こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第26主日(ルカ16:19-31)父よ、ではお願いです

2022-09-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2022/9/25(No.1200)
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年間第26主日(ルカ16:19-31)
父よ、ではお願いです
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今週は「金持ちとラザロ」のたとえです。亡くなった後の話が中心になりますが、私たちと結びつけるなら、待降節までのあと二ヶ月の間に、私の生き方は神の望みに叶っていてラザロのように扱ってもらえるだろうか、そうではなく、金持ちと言われる人のように、後悔が残るのではないだろうか。これらのことを考える材料になりそうです。

私は寝ていると夢を見ている日が多いです。何せ世界史の授業中に寝ていて、いい場面の夢を見ているときに山中寛先生から頭をひどくたたかれたことがあるくらいです。寝言は言わないほうだと思っていたのですが、どうやらそうでもなさそうです。

地区の司祭たちで泊りがけの忘年会に行った時のことです。当時30代だったでしょうか。翌朝の朝食の席で、先輩方が深刻な顔で言うのです。「おい。昨日はどんな夢を見たか?『ごらんください!』って叫びながら万歳してたぞ。」先輩方がそう言うのですからそうだったのでしょう。しかし当の本人は、どんな夢だったか思い出せませんでした。

いろいろ想像してみました。良い夢と悪い夢の両方を考えました。良いほうは、タラントンのたとえです。預けられたお金をうまく運用して、ご主人にこう言っている場面です。「御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。」(マタイ25・20)きっとこうだろうと思います。そうに違いない!

しかし、悪いほうの可能性もあるでしょう。本日の朗読の金持ちは「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」(ルカ16・24)と叫んでいます。字面はありませんが、「(御覧ください。)わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」と夢の中で叫んだのかもしれません。

良いほうはこれ以上考える必要はありませんが、悪いほうの可能性は今週の反省材料として考える価値があります。金持ちがもだえ苦しんでいる場面でいくら叫んでも、「渡ろうとしてもできないし、越えて来ることもできない」場所なのですから、今のうちに将来のためにできることはしなければなりません。

先週、非公開ミサでこう呼びかけました。「(9月25日は)世界難民移住移動者の日です。世界中の見ず知らずの人と友達になるために、自分の持ち物を手放す日とも言えましょう。私たちがこの世の持ち物で世界中の難民移住移動者と友達になれば、すべてのいのちを守る一助となります。」最近、全くの見ず知らずの方から「今後実施予定の耐震補強のために使ってください」と寄付をいただきました。21世紀を旅する田平教会のために志をくださる人に倣うことは、今すぐにでもできるわざです。

ただ私は、「司祭」という身分で将来のために慰めを受ける積み立てが必要です。紫の衣を着ることもあるし、毎日ぜいたくに暮らしていると言えば、言えなくもありません。このままの状況では、おそらく私はもだえ苦しむでしょう。神様がお世話してくださらなければ、誰もお世話してもらえない人々のために、できることを今すぐにでもしなければなりません。

こういう方法があるかもしれません。イエスは別のところで言っています。「あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(マタイ6・2-4)

中田神父がヨボヨボじいちゃんにならずに働くことができるのは、あと残り20年くらいでしょうか。もう、誰のために何をお世話したか、大っぴらに話さないことにしましょう。誰からも面倒見てもらえない人のために何かお世話できたとしても、それを言い触らせば私の報いはこの世限りになります。だから、もう言わない。これで、この世の富で天に富を積むことにしましょう。

ここから、あと二つのことを話します。一つは、「私にとって、もだえ苦しむ結末を見なくて済む方法は何か」を考えることです。もう一つあります。それは、物語の中の金持ちの言葉です。「父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」(16・27-28)

この金持ちは、最終的に自分自身のことは断念しました。もはや取り返しがつかないと悟ったからです。けれどもまだ地上に残っている兄弟たちは救えるかもしれないと考えました。私たちも、一応この辺りも考えましょう。私自身はもはや取り返しがつかないと悟った時、「父よ、ではお願いです」と、誰かの救いのために行動できるでしょうか。

自分自身、取り返しがつかないのであれば、誰が救われても同じことのような気がしますが、それでもほかの兄弟たちのことをこの金持ちは心配しました。私は本当に、自分はダメでも、ほかの人は救ってやってくださいと言える人だろうか。ここは考えておきましょう。ひょっとすると、この「父よ、ではお願いです」が、私を最後の最後に救ってくれるかもしれません。

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‥次の説教は‥‥
年間第27主日(ルカ17:5-10)
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ちょっとひとやすみ
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▼何が何でもこのネタでなければならないわけではないが、世の中「西九州新幹線」に関心が高まっているので今週はこのネタで。「平戸市」に新幹線がどれだけ恩恵をもたらすかは未知数。その証拠かもしれないが、当日身近で聞いた声は「ブルーインパルスが飛んだ」という話くらいだった。
▼正直、「乗ってみたいか?」と聞かれると限りなく疑問である。武雄温泉駅で降りて、新鳥栖まで乗り換え、新鳥栖からまた新幹線に乗る。または武雄温泉駅から博多まで新幹線以外で乗り継ぐ。これを不便と言わず何と呼ぶ?佐賀県に新幹線の恩恵と在来線のしわ寄せが来ないように「オール九州」でアイディアを出し、できれば大阪まで直通の便を通してほしい。

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今週の1枚
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第807回目。可能なら9月23日、当時の賑わいの様子を。提供者に感謝。

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年間第25主日(ルカ16:1-13)神が天の国に場所を用意してくれるように、立ち回れ

2022-09-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2022/9/18(No.1199)
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年間第25主日(ルカ16:1-13)
神が天の国に場所を用意してくれるように、立ち回れ
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何と言いましょうか、私たちが信仰を強めるために試練がどうしても必要なようです。福者カミロ・コンスタンツォ神父殉教400周年を記念する年に、台風がまともにやってきました。

私は二十六聖人の最後の日々が重なりました。西坂に向かう修道者・信徒たちは、最後にゆるしの秘跡をうけてから聖体を拝領することを希望したのですが、ある人には聖体拝領が認められ、ある人にはゆるしの秘跡だけが認められました。この世の最後の願いすら、取り上げられて殉教した人々のささげた犠牲が、祝いたくても祝えない今日の天気と重なりました。

「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」(16・9)前もって「不正にまみれた富」を説明しておく必要がありますが、「この世の富」と同じ意味で使われていると考えてください。

「天の国の富」のことを思えば、「この世の富」は手段を択ばず蓄えたものかもしれませんし、不当な賃金で労働者を働かせて手にした財かもしれません。直接的ではなくても、安いものを選び、節約して貯めた富は、それまでに誰かが不当な賃金で働かされた結果かもしれません。

大なり小なり、この世の富は不正が混じっているのでしょう。この「不正にまみれた富」の部分を置き換えると「この世の富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」となります。身近な友達を作るために、この世の富を手放します。

身近な友達だけでなく、見ず知らずの人も友達になってもらうためには、より多くこの世の富を手放す必要が出てくるでしょう。来週、世界難民移住移動者の日を迎えますが、世界中の見ず知らずの人と友達になるために、自分の持ち物を手放す日とも言えましょう。私たちがこの世の持ち物で世界中の難民移住移動者と友達になれば、すべてのいのちを守る一助となります。

今週の朗読は、冒頭に「そのとき、イエスは弟子たちに言われた」とあります。特に弟子たちに向けて言われたと考えるなら、現代にあっては司祭が一般信徒以上に、今週の招きと真剣に向き合う必要があります。朗読の後半、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」(16・10)とか「他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか」(16・12)とも言われています。

司祭一人ひとりが扱うのは、ごく小さな範囲かもしれません。しかしその小さな範囲を忠実に守り、大切にすることができなければ何も始まりません。第三助任司祭としてスタートした当初、任せられている内容は小さなものでした。けれどもそこで忠実さを発揮できなければ、第二助任、第一助任としてのもう少し大きな務めにも忠実さを発揮できないのです。

さらに、初めて主任司祭の辞令をいただいた教会は、たくさんの司祭が最初の主任司祭を経験する教会でした。それから、どの司祭たちも今では本人が戸惑うような規模の教会、歴史ある教会に赴任しています。小さなことに忠実さを発揮したので、のちに大きなことにも忠実さを発揮できたのです。

しかし、不忠実な僕に変貌する危険はいつもあります。年に一度だけ怠けたことが月に一度繰り返すようになり、しまいには毎週、毎日怠けることになる。一つの怠けがたくさんの怠け癖になる。どんな司祭にも起こりうることです。そこで身近なお手本を探すことにしました。

中田神父が住む田平で尊いお手本を探すなら、それは焼罪の殉教者で日本二百五福者殉教者の一人である福者カミロ・コンスタンツォ神父様だと思います。カミロ神父様は日本での宣教を熱望して入国しましたが、徳川幕府のキリシタン迫害のために追放されてしまいます。しかしカミロ神父様は追放の憂き目という小さな事にも忠実だったので、殉教という大きな事にも忠実を示したのです。

カミロ神父様は最初の宣教の時も、追放されてからも、神様への忠実が変わらなかったので、禁教令にもかかわらず日本に潜入して宣教し、最後の殉教の時までささげつくすことができました。カミロ神父様はイエス様という主人と、徳川将軍という主人の両方に仕えることはしなかったのです。

徳川将軍は、自分の命令に従う人は命を保証しました。しかしイエス様は、すべての人に命の保証をします。カミロ神父様は、すべての人のいのちを守る方を主人として、イエス様の望みに小さな事にも、大きな事にも、忠実を示したのです。

誰しも小さな事には、すぐ怠りがちになるものです。しかし小さな事に忠実を示すうちに、人は相当な忍耐力を養います。それが、大きな事を成し遂げるための勇気につながるのではないでしょうか。

神が、天の国に場所を用意してくださるように、小さな事には忍耐強く忠実を示し、大きな事には勇気をもって忠実を示して生きていきましょう。福者カミロ・コンスタンツォ神父様に取次ぎを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第26主日(ルカ16:19-31)
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ちょっとひとやすみ
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▼辛抱と、忍耐。平戸地区の八つの教会が集まって月に一度定例会を開いている。議題の中では新型コロナウィルスへの対応状況の分かち合いも含まれる。するとどの教会も、何かしらの事情があってミサを休止した時期があるようだった。
▼どの教会も、こんな状況にあって忍耐している。ミサをしたくてもできない状況は、誰が始めたわけでもない「迫害」の時期かもしれない。迫害を経て、日本の教会は復活した。この迫害に似た状況を乗り越えて、日本の教会が復活すると信じたい。

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今週の1枚
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第806回目。教会の敷地内で季節を彩る植物や昆虫。台風後は如何に。

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年間第24主日(ルカ15:1-32)私たちは神に探し出されて連れ戻される小さな存在

2022-09-10 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2022/9/11(No.1198)
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年間第24主日(ルカ15:1-32)
私たちは神に探し出されて連れ戻される小さな存在
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「放蕩息子」のたとえが聖書と典礼に印刷されていませんので、今年は聖書と典礼に掲載されている、「見失った羊」のたとえと「無くした銀貨」のたとえに絞って考えてみたいと思います。

最近は皆さんの多くが、「携帯電話」「スマホ」を持っていると思います。携帯の置き場所を忘れて困ったことも一度や二度ではないでしょう。いよいよ置き場所を思い出せずに困ったら、皆さんはどうやって携帯の置き場所を探しますか?小学生中学生のお父さんお母さんはスマホの置き場所がわからなくなった時、どうやって探していますか?

おそらく、同じことをして探し当てていると思います。それは、「携帯電話に電話をかける」という方法です。ズバリでしょう?幸いなことに、携帯電話に固定電話などから電話をかけると、着信音が鳴ったり振動したりして、自分の居場所を教えてくれるのです。

さて、福音朗読でたとえに出てくる「羊」や「銀貨」はどうでしょうか?残念ながら、これらは自分から「私はここにいますよ」と知らせてくれません。100%、持ち主が探し当てない限り、戻ってくる可能性はないのです。携帯ならどこに置いたか思い出せないとき、音を鳴らすことができます。それとは比べ物にならない忍耐力をもって探さなければ、「羊」「銀貨」は見つけ出すことができないのです。

だから、喜びも特別なのです。お話の中では、「友達や近所の人々を呼び集めて」(15・6)「見失った羊」「無くした銀貨」のことを喜ぶのです。大げさに聞こえるかもしれませんが、見つけ出すまでの努力や忍耐が大きい分だけ、喜びも大きいのです。

ここまでの話をした上で、イエスはこう言います。「このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(15・10)きっと道を外れた人というのは、自分から「私はここにいます。私を助けてください」と言えなくなっているのでしょう。だからイエスが、道を外れるたびに苦労して探し回って神の国の交わりに連れ戻します。その苦労が大きければ大きいだけ、喜びも大きくなるのです。

今回朗読していませんが、「放蕩息子」のたとえに登場する弟も、遠い国で持ち物をすっかり使い果たして困り果てても、「お父さん私はここにおります」と声を出すことができませんでした。心を入れ替えて父の家に帰る時も、まだ遠くにいるうちから父親のほうが先に見つけて走り寄ったのです。ここでは見つけ出すまでの「忍耐」が大きかったので、喜びもひとしおだったのです。

私たちはどうでしょうか。私たちは「放蕩息子」でもないし、特に「罪人」というわけでもないので「ここにおります」と言って悔い改める必要のない九十九匹の中にいるのでしょうか。私はそうは思いません。私たちもまた、「道を逸れて」声を出せないでいる一人なのです。

その証拠に、イエスはすべての人の罪のゆるしのために十字架にかかりました。今月の日本の司教団の取り組みと重ねるなら、「すべてのいのちを守るために」イエスはいのちを差し出したのです。ですから私たちは、道を逸れるたびに神に向き直ることで、神の天使たちの間に喜びがあるのです。

ミサの中で「全能の神と、兄弟の皆さんに告白します。わたしは思い、ことば、行い、怠りによって、たびたび罪を犯しました」と唱えます。単なる儀礼として唱えている人もいるかもしれませんが、罪を犯して道を逸れていると謙虚に認めるなら、神が助けに来てくださるのです。

また、定期的にゆるしの秘跡を受ける人もいるでしょう。自力で神のもとに戻ることができるのなら、秘跡のお世話になる必要などないはずです。ミサの中での告白も、ゆるしの秘跡の告白も、常に私たちを探し出そうとしておられる神の前に身を置くことなのです。

神は、途方もない努力と忍耐で、私たちを探し出し、ご自分の交わりの中に連れ戻してくださいます。その深い愛に感謝しましょう。神の深い愛を知ったのですから、私たちも周りの人に深い愛、忍耐を持つようにしましょう。今週一週間、「見失った羊」「無くした銀貨」の学びを告げ知らせる者となりましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第25主日(ルカ16:1-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼台風の前にはさまざまな対策を施す。小学生のころ、台風と聞けば木製の雨戸をすべて閉めて、その外から閂(かんぬき)のような棒を父親が雨戸に打ち付けていたものだ。当時は高級な電化製品などなかったので、この雨戸の対策が記憶に残っている。
▼今回の台風11号に備えて、雨戸を閉め、南向きの窓を中心に養生テープで×印をし、リース契約をしている複合機をブルーシートでがっちり覆った。複合機を雨にぬらした場合の補償はあるのか調べていないが、有る無しに関わらず一時的にも使えなくなるのは困る。
▼ほかには、飛ばされそうなものをしまったり、前もって倒しておいたりしてその日を迎えた。強風におびえ、一晩眠れずに過ごしたが、また台風12号が同じようなコースで向かってきている。何かテクノロジーで台風を消し去ることはできないのだろうか。もちろん台風がもたらす大きな枠組みでの働きを理解はしているが。

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今週の1枚
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第805回目。がっちり覆われた複合機。開いたのだが、すぐ覆うことになる。

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【大幅変更】年間第23主日(ルカ14:25-33)イエスを愛するために憎むべきものを憎んでいるか

2022-09-03 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2022/9/4(No.1197)
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年間第23主日(ルカ14:25-33)
イエスを愛するために憎むべきものを憎んでいるか
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「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(14・33)今日、私たち皆が、ここにたどり着けるようにと願いながら、説教を始めたいと思います。

実は最初に準備した説教が使えなくなったので、別の材料を使って焼き直して説教に臨んでいます。時間があまりなかったので、かなり焦りました。私たちはそれぞれ、自分なりの理想を持って生きていると思います。小神学校時代に、私は消灯時間が夜9時半と、あまりに早いのに不満を持っていました。校長先生が濱崎渡神父様、副校長神父様が阿野武仁神父様で、なぜこの消灯時間なのか、説明を受けていないと思います。

しかし今なら分かります。小神学校時代は、「限られた時間の中でしなければならないことをこなす」訓練の期間でした。その証拠に大神学校時代は、小神学校で受けた訓練のおかげで、限られた時間の中で果たすべき務めを果たせるようになりました。

そして司祭になると、小神学校時代の訓練がいかに大切だったかが分かります。司祭になると、自分のための時間を取れない場面がしばしば起こります。込み入った相談の電話、教会の台帳からの調査、命の危険にかかわる病人のために病院を訪ねるなどです。

それが土曜日に一度に重なっても、それでも主日のミサはやってきますし、説教を準備しなければなりません。特に田平教会は繰り上げミサがあります。さらにお葬式が土曜日に入ると、当てにしていた時間をすべて諦めなければならなくなります。

ここで、今週のイエスの招きを重ねて考えるのです。「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」小神学校時代の私は、「勉強したい人に思う存分勉強の時間を与えてくれればいいのに」という考えを捨てきれずにいたのです。「考え」も「持ち物」の一つです。この考えを捨てなければ、イエスの弟子ではありえないということです。

親子の間でも、この戒めは当てはまります。「子は親の言うことを聞いて当然だ」という考えを、ひょっとして握りしめ、捨てきれずにいるのではないでしょうか。「子は親の言うことをすべて聞くのが当たり前」本当にそうでしょうか?その考えを親が捨てなければ、イエスの弟子ではありえないのです。

一方で子は親に対して理想を描いているでしょう。現実の親が理想とずれている、あるいはかけ離れていたら、親を拒絶すべきでしょうか。むしろ、子が親に対して持っている理想を横に置いて、現実の親の姿を直視し、受け止める必要があります。子が捨てなければならないのは、親に対して持っている「理想」です。

こうしてそれぞれが持ち物を捨ててこそ、イエスが示す十字架を担えるようになります。何かを握りしめていたら、手は自由に使えず、十字架を担うことはできません。私たちが担うべき十字架を担うために、握りしめているものを憎み、手を自由に使えるようにしておくのです。

日本の教会は毎年9月を、「すべての命を守るための月間」と定めています。イエスがまず先に、人類に期待する理想像を「憎んで」捨て、人類のあるがままを「自分の十字架」として担い、「守り抜いた」方です。このイエスに導かれて、私たちもすべての命を守る生き方を特に今月目指していきましょう。命が守られていない状況が一日も早く解消するように、祈りを付け加えることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第24主日(ルカ15:1-32)
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ちょっとひとやすみ
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▼長崎市にある「カトリックセンター」で教区典礼委員会主催のもと開かれた「新しいミサ式次第の変更箇所の確認と解説」という研修会がDVDで教区内の各小教区に配布され、直接参加した長崎三地区だけでなく、教区全体が研修の内容を共有できるようになった。
▼最初に配布されたDVDをさっそくHDDレコーダーで再生してみる。しかし再生できない。「なぜだ?」と思ったが原因がわからない。それで仕方なく発送元の典礼委員長S師のところに現物を送り、「HDDレコーダーで再生できません」と言葉を添えておいた。
▼早速対応してくださり、作り直したDVDが届いた。見た感じでは、「シルバーのディスク」が「ホワイトのディスク」に代わっていた。これだけの問題だったのかもしれない。まぁそれでも、すべての人が再生できるのでなければ、研修内容を共有できないのだから、今回の行動はお互いに学びがあったと感じている。

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今週の1枚
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第804回目。椎の木が、司祭間の張り出した部分に覆いかぶさっている。台風が

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【重要なお知らせ】teacup. byGMOのサービス終了につきまして
いつもteacup.をご利用いただき、誠にありがとうございます。
長年にわたりご愛顧いただきましたteacup.ですが、2022年8月1日(月)13:00をもちまして、サービスを終了させていただくこととなりました。
teacup.の終了に伴い、ご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解、ご了承いただきますよう、お願い申し上げます。

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