こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

三位一体の主日(ヨハネ16:12-15)父と子と聖霊は同じいのちのことばを語る

2013-05-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/05/26(No.652)
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三位一体の主日
(ヨハネ16:12-15)
父と子と聖霊は同じいのちのことばを語る
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80歳の三浦雄一郎さんがエベレスト登頂に成功しました。凄すぎます。とてもじゃないですが真似できません。もしも参考になるとしたら、80歳になっても努力を怠らない姿勢でしょう。80歳になっても、ミサの説教を考え続ける努力を怠らない。そういうことでしたら、真似することができるかもしれません。でも80歳になって、説教を準備したとして、説教をする場所が与えられるのでしょうか。それが問題です。

三位一体の主日を迎えました。毎年この日の説教は悩みますが、今年はもしかしたら、何かをとらえたかもしれません。ただ、わたしがとらえたと言っても、それがうまく皆さんに伝わるとは限りませんが。

今年、三位一体の神を考えるにあたって、神の働きは何かということを考えてみました。神の働き、それは人に命を与え、命を救うということです。なぜなら、人に命を与え、命を救うのは神にしかできないことだからです。

今日選ばれた福音に、「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(16・15)とありますが、これは、父と子と聖霊の三位の神が、連続性をもっていることを表している言葉です。父と子と聖霊の働きが連続していることが、唯一の神である証しになります。

そこで、父と子と聖霊の神の働きが連続していることをわたしたちのほうから確かめたいなぁと考えたわけです。神の働きで、どんな働きをたどっていけば、わたしたちに確かめることができるかなと考えたとき、「人に命を与えること」「人の命を救うこと」が浮かびました。

ところで、わたしたちが、「人に命を与え、命を救う神の働き」を確かめる方法は何でしょうか。それは、聖書を丹念に読み返すことです。わたしもそうすべきですが、実際には聖書の言葉を検索できるパソコンソフトの力を借りました。

まず「命を救う」という言葉に関係する箇所を検索すると、神が命を救おうとされる場面はたくさん出てきまして、なるほどと納得できるくらい見つかりました。

旧約聖書、創世記を調べると、19章に「ソドムの滅亡」の物語があります。この中で、ロトとその家族の命を救おうとされます。「あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。」(19・19)神のことばに従って難を逃れたロトとその家族は、神によって命を救われました。これはもちろん、御子イエス・キリストが人間の命を救うことの前触れでもあります。

旧約聖書の引用だけでもたくさんありますが、あと1つ紹介しておくと、申命記の4章に「イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう。」(4・1)

この箇所は、モーセが神から受けた十戒を念頭に置いて考えるとよく分かります。神は旧約時代に、出エジプトなどのドラマチックな救出劇も行いましたが、もっと大切なことは、神がモーセを通して与えた十戒を忠実に守り行うなら、命が与えられるということです。

この点について、イエスも金持ちの青年とのやり取りで同じ事を言いました。金持ちの青年が「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」(マタイ19・16)と尋ね、イエスはそれに「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」(同19・17)と答えたのです。

新約時代になって、御子イエス・キリストが人に命を与えるために遣わされました。ヨハネ福音書がそのことを的確に言い当てています。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(10・10)命を与え、命を救う神の働きは、御父から御子に、確実に続いています。

ほかにも、「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」と、御父と御子の働きの連続性が証言されています。

聖霊については、何が語られているでしょうか。ローマの信徒への手紙の中で、パウロが次のように語っています。「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(8・2)霊によってあなたがたは救われたと言ってますので、ここにも、父と子と聖霊の神の働きの連続性が見られます。

ほかにも、同じローマの信徒への手紙の中に「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(8・11)とあります。

今年の三位一体の主日、わたしたち人間の側から神の働きをたどってみました。父と子と聖霊の三位の神が、人に命を与え、命を救う働きを途切れなく続けさせてくださいます。わたしが生きている今も、イエスがわたしたちと共にいてくださったときにも、神の働きは途切れなく、同じです。三位一体の神をたたえ、神の働きは変わりなく続くと、証ししましょう。そのための恵みを、このミサの中で祈り求めましょう。

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‥次の説教は‥‥
キリストの聖体
(ルカ9:11b-17)
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ちょっとひとやすみ
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▼とある予約センターに電話で予約を入れた。前もってインターネットで同じ会社の予約システムを利用し、おおよその見当を付けてから電話で予約をしたわけだ。電話で予約をしたのは、窓口に出向いて予約をするのと同じ狙いである。
▼つまりネットで検索をした場合よりも、お得な料金やサービスが受けられるかもしれないと思って、わざわざ電話予約をしたわけだ。電話をかけると、対応の担当者が「今回はどのようなご用件でしょうか」と紋切り型の応対。「バラエティ豊かな商品が用意してあるのか」と突っ込みたい気分を押さえて、「予約をお願いします」と言った。
▼これこれの条件でお願いと言ったら、「そのような条件ではご用意できません」と言う。そんなはずはない。ネットではお願いしようとしている条件が提示され、それをそのまま伝えているだけなのだから。そこでしかたなく、「ネットでこれこれ検索して得られた情報をもとに予約をしているのですが」と伝え、ネット上で可能だったケースを当てつけに話したら、「なるほどですね」と答えたあと、お決まりの「少々お待ちください」と来た。何が「なるほど」だ。
▼「折り返しお電話いたしますので、電話番号をお願いします。」そんなに難しい注文なのか?と次第にいらだちを隠せなくなったが、それでも辛抱して電話を待つ。もうかかってきてもよいはずなのにという時間をはるかに過ぎて、どうでもよくなるくらい時間が経過してから返事の電話がかかった。
▼「お待たせ致しました。では内容をご説明いたします」「説明って、何か新しいことでもあるのですか?」いちおうクレームを付けてから説明を聞いた。案の定、わたしの手元にある資料のオウム返し。把握している内容を音声ガイドのように再生して終わった。わたしは最後に「そういう予約をわたしはしましたよね」と言ったが、どうやら伝わらなかったようだ。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第259回目。今年も、たくさんの祈りの中で聖母月を終えることができます。

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聖霊降臨の主日(ヨハネ14:15-16,23b-26)聖霊が、イエスを通して御父から注がれる

2013-05-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/05/19(No.651)
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聖霊降臨の主日
(ヨハネ14:15-16,23b-26)
聖霊が、イエスを通して御父から注がれる
‥‥‥†‥‥‥‥

浜串教会は、今日聖母行列を行ってから聖霊降臨のミサに入りました。聖母行列が、聖霊降臨の意味合いを考える良い機会となりました。「マリアさまに賛美」です。聖母行列は、希望の聖母が設置されている岬から出発します。ということは、必然的に岬までいったん出向いてからでないと行列ができないということです。

ここに、聖霊降臨のお恵みを黙想するヒントを見つけました。イエスによって弟子たちに約束された聖霊は、今日のわたしたちの聖母行列で体験したように、御子イエス・キリストがいったん御父のもとに行ってからでなければ、わたしたちのもとに送ることはなかったのです。ですから、主の昇天と、聖霊降臨は切り離すことのできないものなのです。

先週、わたしは主の昇天が橋を架けることに例えられると言いました。イエスが復活して天に昇り、この地上と神の国とを結ぶ橋を架けてくださったのだと話しました。橋は、もしも一方通行であったらその価値は半分しかありません。橋を通して、こちら側と対岸とを行き来できて初めて、橋の価値は完全なものとなります。

イエスは、天に昇られたことでわたしたちの地上の世界と御父の国とに橋を架けてくださいました。この橋は、実は聖霊降臨を待って完全な役割を果たすことになります。御子イエスがわたしたちの救いを父なる神に橋渡しする、そして父なる神からわたしたちにイエスが約束された聖霊が遣わされる。そうして、イエスがかけてくださった橋は片側通行の橋ではなくなり、橋を通して神の救いのわざが行き来するようになったのです。

中田神父の本心を言うと、先週この考えは頭の中に浮かんでいまして、全部話すこともできたのですが、そうすると今週話すことはもうなくなってしまいます。それで、「橋を行き来することで橋の役割は完全なものになる」と話すのを控えておりました。もしかしたら、先週の話の中で、「橋は相互に行き来することができるはずだが」と考えていた人もいたかも知れません。疑問を持った人がいたなら、大変鋭い感性だと思います。

ここまで来たのですから、橋の果たす役割について説明を尽くす必要があります。この世界と御父の国との橋は、この世界から御父の国へ行くことのできる御子イエスにしか架けることができないものでした。同様に、この橋を通して御父のもとから聖霊が遣わされますが、この恵みもまた、御父のもとからわたしたちのもとへ来ることのできる御子イエスによってしか果たすことができません。

つまり、この橋を行き来することができるのは御子イエスお一人であって、わたしたちはこちらから渡ることもあちらから戻ることも、本来できないということです。ただ、イエスという道を歩むとき、わたしたちはイエスを通してこの世界から御父の国へ架けられた橋を渡していただくことになります。

最も大切なことは、昇天の栄光も、聖霊降臨の恵みも、ひとえに御子イエスの働きによるものだということです。神から人への橋渡し(恵み)、人から神への橋渡し(救い)いずれも、御子イエス・キリストを通して父なる神が一方的に与えてくれたいつくしみのなせるわざなのです。

わたしたちに救われる十分な根拠があったから救いの手が差し伸べられたのではありません。わたしたちに受ける権利があったから恵みが注がれたのでもありません。ひとえに、三位一体の神のあふれるいつくしみのおかげなのです。神のいつくしみが、わたしたちの救いを成し遂げる原動力、聖霊の恵みが注がれる根拠なのです。

今日、わたしたちは聖霊降臨をお祝いしています。聖霊降臨は当然喜ばしいことですが、どのように喜べばよいとお考えでしょうか。もちろん聖霊に対するいくつかの祈りを唱えて聖霊の恵みを喜ぶことができます。それは一つの方法ですが、では祈りの本がなければ、聖霊の恵みに感謝できないのでしょうか。わたしたちはそんなに、愚かで弱い存在でしょうか。

わたしは、聖霊降臨の恵みを喜ぶいちばんの方法は、イエス・キリストに心から感謝することだと考えます。天と地の架け橋となってくださり、約束してくださった聖霊を送ってくださったイエス・キリストに感謝する。聖霊に対する祈りはその中の一つでしょう。ほかにも、だれかに聖霊の恵みを願いたいとき、聖霊の恵みが注がれるようにあなたが架け橋となってあげる。イエス・キリストの姿に倣うことは、何よりイエス・キリストに感謝する方法ではないでしょうか。

どんな場合でも、橋を架けるためには両方の土地に支柱を立てる必要があります。神の国に支柱があるかどうか、わたしたちの心配は無用ですが、わたしたちの世界に支柱は立っているでしょうか。この世界に支柱を置く場所はどこでしょうか。それは、わたしたちの心だと思います。

わたしたちが神に心を開いて、神が支柱を置き、この世界と神の国に橋が架かるように喜んで協力すること。そうして、わたしたちの共同体に、わたしたちの地域に、神の国との橋が架かり、わたしたちの願いを取り次ぎ、聖霊の恵みが注がれるようになるのです。

聖霊が注がれ、わたしたちが聖霊に心を開いて、多くの人に恵みが届くための橋渡しとなれるように、喜んでわたしの今日一日を神に提供しましょう。より多くの人が、この世界とつながる神の国を身近に感じ、神に心を開く人が増えるように、恵みを願いましょう。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
三位一体の主日
(ヨハネ16:12-15)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼皆さんは虫の知らせを信じるだろうか。何となく、その知らせが来そうだ。そういう予感というのは、あるのではないかと思っている。ついこの前も、「船舶検査の案内が全くないけれども、一体どうなっているのだろう。」ふとそんなことを思ったその日に、船舶検査案内の封筒が届いていた。
▼それまでの一週間、まったく何も思い出さず、まったく気にも留めていなかった船舶検査だったが、ふと思い出してみたらその直後に案内が入った。それはつまり、偶然と言うよりは、何かの知らせを感じて思い出し、準備をさせてもらっているのではないかと思うのである。
▼準備をさせてもらっているのは本当にありがたい。だれかと街中で偶然に出会う。偶然ではあるが、先にこちらが相手を見つける。先に見つけたその一瞬の差で、こちらは準備をすることができる。さまざまな「何かの知らせ」をもらって、人は準備の時間を与えられ、助けられているのではないだろうか。
▼準備の時間を与えるのはだれか。時間を前もって与えることができるのは神以外にいない。だから、「虫の知らせ」は神の知らせだと思っている。「虫の知らせ」はないかも知れないが、「神の知らせ」は当然あるだろう。その知らせに敏感な人はずいぶんお世話を受けるし、知らせに鈍感な人は、助けてもらうチャンスを何度も逃しているのだと思う。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第258回目。やはり、浜串教会の聖母祭用の聖母像をアップしなきゃでしょう。

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主の昇天(ルカ24:46-53)橋渡しであり、別れではない

2013-05-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/05/12(No.650)
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主の昇天
(ルカ24:46-53)
橋渡しであり、別れではない
‥‥‥†‥‥‥‥

金曜日に、久しぶりに伊王島時代の賄いさんが五島に遊びに来てくれて、いろいろ伊王島のことやら、こちらで行われた高井旅五十周年、福見百周年を終えた教会の案内をしたりしまして、賑わいました。伊王島時代によく賄いさんをからかっては面白がっていましたが(中略)。

金曜日だったので夜には「ミニバレーの様子も見にいらっしゃい」と誘いましたら、点数の掲示板のところに座って観ていたのが、いつの間にか試合の解説みたいにしゃべるしゃべる、わたしがミスをしたとき「へたくそ」とまで言われました。相変わらず面白い人でした。

懐かしい伊王島も、対岸の香焼と橋が架かってからすっかり様子が変わったらしく、昔のようなのんびりした島ではなくなっているようです。橋が架かる経験は、過去に西海市大島町の太田尾教会で経験しました。それまで大司教館に出かけたり佐世保に出たりしたときなど、航送船と言って、車を積む船で対岸の西彼町から戻っていました。

それが、大島大橋が架かってからは、のんびりした島に大量に本土の人と車が入ってきて、雰囲気が変わったのを覚えています。便利ではありましたが、島の静けさや子どもたちの純粋さを守ってあげるためには、橋が架かる前のままがよかったかもしれないなぁと当時思いました。

もちろん、橋が架かるということは大きな恩恵を受ける出来事です。対岸の人々といつでも、どこででも会うことができます。対岸でしか受けられない恩恵を、橋を通して受けることができるようになります。橋が架かっていなければ、どんなに目の前に見えている対岸の人とも、交流はできないわけです。

さて、今日は主の昇天を祝っています。わたしは、主の昇天を黙想するのに、この「橋を架ける」「橋渡しをする」という捉え方が、非常に役に立つのではないかと思いました。イエスがこの世を去って御父のもとへ行くと予告したとき、弟子たちはどうしてもイエスの言葉を肯定的に受け取ることができませんでした。

弟子たちが不安がっている様子は、ヨハネ福音書では16章に3度現れています。「わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。」(16・6)「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」(16・20)「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。」(16・22)

弟子たちの不安は、もっともなことです。しかし、わたしが今日皆さんにたとえとして紹介している「橋を架ける」という考えでイエスの御昇天を見るとき、違った受け止めかたができるのではないでしょうか。イエスが天に昇られるのは、この世界と、御父のおられる天の国との間に橋を架けるため、架け橋となられるためなのです。

イエスが橋を架けてくださったのであれば、この世を去ることは悲しい出来事にはなりません。イエスという架け橋のおかげで、わたしたちの世界は神の国と繋がることになるからです。しかも、わたしたちのほうからは神の国に橋を架けることは不可能で、神がお遣わしくださった御子イエスによって初めて神の国への道ができたのです。

先に話したように、橋が架けられていなければ、対岸にいる人たちとは交わることはできません。橋を架けてくれるだれかがいること、橋渡しになってくれるだれかがいることは、本当にありがたいことです。イエスは天に昇り、わたしたちの国と神の国に橋を架けてくださいました。このように考えるとき、イエスが天に昇られたことは、はっきり喜びとして理解できるようになり、「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(ヨハネ16・22)のです。

イエスが天に昇り、この世界と神の国に橋を架けてくださったのですから、わたしたちはイエスというその道を歩むことを当然期待されています。イエスが御父のもとから遣わされてわたしたちに道を示し、みずからが道となって、御父の国への扉を開いてくださいました。イエスという道を歩むとは、イエスが示された生き方に倣うことです。イエスのことばと行いを、わたしたちが歩んで体験してみることです。

主の昇天の喜びを、弟子たちは「たえず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(24・53)とあります。神殿は、この世での神とわたしたちとの交わりの場です。神の国とこの世との架け橋であるイエスを、わたしたちの境内でほめたたえましょう。天に昇られたイエスは、御父のもとでいつもわたしたちのことを心に留めておられ、まもなく聖霊を注いでわたしたちを強めてくださいます。

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‥次の説教は‥‥
聖霊降臨の主日
(ヨハネ14:15-16,23b-26)
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ちょっとひとやすみ
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▼みなさんの中で、すでに最新OS「Windows8」を利用している人はいるだろうか。わたしも必要性は感じないものの、話題には乗り遅れたくないのでメインのパソコンではなく、休眠中のパソコンに「DSP版Windows8」を導入した。
▼DSP版というのは、詳しいことは知らないが、古いWindowsが入っていないパソコンに、新規導入が可能な版である。ご存じないかもしれないが、今回のWindows8は古いWindowsが導入されているパソコンにアップグレードの形でインストールすることを前提にしている。なぜそうなっているのかは知らないが、基本、Windowsが入っていたパソコンにしかWindows8は導入できない。
▼ただし、DSP版については、まっさらのパソコンであるとか、ほかのOSで動かしているパソコンとかを再利用することができる。今のところWindows8を本格利用するつもりもないので、DSP版を休眠中のパソコンに入れてどんなものかを見てみようという企みだ。
▼インストール自体はあっさり完了した。だが、今回まったく違うデザインに変更されているので、隅々まで操作してみたいと思っても何をどう操作すればよいのかすら分からない。これは手ごわいOSである。
▼もうWindows8が登場してしばらく経つので、どこかで「よく分かるWindows8」みたいなものが出てくる頃。それを参考にしながら、本当の意味でこのOSが使い物になるのか知りたい。今の時点では、Windows7がはるかに使いやすいし、ソフトの対応状況も安心できる。この安心感がWindows7に勝れば、Windows8に移行してもかまわないと思う。

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今週の1枚
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第257回目。福見のマリアさまは有名だけど、これは高井旅教会のマリアさま。

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復活節第6主日(ヨハネ14:23-29)聖霊が教え、思い起こさせる

2013-05-05 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/05/05(No.649)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ14:23-29)
聖霊が教え、思い起こさせる
‥‥‥†‥‥‥‥

無事に百周年・五十周年の記念式典を終えてホッとしています。支えてくださった皆さんに、心から感謝申し上げます。5月3日(金)、教区の評議会総会がカトリックセンターで開かれたのですが、大司教さまがわたしを見つけて声を掛けてくださいました。心優しいなぁと感激しました。

今週は3つの朗読を眺めて感じたことを分かち合います。3つの朗読から、「聖霊の働き」に目を留めました。第一朗読、使徒たちがエルサレムで会議を開き、信者の生活に本当に必要なものは何かを協議して、大原則を決めました。その際、次のように前置きしてから話し始めています。「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。」これは、聖霊に祈り求め、聖霊による照らしを受けた結果、導き出した結論が正しいと判断したことを伺わせます。

第二朗読、迫害の最中にあるヨハネが「霊」に満たされて、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見ます。迫害を乗り越えるために「霊」が迫害にある教会を力づけてくださることを経験しました。

福音朗読では、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(14・26)まさしく、聖霊が与えられたときに、すべてのことを教えてもらえるとイエスは約束してくださいます。

3つの朗読を通して、聖霊の助けが、どれほど大切であるかを教えてくれています。そこで、わたしたちにも聖霊の助け、導き、照らしがどのように注がれているのかを考えてみることにしましょう。

まず、弟子たちとイエスとの関わりから入っていきましょう。弟子たちは3年にわたってイエスと寝食を共にしましたが、十字架の場面ではイエスを捨てて逃げ出してしまいます。弟子たちには、イエスとの関わりが十分に理解できていなかったのです。

けれども聖霊は、イエスを捨てて逃げ出した弟子たちに、彼らにとってイエスとの関わりがどれほど大切かを理解させてくれました。ヨハネ福音書は、西暦90年頃に書かれたとされますから、この場面でイエスが「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」と言っているのは、振り返って、ああそうだったなぁと納得して書いているわけです。

聖霊は弟子たちにとって、イエスとの関わりがどれだけ大切であるかを教えるだけではありません。わたしたちイエスを信じるすべての弟子にとって、イエスとの関わりがどれだけ大切であるかを聖霊は教えてくれます。そこで、わたしたちにとっての聖霊の働きを考えてみましょう。

考えるにあたって、今年の一つの目の付け所を紹介したいと思います。今年は偶然にも、5月5日「こどもの日」が日曜日に当たりました。わたしは常々、「こどもの日」とは、「こどものためにいちばんよいことをしてあげる日」と考えています。神から与えられたこの子に、何をしてあげることがいちばんよいことになるでしょうか。わたしは、イエスの近くにわが子を置いてあげることだと思います。

もしかしたら、今日はさまざまな行事でミサに参加できていないかもしれません。ミサに参加させることは、こどもをイエスの近くに置くために最も優れた方法ですが、それが叶わなくても、イエスの近くにこどもを置く方法は他にもあると思います。

親の責任で、こどもをイエスの近くに置く。こどもはまだその意味と価値を十分に理解できませんから、こどもの日にイエスの近くに導こうとする親の気持ちを理解してくれないかもしれません。しかし考えてみてください。イエスは、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」と言われたのです。今は分からなくても、聖霊が、理解させてくださいます。

わたしたちは、イエスの側にいることが生活の基礎であるべきです。そのことを、ミサに来ることで、家庭で祈ることで、聖母月のロザリオで、学ぶことができます。もちろん、学べばそのまま分かるというものでもありません。そのために、聖霊がわたしたちに、イエスとの関わりの大切さを理解させてくれるのです。

こどもたちにもぜひ、イエスと繋がっていることの大切さを、まず体に覚えさせてください。体験によって知ったことを、聖霊はあとになって、ことごとく理解させてくださいます。聖霊の働きがあることをわたしたちが信じること。それが、次の世代にイエスの教えを受け継がせる鍵なのだと思います。

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‥次の説教は‥‥
主の昇天
(ルカ24:46-53)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼百年前のことを知る材料は2つあると思う。1つは残されている資料、1つは語り継がれた証言。どちらも大切だが、どちらも一長一短あると感じた。残されている資料は、いったん書き残した年代や数字が、後の検証で疑問が付くことがある。
▼人から人への証言は、残念ながら受け継いだ人が旅立っていったり、土地から離れてしまうことがあり、証言を集めるのが難しくなる。しかも記憶は曖昧になることがあり、確かめようもない。そこで、両方を照らし合わせることになる。
▼福見教会の献堂百周年について、終わったから言うが、年代はもっと後ではないかという疑問が直前に投げかけられた。直前に言われてももう後へは引けないので、計画を推し進めたが、献堂は1924年ではないかという資料もある。
▼わたしたちは、かつて記念誌作成に当たった人たちのご苦労を無駄にしたくなかったので、記念誌が採用した1913年を献堂の年と判断した。今さらどうにもならないのだから、献堂百周年を1つのはっきりした記録として、後世の人は受け継いでくれればと思う。
▼浜串教会も、次に記念の年が来る。それは行政が整えてくれた看板によると、1967年が現在の聖堂の献堂の年となっているからだ。すると、4年後に50周年ということになる。だが、面白い事実が出てきた。
▼記念誌には、昭和41年、つまり1966年と記されていて、ではどちらが根拠があるのかということになる。偶然その根拠が出てきた。病人訪問をしている家庭で、「この湯呑み、浜串教会献堂の記念なんですよ」と言って、外見は珍しくない湯呑みを見せてもらった。そこには、「浜串カトリック教会聖堂司祭館落成記念・1966年7月」とある。
▼これは決定的な証拠だと思った。だから、50周年は2016年である。記念するにしろ、記念しないにしろ、この面白い発見は信徒全員で、共通理解を持たせたいと思っている。結論として、残された資料のほうが、雄弁に物語るということだ。

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今週の1枚
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第256回目。マリアさまの御像を準備し忘れたので、浜串のを後日アップします。

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