当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。
同時配信「有料版」を購読してくださった読者様にも感謝申し上げます。
(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/171126.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2017/11/26(No.914)
‥‥‥†‥‥‥‥
王であるキリスト
(マタイ25:31-46)
イエスが見ている方向を見る生き方
‥‥‥†‥‥‥‥
年間最後の主日「王であるキリスト」がやってきました。わたしたちが復活の主を迎えて、年間を通して導かれてきた、この一年を振り返ってみましょう。
親孝行のために旅行に行くことにしました。5月28日、田平小教区での銀祝の祝い金をいただく際、「お願いがあります。これでお母様を温泉に連れて行ってください」と言われました。遅ればせながら、12月13日から15日の2泊3日で、母親が興味関心を持っている場所に連れて行こうと思います。
あまり詳しくは言えませんが、母親はある映画スターのクッションを持っています。関連グッズも持っているくらいですから、相当好きなのでしょう。その希望を叶えようと旅行を計画したのです。ただ、もう少し早く出かけるべきだったかなぁと思っています。
なんと言っても真冬ですからねぇ。映画のワンシーンは体験できるかもしれませんが、帰りに風邪をひかせては元も子もありません。それだけはわたしも反省しております。とにかく、12月半ばの旅行に支障のないよう、祈りは忘れても息だけはしてお過ごしください。
王であるキリストの祭日に与えられた福音朗読は、「すべての民族を裁く」という箇所でした。キリストはすべての人を前に、ご自分とどのようなかかわりを持って生きてきたかを問いかけます。わたしたちに、「わたしと同じ方向を向いていたか否か」を問い、同じ方向を向いて生きてきた人には報いがあり、キリストに背を向け、目を背けて生きてきた人には厳しい裁きを下します。
キリストと同じ方向を向いて生きてきたかを見分けることは容易です。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」(25・35-36)
弱く、貧しい人たちを見捨てない生き方が、キリストと同じ方向を向いた生き方です。反対に社会的弱者に背を向け、目を背けるならば、キリストの前に立つその日は厳しい結果が待ち受けていることになります。
たとえに書かれているような、食べ物を差し出したり飲ませたり、宿を貸したり服を与えたり、病人を見舞ったり牢にいる人を訪ねるなど、直接的な働きかけもそうですが、そのような弱い立場にある人のほうを見て生活をしてきたかがいちばん問われます。
その意味では過去に何度か取り上げたかもしれませんが、高校を卒業して福岡の大神学院に行くまでの期間に体験した、小長井の障がい者施設での体験は、わたしの中で痛みを伴う体験となっています。
当時わたしは高校を卒業したばかりでしたが、従妹のいる聖母の騎士修道女会経営の障がい者施設でボランティアに来ないかと誘われました。行ってはみたものの、障がい者との交流にわたしは心を閉ざしていたのです。手の先が肩に直接くっついている人、足先がすぐ腰につながっている人などに声をかけたり近寄ったりするときに、まったく心が開けなかったのです。最も弱い立場にある人を、わたしは目を背けてお世話して、「頑張ってお世話した」と思っていたのです。
本当に恥ずかしいことですが、当時のわたしは目の前にいる入所者の方に心を開けませんでした。けれども今振り返ると、わたしが目を背けていた理由もまったく理由にならない理由です。懸命に生きている入所者に、もう一度会って力が足りなかったことを謝りたいくらいです。
イエスの模範を理解するには、当時のわたしは幼すぎたと思います。イエスはいつも、弱く、貧しい人たち、社会的に不利に扱われている人たちのことを自分のことのように思っているかたでした。わたしは今現在、命の危険にある病人のもとを訪ねるとき、自分のことのように思える人になってきました。時間はかかりましたが、ようやく、イエスが目を向けているのと同じ方向を、自分も向くことができるようになったのです。
王であるキリストが目を留めるその同じ方向に目を留める人が、王であるキリストの民であるはずです。人間の社会は競争に明け暮れ、蹴落としたり蹴落とされたりして針の先のような頂点を目指し、その頂点に立っても安らかな気持ちにはなれず、常に緊張した状態に置かれています。
それだけの犠牲を払って頂点に立ち、いざキリストの前に来た時「あなたはなぜわたしと同じ方向を向いてこなかったのか」と言われるなら、人生で払って手に入れた身分や財産など、どれほどのものでしょう。置かれた境遇はそれぞれであっても、イエスと同じ方向を向いて、弱い立場にある人に手を差し伸べる人生を考えるべきです。
わたしも、自分の置かれた場所からイエスと同じ方向に向き直るために遠回りをしてしまいました。けれども、今は違います。不完全ではあっても、イエスと同じ向きを向いて歩く意味と価値を理解しています。
一日に何度も電話がかかり、何度となく玄関のチャイムで自分の用事を中断させられる日もあり、苛立ちを覚えることもありますが、それでも自分がなにがしかの価値ある仕事ができるのはイエスと同じ向きを向いて奉仕しているとき、その時だけなのです。
ついこの前の晩も、中学生のけいこが終わって背伸びをしようとしたら電話が鳴り、青洲会病院に病者の塗油を授けに行きました。車に乗るとき、「これがわたしの生き方なのだ」と自分に言い聞かせ、よい働きができたことを病院からの帰りに神に感謝したのです。
どうか皆さんも、イエスが今週のたとえで示した「弱い立場にある人に目を向けて生きる人生」を選んでほしいと思います。イエスがみている方向を見る人でなければ、結局イエスを信じていてもイエスと同じ喜びや慰めを得ることはできないと思います。「わたしの父に祝福された人たち」は、どんな境遇に置かれた人にも開かれた生き方なのです。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
待降節第1主日
(マルコ13:33-37)
‥‥‥†‥‥‥‥
‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥
▼人と出会うということは、長く付き合うこともあるということでもある。長く付き合うことになるとは思わなかった人と、長く長く付き合うことは不思議な縁、不思議な摂理ではないだろうか。浦上時代から長くかかわってくださっている大恩人がいるが、今回は違う恩人のことをそっと触れてみる。
▼その人は意外なことに信仰の面ではあまり付き合いはない。と言ってもミサを依頼されたりは普通にあるわけだが、信仰の面で手を差し伸べたり教えられたりというかかわりではなかった。なにしろわたしもびっくりする信心深い人で、わたしが何かアドバイスするような人ではなかったからだ。
▼だからわたしも、信仰の面で力になれることはないのかなと思っていた。ところがチャンスが回ってきたので、ここでお世話してあげなければいつ力になれるか?と考えている。わたしたちは長い付き合いの中で、誰にも言えないことを司祭に打ち明けてもらったりする。
▼家族にも言えないことすら、司祭は知る立場にある。そういう場所に立たせてもらっていることを神に感謝したい。わたしの社会的な力などたかが知れている。だが信仰面では、かかわった人を救うお手伝いすらできる。
▼このすばらしさをどうやったら子供たちに伝えられるのか。子供たちの中に興味を示してくれる人がいれば、喜んでずっと支えてあげたいのに。
‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第521回目。九州場所三日目。言わずと知れた横綱の休場した日。でも観戦最高。
ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
同時配信「有料版」を購読してくださった読者様にも感謝申し上げます。
(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/171126.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2017/11/26(No.914)
‥‥‥†‥‥‥‥
王であるキリスト
(マタイ25:31-46)
イエスが見ている方向を見る生き方
‥‥‥†‥‥‥‥
年間最後の主日「王であるキリスト」がやってきました。わたしたちが復活の主を迎えて、年間を通して導かれてきた、この一年を振り返ってみましょう。
親孝行のために旅行に行くことにしました。5月28日、田平小教区での銀祝の祝い金をいただく際、「お願いがあります。これでお母様を温泉に連れて行ってください」と言われました。遅ればせながら、12月13日から15日の2泊3日で、母親が興味関心を持っている場所に連れて行こうと思います。
あまり詳しくは言えませんが、母親はある映画スターのクッションを持っています。関連グッズも持っているくらいですから、相当好きなのでしょう。その希望を叶えようと旅行を計画したのです。ただ、もう少し早く出かけるべきだったかなぁと思っています。
なんと言っても真冬ですからねぇ。映画のワンシーンは体験できるかもしれませんが、帰りに風邪をひかせては元も子もありません。それだけはわたしも反省しております。とにかく、12月半ばの旅行に支障のないよう、祈りは忘れても息だけはしてお過ごしください。
王であるキリストの祭日に与えられた福音朗読は、「すべての民族を裁く」という箇所でした。キリストはすべての人を前に、ご自分とどのようなかかわりを持って生きてきたかを問いかけます。わたしたちに、「わたしと同じ方向を向いていたか否か」を問い、同じ方向を向いて生きてきた人には報いがあり、キリストに背を向け、目を背けて生きてきた人には厳しい裁きを下します。
キリストと同じ方向を向いて生きてきたかを見分けることは容易です。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」(25・35-36)
弱く、貧しい人たちを見捨てない生き方が、キリストと同じ方向を向いた生き方です。反対に社会的弱者に背を向け、目を背けるならば、キリストの前に立つその日は厳しい結果が待ち受けていることになります。
たとえに書かれているような、食べ物を差し出したり飲ませたり、宿を貸したり服を与えたり、病人を見舞ったり牢にいる人を訪ねるなど、直接的な働きかけもそうですが、そのような弱い立場にある人のほうを見て生活をしてきたかがいちばん問われます。
その意味では過去に何度か取り上げたかもしれませんが、高校を卒業して福岡の大神学院に行くまでの期間に体験した、小長井の障がい者施設での体験は、わたしの中で痛みを伴う体験となっています。
当時わたしは高校を卒業したばかりでしたが、従妹のいる聖母の騎士修道女会経営の障がい者施設でボランティアに来ないかと誘われました。行ってはみたものの、障がい者との交流にわたしは心を閉ざしていたのです。手の先が肩に直接くっついている人、足先がすぐ腰につながっている人などに声をかけたり近寄ったりするときに、まったく心が開けなかったのです。最も弱い立場にある人を、わたしは目を背けてお世話して、「頑張ってお世話した」と思っていたのです。
本当に恥ずかしいことですが、当時のわたしは目の前にいる入所者の方に心を開けませんでした。けれども今振り返ると、わたしが目を背けていた理由もまったく理由にならない理由です。懸命に生きている入所者に、もう一度会って力が足りなかったことを謝りたいくらいです。
イエスの模範を理解するには、当時のわたしは幼すぎたと思います。イエスはいつも、弱く、貧しい人たち、社会的に不利に扱われている人たちのことを自分のことのように思っているかたでした。わたしは今現在、命の危険にある病人のもとを訪ねるとき、自分のことのように思える人になってきました。時間はかかりましたが、ようやく、イエスが目を向けているのと同じ方向を、自分も向くことができるようになったのです。
王であるキリストが目を留めるその同じ方向に目を留める人が、王であるキリストの民であるはずです。人間の社会は競争に明け暮れ、蹴落としたり蹴落とされたりして針の先のような頂点を目指し、その頂点に立っても安らかな気持ちにはなれず、常に緊張した状態に置かれています。
それだけの犠牲を払って頂点に立ち、いざキリストの前に来た時「あなたはなぜわたしと同じ方向を向いてこなかったのか」と言われるなら、人生で払って手に入れた身分や財産など、どれほどのものでしょう。置かれた境遇はそれぞれであっても、イエスと同じ方向を向いて、弱い立場にある人に手を差し伸べる人生を考えるべきです。
わたしも、自分の置かれた場所からイエスと同じ方向に向き直るために遠回りをしてしまいました。けれども、今は違います。不完全ではあっても、イエスと同じ向きを向いて歩く意味と価値を理解しています。
一日に何度も電話がかかり、何度となく玄関のチャイムで自分の用事を中断させられる日もあり、苛立ちを覚えることもありますが、それでも自分がなにがしかの価値ある仕事ができるのはイエスと同じ向きを向いて奉仕しているとき、その時だけなのです。
ついこの前の晩も、中学生のけいこが終わって背伸びをしようとしたら電話が鳴り、青洲会病院に病者の塗油を授けに行きました。車に乗るとき、「これがわたしの生き方なのだ」と自分に言い聞かせ、よい働きができたことを病院からの帰りに神に感謝したのです。
どうか皆さんも、イエスが今週のたとえで示した「弱い立場にある人に目を向けて生きる人生」を選んでほしいと思います。イエスがみている方向を見る人でなければ、結局イエスを信じていてもイエスと同じ喜びや慰めを得ることはできないと思います。「わたしの父に祝福された人たち」は、どんな境遇に置かれた人にも開かれた生き方なのです。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
待降節第1主日
(マルコ13:33-37)
‥‥‥†‥‥‥‥
‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥
▼人と出会うということは、長く付き合うこともあるということでもある。長く付き合うことになるとは思わなかった人と、長く長く付き合うことは不思議な縁、不思議な摂理ではないだろうか。浦上時代から長くかかわってくださっている大恩人がいるが、今回は違う恩人のことをそっと触れてみる。
▼その人は意外なことに信仰の面ではあまり付き合いはない。と言ってもミサを依頼されたりは普通にあるわけだが、信仰の面で手を差し伸べたり教えられたりというかかわりではなかった。なにしろわたしもびっくりする信心深い人で、わたしが何かアドバイスするような人ではなかったからだ。
▼だからわたしも、信仰の面で力になれることはないのかなと思っていた。ところがチャンスが回ってきたので、ここでお世話してあげなければいつ力になれるか?と考えている。わたしたちは長い付き合いの中で、誰にも言えないことを司祭に打ち明けてもらったりする。
▼家族にも言えないことすら、司祭は知る立場にある。そういう場所に立たせてもらっていることを神に感謝したい。わたしの社会的な力などたかが知れている。だが信仰面では、かかわった人を救うお手伝いすらできる。
▼このすばらしさをどうやったら子供たちに伝えられるのか。子供たちの中に興味を示してくれる人がいれば、喜んでずっと支えてあげたいのに。
‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第521回目。九州場所三日目。言わずと知れた横綱の休場した日。でも観戦最高。
ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †