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こうじ神父
「今週の説教」
14/08/31(No.726)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第22主日
(マタイ16:21-27)
十字架によってキリスト者はキリスト者になる
‥‥‥†‥‥‥‥
浜串小教区は9月初めに、歴代主任神父さまの追悼の意味を込めて主日のミサをささげています。今年は、8月31日に追悼ミサをささげることとしました。亡くなられた3人の歴代主任司祭は、小教区史によりますと、岩永四郎神父さまが12年、松本長太郎神父さまが15年、田原一男神父さまが4年務めてくださいました。
今週年間第22主日は、イエスが死と復活を予告する場面です。「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という招きがイエスから与えられます。「十字架を手に入れてこそ、キリスト者はキリスト者になる」とまとめたいと思います。
さてわたしが夏休みに入る前の週、子供たちとプール遠足に行きました。毎年恒例ですが、毎年ちょっとした騒動があります。同じことをしている中でも面白いことは起こるのですね。
今年はプールを楽しんだ後に騒動がありました。たくさん泳いでお腹も空いたので、食べ放題の店に入りました。お寿司、麺類、焼き肉、揚げ物、デザート、いろんなものが好きなだけ食べられる店です。
子供たちが焼き肉用の肉を選んできました。鉄板に載せ、当然焼けてから食べるわけですが、焼けたかどうかの判断をわたしに求めるのです。「神父さま、この肉もう焼けてますか?食べていいですか。」
最初はまじめに観察していましたが、8人の子供たちがかわるがわる尋ねてくるものですから、途中から面倒くさくなって、適当に「おー立派に焼けてるぞ。食べてよし」と返事をして食べさせました。今日ミサに来ている子供は、少なくともお腹をこわしていない子供たちです。
夜はカトリックセンターに男の子用の部屋と女の子用の部屋を借りて泊りました。わたしは毎年、シーツを頭からかぶって女の子の部屋に「お化けだぞー」と言って侵入するのですが、今年は少々疲れていましたので夜9時になっても準備をしませんでした。
すると女の子の部屋の保護者から、「子供たちが『今年は神父さまのお化けは来ないのかなぁ』と言っていますが?」というメールが来まして、「しょうがない。行ってやるか」という感じで出動しました。
同じ晩、カトリックセンターには外国人がたくさん宿泊していました。わたしがシーツをかぶって通路を移動していると、何やら騒がしくなっています。「シーツお化け」が外国人にひどく受けたようで、写真に収めていたのだそうです。さらにこの外国人の中に、わたしが出動した後、同じ格好をして子供たちをからかいに行った青年もいたと聞きました。ちょっとした国際交流でした。
福音朗読は、イエスがご自身の死と復活を予告することから始まります。イエスが担う自分の十字架を先に弟子たちに示して、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(16・24-25)と言うのです。キリスト者は、十字架を手に入れてこそ、キリスト者となる」ということなのです。
地上に生きる多くの人が、ある意味で「全世界を手に入れる」そんな生き方を追い求めています。世界中から集められた食材の中から今日の食卓のおかずを選んでいます。世界中から集められた洋服、装飾品、化粧品のうち、自分の気に入ったものを選んでおしゃれをします。
少なからずわたしたちは、自分の生活を世界中から集められた物で満たしているのです。物だけではなく、テレビ・新聞・ネットの情報も、わたしたちの時間を埋めるために世界中からかき集められています。
確かに生活は良くなったかもしれません。けれども手に入れた生活は、キリスト者として命に満ち溢れていると言えるでしょうか。イエスの教えが生き方の物差しとなり、イエスの愛の掟が行動の基準となり、イエスの望みが語る言葉の端々に感じられる。そんな、イエスへの信仰が命の源となった生活になっているでしょうか。
今週の浜串小教区のミサは、亡くなった歴代主任司祭の追悼のミサを兼ねています。小教区に赴任してくる主任司祭は、だれよりも自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスに従う人のはずです。人間の救いはイエスが選んだ十字架の道から来ることをだれよりもよく理解している人のはずです。先輩主任司祭たちは、キリスト者が十字架を背負ってキリスト者になっていく、その道筋を示してくださった方々だと思います。
わたしたちも、キリスト者として命に満ち溢れた人生を選ぶ人になりましょう。たとえ全世界を手に入れても、キリスト者としての命が豊かでなければ、大切なものを失うことになってしまいます。十字架を担って復活されたイエスが、わたしたちの生き方の鏡です。
イエスの教え、イエスの愛の掟、イエスの望みを生活に写し取って、日々の生活に生じる十字架を担っていくことにしましょう。十字架を手に入れてこそ、キリスト者はキリスト者になるのです。そのための力を、ミサの中で願いましょう。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第23主日
(マタイ18:15-20)
‥‥‥†‥‥‥‥
‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥
▼説教に書いた通り、司祭は「十字架を取る」姿で信徒に模範を示す存在だと思う。司祭にも個性があり、得意分野や苦手な分野、強いこだわりや人間的な欠点、さまざまあるが、どんな司祭も十字架を取ることで司祭としての姿を示すのだと思う。
▼どこに赴任するにしても、必ず何かは言われるわけで、そういう言葉が耳に入ることは避けられない。気にはなるだろうが、いちいち気にしていても仕方がない。日々の任務を遂行し、日々十字架を担って生きることで存在価値を示す以外に道はない。
▼さらに司祭は転勤する。納得いく形で十字架を背負ったとしても、転勤して新天地に行けば、また新たな十字架を背負うことになる。過去どのような経歴を積み上げたとしても、新しい場所ではまた一からやり直しになる。積み上げては取り上げられ、積み上げては取られ、この繰り返しに同意できなければ、この生き方は続かないと思う。
▼31日、青年だけのミサを予定している。上五島地区の青年たちがあちこちの地区に呼び掛けて高井旅でキャンプを計画し、その最後に感謝のミサをするために高井旅教会を管轄しているわたしに依頼してきたのである。青年たちにも、何らかの形で「十字架を選び取って命を得る道」を伝えたい。
▼巡り合わせというか神さまのいたずらなのか、わたしは青年会活動にほとんど関わったことが無い。かろうじて高校生会活動に浦上教会時代関わったが、それも15年以上も若い頃の話である。
▼今青年会、高校生会のメンバーを前にすると、何も言葉が浮かばない。世代間のギャップをひしひしと感じるだけである。何をどう伝えればよいのだろうか。土曜日から日曜日の時間を費やして、考えてみたい。
‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第333回目。チャンスがあれば、青年会キャンプの感謝のミサの様子。
ホームページもご覧ください。
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【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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浜串小教区は9月初めに、歴代主任神父さまの追悼の意味を込めて主日のミサをささげています。今年は、8月31日に追悼ミサをささげることとしました。亡くなられた3人の歴代主任司祭は、小教区史によりますと、岩永四郎神父さまが12年、松本長太郎神父さまが15年、田原一男神父さまが4年務めてくださいました。
今週年間第22主日は、イエスが死と復活を予告する場面です。「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という招きがイエスから与えられます。「十字架を手に入れてこそ、キリスト者はキリスト者になる」とまとめたいと思います。
さてわたしが夏休みに入る前の週、子供たちとプール遠足に行きました。毎年恒例ですが、毎年ちょっとした騒動があります。同じことをしている中でも面白いことは起こるのですね。
今年はプールを楽しんだ後に騒動がありました。たくさん泳いでお腹も空いたので、食べ放題の店に入りました。お寿司、麺類、焼き肉、揚げ物、デザート、いろんなものが好きなだけ食べられる店です。
子供たちが焼き肉用の肉を選んできました。鉄板に載せ、当然焼けてから食べるわけですが、焼けたかどうかの判断をわたしに求めるのです。「神父さま、この肉もう焼けてますか?食べていいですか。」
最初はまじめに観察していましたが、8人の子供たちがかわるがわる尋ねてくるものですから、途中から面倒くさくなって、適当に「おー立派に焼けてるぞ。食べてよし」と返事をして食べさせました。今日ミサに来ている子供は、少なくともお腹をこわしていない子供たちです。
夜はカトリックセンターに男の子用の部屋と女の子用の部屋を借りて泊りました。わたしは毎年、シーツを頭からかぶって女の子の部屋に「お化けだぞー」と言って侵入するのですが、今年は少々疲れていましたので夜9時になっても準備をしませんでした。
すると女の子の部屋の保護者から、「子供たちが『今年は神父さまのお化けは来ないのかなぁ』と言っていますが?」というメールが来まして、「しょうがない。行ってやるか」という感じで出動しました。
同じ晩、カトリックセンターには外国人がたくさん宿泊していました。わたしがシーツをかぶって通路を移動していると、何やら騒がしくなっています。「シーツお化け」が外国人にひどく受けたようで、写真に収めていたのだそうです。さらにこの外国人の中に、わたしが出動した後、同じ格好をして子供たちをからかいに行った青年もいたと聞きました。ちょっとした国際交流でした。
福音朗読は、イエスがご自身の死と復活を予告することから始まります。イエスが担う自分の十字架を先に弟子たちに示して、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(16・24-25)と言うのです。キリスト者は、十字架を手に入れてこそ、キリスト者となる」ということなのです。
地上に生きる多くの人が、ある意味で「全世界を手に入れる」そんな生き方を追い求めています。世界中から集められた食材の中から今日の食卓のおかずを選んでいます。世界中から集められた洋服、装飾品、化粧品のうち、自分の気に入ったものを選んでおしゃれをします。
少なからずわたしたちは、自分の生活を世界中から集められた物で満たしているのです。物だけではなく、テレビ・新聞・ネットの情報も、わたしたちの時間を埋めるために世界中からかき集められています。
確かに生活は良くなったかもしれません。けれども手に入れた生活は、キリスト者として命に満ち溢れていると言えるでしょうか。イエスの教えが生き方の物差しとなり、イエスの愛の掟が行動の基準となり、イエスの望みが語る言葉の端々に感じられる。そんな、イエスへの信仰が命の源となった生活になっているでしょうか。
今週の浜串小教区のミサは、亡くなった歴代主任司祭の追悼のミサを兼ねています。小教区に赴任してくる主任司祭は、だれよりも自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスに従う人のはずです。人間の救いはイエスが選んだ十字架の道から来ることをだれよりもよく理解している人のはずです。先輩主任司祭たちは、キリスト者が十字架を背負ってキリスト者になっていく、その道筋を示してくださった方々だと思います。
わたしたちも、キリスト者として命に満ち溢れた人生を選ぶ人になりましょう。たとえ全世界を手に入れても、キリスト者としての命が豊かでなければ、大切なものを失うことになってしまいます。十字架を担って復活されたイエスが、わたしたちの生き方の鏡です。
イエスの教え、イエスの愛の掟、イエスの望みを生活に写し取って、日々の生活に生じる十字架を担っていくことにしましょう。十字架を手に入れてこそ、キリスト者はキリスト者になるのです。そのための力を、ミサの中で願いましょう。
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▼説教に書いた通り、司祭は「十字架を取る」姿で信徒に模範を示す存在だと思う。司祭にも個性があり、得意分野や苦手な分野、強いこだわりや人間的な欠点、さまざまあるが、どんな司祭も十字架を取ることで司祭としての姿を示すのだと思う。
▼どこに赴任するにしても、必ず何かは言われるわけで、そういう言葉が耳に入ることは避けられない。気にはなるだろうが、いちいち気にしていても仕方がない。日々の任務を遂行し、日々十字架を担って生きることで存在価値を示す以外に道はない。
▼さらに司祭は転勤する。納得いく形で十字架を背負ったとしても、転勤して新天地に行けば、また新たな十字架を背負うことになる。過去どのような経歴を積み上げたとしても、新しい場所ではまた一からやり直しになる。積み上げては取り上げられ、積み上げては取られ、この繰り返しに同意できなければ、この生き方は続かないと思う。
▼31日、青年だけのミサを予定している。上五島地区の青年たちがあちこちの地区に呼び掛けて高井旅でキャンプを計画し、その最後に感謝のミサをするために高井旅教会を管轄しているわたしに依頼してきたのである。青年たちにも、何らかの形で「十字架を選び取って命を得る道」を伝えたい。
▼巡り合わせというか神さまのいたずらなのか、わたしは青年会活動にほとんど関わったことが無い。かろうじて高校生会活動に浦上教会時代関わったが、それも15年以上も若い頃の話である。
▼今青年会、高校生会のメンバーを前にすると、何も言葉が浮かばない。世代間のギャップをひしひしと感じるだけである。何をどう伝えればよいのだろうか。土曜日から日曜日の時間を費やして、考えてみたい。
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