こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活節第4主日(ヨハネ10:27-30)イエスはわたしをまるごと受け入れてくださる

2010-04-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/04/25(No.473)
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復活節第4主日
(ヨハネ10:27-30)
イエスはわたしをまるごと受け入れてくださる
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最初に、中学1年生の時の経験から話したいと思います。わたしは中学1年生で神学校に入りましたが、神学校に入って最初の夏休み、夏休みの最初の日曜日の出来事です。その日わたしはミサが始まる前にトイレに行ってなかったため、たまたまトイレに行きたくなって、ミサを抜け出してトイレに行ってきました。

戻ってみると、玄関で知らないおじさんが2人、話し込んでいました。そのおじさんたちの横を通り過ぎたとき、たまたま、おじさんたちの会話が耳に入ったのです。おじさんたちはこう言っていました。

「輝あんちの息子の神学校に行ったってや?」「おう」
「ほんなごてや?」「ほんなごったい」
「なんのそん。輝あんちの息子の神父にならうっとっちかよ」

何とわたしのことを、おじさん2人は噂していたのです。しかも、わたしが目の前を通っているのに、そのことも知らずに、悪口を言っていたのです。わたしは、顔が真っ赤になるくらい恥ずかしい思いをしました。それと同時に、「見とれよ」という対抗心もメラメラと燃えてきました。「絶対にこのおじさんたちを見返してやる」それが、わたしの最初の頃の召し出しの原動力だったかもしれません。

2年前に亡くなったわたしの父親は輝明と言うのですが、確かに、鯛ノ浦ではよく知られたガキ大将だったようです。あとで聞いた話ですが、自己紹介でわたしが父の名前を出すと、みんな決まって「輝明さんの息子ですか?輝明さんは悪かったもんねぇ。」と、口を揃えて言うのです。鯛ノ浦だけではなく、船隠でも、佐野原でも言われました。ですから、父親を知っている人からすれば、あの父親の息子が、神父になれるはずがない。有り得ないと言うのも無理はないのです。

あのときのおじさん2人は、わたしの父をよく知っている人だったに違いありません。けれども、だからと言って、おじさんたちがわたしを知っていることにはなりません。確かに、名うての荒くれ者の息子ですが、すべてを知っているわけではなかったのです。その証拠に、わたしが横を通り過ぎたときも、おじさんたちはわたしのことを悪く言っていたわけです。

人が、どんなに相手のことを知っていると言っても、限界があります。何十年の付き合いがあっても、すべてを知り尽くしているとはいえません。夫婦であってもそうでしょう。50年連れ添った夫婦であっても、知らないことはあるのではないでしょうか。

ですから、わたしたちが誰かのことを知っていると言った場合、「ある程度知っている」ということであって、どんなにおまけをしても、せいぜい「よく知っている」という程度のものなのです。誰も、誰かのことをすべて知っているなどと言うことはできないのです。

そのことを踏まえた上で、福音に目を向けてみましょう。イエスははっきりこう言います。「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」(10・27)イエスは、ご自分の羊を知っているのです。その際、何も言葉を付け加えず、ただ「知っている」とだけ言います。

どれくらい知っているのか。これは押さえておく必要があります。イエスが「知っている」と言うからには、「すべてを知っている」という意味だと考えるべきです。「だいたい知っている」というのでも、「かなりよく知っている」というのでもありません。すべてを、余すところなく知っているのです。

すべてを、余すところなく知ると、新しい関わりができあがります。聖書の中で、「知る」という言葉は、特別な意味を持つことがあります。聖書の中では、「知る」ということが、「愛する」という意味も持つことがあるのです。そのことがここで当てはまります。イエスはご自分の羊を「知っている」だけでなく「愛している」のです。

「知る」ということが「愛する」ということと同じ意味になるのは、特別な場合です。つまり、「すべてを知り、すべてを受け入れる」そういう場合でなければ成り立ちません。結婚を前提としている人同士が、相手の長所も短所も、すべて知った上で受け入れる。この場合は、相手を知るということが、相手を愛するということになるわけです。

そう考えるとき、イエスが仰った「わたしは彼らを知っている」というのは、すべてを知り、愛してくださっているという意味になります。きっとそれは、わたしたちが欠点も多々あるけれども、イエスは十分承知の上で、愛してくださっているということではないでしょうか。もっと言うと、イエスから愛してもらうにはあまりにも釣り合わない弱い人間を、それでもかまわず愛してくださる。そんな計り知れない奥深さが含まれているのではないでしょうか。

「わたしは彼らを知っている。」当時のおじさんたちは父親から推理してとてもじゃないが神父になれっこないと、断定しました。ところがイエスは、まだ海のものとも山のものともつかぬ少年を知ってくださり、「うん、輝明の息子だから手が掛かりそうだけど、それでもわたしはあなたのことを知っているよ。そして、あなたのことを愛しているよ。だから、わたしに従ってきなさい」と呼び掛けて、使ってくださったのだと思います。

イエスは、わたしがどんな素材か、十分わかった上で、愛してくださった。だから、わたしにも働きの場が与えられました。これはわたしに限ったことではないはずです。「なんのそん。あれが役員の勤まっとっちかよ。」冷静に考えればそうかもしれません。けれども、イエスはわたしたちを長所も短所も丸ごと愛してくださることで、わたしたちの働きの場を用意してくださるのです。

向き・不向きはあるかもしれない。けれども、イエスが丸ごと愛してくださって、わたしたちにイエスに従うための場所、活躍の場所を用意してくださったのですから、精一杯神さまが置いてくださった場所で働いてみる必要があるのではないでしょうか。

「わたしは彼らを知っている。」イエスのこの言葉を、どこまで信頼するか。これが今週わたしたちに求められていると思います。イエスの言葉をどこまでも信頼し、従っていく。そのための力を、今日のミサの中で願い求めましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼「灯台もと暗し」とはよく言ったもので、いちばん面白い人はいちばんそば近くにいた。毎日何か面白いことをしてくれるが、今日はその中から1つだけ。これは浜串教会の中ではすでに知れ渡っていることなので、今さら「どうしてあのことを書いたのですか!」と言われることもないだろうと思っている。
▼実は司祭館のお世話をしているシスターなのだが、この前浜串の集落に降りて来る長い長い下り坂の途中で、車をいったん停め、あらためて車を動かそうとした時に車が少し前進してしまい、運悪いことに溝にタイヤを落としてしまった。大雨に見舞われた19日のことである。
▼車は傾き、格好としては犬が電柱にマーキングをするような形で車は動かなくなった。そこへ、主任司祭の乗った車が通りかかった。本来この日は、上五島地区の司祭会議のあとであり、わざわざ浜串に向かっていたのはどうしても手元に持っていたい資料を置いてきていたためだった。
▼マーキングのポーズをした軽自動車を発見。わたしはこう考えた。「あー、どこの父ちゃんが車を溝にはめたのだろうか。飲んで運転するから、こんなことになるんだよ。自分も忙しいし、何とか自力で脱出してね」そう思ってその場を素通りした。
▼ところが司祭館で資料を鞄に入れている間に、先の事故は飲酒運転事故でないことが判明した。シスターが車を溝にはめたのだと、ことの顛末を話して聞かせてくれた。運転の途中で休憩が必要になり、路肩に車を停めて一休みし、また運転を再開しようとしていた矢先だったらしい。ほんの僅か、車が前進し、溝に落ちたのだという。
▼どうやって犬のマーキング状態の車から降りたのかは不明だが、わたしが通り過ぎたあとに傘を差して道路を下り、船員さんたちに窮状を訴え、船員さんたちがよってたかって車を取り巻き、溝から出してくれたそうだ。
▼まさに、聖書の「善いサマリア人」のたとえを絵にしたような場面だった。主任神父は「道の向こう側を通って行った。」(ルカ10・31)ほかにも車が何台か、昇ったり降ったりしたらしい。そして最後に助けてくれたのは、漁協の父ちゃんたちだったのである。シスター、知らなかったとは言え、申し訳ありませんでした。

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新企画今週の1枚
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第80回目。うまく撮れるかどうか、浜串教会での日曜日ミサの様子。
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詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ13:31-33a,34-35)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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復活節第3主日(ヨハネ21:1-19)「ほんなごったい」と言える信者になろう

2010-04-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/04/18(No.472)
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復活節第3主日
(ヨハネ21:1-19)
「ほんなごったい」と言える信者になろう
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はじめまして。中田輝次神父と言います。よろしくお願いします。フェリーで長崎の大波止を出て、奈良尾に降りましたが、付き添いの2人は船の中でワンカップをさっそく空けて景気づけしていましたので、その2人も車に乗せ、わたしが車を運転してフェリーを出てしまいました。

降りた時にチラッと外を見たのですが、「誰も、ターミナルにはお迎えに来とらんよね」と確認し、まっすぐ高井旅教会に向かったのです。ターミナルの待合所では、横断幕を準備して、さらに桐教会の神父さま、真手ノ浦教会の神父さまがお迎えに出ていたそうですが、全員を置き去りにして出発してしまいました。申し訳ありませんでした。

わたしは鯛之浦出身です。小さい頃、耳で覚えた言葉がたくさんあります。「あっぱよ」「ざぁまよ」「ほんなごてや」「なんのそん」これ、全部わたしの体に染み付いています。すごくいい言葉だと思います。こんな言葉で、聖書の解き明かしができたら、どんなにすばらしいだろうと思い、今日の説教を考えてみました。

すると、意外や意外、今日の福音朗読の中に、「あっぱよ」「ざぁまよ」「ほんなごてや」「なんのそん」が隠されていることに気づきました。実は1ヶ月くらい前から、「あっぱよ」「ざぁまよ」で説教ができないものかなぁと、浜串教会の皆さんのことを思いながらずっと考え続けていたのです。まさかとは思っていましたが、考えているうちに、「あー、これはいけるかもしれんぞ」という感触をつかんだのです。

では少しずつ、わたしたちが昔から使ってきたすばらしい言葉を掘り出してみましょう。イエスが、夜に漁をしたのにさっぱり魚がとれず、しょんぼりしている彼らにこう言いました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(21・6)そこで、網を打ってみると、「魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」となっています。

ここに、1つ目の言葉が隠れています。分かりますか?「魚があまりに多くて」これは、「ざぁまに魚のとれた」ということですよね。「あまりに多くて」と言っているのを「ざぁまにとれた」と言えば、2千年前の遠い話ではなくて、すぐ近くの、わたしたちの誰もが親しみを持てる出来事になるのではないでしょうか。

2つ目の言葉を探しましょう。「ざぁまに魚のとれた」それを見て、イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言いました。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、「上着をまとって湖に飛び込んだ。」(21・7)とあります。わたしは正直に言うと、ペトロの行動は理解に苦しみます。

皆さん、よくよく考えてみてください。人は、本当に裸同然だったら、湖に飛び込むのでしょうか。あなたは、裸同然で舟に乗っていて偉い人とばったり会ったら、海に飛び込みますか?わたしは少なくとも、飛び込んだりはしないと思います。でも、何かがあって、ペトロは湖に飛び込んだのです。何があったのでしょうか。

わたしは、「あっぱよー!」と思ったから、湖に飛び込んだのだと思います。あまりにもびっくりして、「あっぱよー!」と思ったので、思わず湖に飛び込んだのではないでしょうか。きっと、「あっぱよー!」としか言えないくらい驚かないと、あんな理解に苦しむ行動はしないのではないでしょうか。

3つ目の言葉を探しましょう。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいになりました。問題はここからです。「それほど多くとれたのに、網は破れていなかった」(21・11)らしいのです。大きな魚が百五十三匹です。大きな魚って、1キロくらいでしょ?だったら水揚げは153キロにもなります。

細い糸で編んだ網に、言ってみればお相撲さんが乗っかっている状態です。網が破れないということがありえるでしょうか?わたしたちは内心こう思うはずです。「なんのそ~ん。」それが、正直な反応です。「なんのそ~ん」と言いたくなるほど、とても信じられないことですが、神の特別な計らいがあったのかもしれません。

そして最後、今日の福音朗読から4つ目の言葉にもたどり着きます。残る1つの言葉は「ほんなごてや」です。これは今日の福音朗読のどこに見つけることができるのでしょうか?それは、あなたが、誰かに、今日の物語を話して聞かせたときです。あなたにとって身近な人で、異なる信仰を持っている人や、何も信仰していない人に、今日の話を語り聞かせるとき、聞いたひとはおそらく「ほんなごてや?」と問い返すことでしょう。

わたしはそのとき、なんと答えるでしょうか?夢物語だと返事するのでしょうか?いえ、違います。「ほんなごったい」と答えるべきです。ただし、「およー。ほんなごったい」と答えるためには、わたしたちが聞いて知っていることが、恥ずかしくないものであり、自信を持って話して聞かせることができるものなんだと納得していなければなりません。

つまりこういうことです。わたしたちが自信を持っていることに失敗し、下を向いているときに、イエスは必ずわたしたちに声をかけ、必要な指示を与え、わたしたちを助けてくださる。しかも、あふれるほど豊かに恵みを与えてくださるということです。このことを福音から学び、生活の中でも体験しているなら、「ほんなごてや?」と言われたときに、「およー。ほんなごったい」とはっきり言うことができるのです。

最後に、わたしたちのこれからの目標を示しておきましょう。それは、まずイエスの一生涯について書かれた福音書に、わたしにもその経験はある、そう言えるくらいに親しむことです。そして、誰か異なった信仰の人に、イエスがわたしたちを助けてくれるんだと話します。きっと相手は、「ほんなごてや?」と聞き返すでしょうから、「およー、ほんなごったい」と返事ができる。これが、わたしたちが目指す目標です。

ぜひ、今話した目標にたどり着けるよう、一緒に信仰の道を歩いていきましょう。わたしは、説教を通して福音書の中にある「なるほどそれなら分かる」という部分、今日の説教で言えば「あっぱよ」「ざぁまよ」を拾い出して皆さんに示しますから、それを材料にして誰かに伝えてください。

誰かが「ほんなごてや?」と聞いたなら、「ほんなごったい」と答える。そのときわたしたちは、イエスに耳を傾ける、新しい仲間を網ですくうことができるのではないでしょうか。


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ちょっとひとやすみ
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▼今、4月15日木曜日の夜12時10分。あと9時間ほどで、伊王島を後にすることになる。説教にも書いたが、旅立ちの説教と、着任早々の説教は、ずっと前から練り始めていた。理由は2つあって、だんだん押し迫ってくる時期だから、説教をゆっくり考える暇はなくなるだろうというのが1つ。
▼もう1つは、配信をするにも、次の任地に金曜日に着任して、もしも土曜日にネットが開通してなかったらどうする?という心配があった。だから、早くから構想を練って、印象に残る説教をして、送ってもらって受け入れてもらう。ずいぶん計算高いが、確実に旅立ちの説教と着任の説教をこなし、配信するためにはそれしかなかった。
▼この2週間で、わたしの苦手な部分も見えてきた。「感謝を示す」ということだ。6年半、お世話になった賄いさんに、感謝のしるしをあげるべきだ。また、見送ってくれる伊王島の人々に、感謝のしるしを示すべきだ。そして最後に、これからお世話になる浜串の人々にも感謝のしるしが必要だ。
▼そうした、配慮の不足しがちな点を、幸いにもそっと教えてくれる人がいた。送別会のとき、「お父さんたちだけじゃなくて、後ろのお母さんたちにも、話をしに行って。」とてもありがたい忠告だった。「浜串のシスターたちに、お土産買って行ったら?」これも、うっかりすると忘れそうな部分だ。素直に忠告を受け入れた。
▼まだ、この原稿を書く時点では実感はない。すべてがガラリと変わり、行ってすぐにバリバリ働き始めなければ追いつかない。うーん、ちょっと不安があるけれども、イエスがきっと、下を向きそうになるわたしを勇気付けてくれるに違いない。「ほんなごてや?」「ほんなごったい」

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新企画今週の1枚
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第79回目。写真を速攻で送ってもらいました。行ってきます!(の予定)
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‥次の説教は‥‥
復活節第4主日
(ヨハネ10:27-30)
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神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)イエスが教会の鐘を鳴らし、皆さんを呼び集めています

2010-04-11 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/04/11(No.471)
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神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
イエスが教会の鐘を鳴らし、皆さんを呼び集めています
‥‥‥†‥‥‥‥

皆さまと主日のミサをささげるのも最後となりました。今週は「神のいつくしみの主日」という名前が付けられた主日です。長崎教区で転勤の絡む教会は、ほとんど、今週がお別れの説教となっていることでしょう。

福音朗読は復活のイエスが弟子たちに現れる場面、特にトマスにあらためて現れる場面が選ばれます。今日の説教、わたしたちすべてが神のいつくしみを感じるための助けになればと思います。

イエスがお亡くなりになった後、弟子たちは心を閉ざし、家の戸にも鍵を掛けて隠れるようにしていました。誰に従って生きていけばよいのか、何を頼りに生きていけばよいのか、全く分からなかったからです。

そこへ、復活したイエスが現れてくださいました。戸に鍵が掛けてあるのにおいでになったのですから、心理的・物理的、あらゆる形で自分を閉ざしていても、復活した主はおいで下さり、わたしたちを解放してくださることが分かります。

復活したイエスはすべてを閉ざしていた弟子たちに現れて、何を仰ったのでしょうか。いちばん印象的な言葉は、「あなたがたに平和があるように」(20・19)というものでした。この点に絞って、わたし自身の考えをまとめたいと思います。

復活した主がおいでになる前、弟子たちの心は不安でいっぱいだったことでしょう。「不安」は、「平安」がない状態です。どんな平安が奪い去られていたのでしょうか。まずは、付き従っていく相手を失ったということです。エマオに向かう弟子たちは、次のようにイエスを言い表しました。「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。」(ルカ24・19)誇りを持って、胸を張って付き従っていく相手を失ったのです。

さらに、付き従っていく相手を失ったことで、何を頼りに生きていけばよいのか、全く分からなくなりました。2人ずつ組になってほうぼうの町に出かけ、宣教しましたが、今はそのことも思い付きません。「わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11・1)と願って教えられた「主の祈り」を唱えてみることも思い付きませんでした。何かの抜け殻のようになっていたのです。

そこへ、イエスが現れ、「あなたがたに平和があるように」と仰いました。何もかも、奪い取られて呆然としていた弟子たちに、復活したイエスが現れ、すべてを取り戻してくださったのです。弟子たちは、これまで通り付き従っていく相手を取り戻し、頼りにすべき道しるべを取り戻したのです。

イエスは「あなたがたに平和があるように」と言いました。すなわち、間違いなく不安のどん底に突き落とされていた弟子たちを、まずは不安のどん底から引き上げてくださったのでした。細かいことを言う前に、根本的な部分に救いの手を差し伸べてくださったのです。

「弟子たちは、主を見て喜んだ」(ヨハネ20・20)とあります。喜びが満ち始めれば、あとは問題ありません。さまざまな指示を与えることで、弟子たちは本来の姿に立ち帰っていきます。

弟子たちの心が喜びに満たされたところで、イエスは矢継ぎ早に指示を出します。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(20・21)「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(20・22-23)弟子たちはもはや以前の抜け殻ではなく、よく準備された状態に変わっていたので、イエスの指示に耳を傾けることができたのです。

トマスは、イエスの最初の出現に立ち会うことができませんでした。それでも、トマスもその後のイエスの出現で「信じない者ではなく、信じる者に」(20・27)変わります。トマスの中にも喜びが満ちて、「わたしの主、わたしの神よ」(20・28)と答える人に変わっていたのです。

喜びが満ちあふれれば、人は、イエスの証し人として十分働けるようになります。イエスの復活後の弟子たちがそうでした。同じことは、わたしたちにも当てはまります。わたしたちの心が平安であり、喜びが満ちあふれているなら、イエスの証し人として働くことができるのです。

問題は、どのようにしてわたしたちが平安を得て、喜びに満ちた人に変わるかということです。そこでお願いしたいのは、6年前、初めて皆さんに説教したことです。わたしは今でも正確に覚えています。こう話しました。「どこに、何があるかを知っていることはとても大切です」。

つまり、わたしたち信仰者の必要なものが、どこにあるかを知っているなら、当然そこへ行けば、平安を得て、喜びが満ちあふれるはずです。信仰者に必要なものは、どこへ行けば手に入るのでしょうか。疑いもなく、教会へ行くということです。

教会は、皆さんを招き、集会祭儀を開き、秘跡を授け、恵みを与えます。わたしは、それらの最初の合図は、教会の鐘だと思います。高島教会は教会の鐘を鳴らさなくなりましたが、心の中では教会の鐘の音が今でも聞こえると思います。教会の鐘は、始まりを知らせ、信仰者を集めるのです。

そこで、皆さんへの置きみやげに、「あの鐘を鳴らすのはあなた」という歌を歌って最後の説教を終わりたいと思います。和田アキ子さんの代表曲です。教会の鐘を思いながら歌ったとは思いませんが、信仰者を呼び集め、秘跡を執行して恵みを授ける、そのしるしとなる教会の鐘を鳴らす人が必要です。

実際に鐘を鳴らしているのはシスターですが、主任司祭を通してイエスさまがあなたを教会に呼んでいますよ、あなたを教会に呼ぶ鐘を聞いたら、思い出しなさいと、そういう気持ちを込めて歌いたいと思います。

「あの鐘を鳴らすのはあなた」
作詞 阿久 悠
作曲 森田公一

まもなく、新しい主任司祭がやってきます。次の主任司祭も、皆さんを祭儀に招き、秘跡を執行し、恵みを届けます。わたしも、新しい教会の鐘を鳴らすために、旅立ちます。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼6年前の歓迎会を思い出した。にぎやかな歓迎をしてもらった。今回の送別会も、にぎやかに送り出してくれるそうだ。「だそうだ」と書いたが、実は仕掛け人は自分でもある。「今週の一枚」にもある通り、余興の中でドレスを着ることになっている。いちおう、「花嫁」の設定である。
▼なぜ花嫁かと言うと、余興の中で「瀬戸の花嫁」ならぬ「馬込の花嫁」を歌って、送り出してもらうことになっているからだ。以前にも、長崎本土の教会から離島の教会に転勤になった時、「瀬戸の花嫁」を歌ったことがあった。その再現である。
▼歌詞も考えている。次の通り。

1.馬込 日暮れて 夕波小波
浜串教会へ お嫁に行くの
離島とだれもが 心配するけれど
釣りができれば 大丈夫なの
イセエビ イトヨリ さよならするのよ
シスター 婦人会 行くなと泣いた
信者だったら 泣いたりせずに
次の主任を 大事にしてね

2.岬まわるの 九州商船が
馬込大明寺 遠くになるわ
波止場の向こうで 見送る人たちに
別れ告げたら 涙が出たわ
島から島へと 渡ってゆくのよ
五島でこれから 生きてくわたし
馬込 夕暮れ 明日も晴れる
司祭の門出(かどで) 祝っているわ

▼1週間後には、新しい場所での生活が始まる。戸惑いと、期待。そんな中で、何か自分がお役に立てそうな場所を見つけて、根を下ろそうと思う。司祭は、種蒔く人に種蒔かれ、根を下ろし、いつかまた植え替えられていく。植え替えのその日まで、すべての人に注がれる神の恵みを受けながら、日々を過ごしたい。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
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第78回目。こんな花嫁を、浜串教会は受け入れてくださるのでしょうか?
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‥次の説教は‥‥
復活節第3主日
(ヨハネ21:1-19)
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復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)真理を学ぶために、心の部屋を飛び出そう

2010-04-04 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/04/04(No.470)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
真理を学ぶために、心の部屋を飛び出そう
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あらためて御復活おめでとうございます。馬込教会の婦人会に荷造りを手伝ってもらって、かなり作業が進みました。片付けといった場面では、明らかに男性よりも女性のほうが適していると、思い知らされました。

たとえば、箱よりもほんの少し高さが高いとか、幅が広いとかいう場合に、男性はどうしても躊躇するのですが、女性軍ははみ出ている部分も力ずくで寄せてくっつけてガムテープで締め付けてしまうんです。

見事だなぁと思いましたが、よくよく考えたら、はみ出ているものを押し込んでしめるというのは、もしかしたら洋服を着る時なんかによくやっているのかなぁと、変な想像までしてしまいました。

それはそうと、おかげさまでみるみるうちに物が無くなりまして、何年ぶりかに床が真っ平らに見えています。テレビ台の上にも、今はテレビとリモコンしか載っていません。これはすごいことです。

片付けを手伝ってもらっている中で、ためになることを会話の中で聞かせてもらいました。箱には中身が分かるように箱の中を写した写真を名札代わりに貼り付けているのですが、「えー、そんな名札の貼り付けかたじゃダメだよ」とある人に言いましたら、別の人が、「神父さま。貼り付けているのは神父さまじゃないんだから、仕上がりも神父さまとは違うんですよ」とあっさり言われてしまいました。

考えてみると、なるほどそれもそうだよなぁと思ったのです。言われなくても実際そうなのですが、言われてみて、事実を目の前にして、初めて「なるほどそういうことか」と納得することってあるわけです。

じつは今日の福音朗読の、ペトロともう一人の弟子もまた、イエスの復活という事実を目の当たりにして初めて、「なるほどそういうことか」と納得したのでした。マグダラのマリアが、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」(20・2)と告げたのですから、イエスの復活を気付くことができたはずです。それなのに、マグダラのマリアの言葉だけでは納得できず、2人とも墓へ走ったのでした。

墓へ走っても、たぶん報告を受けた以上のものは見ることができないのです。それにもかかわらず、彼らは墓へたどり着いた時に、出来事を理解しました。事実を目の前にして初めて理解できる。物事にはそういうものもあるということなのでしょう。

復活の出来事を空の墓に行ってようやく納得した2人の弟子たちを眺めていてわたしはこう考えました。わたしたちも、イエスの復活を信じることで、いつかは復活の喜びにあずかれるのだと信じています。ところで、本当にわたしたちは復活するという確信は、どこでどういう時に味わえるのでしょうか。

わたしは、もしかしたらそれは、お墓に行って、その場に立ってみた時に感じることができるのではないかと思いました。次に墓参りに行った時、「わたしたちは皆、キリストを信じてこの世を去るのだから、復活するのだ」と、墓を見て考えてみたらいかがでしょうか。今までとは違う何かを、墓そのものが教えてくれるかも知れません。

「百聞は一見にしかず」と言います。2人の弟子たちが足を運んだことで学んだ姿を、わたしたちも大切に考えましょう。内向きに考えを閉じこめず、飛び出してみましょう。復活のイエスは、ご自分がその場にいなくても、空の墓を通してでも、人に必要な真理を教えてくださるお方です。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼御復活おめでとうございます。いよいよ話す場面も少なくなってきたので、打ち明け話を。転勤の内示が出た次の日。もちろんこの時点でわたしのほかにだれも転勤の事実を知らないのだが、早朝のミサを終えて食堂の椅子に座ると、例の調子で賄いさんが鼻歌を歌った。その日によっていろいろ歌う歌も違うのだが、この日は選曲が悪すぎた。

別れることは、つらいけど
仕方がないんだ君のため
別れに星影のワルツを歌おう
冷たい心じゃないんだよ
冷たい心じゃないんだよ
今でも好きだ、死ぬほどに

▼あまりの選曲の悪さに、わたしはせつなくなり、二階に上がって気持ちが落ち着くのを待った。すると、「おつゆが冷めますよ~」とさらに追い打ちを掛けてくる。あ~。知らずに歌っているとは言え、何とも無邪気な人だ。
▼ついでに言うが、この島に唯一入っていた銀行が、この6月で撤退することになった。賄いさんが「大波止まで行ってお金をおろすなんて、納得いかないわ」と言うので、「ゆうちょ銀行のATMでも、○○銀行のカードを持ってるならお金おろせるでしょ」と言うと、「またまたぁ。わたしをからかおうったって、そうはいきませんよ。何で銀行のお金を、ゆうちょでおろせるんですか。そんなはずがないでしょう。」
▼だんだんムカッときはじめていたが、やめとこうと思いつつも、「ゆうちょの窓口で尋ねてみたら」と助けてあげたつもりが、「いくら年寄りだからって、窓口に行ってまで恥をかかせるつもりですか」と言われてわたしもキレてしまった。その後の顛末は省略するが、大波止まで往復するお金を、わたしへの慰謝料として払って欲しい気分である。
▼そしてこの話の最後のオチ。どうやらゆうちょの窓口にいる馬込教会の信者の優しいお嬢さんが、「ゆうちょATMでも○○銀行カードでお金をおろせるんですよ」と実際に説明して教えてくれたらしい。得意になって賄いさんが帰ってきてこう言った。「神父さま、ゆうちょのATMで○○銀行のカード使えましたよ。いやぁ尋ねてみるもんですねぇ。」もはや反論する気力を失った。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第77回目。少し遅くなりますが、高島教会でささやかながら送別会。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/100404.jpg

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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復活徹夜祭(ルカ24:1-12)思い出し、復活のキリストに従って歩みなさい

2010-04-03 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
10/04/03(No.469)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活徹夜祭(ルカ24:1-12)思い出し、復活のキリストに従って歩みなさい
‥‥‥†‥‥‥‥

主のご復活、おめでとうございます。中田神父が、みなさんと御復活を喜び合うのは、今年が最後になりました。もう、御復活の説教をみなさんにすることはないでしょうから、何か、最後にお役に立つことを話したいと思って今年の説教を考えてみました。

朗読は、週の初めの日の明け方早く、婦人たちが墓へ行く場面から始まります。墓を確かめますが、主イエスの遺体が見あたりませんでした。そこへ、輝く衣を着た二人の人がそばに現れます。そして、途方に暮れていた婦人たちに、イエスは復活なさったのだと伝えます。

復活を知らせるのですが、二人の人は同時に、「まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい」(24・6)と促します。イエスがご死去の直前に話されたこと、それは、「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」(24・7)ということでした。

わたしは主の御使い二人と、婦人たちとの出会いの中で、2つ、皆さんに伝えようと思いました。それは同時に、わたしが、皆さんに言い残したい2つのことでもあります。1つは、「(イエスが)お話になったことを思い出しなさい」ということ、もう1つは、「罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」とのみことばで伝えようとしていることです。

1つ目の、「イエスがお話になったことを思い出しなさい」についてですが、「思い出しなさい」と言うからには、思い出すことができるくらい、繰り返し、確実に話してくれたことがあるはずです。イエスは、弟子たちだけでなく、婦人たちにも思い出してもらえるように、大切なことは残さず話してくださったということです。

もう1つは、「罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」とのみことばです。わたしはこのみことばは、2つに区別して考えるのがよいと思います。それは、「罪人の手に渡され、十字架につけられ」と、「三日目に復活する」とに分けて考えるということです。

「罪人の手に渡され、十字架につけられる」これは、イエスの命を奪おうとする人々のされるがままになっている状態です。もしここで、イエスに自由がなくなっていて、人々の奴隷になっていたのであれば、イエスは復活することはできなかったでしょう。事実はそうではなく、イエスは「罪人の手に渡され、十字架につけられる」あいだも、完全に自由であり、誰にも隷属していなかったのです。ですから、ご自分で「復活する」のです。

この2つを通してわたしが言いたいことはこうです。イエスは、特別な弟子たちだけでなく、婦人を含むすべての人に、話すべきことは十分話しておかれたのでした。わたしも、思い出せるくらいに、話すべきことは話したと思っています。あとは、「こんな場面では、中田神父はどんな決断をしただろうか。どんな態度を、求めていただろうか」そういうことを思い出してほしいと思います。

次に、イエスは「罪人の手に渡され、十字架につけられる」場面でさえも、自由を奪われるたり、誰かに隷属したりしていなかったのですから、わたしも、みなさんがどんな困難の中にあっても、自由を奪われない人であってほしいと思います。特に、イエスの復活を信じる教会家族は、悪に引きずり込もうとする誘惑の奴隷に決してなるべきではありません。きっぱりと、「わたしは命を狙われるような場面でも自由を失わなかったイエスを信じている。だから、あなたがたの誘惑には屈しない」そういう決意をもって、復活の主に従って歩んでほしいと思います。

「(イエスが)まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。」中田神父がまだ馬込教会にいたころ、話していたことを思い出しなさい。少なくとも、前半の3年間については、皆さんの手元にある「取って食べなさい」という文庫本に、信仰生活で気づいて欲しいことを一言一句漏らさず書いています。ぜひ、思い出すために読み返してみてください。

イエスは今日復活し、「話したことを思い出しなさい」それと「罪に隷属することなく、復活の主を信じて生きる完全な自由を保ちなさい」と呼びかけています。命ある限り、この2つを維持して歩むなら、わたしたちはいつも、復活したキリストの証し人となれます。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼聖金曜日、受難の典礼が夜7時から執り行われ、それが8時過ぎまで続いた。お茶を飲んで、お腹を少し温め、それから復活徹夜祭の説教を書いた。まだ、現時点でも「受難の主日から復活の主日までをまとめたパンフレット」にこだわっているからだ。
▼明日の午前中、うまくいけば復活の主日の説教ができあがる。すると、午後からパンフレットの作成に入ることができる。去年のパンフレットの利用者から、「文字が小さかったかな」という言葉を頂いたので、今年はそのことにもちょっと気を配ろうと思う。
▼そう言えば、今年の十字架の道行きで1つ発見があった。地域のいちばん端から、道行きをすることは話したと思うが、立ち止まる場所(第○留)はある信徒の手作りである。よくできているなぁと感心して眺めながら、わたしは道行きの祈りをリードしているから、ずいぶん気が散っているわけだが、面白い手書きの留を見つけた。
▼それは第六留である。現代語で作成された「道行き」には、「第六留 イエス、ベロニカより布を受け取る」というタイトルが付けられている。今年までの6年間、わたしはずっとそのつもりで見ていたのだが、よくよく見ると、微妙に違っていた。「ベロニカ」が、「ペロニカ」になっていたのである。
▼これは、以前メルマガ第327号に書いたのだが、"INRI"を"INORI"とすり替えた墓石に匹敵する面白い誤表記だと思った。ペロニカって、どんな女性だったのだろうか・・・。あまりからかっちゃいけないか。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第76回目。復活のローソク。毎年、某修道会からプレゼントで頂いています。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/100403.jpg

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)イエスは、この世のはかないものに磔にされた

2010-04-02 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
10/04/02(No.468)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
イエスは、この世のはかないものに磔にされた
‥‥‥†‥‥‥‥

昨日の聖木曜日の典礼で、非常に興味深い話を聞かせてもらったのですが、今日のイエスの御受難にはちょっと適当ではなさそうなので、また機会を見つけて話したいと思います。

今日、イエスさまの御受難の朗読でした。イエスは十字架にはりつけにされて、お亡くなりになります。わたしは、十字架とは、「この世のもの」を意味していると思います。しかも、はかないものということも意味しているでしょう。

イエスは、この世界をすべて合わせても足りないくらいに尊い「神の子」です。その「神の子」が、十字架にかけられて命をささげることをお望みになりました。イエスはこの世の、はかないものに結び合わされて、最期を遂げられたのです。

わたしは、ここにもう1つのことを見て取りました。実はわたしたちも、この世のもの、はかないものなのです。生まれて数十年で命が尽きていく、本当に弱く小さな命なのです。イエスがこの世のはかないものに磔にされている姿に、イエスが人類と結び合わされた姿を見て取ったのです。

今日、受難の朗読に皆で参加しました。これまでわたしたちは、イエスが、木の十字架に磔にされたと受け止めていたと思います。でも今日からは、もう1つの受け止め方を学びました。イエスが磔にされた木は、わたしたちでもあるのです。この世にあって、限られた時間しか与えられていないわたしたちに、イエスは磔にされたのです。

イエスが磔にされたことで、どうなったのでしょうか。救いのわざが完成しました。この世のもの、はかないものに磔にされて、救いのわざが完成しました。それはすなわち、弱くはかない命であるわたしたちにも当てはまるのではないでしょうか。わたしたちも、イエスに結ばれるとき、救いの恵みを受けるのです。

わたしたちは今日、十字架の崇敬を行います。十字架が偉いから、お辞儀をするのではありません。この世のもの、はかないものに、イエスが結び合わされてくださったから、感謝してお辞儀するのです。わたしたちという、この世の弱くはかない命に、イエスが結び合わせてくださって、わたしたちを救ってくださった。そのことに、感謝したいのです。

イエスが磔にされて、もう1つのことが起こりました。それは、神が、御子イエスを通して、人類をご自分のものとしてくださったということです。イエスの尊い血によって、人類は罪の状態から贖われたのですが、「贖い」とは、買い戻しをするということです。

神は、御子イエス・キリストの尊い血によって、人類を自分のものとして買い戻してくださったのです。原罪をもって生まれ、自分の力では自分を救えないわたしたちを、御子の尊い血によって、自分のものとしてくださったのです。

こうしたことを考え合わせるなら、十字架上のイエスの姿は、わたしたちから遠く離れたものではありません。十字架の木を見る時、わたしたちがイエスと結び合わされているのだと考えてみましょう。そしてイエスの尊い血によって、今まさにわたしたちは買い戻されたのですから、感謝しましょう。わたしたちのために十字架上におられるイエスを、まごころ込めて礼拝いたしましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼今年も十字架の道行きを地域を縦断するようなルートで行列して祈った。このやり方はエルサレムの復活教会へ十字架の道行きをして歩いていくやり方をまねてみたものだが、少し慣れてきたのか、祈りが始まるまで私語が聞こえていた。
▼本来なら、「お静かに」と言ってあげたい所だが、本当に気持ちのある人がいたらしく、「静かにして」と言って、みんなに心の準備をさせていた。そう。もうわたしに頼らずとも、今何を準備しなければならないか(静けさを作るべきという意味)、分かってくれている人が育ってきた。これなら、わたしは心配なく旅立って行けるというものだ。
▼読者のみなさんには、「聖木曜日の珍事」を話しておこう。わたしたちの教会では洗足式を聖木曜日の典礼の中に積極的に取り入れることにしている。毎年、12人を選んで、「12弟子を準備して」洗足式に臨んでいる。
▼ところが、今年はハプニングが起こった。わたしはまったく気づかなかったのだが、何とメンバーは13人いたそうだ。何人もの人から「神父さま、今年は13人並んでたですよ」と言われた。まったく知らなかったが、12人集まるだろうかと心配していたその思いは全くの杞憂に終わった。もしかしたら、今年の洗足式で13人の足を洗ったのは、全世界でわたしたち馬込教会だけだったかも知れない。
▼今日は二階の部屋に大々的に片付け部隊が突入した。5年振りだろうか、床が真っ平らになり、テレビ台がテレビだけ載った状態になった。こんなの、一般の人にとっては当たり前のことか。突入した部隊の先頭にいたのは、なぜかすべて目を閉じてガサッとバサッと箱に投げ込むご婦人だった。気が気ではなくなり、午前中はまったく説教に手が付けられなかった。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第75回目。すべてをはぎ取られ、裸の状態になりました。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/100402.jpg

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭
(ルカ24:1-12)
‥‥‥†‥‥‥‥
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聖木曜日(ヨハネ13:1-15)すべてを与え尽くす覚悟を学ぼう

2010-04-01 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
10/04/01(No.467)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
すべてを与え尽くす覚悟を学ぼう
‥‥‥†‥‥‥‥

聖木曜日は、最後の晩さんの席で、イエスがパンとぶどう酒を用いて、ご自分の御体と御血を人類にお与えになる聖体の秘跡が定められた日です。聖体の秘跡を定めたと同時に、この聖体の秘跡を取り扱う司祭を制定する、叙階の秘跡も同時に制定された日とされています。今年の聖木曜日、特にイエスが弟子たちの足を洗い、奉仕をする姿を示して、司祭に必要な姿を示しておられることをいっしょに考えてみたいと思います。

3月30日、浦上教会で聖香油のミサと叙階50周年金祝、叙階25周年銀祝の祝いが行われました。50周年の金祝の司祭が6人いたのですが、代表で川添神父さまが講話をしてくださいました。25周年の銀祝の司祭からは、オプス・デイの尾崎神父さまが講話をしてくださいました。金祝を迎えた川添神父さまは、わたしが司祭になって初めて赴任した浦上教会で、主任司祭としてわたしを育ててくださった神父さまです。

50年を振り返っての講話は、おもに熊本県の天草と帯山の2つの教会に現在まで13年間派遣されているのですが、その中からのお話でした。特に天草は、もともとパリミッション会の司祭たちが司牧を担当していた教会で、後にはコロンバン会の神父さまたちがそのあとを引き継いで、ずっと海外からの宣教師たちが担当した教会です。日本人の司祭が天草をお世話したのは、ごく最近のことで、ほとんどの時代を、海外からの宣教師がお世話してくださっていたそうです。

そういう歴史を抱えている教会に派遣されていって、昔から変わらない司祭館の様子、教会の様子をその目で見て、海外からはるばるやってきて、異国の地で働いた司祭たちのご苦労がよく分かったそうです。特に宣教師たちの暮らしは、美味しいチーズを食べたりして立派な暮らしをしていたのかと想像していたけれども、実際には本当に質素な暮らしをして、すべてを日本人の信徒のために献げ尽くしていたことがよく分かったそうです。

今日、福音朗読ではイエスが食事の席に着いてから、途中で弟子たちの足を洗う様子が紹介されました。当時の人々が、外出から帰った時、異邦人の土地を歩いたりして宗教の異なる人々と交わった状態を洗い清めるために足を洗っていたわけですが、それは外出から戻ってすぐのことであって、決して食事が始まってから途中ですることではありませんでした。ですから、イエスのこの動作は、特別な意味を込めてなされたのだと考えるべきです。

わたしは、イエスがご自分のすべてを弟子たちに与え尽くす、その思いを伝えようとして、食事の席を立って弟子たちの足を洗ったのではないかと考えています。

では、どんなことを弟子たちに与え尽くそうとされたのでしょうか。3つ考えてみました。1つ目は、聖体の秘跡を制定する最後の晩さんの席ですから、ご自分の命を、与え尽くすためにこの場を設けたということです。この聖体の秘跡のおかげで、わたしたちもイエスの命をすべて、分け与えてもらうことができます。

2つ目は、弟子たちの足を洗うことで、イエスはわたしたちのためにどんなことでもするということを示してくださいました。必要があれば、弟子の足を洗うこともする。師匠であるイエスが、弟子たちの前にひざまずいて奉仕することもいとわない。その態度を、今日のこの最後の晩さんの席で教えておられると思います。

最後の3つ目は、わたしが、必要とあらば弟子たちのためにどんなことでもしたのだから、あなたがたも互いに、必要があればどんなことでもする覚悟でいなさいと教えてくださったと思います。わたしたちは、ほとんどの場面で、ここまではしてもいいけど、これ以上はしたくない、そんなことを考えています。

けれども、イエスが示そうとしたのは、すべてを与え尽くす姿です。「すべて」というのは、「ほとんど」ではありません。あくまでも「すべて」です。このイエスの態度に、わたしたちの日常を当てはめて欲しいのです。

特に、わたしには今、1つ心配事があります。わたしは新しい任命を受けてこの教会を離れ、後任の神父さまが引き継いでくださることになっているわけですが、その後任の神父さまの生活の支えをちゃんとしてもらえるだろうかと、そのことをとても心配しています。わたしもたくさん助けてもらってありがたかったのですが、同じように、後任の神父さまにもたくさんの助けの手を差し伸べてほしいと思うのです。

まだ、安心して引き継ぐことができない状況にあることを、今も胸を痛めています。どうか、司祭館での安定した生活のために、主任司祭が安心して働くことができるように、後任の神父さまを助けてあげてほしいのです。わたしはそれが、今のこの教会にとって、すべてを与え尽くしてくれたイエスに見倣う具体的な方法だと思っています。

どうやったら、後任の神父さまを安心してお迎えできるだろうか。真剣に考えてくださるなら、きっと解決の道は見つかると思います。たとえば一ヶ月のカレンダーをみんなでのぞき込んで、主任神父さまが一ヶ月安心して暮らしてもらうために、わたしは掃除をするからあなたは洗濯を手伝ってよ。食事のお世話はこんなふうにしようよと、具体的に考えてほしいと思います。

今年の聖週間、喜びもありました。今日、午後3時から、大人2人の洗礼式と堅信式を行いました。今日の典礼に、参加しているのではないかと思います。このかたがたが馬込小教区教会家族の中で日々成長し、信仰を確実なものにしていくためにも、合わせてみなさんの理解と協力を願いたいと思います。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼今週から、婦人会の手伝いを依頼して、引っ越しの片付けを急ピッチで進めている。とは言っても、こうじ神父が「あ、それはちょっと待って」「あ、それはわたしがチェックしてから」といろいろ注文つけるものだから、さっぱりはかどらない。
▼そうは言っても、何も見ないで箱に入れるのを許すと、びっくりするようなことをするのでなかなかすべてお任せというわけにはいかない。それでも、わたしの目の届かない所で箱の中にどさっと入れて、はみ出ているのを無理矢理ガムテープで締め上げて箱に蓋をして、「一丁上がり」とやっている人もいた。性格がよく表れる。
▼10年ぶりに、テニスを再開することになりそう。かつて、20代後半から30代前半にかけては、先輩たちとテニスをするという口実で、先輩たちをコートの隅から隅まで走らせて、ある種の「しごき」をおこなっていた。
▼ふだんは先輩に口答えなど決してできない後輩たちが、テニスコートでは鬼コーチのように先輩を走らせる。コートの右端から左端、ネット際からベースラインへ。「先輩、届くはず!」「先輩、まだ若い!」そう言って無茶なボールを拾わせていたのだが、今度は立場が逆転する。要するに、わたしが「しごかれる」ことになるわけだ。
▼それは覚悟している。それが、長崎教区の先輩後輩の伝統なのだから。そして、このしごきに耐えなければ、後輩に遊んでもらえないし、その地区に仲間入りさせてもらえない。それくらい、この「儀式」は大事なのだ。少なくともわたしは、そう思っている。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第74回目。聖木曜日ですが、洗礼式を行いました。中央寄りの2人です。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/100401.jpg

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‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
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