こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

主の昇天(マタイ28:16-20)足元を見据え、イエスの望みを彫り出す

2017-05-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/5/28(No.887)
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主の昇天
(マタイ28:16-20)
足元を見据え、イエスの望みを彫り出す
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主の昇天の祭日を迎えました。イエスと弟子たちの関わり方が決定的に変わるのが主の昇天の出来事だと考えています。イエスと弟子たちの関わり方は、イエスとわたしたちの関わり方にも通じています。

わたしたちがこれからどのようにイエスに関わって生きていくべきか、与えられた朗読を頼りに考えてみましょう。あわせて、中田神父は田平小教区で司祭叙階銀祝を迎えることができました。25年積み重ねてきたことをこの説教にすべて注いで、皆様への感謝の気持ちをお伝えできればと思います。

最近テレビの調子がよくありません。広島カープが勝ったり負けたりするのです。電気屋さんに「このテレビは調子が悪い。修理してくれ」と言おうと思っています。もし広島カープが勝ち続けるテレビが売っていたら、買ってきてもいいと思っています。

【前晩のミサのために】繰り上げミサの前に、聖母行列を行いました。聖母マリアは今週の主の昇天の出来事、イエスと弟子たちの関わり方が決定的に変化することを理解するための理想の姿だと思います。マリアはたびたびわが子イエスとの関わり方に変化を求められました。

初めはイエスを神殿に奉献する時です。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。」(ルカ2・35)ふつうの母としてわが子に接する道は横に置かなければなりませんでした。

その後はイエスが12歳になって、神殿でイエスを見失い、見つけた時。さらに婚礼の席に招かれ、母マリアがイエスに「ぶどう酒がなくなりました」(ヨハネ2・3)と伝えた時。最後は十字架の上で「見なさい。あなたの子です」(ヨハネ19・27)との声を聞いたた時。ほかにもまだまだありますが、ふつうの親子の会話、親子の関りは、何度も横に置かざるを得ませんでした。

けれどもその度に、母マリアはイエスとより高い関わり方に目を向け、そこに身を置いたのです。イエスは母マリアを通して、「わたしについて来たい者は、その度にわたしとの関わり方を見直す勇気が必要です」と、招いていたのだと思います。

【銀祝記念ミサのために】あっという間に25周年を迎えました。記念の御絵を用意しました。司祭叙階の時に用意した御絵を、聖書の言葉を入れ替えて作り直しました。その心は、「変わらずにミサを大切にしていきます」ということと、「ミサ、とくに説教に向き合う姿勢はこの25年で変わりました」という思いです。

司祭叙階の時は、詩編116「神が与えてくださったすべての恵みに、わたしはどのようにこたえようか。救いの杯をささげ、神の名を呼び求めよう。すべての民の前に進み出て、神に立てた誓いを果たそう」(詩編116・12-14)を選びました。ミサをささげ、自分から進んで感謝するという姿勢でした。

25年を経て、わたしの思いは詩編118がより近いと感じるようになりました。「わたしはあなたに感謝をささげる。あなたは答え、救いを与えてくださった。」(詩編118・21)いつも願いに答えてくださった神に、ミサをささげて感謝する以外わたしに何ができるだろうか」そんな思いに変わったのです。今までは「ミサでもささげて感謝しようかな」だったのですが、「ミサで感謝を表すことしかわたしにはできない」と認めています。

聖書の中でそれは、母マリアが人間の理解を超える神の求めに「お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1・38)と答えてイエスとより高い関わり方に目を向け、そこに身を置いた姿です。イエスは母マリアを通して、「わたしについて来たい者は、その度にわたしとの関わり方を見直す勇気が必要です」と、招いていたのだと思います。

イエスは弟子たちに、マリアを通して示された道を歩ませます。すなわち、イエスが天に昇られると、目の前にイエスがおられた時よりも高い段階での関わり方に身を置くよう求めてくるのです。

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(28・19-20)

イエスが弟子たちと宣教活動しておられた時は、言われたことを行えばそれで済みました。しかしイエスが天に昇られると、「あなたがたに命じておいたこと」を思い出し、実行する必要があります。イエスに率いられて業を行うよりも、イエスが共にいることを人々が理解できるような業を行うほうが、イエスとのより深い一致が必要です。

第一朗読に登場した「白い服を着た二人の人」の言葉は印象的です。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。」(使1・11)

イエスが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28・20)と仰るのはその通りですが、イエスは天の父のもとに昇られました。ですから3年間の宣教生活と同じことを望むことはできません。天を見上げていても始まらないのです。これからは弟子たちの業の中に、イエスの存在を示すのです。弟子たちの業を見て、人々はイエスが共におられることを知るのです。

わたしも、司祭叙階25年を迎えて、イエスとの関わり方により高い段階を求められていると思います。今までは、説教をする時「感じたこと、気付いたことを分かりやすく示す」そういう努力でした。できるだけ分かりやすくという点については、もしかしたら経験を積むことができたかもしれません。

しかしこれからは、与えられた朗読箇所が「ここを伝えてほしい」「このように伝えてほしい」と語りかける声に耳を傾け、指し示していきたいのです。感じたこと、気付いたことを思い通りに伝えるだけでは、イエスとの関わり方はもはや深まっていきません。このままの司祭生活だと、イエスは先へ行くのにわたしは現状維持で、イエスとの距離が広がってしまいかねません。

イエスとの深い一致を求めて、イエスが言いたいことを福音から掘り出す説教でありたいと思います。思うことを思い通りに掘り出すのではなく、「このように彫り出してくれ」この声に聴き従いながら、イエスが望む姿を彫り出す説教を目指したいと思います。

イエスと弟子たちの関わり方がより高い段階になるのは、司祭や修道者にだけ求められているのではありません。信徒の皆さんにも求められています。信徒の皆さんも、現状にとどまっていては、「なぜ天を見上げて立っているのか」と言われてしまうのです。

わたしたちの信仰が、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(ルカ18・12)この延長線上の信仰であるなら、もはやそれ以上信仰の深まりは体験できないでしょう。イエスは「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(マタイ9・13)と望んでいるのに、わたしたちが同じ信仰を求めないなら、あとから来た人に追い越されてしまいます。

イエスはご自分を信じるすべての弟子に、「あなたの思う信仰を思い通りに歩むのではなく、わたしの望む信仰を歩みなさい。生活の中で、わたしの望みを彫り出して、人々に示しなさい」と招きます。わたしたちには天を見上げて立っている暇などないのです。

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‥次の説教は‥‥
聖霊降臨の主日
(ヨハネ20:19-23)
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ちょっとひとやすみ
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▼小教区で司祭叙階25周年の祝いを設けてもらった。5月28日のことなのでここで話すのは「おおよその予定」なのだが、ある意味、25周年をどこで迎えているだろうかというのは25年前に考えていたことだ。
▼田平教会で祝ってもらえるなどとは夢にも思わなかったわけだが、与えられた答えは申し分のないものだった。両親ともに健在で祝ってもらいたかったが、少なくとも母親は健在でミサと祝賀会に参加できる。5月31日に亡くなった父も、この日の祝いを喜んでくれているだろう。
▼25周年を迎えた先輩方は星の数ほどおられるが、やはりいちばん影響を受けたのはわたしが司祭に叙階された時の郷里の主任司祭萩原師だ。萩原師は田平教会出身であり、不思議な巡り合わせで、司祭職に導いていただいた先輩の50周年(金祝)をわたしが整えてあげることができた。
▼萩原師が25周年の時、福岡の大神学院で感謝のミサを共にささげ、その時説教をしたのを覚えている。わたしたちは神に託された手紙のようなもので、神が手紙の内容を書きつける。その内容をわたしたちは告げ知らせるのだと、そういう内容だったと思う。神に刻まれたみ言葉を生涯告げ知らせる姿は、わたしの中にも宿った。
▼説教の姿勢も、そのスタイルも、萩原師とは違う。ひょっとしたらお気に召さないかもしれない。けれども、師の精神はわたしの原動力だ。わたしもこれから生かされている間は説教を練り、積み重ねていくつもりである。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第494回目。もしチャンスがあれば、叙階25周年のミサと祝賀会の様子を。

ホームページもご覧ください。
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復活節第6主日(ヨハネ14:15-21)わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない

2017-05-21 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/5/21(No.886)
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復活節第6主日
(ヨハネ14:15-21)
わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない
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復活したイエスは四十日にわたり弟子たちに現れ、その後天に上げられたと教会は教えます。今週は復活節第6主日、いよいよ父なる神のもとに帰るにあたり弟子たちを励ます言葉が聞こえます。わたしたちも復活したイエスがより身近に感じられるきっかけをつかみたいと思います。

直前に亡くなって葬儀ミサをささげたお父さんの姿をじっと眺めていて、わたし自身の父のことを思い出しました。9年前の5月31日にわたしの父は亡くなりましたが、棺に納められて丸一日自宅で過ごしました。もちろん話をすることなど叶わないわけですが、奇跡が起こって返事をしてくれないかと思いつつ、心の中で話しかけたのを思い出します。

結論から言うと、話しかけてその時は返事をもらえなかったわけですが、問いかけたり話しかけたりした返事は、少し違う形でもらえたような気がしています。中田神父の父親は晩年は熱心に教会に通い、ロザリオ部の部長を務めていました。ロザリオの信心を絶やさないようにするための部会でした。

そういう父親でしたので、父親の声を聞くためには、父親が常日頃大切にしていたロザリオを自分もおろそかにしないことではないかなと思うようになったのです。そうしているうちに、「お前もこの地味な信心業の良さが分かって来たか」そう父親が言ってくれているような気がしたのです。

「こんな時は、どんな決断をしただろうか。」人を束ねて、大きな目標にたどり着かせようとするとき、規模は違うかもしれないけれども、旋網船の船長時代、ロザリオ部の部長だった時代、人を束ねてきた父親の返事を探して、祈りの中で答えを見つけようとしたのです。すると、ひんぱんに通っていたミサの中で祈っている父親の姿が思い出され、「おれだったらこうするよ」とか「おれはこうしたけどな」という声が聞こえる気がしました。

年老いた姿になるまで生きてはおりませんでしたが、父親が子供たちに何を残したかったか、何を伝えたかったかは分かります。生きている間に大切にしていたものを自分も大切にすれば、生身の声は聞こえなくても、何かしらの声を聞くことができると感じたのです。

与えられた福音朗読の中で、次の言葉が目を引きました。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(14・18)イエスの約束は力強いのですが、弟子たちは「はいそうですね」と喜んだのでしょうか。先週も話しましたが、イエスは御父のもとに帰ることを明言しておられるのです。おいそれと、「安心しました」とは言えないはずでした。

けれども、イエスが「あなたがたをみなしごにはしておかない」と言うからには、信頼に足りるだけの裏付けがあるはずです。わたしたちもその点を押さえたいのです。どうすれば、イエスに置き去りにされたと感じることなく、安心することができるのでしょうか。

それは、3年間共にしたイエスとの活動を、もう一度たどり直すことです。イエスはほうぼうの町や村を巡って教えを説き、病人をいやし、救いの希望を告げ知らせました。会堂では聖書を朗読し、集まっていた民衆や、指導的立場にある人々の前に立ちました。人々の無理解に会い、指導的立場の人々から命を狙われ、それでもイエスは御父がご自分のうちにおられると信頼していました。

これからは弟子たちが、イエスの生涯を追体験していきます。各地を回って救いの訪れを知らせ、会堂で聖書を解き明かし、理解されたり敵意を買ったりしますが、その中で常にイエスがそばにいて強め、励ましてくださることを肌で感じるのです。実際にそばにいた時も心強かったのですが、復活したイエスはその後も弟子たちを守り、彼らをみなしごにはしておかないのです。

じつはわたしたちも、身近なところで同じような体験をすることができます。もっと長く生きてほしかった親に旅立たれ、戸惑っているときに、親が大切にしていたものを子供たちがたどり直していくと、どこかで親がそばにいることが感じられたりします。

決してわたしたちを置き去りにしていったのではなく、わたしたちをみなしごにはしておかない、その親心が十分伝わる何かを見つけることができるのです。その何よりの近道は、両親が大切に守り、こどもたちにも残してくれた信仰の宝物を見直すことだと思います。

子供たちが、なぜここまでしてわたしに信仰を残してくれたのか、たどり直してみるときに、みなしごにはしておかないと考えていたことがありがたいと思えるようになるのです。親から子に残してくれた信仰をもう一度見つめ直したとき、わたしは旅立っていった父親を近くに感じることができました。

イエスも、弟子たちが途方に暮れないようにしてくださいました。わたしたちがふだん途方に暮れることがあるとすれば、それは探し求める場所が違っているのだと思います。

「わたしを近くに感じたいなら、欲望渦巻くこの世ではなく、目を天に上げ、神の国を求めなさい。そこでこそ、わたしはあなたたちのそばにいて、あなたたちを力づけることができる。」イエスは当時の弟子たちにも、わたしたちにも同じことを教えようとしています。

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‥次の説教は‥‥
主の昇天
(マタイ28:16-20)
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ちょっとひとやすみ
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▼黙想会から帰って、すぐに通夜が入った。昭和41年生まれ、わたしと同世代ということだけ聞いて会場に行ってみると、はっきりわかる人だったのでびっくりした。つい最近も車を購入したと言って祝別をお願いに来た。
▼感心な人だなぁという印象を持っただけに、本当に惜しい人を亡くしたと思う。保育園の園長の話では、こどもたちが公立の保育園に通ったために、初聖体の準備のために2人の子供を田平教会近くのカトリックの保育園に毎週連れて行き、親子で初聖体の勉強をしたそうである。
▼子供たちもそうだし、車も、いったん神さまにお預けしてそれから受け取る。その心がけは立派だと思う。わたしたちは洗礼によってこの世から取り分けられ、この世に属さない者となった。そのことをよく理解して50年の人生を駆け抜けていった。
▼わたしも、このお父さんの生きざまには頭が下がる。お手本であるべき自分の生き方は、このお父さんに届いていないかもしれない。持ち物も、与えられた役割も、いったん神さまにお預けしてそれから受け取る。謙虚さをもっと磨かなければならないと思う。
▼今回、黙想会の途中でいったん田平教会に戻った。葬儀を控えているお父さんの洗礼名を確実に確かめるため、台帳を見に行ったのだが、結果的に家族が記憶している通りの洗礼名で正しかった。
▼よく先輩たちが「葬式が入ったから黙想会失礼する」と言って途中で帰ったきり戻ってこないことがあり、「ずるいなぁ」と思うことがあった。しかし途中でいったん戻り、また黙想会に復帰して最終日にまた帰ると、次の主日のミサの時はどっと疲れが出てくることが分かった。先輩たちの行動は、ずるいのではなく、先を見ての判断であった。

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今週の1枚
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第493回目。ニャンサムウェアが流行っているらしい。写真はネットから拝借。

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復活節第5主日(ヨハネ14:1-12)わたしのいる所に、あなたがたもいることになる

2017-05-14 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/5/14(No.885)
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復活節第5主日
(ヨハネ14:1-12)
わたしのいる所に、あなたがたもいることになる
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今年の復活節第5主日は5月の第2日曜日、母の日と重なりました。読み上げられた福音朗読の中から、「こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(14・3)を取り上げてみたいと思います。

イエスさまは父である神さまのもとへ行く時が近づいていたので、弟子たちに心の準備を話しています。「心を騒がせるな」(14・1)とか「あなたがたのために場所を用意しに行く」(14・2)

けれども弟子たちは、イエスさまが離れてしまうのではないかと心配です。トマスはとうとうこう言いだしました。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(14・5)いつもそばにいてくれた人がいなくなるかもしれない。どんなに寂しく、つらいと感じたことでしょう。

さて5月の第2日曜日は母の日です。母の日に、どんなことをしてあげますか?この日のために、小学生中学生の皆さんは貯金箱から出し合って、大好きなお母さんのためにミサをお願いしてくれました。お母さんのためのミサは、母の日の特別なプレゼントだと思います。

他にもいろいろ計画していると思いますが、神父さまは、お母さんとできるだけ長い時間一緒にいてくれることが、母の日にいちばん喜んでもらえることだと思います。神父さまのお母さんは上五島にいるのでそばにいてあげることができず、残念です。でも皆さんは、できるだけ長い時間、お母さんと一緒にいてあげてください。

神父さまには家族の思い出のうち、辛い思い出も楽しい思い出も両方持っています。楽しい思い出はだれでも持っていると思うので、辛い思い出のほうを紹介します。ある日の昼ご飯、本当に食べる物がなくて困っていました。お米はあるけれども、おかずがありません。たくあんも梅干しも、ふりかけもありませんでした。

そこでしかたなく、お母さんはしょう油を持ってきました。ご飯にかけるものはしょう油しかありませんでした。兄弟みんなで、ご飯にしょう油をかけて食べました。弟たちはご飯を食べずに泣いていました。

でも兄弟の長男だった神父さまは、不思議と涙は出ませんでした。いちばん辛い思いをしているのはお母さんだと知っていたからです。こどもたちより、お母さんが泣きたいはずです。お母さんは「本当にごめんね」と言いながら一緒に食べました。

神父さまはなぜか、その時とっても嬉しかったのです。ご飯にしょう油をかけて食べるのは辛いけれども、でもお母さんと一緒にご飯を食べている。一人きりでもないし、自分ひとりだけ食べ物がないわけでもありません。船に乗っているお父さんを除けば、家族みんなでご飯を食べている。だからなぜか、嬉しかったのです。

家族が一緒にいてくれる。お母さんが一緒にいてくれる。それは本当に幸せなことです。もし、「お父さんお母さんはどこかに行くけれども、心配しなくていいよ」と言われたらどう思うでしょうか。「心配しなくていい」とか信じられるでしょうか。信じられないと思います。それよりは、何もなくてもお父さんお母さんが一緒にいてくれるほうがどんなに嬉しいでしょうか。

福音朗読に戻りましょう。イエスさまは御父のもとに戻る日が近づいています。もし弟子たちを置き去りにして御父のもとに戻るのでしたら、心が引き裂かれる思いだったでしょう。イエスさまも弟子たちを置き去りにするくらいなら、御父のもとに戻ることをためらったでしょう。

けれども、イエスさまは復活して、いつも共にいてくださるお方です。弟子たちを置き去りにはしない。はっきりとそのことを理解していたので、「心を騒がせるな」と声をかけたのです。今は、弟子たちは理解できないかもしれませんが、イエスさまが御父のもとに戻り、辛く苦しい時にきっと「わたしのいる所に、あなたがたもいる」このことをはっきり理解する時が来るのです。

神父さまのおうちでは、小さいころお父さんは船に乗っていたので一ヶ月のうち三日間しか家にいませんでした。でもお母さんは、いつも一緒にいてくれました。楽しい時ばかりではなく、辛い時、泣きたいときも一緒にいてくれました。

だから、母の日にはできるだけ長い時間、お母さんと一緒にいてほしいのです。わたしたちのためにいつも一緒にいてくれているのだから、母の日くらいは皆さんのほうが、「お母さんずっと一緒にいるよ」と声をかけてくれたらいいなぁと思っています。

イエスさまも同じことを弟子たちに考えています。イエスさまは決して弟子たちを置き去りにしません。復活していつも共にいてくださいますし、弱いわたしたちのために聖霊を約束してくださいました。イエスさまを信じる人を決してひとりにはしておかない方なのです。

そこで、わたしたちも考えてみましょう。母の日に、できるだけ長い時間お母さんと一緒にいてくださいとお願いしました。わたしはイエスさまと、いつできるだけ長い時間、一緒にいるのでしょうか?それは「主の日」である日曜日だと思います。

わたしたちは平日は、学校に通ったり習い事をしたり、ほとんどの時間を外で過ごしていると思います。イエスさまと長い時間一緒に過ごすことがほとんどできていないかもしれません。

けれども日曜日は、教会に来てミサにあずかります。ミサの時間はだいたい一時間ですね。日曜日に教会に来ると、たっぷり一時間、イエスさまの近くにいて一緒に過ごすことができるのではないでしょうか。

イエスさまはいつもわたしたちのそばに一緒にいてくださいます。わたしたちは、はっきり意識しないと、イエスさまのそばにいることができません。だから日曜日は、とくにイエスさまと一緒に時間を過ごす。そんな時間にしてほしいなぁと思っています、わたしは日曜日は特に、イエスさまと一緒に時間を過ごします。それがわたしたちの誇りになったら、本当にいいなぁと思います。

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‥次の説教は‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ14:15-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼先週は韓国語の教科書を買って少しかじっただけで韓国に行った。肝心な場面では英語で話してしまったが、自分が勉強していた教科書の内容が、大げさな言い方かもしれないが、順番に役に立った。よく系統立てて組まれている教科書なのだなと感心した。
▼日本語のできる韓国人ガイドが日本語のできない韓国人ドライバーと韓国語で打ち合わせをしていて、それがわたしの耳にも会話として一部聞き取ることができた。それは驚きだった。「○○○○ラーニング」は試したことがないが、使い始めてすぐに役に立った・・・みたいな驚きはあった。
▼「ありがとう」「大丈夫です」これが今回の旅行でつかんだ「とっさの一言」かもしれない。意外とどこでも使えそうだった。噂では、韓国人はおせっかいな人が多いと聞いていた。歩道で困った顔をしてガイドの本と地域の案内板を見比べていたら、見知らぬ人が声をかけてきた。
▼当然、何を言っているのかはわからなかったが、行きたい店の名前を言ってみたら、熱心に説明してくれた。旅行者が平戸でうろたえていても、「がんばれ~」とは思っても声まではかけないかもしれない。韓国では自分のことのように心配してくれる人と出会えた。
▼道を教えてくれたのだから、素直に「ありがとう」と言った。「大丈夫です」はここではふさわしくない。一方で店の中で熱心に商品を進める店員には「大丈夫です」と言った。日本語でしつこく声をかける店員には、面倒だから"I'm just looking."と言って遮った。この時は英語は返ってこなかった。
▼カローラフィールダーが納車されてきた。乗り心地に満足。15年は乗るだろうから、どんなに考えても乗り換えあと1回。最後に買い替えて、天国への置き土産にする車は何だろうか。

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今週の1枚
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第492回目。5月10日にカローラフィールダー納車。「五島(510)」ってか?

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復活節第4主日(ヨハネ10:1-10)わたしを通って入る者は救われる

2017-05-07 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/5/7(No.884)
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復活節第4主日
(ヨハネ10:1-10)
わたしを通って入る者は救われる
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2泊3日のお休みをいただきました。ソウル大司教区の司教座聖堂明洞聖堂を訪問してきました。縦が100m横が30mはあったと思います。この聖堂でしばらく今週復活節第4主日の説教案を考えてみました。

さて今週お願いされているミサの中で、育成会がお願いしたミサがあります。小学生・中学生の皆さん、気が付いたでしょうか。育成会のお父さんお母さんが、こどもたちが神さまのこどもとして成長してくれるように、ごミサをお願いしてくれました。

主任神父さまは、こどもの日をこう考えます。「こどものために、いちばんよいことをしてあげる日」これが神父さまの考える「こどもの日」です。育成会を作っているお父さんお母さんたちは、こどものためにいちばん良いことは何かを考えて、ごミサをお願いしてくれたのです。

もしかしたらこどもたちは、「ゲームを買ってくれることがいちばんいいのに」とか、「遊園地に連れて行ってくれたらいちばんいいのに」と思っているかもしれません。もし本当にその通りだったら、あなたのお父さんお母さんは、今日のミサに来てないでしょうし、小学生・中学生のあなたも、ここにはいないはずです。

育成会を続けてくれているお父さんお母さんがこどもたちのためにいちばん大切なことと考えたのはゲームでも遊園地でもなく、神さまの恵みを受けてすくすくと成長することです。目の前の楽しみは、目の前のことだけですが、今日こどもたちの成長を願って神さまからいただく恵みは、小学生・中学生の明日を作り上げていくのです。

未来を保証する神さまの恵みこそ、今こどもたちに必要だ。育成会のお父さんお母さんたちはそう思ったので、ごミサをお願いしてくれたのです。神父さまは育成会を誇りに思います。

福音朗読に戻りましょう。朗読の後半を取り上げたいと思います。イエスさまは「わたしは羊の門である」(10・7)「わたしを通って入る者は救われる」(10・9)と言われます。「門」をたとえにする話は、日本人には分かりやすいと思います。

立派なおうちは、入り口になる門も立派です。おうちの様子が見えなくても、立派な門を見れば、「ここのおうちはきっと立派だろう」と想像できます。門構えが、建物のだいたいの様子を想像させるのです。

お話の初めに、ソウルの明洞大聖堂に触れました。圧倒されるような大きさでした。近づくとだれもが、「入ってみようかな」と思わせる大聖堂でした。大きさは、人を惹きつけます。田平教会もそうです。明洞大聖堂にはかないませんが、ここに訪ねてきた多くの人が、入り口を探して、入ってみようと思うはずです。

建物の「門」だけではありません。わたしたちは、「入門」という言葉を聞いたことがあるでしょう。学び始めることを「入門する」と言いますし、学び始めるときの本を「入門書」と言います。有名な人に弟子入りするのを「門をたたく」と言うこともあります。それは本当に門をたたかなくても言ったりします。

教会も「門」にたとえることができます。復活徹夜祭に、一人のお父さんが洗礼を受けました。そのお父さんは田平教会の門をたたいて、勉強会を始め、洗礼を受けるために入門したわけです。イエスさまの弟子になりたいと思って入門してきました。だから、教会の門をたたいて洗礼を受ける人は、イエスさまが言っている通り、「わたしを通って入る者は救われる」のです。

大聖堂を見たとき、または田平教会のように立派に建てられた教会を見たとき、人はどうして、「ここに入ってみたい」「ここで学んでみたい」と感じるのでしょうか。それは、何かよいものがある、何かを受けることができると感じるからだと思います。

心で感じるものは、きっと本物だと思います。心で感じたこと、心に響いた声にちゃんと答えをもらったとき、わたしたちはいちばん満足できるのだと思います。特別おいしいものとか、高級な品物ではなくても、心が感じていることにきちんと答えてくれるものを、誰もが探し求めているのです。

「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」(10・9)これはイエスさまの固い約束です。立派な聖堂はイエスさまのしるしで、イエスさまが立派な聖堂を通してわたしたちを招いてくれます。「入りたい」と感じた人は、この聖堂を出入りして自分の心が期待していたものをイエスさまからいただけるのです。

聖堂に入って、聖堂でお祈りして帰る人は、がっかりした顔をして帰ったりはしません。もしかしたら何ももらっていないかもしれません。けれども、心が感じたものを多くの人が受け取って帰るのです。

わたしたちは、「行ってみたいなぁ」と思って聖堂に入る人々とは違います。わたしたちは「聖堂に入ると、イエスさまから心が感じている必要なものをもらうことができる」とちゃんとわかってやって来ています。もしできるなら、おともだちに、「わたしたちは日曜日とかに教会のミサに行って、イエスさまに育て導いてもらってるんだよ」と堂々と言える人になってほしいなぁと思います。

ときどき、教会の中を窓から覗く人がいます。ミサの説教中も、正面玄関のガラスの向こうから覗いている人がいます。窓から覗いても、イエスさまに養われることはできません。覗いて終わりではなく、「わたしの心がこの聖堂に引き寄せられているから、中に入って養われたい、中におられるイエスさまに導かれたい」そんな心の声に動かされる人がもっと増えるように願いましょう。

皆さんも、「この聖堂に入ってみたいですか?では先に入ったことがあるわたしに、ついてきてください」そんな案内をして、一人でも多くの人を真の羊飼い、真の門であるイエスさまに案内することにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ14:1-12)
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ちょっとひとやすみ
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▼4月29日に結婚式が行われた。最近は結婚式の勉強会にしても洗礼の勉強会にしても、考えさせられることが多い。時間をかけてできるだけの内容を学ばせたいと思っているけれども、「何回勉強すれば終了できますか」と聞かれる。
▼そう聞かれると「ただ終わらせたいだけなのだろうな」そういう印象を持ってしまう。しまいには、「どうしても勉強しないといけませんか?」とまで聞かれる。そうなるとお手上げで、いつの間にか勉強会にも顔を出さなくなり、せっかくの機会を逃してしまった人も。
▼わたしにも責任があると思う。だがどうしても、その人が自分で信仰の道を歩んでいくために、何かを学んでおく必要があると思っている。初めは家族や、配偶者や、周りの人がいて信仰の道案内をしてくれると思うが、その人たちがいつまでもいてくれるわけではない。
▼たとえば両親はしばしば自分よりも先に旅立つ。配偶者に頼りっぱなしの信仰も、配偶者がいつまでも共にいて、支えてくれるとは限らない。配偶者が寝たきりになったり、認知症になったり、自分の足でいただいた信仰を歩んでいくために、いくらかの勉強は必要だと思っているのだが。
▼自撮り棒を買って、自分の顔を写して、「意外と面白いな」と思った。自分に語りかける。「最後は自分が頼りだよな。だから自分の足で立って歩くために必要なものを示してあげようと思っているのに、なかなか分かってもらえないよな。」
▼もちろん、慰められるような勉強会もある。そのような勉強の人に、何度も救われた。一方で、勉強会に及び腰の人に、これからどのような導きが有効なのか考えてしまう。先輩たちも通ってきた道だと思うが、どのように乗り越えていったのだろうか。

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今週の1枚
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第491回目。ひところ流行した自撮り棒。「今頃買ったの?」と言われそう。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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