こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第22主日(マタイ16:21-27)十字架によってキリスト者はキリスト者になる

2014-08-31 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/08/31(No.726)
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年間第22主日
(マタイ16:21-27)
十字架によってキリスト者はキリスト者になる
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浜串小教区は9月初めに、歴代主任神父さまの追悼の意味を込めて主日のミサをささげています。今年は、8月31日に追悼ミサをささげることとしました。亡くなられた3人の歴代主任司祭は、小教区史によりますと、岩永四郎神父さまが12年、松本長太郎神父さまが15年、田原一男神父さまが4年務めてくださいました。

今週年間第22主日は、イエスが死と復活を予告する場面です。「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という招きがイエスから与えられます。「十字架を手に入れてこそ、キリスト者はキリスト者になる」とまとめたいと思います。

さてわたしが夏休みに入る前の週、子供たちとプール遠足に行きました。毎年恒例ですが、毎年ちょっとした騒動があります。同じことをしている中でも面白いことは起こるのですね。

今年はプールを楽しんだ後に騒動がありました。たくさん泳いでお腹も空いたので、食べ放題の店に入りました。お寿司、麺類、焼き肉、揚げ物、デザート、いろんなものが好きなだけ食べられる店です。

子供たちが焼き肉用の肉を選んできました。鉄板に載せ、当然焼けてから食べるわけですが、焼けたかどうかの判断をわたしに求めるのです。「神父さま、この肉もう焼けてますか?食べていいですか。」

最初はまじめに観察していましたが、8人の子供たちがかわるがわる尋ねてくるものですから、途中から面倒くさくなって、適当に「おー立派に焼けてるぞ。食べてよし」と返事をして食べさせました。今日ミサに来ている子供は、少なくともお腹をこわしていない子供たちです。

夜はカトリックセンターに男の子用の部屋と女の子用の部屋を借りて泊りました。わたしは毎年、シーツを頭からかぶって女の子の部屋に「お化けだぞー」と言って侵入するのですが、今年は少々疲れていましたので夜9時になっても準備をしませんでした。

すると女の子の部屋の保護者から、「子供たちが『今年は神父さまのお化けは来ないのかなぁ』と言っていますが?」というメールが来まして、「しょうがない。行ってやるか」という感じで出動しました。

同じ晩、カトリックセンターには外国人がたくさん宿泊していました。わたしがシーツをかぶって通路を移動していると、何やら騒がしくなっています。「シーツお化け」が外国人にひどく受けたようで、写真に収めていたのだそうです。さらにこの外国人の中に、わたしが出動した後、同じ格好をして子供たちをからかいに行った青年もいたと聞きました。ちょっとした国際交流でした。

福音朗読は、イエスがご自身の死と復活を予告することから始まります。イエスが担う自分の十字架を先に弟子たちに示して、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(16・24-25)と言うのです。キリスト者は、十字架を手に入れてこそ、キリスト者となる」ということなのです。

地上に生きる多くの人が、ある意味で「全世界を手に入れる」そんな生き方を追い求めています。世界中から集められた食材の中から今日の食卓のおかずを選んでいます。世界中から集められた洋服、装飾品、化粧品のうち、自分の気に入ったものを選んでおしゃれをします。

少なからずわたしたちは、自分の生活を世界中から集められた物で満たしているのです。物だけではなく、テレビ・新聞・ネットの情報も、わたしたちの時間を埋めるために世界中からかき集められています。

確かに生活は良くなったかもしれません。けれども手に入れた生活は、キリスト者として命に満ち溢れていると言えるでしょうか。イエスの教えが生き方の物差しとなり、イエスの愛の掟が行動の基準となり、イエスの望みが語る言葉の端々に感じられる。そんな、イエスへの信仰が命の源となった生活になっているでしょうか。

今週の浜串小教区のミサは、亡くなった歴代主任司祭の追悼のミサを兼ねています。小教区に赴任してくる主任司祭は、だれよりも自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスに従う人のはずです。人間の救いはイエスが選んだ十字架の道から来ることをだれよりもよく理解している人のはずです。先輩主任司祭たちは、キリスト者が十字架を背負ってキリスト者になっていく、その道筋を示してくださった方々だと思います。

わたしたちも、キリスト者として命に満ち溢れた人生を選ぶ人になりましょう。たとえ全世界を手に入れても、キリスト者としての命が豊かでなければ、大切なものを失うことになってしまいます。十字架を担って復活されたイエスが、わたしたちの生き方の鏡です。

イエスの教え、イエスの愛の掟、イエスの望みを生活に写し取って、日々の生活に生じる十字架を担っていくことにしましょう。十字架を手に入れてこそ、キリスト者はキリスト者になるのです。そのための力を、ミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第23主日
(マタイ18:15-20)
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ちょっとひとやすみ
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▼説教に書いた通り、司祭は「十字架を取る」姿で信徒に模範を示す存在だと思う。司祭にも個性があり、得意分野や苦手な分野、強いこだわりや人間的な欠点、さまざまあるが、どんな司祭も十字架を取ることで司祭としての姿を示すのだと思う。
▼どこに赴任するにしても、必ず何かは言われるわけで、そういう言葉が耳に入ることは避けられない。気にはなるだろうが、いちいち気にしていても仕方がない。日々の任務を遂行し、日々十字架を担って生きることで存在価値を示す以外に道はない。
▼さらに司祭は転勤する。納得いく形で十字架を背負ったとしても、転勤して新天地に行けば、また新たな十字架を背負うことになる。過去どのような経歴を積み上げたとしても、新しい場所ではまた一からやり直しになる。積み上げては取り上げられ、積み上げては取られ、この繰り返しに同意できなければ、この生き方は続かないと思う。
▼31日、青年だけのミサを予定している。上五島地区の青年たちがあちこちの地区に呼び掛けて高井旅でキャンプを計画し、その最後に感謝のミサをするために高井旅教会を管轄しているわたしに依頼してきたのである。青年たちにも、何らかの形で「十字架を選び取って命を得る道」を伝えたい。
▼巡り合わせというか神さまのいたずらなのか、わたしは青年会活動にほとんど関わったことが無い。かろうじて高校生会活動に浦上教会時代関わったが、それも15年以上も若い頃の話である。
▼今青年会、高校生会のメンバーを前にすると、何も言葉が浮かばない。世代間のギャップをひしひしと感じるだけである。何をどう伝えればよいのだろうか。土曜日から日曜日の時間を費やして、考えてみたい。

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今週の1枚
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第333回目。チャンスがあれば、青年会キャンプの感謝のミサの様子。

ホームページもご覧ください。
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年間第21主日(マタイ16:13-20)信仰を言い表す人を神は支えてくださる

2014-08-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/08/24(No.725)
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年間第21主日
(マタイ16:13-20)
信仰を言い表す人を神は支えてくださる
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年間第21主日は、「ペトロ、信仰を言い表す」という場面が選ばれました。「弱さを抱えながらも信仰を言い表す人を、神は支えてくださる」とまとめたいと思います。

19日に、楽しみにしていたものを受け取りました。それは司祭になった時に愛宕のレデンプトリスチン修道院で制作した絹織物の祭服で、22年お世話になっていたものの修繕がようやく仕上がったのです。特別な管理もせずに着続けた絹織物の祭服は、全体的に黄ばみが出てしまい、裏地が破れ、糸がほつれ、染みも目立ってきていました。

制作してくださった修道院には「修繕をお願いします。費用はいくらかかっても構いません」とだけ伝えて祭服を届けました。担当のシスターからは、例えて言えば大手術が必要で、費用も相当かかると言われました。でも、22年愛用してきた祭服を、さらに10年15年着続けるためと思い、できることはすべて施してくださいと言いました。

おかげで立派に仕上がりました。無事に修繕を成し遂げてくださった修道会の姉妹たちに心から感謝したいと思います。さっそく、21日に行われた福見教会での葬儀ミサに使用しました。浜串教会では9月以降の白の祭服を使用する日にお披露目できると思います。

さて福音朗読の学びに入りましょう。今週の朗読個所は、うっかり聖母被昇天の説教の前置きとして話してしまった箇所なのですが、初めて向き合ったつもりで与えられた個所を読み返してみました。なぜ、イエスはペトロを使徒の頭、教会の礎となさったのでしょうか。

まず、ペトロの信仰告白を読み返してみましょう。「あなたはメシア、生ける神の子です」(16・16)と答えたペトロにイエスは、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(16・17)と言われました。天の父がペトロを選び、信仰告白へと導いたことを伺わせます。

さらにイエスご自身も、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(16・18)とペトロを選んだことを明言しました。

そして、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」(16・19)と仰ったのは、これは聖霊を授けると受け取ってもよいのではないでしょうか。聖霊が注がれて、地上でつないだり解いたりするための正しい判断ができるようになる。そのことを「鍵を授ける」と言っていると考えてみました。ここでは、ペトロが聖霊によっても選ばれたと考えることができると思います。

以上、ペトロは天の父によっても、イエスによっても、聖霊によっても選ばれ、教会の礎として用いられることになったと考えられます。ここで改めて、なぜペトロが選ばれることになったのでしょうか。わたしは、以後2千年以上続く地上の教会の姿が、ペトロに投影されている、映し出されていると思いました。

ペトロはご存知のように、御父にも御子にも聖霊にも選ばれて使徒の頭とされたのですが、彼自身はイエスに叱られる行動を取ることもあり、イエスを否認する弱さもあり、言い伝えによると迫害のさなかにローマを離れ、逃避行している時に十字架を担いでローマに向かうイエスとすれ違い、「あなたがローマを離れようとしているから、もう一度わたしが磔にされに行くのだ」と言われ、思い直してローマに戻って殉教したと言われています。

人間的には弱さを抱えた人物でしたが、いつも自分の弱さを率直に認め、イエスに助けを求めて立ち直っていくのでした。弱さを抱えながらも、2千年もの長きにわたって三位一体の神に緊密に結び合わされて強められ、揺るぎないものとなっていく。そんな地上の教会の姿が、ペトロに投影されているのではないでしょうか。

ペトロの信仰告白の場面は、信仰を立派に証しするためには、いつも神の支えが必要なのだよということを教えてくれていると思います。それは、わたしたち個人の信仰だけでなく、わたしたちが地上の教会を維持していくためにも、三位一体の神との緊密な絆が必要だということでもあるのです。わたしたち教会家族が、信仰を守り、信仰を伝え、信仰を証ししていくために、常に三位一体の神がわたしたちの心臓部にあって、わたしたちを生かしてくださる必要があるのです。

信仰を守り、伝え、証ししていくことは、キリスト信者の基本的な生き方です。わたしたちがこの生き方を維持し続けるためには、わたしたちの手足に、心臓が血液を送って十分な酸素が行き渡る必要があります。その心臓の働きは、三位一体の神と緊密に結ばれてはじめて可能なのです。ペトロの信仰告白もそのことを、わたしたちに示しているのだと思います。

ペトロと同じようにわたしたちも、どのようにして今の教会は2千年の長きにわたってこの地上に維持されてきたのかを証ししなければなりません。それは三位一体の神と緊密に結ばれ、三位一体の神の助けがあったからです。

わたしたちの信仰生活にも同じ証しが必要です。信仰を守り、伝え、証しするために、わたしたちの体に三位一体の神が酸素を送り続けてくれていることをいつでも思い出し、人々に証しできる準備を整えておく必要があります。

使徒信条を通して、わたしたちは何を信じて生きているかを証しできるようにいつも準備しておきましょう。同時に、わたしたちは三位一体の神と緊密に結ばれていて、この神がわたしたちの体の隅々にまで恵みという酸素を送り続けてくださっているので信仰生活を守り、伝え、証しできているのですといつでも告げ知らせることができる人でありたいと思います。そのための準備の恵みをミサの中で願い求めましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第22主日
(マタイ16:21-27)
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ちょっとひとやすみ
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▼体は全身に血液が巡って活動できる状態を保っている。だから活動できているのは心臓が丈夫で、安定して血液を送ってくれているからだ。目で見ることのできる活動の部分だけ取り上げるのは、それこそ小手先のことに過ぎない。
▼長崎教区が信徒発見150周年を機に「この教区がどうあるべきか、どのように舵を切るべきか」を真剣に話し合い、模索している。それが教区シノドスだ。今年の11月にはすべての討議が終了して大司教に提言を提出することになっている。
▼提言が、小手先のものにならないために、必ずこの教区の心臓部がきちんと働いているかを把握しておく必要があると思う。さあこの方向性で舵を切るぞと意気込んでも、そこで心不全を引き起こしたり心筋梗塞になったりすれば、一巻の終わりである。
▼ところで長崎教区の心臓部はどこか。長崎教区に始まったことではないが、全身に血液を送り、よどんだ血をきれいに洗浄して酸素を再び届けてくれる部分はどこか。わたしは「祈る共同体のあるところ」が心臓部だと思っている。毎日毎瞬間、一切変わらないリズムで祈り続ける共同体。これがキリスト教共同体(教区であったり、小教区であったり、あるいは家庭も)の心臓部だと思う。
▼心臓はたまに働いたりたまに力を発揮したりする場所ではない。必ず同じリズムで働き、力を発揮しなければならない場所である。場合によってはふだんの何倍もの血液を送り出し、全身の激しい運動を支えなければならない。
▼長崎教区は、これから最終決定されるであろう提言を支えるだけの丈夫な心臓部を持っているのだろうか。教区民みなが、心臓の働きを思い出して、教区の活動に必要な酸素を送り出すために、毎日毎日全く同じリズムで欠かさず祈ってくれる心臓部を持っていると言えるだろうか。
▼幸いに、決してリズムを変えることなく祈り続けてくれている共同体が教区内にはある。たとえば女子修道会。だが本当にそれだけで、これからの教区全体の活動を支えるだけの酸素を末端にまで送り続けることができるのだろうか。
▼もう少し、決してリズムを変えることなく祈り続けている共同体があるかもしれない。だが、わたしはもっと、こうした心臓部を担ってくれる人々が長崎教区には必要だと思っている。だれにも何も告げなくて構わない。ただ決まった時間に祈ってくれる人がいてほしい。心臓だって、だれにも何も言わず、黙って働いているのだから。

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今週の1枚
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第332回目。予定では、プール遠足を楽しむ浜串小教区の子供たち。

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年間第20主日(マタイ15:21-28)あなたの願いどおりになるように

2014-08-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/08/17(No.724)
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年間第20主日
(マタイ15:21-28)
あなたの願いどおりになるように
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イエスはカナンの女の信仰をほめました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」(15・28)この女性のイエスに対する信仰は最初から立派だったのでしょうか。今週の福音朗読から、どのような人がイエスに「あなたの願いどおりになるように」と言ってもらえるのか探ってみましょう。

ひょっとしたらカナンの女性は、娘が受けている災難を取り除いてもらえればそれでよい、そんな身勝手な思いでイエスに近づいていたのかもしれません。イエスは珍しく厳しい態度でこの女性に向き合います。最初は彼女の願いに何もお答えにならなかったのです。

「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」(15・22)。叫び声を聞けば、イエスへの信仰を持っているようにも聞こえますが、人の本心は分かりません。うわべだけの言葉で、自分の願いをかなえてもらえればそれでよいという人かもしれません。

弟子たちも煩わしさから解放されたかったのでしょうか、イエスに取りなしをしています。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」(15・23)面倒なことから逃れたいという気持ちが伝わってきます。

すると彼女はより真剣にイエスに取り合ってもらおうとします。今度はイエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」(15・25)と言うのです。もはや悪霊に苦しめられている娘が助かればだれでもよいというのではなく、娘を助けてくれるのはイエスしかいないと考えるようになっていました。

そこにイエスのさらに厳しい言葉が待っていました。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(15・24)。確かにイエスは、イスラエルの民のために遣わされていましたが、彼女がイエスに失望して、悲しみながら去っていくことは考えなかったのでしょうか。彼女は何とか食いさがります。「主よ、どうかお助けください」(15・25)。

とうとうイエスは最後通告とも思える言葉を発したのです。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(15・26)何をどう言ってもイエスは動いてくれそうにありません。娘の苦しみさえ取り除いてもらえればあとはどうでもよいというのでしたら、これ以上踏みとどまる理由がどこにあるでしょうか。

ところがカナンの女性は一歩も引かなかったのです。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」(15・27)イエスはこのカナンの女が一歩も引かないであろうということを知っていたのでしょう。一歩も引かないのであれば、彼女の中に深く研ぎ澄まされた信仰を植え付けようと考えておられたのかもしれません。厳しい質問のやり取りの中で、カナンの女の信仰は研ぎ澄まされていきました。そして、イエスの期待にふさわしい信仰へと変わっていったのでした。

自分たちが異邦人であって、イエスが言う「子供たちのパン」にあずかれない立場であっても、それでもイエスに依り頼む以外に道が無い。どんなに狭い入口であっても、イエスによってしか道は開けない。彼女はイエスの突き放すような言葉を受けても、決して希望を失わず、かえってイエスへの信頼を増していったのでした。

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」彼女はイエスによって十分に訓練を受け、信仰が研ぎ澄まされたのでした。そして願いをかなえてもらうのにふさわしくしていただいたのです。ここに、わたしたちが今週見習うべき点があると思います。

イエスさまとカナンの女とのやり取りの中で一つの特徴を見つけました。イエスさまはご自分の立場を一歩も譲りませんでした。イスラエルの民の救いが先にあり、異邦人の救いはそのあとだったからです。けれどもカナンの女も一歩も引きませんでした。最初は利己的な願いを持っていたかもしれませんが、最後はイエスのどんな訓練にも一歩も引かなかったのです。

ここから、わたしたちがイエスに「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と言ってもらうためには、わたしたちに一歩も引かない覚悟が必要なのだと分かります。イエスは誰かの信仰をさらに高めるために必要なことは、一歩も譲らない方なのです。そのイエスに合格点をいただくためには、わたしたちも一歩も引かない覚悟が必要なのです。

信仰を次の世代に何とか受け継いでもらいたい。信仰教育を何とか実らせたい。悩ましい願いがあり、思い通りにいかない現実があるかもしれません。イエスが試練を通してわたしたちの信仰を鍛えようとするとき、一歩も譲らないでしょう。

わたしたちも、願いをかなえてもらうために一歩も引かない。その覚悟で毎日の信仰の歩みを進めていきましょう。一歩も引かない姿を見て、イエスはきっと「あなたの願いどおりになるように」と答えてくださると思います


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‥次の説教は‥‥
年間第21主日
(マタイ16:13-20)
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ちょっとひとやすみ
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▼夏の高校野球全国大会も大いににぎわっている。長崎の海星高校は西東京代表の高校と対戦。序盤圧倒されて6対1になり、「これはもう応援しても駄目だ」と諦め、チャンネルを変える。それでも長崎県民として完全に見捨てる気にもなれず、チャンネルを戻してみたら雲行きが怪しくなっていた。
▼相手のピッチャーが連続で四球、死球、さらに連打。あれよあれよという間に点が入り、ついに投手を交代するも押し出しのデッドボール。とうとう6対5まで迫った。これはもしかしたらもしかするのか?と思ったが相手も目が覚めたかピリッとなり、追加点を入れて7対5と突き放しにかかる。
▼こうなると田舎から出てきた高校は度胸が足りないのか、思い切りよくバットが振れなくなった。このまま負けると、「あー、やっぱりかぁ」で終わってしまう。何とかもう一度相手を慌てさせてほしい。慌てさせれば、また一挙に4点入れたときのようなことが起こるかもしれない。
▼海星にはいくつもの学校からスカウトが来た強打者がいる。H君は注目の打者。何度もチャンスに回ってきているから、どこかで「すごい打者だなぁ」というところを見せてくれ。バットは振らなければ当たらないぞ。選球眼がよくても打てなきゃ四番じゃないぞ。あー、空振りかいな。
▼相手チームは5回まで毎回得点。さあ6回裏。ゼロに抑えて、次の7回で追いつこうや(「や」は長崎の方言。「追いつこうぜ」の意味になる)。あー、負けたか。

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今週の1枚
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第331回目。すぐ近くまで教皇さまおいでになったのですが、日本は近くて遠い。

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聖母の被昇天(ルカ1:39-56)天の国に固く結ばれて生きる

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14/08/15(No.723)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
天の国に固く結ばれて生きる
‥‥‥†‥‥‥‥

聖母の被昇天のお祝いを迎えました。「天の国に固く結ばれて生きる」とまとめてみたいと思います。聖母被昇天の説教の前置きの話をします。先週木曜日平日のミサで、ペトロの信仰告白の場面が朗読されていまして、福見での夕方のミサ、子供向け説教をでこんな話をしました。

「ペトロは信仰を告白した後に、イエスさまから『あなたに天の国の鍵を授ける』(マタイ16・19)と言われました。この鍵は、『あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる』(同上)となっているので、つなぐための鍵です。たとえばそれは、自転車をガードレールにつなぎとめるチェーンロックのようなものです。」そういう話をしました。

チェーンロックは、たぶん日本の発明ではなくて、海外で発明されたものです。なぜかと言うと、日本人だと、自転車に鍵がかけられていれば持ち去ることはないと考えますが、海外ではいくら自転車に鍵がかかっていても安全ではないと考えます。より安全な方法は、自転車を持ち去られない方法、たとえばガードレールと自転車をつなぎとめることを考えるわけです。そこからチェーンロックが生まれたのでしょう。

こういう鍵の使い方を例に、イエスさまがペトロに授けた鍵は、「人々と天の国とをつなぎとめる鍵ですよ」と説明したわけです。この話、今日の聖母被昇天に使えるのではないかなぁとあとで思いました。

マリアは、生涯にわたって、御自分を神につなぎとめて人生を歩まれました。平凡な生活から、突然神の母になることを告げられ、驚いた時も、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1・38)と答えて、神にしっかり結び合わされることを願いました。御子イエス・キリストの出来事で理解に苦しむ時も、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2・19)のです。神と固く結ばれて生きることを忠実に守られました。

こうして、生涯にわたって、神に固く結ばれて生きることを願い、その通りに生きたマリアが、いま体も魂も天の国に結ばれているということは、本当にふさわしいことだと思います。神は、生涯ご自分に固く結ばれて生きることを願ったおとめマリアを、体も魂も天の国に引き上げてくださったのです。

福音朗読に選ばれたマリアの賛歌も、神に固く結び合わされて生きることの幸せを高らかに歌っています。身分の低いはしためであっても、主を畏れることでしか生きることのできない人も、飢えた人も、神に固く結ばれて生きることで、この世では幅を利かせていると思われる自分に依り頼んで生きる人々がたどり着けない幸せに招かれるのです。

マリアが生涯を通して貫いた生き方は、神によって体も魂も天の栄光に上げてもらうのにふさわしい生き方でした。天に上げられたマリアは、わたしたちも同じ生き方に倣うよう招いているのです。神に判断の基準を置いて生きること。神が喜ぶことをすることが自分の喜びと考えること、人にしてもらいたいと思うことを人にすること。これらの生き方で、わたしたちは神に固く結ばれて生きるのではないでしょうか。

だれよりも神に固く結ばれて生きたマリアに与えられた栄誉は、わたしたちをより一層天の国へのあこがれに招きます。神に固く結ばれて生きるために、少しでいいから、神に心を上げる時間を日々保ち続けましょう。

聖母マリアの国籍は天にあります。同じようにわたしたちの国籍も天にあります。わたしたちが神に固く結ばれて生きるとき、わたしたちの国籍がどこにあるかを世に対して示すのです。神に固く結ばれて生きる知恵を、聖母の取り次ぎによって願うことにしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第20主日
(マタイ15:21-28)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼聖母被昇天近くに妹夫婦が甥っ子を連れて里帰りしてくれた。ふだんは茨城県に住んでいるので、鯛ノ浦の母や自分たちも妹夫婦と甥っ子の元気な姿を見ることができて嬉しかった。甥っ子はテレビのアニメを見たり、知っている生き物(魚・犬・ネコなど)をしきりに指さしては名前を呼んでいた。
▼その甥っ子は本来の茨木に住んでいる時はインターネットで家族に顔を見せて楽しませているらしい。ただその会話の中には、わたしはふだん登場しない。わたしを見て「知らないおじさん」と思うのではないかと心配していたが、杞憂に終わった。
▼お気に入りなのか、電車のおもちゃを片手に握りしめたままご飯を食べていた。ご飯に飽きると、今度は隣にいるわたしをつかまえて一緒に電車で遊べと要求する。どうやら手当たり次第周囲にいる人に近づき、自分の要求を通そうとするらしい。誰に似たのだろうか。
▼義理の弟(妹のご主人)と、職場の様子が分かるような会話を少し交わした。指示を出す責任ある立場のようで、なるほど妹も尊敬しているわけだ。途中、話が釣りで盛り上がり、翌日誘って鯛釣りに出かけた。うまく釣れていることを願う。今回の海釣りは新鮮な体験になると思う。
▼後日談。釣りの当日は、親子で浜串に到着。ばあちゃんもついでにくっついて来た。妹と甥っ子は船を陸揚げするスロープ付近で水遊びをさせ、その間に妹の旦那と釣りに出かけた。わたしの心配をよそに、1キロのマダイと500グラムのキジハタを釣って、ボート釣りを堪能して帰った。わたしは船頭としての責任は果たしたが、自分の釣果はフグの猛攻に会い、仕掛けをいくつも失った。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第330回目。希望の聖母。今も死を迎えるときもお祈りください。

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年間第19主日(マタイ14:22-33)イエスはわたしたちのそばにいて教育する

2014-08-10 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
14/08/10(No.722)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第19主日
(マタイ14:22-33)
イエスはわたしたちのそばにいて教育する
‥‥‥†‥‥‥‥

「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(14・31)。イエスはペトロの心の動揺さえも教育のために用いてくださいます。今週の福音朗読を「信仰の薄い者をそばで教育するイエス」とまとめたいと思います。

ここ十日間、車の運転中ずっと海を見ていました。ボートは陸揚げしているので海を眺めても仕方がないのですが、前も見ずにずっと海を眺めて運転していました。前を見ないで運転する技術が身に付きました。冗談の分からない人のためにあえて言っておきますが、冗談です。

福音朗読では湖の上を歩くイエスが現れます。弟子たちの乗った舟は、逆風のために波に悩まされていました。悩まされていた弟子たちとは、信仰をまっすぐに生きるのが難しい現代社会に置かれているわたしたちでもあります。

イエスは湖で突然弟子たちに現れたのではありません。2つの背景が添えられています。1つは、ひとり山にお登りになり、祈っておられたということです。もう1つは、イエスは夜が明けるころに湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれたということです。

次のように考えてみました。イエスが祈るのは、御父との深い一致を保つためです。もともと御父と御子イエスとは固く一致していますが、祈る姿は御父と御子の深い一致を見える形で示すものです。いかなる意見の違いもない、完全に御父と一致しておられる御子イエスが、弟子たちの前に現れたということです。

また、夜が明けるころとありますが、「夜」は「昼」に対立するものとして描かれ、太陽によってすっかり取り払われます。ここでは御父と完全に一致しているイエスが現れることで弟子たちの悩みが取り払われる、信仰をまっすぐに生きるのに困難を感じているわたしたちをも照らしてくださる、そういう意味合いが込められているのだと思います。

ただし、弟子たちはイエスの出現におびえました。すぐに安心したわけではなく、イエスが現れても自分たちの置かれている困難からまだ解放されずにいたのです。そんな中で、ペトロはイエスに依り頼もうとしました。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」(14・28)

ペトロは自分の言葉をそのまま実行すれば、「そちらへ行く」つまり御父と完全に一致している御子イエスのそばに、夜を取り払う太陽であるイエスのもとに行けるはずでした。けれども、ペトロの信仰は揺らいでしまうのです。「強い風に気がついて怖くなり、沈みかけた」(14・30)とは、御父との完全な一致を保っているイエスに依り頼みたいけれども、信仰を脅かす出来事に足元をすくわれる人間の弱さが映し出されています。人間は自分の力だけでは、イエスの保っておられる御父への完全な信頼にたどり着けないのです。

そこでイエスはすぐに手を伸ばしてペトロを捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(14・31)と言われました。ペトロを非難しているのではありません。ペトロに「わたしは手を伸ばしてあなたを捕まえるくらいの場所にいつもいる。恐れずにこれからもついてきなさい」と呼びかけているのです。

もしかしたら、イエスがすぐに手を伸ばしてペトロを捕まえなかったら、ペトロはおぼれていたかもしれません。人間の力では、イエスにすがりつくことさえできなかったかもしれないのです。イエスはそれをよく御存知で、イエスのほうからすぐに手を伸ばして捕まえてくださいます。イエスにつき従おうとする歩みが沈みかけたとしても、イエスのほうから助けて、さらに信頼を寄せる者となれるように教育するのです。

信仰を簡単に言い表すと、イエスに信頼を置いて生きることだと思います。この生き方を常に最優先に生きようとすると、さまざまな困難に悩まされるでしょう。まさにそれは水の上を歩いて、御父に完全に一致しているイエスのもとに渡ろうとするようなものです。気が付くと信仰に対する迫害や無理解に足元をすくわれ、おびえてしまうのです。

けれども、イエスはすぐに手を伸ばしてわたしたちを捕まえるくらい近くにおられます。このことを忘れてはいけません。現代がどれだけ逆風のただ中であったとしても、イエスへの信仰に土台を置いて生きるわたしたちを完全に沈ませることはできないし、イエスはすぐに手を伸ばして捕まえることができるくらいそばにおられるのです。何度もこのような経験をくぐらせて、イエスはわたしたちを教育なさるのです。

「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(14・31)。イエスの言葉をあらためて聞き直すと、今度は力強い励ましに聞こえてくるでしょう。信仰を土台にしては生きていけないと自分の考えにとどまることは、生きる場所を最も危険にさらしてしまいます。

イエスの導きを固く信じて生きるなら、何度沈みそうになってもすぐ手を伸ばして捕まえ、歩を進める力を授けてくださいます。わたしたちの選ぶ道は明らかです。イエスがすぐ手を伸ばしてくださる場所まで、信じて歩み続ける。そのための力と助けを、このミサの中で祈り求めましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼最近負荷をかける運動をするたびに反動が来るようになった。負荷をかけるような運動の翌日、膝に違和感があったり、手首、肘、いろんな関節に違和感がある。直立した状態で膝がぐらつき、足が地面をしっかり踏みしめていないような気さえする。
▼ある朝わき腹を捻ったような痛みがあり、おやと思ったが原因を思い出せなかった。わき腹をさすりながら朝ミサを終え、昨日何をしたか考えてみた。特に思い当たることもなく、おかしいなぁと思いながら一日過ごした。
▼その翌日、「久しぶりに素振りでもしてみるか」と思ってソフトボールのバットを握った時に思い出した。二日前に確か素振りをしたんだった。素振りをしたことすら思い出せない、たかだか20スイングくらいしか振っていないのに、わき腹痛である。
▼ほかにも、小学生のドッヂボールの練習に付き合って、ダッシュを数本繰り返しただけで、翌日は膝の違和感である。情けないやら、腹立たしいやら。手首に痛みがあったり、肘に痛みがあったりした前日、ふだんとちょっと違うことをしただけなのである。
▼運動の理論も知らないし、どのようにすれば痛みが出ないで済むのかも分からないが、おそらく運動後のケアに時間をかけよということなのだろう。準備体操はしても、整理体操をしない。負荷のかかる運動をした後に、入念に体をほぐしておけば、痛い思いをしなくて済むかもしれない。
▼いくつかの思い当たることをを総合すれば、「年齢をわきまえよ」と言われている気がする。48歳にもなって35歳のつもりで運動していれば、当然あちこちにしわ寄せが来るはずだ。気持ちと実際の肉体との開きが、埋められなくなってきているのだ。
▼体のさまざまな部品の、あるはずの角が丸くなっていたり錆びていたり、少し曲がっていたり、そういうことが起こっているのをよく考えもせずに、無理をしていたのかもしれない。これからは運動後に十分時間をかけることにしよう。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第329回目。こんなところにもくまモンが。そのうち、ふなっしーも飛ぶか?

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年間第18主日(マタイ14:13-21)ここにしかない、食べ物がある

2014-08-03 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/08/03(No.721)
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年間第18主日
(マタイ14:13-21)
ここにしかない、食べ物がある
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今週は福音朗読に「五千人に食べ物を与える奇跡物語」が選ばれました。「ここにしかない、食べ物がある」とまとめたいと思います。「パン五つと魚二匹しかない」その持ち物をイエスのもとに持っていくことで、何が起こるのでしょうか。

この奇跡物語を考えるために、20年以上前に出会ったある家族を紹介したいと思います。司祭になる一年前、助祭だった時に福岡で実習に通っていた西新教会に所属している家族でした。

この家族は日曜日10時のミサに参加するために、2時間かけて通っていました。たとえばそれは、奈良尾に住んでいて、仲知教会のその先の米山教会に通うようなものです。高校生女子と青年がいる4人家族でした。しかも、ほぼ毎週この家族はミサに来ていました。

わたしは、一度だけこの家族の家を訪ねたことがあります。同じように、2時間近くかかりました。福岡の中心部から2時間あれば、場合によっては長崎まで来てしまいます。そういう環境にあって、ほぼ毎週ミサに来るのは、よほどしっかりした考えがなければ続けられないのではないでしょうか。

この家族が日曜日に教会に来ると、高校生と青年の2人は教会活動を積極的におこなって1日を過ごしました。あるときは気分転換でわたしたち神学生が呼びかけてボーリングに行くこともありました。

彼らにとって、日曜日の教会は1週間の中でかけがえのない時間だったのだと思います。どんなかけがえのないものが、日曜日の教会にあるのでしょうか。そのことを今週の福音は教えてくれます。

イエスを慕って集まった五千人もの人々は夕暮れになってもまだイエスのもとにとどまっていました。弟子たちは、食べ物の心配をし始めました。食べ物は、人里離れたこの場所ではなく、町や村にしか見つからないと考えたからです。

けれどもイエスは、「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」(14・16)と言いました。群衆が必要としている食べ物が、町や村ではなく、ここで用意できるというのです。

日本語の聖書で、興味深い言葉遣いがあります。弟子たちは「ここは人里離れた場所で、もう時間もたちました」(14・15)そして「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」(14・17)とイエスに納得させようとしています。ところがイエスは、「それをここに持って来なさい」(14・18)と答えているのです。

弟子たちは「ここは何もない場所です」「ここには手持ちが何もありません」と言っているのに、その何もない「ここ」で、奇跡を始めるのです。イエスはあえて、人里離れた場所で、「わたしが五千人に食べ物を与える」という意思表示をおこなったのです。イエスがいる場所こそ食べ物がある場所、ここにしかない食べ物がある場所なのです。

教会に2時間かけてくるあの家族は、日曜日のミサの中に、自分たち家族の食べ物があることを承知していました。ここにしかない食べ物があることを、時間とお金をかけて、周囲の人々に証明していました。

わたしたちは、幸いに15分もかからない距離に教会があります。バス代も電車代もかけずに、歩いて15分でほとんどの人が日曜日のミサに集まることができます。わたしたちはなおさら、イエスがおられるこのみことばの食卓と聖体の食卓は、ここにしかない食べ物であると証しする必要があると思います。

今日、上五島地区の青年が、自分たちの青年キャンプの呼びかけのためにミサに参加してくれています。一泊二日のキャンプで、感謝のミサで締めくくるようになっています。感謝のミサはわたしにお願いしてきました。

青年たちこそ、イエスのもとに食べ物があることを深く心に刻んでほしい世代です。青年キャンプに参加する青年は、浜串小教区にはもしかしたらいないかもしれませんが、ミサの後に募金箱を持って玄関に立つそうですので、青年キャンプの成功のために少しでも協力してくだされば幸いです。

イエスは、群衆をご自分のもとに留めおいて、「ここにしかない食べ物がある」と教えてくださいました。わたしたちも、ミサに集まるたびに「ここにしかない食べ物」を確認しましょう。そして、かけがえのない食べ物に養われていることを、生活の中で証ししましょう。そのための知恵と力を、ミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第19主日
(マタイ14:22-33)
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ちょっとひとやすみ
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▼痛風に悩まされている人はご存知と思うが、その痛みは筆舌に尽くし難い。痛みを表現するならば、骨折の痛みと言えるだろう。しかも都合の悪い時に(夜中とか)発作が始まる。これほどたちの悪い痛みはないと思う。
▼去年の10月に痛風の発作を発症してから、痛風の薬とコレステロールの薬(これは別の原因だが)を毎日飲み続けている。おかげで発作は抑えられている。それなのに、とんでもないミスを犯してしまった。
▼処方された薬を、どこで忘れたのか、紛失してしまったのである。3日ほど真剣に探したが、どうしても見つからない。仕方なくそれから2日後に病院に行った。薬の再処方の時に、「今回は10割負担です」と言う。
▼冗談じゃないと言って、嫌だと抵抗してみたが、「痛みますよ」と言われて、それ以上は抵抗しなかった。どれほど痛いか知っているから、さすがにそれは避けねばならない。しぶしぶ再処方を受け入れ、処方箋を持って向かいの薬局に行った。
▼この薬局のじいさんは、わたしを全く記憶してくれない。もう何回も全く同じ薬を受け取っているのに、毎回完全にオウム返しで「この薬は痛風などの薬で、朝晩1錠ずつ」「この薬はコレステロール値を下げる薬で朝1錠」と平気な顔をして言う。
▼薬局のじいさんには正直イライラする。「へいへい」とうわべだけの相槌を打ち、薬をもらってきた。およそ1万円の「本来支払う必要のない」お金が飛んで行った。1万円を忘れるだけの価値あることをして、記憶を消し去りたい。

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今週の1枚
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第328回目。青年キャンプ(8月30日31日)成功のための募金の呼びかけ。

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