こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第22主日(マタイ16:21-27)後ろに回ってみて見えるものがある

2020-08-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/8/30(No.1079)
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年間第22主日(マタイ16:21-27)
後ろに回ってみて見えるものがある
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【期間限定】YouTubeで説教を視聴できます。
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(ミサ再開のため、現在は古いもののみ視聴可)
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「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(16・26)全世界を手に入れるくらいの熱意で、自分の命を失わないように努力すべきだ。イエスのみことばを私はこのように理解しました。自分の命を守るために、どこから始めれば良いのでしょうか。

私は、教皇フランシスコが定めたラウダート・シ特別年(今年5月24日~来年5月24日)の期間に、日本の司教団が設けることとした「すべてのいのちを守るための月間」(毎年9月1日~10月4日)この呼びかけに応えることから始めたら良いのではないかと思います。教皇様は、「すべての命を守る取り組みが、結果的に自分の命を守る大切な一歩になるのだ」と私たちに行動を呼びかけておられると思うからです。

日本の教会は、司教団の決定を受けて今年から毎年9月の第一日曜日を「被造物を大切にする世界祈願日」と定め、全国で一斉に祈り、各教区あるいは共同体の単位で具体的な行動を起こすことが求められています。このことについては、長崎教区報8月号の3頁目で、詳しく取り上げられています。どうか自宅に帰ったら、もう一度読み返してください。

田平教会は、8月の評議会でこの点を取り上げ、「海岸清掃を行うこと」としました。どこの海岸かと言うと、田平教会のレンガを運んできた海岸です。私は土地の者ではありませんが、聞いた範囲ではこの浜に船でレンガを運び、二つの山道を利用して、片方を上り専用、もう片方を下り専用と決め、大人も子供も競ってレンガを運んだそうです。

このレンガを運んできた浜も、今は立ち寄ることが難しくなっていると思います。幸いに、下り専用にしていた道からは浜に近づけるようですので、もう一度、この浜に下り立って、海岸清掃をしましょう。海岸の環境を少しでも知ることで、すべての命が繋がっていて、おろそかにしてはいけないことに気づくと思います。

またこの清掃活動を通して、私たちの先祖が苦労して運んだレンガ、苦労して建てた聖堂の重みを感じ、いつかまた、上り専用の道についても、関心を深めるきっかけになればと思っています。

これから毎年、9月の第一日曜日に具体的な取り組みをすることになりますから、教会下の浜の清掃を毎年すれば、何か、田平教会の歴史の扉を開く道に通じるかも知れません。この時期は台風の季節でもありますので、あとは天気だけが心配です。

福音に戻りましょう。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」(16・21)弟子たちにはこの言葉が理解できません。あまりに悲観的だからです。山上での光り輝く姿、ペトロ自身の信仰告白「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16・16)これらに照らし合わせても、とても受け入れがたかったのです。

「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(16・22)イエスを思う熱意からペトロはこう言いましたが、イエスに叱責を受けました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(16・23)イエスは復活の栄光まで、通るべきすべての道を尊いもの、かけがえのないものと見ていますが、ペトロはその視点を持ち合わせていませんでした。

私は、二度自動車学校のバイク教習に通っています。今になって思うと最初から大型バイクの教習に通っておけばよかったと後悔する日々ですが、このバイク教習は大変役に立ちました。バイクの教習は自動車の教習と比べ大きな違いがあります。それは、バイクは同じ一つの乗り物に乗って指導を受けることができないということです。

たとえばバイクの教官がお手本を見せて、それを見倣うとすると、生徒たちはそれを後ろからついて行ってまねることになります。また、教官は生徒たちの実技を後ろから眺めて、ここがいけないからこうしなさいと、具体的に指摘することができます。後ろに付くことで、先を行く人の教えを学び取ります。後ろに回ることで、正しい方法を知るのです。

ペトロはイエスを遮りました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」ペトロはイエスの見ているものを見ることができなくなっていました。それは、イエスの後ろに付かなかったからです。イエスの後ろに回らなければ、復活の栄光を受けるまでの正しい道を知ることはできなかったのです。

「だから大型バイクの教習に皆さん行ってきなさい」と、私は言いたいくらいですが、必要ない人も多いでしょうから、気持ちだけ受け取ってください。人は、後ろに付かなければ正しく理解できない道もあるのです。後ろに回らなければ、先を案内してくれる人がどのように見ているのか見えないこともあるのです。

イエスが見ているように見なければ、私たちは自分の命を失うことになります。イエスが「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(16・24)と言うなら、いったん自分の考えを横に置いて、後ろに付かなければなりません。

イエスの後ろに控えて、イエスが見ているように見る努力をする。これは易しいことのようで実は大変難しいことなのです。幸いに9月6日、海岸清掃をします。海岸清掃に出ることができない人は、身近な場所の清掃をしてみてください。最終的にすべての場所が海に繋がります。

自然環境の後ろに私たちは一度回ってみましょう。各自、命の背後にある自然環境を見ることで、自分の命がすべての命と繋がっていることをはっきり理解するでしょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第23主日(マタイ18:15-20)
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ちょっとひとやすみ
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▼「ポケトーク」というヒット商品がある。自国語で話して、それを相手の言葉に翻訳してくれる翻訳機だ。翻訳機と聞くと、かつては「使い物にならないひどい誤訳」という印象だったが、さまざまな環境が整ったことで、使い物になるようだ。
▼大きさは、小型の空調リモコンくらいか。本来であればこの本体内に膨大なデータを取り込んで、場面に対応するわけで、無限に広がる状況や場面に対応できるものではない。
▼だから使い物にならなかったわけだが、現在はネット環境が充実して、本体内に翻訳辞書を置く必要がなくなっている。辞書はネット上にあり、無限とも言える場面に適した翻訳を、ネット上に繋がった無数のコンピューターが考えて答えを示してくれる。
▼便利な時代になったものだ。こうなれば、誰が外国語を勉強するのだろうか。外国語を勉強する人はいなくなるのではないだろうか。そんな心配すらしてしまう。私が教えられた「外国語を勉強する理由」は、「違う文化を学び、そこから戻って自国の文化を再認識する」ということだったが、さすがに「ポケトーク」頼みではここは達成できないか。
▼この前驚くべきものをテレビで見た。「翻訳するマスク」だった。まぁ要するに「ポケトーク」の原理を応用したものだろう。みながマスクをする時代、マスクに付加価値を付けて勝負に出た。出たあとに、「その手があったか」と気づくもので、開発者はさすがである。

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今週の1枚
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第686回目。これだけ晴れているのに、ザーザー降り。にわか雨に興味を持った。

ホームページもご覧ください。
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今週の「笑える」
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「守護の聖人、保護の天使」「実に面白い!『守護の天使、保護の聖人』」
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† 神に感謝 †
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年間第21主日(マタイ16:13-20)あなたに天の国の鍵を授ける

2020-08-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/8/23(No.1078)
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年間第21主日(マタイ16:13-20)
あなたに天の国の鍵を授ける
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「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。」(16・19)宗教画では、鍵を手に持つ聖ペトロ、剣を持つ聖パウロという構図はよく描かれます。あらためて「鍵」について考える機会としましょう。

先日、お告げのマリアのシスター橋口ハセさんが亡くなりました。名前を聞いてピンと来る人はそうとう「お告げのマリア」ならぬ「お告げのマニア」です。出津の救護院という場所で観光のため訪れた方にド・ロ神父様がフランスから持ち込んだオルガンを弾いて、「いつくしみふかき」を一緒に歌いましょうと、オルガンの音色を聞かせ、母親から聞いたド・ロ神父様の思い出を語ってくれたシスターでした。

そのシスターが、8月19日、101歳で天国に旅立っていきました。往年の、オルガンを弾いている姿は、YouTubeで誰でも観ることができます。一目見ただけで、足踏みオルガンの素朴な音色に魅了されると思います。ぜひご覧ください。

私は直接、橋口シスターにお目にかかったことはありませんが、きっと出津教会、外海地区巡りで外すことのできない場所、出会いだったのだと思います。すると、橋口シスターは外海地区の鍵となる人物だったのではないでしょうか。

巡礼で訪ねてくる人と出津とをつなぐ鍵となる人、訪問者をド・ロ神父様とその時代につないでくれる鍵となる人。ド・ロ神父様を日本に送ってくれた神様につないでくれる人。それが橋口シスターだったのだと思います。橋口ハセと言うくらいですから、生きているうちにハセ参じたかったです。

福音朗読に戻りましょう。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。」物理的な鍵を握っていても構わないのですが、私はペトロ自身が、天の国の鍵なのではないかなと考えました。

ペトロは信仰を表明した後、イエスが死と復活を予告したことに慌てて、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(16・22)と遮ります。このようにペトロはまだまだ不完全ですが、その後もイエスの言葉を生きる土台「岩」にしていったのです。イエスの言葉に信頼を置いて生きる姿が、天の国の鍵ではないでしょうか。

ペトロは、イエスから天の国の鍵を託されました。私たちがペトロに倣って、不完全な者ではあるけれどもイエスの言葉に土台を置いて生きようとするなら、私たちも天の国の鍵を授けられた者と言えるのではないでしょうか。私たちの生き方が、生き方を探している人をつなぎます。

あなたが地上でつないだ人は、本当の生き方を見つけ出し、天上でもつながれます。101歳で亡くなったシスターが、見ず知らずの人々を地上でつなぎ、その人たちの何人かは、イエスの言葉に土台を置いて生きるシスターを見て、天でもつながれていきます。私たちもペトロに倣い、身近な先輩に倣うことで、イエスから天の国の鍵を授けてもらえるのです。

私たちは、地上で何人の人をつなぐことができるでしょうか。イエスの言葉に土台を置いて生きる姿を通して、何人の人を地上でつなぐのでしょうか。それは召された生き方によって違うでしょう。ある人は、何の妨げもなく、地上の人々をつなぎ、天の国にもつなぐ生き方に召されます。

もしその招きを受けたなら、大切にしてください。101歳まで、命尽きるまで地上の人々をつなぐ生き方は、誰にでもできるものではないからです。大きな志を立てて、数多くの人をつなぐ鍵になりましょう。鍵は小さな存在ですが、とても大切な存在なのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第22主日(マタイ16:21-27)
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ちょっとひとやすみ
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▼今頃?と言われそうだが、ゴーヤの日除けを作ろうと竹を切って蔓を伸ばし始めた。去年落ちたゴーヤが自然に地面を這っていたのだが、まだまだ日差しも強く、植物のカーテンに利用させてもらおうという魂胆だ。
▼幅2mくらいの用地に、5本竹を挿した。それに地面一杯に広がった苗を「この竹を利用してね」ときっかけだけ与えて朝晩水を撒く。日中の西日が強いのでどうなることかと思ったが、頑張って蔓を伸ばし始めている。
▼だが問題も発生した。自然の環境に問題を持ち込むのはいつも人間である。幅2mに挿した竹のうち、エアコンの室外機に近い竹には、何度蔓を這わせても巻き付いてくれない。しまいには葉っぱが腐れ始めた。人間の欲で、室内を冷やそうと熱風を排出する。それを嫌がって、ゴーヤの蔓が巻き付いてくれないのである。
▼「すまんのう。」私はゴーヤの蔓に謝る。これまで野菜を育てたことも生き物を個人的に飼ったこともないので、人間以外に声をかけたことなど一度も無かったが、朝と夕に水撒きをしながら、室外機に近い蔓に謝る日々である。

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今週の1枚
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第685回目。それぞれ違った結果を辿りつつあるゴーヤの蔓。今年、実はつくか?

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今週の「笑える」
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「お待たせ!鼻を長くして待っとった?」「・・・それ、『首』ね」
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† 神に感謝 †
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年間第20主日(マタイ15:21-28)もっと食い下がって願い求めなければならない

2020-08-16 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/8/16(No.1077)
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年間第20主日(マタイ15:21-28)
もっと食い下がって願い求めなければならない
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聖母被昇天のミサを終えての日曜日です。少しずつでいいから、暑さも和らいでほしいものです。ちなみに来年の聖母被昇天は日曜日に当たっています。また、昨日の聖母被昇天と、今日の年間第20主日は、もしも聖堂内の人数がオーバーしたときのために、リモートの部屋を用意してみました。緊急の措置ですが、定員オーバーした人、堂内で具合が悪くなった人や乳幼児のいる方も含め、活用できたらなと思っています。

福音朗読に戻りましょう。カナンの女性が、自分の娘の苦しみを取り除いてくれるように願います。これは母としてのなりふり構わない熱意の表れでしょう。ところがイエスは、原理原則をまずは示します。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(15・24)。

原理原則であっさり引き下がる人はまずいないでしょう。特に無理を承知でお願いしている人は、原理原則で無理が通らないことは十分承知しています。カナンの女性は、いわば見ず知らずの、畑違いのイエスにお願いをしているからです。

イエスはさらに手厳しく、女性の願いを斥けます。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(15・26)。自分たちを「子犬」扱いされると、さすがに人によっては背を向けるかも知れません。「なんだ。こんな人だったのか。」そんなセリフを残して、去って行く可能性もありました。

それでもこの女性は食い下がります。原理原則で拒否され、さらに手厳しい言葉で拒否されたのに、彼女は食い下がりました。母親だから、ということもあるでしょうが、私は彼女が、「異邦人だったから」食い下がることができたのかなと考えました。同じユダヤ人であれば、イエスの杓子定規の態度、人を食ったような態度に嫌気をさし、ここまで食い下がれないかも知れません。

カナンの女性が「部外者」「外の人」であれば、「ユダヤ人」は「中の人」でしょう。もっと言えば、洗礼を受けた私たちもまた「中の人」と言えるかも知れません。中にいる人たちは、自分たちがお世話を受けることをある程度当然のことと考えているので、もしこの時のイエスのように辛く当たられるとヘソを曲げ、「あの人がいる間は教会に行かない」ということになるかも知れません。

カナンの女性の食い下がる姿を、「中の人たち」である私たちは軽んじてはいけないと思います。私たちにとって当然と思えるようなお世話も、当然とは言えない人にとってはあり得ないほどの豊かなお世話なのです。そのことをカナンの女性は見抜いていた。だから、どんなにつれなくされても食い下がったのではないでしょうか。

私たちは謙虚に、彼女の姿に見倣わなければなりません。私のちょっとした体験ですが、浦上の助任時代に結婚を予定していたカップルが、予定を組んでいるのにいつまで待っても結婚講座に来てくれないケースがありました。実家に電話しますと父親が電話に出ました。「講座に来てくれないと結婚式をできなくなりますよ」と伝えると逆ギレされまして、「お前はそれでも神父か。結婚式を挙げてくれるのが当たり前ではないのか。前の神父様はそんなに厳しくしなかったぞ。何様か。」もっとひどいことを言われましたが、この家族をどうやったら導けるか、一日頭を悩ませました。

その結果、次の日の朝ミサの後にその実家に行きまして、朝7時にチャイムを鳴らしました。父親が玄関に出てきました。少しきつく言い過ぎましたと謝りました。本心は、「なぜこちらが謝らなければならないのか」と思っていたのですが、一歩引いてみました。

するとお父さんは「息子にもよく言い聞かせます」と言って、それでようやく結婚講座に来てくれることになり、無事結婚式を挙げたのでした。私は浦上に来たばかり、浦上の事情も、この家庭の事情も知らなかったので、最後の最後まで食い下がることができたのだと思っています。

私たちはつい、受ける恵みを当然のことと思うことがあります。恵みを受けられないことを不当だと考えることがあります。けれども恵みはすべて神から無償で与えられるもので、私たちのほうに要求する権利はないのです。そうであれば、心からその恵みを求めている人は、食い下がる必要があるのではないでしょうか。

「教会の中の人」である私たちは、恵みに対して食い下がる気持ちをいつの間にか失っているかも知れません。当然もらえるものをもらえなかったと言ってイエスを非難したり背を向けたり、いつの間にかそういう態度を取っていないでしょうか。

私がなりふり構わずイエス様の足もとにすがりついた、食い下がったのはいつ以来でしょうか。カナンの女性に見倣いたいものです。

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年間第21主日(マタイ16:13-20)
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ちょっとひとやすみ
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▼緊急の措置ではあるが、リモートの部屋を用意して収容できない人を案内することにした。いちおう、教区本部に問い合わせて、教区長の「暫定的な措置」としての許可を頂いている。説教にも書いた通り、収容しきれない人、具合が悪くなった人、乳幼児を抱えて肩身の狭い人などが恩恵を受けられれば、と考えている。
▼リモートは、ひょっとしたら典礼上、有効なミサ参加にはならないかも知れない。しかし私たちが教えられた「有効なミサ参加」のもとになっている定義は、いつのものだろうか?ひょっとしたら、トレント公会議のものかも知れない。
▼そうであるなら、現代の状況に即した定義をもう一度考える価値はあると思う。現場がいろんな試行錯誤をして、問合せをして、それが現代における「有効なミサ参加」の議論を産めば、取り組んだことは無駄にならないだろう。
▼さすがに、「オンラインミサ」「オンライン告白」その他「オンライン秘跡」は有効にはならないかも知れないが、「リモートでのミサ参加」はこの新型コロナウィルスの経験を経て、可能性として検討されてもよいのではないだろうか。

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今週の1枚
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第684回目。美しく磨き上げられた聖母像。「巡礼者の聖母」と名付けてみた。

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今週の「笑える」
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「ドライヤーある?」「インパクトドライヤーあるよ」「インパクトありすぎ」
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聖母の被昇天(ルカ1:39-56)あなたは最初に何を声高らかに叫ぶ

2020-08-11 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/8/15(No.1076)
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聖母の被昇天(ルカ1:39-56)
あなたは最初に何を声高らかに叫ぶ
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2020年の聖母被昇天の祭日を迎えました。今年、県外から里帰りしている方とその家族、県外にお出かけになった方とその家族には、8月15日16日のミサ参加を控えてもらいたいと依頼しています。申し訳ない気持ちでいっぱいの中、ミサを続けております。

今年の聖母被昇天で、私は次の箇所を取り上げたいと思います。「エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。』」(1・41-42)エリサベトは、マリアに与えられた栄誉を、声高らかに言うのです。

私たちは今年、新型コロナウィルスの影響でさまざまな制約を強いられています。その一つは、「大声を出さない」ということで、教会では聖歌をできるだけ控え、歌う時も大きな声で歌わないように気を付けています。これはもちろん、本来の姿から遠く離れています。

安倍晋三首相は8月9日、長崎市内で開いた記者会見で、新型コロナウィルスの全国的な感染拡大に関し、緊急事態宣言の再発令に慎重な考えを示しました。その一方で、「この半年で得られた知見をフル活用し、感染予防や重症化予防に万全を期す」と語ったうえで「社会経済活動との両立を図る方針に変わりはない」と強調しました。

ただ、両立と言えるのか、疑問もあります。お盆期間の帰省について、帰省の際は「3密」の回避や大声で話さないなど「基本的な感染防止策を徹底するようお願いする」と呼びかけています。無理を承知で、両立の旗を振っていないでしょうか?

こうした中で、エリサベトの態度は、私たちにとって希望を持たせるのです。「エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。」声を大にして、喜びいっぱいの気持ちで、マリアを讃えたのです。マリアを通して、自らに働かれた神のあわれみといつくしみをも讃えたのです。

これが、本来あるべき姿でしょう。そして、この姿に、私たちが声高らかに言う「順位」についても教えが込められています。私たちは、いつか大声を出してよいその時が来たら、まず声高らかに叫ぶのは、神への感謝、神の計画を讃えることなのです。

政府は、大声を出していいですよとなった時、最初に何を考えているのでしょうか。私たちは知っています。この辛い時期を乗り越えて大声を出せるようになった時、神様を賛美するのです。神への賛美を最初に大声で唱える人が、天に上げられたマリアに倣う人なのです。

聖母被昇天の今日、心ならずもミサ参加を見合わせてくださいとお願いした方々もおられます。ぜひミサの説教を持ち帰って、私たちカトリック教会の新型コロナウィルスの後に大声で言い表す物は何かを届けてください。エリサベトを訪ねたマリアに、私たちも見倣いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第20主日(マタイ15:21-28)
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ちょっとひとやすみ
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▼8月6日は広島原爆の日で典礼暦では「主の変容」の祝日、8月9日は長崎原爆の日、8月15日は終戦記念日で典礼暦は聖母の被昇天の祭日。ついでに言えば12月8日は日本が真珠湾攻撃に踏み切った日、典礼暦は無原罪の聖マリアの祭日。日本の戦争は聖母の祭日に始まって聖母の祭日に終戦を迎えている。
▼8月9日に原爆が投下された1945年の長崎教区民は、どのような聖母被昇天を迎えたのだろうか。クリスマスの様子は浦上を通った私は聞いたことがあるが、そう言われてみると聖母被昇天のお祝い日はどうだったのだろうか。誰かに聞けば、まだ証言が得られるだろうか。
▼現時点では8月15日、天気が見込まれている。聖母被昇天の典礼で二回ミサをささげる。一度は聖堂で、一度は五島ヶ原地区の墓地内にある土地で行う。田平教会の習慣になっている。瀬戸山墓地は死者の日(11月)に野外ミサを行っているが、五島ヶ原墓地はそれができないので8月15日となっているらしい。
▼今年は、墓参りも様変わりしている。「オンライン墓参り」というものまで現れてきた。どうか、声高らかに死者に祈りをささげ、神に感謝をささげる日が早く来て欲しい。

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今週の1枚
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第683回目。以前取り上げたかも知れない。五島ヶ原墓地内で8/15にミサをする。

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今週の「笑える」
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年間第19主日(マタイ14:22-33)イエスに信頼して一歩踏み出す。二歩踏み出す。

2020-08-08 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/8/9(No.1075)
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年間第19主日(マタイ14:22-33)
イエスに信頼して一歩踏み出す。二歩踏み出す。
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8月9日はもちろん長崎原爆の日です。被爆から75年、体験した人たち皆が切に願う核兵器廃絶と、戦争のない平和な世界を、集まっている皆さんで心から願いましょう。

先週巡礼に行ってきました。このご時世ですから、県外ではなく、雲仙と大村市内を巡礼してみました。しかし今となっては、「長崎県内だから県外よりも安全」そんなことはとても言えなくなっており、どんな行動も責任重大だと改めて思いました。

私が考える「雲仙」と「大村」は、やはり殉教を思い出させる地です。205福者殉教者に数えられている福者アントニオ石田と雲仙の殉教者にささげられた雲仙教会をまず訪ねました。かつての私の記憶とは少し違って、緑が生い茂った景色になっていました。

次に雲仙地獄のそばに建てられたキリシタン殉教碑を訪ねました。ここは特にパウロ内堀とその家族の物語が伝えられています。訪ねた時、人数は少なかったですがある程度の人が雲仙地獄の周回道路を回っていました。しかし殉教者を尋ねる旅の人はいませんでした。

雲仙を離れて、大村の殉教地を訪ねました。いくつか回りましたが、その中で放虎原殉教地と関連する史跡を紹介したいです。郡崩れのキリシタンのうち131人が放虎原殉教地で処刑され、キリシタンは復活を信じていると知っていたので首と胴体を別々に離して埋められました。しかも首は塩漬けにしてさらし首にされたそうです。それぞれゆかりの土地の首塚、胴塚、獄門所跡に記念碑やマリア様が置かれていました。

雲仙の殉教地は、有料とは言え駐車場の心配はありませんでした。大村では駐車場に大変苦労させられました。放虎原殉教地は結果的に駐車場があったのですが、ロープが張ってあって、駐車は遠慮しました。それからようやく駐車場所を見つけ、あとはひたすら歩いて回ります。この日、道に迷った関係もあって、雲仙と大村で15キロも歩きました。

さて福音朗読に戻りましょう。夜明け頃、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来ます。弟子たちはイエスを「幽霊」と見間違え、恐怖のあまり叫び声を上げました。イエスが弟子たちに話しかけてようやく弟子たちは落ち着きを取り戻します。

そこへペトロが勇気を出して動き出します。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」(14・28)私はこれまで、単にペトロが「水の上を歩いてイエスへの信頼を表す」そういう物語としか考えたことがありませんでした。

しかし今回は違う見方が可能だと思っています。ペトロの行動は、「イエスへの信頼が揺らぐことがなければ、人はあっと驚くことができる」そのしるしとして物語を読むことができると思っています。

先週私は二つの殉教地を巡ってきましたが、「偉いなぁ」「すごいなぁ」とは思うけれども、いざその場面に置かれたら自分に同じことができるかと問われたら、無理だと思いました。殉教地に立ち、殉教についての説明を読んでも、自分にそれができるとはとても思えませんでした。

ペトロは、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と言います。水の上を歩くなんて、ふつうでは思い付きもしないことです。けれどもペトロは、「イエスへの信頼があれば」この前提であれば可能だと考えたのです。本来なら一歩踏み出すことも不可能ですが、イエスへの信頼があれば、一歩目を踏み出すことができるということです。

殉教者たちの勇敢な行為もまた、一歩目を踏み出すのが困難なのではないでしょうか。一歩踏み出すことで、すべてをささげなければなりません。その勇気は、イエスへの信頼からしか出てこないのです。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、『炎』の上を歩いてそちらに行かせてください。」

ペトロの話に戻ると、「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ」(14・30)とあります。脇目も振らず、微塵も疑わず、一歩目を踏み出す。それはペトロにとっても初めは難しかったのです。

殉教者が示した勇気がどれほどであったか、これで分かります。怖くなり、絶望に沈みかけるなら、殉教の栄冠は与えられません。常に死と向き合って生きてきた迫害時代のキリシタンは、イエスを目で見ていた時代の人々にも決して負けない信仰の持ち主でした。

私たちがイエスに向かって踏み出した一歩はどのようなものでしょうか。洗礼を受けて神様の子供となり、一歩を踏み出しました。堅信を受けて、大人の信者として一歩を踏み出しました。結婚の秘跡を受けて、愛と忠実を尽くすことを誓いました。司祭に叙階されて、修道者として誓願を立てて、一歩を踏み出しました。それから二歩目、三歩目はどうなっているでしょうか。

ペトロは強い風に気がついて怖くなり、それでも「主よ、助けてください」(14・30)と叫びました。来なさいと呼んでくださるのもイエスです。「助けてください」という叫びにすぐに手を伸ばして捕まえてくださるのもイエスです。一歩目はすでに踏み出しているはず。これからもイエスの差し出す手に信頼を寄せて、次の一歩を踏み出すことにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
聖母の被昇天(ルカ1:39-56)
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ちょっとひとやすみ
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▼ちょっとした機材を買い込んだ。「リモート」を実現するための機材だ。これからもミサの参加に制限をかける必要があると想定して、「収容できなかった小教区信徒を別室でリモート参加してもらう」そういうイメージを実現するための機材だ。
▼おもな物は「HDMIエクステンダーセット」。今回は別室を大ホール一部屋と想定しているので、「ライブ映像を送信する機材」と「ライブ映像を受信する機材」の一対一の接続になる。考え方として、受信する場所を分けて、「泣き部屋」をさらに作ることも可能かも知れない。
▼ひとまず木曜日に機材が届いたので、「送信→受信」の流れに沿って機材を接続。初めは、「一眼レフ」をカメラとし、HDMIケーブルでライブ映像を「送信機」に送る。送信機まで届いた信号を、LANケーブル(今回はカテゴリー6のケーブル)で受信機側まで伝送。「受信機」に届いた信号を最後にHDMIケーブルで信徒会館のテレビ(モニター)に届ける。
▼二つの点で苦労した。まずは一眼レフカメラでライブ中継を届けようとしたところ映像は届いているのに音声が届かない。変だなぁと思っていろいろ試すがどれもうまくいかない。あきらめて「アクションカメラ」を接続。するとあっさりと映像と音声が伝送され、「ミサのライブ中継」のイメージが実現した。
▼二つ目の苦労はLANケーブル。10mとか20mの距離ではないので、必要な距離のケーブルを自分で作成する必要がある。コネクターとそれをケーブルに締め付ける道具、それに肝心の「自作用LANケーブル」を追加購入した。
▼LANケーブルはデリケート、繊細だ。「完成したぞ~」と思って接続してもうまく伝送しないことがあった。10回以上ケーブルをカットしながら練習。ようやく納得のいく仕上がりとなった。

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今週の1枚
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第682回目。信徒会館の裏庭。分かる人には分かると思うが、ここまで来た。

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/
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今週の「笑える」
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「バケツのような雨が降った」「『バケツのような雨』が本当なら、怪我しそう」
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† 神に感謝 †
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年間第18主日(マタイ14:13-21)聖体をいただく私たちはイエスの手の中にあるパン

2020-08-01 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/200802.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/8/2(No.1074)
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年間第18主日(マタイ14:13-21)
聖体をいただく私たちはイエスの手の中にあるパン
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【期間限定】YouTubeで説教を視聴できます。
チャンネル登録歓迎します。
(ミサ再開のため、現在は古いもののみ視聴可)
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「弟子たちは言った。『ここにはパン五つと魚二匹しかありません。』」(14・17)人里離れた場所に五千人もの人が集まって、弟子たちは食べ物の心配をしています。しかし弟子たちは、イエスの起こす奇跡によって、自分たちがいる場所の見方が変わっていきます。

夏休みをいただいて、県内で小さな巡礼をしようと思います。最初は、もっと俗っぽいことを計画していましたが、一日千人を超える新型コロナウィルス感染者が出る状況では、計画は断念せざるを得なくなりました。計画は大幅に狂いましたが、最終的に巡礼に行くことになったのは、神様の考えがあったのでしょう。

巡礼地と言えば、焼罪殉教公園も立派な巡礼地です。最近カテキスタ委員会がかつて製作したという「カミロ・コンスタンツォ神父の殉教」を扱った紙芝居を手にしましたが、それによると海に突き出したあの丘は、対岸の平戸の人々から、カミロ神父様の火あぶりの刑がよく見えるようにと選ばれたのだそうです。実際にあそこが寸分違わぬ場所かどうかは分かりませんが、説明は理に適っていると思います。

この世の中には、「廃墟」に特別な興味を持つ人がいると言います。「廃墟女子」という言葉すらあるそうです。廃墟もかつては人が住み、生活感があり、活気に満ちていましたが、そののちに廃れた場所です。表面的には薄汚く、誰も寄せ付けない雰囲気を持っています。

しかしある人たちはその廃墟に、人間生活を読み取ります。廃墟に人間の営みが読み取れることで、おそらく廃墟を訪れる人にとって価値が上がるのでしょう。廃墟ですらそうですから、焼罪公園についてはなおさら当てはまるのではないでしょうか。

7月の中旬、けいこの時間に小学校上級生の子供達を連れて焼罪殉教公園に向かいました。この時カテキスタ委員会が作成した紙芝居も持って出かけました。最初に祭壇の前に子供達を集めましたが、子供達にとっては緑に囲まれた公園にしか見えなかったでしょう。紙芝居を読み終え、もう一度公園を見渡した時に、子供達にも少し、この場所が違って見えたはずです。対岸の平戸ザビエル教会とその周辺からこの丘が見える。その意味が、違って見えたと思います。

福音に戻ります。弟子たちは集まった大群衆の身体的疲労を心配していました。群衆をこのまま残らせるのは、群衆を危険にさらすことになると考え、解散を命じてくださいとイエスに促すのです。しかしイエスにはたとえどんな場所でも、イエスがおられる場所は豊かであることを証明します。

そのためにまずイエスは、これから起こることをあらかじめ言葉で知らせました。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」(14・16)弟子たちはイエスの復活後もこの言葉を思い出したでしょう。イエスが共におられるから、弟子たちは群衆に食べるものを与えることができるのです。

それでも弟子たちは目の前の心配が拭いきれません。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」(14・17)直前のマタイ13章を重ねて考えると、「種を蒔く人」のたとえで蒔かれた御言葉が豊かに実を結ぶことを学んでいたでしょうし、「からし種」と「パン種」のたとえでも、あるいは「天の国」のたとえでも、大切なのはイエスが誰であるかを理解し、学んだ者として留まることだと気づいているはずです。それなのに、五千人の群衆という「大きな試練」が大切なことを忘れさせていました。

「それをここに持って来なさい」(14・18)。外国語の翻訳も参考にしてもう少し言葉を付け加えましょう。「それをここに、わたしの所に持って来なさい。」イエスの手の中に、五つのパンと二匹の魚が置かれた時、豊かになります。イエスと繋がりを持ったなら、その土地その人は豊かになります。

弟子たちはたんに五つのパンと二匹の魚の奇跡を見たのではありません。「イエスの手の中に置かれた五つのパンと二匹の魚の奇跡」を見たのです。私たちは当時の人里離れた場所に立ち会うことはできませんが、イエスの手の中にある五つのパンと二匹の魚を想像することができます。イエスの手の中にある時、それは五つのパン、二匹の魚のままでは終わらないのです。

私たちも、同じ経験ができないでしょうか。私たちが同じ経験をするとしたら、このミサではないでしょうか。そしてミサの中でイエスが五つのパン、二匹の魚となってくださり、私たちを満たし、私たちを通して驚くべきわざを行うのです。

私たちは日曜日ごとにここに集まっています。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」弟子たちが言う通り、ここには大勢の人を食べさせる食事はありません。けれども私たちがいただくパンは、司祭が、イエス・キリストの身分において父なる神におささげしたパンです。イエスの手の中に置かれたパンは、いつも大きな働きをします。私たちが日曜日ごとに御聖体に養われるなら、私たちが大きな働きをする手足となれるのです。

人里離れた場所で、あっと驚く教えを学んだ弟子たちのように、イエスは私たちにも呼びかけます。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」(14・16)今度は私たちが「イエスの手の中にあるパン」となって、絶望の中に希望を、悲しみの中に喜びを、暗闇の中に光をもたらしましょう。私たちが小さなパンとなって、人に配られるために出かけましょう。私たちはここ、イエスが招かれたこの聖堂で、人に働きかけるのに十分な力を受けたのですから。

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‥次の説教は‥‥
年間第19主日(マタイ14:22-33)
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ちょっとひとやすみ
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▼ジャパンネット銀行の口座を持っている。この銀行は店舗を持たないネット銀行なので、入出金の際に他行の提携ATMを利用する必要がある。最近、提携ATMの利用手数料を取られ、がっかりした。
▼こういうことだ。思いがけない臨時収入があり、それを入金しようと、ゆうちょATMを利用した。提携ATMの一つであり、身近な場所にあるので、必然的にここから入金することになる。前回がいつだったか覚えていないが、前回までは手数料無料だった。
▼ところが今回は330円、手数料を取られている。何ということだ!一年で100円も利子が付かないのに、一回の手数料で330円取られた。これで三年分の利子が吹っ飛んだ。それにしても、手数料330円とはたいした度胸だ。振込用紙は使っていない。月に何度提携ATMを使ったか考えたが、2回目だったかな。
▼納得がいかず、ネットで調べてみた。ちゃんと書かれていた。「3万円以上の入出金はいつでも手数料無料。3万円未満はその月の2回目からゆうちょ330円、セブン銀行イオン銀行ローソンATM他165円。」なんだって?「ゆうちょ銀行」がいちばん高いではないか。
▼臨時収入は2万円だった。手数料引かれて入金するくらいなら、3万円になるまで入出金は控えよう。どうしても利用しなければならない時は、これからはセブン銀行のATMをお借りすることにしよう。

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今週の1枚
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第681回目。LANケーブルを自作してみた。苦労したが、道具を選べば簡単らしい

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/
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今週の「笑える」
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「それって『ねみみず』だね~」「たぶんそれ、『寝耳に水』だね」
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† 神に感謝 †
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