮影、確約ナシで。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
待降節第3主日
(ルカ3:10-18)
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