こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

受難の主日(マルコ15:1-39)だれが何を取るかをくじ引きで決めた

2015-03-29 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/03/29(No.759)
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受難の主日
(マルコ15:1-39)
だれが何を取るかをくじ引きで決めた
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受難の主日、聖なる一週間が始まりました。イエスがいのちをささげて人間の救いを全うされます。わたしたちは自分では天の国にたどり着けないと、この一週間ではっきり理解し、より頼む心を増しましょう。

本日のマルコによる受難の朗読の中で、わたしは兵士たちが取った行動を深く心に刻みたいと思います。「兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った。だれが何を取るかをくじで決めてから」(15・22)とあります。十字架に架けられたイエスのむごい姿と、イエスには全く関心がなくて、むしろイエスの着ていた衣服に興味があった兵士たちとのきわめて対照的な姿を刻みつけたいのです。

イエスの姿は確かにむごたらしいのですが、わたしは、イエスのことを気にも留めず、着ていた衣服を奪い合う兵士たちの無神経な姿が、より一層むごたらしく感じます。死にゆこうとする一人の人間よりも、兵士の目に留まったのは着ていた衣服だったのです。釘で十字架に打ち付けておきながら、はぎ取った衣服の方に興味があったのです。

兵士の姿を見て、何と無神経な人々だろうと、皆さんは心を痛めるでしょうか。わたしたちは、兵士たちの愚かさを笑えるのでしょうか。むしろ、兵士たちの愚かさは、わたしたちの愚かさを鏡で映しているように思えないでしょうか。なぜならわたしたちもまた、イエスが十字架にかけられていることよりも、自分の興味関心を優先することがあるからです。イエスが祭壇上でいけにえの子羊になっていても、ある場合は別のことに興味関心を持っているときがあるからです。

そこで、目の前の出来事から目をそむけないで考えましょう。わたしたちはイエスが十字架にはりつけにされているそばで、それ以外のことに気を取られたり時間を取られたりしていることを正直に認めましょう。だれが何を取るかをくじ引きで決めることさえする、そんな愚かな人間であると認めましょう。弱さを認めてこそ、わたしたちの弱さをご存知であるイエスがわたしたちを救ってくださるのです。

もっと踏み込んで言いましょう。あなたは、イエスの何を取りますか。あなたがイエスの着物を取ると言うのなら、わたしは着物を着ていないイエスを取りましょう。つまり、世の人々が対面を装うための着物を争って取り合うと言うのなら、わたしたちキリスト者は着物をはぎ取られたイエスを取りますと、態度を決めてほしいのです。

もちろん、わたしたちは弱く貧しく、愚かな面を持っています。考え抜いて取るべき態度に思い至っても実際には行動しないことがあります。イエスがこんな弱いわたしたちのためにいのちを投げ出してくださいます。着るものを取り上げられて、みじめな姿をさらしてでも、わたしたちの救いのために自分をささげてくださいます。今は感謝して、イエスの前にひざまずきましょう。せめてイエスのそばにたたずんで、見守ることができるよう、恵みと力を願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
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ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼今年も何とか、聖週間一週間分の説教を猛烈に書いて準備しようとしている。この「受難の説教」を書き始めたのが火曜日、発行は土曜日(先週は土曜日に発行できなくてごめんなさい)、するとあと残された時間はどれくらいあるのか。
▼さらに今週の予定との兼ね合いもある。25日(水)は子供たちと長崎の国宝大浦天主堂と日本26聖人記念館に巡礼に行く。これだけでも時間はなくなっていくが、27日(金)は視覚障害者の支援をするボランティア団体「マリア文庫」の年1回の行事「国立ハンセン病療養所 恵楓園」の盲人会の方々を見舞に行く。するとどれくらい時間は残されるのだろうか。
▼それでも、浮かばない説教を書くわけにもいかず。そうこうしているうちにこの日まで追い詰められてしまったわけである。追い詰められてから、どれくらいこの状況を押し返すことができるか。勝負というわけだ。
▼幸いに、火曜日の時点で聖金曜日の説教案のヒントは浮かんでいる。聖木曜日の説教は今年3月1日の司祭助祭叙階式直前にインタビューした小ネタを風呂敷いっぱい広げて展開することとし、復活徹夜祭と復活の主日日中の分は水曜日の巡礼の間に黙想することにしよう。
▼復活後の人事異動は大胆なものだった。明らかに人事の刷新が行われた。これまでがよくなかったというわけではなく、中堅を責任ある立場に抜擢して、これからの長崎教区の態勢を整える意図を感じる。もしかしたらこの人事の中で教区長の頭には後継候補のこともあるのかもしれない。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第366回目。受難の主日のミサ後に小教区釣り大会。の予定が延期に。

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四旬節第5主日(ヨハネ12:20-33)父なる神に栄光を帰す生き方を目指す

2015-03-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/03/22(No.758)
‥‥‥†‥‥‥‥
四旬節第5主日
(ヨハネ12:20-33)
父なる神に栄光を帰す生き方を目指す
‥‥‥†‥‥‥‥

四旬節第5主日、受難の主日からの聖週間ももうすぐそこまで来ています。イエスが救いのわざを完成しようとする場面、それと同時に敵対する力もさらに増します。わたしたちも誘惑を退け、イエスが栄光をお受けになるその時を喜び迎えられるよう、学びを得ることにしましょう。

昨年末に大怪我をして現在病院で懸命のリハビリを続けている浜串の元区長さんをお見舞いしました。左腕を切断していると前もって聞いていましたので、どんな顔を作ればよいのか悩みましたが、思い切って最初に腕のことに触れて、気持ちを切り替えようと思い、「おー!腕無くなっちゃったねー」と大げさに言いました。沈んだ気持ちで面会したくなかったからです。

幸いに、元区長さんも悲しい顔は一切見せませんでした。わたしは最近の出来事として、黙想会のこと、新しい昭徳丸が浜串漁港に来て、お披露目をして、わたしが祝別したよと報告しました。とても喜んで話を聞いてくれました。元区長さんからも、いろんな話を聞かせてもらいました。そして、リハビリを懸命にして、浜串に戻りたいなぁという目標も聞かせてくれました。

最後にわたしも、「浜串に戻ってきてね」とお願いしてから手を振って別れると、元区長さんが目を真っ赤にしました。わたしもこみ上げるものがあり、病人と別れるときに涙が溢れそうになったのは生まれて初めてでした。その場を離れる辛さがそうさせたのです。懸命にこらえていた気持ちが、最後に出たのだと思いました。

今週の福音朗読、御父に呼び掛けるイエスの二つの言葉が印象的です。一つは「父よ、わたしをこの時から救ってください」(12・27)そしてもう一つは「父よ、御名の栄光を現してください」(12・28)です。「救ってください」という思いがあったのに、「御名の栄光を現してください」という言葉に変わりました。

これは、イエスの個人的な思いを優先したい気持ちがあったのに、それをあえて後ろに置いて、御父の望みを優先させることを前に置いたということです。

いちばんの理解者であるはずの弟子たちさえ、イエスが十字架にかけられていのちを投げ出す道を思いとどまらせようとしました。イエスがこれからも自分たちの先生であり続けてほしかったからです。

イエスに思いとどまらせようとしたのは、弟子たちの個人的な感情を優先していたために望んだことでした。しかしイエスにとって最優先は、御父の望みでした。御父に栄光を帰すことが、そのままイエスご自身栄光を受ける道だったのです。イエスが復活して初めて、弟子たちもイエスの歩まれた道を理解することになります。

わたしは、長崎で面会した元区長さんも、今週の福音朗読でわたしたちが学ぼうとしている道を全身全霊で受け止めようとしているのだと感じました。元区長さんも、「父よ、わたしをこの時から救ってください」と最初は願ったに違いありません。

けれども、3か月過ぎた今は「父よ、御名の栄光を現してください」という心境に変わったように思います。片腕を失いましたが、信仰は失っていませんでした。

むしろ信仰は火で精錬され、生かされていることをますますよく理解し、イエスに委ねて生きようという気持ちが育ち始めていると感じたのです。身体の不自由は大きな十字架ですが、元区長さんはこの十字架で、きっと御父に栄光を帰すに違いないと思いました。

イエスは十字架上の死と、その後の復活を目前にして、人はどのようにして御父に栄光を帰すべきかを教えます。人は行き詰ると、だれもが「父よ、わたしをこの時から救ってください」と言いたくなるのです。

けれども目の前の困難を避けるべきものでななく受けるべき十字架として見るとき、父なる神に栄光を帰す道が開けてくるのです。わたしたちは回り道も、後ずさりする場所さえもなくなって、ようやくイエスに委ねて困難を乗り越える道を選びます。その時とその場所がいつ用意されるかは誰にもわかりません。用意なさるのは神だからです。

わたしの生活で神さまにふと言いたくなる言葉は何でしょうか。「父よ、わたしをこの時から救ってください」でしょうか。たしかに、逃げたくなるような出来事は山ほどあるでしょう。けれども、その現実を十字架として受け止める、背負うと決めたなら、その時からわたしたちは同じ状況でありながら御父に栄光を帰する人に変われるのだと思います。

わたしはありのままの自分の生活で、「父よ、御名の栄光を現してください」と声を上げる信者になれているでしょうか。もしそうでないとしても、イエスはわたしたちにお手本を示し、従うようにと招いておられます。

十字架上で御父に栄光を帰すイエスがわたしたちの生き方の物差しです。わたしの生活をどのように向けていけば、父なる神に栄光を帰すことができるか、今週一週間考えてみましょう。

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‥次の説教は‥‥
受難の主日
(マルコ15:1-39)
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ちょっとひとやすみ
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▼大浦天主堂での信徒発見150周年記念ミサが無事終わった。プチジャン神父のとっさの機転で隠れて信仰を守っていたキリシタンに光が当てられ、信仰の自由も得てキリシタンは自分の信仰を公にできるようになった。
▼今回の記念ミサと教区シノドスの閉会式で、150年前の出来事に今再び光が当てられ、今の時代にもカトリック信徒が社会に対してメッセージを発する必要性が再確認された。記念ミサは参列したすべての人に、自分たちがこの出来事を引き継ぐのだという自覚を持たせたのだと理解している。
▼参列者みなに自覚を持たせたと信じたいが、わたしの隣にいた先輩司祭はお疲れの様子で式中のほとんどの時間うつらうつらしていた。先輩というだけでなく、わたしにとっての恩人司祭でもあるのだが、疲れているのが見ないでも伝わっていたので、そっとしておいた。
▼式典中はたいてい前もって次のような案内がある。「携帯電話の電源をお切りください。」一度だけ、iPhone(アイフォン)の着信音が鳴った。それ以前にも写メを撮って「カシャ」と音を立てていたので「電話の着信が鳴らなければよいが」と思っていたのだが、悪い予感は的中した。
▼前もって注意をしてもルールを守らないのはお偉い方々である。なぜなら自分たちが登場する前に協力のお願いは終わっていて、自分たちが注意を受けることは少ないからだ。今回とある高位聖職者のiPhone(アイフォン)が高らかに音を立て、一瞬その場が凍りついた。
▼まぁそれはそれとして、わたしたちが信徒発見の舞台となった大浦天主堂で150年前の出来事を再認識したことには十分意味があった。皆が「ワタシノムネ アナタノムネト オナジ」という信仰を表明し、明日に向かう力を得たのだから。
▼ところで、「ワタシノムネ アナタノムネト オナジ」「サンタ・マリアのご像はどこ」この感動的な場面がプチジャン神父の自作自演だったと言ったら皆さんはどう反応するだろうか。「何を馬鹿なことを」と憤慨するだろうか。わたしもそれはないと思うのだが、興味のある方は「福音宣教」4月号「信徒発見の真相にかんする新見解」という記事を読んでほしい。この記事をどのように理解したらよいのか、正直戸惑っている。

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今週の1枚
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第365回目。「第三十一昭徳丸」をバックに。計三隻の新船がお披露目された。

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四旬節第4主日(ヨハネ3:14-21)世は光よりも闇の方を好んだ

2015-03-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/03/15(No.757)
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四旬節第4主日
(ヨハネ3:14-21)
世は光よりも闇の方を好んだ
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四旬節第4主日を迎えました。あと2週間で聖週間というところまで典礼が進んでいます。これからの2週間、受難と復活を通して救いを完成されるイエスに一歩ずつ近づく日々にしたいものです。

今年長崎教区は信徒発見150周年を記念するためにさまざまな公式行事を組んでいます。その中で3月17日国宝大浦天主堂での信徒発見ミサは記念の頂点です。教皇特使も招かれています。同じミサは教区シノドスの閉会も兼ねています。

わたしはこう考えます。信徒発見150周年を記念し、教区シノドスを閉会することは、これまでの土台にしっかり立って、これから新しい歩みを始めるという意思表示ではないでしょうか。無事に行事が終わったねで終わらせてはいけないと思います。

信徒発見までの日本の教会が受けた迫害は、長い影を連想させます。影が長いのは、光から遠く離されてしまった時代だったからだと思います。光とは、教会を照らす光、イエス・キリストです。迫害の中で日本の教会の信徒たちは、教会を照らす光を間近で仰ぐことができませんでした。

長い影にたとえた迫害の260年は、長崎の信徒発見で光に照らされました。大浦に建てられた外国人のための聖堂に浦上の信徒が勇気を出して出向き、当時のプチジャン神父に「ワレラノムネ アナタノムネト オナジ」と信仰を言い表したのです。どんなに影が長くても、その影に隠れておびえるのではなく、勇気を出して司祭に近づいたので、光であるイエス・キリストに照らされることができました。

信徒発見の出来事が今週の福音朗読個所を考えるヒントになります。「真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(3・21)

260年もの間、迫害によって光から遠ざけられていたキリシタンたちが、山の上に光を置いたプチジャン神父のおかげで光であるイエス・キリストの方に来ることができました。プチジャン神父が導いたというよりも、プチジャン神父が大浦に灯した「光であるイエス・キリスト」に導かれて浦上の信徒が来たのです。

どんなに影が長くても、たとえ260年という長い影を歴史に残したとしても、光であるイエス・キリストにくまなく照らされれば長い歴史の影は光に包まれます。260年の長く暗い影は影のままで終わらず、信徒発見の出来事によってすべてが明るみに出されたのです。

「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(3・19)信徒発見から150年が過ぎました。信徒発見の出来事は、長い影に覆われていたキリシタンに光がさした出来事でした。今わたしたちに期待されていることは、わたしたちの信仰を公にすることだと思います。光であるイエス・キリストが世に来ていることを、闇の方を好む人々に示すことだと思います。

光よりも闇の方を好む人々とは、イエス・キリストに照らされることを好まない人々ですが、それはカトリック信者の中にもいるかもしれません。カトリック信者でない人の中にいるかもしれません。そうした人々に、「わたしは光に照らされて生きることを選びました。あなたは光に照らされずに、闇を好むのですか?」こんな意思表示をして、光に照らされる生活に招く。これが信徒発見150年を迎えたわたしたちの取るべき姿勢だと思います。

自然の光は、しばしば暖かさを伴います。春の光は、ようやく寒い冬が終わりを告げることを感じさせます。そのように、わたしたちが光であるイエス・キリストに照らされる生活を選んでいると証しするなら、わたしたちを通して人々がイエス・キリストの暖かさ、イエス・キリストの愛を感じ取ることができます。

イエス・キリストがわたしたちを愛し、いのちをささげて守ってくださることを伝えたなら、その先のこと、光であるイエス・キリストに近づくのか遠ざかるのかは本人に委ねましょう。

大きな節目を迎えた長崎教区の信徒の誰もができること、光の方に来る生き方、光であるイエス・キリストに近づく生き方が、一人でも多くの人に受け入れられるように、このミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第5主日
(ヨハネ12:20-33)
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ちょっとひとやすみ
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▼3月17日、長崎で信徒発見150周年の記念ミサが行われる。3月15日から記念ミサは続いているのだが、3月17日が信徒発見の日であり、17日の午前10時のミサが中核のミサとなる。
▼早くに司祭への案内が来ていたのに申し込みが遅れたので、参加できないかと思っていたが、教区広報の事務をしてくれている方が広報枠でわたしの出席を確保してくれて何とか参加できることになった。こんな大事な案内を後回しにしていた自分が恥ずかしい。
▼広報枠で150周年記念ミサに参加させてもらうのだから、それなりの仕事は果たさなければと思っている。わたしなどより委員長が大変だ。記憶にも記録にも残る記念行事の広報という重責を果たさなければならない。3年前にわたしは委員長を降板、188殉教者の列福式なども経験したが、今回の行事も大変なプレッシャーだろう。
▼3月17日は個人的には司祭に叙階された記念日である。長崎教区にはいろんな日付で叙階を受けている司祭がおられるが、いちばん多いのは3月19日だろうか。調べてはいないが、里脇枢機卿さまが教区長だった時は必ずこの日だった。
▼それ以降の教区長になってからは、さまざまな事情で叙階の日が変わり、誰もその変遷を説明できないと思う。叙階式は、できるだけ共通の日が良いとわたしは思っている。たとえば「日本の信徒発見の聖母の祝日」などは、うってつけの日だと思うが、教区はそう思っていないのだろうか。
▼このメルマガが発行される頃には、あるいは今年の異動に当てはまっている司祭たちが信徒の皆さんに新しい任地を公表しているかもしれない。わたしの間違いで今週でなく来週だったらお詫びする。それぞれ新しい任地での健闘を祈っている。特に新司祭には、最初の赴任地は一生の宝物。ぜひ主任司祭に学び、それぞれが目指す司祭像を見つけてほしい。

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今週の1枚
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第364回目。わたしは異動に引っかかっていない。今年も網が破れるほど釣る?

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四旬節第3主日(ヨハネ2:13-25)黙想会の学び「幸せの置き場所」を再確認する

2015-03-08 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/03/08(No.756)
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四旬節第3主日
(ヨハネ2:13-25)
黙想会の学び「幸せの置き場所」を再確認する
‥‥‥†‥‥‥‥

黙想会の週でした。2006年の説教を参考に、黙想会の学びを少し拾ってお話ししたいと思います。イエスは神殿で羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らしと、ずいぶん手荒なやり方で神殿にあるものを一掃しました。荒っぽい方法でイエスは神殿を清めたと考えることもできるでしょう。けれどもイエスの一連の行為は、神殿を清めるということだけではないようです。

当時の神殿は、いけにえをささげて礼拝する場所として用いられていました。幼子イエスを抱きかかえたヨセフとマリアは、鳩を神殿でささげました(ルカ2・24参照)。いけにえをささげることでこの神殿は活用されていたのですから、いけにえの動物がすべて追い払われれば、神殿は神殿としての役割を果たせなくなります。

イエスのねらいはそこにあったのかも知れません。神殿からすべての動物を追い払うことで、この神殿はもはや役に立たないものとなった。そのことを人々に知らせようとしたわけです。もはや動物をいけにえにして繰り広げられる神殿礼拝は終わり、代わりにイエスご自身が十字架上で命をささげることで、まことのいけにえとなってくださる。神と人間との間を取り持つのは、牛や羊や鳩ではなくなり、イエスキリストがまことの仲介となられた。そのことを今日の出来事で示したのです。

この点を踏まえてイエスの言葉を考えてみましょう。イエスは鳩を売る者たちに言いました。「このような物はここから運び出せ。」(2・16)これまで大切に取り扱われてきたいけにえの儀式、そこで用いられたいけにえの動物をイエスは「このような物」ときっぱり退けました。

誰もが大切だと考えていた形式であっても、いったんそれを横に置いたとき、それらを頭の中から追い出したとき、もっと大切なもの、唯一の大切なものに気付くことができるようになります。今年の黙想会に当てはめるなら、「幸せの置き場所」であるべき神と人とが出会う場所、神殿では、いけにえの動物に代表される過ぎ去るものを用いた礼拝にしがみついてはいけないということです。

「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」(2・18)イエスの周りにいる人々は、イエスに食ってかかっています。「なぜあなたは、わたしたちの礼拝にけちを付けるのですか」と言っているようなものです。動物のいけにえをささげて礼拝をおこなうやり方に、これまで誰も疑問を持たなかったので、イエスの言葉に敏感に反応したのです。

「このような物はここから運び出せ。」イエスは、わたしが幸せの置き場所と考えていた何かの形を退けるかも知れません。そうなるとわたしはイエスに食ってかかって、「何てことをするんですか。どれだけ苦労して今の幸せの形を手に入れたと思っているんですか」と言うだろうと思います。

このような態度は、ユダヤ人たちがイエスに詰め寄ったのと何も変わりません。「なぜあなたは、わたしたちが幸せと思っていることにけちを付けるのですか」そう言っているようなものです。わたしの態度は正しいのでしょうか。わたしが神に口答えしたり、神に不平を言うことは筋が通っているでしょうか。

あらためて考えると、本当に神が求めているものをわたしはささげてなかったのではないかと反省させられます。もしかしたら、わたしが満足しているものを神に報告していただけではないだろうか。過ぎ去っていく幸せの置き場所にこだわり、それを壊さない程度のささげものをするのではなく、自分を無にしてイエスご自身をささげることに徹する必要があるのではないか。あらためてそう思いました。

わたしたちは今の幸せの置き場所を手に入れるために、人には言えない努力を払ったかも知れません。けれども、それにしがみついてしまっては、わたしたちはイエスを告げ知らせる人であり続けるのは難しい、神をたたえる純粋な信仰者であり続けるのは難しいと思います。それをすべて運び出さないと、過ぎ去る幸せを壊さない程度で神を告げ知らせる人、本物ではない幸せの置き場所を礼拝する人になってしまうのです。

そうならないために、わたしの心からいっさいを運び出す。過ぎ去っていく幸せの置き場所にこだわるのをやめ、いったん横に置いてみる。これがいちばん分かりやすい確認の仕方です。もしもわたしが本物でない幸せの置き場所に執着があるなら、やはりわたしはイエスにもっと徹底的に砕かれる必要があります。

イエスの叫びはわたしたちにも向けられています。「このような物はここから運び出せ。」パウロはイエスの叫びについて考えさせる次の言葉を言っています。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(1コリント3・16)。わたしという神殿にある幸せの置き場所が神の心にかなわない物でいっぱいであれば、イエスの言葉通り「このような物はここから運び出せ」と言われてしまうことでしょう。

最終的に、わたしたちキリスト者はみな、信じているイエスご自身をささげものとしてささげなければなりません。それはたとえば、「わたしではなく、わたしの中におられるキリストがほめたたえられますように」という祈りを心で思い浮かべて仕事に当たるとか、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」(ローマ14・8)と繰り返し言い聞かせて務めを果たすといったことです。こんな心がけがあれば誰もがみなわたしの中におられるイエスをささげることができるのではないでしょうか。

わたしがしがみついているものを全部心の中から運び出しましょう。大変つらい作業かも知れません。すべて運び去って、もう一度イエスを告げ知らせる者として出直しましょう。頼りにしていたものをすべて取り去ったとき、初めてイエスにのみより頼む望ましい礼拝が始まるのです。ここから、幸せの置き場所も本当の意味で豊かになるのです。

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‥次の説教は‥‥
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ちょっとひとやすみ
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▼3月1日に長崎教区の司祭助祭叙階式が執り行われた。2人の司祭叙階と1人の助祭叙階のお恵みをいただいた。2人の司祭のうち、1人は助祭のあと司祭叙階まで3年を要した。「必要な時間」だったから3年を要したのだと思うことにしている。
▼叙階式ミサの直前にご両親に声をかけて、「この3年たいへんな思いをされたでしょう」とねぎらったが、ご両親の答えは意外なものだった。「わたしたちも待ちましたが、本人がいちばん気にしていたでしょう。この時間が、恵みの重さをより感じさせてくれたと思っています。」
▼わたしはこのご両親の返事は立派だと思った。ヤキモキして、気が気ではなかったはずである。だがこの3年を前向きに受け止め、これからにつなげていく姿勢に、わたしは心を打たれた。本人にとっても恵みの重さを理解する時間となっていたらと思う。
▼さて春は桜鯛の季節。産卵のために浅場に大挙して鯛がやってくる。去年から今年の冬、たくさん鯛を釣らせてもらった。一つ心残りなのは、釣った魚をよりおいしくいただくためには、その場ですぐに処理をしなければならない。血抜きとか、神経締めといったことだ。
▼血抜きに関してはわたしもあれこれ試してはみたのだが、間違いなく完了できたとは言えない。包丁をエラのところからブスッと刺すとたしかに血がドバッと出るから、それでおおよそうまくいっているとは思うのだが、よく参考にする動画などで見られるような「急所に当たって、魚がけいれんを起こして、まもなく即死する」という流れに持っていくことができない。
▼エラに包丁を入れることで血を出させても、しばらくは口をパクパクさせているし、即死してはいない。苦しんでいるようで魚がかわいそうである。何か良い道具はないかと思い、漁師さんがよく使う魚鈎を取り寄せようかとも思ったが、急所を仕留めることができなければこれもまた苦しませることになる。
▼そこで、違うアプローチを取る道具を見つけた。フィンランドFiskar製の魚用ハサミである。別にフィンランド製でなくても構わないのだが、調べていくうちにこのハサミにたどり着いた。日本円で1260円だったかな。ネット通販のアマゾンで購入することができた。
▼どこが良いかと言うと、剪定ばさみのようになっているので、エラの部分から差し込んで固い中骨を断ち切ることができそうな点である。ほかには刃の部分に加工が施されていて、細かい鱗をもった魚(カサゴとか、ハタとか、コチとか)の鱗取りができそうである。さて出番はいつやって来るか。今週か、来週か。

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今週の1枚
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第363回目。魚用のハサミ。ハサミで魚をさばく。いかにもヨーロッパ流だ。

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四旬節第2主日(マルコ9:2-10)急いで見回すと、ただイエスだけがおられた

2015-03-01 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/150301.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
15/03/01(No.755)
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四旬節第2主日
(マルコ9:2-10)
急いで見回すと、ただイエスだけがおられた
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四旬節第2主日に入りました。イエスはただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登り、彼らの目の前でそのお姿が変わる様子が描かれています。高い山に登って、3人の弟子は実際には何を見たのか、考えてみたいと思います。

本日午後3時から、浦上教会で長崎教区の司祭助祭叙階式とミサが執り行われます。司祭を絶やしてはいけないという皆さまの日々の祈りと、神学生養成援助のおかげです。わたしの頭でよければいくらでも下げて感謝したいと思います。

また、今週は大人の黙想会が組まれています。山村神父さまが説教師を務めてくださいます。教区シノドスの提言に沿って、何かお話をお願いしますと依頼していますので、教会から遠ざかっている人、教会から遠ざけられている人への働きかけについて、示唆を頂けるのではないかと思っています。黙想会の間、子供たちはお留守番をお願いします。

さて福音朗読のイエスが3人の弟子だけを連れて高い山に登る場面ですが、おそらくその山はタボル山でしょう。ナザレの東にあり、パレスチナではヘルモン山、カルメル山と並んで有名な山です。頂上575メートル地点には後にご変容の教会が建てられました。

それほど高い山でなくても、周囲が平地であれば、多くの町々を見降ろせます。さらに山は、通常険しい場所であり、地上の喧騒から離れて神と向き合う場所と考えられていましたから、いわば弟子たちは地上世界と神がお住みになる天と、両方を見渡す場所にいたのです。

この前提に立って、3人の弟子たちが何を見たのかを考えることにしましょう。彼らは何を見たのでしょうか。イエスの姿が変わり、服は真っ白に輝き、さらにエリヤがモーセと共に現れ、イエスと語り合うのを見ました。ひとことで言えば、息をのむような光景を見た、ということになります。

ところで話はそれで終わるのでしょうか。ペトロは興奮のあまり、仮小屋を三つ建てて、イエスとモーセとエリヤを住まわせようと提案しました。すると雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がしました。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(9・7)それで弟子たちは急いで辺りを見回しましたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられたとなっています。

極端な話をすると、3人しか見ていなかった出来事をマルコ福音記者がどうやって描くことができたかという問題にもなります。弟子の頭ペトロがマルコに語って聞かせたであろうということは推測できますが、実際には3人しか見ていないのですから、マルコは言われたままを記録する以外になかったはずです。

もっと意地悪い考えをすれば、何も起こらなかったのかもしれません。さすがにそれはわたしの考えすぎだと思いますが、もしかしたら高井山に登った3人の弟子が見たのは、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から「これはわたしの愛する子。これに聞け」という声が聞こえ、急いで辺りを見回したが、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。これだけのことだったかもしれません。

実際にわたしたちは、日常生活で深い霧が立ち込める季節を知っています。車を運転していれば、前が見えずに怖くなります。仮にそういう天気に見舞われたとしたら、ただイエスだけが彼ら3人の弟子と一緒におられた、それしか見えなかったという状況は十分考えられます。

わたしは、それでも構わないと思います。何かが起こったでしょう。3人しか見ることのできなかった、息をのむような光景がおそらく展開されたのでしょう。確かなことは、すべての出来事を終えたそこには、「ただイエスだけが彼らと一緒におられた」(9・8)という事実です。わたしは、「ただイエスだけが彼らと一緒におられた」この事実を、最終的に彼らは見たのだと思ったわけです。

わたしが今週伝えたいことはこうです。息をのむような光景のあとに、ただイエスだけが彼らと一緒におられたのは、いわば地上世界と天上世界をつなぐようなこの場所に、イエスだけが彼らと一緒におられたということです。天と地、天上世界と地上世界の唯一の絆は、ただイエス・キリストお一人であるということです。

これは、今週の第一朗読とも関係しています。アブラハムが山で一人息子イサクをいけにえにささげようとする場面です。アブラハムの忠実な態度を見て、神は息子に手をかけるなと命じます。そして目を凝らして見回すと、一匹の雄羊が見えました。アブラハムはそれを捕えて天と地を結ぶいけにえとしてささげたのでした。

今、天と地を結ぶ高い山に、イエスだけがおられます。これは3人の弟子たちだけでなく、福音記者が出来事を伝えることによって、すべての人へのメッセージとなったのです。天と地を結ぶ絆は、イエス・キリストこの方であるというメッセージです。

ここで見落としてはいけないのは、イエス・キリストの歩む道のりはまだ終わっていないということです。これからイエスは十字架上での死を通って復活なさいます。3人の弟子たちもそのことを十分理解できませんでした。それでもここはイエスの歩む道のりについて行きましょう。イエスの歩む一つ一つの道のりが天と地を結ぶと信じましょう。

午後3時からは司祭助祭叙階式です。地上でイエスの代理として天と地を結ぶ司祭がまた2人、この長崎教区に与えられます。彼らがただイエスだけがそばにおられることを信じて、これからの道のりを歩んでいけるよう、共にお祈りいただきたいと思います。


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‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日
(ヨハネ2:13-25)
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ちょっとひとやすみ
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▼小教区の黙想会が始まる。小教区の黙想会には説教師を招いて黙想指導をしてもらう。理由は2つあって、1つはいつも主任司祭の話ばかりで変化がないから、違う説教師に指導をしてもらえるということ、1つはゆるしの秘跡のこと。主任司祭のゆるしの秘跡に抵抗がある人もいるので、こういう時に違う司祭がいてくれるのはありがたい。
▼黙想会の説教師には頭を悩ませる。適材適所を考えるからだ。接待のことがあるのでけっこう後輩司祭を呼ぶことが多いのだが、今年は1年先輩を招いている。たぶん、特別緊張して接待しなくても済むと思っているのだが。
▼黙想会の間、主任司祭はふだん感じていないことをいろいろ感じるようになる。ふだん主任司祭は助任司祭でもいなければ独居者だから、夜に人の動きを気にしていない。だが黙想の指導司祭を呼べばそうはいかない。夜更かしも控え、共同生活をしている修道院のようだ。
▼そうは言っても楽しい部分もある。食事の時に一人で食べるのはやはり味がしないものだが、複数で食事をすれば会話もあるし、食事もおいしく感じるだろう。また自分では手に入らない情報もいろいろ耳にするだろうし、これからの長崎教区のことも話せる。
▼わたしが黙想指導に呼ばれたのはいつが最後だろう?覚えてないが、そう言えば最近呼ばれなくなったなぁ。呼ばれないのはきっとお役に立てないからだ。あるいはわたしが呼ばれると気を遣って疲れると感じて敬遠しているのかもしれない。それらはすべて、自分の不徳の致すところである。そろそろ、黙想会に呼んでもらえないかなぁ。

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今週の1枚
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第362回目。来客用の部屋をセット。テレビ、こたつのみ。風呂は共用。

ホームページもご覧ください。
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【文庫本の問い合わせについて】
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