こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

王であるキリスト(マタイ25:31-46)イエスが見ている方向を見る生き方

2017-11-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/11/26(No.914)
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王であるキリスト
(マタイ25:31-46)
イエスが見ている方向を見る生き方
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年間最後の主日「王であるキリスト」がやってきました。わたしたちが復活の主を迎えて、年間を通して導かれてきた、この一年を振り返ってみましょう。

親孝行のために旅行に行くことにしました。5月28日、田平小教区での銀祝の祝い金をいただく際、「お願いがあります。これでお母様を温泉に連れて行ってください」と言われました。遅ればせながら、12月13日から15日の2泊3日で、母親が興味関心を持っている場所に連れて行こうと思います。

あまり詳しくは言えませんが、母親はある映画スターのクッションを持っています。関連グッズも持っているくらいですから、相当好きなのでしょう。その希望を叶えようと旅行を計画したのです。ただ、もう少し早く出かけるべきだったかなぁと思っています。

なんと言っても真冬ですからねぇ。映画のワンシーンは体験できるかもしれませんが、帰りに風邪をひかせては元も子もありません。それだけはわたしも反省しております。とにかく、12月半ばの旅行に支障のないよう、祈りは忘れても息だけはしてお過ごしください。

王であるキリストの祭日に与えられた福音朗読は、「すべての民族を裁く」という箇所でした。キリストはすべての人を前に、ご自分とどのようなかかわりを持って生きてきたかを問いかけます。わたしたちに、「わたしと同じ方向を向いていたか否か」を問い、同じ方向を向いて生きてきた人には報いがあり、キリストに背を向け、目を背けて生きてきた人には厳しい裁きを下します。

キリストと同じ方向を向いて生きてきたかを見分けることは容易です。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」(25・35-36)

弱く、貧しい人たちを見捨てない生き方が、キリストと同じ方向を向いた生き方です。反対に社会的弱者に背を向け、目を背けるならば、キリストの前に立つその日は厳しい結果が待ち受けていることになります。

たとえに書かれているような、食べ物を差し出したり飲ませたり、宿を貸したり服を与えたり、病人を見舞ったり牢にいる人を訪ねるなど、直接的な働きかけもそうですが、そのような弱い立場にある人のほうを見て生活をしてきたかがいちばん問われます。

その意味では過去に何度か取り上げたかもしれませんが、高校を卒業して福岡の大神学院に行くまでの期間に体験した、小長井の障がい者施設での体験は、わたしの中で痛みを伴う体験となっています。

当時わたしは高校を卒業したばかりでしたが、従妹のいる聖母の騎士修道女会経営の障がい者施設でボランティアに来ないかと誘われました。行ってはみたものの、障がい者との交流にわたしは心を閉ざしていたのです。手の先が肩に直接くっついている人、足先がすぐ腰につながっている人などに声をかけたり近寄ったりするときに、まったく心が開けなかったのです。最も弱い立場にある人を、わたしは目を背けてお世話して、「頑張ってお世話した」と思っていたのです。

本当に恥ずかしいことですが、当時のわたしは目の前にいる入所者の方に心を開けませんでした。けれども今振り返ると、わたしが目を背けていた理由もまったく理由にならない理由です。懸命に生きている入所者に、もう一度会って力が足りなかったことを謝りたいくらいです。

イエスの模範を理解するには、当時のわたしは幼すぎたと思います。イエスはいつも、弱く、貧しい人たち、社会的に不利に扱われている人たちのことを自分のことのように思っているかたでした。わたしは今現在、命の危険にある病人のもとを訪ねるとき、自分のことのように思える人になってきました。時間はかかりましたが、ようやく、イエスが目を向けているのと同じ方向を、自分も向くことができるようになったのです。

王であるキリストが目を留めるその同じ方向に目を留める人が、王であるキリストの民であるはずです。人間の社会は競争に明け暮れ、蹴落としたり蹴落とされたりして針の先のような頂点を目指し、その頂点に立っても安らかな気持ちにはなれず、常に緊張した状態に置かれています。

それだけの犠牲を払って頂点に立ち、いざキリストの前に来た時「あなたはなぜわたしと同じ方向を向いてこなかったのか」と言われるなら、人生で払って手に入れた身分や財産など、どれほどのものでしょう。置かれた境遇はそれぞれであっても、イエスと同じ方向を向いて、弱い立場にある人に手を差し伸べる人生を考えるべきです。

わたしも、自分の置かれた場所からイエスと同じ方向に向き直るために遠回りをしてしまいました。けれども、今は違います。不完全ではあっても、イエスと同じ向きを向いて歩く意味と価値を理解しています。

一日に何度も電話がかかり、何度となく玄関のチャイムで自分の用事を中断させられる日もあり、苛立ちを覚えることもありますが、それでも自分がなにがしかの価値ある仕事ができるのはイエスと同じ向きを向いて奉仕しているとき、その時だけなのです。

ついこの前の晩も、中学生のけいこが終わって背伸びをしようとしたら電話が鳴り、青洲会病院に病者の塗油を授けに行きました。車に乗るとき、「これがわたしの生き方なのだ」と自分に言い聞かせ、よい働きができたことを病院からの帰りに神に感謝したのです。

どうか皆さんも、イエスが今週のたとえで示した「弱い立場にある人に目を向けて生きる人生」を選んでほしいと思います。イエスがみている方向を見る人でなければ、結局イエスを信じていてもイエスと同じ喜びや慰めを得ることはできないと思います。「わたしの父に祝福された人たち」は、どんな境遇に置かれた人にも開かれた生き方なのです。

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‥次の説教は‥‥
待降節第1主日
(マルコ13:33-37)
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ちょっとひとやすみ
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▼人と出会うということは、長く付き合うこともあるということでもある。長く付き合うことになるとは思わなかった人と、長く長く付き合うことは不思議な縁、不思議な摂理ではないだろうか。浦上時代から長くかかわってくださっている大恩人がいるが、今回は違う恩人のことをそっと触れてみる。
▼その人は意外なことに信仰の面ではあまり付き合いはない。と言ってもミサを依頼されたりは普通にあるわけだが、信仰の面で手を差し伸べたり教えられたりというかかわりではなかった。なにしろわたしもびっくりする信心深い人で、わたしが何かアドバイスするような人ではなかったからだ。
▼だからわたしも、信仰の面で力になれることはないのかなと思っていた。ところがチャンスが回ってきたので、ここでお世話してあげなければいつ力になれるか?と考えている。わたしたちは長い付き合いの中で、誰にも言えないことを司祭に打ち明けてもらったりする。
▼家族にも言えないことすら、司祭は知る立場にある。そういう場所に立たせてもらっていることを神に感謝したい。わたしの社会的な力などたかが知れている。だが信仰面では、かかわった人を救うお手伝いすらできる。
▼このすばらしさをどうやったら子供たちに伝えられるのか。子供たちの中に興味を示してくれる人がいれば、喜んでずっと支えてあげたいのに。

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今週の1枚
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第521回目。九州場所三日目。言わずと知れた横綱の休場した日。でも観戦最高。

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年間第33主日(マタイ25:14-15,19-21)お預けになりましたが、御覧ください

2017-11-18 | Weblog
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「今週の説教」
2017/11/19(No.913)
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年間第33主日
(マタイ25:14-15,19-21)
お預けになりましたが、御覧ください
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年間の主日も今週と来週の「王であるキリスト」二週となりました。与えられた福音朗読は「『タラントン』のたとえ」です。17日(金)に長崎教区の川添神父様がお亡くなりになったので、そのことと重ねながら福音の学びを得たいと思います。

川添猛神父様が85歳で亡くなりました。フランシスコ病院で癌の闘病中でした。わたしが司祭に叙階されて、初めての赴任地だった浦上教会で、主任司祭として厳しくそして温かく指導していただきました。川添神父様に5年間指導をいただいたことが、わたしの司祭生活の大切な財産になりました。

川添神父様は浦上で三人の助任司祭を束ねて、それぞれ個性の違うわたしたち助任司祭の才能をうまく引き出してくださり、当時の浦上教会は自分が言うのもなんですが、うまく回っていたと思います。四人の司祭全員が五島出身で、受付のシスターも五島出身でしたので、長崎の中心にありながら司祭館の中だけは五島弁の治外法権でした。

ある時教会の台帳記録を前に、手順が分からずまごついていました。「そんなこともできないのか。何を神学校で習ってきたのか」と五島弁できつく言われました。その時、先輩助任の真浦神父様から「怒られたな。俺も最初は怒られたんだよ」と慰めてもらったりもしました。

川添神父様は助任司祭に寛大に仕事を割り振ってくださいました。「責任は俺が取る。思う通りやってみろ。」それと同時にこうも言っていました。「薬にも毒にもならないことはするな。」わたしの理解ですが、浦上教会の神の家族にとって、よい薬になる取り組みは当然ですが、苦い薬、もう二度と繰り返してはいけないと身をもって知る経験も、あとでは財産になるので、「薬になるか、毒になるか」いずれかの役に立つことをやってみろという教えだったのだと思います。

今週のたとえで、主人が僕たちに自分の財産を預けて旅に出て行きます。どのように活用するかも僕たちに任せました。五タラントン預かった僕と、二タラントン預かった僕は、主人の態度から全幅の信頼をしてもらっていると感じて商売に励みました。

ところで一タラントン預かった僕は、主人の思いを正しく理解しませんでした。この僕には、預けられた財産が重荷に感じられ、使い方まで任せたことも無言の圧力に感じたのです。同じように預けられ、同じだけの時間があったのに、一タラントン預けられた僕は主人の期待を喜びや誇りと感じることができなかったのです。

わたしが最初にお仕えした川添神父様は、わたしたち助任に主任司祭の権限を分け与えてくださり、のびのびと仕事をさせてくださいました。「責任は俺が取る」この言葉に勇気づけられて、任せられた仕事を「重荷」「圧力」と感じることなく、喜んで果たすことができたのです。

わたしたちはどうでしょうか。神さまはたとえにある主人のように、ご自身の持ち物である「タラントン」を預けてくださいます。わたしたちの能力はそれぞれ違いますが、神はすっかりわたしたちを信じて、「タラントン」を預けてくださり、人生という長い時間の中で、それをどのように活かしてくれるか、口出しせずに見守っておられるのです。

神さまが預けてくださる「タラントン」とは何でしょうか。今回わたしは、洗礼によっていただく三つの役割「預言者」「王」「祭司」と考えてみました。洗礼を受けた時点で、わたしたちは預言者のように神から託された言葉を語り、王のように家族や周りの人を神の望みにかなうように導き、祭司のように家族のため、人々のために神に祈ることを期待されているのだと思います。それは洗礼を受けたときから、神に召されるその時までの長い期間です。それぞれの能力に応じて、語りかけ、導き、取り次ぎの祈りをささげます。

わたしたちは神の期待をどのように受け止めているのでしょうか。「洗礼を受けた人だから、人々に語りかけてください。導いてください。取り次ぎの祈りをささげてください」と言われたら、それはあなたにとって「重荷」「圧力」でしょうか。もしみなさんが「重荷」「圧力」と感じているなら、その時点ですでに神さまから預かった「タラントン」を土に埋め、最後のその時に神に突っ返そうとしていることになりますが、果たしてそれでよいのでしょうか。

わたしたちはそれぞれの能力に応じて「御主人様、お預けになりましたが、御覧ください」と答えればよいのです。最後の一タラントン預かった僕に主人が要求したのは、銀行に預けて得られる利息でした。今銀行にお金を預けていくらもらえるでしょうか。1千万円預けても2千円です。それなのになぜ神さまの期待を恐れる必要があるでしょうか。

今日(明日)、歴代の主任神父様のお写真を並べてミサをささげています(ささげます)。この神父様たちは皆さんを神さまに紹介しながら、「わたしにお預けくださいましたが、御覧ください。こんなに立派な田平教会の信者に、田平出身の聖職者、修道者になりましたよ」と報告しているのではないでしょうか。わたしたちが育っていれば、この歴代主任神父様方は主と喜びを共にできているのではないでしょうか。

わたしは、川添神父様に何もない状態から育てられ、川添神父様はわたしの銀祝25周年を見届けて、旅立っていかれました。中学生の時、26聖人殉教記念ミサで聞いた説教に感銘を受け、どの神父様だったかは見えなかったけれども、あんな説教をする神父様になりたいと心に誓って司祭になったのでした。その思い出話を浦上に赴任して分かち合ったら「その説教をしたのは俺だ」と川添神父様に言われ、「よく神父になってくれた」と喜ばれたのです。今は神さまのもとで、「助任司祭をお預けになりましたが、御覧ください」と言ってくれていると思います。

神さまがわたしたちにひとまず期待しているのは、銀行の利息くらいの額です。期待を恐れる必要などまったくありません。自分を期待してくれている神さまに、喜んでもらいたい。この思いで人生をまっとうすることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
王であるキリスト
(マタイ25:31-46)
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ちょっとひとやすみ
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▼初めての助任としてお仕えした川添神父様が85歳で亡くなった。11月17日は長崎教区が発行する来年度からの祝日表に川添神父様の命日が掲載されることになる。まさかこんなに早く、お仕えした主任神父様を失うとは思わなかった。
▼すでに二度目にお仕えした神父様は亡くなっているので、まったく予想しなかったと言えばうそになるが、誰でも親には長生きしてほしいのと同じで、川添神父様には90歳になっても生きてくれるものだと勝手に思っていた。
▼たくさんの思い出がある。川添神父様は俳号を持つ俳句の先生だったので、ゴマするために俳句(のようなもの)を応募して点数稼ぎをした。あまり筋も良くなかった句を、「船ゆるる・四月末日・初赴任」と整えてもらった。生涯でただ一つ作って、それを整えてもらった中田神父の俳句である。
▼「毒にも薬にもならないことはするな。」これが川添神父様の口癖だった。薬になることはわかるが、「毒」になるほうは、二度と失敗しないための戒めだったのだろう。今でもわたしがアイディアを練る時の基本姿勢である。
▼「うっ!この食材は傷んでる。新司祭は食べないほうがいい。」何度かこう言われて遠慮した食材は、結局わたしが知らないだけで実はグルメも唸る高級食材だったりした。何度か食べ損ねて悔しい思いをした。今はわたしが「うっ!」と言っては賄さんをおどかしている。
▼「おい」何年かはこの呼び方だった。「中田神父様」と呼ばれるようになった時、本当にうれしかった。それはある意味主任神父様のもとを巣立って、助任司祭から主任司祭になっていく日が近づいているからだった。名前で呼ばれるようになって巣立っていった先輩助任神父様たちは、今はそれぞれ川添神父様自慢の主任司祭である。

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今週の1枚
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第520回目。1993年3月23日。24年後私は田平主任、シスターTは保育園主任に。

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年間第32主日(マタイ25:1-13)あなたの「最後の授業」を聞かせてください

2017-11-09 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/11/12(No.912)
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年間第32主日
(マタイ25:1-13)
あなたの「最後の授業」を聞かせてください
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本日「黒瀬の辻殉教祭」が午後2時から予定されています。説教師はわたしなので、田平教会での説教も大枠は「黒瀬の辻殉教祭」の説教を使わせていただきます。

世界中でブームになっている授業があります。「最後の授業」というものです。「引退を迎えた教授が、お別れの日におこなった授業」ではありません。現役バリバリの教授が、「もし余命数日の宣告が下されたら?」というような設定で、すべてを賭けておこなう授業のことです。

最初にこの授業をおこなったのは、余命半年のがん宣告を医師から受けたランディ・パウシュという教授でした。彼は余命半年でありながら、希望に満ちた、エネルギッシュな授業を展開したのです。死にゆく人のメッセージではなく、聞く人にやる気を起こさせる授業でした。

先に「黒瀬の辻殉教祭」の案内をしました。この殉教祭は言わば「福者西家族を思い起こし、物語るためのミサ」です。わたしはこの説教を考える準備として、黒瀬の辻で殉教した西家族について、殉教から400年を迎えた2009年に山田教会で発行された「生月の殉教者・福者ガスパル西玄可とその家族」という青い冊子を注意深く読みました。冊子を読んだ上で、400年前を振り返るだけでなく、出来事を今どうやって生きたらよいかを付け加えて話してみたいと思いました。

冊子を読んでわたしが考えたことは、西玄可とその家族は、決してこの世を捨てて、この世に背を向けて生きていたのではないということです。時代はキリシタンにとって完全な逆風だけれども、正面から逆風に立ち向かって生き続けた人たちです。「この世に興味がないから、命を取り上げるのであればどうぞ。」そんな生き方を選んだのではありません。誠実に日々を生きて、生き方を曲げることなく貫いたのです。

わたしは、西玄可とその家族の最後の日々は、彼らが日頃から用意していた「最後の授業」だったのだと思っています。「どうせもう死ぬから、これだけは言っておこう」という気持ちで立てた証ではなくて、命に満ち満ちた、花が満開に咲いた状態で、すべてを賭けておこなった授業だったと思っています。

当時ほとんどの人が、西家族の「最後の授業」を理解しませんでした。救い主イエス・キリストのために命をささげることが、命を投げ捨てることのように思えたからです。本当は理解できたはずなのですが、伝統やしきたり、面子など自分を縛っているものから解放されるのを怖がっていたのかもしれません。

殉教祭の参加者は違います。黒瀬の辻に集まってくださるということは、西家族の「最後の授業」をもう一度聞きたい、そう思って集まるはずです。もしそうでなければ、ほかにすることはいくらでもあったはずです。それらをなげうって殉教祭に集まってくれる。西家族の「最後の授業」に価値を見つけたからです。同じ時間に放送されているテレビ、ラジオよりも、聞く価値があると考えたからここに集まっているのです。

ランディ・パウシュの「最後の授業」を受けた人たちはどうなったのでしょうか。授業を受けた人たちは、別の友人知人に、授業から学んだことを伝える人になりました。「最後の授業」をこなした教授に倣って、自らも「最後の授業」ができる人になったのです。

「最後の授業」を受けた人たちとわたしたちを重ねてみましょう。わたしたちが殉教祭に集まるなら、西玄可とその家族が命を賭けておこなった「最後の授業」を聞くことになります。そうであるなら、わたしたちもまた、友人や知人に、殉教祭で感じたことを伝えるべきです。

もっと言えば、わたしたちも西玄可とその家族に倣って「最後の授業」ができる準備を整えておくべきです。わたしたちが生きる気力に満ち満ちているときに、現役バリバリの時に、人生の終わりなどこれっぽっちも考えない時に、「最後の授業」を用意しておくべきなのです。「これ以上はできない」という最高の授業を、いつどこでも、だれにでもできるように、心の準備をしておきましょう。

「最後の授業」のテーマは自由です。与えられた福音朗読では、十人の乙女たちが「ともし火」を消さないように注意を怠りません。「ともし火」は、聖霊だと考えてみました。聖霊がわたしたちに与えられ、その大切さは十人とも理解できたのです。愚かな乙女さえも、「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです」(25・8)と言ったのです。

賢い五人は聖霊の火をともしつづける「油」を持っていました。「油」とは何でしょうか。それは、常日頃から準備しておく「最後の授業」「わたしなりの信仰の表し方」です。この油があって初めて、わたしたちは「聖霊の火」を人々にともし続けることができるのです。

わたしは釣りが大好きで、一週間に八日間出かけたいくらい好きです。わたしの釣り場は、水深40mから50mのところです。そこでキジハタやタイを狙っていますが、40m先の、ほんのちょっとの変化を見逃さないことが釣果を左右します。

人間の世界では40m程度ですが、神さまは人間を救うために、神さまに背を向けて離れてしまっている人間の、ちょっとした変化に神経を研ぎ澄ましています。果てしなく遠ざかっている罪びとが、一度だけ神さまに向き直った。それを神さまは決して見逃しません。その人が心を入れ替える「一生に一度のチャンス」を見逃さないのです。

これで、趣味の釣りを題材に「最後の授業」ができました。いかがですか?あなたの身の回りで起こっていることを話題にして結構です。いつチャンスが巡ってきてもよいように、あなたがどのように神さまを信じているのか、だれにでも話せる準備をしておいてください。

あなたにとっての「一世一代の授業」は、今日やってくるかもしれませんし、三年後かもしれません。西玄可とその家族は、いつでもその準備ができていました。わたしたちも、神さまをどのように信じているかを、自分の言葉で話せるように準備を整えておきましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第33主日
(マタイ25:14-15,19-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼非常に意義深い上五島巡礼だった。鉄川與助の建てた教会を巡る旅でもあった。七ヶ月に迫った献堂百周年記念をどのように迎えればよいかという学びでもあった。人の温かさや人間関係を大切にする学びの日々でもあった。さまざまな学びを得て帰った。
▼いろんな百周年(小教区設立、献堂)を迎えた教会に、これから連絡を取って、何か参考になるものがあれば取り入れたいと思う。規模で言えば、青砂ヶ浦教会の(献堂?)百周年が参考になるだろう。
▼お世話になった旅館が、教会巡りのためにマイクロバスを出してくれた。付きっきりで面倒を見てくれた。お金を払ってレンタカーを考えていたけれども、「水くさいぞ」と親戚でもある旅館の経営者が車の提供と案内をかって出てくれた。つながりは大切だ。
▼メインイベントの銀祝ミサでは、とんでもないハプニングが起こった。いつもこうして原稿は出来上がっているわけだが、今回ミサの直前に説教のプリントを確認したら、三分の二くらいのところで「続きはあとで書く」と書かれたまま中断しているプリントだった。
▼真っ青になった。おそらく二ヶ月前に準備し始めたので、その時に書きかけたままの説教を完成原稿と思い込んで持って行ったのだろう。身の回りに何かないかと思ったら、すでにブログも出していたので、iPhoneを見ながら説教は何とかこなした。
▼それ以前に目の前が真っ暗になったのは、ICレコーダーを準備してなかったことだ。このメルマガと同時に、録音説教(ミサ全体を含む)もアップするのだが、今回は何も録音できなかった。
▼よく考えれば、iPhoneもあったし、誰かのレコーダーを借りることは不可能ではなかったと思うが、前晩に訪ねた教会の神父様にはお願いするのを忘れたし、当日は説教原稿がなかったのでiPhoneは塞がってしまった。
▼実を言うと、タブレット端末があったので、録音をしたつもりで銀祝ミサはささげたのだが、使用したアプリの制約で、録音時間は最大5分だったようだ。歌の練習のころに録音が始まり、ミサの開祭のころには録音は終わっていた。あとで確認して、笑うしかなかった。

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今週の1枚
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第519回目。大曾教会にて。この教会も鉄川與助の手掛けた町文化財の教会。

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年間第31主日(マタイ23:1-12)まったく違うところで、願うものを探しなさい

2017-11-04 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2017/11/5(No.911)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第31主日
(マタイ23:1-12)
まったく違うところで、願うものを探しなさい
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典礼の年間の季節も押し迫ってくる第31主日に、鯛之浦教会へお招きいただいて銀祝の記念ミサをささげることができました。感謝申し上げます。ひょっとしたら25周年を迎えられるかもしれないとは思っていましたが、まだ遠い先の話と高を括っておりましたらその日はあっという間に来ました。これからという神父様方にはくれぐれも、遠い話ではないということを念押ししておきたいと思います。

さて今日皆さんにお伝えしたいことは、「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕えるものになりなさい」(23・11)ということです。わたしたちの一般常識で、いちばん偉い人はどこにいるのでしょうか。いちばん偉い人は、椅子に座っているかもしれません。「社長の椅子」「総理大臣の椅子」などです。成績がいちばんの人を昔は「首席」と言っていました。これも椅子みたいなものです。だいたいは、いちばん偉い人は椅子に座っているようです。

ではイエス様が示した「いちばん偉い人」はどこにいるのでしょうか。その人は「仕えるもの」の中にいると言います。誰かに仕える人は、椅子になんか座っている暇はありません。汗を流し、せっせと働いているはずです。イエス様が示す「いちばん偉い人」は、一般常識に当てはまりません。

これを簡単に言うと、イエス様が示す「いちばん偉い人」は、「常識とまったく違うところで探さなければならない」ということです。お金持ち、人並みの生活、有名人、なりたい職業のトップ10、こんな常識とはまったく違う場所を探さなければ、イエス様が言う「いちばん偉い人」にはなれないのです。

最近韓国語を勉強しています。ある文法規則を「実に面白い」と思いました。故郷のおじいちゃんおばあちゃんが昔言っていた言葉を、韓国語の文法表現の中に見つけたのです。わたしのおじいちゃんおばあちゃんは、「うわ~」と言いたいときに「あよ~」と言っていました。「そう、その通り」と言いたいときに、「およ~」と言っていました。けれども、おじいちゃんおばあちゃんが使っていた「あよ~」「およ~」という言葉、今は誰も使っていません。せいぜい、「そんな言葉使っていたなぁ、懐かしいなぁ」くらいです。

ところが。韓国ではおじいちゃんおばあちゃんどころか、最先端の若い人たちも「あよ~」「およ~」と言っていることを発見したのです。例を挙げると、「良い」を韓国語で「チョッタ」と言いますが、日常会話では「チョアヨ」と言います。「美味しい」は「マシッタ」ですが、実際の会話では「マシッソヨ」と言います。五月の連休に韓国一人旅をしてきましたが、今どきの若者たちが「アヨ」「オヨ」「アヨ」「オヨ」と繰り返していたのに唖然としたのです。その光景にわたしは思わず「あよ~」と言いました。

もちろん使い方には違いがあります。けれども「アヨ」「オヨ」活用を反復練習しているうち、幼い頃のおじいちゃんおばあちゃんと結びつき、何十年もあとにまったく違う場面で再会して、あーこれは11月5日に使える!と直感したのです。そこまで閃いたので、おかしかったのです。

もはや「死語」とも言える「あよ~」「およ~」に、まったく違う場所で再会した。これは、わたしたちの人生にも当てはまるのではないでしょうか。ここにいる子供たち、若い人たちがもし「いちばん偉い人」を目指しているとしたら、一般常識の中ではおそらくたどり着けないでしょう。

「社長の椅子」「総理大臣の椅子」「首席」またはお金持ち、人並みの生活、有名人、なりたい職業のトップ10など。ほとんど当てが外れて、悲しい思いをすると思います。わたしはそんな思いを皆さんにしてほしくないのです。

むしろ、まったく違う場所に、目指している「いちばん偉い人」はあるのです。想像したこともない、まったく違う場所で探すときにはじめて、あなたが求めていた「いちばん偉い人」を見つけると思います。もうすぐ話は終わりに近づきますが、ここにいる皆さんが、考えたこともない、想像もつかない、まったく違う場所とはどこでしょうか。最後にその場所を示して終わりたいと思います。

鯛之浦教会に集まっている皆さんは、もうすでに見ています。中田神父が立つこの祭壇です。誰も思いつかなかったでしょう。だれもが思いつきそうな場所では、イエスが言う「いちばん偉い人」にはなれません。むしろまったく予想しない場所、ミサをささげているこの祭壇がその答えです。ここに立つためには何が必要でしょうか。そうです。「司祭になる」ということです。ここに、イエスが招く「いちばん偉い人」の椅子があります。

これからの時代、よくできたロボットが作り出されて、ほとんどの仕事がロボットの仕事になるでしょう。今まで目指していた「いちばん偉い人」はほとんどロボットに取られてしまうでしょう。でも大丈夫。ロボットにはミサをささげることができません。動作は完ぺきに身につけるかもしれない。けれども教会はロボットに資格を与えないのです。

医者は手術をします。しかし将来ロボットが、医者よりも正確に手術ができるようになるでしょう。すると医者でさえもロボットの仕事になると思います。国は、ロボットに手術を許可する時代が来るでしょう。そんな時代がやってきても大丈夫、教会はロボットにミサをささげることを許可しません。

考えもしなかった場所に、「いちばん偉い人」の姿があります。この祭壇はその一つです。この祭壇を含め、「司祭職を生きること」ここならイエスが教える「いちばん偉い人」を見つけることができます。わたしが次にあいさつするのは25年後です。その時にはここにいる人は誰もいません。したがってこれは皆さんへの「最後の授業」です。

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‥次の説教は‥‥
年間第32主日
(マタイ25:1-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼メチャメチャうれしい出来事があった。お父さんたちの月例の集まり「木曜会」で、前日に行われた葬儀ミサについて感想を述べている場面での一コマ。この葬儀で送られていくおじいちゃんの孫にあたる若い司祭がわたしと一緒に葬儀ミサをささげてくださり、説教と告別式を引き受けてくれていた。
▼木曜会の参加者たちが「初めて見る参列者の数だった」とか「盛大な葬儀だった」という声のほかに、「孫にあたる2年目の神父さんに比べ、主任司祭は落ち着きも風格も違ったね。」「そりゃそうだろうよ。25年も司祭の務めを果たしてきたわけだから。」涙が出るほど嬉しいじゃありませんか。
▼やはり司祭を育てるのは信徒だとつくづく思った。このお父さんたちに納得してもらうような説教をするところまで来るのに、25年も育ててもらっていたわけだ。加えて言えば、「褒めて育てよ」ということか。
▼25年前のことを思い出す。主任司祭の説教は易しい言葉しか使われていない説教で、「簡単な説教をするなぁ」と思っていたが、あの易しい言葉に説教を落とし込むためには、長い経験に裏打ちされていなければならなかったのだと。
▼一生懸命説教しても、届いているのはごくわずかだ。力の抜けた、見た目には雑談でもしているような話し方の説教でなければ、信徒の心の底まで落ちていくことはないのだと25年たってみてつくづく思うのである。

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今週の1枚
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第518回目。チャンスがあれば、鯛之浦教会銀祝ミサ祝賀会の様子。ないかも。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

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ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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† 神に感謝 †
コメント (2)
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