こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

主の昇天(マルコ16:15-20)昇天の直後から、主は共にいて働く

2009-05-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/05/24(No.418)
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主の昇天
(マルコ16:15-20)
昇天の直後から、主は共にいて働く
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主の昇天の祭日を迎えました。これから連続して祭日が続きます。来週は聖霊降臨、その次は三位一体、さらにキリストの聖体、さらにキリストの聖体の週の金曜日にイエスのみ心の祭日がやってきます。この一連の祭日は、セットにして覚えることにしましょう。

また、今年はイエスのみ心の祭日から、ベネディクト16世教皇の発表により、「司祭年」が始まります。司祭年に当たっての司祭に向けられたテーマは、「キリストと司祭職への忠実」となっています。「司祭年」を過ごす今年は、特に司祭のためにお祈りいただければ幸いです。

さて、主の昇天に示されたメッセージをお互い学び合いましょう。イエスが天に昇られるというのですから、まず考えなければならないことは、天に昇られるイエスを、わたしたちはどのように見つめればよいのかということです。

見方としては、わたしたちに先立って天に昇られたのだから、イエスに希望を置こうと考えることは大切だと思います。イエスはたんに御父のもとに昇って行かれたのではなく、わたしたちのために場所を用意しに、先に行ってくださる(ヨハネ14・2-3参照)と考えることで、天に昇るイエスの姿を思う時、希望を持つことができると思います。

もう一つは、イエスの次の言葉です。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(16・15)宣教に出かけて行きなさいと言うのですが、そんなに簡単なことなのでしょうか。イエスがそばにいて初めて、弟子たちは宣教活動ができるのではないでしょうか。この疑問に、しっかり答えを見つけなければなりません。

実際、イエスが共にいてくださらなければ、弟子たちはほとんど無力です。イエスと一緒に行動しておられた時でさえ、弟子たちだけで悪霊に悩まされている子供を救ってあげることができませんでした。「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」(9・18)とあります。

弟子たちはイエスが共にいてくださらなければ自分たちがまったく無力であることをよく知っていたことでしょう。それなのに、宣教に出かけなさいという命令を受けて、さっそく出かけて行ったとすれば、弟子たちのそばにイエスが留まってくださる、共にいてくださるという確信があったからに違いありません。

確かに、今日の福音朗読の最後には「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」(16・20)とあって、主が弟子たちと共に働いたことが分かります。けれども、弟子たちは、イエスが天に昇られた時点で即座にこれからもイエスが共にいてくださることを理解したのでしょうか。

わたしは、イエスが天に上げられてから弟子たちが宣教活動に出かけて行くまでには時間があって、そのことが今日の福音朗読には省略されていると思います。そのことを解く鍵は、今日の朗読箇所がマルコ自身が書いたものかどうかということにあります。

マルコ福音書自体は、60年代から70年代に書かれたとされています。四つの福音書の中で最も早く書かれた書物です。ところで、大多数の学者は、今週の朗読箇所を含むマルコ16章9-20節は、マルコが書いた結びではなく、マルコ以後に書き加えられた結びであると主張しています。そうであるなら、今日朗読された、弟子たちが積極的に宣教活動に出かけて行くさまは、ある一定の時間が経過した後の出来事、例えば2世紀初頭の出来事だろうと思われるのです。

2世紀初頭の出来事であれば、聖霊降臨もすでに体験しているはずです。つまり、今日登場している弟子たちというのは、聖霊降臨後の弟子たちの宣教の様子が、あたかも主の昇天直後であるかのように付け加えられているということです。

弟子たちが宣教に出かける様子をマルコ福音書の最後に付け加えた後代の編集者は、聖霊降臨以後に起こったことを、主の昇天直後のことだったと歴史を書き換えようとして付け加えたのでしょうか。わたしはそうは思いません。

この付け加えで後代の編集者が言いたいのは、主の昇天直後から、イエスは弟子たちと共におられたのだということが言いたくて、このような書き方をしたのだと思います。そのことを実感したのは聖霊降臨の時ですが、昇天された直後から、イエスは弟子たちと共にいてくださったのです。

このことはわたしたちに一つのことを考えさせます。わたしたちはいつになったら宣教する信徒へと変わるのだろうかということです。それに対する答えは、「あなたが、イエスはわたしと共にいてくださる」「イエスはわたしたちと共にいてくださる」と感じたその時から、すでに宣教者なのです。

長崎教区のここ十年来のモットーは、「参加し・交わり・宣教する」ということですが、わたしたち一人一人を振り返ると、「参加し・交わる」ことまでは何とか関わっていると感じていますが、なかなか「宣教する」ということまで踏み込めていないのが現状ではないでしょうか。

つまり、わたしの家族で、洗礼を受けてもいいかなぁと思っている人がいても、直接口に出して勧める勇気がないとか、わたしの近所の人で、正直に生きているけれども特別な信仰は持っていないというような人に、「日曜日、よかったら教会に一緒に行きませんか」と、そこまでは声に出せない。そんな状態なのではないでしょうか。

そうであるなら、やはり何かの機会に、「もっと宣教する」ということに心を向けるべきだと思います。この1年間取り組んできた「パウロ年」がきっかけを与えてくれましたし、今年6月18日から始まる「司祭年」はさらに良い機会になるでしょう。

わたしたちが「イエスはわたしと共にいてくださるんだ」と感じたなら、ためらわずにわたしにできる宣教に関わってほしいと思います。イエスは2世紀初頭だけではなく、今も、「共に働き、語る言葉が真実であることを、それにともなうしるしによってはっきりお示しになる」のです。


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ちょっとひとやすみ
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▼何事も百発百中とは行かないもので、東京から4月に顔つなぎをしていた人が実家の大村に行くついでで伊王島を訪ねてくれた。この方は、まだ顔を知らない頃に、開高 健著「私の釣魚大全」という本をプレゼントしてくれたほどの釣り好きである。釣り好きに悪人はいない(と思っている)。喜んで伊王島の海を案内した。
▼いくつか実績のある場所にボートで出てみた。試行錯誤、いろいろやってみたが、マジックくらいの太さのエソしか釣れない。こんなはずでは・・・と思いつつ場所を変えて試してみるが、どうしても結果に結び付けられない。そうこうしていると、来訪者がササノハベラ(長崎で言うクサブ)を2匹釣り、ことのほか喜んでくれた。
▼ションボリしながら司祭館に戻り、賄い婦のSさんに状況を説明すると、Sさんがこう言った。「あら~。ふだんはこんなではないんですよ。今日は最低。な~んにも釣れてないじゃないですか。せっかく遠くからの客が乗ってたのに、一番ひどいですね・・・」ねぎらってもらえるかと思ったら、やぶ蛇になった。ふだん釣っている魚を見ているだけに、思ったことを正直に言ったのだろう。
▼どうにも納得がいかず、なぜ釣れなかったのか、どんな方法なら釣れるのか、もう一度日を改めて検証に行った。「検証」という名目での釣りである。この日は「アミエビ」をカゴに詰めて、枝針3本の仕掛けをつなぎ、アジのタナを探すことにした。
▼海底に着底してから1メートルか、1メートル50ほど竿を上げて止める。するとみごとに、30センチほどのアジが4匹釣れた。他にも、着底してすぐの場所で型のいいカサゴ(長崎で言うアラカブ)が2匹釣れた。なーんだ。方法を変えれば、魚はいるじゃないか。これにて一件落着。

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新企画今週の1枚
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第25回目。司祭が銃で狙撃されています。殉教し、聖人になった会員でしょう。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
聖霊降臨の主日
(ヨハネ15:26-27;16:12-15)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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復活節第6主日(ヨハネ15:9-17)イエスに友とされた者として生きる

2009-05-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/05/17(No.417)
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復活節第6主日
(ヨハネ15:9-17)
イエスに友とされた者として生きる
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先週、枝であるわたしたちは、ぶどうの木であるイエスにつながって、聖霊の息吹に養われながら、霊の実をつけるということを話しました。また、わたしたちの教会も枝であり、ぶどうの木であるイエスにつながって活動することで、イエスが現代にあっても豊かな実りを結ぶということも話したと思います。

今週、ぶどうの木であるイエスにつながっているわたしたちの姿をもう少し掘り下げてみたいと思います。先週もお話ししましたが、枝同士が自分の立場からものを見ると、わたしという枝と、正反対の方向に伸びている別の枝とは、似ても似つかない、共通点が見いだせない、協力できるはずがないと思ってしまいます。

ですが、キリストに養われている枝であるという意味で、わたしたちは協力し合える、理解し合えるということです。このことをイエスは今週の朗読箇所で次の言葉で言い表します。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(15・14)

基本的に友達になれる人というのは、自分と同じ価値観を持っている人です。自分と似たような境遇にある人にも親しみを覚え、友人のうちに数えることもあります。たとえば、体に故障が来て、手術しなければならなくなったとしましょう。

似たような病気の人が同じように手術を控えて入院していたら、これからのリハビリの時間もあるので、友達になって一緒にリハビリに励もうと思うでしょう。病院に入院して初めて出会った人ですが、病気が同じだったので友達になることができました。

また、日曜日のミサに、違う場所で参加したとしましょう。たとえば5月の第3日曜日は雲仙殉教祭のミサが行われますが、雲仙でミサに参加している人のほとんどは、初めて見る人かも知れません。

けれども、大司教様主司式のミサに参加して、「お互いに平和のあいさつを交わしましょう。主の平和」とあいさつを交わすときには、見知らぬ人と笑顔で平和のあいさつをするに違いありません。それが可能なのは、同じ信仰を持ち、同じカトリック教会のミサに参加しているからです。その日のミサの中で、あなたは誰とでも、友人として平和のあいさつを交わすことができるでしょう。

このように、わたしたちは共通の価値観を持っている人のことを、「友」として見ることができます。イエスはすでに経験したことのあるこのような体験を期待して、「友」という言葉でイエスという木につながっている信仰者のことを説明してくださったのです。「友」という言葉を生まれて初めて聞く人は誰もいないのですから、イエスは、誰にでもよく理解できるように、このような話し方をされたのでしょう。

ところで、イエスは弟子たちのことを「友」とお呼びになりましたが、「友」と呼ぶからには弟子たちに期待していることも何かしらあるのではないでしょうか。わたしたちが、「友」に期待するようなことを、イエスもまた弟子たちに期待するのは当然ではないでしょうか。

わたしたちは友人にふつうどんなことを期待しているでしょうか。困ったときに助けてくれることとか、同じ目標を目指して、お互いに励まし合うとか、過ちを犯したときに正直に間違いを指摘して諫めてあげるなどのことを期待するでしょう。「それでも友達か」と言われるようなことを慎むことも含まれるかも知れません。

イエスは弟子たちに、「あなたがたはわたしの友である」と言いました。まずイエスが、弟子たちの友となってくれたに違いありません。弟子たちの働きに力を貸し、弟子たちが行き詰まっているときには知恵を貸し、喜ばしいことがあれば一緒に喜び、悲しい出来事があればその悲しみを半分に分け合って、友として十分に支えてくださったに違いありません。

そこから、弟子たちは自分たちのなすべき事を学んだことでしょう。イエスを信じ、イエスの命じる掟を守る人々に友として接し、イエスがしてくださったように、新しくキリスト者となった人々の支えとなっていったのではないでしょうか。

そこで、わたしたちもイエスの呼びかけに向き合う必要があります。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」つまり、互いに愛し合いなさいというイエスの掟を守るなら、わたしたちはイエスの友となれるのです。

病院で同じ病気にある人と友情をはぐくむことができると言いました。同じ目標を持っている人とも、友人になれると言いました。そうであれば、イエスの掟を生き方の基本にしているキリスト者は、互いに友となれるはずです。

友は、相手を思いやります。わたしたちがミサに参加しているこの時間、同じく友であるあの人は、残念ながらミサに来ることができないかも知れません。その人のことを思い出してあげましょう。

食事をしている時間、友であるある国の家族は今日の食べ物に事欠いているかも知れません。その人のために、小さな募金箱を用意しましょう。この運動はすでに長崎教区では広く行き渡っていて、「一菜募金(いっさいぼきん)」と言っています。

同じ司祭の身分にあるあの人、同じ修道者の身分にあるあの人、同じ信徒であるあの人が、もしかしたら心を閉ざして暗闇の中にいるかも知れません。どうしてるかなぁと、その人のことを思い出したなら、祈ってあげるとか、電話やメールで連絡取るとか、訪ねてみるとか、いろんな方法で「あなたのそばにいるよ」と知らせてあげましょう。ずっとそばにいると知らせておけば、いつか心を開いて悩みを打ち明けてくれるかも知れません。

これらはすべて、友であるイエスが先にわたしたちのためにしてくれたことであり、わたしたちにも期待されていることだと思います。入院先の友達は同じ病かも知れませんが厳密にはわたしの病と相手の病は別物です。キリスト者同士はこの世の友とは違います。同じ一つの信仰で友となれるからです。他の友とは全く異なり、イエスを信じているという共通の土台に立って、物事を考えることができるのです。

わたしたちは、イエスに友としていただいたことを決して忘れてはいけません。決して忘れないしるしは、わたしたちが誰かの友となることです。イエスを信じているから、身近なあの人に力を貸そう。ずいぶん遠ざかっているあの人に、心の窓を開いておこう。わたしたちが動き出す力は、先にイエスによって友としていただいたこと、ここに力の源があるのではないでしょうか。


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ちょっとひとやすみ
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▼今5月17日。夏の始まりを仮に7月の海の日と設定すると、これから2ヶ月あることになる。何が言いたいかというと、やっぱり今年の夏は海に行ける体にしたいなぁということだ。「夏にならなくても海に行ってるじゃないか」なんて言わない(笑)。
▼当然、体を絞らなければならないわけだが、特別な方法などないわけで、運動して汗を流す、カロリーを消費する以外にない。ずいぶん遠ざかっていたが、また「Wii Fit」で体を動かし始めた。
▼まず現在の体重だが、79キロもある。そこからどれだけ絞るつもり?と言われそうだが、体脂肪率から考えると気絶しそうなくらいにハードルが高くなるので、まぁ、3キロくらい落ちればいいかなぁと思っている。以前頑張って同じことしていたときは、1ヶ月で1キロというペースだったので、ちょっと無理しすぎかなぁとも思うが、ちょっとした勝算はあるつもりである。
▼そんなこんなでまた始まった「Wii Fit」。ゲームソフトを立ち上げてみると、「250日ぶりですね!」とか言われてしまった。余計なお世話だ。ゲーム機のグサッと突き刺さるメッセージなど一切無視して、「ボクシング」「フラフープ」「踏み台ステップ」「ジョギング」「ストレッチ」などで汗を流す。
▼たまたま、Sさんが昼から出勤する時間に運動していた。その場面を見て彼女はこう言った。「それ、何の遊びですか?」遊びじゃないわい。涙ぐましい減量じゃ。Sさんには分かってもらえなかった。見てらっしゃい。そのうちに遊んでいるようには見えなくしてあげます。

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新企画今週の1枚
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第24回目。御父と御子。背景右は福岡キャンパスの聖堂、左は聖ペトロ大聖堂

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‥次の説教は‥‥
主の昇天
(マルコ16:15-20)
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復活節第5主日(ヨハネ15:1-8)だれもがイエスにつながれた枝とわきまえよう

2009-05-10 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/05/10(No.416)
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復活節第5主日
(ヨハネ15:1-8)
だれもがイエスにつながれた枝とわきまえよう
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復活節第5主日と第6主日は、福音朗読から見るとヨハネ15章の1節から17節を2週に分けて朗読している形です。ヨハネ15章1節から17節は本来ひとまとまりとして読むべきですから、説教も少し、そのことを意識して考えを巡らせるのが理想です。来週と、うまくつながるか自信はありませんが、できるだけそのつもりで考えてみたいと思います。

第一朗読では、使徒言行録第9章が選ばれ、サウロがバルナバの手引きで使徒たちに紹介される様子が描かれています。その際、サウロはすんなり弟子として迎えられたのではありませんでした。「その日、サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。」(9・26)

彼がそれまでは迫害者であり、恐れられてもしかたない状況にあったことは皆さんも今年の黙想会で取り上げた内容ですからご存知です。それでもバルナバは、サウロを使徒たちのところに案内しました。

「バルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。」(使9・27-28)

この一連の様子は、非常に興味深いなぁと思いました。サウロは、みずからの体験によって、自分が間違いなく主イエスに呼びかけられ、ほとんど強制的とも言ってよいほどの迫力で、イエスのために働く僕とさせられたという自覚がありました。

一方エルサレムにいる使徒たちは使徒たちで、自分たちは3年間イエスと寝食を共にし、復活の出来事にも遭遇し、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16・15)との使命を受けたのだという自覚と誇りがありました。

ところでこの両者が出会ったとき、「やあ、あなたもイエスの弟子として選ばれたのですね」とすんなりと互いを認め合うことができなかったのです。使徒たちはサウロを恐れ、信じようとはしませんでした。にわかには信じがたいと思っていたでしょうし、もしかしたら、信じたくなかったのかも知れません。

わたしはここに、ある意味で今週の福音朗読ヨハネ15章1節から8節の理解を深めるとっかかりがあると考えています。どちらも、確実にイエスの弟子だという自覚がある。それなのに互いが互いを認め合うことができなかった。さいわいにバルナバの執り成しがあったので両者は信頼しあえるようになりましたが、最初からそうだったのではないのです。

この第一朗読の出来事を頭に置いて、福音朗読と向き合うことにしましょう。イエスはご自身を、「まことのぶどうの木」としてお示しになります。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ15・5)

わたしたちは、イエスにつながっていると、実を結ぶと言います。確かに、ぶどうの木につながっている枝が、実を結びます。木に直接実がなるわけではありません。細くて、長く伸びた先の枝が、実を結ぶ場所です。

それはイエスとわたしたちの関係に置き換えると、イエスはわたしたちを、実を結ぶための道具として使っておられるということです。わたしたちのように、完全でもない、みずから栄養を与えて養うことすらできない存在に、実をつける役割を持たせてくださっているということです。

イエスからわたしたちに注がれているものはなんでしょうか。それは聖霊です。イエスは、わたしたちに聖霊を注いで、実をつける枝として養い続けておられるのです。この聖霊に十分に養われて、わたしたちはイエスの望むように実をつけ、イエスの喜びとなるのです。

ちなみに、わたしたちがイエスに望まれている実についても考えておきましょう。いろんな示し方ができると思いますが、ここでは聖パウロのガラテヤの信徒への手紙を例に挙げたいと思います。次のように書かれています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(ガラ5・22)わたしたちがイエスに期待されている実りとは、このようなものです。この実りをつけて、収穫主であるイエスにお返しするのです。

ここまでは話を聞いて考えればなるほどとうなずけるかも知れません。問題が1つ残っています。使徒言行録の朗読に戻りますが、のちにパウロと呼ばれるサウロも、エルサレムの使徒たちも、イエスにつながっている枝であるという自覚と誇りがありました。

けれども、エルサレムの使徒たちは、誰もサウロを弟子だとは信じないで恐れたのです。イエスにつながっている枝には違いありませんが、互いが互いを認め合うことができなかったのです。

この時の摩擦は、はたしてその時だけのものでしょうか。ある人にとっては、自分たちは昔から教会の一員だけれども、あの人々を教会の一員だとは認めていない。受け入れていない。そんなことが現代でも起こっているのではないでしょうか。

だれもが、イエスにつながっている枝だという自覚があるのですが、それぞれの枝が、別の枝を認めることができないでいるのです。いろんな理由がそこにはあるのかも知れません。あの人たちに何ができる。わたしたちは寝食も共にしてきた者だ。同じ仲間だと言われても絶対に認められない。たとえばこのような思いが、心のどこかにあるのではないでしょうか。

問題を複雑にしている原因をはっきりさせましょう。原因ははっきりしています。1つの枝から、他の枝を見ているからです。自分という枝から、他の枝を見れば、かなり遠く離れている、もしかしたら正反対の方向に伸びているので、全く共通点が見いだせないかも知れません。どうしてこれだけかけ離れている相手を、仲間だと信じられるだろうか。なるほどそうかも知れません。

けれども、わたしたちすべてに聖霊を注ぎ、養っておられるイエスという木から枝を見ることで、すべては変わってきます。あの枝も、この枝も、もっと言うとすべての枝が、等しくイエスから聖霊を注がれた枝なのです。

わたしから見れば遠く離れているかも知れないその枝も、イエスという木から見たとき、だれもがほぼ同じ距離にあるのです。イエスが注ぐ聖霊の届くところに、すべての枝がつながっているのです。

サウロを信じないで恐れたエルサレムの使徒たちも、あとでは彼を使徒として受け入れ、自由に活動することができるようになりました。今日わたしたちは、ミサのあとに信徒総会を開きます。せっかく総会を開いて皆が一堂に集まるのですから、誰もが木であるイエスに養われている枝であり、互いに受け入れ合うべきだ。その気持ちを起こすきっかけにして欲しいと思います。

こうしてお互い生かし生かされる関係になったとき、ぶどうの木であるイエスは、馬込教会の信徒という枝を通して、豊かに実をつけることができるのではないでしょうか。


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ちょっとひとやすみ
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▼5月連休たくさんあった人もいると思う。けれどお金がなくて遊べなかった人もたくさんいたに違いない。こんなことなら働いていた方がましだと思うけれども、会社は来なくていいと言う。いったいどんな社会なんだ。幸いにわたしはあまりお金のかからない釣りで連休を楽しんだ。
▼釣りえさ380円。氷をクーラーボックスに3個程度詰め、混合燃料(1リッターもあれば十分)を給油して、午前9時から午後4時までぶっ通しで海の上にいた。そうだ、おにぎりを2個買って持っていったっけ。飲み物は、ほとんどが一度沸騰させてさました水。これがいちばんお腹にいい。
▼ここまでで1000円くらいか。釣れた魚は、イトヨリ1匹(35センチくらい)、「マッキー」と命名したエソが20匹。持ち帰り、フードプロセッサーにかけてつみれで食べた。こうして釣りとその後のおいしい味噌汁と刺身で1日が終わった。
▼実はお金のかかる遊びもしてきた。あまり公開したくないのでチラッとだけ言うと、午前11時から午後3時までその遊びで過ごした。思いっきり発散できたので、それはそれで役に立ったか。お金がかかる遊びをする時は、入念な計画・準備・下調べなどしておいたほうがいいと思う。余計なお世話か。
▼今月の最終日は父の年忌。そうは言っても日曜日なので、少し前に五島に行く予定。はっきりいつと言うといろいろ面倒なので言わないが、しばらく家にも顔を出していないし、まぁ顔見せの意味も。納骨堂に行って、追悼ミサでもして、少し飲んで、思い出に花を咲かそう。

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新企画今週の1枚
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第23回目。福岡キャンパスのモザイク画。ペトロとパウロ。

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復活節第6主日
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復活節第4主日(ヨハネ10:11-18)羊もわたしを知っている

2009-05-03 | Weblog
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こうじ神父
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09/05/03(No.415)
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復活節第4主日
(ヨハネ10:11-18)
羊もわたしを知っている
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連休中で、お出かけの人もいるかも知れません。それぞれの場で、日曜日のミサに参加することは、いつもと違う神の家族に触れる良い機会だと思います。

今日の福音朗読の中で、イエスはご自身を良い羊飼いとして示しています。そして、良い羊飼いの条件は突き詰めると「羊のために命を捨てる」この点に尽きると言い切ります。イエスが良い羊飼いの条件として示した「羊のために命を捨てる態度」を、今週はじっくり考えることにしましょう。

まず、イエスが用いられた言葉を確かめることから始めましょう。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(10・11)イエスは「命を捨てる」と言いました。「捨てる」と聞くと、何か要らないものを処分するように聞こえるのではないでしょうか。どう考えてもそれは間違っていますが、では元の言葉はどういう意味があるのでしょうか。

興味深いのは、同じ部分を英語の聖書は「羊のために死ぬ」と翻訳しています。たぶんこの訳がいちばん素直な翻訳なのでしょう。日本語訳では「羊のために死ぬ」という表現からもう一歩踏み込んで、「羊のために命を捨てる」となったのでしょう。ここで言う「命を捨てる」というのは、「肉体の命に執着しない」「犠牲をささげる」ということを含んだ上での言い回しではないでしょうか。

元の言葉ではどんな表現になっているのでしょうか。ギリシャ語の聖書では、「命を置く」となっているそうです。この、ギリシャ語の表現に、「命を捨てる」という翻訳の元があるのですから、「命を置く」ということが何を意味するのかを考える必要があります。

考えるために、すでに分かっていることを思い出してみましょう。イエスが命を置いたのは、どこだったでしょうか。イエスは、十字架上で、ご自分の命を置いたのでした。また、イエスはなぜ、十字架上にご自分の命を置いたのでしょうか。これもはっきりしています。イエスは、全人類を救うために、十字架の上に命を置いたのです。

これらを確認した上で、わたしたちの体験を重ねて考えることにしましょう。わたしたちは何かを置いたり手に取ったりひんぱんに繰り返しています。そして大切なものを置くときには大切に扱い、ふさわしい場所に置くものです。貴重なものを床に転がしておく人は誰もいません。反対に、価値のないものを大切に飾ったりもしないのです。

イエスは、命を十字架の上に置きました。わたしたちの経験から考えると、命よりも大事なものはないのですから、命を十字架の上に置いたことを見逃してはいけないと思います。十字架は、命を置くのにふさわしい場所だったのでしょうか。価値ある物を置く場所としては、釣り合わないのではないでしょうか。

十字架そのものは、この世界でいちばん重い命を置くのにはふさわしい場所ではなかったかも知れません。けれども、別の見方もあります。イエスはかつてこのように言いました。「愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。」(マタイ23・17)

十字架を清めるのはイエスご自身の命です。イエスが命を置いたことで、十字架の木はとうといものとなります。枯れた木に過ぎない人間に、イエスがご自分の命を置いてくださったことで、わたしたちはとうといもの、価値あるものとされました。イエスがこの世の象徴である十字架の上で命を置いてくださったことで、この世と、全人類は救われたのです。

ようやく、わたしたちはイエスが十字架の上で命を置いたことの意義と価値を見いだすことができました。イエスはご自分が引き受けた御父のご計画の深い意味を知っていました。わたしたちもわずかですが、イエスが十字架の上で命を置いてくださったことの意味を知りました。これで、イエスの次の言葉が成就しました。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(10・14)

イエスは自分の羊、つまりわたしたち人間を知っています。熱心について行こうとするときがあるかと思えば、熱意を失って道を外れてしまう弱さを持っています。自分で道を外れておきながら、羊飼いであるイエスに探してもらい、連れ戻してもらわなければ、正しい道に立ち帰ることすらできないのです。時には悪い誘惑という狼の餌食になり、さんざん食い物にされて、信頼していた人にも裏切られたり、守ってくれるはずの人が自分を捨てて逃げていくこともある弱い存在です。

イエスは羊のように弱いわたしたちを知っています。けれども、わたしたちはイエスをそんなに知らないのです。イエスは、「羊もわたしを知っている」と言ってくれますが、イエスの信頼に、わたしたちは十分に応えていないのです。

イエスとわたしたちは、対等にお互いを知っているわけではありません。それなのに、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と言ってくださいます。イエスの深い愛に感謝しましょう。わたしたちはイエスがわたしたちを知っているほどにはイエスを愛し返すことはできないのです。それを百も承知で、「あなたたちはわたしを知っている」と、勇気づけてくれるのです。

ここからわたしたちが考えなければならないことが見えてきます。わたしたちはイエスのことをそれほど知らないと思っているのに、「いや、あなたたちはわたしを知っている」と言ってくださるのですから、わたしたちが誰かの前に立たされたとき、「わたしはイエスを知らない」と言うべきではないのです。

むしろ、「わたしはイエスを知っている。なぜなら、イエスがわたしたちを知ってくださっているから」と言うべきだと思います。確かに何かを知っているのです。全く知らないわけではないのです。ですから、勇気を出して、「イエスは良い羊飼いです」と知らせましょう。

「イエスは良い羊飼いです」と言ったのですから、わたしにとってそれはどんな体験から確かなことなのかを付け加えましょう。こうしてわたしたちは、「わたしはイエスを知っている」という証しを立てることになります。

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ちょっとひとやすみ
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▼いつだったか大分夢吊り大橋を渡った時、「あれれ。高所恐怖症は克服できたのかな?」と思っていたのだが、どうやらそうではなかったらしい。先日、熊本の有名なレジャー施設に行こうと、島原の多比良港に向かった。ここからカーフェリーに車を乗せ、長州港に渡してという旅程を組んでいた。
▼いざ車を積み込む時間になって係員の指示を聞くと、自分が運転している車からフェリーの2階席に積むので、連絡通路を登ってほしいと言われた。フェリー内に導く連絡通路は車の幅に少しの余裕があるだけで、景色としては空中を車で移動している気分だった。
▼高さは15メートルくらいだろうか。短い時間の移動だったが、足が震え、この連絡通路が崩落したらどう責任を取ってくれるのかと、ありもしない妄想に追い込まれた。どれだけ恐ろしい思いをしたか、伝わるだろうか。
▼レジャー施設を満喫して、帰りも同じようにフェリーに車を積むコースために誘導に従った。前に2台車が駐車していたので、「これはおそらく、先行する車に追従して1階席だな」と思っていた。すると、私の乗る車で係員に制止された。嫌な予感は的中し、またわたしから2階席に行ってくれと言う。
▼またもや、道幅の狭い連絡通路を通って2階に行く。段差でガタンと音がする度に心臓が締め付けられる思いがした。いったいどこに、これほどの高所恐怖症が潜んでいたのだろうか。条件を変えると、まだ恐ろしさを感じることが今回よく分かった。


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新企画今週の1枚
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第22回目。福岡キャンパスのモザイク画。東洋人にザビエルが宣教している。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ15:1-8)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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