こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

四旬節第2主日(ルカ9:28b-36)迷いながらも、「選ばれた者」の声に聞く

2013-02-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/02/24(No.636)
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四旬節第2主日
(ルカ9:28b-36)
迷いながらも、「選ばれた者」の声に聞く
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今週の福音朗読の場面を、4つの部分に区切って考えてみたいと思います。1つめは三人の弟子だけを連れて山に登る部分です。山は神さまと出会う場所と考えられていました。

2つめは、イエスが祈っておられると顔の様子が変わり、服は真っ白に輝き、モーセとエリヤが現れてイエスと語り合う場面です。イエスの服が真っ白に輝くという様子は、この世の姿をはるかに超えた姿です。

またモーセとエリヤは旧約聖書の律法と預言書を象徴していると考えられますから、旧約聖書が引き合いに出されてイエスの最期が解き明かされているわけです。

3つめは、2つめの光景を受けての弟子たちの反応です。ペトロが代表して、「仮小屋を三つ建てましょう」と言いました。ところがペトロの提案には答えが返ってこなくて、雲の中から「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(9・35)と言う声が聞こえたのでした。

4つめは、すべての出来事が終わったあとの様子です。「その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。」(9・36)出来事はその時だけで終わらず、十分理解はできなかったものの、ずっと心に納めてイエスのあとに従う生活が続くことになります。

4つの部分に分けて取り上げました。実は今週の福音朗読、わたしたちキリスト者の日常生活をうまく言い当てているのではないでしょうか。わたしたちもイエスに連れられて、ペトロ、ヨハネ、ヤコブと同じ体験をしているということです。

こういうことです。わたしたちは日常生活の中で何度となくイエスに連れられて山に登り、日常を超える体験をし、わたしたちなりに答えを申し上げ、その答えに返事はないけれども「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声がして、また日常生活に戻り、イエスの声に聞き従う生活を続けているのです。

さらに確信を持つことができるように4つに分けた部分それぞれに説明を加えましょう。まずわたしたちはイエスに連れられて山に登ります。12人いるうちの数人がイエスに連れられていきました。これは次のような意味合いかもしれません。イエスに声をかけられ、イエスに喜んでついて行こうと思っている人だけが、呼びかけを理解できて山に登ることになるということです。

みんながみんな、呼びかけに気付くわけではないのです。呼びかけを面倒だと感じる人もいるし、呼びかけを適当に流してしまう人も出てきます。それぞれの能力に応じて、イエスは「一緒に山に登ろう」という声をかけるのですが、それぞれの能力に応じて答える人々が、次の段階に進みます。

2つめは、イエスがこの世を超越した姿に変わる場面です。そこでは旧約聖書の代表者が現れ、イエスの最期について語り合っています。これは、わたしたちの生活のどの部分に当てはまるのでしょうか。わたしは、ミサの場面がもっともよく当てはまると思います。

ミサの中では、旧約聖書が朗読され、イエスの最期も含めてイエスの生涯が語られます。パンとぶどう酒の形のもとにイエスが現存するという、この世を超越した出来事にも遭遇します。みことばの食卓とご聖体の食卓から成るミサが、日常を超える体験をする場所、イエスに連れられて登る山なのです。

もちろん、健康がすぐれず、ミサに来ることのできない人もいるでしょう。その人にもイエスは山に登ろうと呼びかけるのでしょうか。わたしはそうだと思います。病床にあって、また教会から遠い地域に住んで送り迎えを頼めない中で、イエスはその場ででもよいから、わたしと一緒に山に登ろうと呼びかけるのだと思います。

そして聖書を開き、その日の典礼の箇所を朗読するなら、日常を超えた時間を共にすることができるでしょう。ミサの聖書朗読で神が語り掛け、ご聖体が授けられることが日常を超えているように、ミサに来ることができなくても、自分のいる場所でみことばを響かせるなら、日常を超える体験が可能です。

3つめは、日常を超える体験に、わたしたちが言葉で答える場面です。わたしたちは、みことばの招きとご聖体の招きに、自分なりに答えようとします。間近にいた弟子たちさえ、正しく答えているかも分からず、「ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかった」とあります。

わたしたちが自分で作り出す答えは、ほとんどが見当外れかもしれません。けれどもわたしたちが日常を超える体験をしてそれに答え続けることは、呼びかけに何とか答えようとする大切な部分だと思います。幸いにペトロはとんちんかんなことを言っても叱られませんでした。

最後の4つめは、すべての出来事が終わったあと、「そこにはイエスだけがおられた」ということです。わたしたちの的外れの多い生活の中にあっても、唯一間違いのない生き方「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」この声に常に耳を傾けて生きていく。それが、わたしたちの日常生活のすべてではないでしょうか。

今週の福音朗読は、わたしたちに確実な信仰生活の歩き方を示しています。主任司祭、評議会、それぞれの部会、精一杯教会をもり立てようと努力していますが、なかなかめざましい成果には繋がりません。ピントがずれていることもしばしばです。

そんな中でも、どこかでイエスの声が響きます。その声を、耳を澄まして拾いながら、イエスが導く復活の栄光へとついて行きましょう。イエスの声に聞き従う人だけが、イエスの最期、イエスの栄光の姿を仰ぎ見ることができるのです。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日
(ルカ13:1-9)
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ちょっとひとやすみ
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▼東京の続き。お話しできた人との話題の中で、「すれ違う人と接触」という話題についてまず書きたい。満員電車の中で、または朝の通勤時間帯に、すれ違う人と接触するということは十分起こりうる。ただし「ぶつかったから謝れ」と言われても困ることもある。
▼お互い急いでいる中で、自分が前に進もうとしたときにたまたま正面からやって来る人がいるとしよう。ほとんどの場合すれ違うことになるが、こちらも人混みの中で歩いている、相手も人混みをかき分けている。そんな中で正面衝突を避けるのは、なかなか難しいのではないだろうか。だから「ぶつかったから謝れ」と思って欲しくないのだ。
▼東京で2泊してさえ、たくさんの人とすれ違い、接触しそうになることが何度もあった。五島列島に住んでいて、向かってくる人と接触しそうになることなど皆無である。だから、「ぶつかった。謝れ」と言われたことのある人には本当に同情する。かわいそうである。その人が五島に住んで、のんびり暮らしていたら、決してそんなトラブルに巻き込まれたりしないのに。そんな中でも、話を伺ったその人はけなげに東京暮らしをしている。
▼東京での具体的な話は、プライバシーにもかかわるので控える。東京からの帰りの便。わたしはあえて、通路側の席を指定して購入した。荷物を出し入れするのに、窓側にいると迷惑をかけることになるので、あえて迷惑をかけないで済む通路側を帰りの便では予約した。当然窓側にはだれかが座るはずである。どんな人が座るのだろうかと考えた。
▼何とかフライトの前にメルマガ配信を済ませたくてギリギリまで粘った。そのせいで「お客さま。長崎行きの飛行機に搭乗予定ではありませんか?」と声かけまでされてしまった。さんざん粘ってようやく機内に乗り込んだので、ほとんどの席が埋まったあとに自分の席にたどり着いた。やはり通路側の席は正解だった。
▼わたしの席の隣、窓側には、黒縁メガネのきゃしゃな男性が座っていた。離陸してしばらくしてから客室乗務員が飲み物を配り始めた。「何にいたしましょうか。」窓側の席の人が「温かいお茶をください」と返事をしたとき、隣りの人が女性だと初めて気がついた。まったく化粧っ気もないからてっきりきゃしゃな男性だと思い込んでいたが、声を聞けば間違いだったと言わざるを得ない。それからの時間はかなり居心地が悪かった。
▼飛行機を降りて、わたしはがまんの限界でトイレへ。トイレを済ませて高速バスの列に並んだが、残念ながら最初のバスには乗れなかった。次のバスに回されて早い順番で乗り込んで出発を待っていると、運転手が「あと●人乗れますよ。乗りますか?」と声をかけている。
▼目一杯お客を乗せてドアが閉まり、わたしのそばで「すみません。座らせてください」と声をかける人がいる。見れば飛行機で隣に座っていた人ではないか。わたしはビックリして声が出なかったが、相手から「飛行機でもご一緒でしたね。失礼して座らせてもらいます」と言って隣に座った。小一時間、緊張して座っていたことは言うまでもない。

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今週の1枚
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第243回目。土井ノ浦教会出身の神学生が、司祭助祭候補者に認定された。

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四旬節第1主日(ルカ4:1-13)あなたの人生は神の霊と共にある

2013-02-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/02/17(No.635)
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四旬節第1主日
(ルカ4:1-13)
あなたの人生は神の霊と共にある
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お休みをいただいて、多方面の人と会ってきました。今年の黙想会の指導司祭である福岡教区の神父さま、わたしが7年間記事を書いてきた子供向けのカトリックの冊子「こじか」の編集部の方、去年浜串のクリスマスミサに参加して下さったエッセイストの方、マリア文庫が長くお世話になっているカトリック点字図書館の館長、福見教会100周年でお世話になっている写真家の方、ほかにもあと2人面会しました。

精力的に動いたおかげで、いろいろ話が進みました。ただし最後の日の夜に気を抜いて、布団もかぶらずにベッドの上で居眠りし、風邪を引いてしまったかもしれません。最後の最後で油断しました。

さて四旬節に入りました。灰の水曜日、頭に灰を受ける式の中で、「この灰は、わたしたちに使われるために燃やされて灰にされたものです。わたしたちが 枝として使っていなければ、灰にならずに済んだかも知れません。わたしたちのために、灰になる状態まで使われました。

これは、十字架の上でいのちをささげるイエスの姿に通じるのではないでしょうか。イエスは、わたしたちのためにご自分の命を使ってくださいまし た。身を粉にして、灰になるまでわたしたちのためにご自分を使ってくださったと言ってもよいでしょう。」と話しました。

灰の水曜日に話したとおり、すべてを使われるために差し出された灰をわたしたちは頭に受けました。それは、わたしたちがイエスの模範を受け入れるためです。わたしも、だれかのために使われて灰になる。だれかのために自分の身を粉にする。そうして、イエスの模範を受け入れ、キリスト信者として成長するのだと思います。「回心して福音を信じなさい。」この心がけで、四旬節を開始したのでした。

四旬節第1主日に選ばれた福音朗読は、イエスが荒れ野で40日間の試練を受けた場面です。40という数字は旧約聖書を思い起こさせるための数字かも知れません。イスラエルの民は、砂漠で40年の間さまよい、試練を受けました。その間に、パンが無い、肉が食べたいと不平を言い、 モーセが山に登って十戒を授かっている間にもモーセを待ちきれずに金の子牛の像を造り、その偶像を拝み、いけにえを献げましたし、さらに約束の地に歩みを進める中で喉が渇いたと言って主を試したりしました。

今日の悪魔の誘惑の場面も、かつてのイスラエルの民の過ちを思い起こさせます。イエスは悪魔の誘惑に対して、申命記を引用して答えています。これは申命記の中でイスラエルの民が砂漠で飢えと渇きのために唯一の神を信じなくなった過ちを、これから入る約束の地では二度と繰り返してはいけないと諭すのに倣って、これから入る宣教生活に同じ過ちを繰り返さないという決意の表れを示しているのです。

イエスは誘惑する悪魔に対して、ご自身の決意を表しているだけではありません。人間は洗礼によって神の子とされてからも、さまざまな誘惑に取り囲まれ、弱さのために過ちに陥ってしまいます。そんな時、神に信頼を置いて生きることをいつも忘れないように、どんな巧妙な罠、たとえそれが神の言葉を引用したものであっても、罠に陥らないように、ご自分の模範を示してわたしたちにも注意を促しているのです。

具体的に自分の生活に置き換えてみましょう。まずイエスが40日間、悪魔から誘惑を受けられたことについてです。40という数字は、長い期間を表す象徴的な数字です。人間にとっての長い期間とは何でしょうか。

わたしは人生のことだと思います。つまり、イエスが誘惑を受けた40日間とは、人間の長い一生を象徴しているかも知れません。人間の長い一生は、悪魔から狙われていて、いつも誘惑にさらされています。ただ、イエスの40日間が聖霊に満ちて、「霊」によって引き回されていたように、誘惑にさらされている人間の一生も、一方で聖霊に満ちて、霊と共にある一生なのです。人間の一生は、パンだけで生きている一生ではありません。神の霊と共に生きているのですから、さまざまな誘惑の際にも、神が共にいることを思い出すことが大事です。

次に悪魔がイエスを高く引き上げて、自分を拝むように強要する場面があります。高く引き上げるとは、何かの幸運を得てとんとん拍子に出世の階段を上り詰めるとか、思いがけない形で資産を手にし、何不自由ない生活を手に入れるなどの姿を考えるとよいでしょう。

こんな時、つい人間は上り詰めた地位を過信し、または手に入れた財産を当てにしてしまします。そんな場面が一生涯のうちに一度は巡ってくるかも知れません。そんな時にイエスは「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と注意するのです。

どんなに高い地位に上り詰めても、どんな財産を手に入れても、人はすべてを自分で手にしたのではないのです。霊が共にいて実現した人生であることを忘れず、どんなに高い場所に連れて行かれても、神の前にへりくだることを忘れてはいけないということです。

最後に悪魔は、イエスをエルサレム神殿の屋根の端に立たせ、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」と挑みます。人間の一生が、霊と共にあるのなら、その命を投げても神が守り抜いてくれるに違いない。

これに対してイエスは、「あなたの神である主を試してはならない」と言われました。霊と共にある人間の一生において、神の霊が人間に試練を与える場合は人間を鍛え育てることにつながりますが、同じことを人間が試すなら、それは不信仰につながります。神の霊は必要なら試練を与えて人間を鍛え育てます。人間が自分の一生を危険にさらして鍛えるのではありません。

イエスは、ご自分の40日間にわたる悪魔の誘惑を通して、人間の一生に起こりうる誘惑との戦い方を身をもって示されました。悪魔はあらゆる方法で、人間の一生に誘惑を仕掛けてきます。それでもわたしたちは、自分の人生のすべてが霊と共にあるということに信頼を置いて生きていきましょう。

わたし一人で受ける悪魔の誘惑は耐えられない誘惑ですが、霊と共にあって受ける誘惑は人間を鍛え、育てます。わたしの一生が、霊に満たされ、霊と共にある一生であることを繰り返し思い出せるように、このミサの中で照らしを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第2主日
(ルカ9:28b-36)
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ちょっとひとやすみ
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▼大都市の交通について。普段バスやJRの電車を利用しない田舎暮らしの自分にとっては、大都市に来たときの公共交通機関の利用は大変な苦労である。今回もずいぶん苦い思いをした。
▼今年の黙想会指導司祭と佐賀で軽く打ち合わせをしてからJRの特急で博多に移動し、地下鉄に乗り換える。計画に沿って天神・中洲川端・福岡空港と地下鉄を乗り継ぐ。路線図では一直線の停車駅なのだが、出口を間違えると簡単に目的地を見失ってしまう。天神でビックカメラに行くだけで、30分あまりウロウロした。おまけにお目当ての品物を店頭で買う時間が無くなり、結局宿でネットショッピングする始末。
▼福岡空港も一時期とは隔世の感があった。まるで羽田空港のように広く複雑になっていて、時間も無くなってくるし慌ててお土産を買ってみたらANAの袋に詰め込まれた。行きの航空会社はJALだというのに。しかもお土産の一つは東京で真っ先に会う人のために買ったのに完全に渡すのを忘れて持ち帰って来た。
▼羽田には定刻の17時30分に到着したが、宿に着くための地下鉄を見つけられない。今回の外出のために、乗り換えのシュミレーションをパソコンソフトを駆使して何度も繰り返し、iPadにも地図や路線経路情報など、念には念をいれて準備したにもかかわらず、地下鉄乗り場を駅員に尋ね、さらに「よく分からないけどとにかくこの電車に乗るか」と決心するまでかれこれ30分かかってしまった。地上に上がってからもほぼ宿泊先まで来ているのに宿が見つけられない。先に宿で待機してくれていた面会人に自分を見つけてもらって事無きを得た。
▼下調べを入念にしていても、最後は近くにいる人のお世話になっている。本当に大都市の交通には泣かされる。大都市での移動はわたしにとっては例えるなら「漂流」である。たどり着くかもしれないし、着かなければ手当たり次第見つけた人に「おーい、助けてくれー」と叫ぶ。たまにしか上京しない人達は、皆さん似たような体験をしているのだろうか。

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今週の1枚
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第242回目。今どき東京に行ったらこれでしょう。宿泊先からのスカイツリー。

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年間第5主日(ルカ5:1-11)あなたは人を捕らえるために捕らえられた

2013-02-10 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/02/10(No.634)
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年間第5主日
(ルカ5:1-11)
あなたは人を捕らえるために捕らえられた
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2月13日水曜日から教会の典礼暦は四旬節に入ります。今週の年間第5主日は、四旬節の心構えを学ばせるかのような福音朗読が選ばれました。物語は、「漁師を弟子にする」という場面です。まず、イエスと、まだ弟子になっていないシモンとその仲間の漁師たちとのやり取りで、押さえておくべき点を指摘したいと思います。

イエスはシモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(5・4)と言われますが、これは厳密には、シモン一人に命じたのでしょうか。日本語にはわざわざ書かれてはいませんが、網を降ろして漁をするということから考えると、シモンとその仲間に、漁をするように命じたと考えるべきです。

実際、日本聖書協会から出ている和英対照の聖書に当たると、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、『あなたとあなたの仲間は』漁をしなさい」という意味の文章になっています。このように命じるのはごく当然のことであり、英文はその点をはっきりと文字に表しています。

では、イエスの命令に対して、シモンの返事はどうでしょうか。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5・5)と答えています。

本来なら、文字には現れていない部分を汲み取って、「しかし、お言葉ですから、『わたしとわたしの仲間は』網を降ろしてみましょう」という意味で理解すべきだと思います。ですが、この部分に当たる英文と照らし合わせると、そうはなっていないことが分かります。

実際は「わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、『わたしは』網を降ろしてみましょう」と書かれているのです。イエスの命令には「あなたとあなたの仲間」と書かれているのに、ペトロの返事にはペトロだけの決断であったことをうかがわせる書き方をしているわけです。

恐らく、だれがどう考えても網を降ろすという行為は理解できなかったのでしょう。賛成してくれる人は誰もいなかったので、ペトロは単独でも網を降ろすという決断をしたわけです。ではなぜ、ペトロは自分一人だけでもイエスの命令に従い、網を降ろそうと考えたのでしょうか。

良い結果が見込めそうだったから従ったのではありません。下手をすると、ペトロは大群衆の前で大恥をかくことになります。ベテラン漁師が、漁師の経験も無いイエスの命令に従って網を降ろしたのですから。仲間たちの信用を失う可能性だってありました。それでも、イエスの言葉を信じることができたのはなぜでしょうか。

ここからはわたしが考えたことですが、ペトロはイエスの目を見て決心したのではないかと思います。イエスが、もし確信のないまま漁を命じたのであれば、大自然の恐怖と日々戦いながら漁をしているペトロは見破ったはずです。まったく曇りのない目で見つめられたペトロは、「この方はわたしに何かを体験させようとしている」と直感したのではないでしょうか。

聖書の世界に相手の目を見て判断するという習慣があるかどうかは分かりません。けれども、海の男たちは、荒れ狂う波の中でお互いに意思疎通を図るために、手で合図を送ったり、目で合図したりするのではないでしょうか。ペトロの長年の経験が、漁を命じたイエスの目に、偽りはないと判断したのだと思うのです。

結果はどうだったでしょうか。昨晩の不漁が嘘のような大漁でした。夢中になって、魚を引き上げたために、船は沈みそうになりました。ペトロは無数の魚を捕らえただけではなく、実はイエスによって捕らえられたのです。

これが、イエスのもくろみだったと言うべきでしょう。不思議な漁を経験させて、自分がイエスに捕らえられ、イエスが自分を生かしてくださる方だと信じた。この体験をペトロに積ませることが、この不思議な漁の目的だったのではないでしょうか。

イエスの言葉は実に印象的です。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(5・10)イエスが言う「人間をとる」とは、単にペトロが漁師だから、漁師に理解できる言葉を選んだのではありません。「あなたがわたしに捕らえられ、わたしに生かされたように、あなたもだれかを捕らえ、わたしによってその人を生かす。そのための漁師になるのだ。」これがペトロに与えられた新しい使命だったのです。

シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様でした。彼らもイエスに捕らえられ、イエスが自分たちを生かしてくださる方だとはっきり理解したのです。「彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」(5・11)舟を陸に引き上げたのですから、もはや彼らは一介の漁師ではなくなりました。捕らえられ、生かされる体験を多くの人に伝える新しい生き方に移し替えられたのです。

今週の漁師を弟子にする物語は、わたしたちの教会にも問いかけていると思います。イエスは人を捕らえ、捕らえた人を生まれ変わった人として生かしてくださる方ですが、わたしたちの中に、わたしたちの教会に、長崎教区に、信徒・修道者・司祭の中に、イエスに捕らえられ、イエスに変えられて生きている人がどれだけいるでしょうか。

集合の笛が鳴ったので集まりました。右向け右の合図があったので右を向きました。これでは、イエスに捕らえられた人とは言えないと思います。そして、イエスに捕らえられ、変えられたことを新しい人に伝えることもできないと思うのです。

「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」イエスの言葉は、わたしたちにも必要な言葉です。本来わたしたちは、イエスさまに捕らえられた者です。その姿をもう一度呼び覚まし、新たな福音宣教へと繋げていきましょう。わたしたちが伝える材料は、イエスに捕らえられ、今を生きているという体験です。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日
(ルカ4:1-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼間違って本を注文した。普通であれば、発送する前にキャンセルできる。だが今回は事情が違う。AmazonのKindleストアで購入した洋書である。Kindle書籍とは、ダウンロードして読む書籍のことで、購入すると即座にタブレット等にダウンロードされて読むことができる。
▼だがメリットばかりではない。今回は興味を持った洋書を注文したのだが(まだまだ日本語のKindle書籍は少ない)、よくよく見たらそれはスペイン語だった。アメリカで発売されている書籍だったのであまり気にせずに「買う(BUY)」のボタンをクリックしたのだが、ダウンロードされてきたのはスペイン語だった。
▼英語もトボトボしか読めないのに、スペイン語が読めるはずがない。なぜうっかりスペイン語版を購入したかが問題だ。もしかしたら、現在アメリカでは書物を売り出す時に英語版とスペイン語版を同時に並べることが積極的に行われているのかもしれない。
▼返却することもできず、しばらく呆然としていたが、しかたなく英語版をよく確認して購入し直した。書名はここでは紹介しないが、表紙が酷似していれば、全体の1%くらいは、間違うのではないだろうか。あるいはそれも見越しての販売戦略か。
▼ダウンロードして読む書籍は、洋書に限って言えば印刷されたものよりかなり安い。資源を消費しないから、コストが掛からないだろうし、在庫を抱える必要も無い。そうした事情もあるのだろう。今回間違って購入した本は、10ドル50セント、ダウンロード書籍としては高いほうだったかもしれない。

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今週の1枚
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第241回目。iPadにラジオアプリを入れて流している。雑音ゼロ。世界中受信可。

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年間第4主日(ルカ4:21-30)あなたの心の器を満たしてくださるかた

2013-02-03 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/02/03(No.633)
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年間第4主日
(ルカ4:21-30)
あなたの心の器を満たしてくださるかた
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司祭団マラソン大会は疲れました。順位は7位でしたが、ほとんどの神父さまがタイムを大幅に伸ばした中で、わたしだけがまったくタイムが伸びず、順位を下げてしまう結果になりました。

去年は1キロ5分を切る人は1人しかいなかったのに、今年は上位4人が1キロ5分を切ってきました。いかにレベルが上がっていたかということが分かります。5分を切るのはかなり難しいですが、みなさんの喜ぶ顔が見たいので、努力してみたいと思います。

年が明けてから紅茶を飲むようになりました。自分で買い求めたのではなくて、東京から浜串教会のクリスマスミサに参加してくださったエッセイストの方が、東京のお土産としてくださったものです。せっかくならおいしくいただこうということで、ハリオのガラス製急須を買い求め、紅茶の色合いを目で確かめながら飲んでいます。

日本茶も紅茶もそうですが、急須にお湯を注ぐ時、分量を加減してお湯は注ぐはずです。間違っても無制限にお湯を注いでお湯をあふれさせるようなことはしないでしょう。また、すでにお湯が入っているのに、それにさらにお湯を足したりはしないはずです。お湯があふれ、紅茶もお茶も無駄になってしまうのは目に見えているからです。

わたしは今週の福音朗読を学ぶのに、急須に注ぐお湯をヒントにしてみたいなと思いました。今週の朗読箇所の中で、「満たされる」という言葉がもとになっている単語が2つあります。1つはイエスが「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4・21)と言われた時の「実現した」という単語です。

もう1つは、意外に思われるかもしれませんが、イエスの言葉を受け止めることができなかった会堂内の人々が「皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」(4・28-29)という場面での、「憤慨した」という単語です。

「預言が実現した」ということと、「人々が憤慨した」ということに何の関わりがあるのだろうかと不思議に思うかもしれません。この両者は満たされるものが違うために、これほどの開きになりました。一方は神の言葉が満たされ、他方はイエスの言葉を理解しない人々の不満や怒りが満たされたのです。

説教の始めに、急須のことに触れましたが、神の言葉が満たされ、預言が実現しました。それはたとえば急須にお湯が注がれ、紅茶が出来上がった状態です。紅茶はそのままにしておくと酸化して傷んでいきます。出来上がったなら、時を置かずにカップに移し、それを飲んで楽しむべきです。最初のお湯が注がれた状態に、さらにお湯を注ぐべきではない。それはだれでも分かることです。

イエスは、預言の言葉が実現したと語りました。それを会堂にいた人々は何も足さず何も引かず、受け入れるべきでした。けれども人々はイエスの言葉をそのまま受け取りませんでした。「この人はヨセフの子ではないか。」(4・22)人々の期待は、イエスが神の言葉を語ることではなく、郷里の自分たちをひいき目に扱って、便宜をもたらしてくれることを願っていたのです。

イエスに、地元をひいきする気持ちが一切無いことが分かると、人々の心は怒りで満たされます。人々の期待と、イエスの願いとは水と油の状態です。怒りが満たされた人々という急須の中に、イエスによって満たされた神の言葉が注がれるとどうなるでしょうか。それは急須からあふれだし、人々の口に神の言葉は何も残らないでしょう。

人々はすでに怒りに満たされ、イエスの言葉をまったく受け付けない状態になっていました。自分たちの都合に合うことを言ったりしたりしてくれないなら、もはやイエスなど必要ない。そのような気持ちだったのでしょうか。人々はイエスを崖から突き落とそうとさえしたのでした。

急須をあふれ出したお湯は、高い所から低い所へこぼれていきます。高ぶっている郷里の人々から排斥されたイエスは、低い心がけの人、貧しい人、謙虚に耳を傾ける人々のもとへ向かいました。「イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」(4・30)この場面はわたしたちにも教訓を与えているのではないでしょうか。

わたしたちの心の中は、良い香りを放つ茶葉を用意された急須のようです。もしそこに、神の言葉が注がれ、満たされるなら、わたしたちは神の言葉の良い香りを放ち、人々を喜ばせる急須となることでしょう。

ところが、良い茶葉を用意されているのにわたしたちが日常生活で怒りや不平不満や憎しみで急須を満たすならどうなるでしょうか。わたしたちが放つ香りは怒りや憎しみとなり、わたしたちが人々に注ぐものも迷惑なものとなるでしょう。怒りや不平不満に満ちた心の急須には、イエスが満たしてくださるはずの神の言葉も恵みも留まらず、氾濫して他の人々に向かうのです。

わたしたちの心の中は今どうなっているでしょうか。イエスから神の言葉を注がれるだけの場所が残されているでしょうか。独りよがりの思いで満たされていたり、ましてや悪い思いに充ち満ちているなら、いったんその急須は空にしましょう。

もう一度祈りのことばや聖書を読むことで新しい茶葉を調え、イエスに恵みを注いでもらいましょう。そうしてわたしの心を良い香りで満たし、それを周りの人と分け合って喜びましょう。イエスは今日も、自分たちに都合の良いことばかりを求めようとする高慢な人々の間をすり抜けて、恵みを注がれる時を待ち続けている謙虚な人のもとへ向かおうとしておられます。

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‥次の説教は‥‥
年間第5主日
(ルカ5:1-11)
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ちょっとひとやすみ
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▼司祭団マラソン大会は苦い思いをさせられる結果となった。19人が10キロの部を完走した。そのうち3人は新人で去年との比較がない。あと16人。12人は、1キロ毎のラップタイムを大幅に伸ばしている。具体的には15秒以上伸ばしている。
▼残りは4人。うち3人は、1キロ毎のラップをいくらか伸ばしてきた。具体的には10秒以内。あと1人残っている。1キロ毎のラップがまったく伸びなかった人。実はそれがわたしだった。わたしは1キロ5分24秒でカバーした。
▼しかし去年も1キロ5分25秒だったので、ほとんどの司祭がタイムを伸ばしてきたので、相対的にタイムを落とす結果となり、順位を2つ下げて7位に終わってしまった。走り終わった時は「うーん、やられたなぁ」としか思っていなかったが、浜串に戻り、データを分析するころになってじわじわと悔しさが湧いてきた。
▼何度見ても、ほかの司祭はかなりラップタイムを伸ばしている。何度見ても、自分だけがラップタイムを上げられずに終わっている。他の見方ができるのかもしれないが、わたしにはそうとしか思えない。一体どういうことなのだろう。なぜ自分だけ、タイムをあげることができなかったのか。
▼いろいろ考えるうちに、いくつかの数字が思い浮かんだ。1.気温。今年は去年と違い汗ばむ陽気だった。2.体重。去年は73キロと、減量に成功して臨んだ試合だった。今年は体を絞りきれなかった。
▼3.ウェア。これは最後まで触れたくなかったのだが、やはり覆う面積が広いと、通気性が悪くなる。さまざまな人から「去年のウェアは目のやり場がないから、やめて欲しい」と言われて断念したのだが、やはり次はもとに戻したい。

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今週の1枚
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第240回目。軽快に走っているように見えるが、周りの司祭はそれ以上だった。

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