こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

四旬節第3主日(ヨハネ4:5-42)主よ、その水をください

2011-03-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
11/03/27(No.524)
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四旬節第3主日(ヨハネ4:5-42)主よ、その水をください
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3月25日日本時間の夜8時、バチカンでは25日の正午ですが、教皇ベネディクト16世は、高松教区と大分教区の新しい司教さまを発表なさいました。高松教区には、大阪大司教区の諏訪榮次郎師が、大分教区には長崎大司教区の浜口末雄師が選ばれました。本当に喜ばしいことだと思います。

長崎大司教区から選ばれた浜口末雄師とは、大曽教会時代に、神学生としてお手伝いをさせてもらったことがあります。小学生の黙想会の手伝いでした。わたしの指導力が足りなかったために、もっとしっかり準備をして子どもを指導しなさいと、あの時は叱られたような覚えがあります。

浜口末雄師は、長崎のカトリック神学院の院長や、高松教区に派遣司祭として出向いて、高松教区事務局長の重責を担いました。それらの働きが、教皇さまの目に留まったのだと思います。ふだんはつまようじをはさんでいる木枯らし紋次郎のような風貌なのですが、司教に選ばれましたと、中央協議会のホームページに掲載された写真は、つまようじをはさんでいませんで、りりしい恰好で写っていました。

わたしは、浜口師が非常に勉強熱心な方であることを知っています。絶対に表には見せませんが、上五島での聖書講座などで準備に費やした時間は、講座に与かっているだけでは分からないくらいのものすごい量でした。ある時は、外国語の参考資料をていねいに読みこんでいるのを見たこともあります。そう考えてみると、なるべくして司教さまになったのかなぁと納得しております。

さて、今週の福音朗読は、「イエスとサマリアの女」という物語です。イエスに少しずつ導かれて、サマリアの婦人はイエスを信じるようになります。そして、サマリアの婦人は町に戻って、人々にイエスのことを告げ知らせ、多くの人もイエスを信じるようになるという物語です。途中、弟子たちと「生きた水」についての対話もあります。

わたしが注目したのは、サマリアの婦人が、イエスにたくさんの質問をぶつけて、その疑問に答えを求めるのですが、その中に、1つだけ、質問をぶつけるのではなくイエスに請い求める部分があります。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(4・15)という部分です。

さまざまに質問をぶつけているとき、サマリアの婦人にはまだ心の中に警戒心があったと思います。けれども、「主よ、その水をください」と言った時には、もはやイエスを警戒する気持ちではなくなっていたはずです。この人だったら、すべて心を開いて自分の願いを受け止めてくださる。そして、この水汲みの苦労から解放してもらえる。そう思ったのかもしれません。

当時の水汲みは重労働でした。何十リットルもの水を、井戸のある場所まで歩いて行って、持ち帰る必要があったのです。彼女が水汲みに来たのは、正午ごろと書かれています。普通は、朝早くか、日が傾いてからの労働のはずですが、彼女は人目を避けるように、最も日が高く上っている時間帯にやってきたのです。ですから、彼女の願いは切実だったでしょう。

次第に彼女は、飲み水のことを言っているのではないということに気づいていきます。飲み水は、どれだけ飲んでもいつかは乾きます。そうではなく、彼女の中で求めていた別の渇きを、イエスが満たしてくださるという理解に、導かれていったのです。

「その水をください。」そう言ったときは、まだ飲み水のことを考えていたでしょう。ある意味で、まだ十分理解していないときに声を上げたので、正しい答えに導かれていったのかもしれません。このサマリアの婦人の態度は、わたしたちも学ぶ必要があります。わたしたちも、分かってから求めるのではなく、まだ分からないながらも、真剣に願い求めるなら、いつか正しい答えに導かれていくのではないでしょうか。

中田神父も、いつも週末になると考えます。「主よ、説教で苦しむことのないように、また、週末になって毎度毎度頭を悩ませなくてもよいように、これで完璧という説教をわたしにください。」けれども、その願いはいつも当てが外れます。1度準備したら何回使っても飽きのこない説教など、どこにもないのです。そして、わたしがイエスに求めるべきものも、そういう類のものではないのだと思います。

そうして、「主よ、今週も何でもいいですから、説教をわたしに与えてください」と願い続けるうちに、何か、信者の皆さんの心の奥の渇きに潤いを与える水が与えられるのだと思います。「主よ、その水をください。」この願いが、わたしたちの心の渇きを潤す突破口なのだと思います。

いつまで大分教区は司教さまが与えられないのだろうか。そんなことを心の中で呟いていましたが、神さまは必ず、わたしたちの心の渇きをいやす水を与えてくれるのだと今回知りました。わたしたちが目の前の水ではなく、心の渇きを満たす水こそ大事なのだと徹底的に教えてくださり、それからイエスは命の水を与えてくださるのだと思います。命の水を今週も与えてくださるイエスに、感謝してこのミサを続けてまいりましょう。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第4主日
(ヨハネ9:1-41)
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ちょっとひとやすみ
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▼豪快な神父さまだった。一面では慎重な面もあったのだと思うが、わたしにとっては大分の司教さまになる浜口神父さまは豪快な人だった。大曽教会時代には学生だったわたしたちとよく休暇中にテニスをして楽しんだ。
▼楽しむというのは思い出だからそう言うのであって、テニスコートを開放する午後10時から、コートをナイター利用者に明け渡す夜7時まで、昼食をはさんでぶっ通しでテニスの相手をした(させられた)。ここにもう1人司祭が絡んでいるが、それは浜串小教区の当時の主任司祭である。
▼2人とも、神学生のわたしや後輩O神学生、H神学生に比べれば「おじさん」なのだが、体力、技術とも、全く歯が立たない。それほどエネルギッシュな先輩だった。テニスのほかにも、マラソンもこなし、過去にはホノルルマラソンにも出場経験がある。
▼どのように説得したのか、浜口師は溝部司教さまに口説かれて高松教区派遣司祭として働きに行かれた。活躍ぶりは風の便りに聞こえていたが、もしかしたら高松教区の後継者として高松教区は招いていたのかもしれない。あくまで想像。
▼大分教区は、近い先輩後輩司祭がいて、親しみを感じる。宮原司教さまが叙階された時も、大分に出向いた。今回も、はりきって叙階の様子を見届けに行こうと思う。木枯らし紋次郎・・・いや、浜口末雄師のこれからの大分での活躍を、心からお祈りしたい。

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新企画今週の1枚
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第131回目。予定。浜串小教区から転任するお告げのマリアのシスターの様子。
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四旬節第2主日(マタイ17:1-9)今は、光り輝く姿の意味を熟考する

2011-03-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
11/03/20(No.523)
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四旬節第2主日
(マタイ17:1-9)
今は、光り輝く姿の意味を熟考する
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ガックリ疲れています。黙想会を4日連続でこなしましたが、ずっとずっと話し続けるとやはり疲れます。来年は、ぜひ説教師の神父さまをお呼びして、黙想指導をしてもらおうと思います。

今日の福音朗読は、考えるヒントがあります。それは、「最初の言葉」です。皆さんが手元に持っている「聖書と典礼」では、ミサの朗読箇所として使うために、新約聖書に書かれているはずの「最初の言葉」を省略して、「その時」という言葉に置き換えられてしまっています。これでは「最初の言葉」が何なのかわかりません。

今手元に新約聖書を用意していますが、この新約聖書の今週の朗読箇所に当たる部分をそのまま読むと、「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」(17・1)となっています。つまり、わたしが言う「最初の言葉」というのは、「六日の後」という言葉なのです。

「『六日の後』という言葉が一体どうしたのだ」と思うかもしれません。これは、六日前に何かがあったのだということ、そして、六日前にあったことと重ね合わせて、今日のことを考えなさいという合図です。そこでわたしたちもていねいに、六日前に起こったことからさかのぼって考えてみることにしましょう。

六日前に起こったこと、それは2つの出来事です。1つは、ペトロがイエスへの信仰を言い表すという出来事、もう1つは、イエスが、弟子たちにご自分の死と復活、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっているということを打ち明ける出来事でした。

「六日の後」で考えるべきことがもう1つありました。それは、「六日前の出来事と重ね合わせて、今日の出来事はどういう意味があるのか」ということです。そのために、六日前の出来事をよく考える必要があります。

ペトロは、立派に信仰を言い表しました。イエスさまからも立派な答えであると認めてもらいました。ただ、イエスが「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(16・17)と言っておられるのに、ペトロは言い表した信仰が自力で言い表したものだと思っていたかもしれません。

その証拠に、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16・16)と答えたにもかかわらず、イエスがご自分の死と復活を予告すると、言い表した信仰に自信が持てず、動揺してイエスをわきへお連れしていさめたのでした。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(16・22)

こういう出来事があって、今日の「イエスの姿が変わる」という場面につながっていくのです。イエスは、立派に信仰を言い表したペトロでさえ、自分の信仰が揺らいでしまったのを見て、復活につながる姿を弟子たちに示して、彼らを勇気づけようとされたのではないでしょうか。

復活につながるような、輝く姿は、弟子たちに大きな希望を持たせたでしょう。この方は、やはり「メシア、生ける神の子」なのだ、そういう実感を持ったことでしょう。そこへ、光り輝く雲が彼らを覆い、声が聞こえます。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(17・5)

「イエスに聞け」と声は命じました。たとえペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と立派な信仰告白をしたとしても、それをあたかも自分の力で言うことができたと思い違いをしないために、「イエスに聞く」必要があるのです。わたしたちがいちばん苦手な、「よく聞く」ことが、この場面で必要なのです。

本心は、有頂天になって人々に言いふらしたいところです。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(17・4)と言っているように、人々にその輝く姿を見せびらかしたいところです。ですが、弟子たちに求められるのは「イエスに聞く」ということでした。

わたしたちは黙想会で、「声」として生活の中で証しすることを考えてみましょうという学びを得ました。わたしたちが「声」になるためには、やはり声の持ち主にどんな声であってほしいか、何を語ってほしいか、「聞く」必要があるのではないでしょうか。

イエスは、この物語の中でわたしたちにどういう態度を取ってほしいか、語っています。「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」(17・9)これから復活のその時まで、わたしたちには聞くことに専念してほしいのでしょう。しっかり聞いて、すべてを噛みくだいて、復活の喜びが来たら、わたしたちにも語ることを期待しているに違いありません。

イエスの光輝く姿、復活の姿が何なのか、わたしたちもこれからじっくり考えましょう。ご復活の喜びの時に、答えが見つかったなら、その時は大胆に証しをしましょう。わたしたちが熟考して見つかった答えは、復活のその時からきっと証しの力になるはずです。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日
(ヨハネ4:5-42)
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ちょっとひとやすみ
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▼黙想会の説教は疲れた。ヘトヘトになった。最終日の夜、ベッドにドサッと落ちた。うーん、しばしば黙想指導をするような人たちは、一体どんな工夫をしているのだろうか。これは、釣りにでも行かなければエネルギーのゲージは上がらないと思った。
▼最近、喜ばしいことがあった。関わっている「声の奉仕会マリア文庫」(目の不自由な人のためのボランティア団体)のもとで録音図書を利用している利用者の方から、電話がかかって来たのだ。電話のきっかけは、「横断歩道の信号機認識のために鳴っている音は、どんな意味があるのでしょう」という投げかけを毎月収録を求められている録音メッセージに込めたことだった。
▼教えてもらったことは、横断歩道が一直線のものなのか、交差している横断歩道なのか、そういうことを耳で聞きわけるための工夫が施してあるのだという。長崎市内には、交差している横断歩道もあるので、今度目を閉じて立ち、確かめてみたい。
▼また歩道に敷き詰められている点字の案内板は、丸いぶつぶつのものと、短い線を組み込んだものがあって、丸いブツブツでいったん止まることになっているという。教えてもらってなるほどと思うことがたくさんあった。
▼震災から1週間。未曾有の大惨事に言葉もない。今報道は、「自分たちに今できること」ということに力を入れているようだ。いちばん適切な方法で、被災した方々の心に寄り添ってあげたい。「頑張れ」ではなく、「一緒にいるよ」と、声をかけたい。

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新企画今週の1枚
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第130回目。嵐の中の聖母。大津波も、こんな感じだったかもしれません。
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四旬節第1主日(マタイ4:1-11)イエスに従うときわたしの物語が始まる

2011-03-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
11/03/13(No.522)
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四旬節第1主日
(マタイ4:1-11)
イエスに従うときわたしの物語が始まる
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四旬節を迎えました。イエスの死と復活を準備するための大切な日々です。有意義に過ごしたいと思います。

一つ、豆知識を提供したいと思います。知らないでいるのと、知っているのとではやはり明らかな違いが出てきますので、ぜひ知っておいてほしいのです。

「四旬節」という言葉は、「40日の期間」という意味です。灰の水曜日から、御復活の前日まで、確かに40日なのか、その豆知識です。四旬節は第5主日までと受難の主日(枝の主日)の6週、それに灰の水曜日から「水・木・金・土」(指を折って数える)の4日間あります。

すると、6週と4日間で、単純に計算すると7×6=42、それに4日加えて46日ということになります。では四旬節は、だいたい40日あるからそういう呼び方になったのでしょうか。

そうではありません。ここに、四旬節の独特の数え方があります。四旬節は、日曜日を数えないのです。日曜日は、いつでも「主の日」「復活を祝う日」として、日数から除外されるのです。すると、1週間をまるまる7日間で数えるのではなく6日間で数えることになりますから、6×6=36、それに灰の水曜日からの4日間を加えて、ぴったり40日間ということになります。「四旬節の40日とは、どう数えて40日か」という豆知識として、記憶しておいてください。

では福音朗読に入りましょう。イエスが、荒れ野で誘惑を受ける場面が選ばれています。この、荒れ野での誘惑の物語ですが、イエスさまがどんな誘惑を受けて、どのようにそれを退けたのか、そのことだけを学ぶために物語が選ばれているのでしょうか。わたしはそうは思いません。イエスの歩みを通して、受難と死と復活に至る歩みを、わたしたちにも身近なものとする。そういうことも、狙いとしてあるのではないでしょうか。

つまり、イエスが歩まれた道は、わたしたちの生活の中で、自分たちが歩んでいく道でもあるということです。たとえばそれは、イエスさまの誘惑を退ける姿から、わたしたちが生活の中で起こる誘惑を退けるヒントを見つけて、「わたしたちの四旬節物語」とすることも、狙いとしてあるのだと思っています。

ですから今年の四旬節と復活節は、救いを完成させるイエスの物語としてだけではなく、「わたしたちの物語」となるような工夫を、説教の中に盛り込んでみたいのです。イエスが、救いを完成させてくださったというだけではなく、イエスによって、確かにわたしは救われた、イエスによって確かにわたしの生活はすばらしいものに変えられた。そういう体験を、四旬節から復活節の間に積み上げることができたらと思っています。

では、福音の学びに入りましょう。3つの誘惑が描かれています。それぞれ、パンの誘惑、神を試みる誘惑、悪魔を礼拝する誘惑としておきます。パンの誘惑では、「パンを食べれば、あなたは生きていけるじゃないか」と誘惑しているのですが、イエスは、神の言葉を食べなければ、本当に生きていくことはできないと言って退けます。

ここで、わたしにとっての誘惑を退ける場面を考える必要があります。悪魔はわたしにこう言うのです。「祈りをしなくても、そして教会に行って罪のゆるしを受けたり、ミサの中で神の言葉に触れたり聖体を拝領したりしなくても、あなたは生きていけるじゃないか」と誘っているのです。

あなたはこれに、どう答えるのでしょうか。神との関わり、教会との関わりを1日食べなかったとしても、それは影響ないかもしれません。ですが、半年1年、あるいは5年10年15年食べずにいたら、神の与える恵みが長く補給されていない状態で、本当に生きていると言えるのでしょうか、ということです。

イエスは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4・4)と仰います。霊魂に語りかける、神の一つ一つの言葉で、わたしたちは生きるのです。いろんな時に心に響く声が、わたしたちを生かしてくださっているのです。

次に悪魔はイエスをエルサレム神殿の屋根の端に立たせてこう言います。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」(4・6)これも、わたしにとっての誘惑を退ける場面を考えることにしましょう。ある人は、祈りをする意味が分からないかもしれません。ミサに行く意味が、全く分からないかもしれません。悪魔はそこで、こう言うでしょう。「いっそのことこの信仰生活から飛び降りて、縁を切ってはどうか。」

わたしはこれにどう答えるのでしょうか。信仰生活から飛び降りても、怪我一つ負わなくて済むかもしれません。ですが、飛んだ場所に、自分で戻ることはほとんど不可能に近くなります。

イエスはこう答えています。「あなたの神である主を試してはならない。」(4・7)祈りの効果が感じられない日、ミサの恵みが感じられない日があるとしても、誠実に続けていくことは、いつか、誘惑を跳ね返す力になり、イエスの物語から「わたしの物語」を作り上げるのです。

最後の誘惑、悪魔を礼拝する誘惑は、イエスを、父なる神以外の何かにひれ伏すように仕向ける働きかけです。この場面を、わたしたちに当てはめると、どうしてもやめられない良くない習慣が、わたしたちにないでしょうか。

楽しみのためにお金を使うのも、生活を困らせるほどお金を使い込んでいるなら、やめられなくなっている証拠です。家庭で暴力をふるうことも問題になっていますが、やめられないという人も中にはいます。お金や、暴力、あるいは権力から離れられない状態は、わたしたちが信じる神以外のものを礼拝しているのと変わりません。

自分の言うことを聞かせようとお金や暴力や権力を振り回す人に、イエスは「退け、サタン。」(4・10)と喝を入れます。そこで目が覚めて我に返るなら、その時から、「わたしの回心物語」が始まるのです。

今日、イエスが体験した誘惑の場面を自分自身に当てはめ、「わたしの物語」を始めましょう。四旬節の福音朗読の中に「わたしの物語」を見つけることができるなら、わたしたちはイエスと共に、救いを完成させるエルサレムへの旅を続けることができます。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第2主日
(マタイ17:1-9)
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ちょっとひとやすみ
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▼いま、地震と津波で壊滅状態になっている街をヘリコプターで報道しているテレビにくぎ付けになっている。これが、本当に人々の住んでいる場所だったのだろうか。すっかり流されて、家の基礎だけが残った平野。すべてを奪い去った無人の場所。何をどう言葉にすればよいのかわからない。
▼中学生の時、長崎で1度、大きな地震に遭遇したことがある。まだ人々が活動を始める前のごく早い朝に、ドスンという音で下から突き上げる揺れを感じた。わたしたちも全員まだ寝ていたのだが、ワァワァ言いながら集まったのを覚えている。
▼もう1つ、長崎に住んでいる間に大きな火事にも遭遇した。神学校からすぐ見える場所が、火柱を上げて燃えた。地震と火事、別々のものだったが、今回の災害は地震と津波と火事が、同時にやって来たということだから、言葉を失ってしまう。
▼今回、災害の映像を見ながら、津波が集落を飲み込むその時に、火災が発生するのを初めて見た。水が押し寄せているのに、火災になるということを初めて知った。また、津波が去った後にも、あちこちで火の手が上がり、場所によっては火の海になっていた。
▼これでは助かる人も助からないのではないかと、心を痛め、何とか犠牲が大きくならないようにと祈るしかできなかった。13日(日)に予定していた子ども釣り大会は、相談の上で中止することにした。長崎県にも、津波警報が出ていて、この雰囲気で釣り大会は、控えるべきだとの結論に至ったからだ。
▼災害に遭われた方々のために、心から祈りをささげる。読者の皆さんにも、祈ってもらいたい。そして、もし読者の中に、災害に遭われた方がおられたら、お見舞い申し上げます。

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新企画今週の1枚
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第129回目。3月12日に45歳になった。奉仕して、これからも誕生日を重ねたい。
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年間第9主日(マタイ7:21-27)初聖体の2人は、イエスさまを土台に置きました

2011-03-06 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
11/03/06(No.521)
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年間第9主日
(マタイ7:21-27)
初聖体の2人は、イエスさまを土台に置きました
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今日は、初聖体を受ける保育園の年長さんが2人います。この子たちには、お話の最後に、ご聖体を受けるにふさわしい準備ができているか、試験をしたいと思います。ケータイ電話でおうちの人に答えを聞いたりしたらダメですからね。お話が終わるまで、ちょっと待ってください。

今日は説教を7・8分で切り上げたいと思っていますが、試験のために待たされる2人には、果てしなく長い時間に感じるかもしれません。ご苦労さまです。さて、福音朗読箇所で、イエスが特に念を押しているのは、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」(7・24)「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者」(7・26)とあるように、イエスの言葉を土台にして信仰生活を成長させていくことの大切さです。

イエスがたとえに引いたのは、家と土台についてです。しっかりした土台の上に建てた家、砂の上に建てられた家、どちらが災害の時に耐えられるかはだれもが分かることです。滅多にないことですが、わたしも前任地で司祭館を建てるチャンスに恵まれました。すでにある家を改築するのと、新たに建て直すのと、あんまり変わらない見積もりでしたので、新築しようよと促して、司祭館を建てたのです。

立派な司祭館がたちあがりまして、後の神父さま方に1つはお役に立てたかなぁと思っていますが、設計を引き受けてくださった事務所の社長さんが、古い司祭館から、1つだけ新しい司祭館に取り入れたものがあると言ってそれを見せてくださいました。

70年も80年も経った司祭館に、使える材料などあるのだろうかと思っていましたが、示されたものを見て、あーなるほどと納得したのです。それは、基礎・土台の石でした。設計事務所の社長は、この基礎の石が表に見えるように、玄関の部分に利用してくださったのです。

もちろん、古い材料など1つも使わなくても、新しい司祭館を建てることはできたでしょう。けれども、この場所に70年も80年も司祭が生活した証しを、新しい司祭館に引き継ぐことは、それなりに意味があると思うのです。

いろんな人の努力の上に、古い司祭館が建っていた。そして、その人々の努力を忘れることのないように、未来の人のために基礎の石を引き継いだわけです。これはさすがだなぁと感心しました。3月27日には伊王島大橋も開通するわけですが、開通後に予定している巡礼の時には、もう一度司祭館を眺めてみたいと思っています。

今日、2人の年長さんが初聖体を受けます。ご聖体には、イエスさまがおいでになります。そしてご聖体をいただくときには、「アーメン」と答えて拝領します。「アーメン」は、「そうです、その通りです」という意味がありますが、聖体拝領でのアーメンの意味を補うと、「イエスさまをいただいて、わたしたちはイエスさまに育ててもらいます。イエスさまという土台の上に、わたしたちはすくすく成長していきます。その通りです」という意味だと思うのです。

イエスさまははっきりと、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」ことが何より大切と仰いました。イエスさまの言葉、行い、そしてイエスさまそのものであるご聖体を土台にして信仰を積み上げていかなければならないのです。そうしない人々は、どれだけ見栄え良く教会とつながっていても、イエスさまが土台にないので、積み上がっては崩れて、何も形に残らないのです。

初聖体を受ける2人が、これからいつもいつもミサを楽しみにしてくる子どもでいてほしいと思います。おうちの人にしつこくこう言ってください。「わたしたちはいつミサに行ってもご聖体拝領できるんでしょ?今度もミサに行けるんだよね?今度の日曜日も、いちばん最初にご聖体を受けるんだよね?」と、執念深く聞き返してほしいと思います。2人の願いだったら、おうちの人はどんな努力をしてでもかなえてくれるはずです。

今日から2人は、ミサにあずかって、ご聖体に養われて、岩の土台の上に信仰のお城を建てていきます。神父さまも、2人がこれからイエスさまの恵みを土台にしてどんなふうに成長していくか、本当に楽しみにしています。これから少なくとも数年間、中田神父さまを喜ばせてください。そしてこれからずっとイエスさまの土台の上で成長していくことで、浜串小教区の皆さんを喜ばせる人であってほしいと思います。

では、初聖体のためのテストをします。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日
(マタイ4:1-11)
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ちょっとひとやすみ
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▼3月6日、小教区で釣り大会を企画した。楽しみにしていた。自分自身が釣りが好きだということもあるが、自発的に計画し、わたしは商品を準備して参加するだけでよかったから、本当の意味で自分たちの行事を目にするということになる。
▼どうやってこの計画を成功させるのか、どうやってこの大会を盛り上げるのか、これからも続きそうな行事なのか、いろいろと見てみたいと思う。継続していく行事にはそれなりの理由がある。魅力的だとか、みんながその必要性を十分理解しているとか、何かがあるから続くわけで、その理由を、この釣り大会から探してみたいと思う。
▼前任者の司祭と、その前任者が赴任した「わたしの前任地」の信徒が、この大会に参加する。招待状を出して呼んだ形になっているが、本当は請求されたのではないかという気もしている。きっと、懐かしいこの大会の中で、のびのびと活躍するのだろう。
▼実は来週も、釣り大会が予定されている。来週は子ども釣り大会。2週連続で、公務で釣りができるなんて、こんなにありがたいことはない。船の調子をもう一度点検して、楽しみたいと思っている。いずれの大会も勝負を争うことになっているが、わたしは釣りができればそれでいいと思っているので、勝負は勝負の好きな人に任せたい。
▼初聖体の2人。本当におめでとう。2人しかいないのに、いつまでも名前が覚えられなくてごめんなさい。最近ようやく、2人の区別がつくようになったよ。これから教会学校も始まるし、神父さまは本当に楽しみにしている。お祈りも、みんなにくっついてのお祈りだけじゃなくて、これからは先唱もするから、がんばろうね。

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第128回目。予定では、初聖体。釣り大会も、あとでお見せできるかも。
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