こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活節第6主日(ヨハネ14:15-21)わたしたちをみなしごにはせず、弁護者を遣わす

2011-05-29 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/110529.mp3

http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/110529.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
11/05/29(No.536)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ14:15-21)
わたしたちをみなしごにはせず、弁護者を遣わす
‥‥‥†‥‥‥‥

今週の福音朗読で、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」(14・18)というイエスの御言葉に注目してみました。弟子たちは、イエスがこの世を去って御父のもとへ行くことに不安を覚えていました。先週の福音朗読で、トマスは自らの不安を打ち明けます。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(14・5)

ですから、今の段階では、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」と言われても、なかなか「分かりました」とは言えない状況でした。わたしたちも、何か重なりあう体験がなければ、同じく信頼するのは難しいでしょう。「わたしたちをみなしごにはしておかない」そういう体験をどこかでしているでしょうか。

わたしは一度、「決して一人にはしておかない」という強烈な体験をしました。知らない土地で迷ってしまい、大変迷惑をかけた末に見つけてもらったことがあります。それは高校を卒業した直後に自動車免許を取りに行った春休みのことです。

わたしは縁あって、佐世保の自動車学校で免許を取りました。わたしの父も教習を受けた先生のいる学校で、1ヶ月間佐世保の親戚の家に下宿して、自動車学校に通い、免許を取ることになったのです。

親戚の家から自動車学校までは結構な距離があって、自動車学校が出している送迎バスに乗せられて学校に行きました。初日、入校式などいろんな手続きを受け、6時頃に送迎バスに乗って6時半に朝乗せられた場所で降ろしてもらいました。

この日は2月の中旬で、6時半と言えばもうすっかり暗くなっている時間です。わたしは降ろしてもらった場所から歩き出しましたが、初めての夜道で道が分からなくなり、10分くらい歩いては降ろしてもらったバス停に戻り、また別の方向に10分歩いてはバス停に戻りといったことを何度も繰り返したのです。

そのうちに完全に迷ってしまい、どうにもならなくなって思い付いたたった一つのことは、「自動車学校に戻ってみるかなあ」ということでした。今になって考えると、近くの公衆電話から五島の実家に電話をかけて、親戚の家の電話番号を聞き出し、迷子になりましたと電話をかければ済んだことなのですが、子供だったわたしはそこまで頭が回らなかったのです。

3時間ほど歩き続けたでしょうか。夜の12時過ぎた頃に下宿させてもらうおじさん夫婦が車でわたしを見つけてくれて、すぐに車に乗せて連れ帰ってもらいました。「寒かったやろう」と心配してくれて、その日のことは何も咎められることはありませんでした。結局学校を卒業して免許を取るまで、けっしてあの時のことを責められたりはしませんでした。

どれだけ探しただろうかと、今になれば痛いほどよくわかります。けれども当時は、迷子になり、一人ぼっちになった不安で、頭の中は真っ白になっていました。保護者の代わりをしてくださるおじさん夫婦にしてみれば、行方不明になるなど決してあってはならないことです。どんなことがあっても探し出さなければと、何度も何度も通学路を探したのではないでしょうか。

きっと、わたしが誰かを預かったとしても、もしその子が司祭館に帰り着かなかったら、どんなことをしても探し回ると思います。決してみなしごにはしておかない、そう思うと思います。こうした気持ちは、みなさんにもよく理解していただけるでしょう。

イエスは同じように、弟子たちに呼びかけました。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」この御言葉に、弟子たちが全面的に信頼を寄せるなら、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(14・16)という約束も信頼して待つことができると思います。

わたしは、「あなたがたをみなしごにはしておかない」という御言葉を、十分信頼できます。かつて自分が途方もない時間をかけて探してもらった経験と、今だったらわたしも同じことをするだろうということを重ねると、イエスは必ず約束を果たしてくださると信じることができます。

イエスは、弁護者を遣わすという形で約束を果たしてくださいます。弟子たちは、弁護者、真理の霊である聖霊をまだ実感していません。イエスの約束を確信するには、聖霊降臨を待たなければなりません。わたしたちも、聖霊降臨の祭日を、期待をもって待ち望みますが、わたしは今でも、弁護者、真理の霊を実感できるのではないかと思っています。

例を挙げておきましょう。先週の浜串での聖母行列、本当にこの日だけ天気に恵まれて、無事に外での行列を果たすことができました。わたしは、何人もの人から、「神さまはいるんだなぁと感じた」と言っているのを聞きました。ふだんの生活で、神さまを心から感じることができた時、その人には弁護者、真理の霊である聖霊が働いているのではないでしょうか。

生活の中で感じる「神さまはいるんだなぁ」という感覚を大切にしましょう。それは、イエスがあなたをみなしごにはしておかないしるしです。そして、弁護者、真理の霊を遣わして、いつまでも一緒にいるようにしてくださる証しでもあります。


‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の昇天
(マタイ28:16-20)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼九州商船の新造船「フェリー万葉」に初めて乗船した。従来のフェリーと組んで運航しており、奇数日の運航と偶数日のダイヤがあり、奇数の月と偶数の月でまたそのダイヤが入れ替わるという、なかなかに覚えるのが難しい。
▼ダイヤを覚えないまま奇数の5月の偶数日に長崎からフェリーで帰ることにしたら、うまく12時10分発がフェリー万葉に当たった。船の外観もちょっと変わった感じがしたが、内部は昔作った船とは全く違うデザインになっていた。高齢者のためのバリアフリー船室があったし、一般客室もゆったりとした部屋割りになっていた。
▼ロビーも、バーカウンター風になって、甲板部分への出入り口は全面ガラスの自動ドアだった。おしゃれになったなぁと感心した。2階甲板に上がる階段の手すりに、最近病院でよく採用されている「波打つ手すり」が採用されていた。あー、これはいいアイディアだなと感心した。
▼テレビは従来のブラウン管テレビから、大型の液晶テレビになった。これは当然の流れだろう。ずっと前から思っていたことだが、このテレビを使って、ターミナルを離れる様子を提供してくれればいいのにと思っていたのだが、実写ではなかったが操縦室で見ているであろうGPS地図(衛星地図)で船のアイコンが出港・入港する様子を映像で流していた。
▼やっとこの思いが形になった。なぜかと言うと、船に乗船してから、しばらくは退屈するし、ましてや上陸するまでの10分くらいは、手持無沙汰で長い時間に感じていたからだ。これからは、船が陸を離れる様子、船が接岸する様子をモニターで見て楽しむことができる。やはり自分だけではなくて、ほかの多くの人も感じていたのだろう。
▼まだ、視察できていない場所がある。フェリーには2種類の客室がある。2等客室と、2等指定客室だ。2等指定客室には、古いフェリーでも最近利用したことがなかったので、一度お金を払って入ってみたいと思う。2等指定客室の利用者は立ち入り禁止部分がないが、2等客室の利用者は一部立ち入りが制限されている。機会があったらその辺もまた写真を提供したい。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第143回目。フェリー万葉。船内の様子
http://hanashi-no-mori.news-site.net/110529.jpg

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五島においでになる時、新造船フェリー「万葉」はいかが?

2011-05-25 | Weblog
新造船フェリー「万葉」に乗りました。
九州商船が所有している五島←→長崎 往復のフェリーです。
夏は、完全予約になるようですので、御注意を。

以下は九州商船ホームページからの引用です。
【予約対象便】
平成23年8月12、13日長崎⇒五島(下り便)及び
平成23年8月15、16、17日五島⇒長崎(上り便)ご乗船分
【予約開始日・時間】
平成23年7月20日 9:00受付開始
(1)平 日 9:00~17:30
(2)7/23(土)・24(日)・30(土)・31日(日) 9:00~12:30受付
【予約お申込み】
長崎予約センター ℡095-822-9153
※長崎予約センター以外でのお申し込みはできません。
お申込み期間及びお申込み枚数:
お申込み期間・・・・平成23年7月20日~平成23年8月17日
お申込み枚数・・・・予約対象便全便・全客室とし、受付枚数は5名迄 
と致します。
【購入方法】
1.窓口購入の場合
予約がお取りできましたら最寄りの窓口にてお申し込み日を含め7日以内にご購入ください。
但し、乗船港に限らせて頂きます。
発売時間(各窓口共通)・・・・・10:00~15:00
※往路分のみ購入可。往復分購入ご希望の場合は「代引」をご利用ください。
























コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復活節第5主日(ヨハネ14:1-12)イエスは御父に人々を導く確かな道

2011-05-22 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/110522.mp3

http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/110522.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
11/05/22(No.535)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ14:1-12)
イエスは御父に人々を導く確かな道
‥‥‥†‥‥‥‥

今日、聖母行列をしてからの主日のミサでした。わたしは、行列をしながら、自分たちがどこに向かっているのかを考えながら行進していました。岬のマリアから出発して、わたしたちはどこへ向かったのでしょうか。もちろんそれは、教会のほうに向かったのです。

もっと、意味を汲み取って言うと、わたしたちはマリアから出発して、イエスに向かったのです。さらに踏み込んで言うならば、マリアから出発してイエスに向かい、父である神のもとにたどり着く道のりを歩いたのです。

今日の福音朗読で、イエスはわたしたちのこの歩みを見事に言い表しています。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(14・6)

聖母行列を、たんなる行列で終わらせてはもったいないことです。聖母はいつも、御子イエス・キリストを指し示す方です。この聖母月に、熱心に聖母に祈りをささげ、取り次ぎを願って来たのは、イエスに願いをかなえてもらうためです。マリアはわたしたちの祈りを確実に取り次ぐ方としておられるのです。

今日はさらに、岬のマリア像まで700~800メートル、そこから折り返してきたので約1.5キロ、行列のために歩きました。十分に祈りをささげました。この歩いた道が、イエスを知り、愛する道につながるのです。マリアを通して願ったので、わたしたちは真理といのちをイエスからいただきます。

ここであらためて、かつてマリアが歩いた道について考えてみましょう。マリアはヨセフとともに、人口登録のためにベツレヘムに向かいました。そこでマリアは月が満ちて男の子を産みます。マリアは、旅先でイエスに出会ったのでした。

マリアとヨセフは、幼子を神殿に奉献に行きます。ここでマリアは、幼子がだれも予想できないような運命をたどることをシメオンとアンナ、両預言者によって知らされました。神殿に奉献に行ったことで、自分たちの知らないイエスに出会ったのです。

また、ユダヤ人は過越祭に必ずエルサレムに旅をしていました。その旅の中で両親はイエスを見失い、三日をかけて神殿にいるイエスを見つけます。ここでイエスは、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と言いました。父なる神の子であると、はっきり話すイエスに出会います。他にも、カナでの婚礼の場面、イエスの十字架上での場面など、どれもマリアが歩いた先に、イエスがそこにおられたのです。

聖母行列から、今週の福音朗読を振り返ることは良いアイディアだと思います。マリアが、イエスを指し示しているように、イエスは、御父に至る確かな道です。イエスに倣ってこの人生を歩むなら、住む所がたくさんあり、わたしたちを喜んで迎えてくださる御父のもとに、確実にたどり着きます。

この道を一歩一歩確かに歩んで、御父のもとで、イエスと共にいることができます。わたしたちが家にたどりついたときほっとするように、どんなに贅沢な場所でも得られない、どんなに珍しい場所でも得られない、そんな安らぎの場にたどり着く道、それがイエス・キリストなのです。

もうしばらく、聖母月の日々が続きます。この期間に、マリアを通ってイエスにたどり着く知恵を学びましょう。そしてイエスが、わたしたちの御父に出会わせる確かな道であり、イエスの中に真理があり、豊かな命があることに気づくことができるように、このミサの中で続けて祈ることにいたしましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ14:15-21)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼巡回教会のミサで、いよいよパンとぶどう酒を準備するときになって司祭用のホスチアがパテナ(カリスに備え付けられている、司祭用のホスチアを載せる皿)に載っていなかった。あれれ?と思ってミサ中に香部屋に直行。ところが慌てていたのか、どうしてもホスチアが見つからない。
▼実際には、だれが見ても分かるいちばん目立つ場所にホスチアはあったのだが、慌てているときはそれが目に入らない。たぶん、視野は本当にせまくなっていて、直径10センチとか、そういう部分しか見ていないらしい。
▼当番を務めていたシスターが平に謝っていたが、わたしが20年前だったら叱り飛ばしていただろうが、今は年を重ねた。「シスター。まぁそういう時もあるさ~。」この日は、自分も車の鍵とかが束ねてある鍵束を見つけることができず、10分もの間探し回った。実際には手に持っている鞄のサイドのポケットに入っていたのだが、気が動転しているとそれに気付かないのである。
▼何か、鍵束の音はするけれども、どこを探しても手に触れない。あきらめて車を離れ、教会に戻ってみてシスターたちに探してもらうがそれでも見つからない。これには参った。最後は見つかったが、自分がこういう状態だから、人に厳しくすべきではない。
▼NHKの平日19時半の番組で、高齢者を叱るのは教えることにならないので、「叱らない介護」を目指すようにと取り上げていた。教会のしていることも、離島などに来るとちょっとした高齢者介護だ。叱らず、褒めて、信者を導く必要があると思う。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第142回目。予定では、夕方に行われる聖母行列。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/110522.jpg

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復活節第4主日(ヨハネ10:1-10)御言葉を浴びるほど聞く

2011-05-15 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/110515.mp3

http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/110515.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
11/05/15(No.534)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第4主日
(ヨハネ10:1-10)
御言葉を浴びるほど聞く
‥‥‥†‥‥‥‥

船舶免許が6月で期限切れになるため、先週5月8日に更新講習を受けに上五島備蓄記念会館に行きました。知らない人ばかりだとどうしようと思っていましたが、浜串のお父さんとか、高井旅のお父さんとかも一緒に来ていて、ちょっと安心しました。

講習を受ける前に、身体検査をすると聞かされていたのですが、実際には片目ずつ視力検査をするだけでした。こんな簡単な検査で、講習の時間黙って座っていれば、今後5年間の免許が与えられるというのは、ちょっと簡単すぎないかなぁと思ったりしました。

自動車の免許は、70歳を過ぎると特別な講習を受け、お年寄りであることを表すステッカーを貼り、いろいろ嫌な思いをしなければなりませんが、それに比べて船の免許は楽なものでした。けれどもそれもまた決まり事でしょうから、それを通って初めて、安心して船に乗ることができるようになります。

ただ、新しい免許が届くまで、5日間は免許なしの状態になりますというのは納得いきませんでした。それはわたしたちのせいではなく、あなたたちの不手際でしょうと食ってかかりたい気分でした。改善してほしいと思いました。気分は良くありませんが、これも通らなければならない門なのでしょう。ちなみに、土曜日になっても免許証届いていません。

今日の福音書には、羊飼いに導かれて、門を出入りする羊の姿が描かれています。まずは、決められた人の案内で、決められた門を出入りすることが、求められているわけです。聖書朗読に耳を傾け、「今もわたしたちを照らし、導くイエスが生きておられる」という体験を積もうと呼びかけました。今のところ、いろいろな都合で浜串教会しか実施できていません。残る2つの教会は、6月と9月、ミサの前に取り組む予定です。

さて、このイエスが導いてくださる羊の門を出入りする姿は、御言葉に導かれて日々の生活を送ることに通じると思います。羊は羊飼いの声を聞き分けます。わたしたちも、御言葉に十分親しむことで、羊飼いであるイエスの声を聞き分ける者となります。

羊飼いの声を十分知るようになると、わたしたちを呼び出すイエスの声には従い、ほかの声には決してついていかないように訓練されていきます。いろんな声に振り回されて、歩むべき道を見失うのではなく、どんな生き方の中でも、ただ1人の羊飼いであるイエスの声だけに、本当の導きを願う人に育っていくのです。そのためにも、「聖書朗読に耳を傾ける集い」に、たくさんの方が参加してくださることを願います。

「羊はその声を聞き分ける」ということで思い出したことがあります。皆さんは、「頭では分かっているけれども」とか、反対に「体が覚えていた」とか言うことがあると思います。わたしが以前助任司祭だった時、結婚した夫婦を通して、印象深い経験をしたことがあります。ご両親は当時教会の評議会で大きな働きをしていた方でしたが、この方の娘さんが結婚することになり、結婚講座が始まりました。

結婚相手はカトリック信者ではありませんでしたので、教会での結婚を結ぶためには、書類を調える必要がありました。カトリック信者の側が、カトリックの信仰を忠実に守り続けることと、生まれてくるすべての子供が、カトリック教会で洗礼を受け、信仰教育されるように最善の努力をすることです。

このときに問題が起こりました。カトリック信者である娘さんのほうが、「わたしは子供に洗礼を授ける気持ちはそれほどない」と言うのです。さらに結婚相手である男性も、「男の子が生まれたら、洗礼を授けるのは困る」と言いだしました。

カトリック信者でない男性側が、条件に納得できないと言う場面はよく聞きます。けれども、その男性に同調して、カトリック信者の女性まで、子どもに洗礼を授けるのに気乗りしないと言うのです。これには困りました。あれこれ説明して、不承不承同意したような感じで、結婚式をしたのを覚えています。

ところが、結婚後に事態は急展開します。子供を授かり、予想通り洗礼のことで揉めているという話が聞こえてきました。やっぱりか、と思ったのですが、よく話を聞くと、お母さんになった女性が、洗礼を授けると言って聞かないのだと言うのです。これには驚きました。

「体が覚えていることがある」と、先に話しましたが、これはまさに、「体に染み込んだイエスの声に、体が覚えていたイエスの声だけに、聞き従った」ということではないでしょうか。こんな、予想外の話は、いつでも歓迎したいですね。

「体が覚えている」というような体験は、どんな時に起こるのでしょうか。それは、やはり数え切れないほど繰り返し覚えたという経験からではないでしょうか。祈りにしてもそうですし、ミサの流れについてもそうです。そのような、「体が覚えている」と言えるほど、聖書の御言葉をたくさん聞く機会を、わたしたちはどこかで持つ必要があるのではないでしょうか。

聖書を持ち歩いて、真のイエスの声を語らず、異なるイエスの声を語り聞かせる人たちもいます。わたしたちは、ちゃんと見分けることができるでしょうか。ちゃんと聞きわけることができるでしょうか。

どうぞ、今回の「聖書朗読に耳を傾ける集い」を、神の言葉を浴びるほど聞くきっかけにしてください。朗読CDは、それぞれの教会に備品として残したいと思います。そうすることで、何人かの集まりで教会に来て、都合のいい時間にいつでも、いくらでも聞き続けることができます。最初のきっかけを用意しますので、ぜひ自分たちで活用してもらえたらと思います。

イエスは、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(10・10)と言います。御言葉をたくさん味わうことで、豊かな命をはぐくむことができるように、御言葉の力により頼むことにいたしましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ14:1-12)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼最近たくさんの巡礼団が来て、浜串教会でミサをささげてくださっている。巡礼にやって来る方々は、長崎教区の場合「長崎巡礼センター」に問い合わせて巡礼の申し込みをする。巡礼センターは、行き先の教会と連絡を取り、巡礼ミサなど、時間に差し支えがないか確認してくれる。巡礼センターには細かい連絡など、本当に頭が下がる。
▼さまざまな巡礼団がやって来るが、5月14日は恩師が巡礼団の同行司祭だった。わたしが中学高校とお世話になったカトリック校に、かつて教師、後に校長として関わってくれた先生だ。巡礼団を連れて司祭館を訪ねてくれたときに、「校長先生」とおどけてみたら、「違う違う。今は一介の主任司祭だよ」と、笑って答えてくれた。
▼巡礼にやって来る方々の熱意に、本当に感心する。関東から、また東北からも、五島を訪ねてくる。そして、五島の教会に何かを得て、力づけられて帰っていく。わたしたち五島の教会の当事者は、外からやって来る人々が心打たれるこの五島の教会に、どんな思いで接しているのだろうか。
▼灯台もと暗し、と言うが、外からやって来る人が感じる感動を、地元の人々は気付かずにいるのかもしれない。五島にあって他にないものを、わたしたちはよく知り、よく理解するようにすべきだ。それを失わないように、しっかり継続できれば、わたしたちの教会は存続できるのではないだろうか。
▼NHKの番組で、国宝や重要文化財レベルの仏像を所蔵していながら、維持管理できずにそれを手放したり、盗まれたり、博物館に保管を委託したりしているという話が取り上げられていた。
▼地元にあって、価値があると思うものでも、環境を横に置いてでも、安全な場所に移さざるを得ないのは残念なことだ。五島の教会がそうならないと言い切れるだろうか。どうしたら、価値あるものを維持していくことができるか、後世に残していくことができるか。よく考えなければならない。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第141回目。予定では、運動会のにぎやかな場面。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/110515.jpg

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復活節第3主日(ルカ24:13-35)イエスはパンを割いて、御自身を現してくださる

2011-05-08 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/110508.mp3

http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/110508.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
11/05/08(No.533)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第3主日
(ルカ24:13-35)
イエスはパンを割いて、御自身を現してくださる
‥‥‥†‥‥‥‥

(導入・・・「千の風になって」を一部分歌う)

気持ちよく歌わせていただきました。一時期、本当に流行りました。ただ、わたしにはちょっと違和感があります。「そこにわたしはいません。眠ってなんかいません」と言われても、そこに骨はあるし、眠っているじゃないかと返したい思いがあります。

ある亡くなった方の納骨式で、遺族の方からこの歌を歌わせてほしいと言われたことがあります。止めはしませんでしたが、わたしは一緒に歌う気持ちになれませんでした。たった今納骨したお骨がそこにあるのに、「そこにわたしはいません」と言えなかったからです。もちろん、歌いたい気持ちは分かります。でも、「死んでなんかいません」と歌うのは、死んだ人に対してどうなんだろうと思ったことは確かです。

ただ、今日は歌いました。イエスに限っては、この歌は見事に当てはまると思ったからです。イエスのお墓の前で婦人たちは泣いていました。「泣かないでください。そこにわたしはいません」イエスに限っては、これはそのまま当てはまるのです。

今週の福音朗読で登場する二人の弟子。彼らも墓に心を残していた人々でした。「天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げた」(24・23)この意味が理解できないでいました。彼らはエリコに向かって行くあいだ、「イエスは生きておられるとはどういうことだろうか」とあれこれ考え込んでいたのかもしれません。

そこへ、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められました。復活したイエスが二人になさったことが2つあります。1つは、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを解き明かしてくださったということ。もう1つは、パンを割いてお渡しになったということです。

この2つの働きを通して、エマオに向かっていた二人の弟子は、一緒におられる方がイエスだと分かりました。そして、婦人たちが天使に告げられた「イエスは生きておられる」その意味が理解できたのです。

二人は、墓に心を残してきたことが間違いであったとようやく理解できました。イエスは生きておられるからです。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(24・32)イエスが生きておられるのでなければ、どうして心が燃えたりするでしょうか。イエスが墓に眠ったままで、どうしてパンを割いたときにイエスだと分かるでしょうか。

彼らは急いでエルサレムに戻ります。六十スタディオンも離れていたのに、距離を感じないほどに興奮していたのかもしれません。そこではすでに、「十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた」(24・33-34)とあり、十一人の弟子たちも声を弾ませていたのでした。

もう一度確認します。「イエスは生きておられる。」このことに二人の弟子が気付いたのは、「聖書を説明してくださったとき」また「パンを裂いてくださったとき」でした。実はわたしたちも、「イエスは生きておられる」と証しするためには、2つの経験が必要です。1つは、「聖書を説明してもらうこと」1つは「パンを割き与えていただくこと」です。

「パンを割き与えていただくこと」は、毎週確実に実行しています。では、「聖書を説明してもらうこと」はどうでしょうか。そこで、今年の聖書愛読マラソンに先駆けて、浜串教会と福見教会は5月の残りの期間と10月の朝ミサの前に、高井旅教会は6月と9月の前晩のミサの前に、浜串小教区の「聖書に耳を傾ける集い」を行い、聖書を通して、「イエスは生きている」という体験を持ちたいと思います。

浜串教会と福見教会のために5月と10月を選んだのは、聖母月とロザリオの月で、必ず夕方にロザリオをします。ですから、朝の時間は必ずしもロザリオでなくてもよいと考えました。高井旅教会は、一日のうちに2回ロザリオをする機会がないので、月をずらしました。

取り組み方は、次のようになります。まず、お世話する人を選びます。お世話する人が、20分ほどの聖書朗読を録音したCDを流します。参加者は、録音CDの朗読に合わせて、聖書のページを追っていくというものです。これまで、2つの小教区で取り組んできまして、一定の効果が上がっていますので、こちらの小教区でも実行したいと思っています。

もう一度、念を押しますが、わたしたちが信仰を確実に保つためには、「イエスは生きている」という実感が必要です。生活を支え、導いておられるイエスが、今も生きている。だから、わたしはこの信仰を続けることができる。この確信がなければ、信仰を保ち続けることは無理です。

昔起こった出来事をいつまでも大切に守る。それは、今この時代に、意味のあるものでなければならないのです。昔は意味があったけれども、今は何の意味もないものを、守り伝えることはできないのです。

当然、みなさんにも多少の苦労をかけるかもしれません。ですからわたしも、今まで以上に苦労したいと思います。1つは、早起きすること、1つは、録音聖書を途切れずに準備することです。皆さんは、録音聖書CDをプレーヤーに入れて、再生させるだけでこの活動に参加できます。

イエスは生きている。生活の中で一人一人がこの信仰を証しできるように、それぞれの分に応じて御言葉に触れ、照らし・導きを受けたいと思っています。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第4主日
(ヨハネ10:1-10)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼小さなチャペルでミサをすることがたまにある。または、都合があって一人でミサをすることがある。そんな時の体験。ミサの準備を一人でして、さてミサを始めたところ、肝心のミサ典書(儀式書)を出してない。
▼えーい、と思って、儀式書を引っ張り出さずにミサを続けた。毎日のミサというパンフレットを頼りに、開祭の儀、回心の祈り、集会祈願、第一朗読、答唱詩編、アレルヤ唱、福音朗読、パンとぶどう酒をそなえる祈りと、順調に進んだ。叙唱は毎日のミサに幸い付録で印刷されていた。
▼いよいよ奉献文。第二奉献文を唱え、信仰の神秘まで進んだ時に頭が真っ白に。その後の司祭が一人で唱え続ける祈りが、言えそうで言えないのである。何度か言い直したりしてみたが、どうしても確信が持てず、仕方なく儀式書を取り出して確認。
▼儀式書を開くと、あら不思議。儀式書を見なくてもすらすら出てくる。置かないと、出てこないのに、置くと読まなくても言葉があふれてくるのである。きっと、ミサの会衆が集まっている場ではなおさらそうなるのだろう。
▼不思議である。一人ではどうしても唱えられないのに、会衆が集まった場だとすらすら出てくるし、儀式書がそこに置いてあるだけで、ちゃんと唱えることができる。ただ、違うことも考えた。
▼自分が仮に入院した時、または異常な状態に置かれて、ミサの儀式書が手に入らないとき、パンとぶどう酒を手に入れて、ミサの奉献文を暗唱できなければ困るだろうなぁと。そういう場面が絶対起こらないとは言い切れないのだし。
▼だから、もう一度静かにミサをささげる時が来たら、どうすれば儀式書のない困難な場面でも確実にミサをささげることができるかを考えておきたい。一つのヒントになると思ったのは、やはり歌ミサである。抑揚をつけて、歌いながら唱えると、結構間違えずに進めることができるのだ。
▼入院したら、きっとミサは歌ミサになるだろう。歌ミサなんて、生涯ささげないと思っていたが、いつかそんな時が来るかもしれない。その時は見舞いに来てください。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第140回目。聖母月。今年も、浜串にこの季節がやってきました。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/110508.jpg

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)神のいつくしみはわたしたちを離れない

2011-05-01 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/110501.mp3

http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/110501.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
11/05/01(No.532)
‥‥‥†‥‥‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
神のいつくしみはわたしたちを離れない
‥‥‥†‥‥‥‥

復活節第2主日が故ヨハネ・パウロ2世の意向で「神のいつくしみの主日」と呼ばれるようになったのも、ずいぶん馴染んできたと感じています。今年は、福音朗読からは逸れてしまいますが、まず急死したヨゼフ松永正勝神父さまのことを追悼して、最後に福音に戻りたいと思います。

わたしは松永神父さまに借りがありました。1999年に故島本大司教さまがイスラエル聖地に青年たちを30人連れて行く第1回巡礼が実施されました。各地区から青年が選ばれ、地区の司祭も青年に同行することになり、わたしは佐世保地区の同行司祭として巡礼に参加しました。

当時わたしは太田尾小教区だったのですが、日曜日をまたいでの巡礼だったので、どうしても日曜日のミサを誰かにお願いしなければなりませんでした。それで、対岸の出津小教区の助任司祭だった松永神父さまに、よろしく頼むと、お願いして出発したのです。

ミサの借りは、ミサでしか返すことはできないと思っています。けれども、わたしが松永神父さまの代わりにミサのお手伝いに行くことはとうとうかないませんでした。その代わりに、松永神父さまの通夜のあと、司祭たちが徹夜でミサをささげる中で、夜中の3時半からの時間を申し込み、松永神父さまのために通夜の会場である浦上教会信徒会館で、ご遺体のそばでミサをささげました。

わたしにとって、その時のミサは借りを返すためのミサでした。けれども、こんな形で借りを返すのはつらいと感じました。こんな形で、借りは返したくなかった。そう思いました。

彼は、御復活の日曜日を終えて、月曜日に亡くなりました。年間の典礼行事の頂点である聖週間、その中の聖なる三日間という大きな務めを果たしてから眠りについたこと、それは、せめてもの慰めになります。ここに、神のいつくしみを見ることもできると思います。

ただ、どうしても飲み込めない思いがあるのです。なぜ、40歳にもならない松永神父さまを神さまはみもとに召されたのだろうか。通夜の会場で、とても亡くなったとは思えない彼の姿を見て、納得できないわけです。息をひそめているだけじゃないのだろうか。間違いじゃないだろうか。考えても考えても、納得できるだけの材料は見つかりませんでした。

通夜が終わったのが夜8時で、夜中3時半のミサまで時間がありましたので、何か彼のために話してあげようと考えました。彼は何を残してくれたのだろうか。彼は司祭職のどんな面を、わたしたちに教えてくれるだろうか。あれこれ考えて、布団をかぶったものの、眠れませんでした。

しばらく考えているうちに、先週の説教のことを思い出したのです。先週わたしは、たまたま自分が出席した聖骸布の展示会と講演会に触れました。聖骸布とは、イエスの姿を写し取った布だと言われているわけですが、わたしはそこで思い付いたのです。司祭は、ある意味で、聖骸布なのではないかと。

叙階の秘跡で確かに司祭となった方々は、イエス・キリストを写し取っているのではないでしょうか。もちろん完全に写し取っているとは言えません。完全に写し取っているなら、その人はイエス・キリストですが、そういうことではありません。不完全ながらも、イエス・キリストを写し取っている。そう考えると、司祭は聖骸布であると言ってもよいと思うのです。

司祭は欠点があり、理解が不足している部分があり、過ちも犯します。ですからイエス・キリストを写し取っているとは言っても、それは一部分かもしれません。

それでも、イエス・キリストにしかできないわざ、パンとぶどう酒をイエス・キリストの御体と御血に変化させることとか、罪をゆるすこととか、他のだれにもできない部分を写し取っています。棺の中に横たえられている松永神父さまを見て、彼は、イエス・キリストを写し取った聖骸布なんだと、確信しました。

だから、司祭としての年数がたとえ短かったとしても、イエス・キリストを写し取ったことに変わりはない。横たわっているその姿から、時間で測れない素晴らしい部分を持っていることを、あらためて教えられました。

神さまは、わたしたちには分からない計画の中で、松永神父さまを呼び戻しましたが、聖なる三日間を無事に果たさせてくださったこと、司祭はその存在が聖骸布のようなものだということ、この2つはわたしたちに模範として残してくださいました。それは、神のいつくしみの成せる業だったと思います。

最後に、福音朗読の中から、一つの点を示して結びたいと思います。イエスは、弟子たちが戸に鍵をかけて家に閉じこもっているとき、現れてくださいました。さらに、最初はトマスがいなかったので、あらためてトマスも一緒にいるときに、やはり戸に鍵をかけている家の中に現れてくださいました。

どのように現れたかに注意しましょう。弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのでした。弟子たちはほかのすべての人を恐れ、心の面で外部と一切関係を断ち切っていたわけです。心の中心を失い、何も頼るものがない状態になっていました。

そこへ、イエスが来て真ん中に立ったのです。中心を失い、閉じこもっていた弟子たちに、「わたしが、あなたがたの中心にいるよ」と、態度で示してくださった。これは、神のいつくしみを示す一つの態度ではないでしょうか。

わたしたちにも、同じ呼びかけをイエスはしていると思います。長崎教区司祭も、本当に若い司祭を失って、神さまの計画はどこにあるのだろうかと、肩を落としてしまいます。そんなとき、イエスはわたしたちの真ん中に立って、「あなたたちの中心は、わたしだ。心配しないで」と、声をかけてくださるのです。

神のいつくしみは決してわたしたちから離れない。どんなにつらいことがあっても、神はわたしたちを見捨てたりしない。もう一度信頼の心を呼び起こして、歩みを進めたいと思いました。


‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第3主日
(ルカ24:13-35)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼亡くなった松永神父は3人が同期で叙階した中の1人だった。だから1人が通夜の説教をして、1人が葬儀ミサの説教を受け持った。どちらも、泣きたい気持ちを必死にこらえて、精いっぱい努めを果たしてくれた。30代らしいなぁとは思ったが、心を打つ説教だった。
▼自分も、同期は3人である。同級生で、後で叙階した司祭がいて、どちらで考えても3人である。だれかが先に死ぬ。その時、彼について自分は何が話せるだろうかと、真剣に考えたし、自分が先に死んだら、自分のことを彼らはどう話すのだろうかと考えた。
▼お互いに、本当に何かを分かりあっているだろうかという不安がよぎる。同期だから、同級生だからと、ことさら意識していないものだから、いざという時のことを考えさせられた。あらためて亡くなった司祭と、その同期生たちが深いきずなで結ばれていたのだと、感心させられた。
▼ふだんは結構時間を当てにして生きている。あと20年とか、30年は働けるものだとたかをくくっている。もしかしたら、そんなに時間はないのかもしれない。命にかかわる病を得るかもしれないし、突然の災難に巻き込まれるかもしれない。それなのに、どうしてふだんの生活は真剣さが足りないのだろう。
▼無駄なことをたくさんしているし、お金の無駄遣いもするし、だれかが触ったらびっくりするようなものさえ机の上には積み上がっている。おまけにみすみすチャンスを逃すことだってある。こんな体たらくで、悔いのない人生を送れるのだろうか。最後に、後ろを振り返らずに旅立つことができるのだろうか。
▼復活節は、イエスが死んで、復活したことを過ごす季節である。わたしたちは、イエスに倣って何かに死んで、新しい人になっているのだろうか。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第139回目。今年初めてイトヨリを釣りました。わたしにとってのシーズン開幕です。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/110501.jpg

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする